江戸期版本を読む

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新田左兵衛佐義興自害の事

 さる程に、尊氏卿逝去あつて後、筑紫はかやうに乱れぬといへども、東国は未だ静かなり。ここに、故新田左中将義貞の子息左兵衛佐義興、その弟武蔵少将義宗、故脇屋刑部卿義助の子息右衛門佐義治三人、この三、四年が間、越後国に城郭を構へ、半国ばかりを打ち従へて{*1}居たりけるを、武蔵、上野の者どもの中より、弐心なき由の連署の起請を書いて、「両三人の御中に一人、東国へ御越し候へ。大将にし奉つて、義兵を揚げ候はん。」とぞ申したりける。義宗、義治二人は、思慮深き人なりければ、「この頃の人の心、左右なく憑み難し。」とて許容せられず。
 義興は、大はやりにして、忠功人に先立たん事を、いつも心に懸けて思はれければ、是非の遠慮を廻らさるるまでもなく、僅かに郎従百余人を行きつれたる旅人の様に見せて、ひそかに武蔵国へぞ越えられける。元来、張本の輩は申すに及ばず、古、新田義貞に忠功ありし族、今、畠山入道道誓に恨みを含む兵、ひそかに音信を通じ、頻りに媚びを入れて、催促に随ふべき由を申す者多かりければ、義興、今は身を寄する所多くなつて、上野、武蔵両国の間に、その勢ひ、漸く萌せり。
 天に耳なしといへども、これを聞くに人を以てする事なれば、互に隠密しけれども、兄は弟に語り、子は親に知らせける間、この事、程なく鎌倉の管領足利左馬頭基氏朝臣、畠山入道道誓に聞こえてけり。畠山大夫入道、これを聞きしより、敢へて寝食を安くせず。在所を尋ね聞きて大勢を差し遣はせば、国内通計して行方を知らず。又、五百騎三百騎の勢を以て、道に待つて夜討に寄せて討たんとすれば、義興、さらに事ともせず、蹴散らしては道を通り、打ち破つては囲みを出で、千変万化、総て人のわざにあらずと申しける間、「今はすべき様なし。」とて、手に余りてぞおぼえける。
 「さてもこの事、如何すべき。」と、畠山入道道誓、昼夜案じ居たりけるが、或る夜、ひそかに竹沢右京亮{*2}を近づけて、「御辺は先年、武蔵野の合戦の時、かの義興の手に属して忠ありしかば、義興も定めてその旧好を忘れじとぞ思はるらん。されば、この人を僞つて討たんずる事は、御辺に過ぎたる人、あるべからず。如何なる謀りごとをも巡らして、義興を討つて左馬頭殿{*3}の見参に入れ給へ。恩賞は宜しく請ふによるべし。」とぞ語られける。
 竹沢は、元来欲心熾盛にして、人の嘲りをも顧みず、古のよしみをも思はず、情なき者なりければ、かつて一議をも申さず。「さ候はば、兵衛佐殿の疑ひを散じて、相近づき候はんために、某、わざと御制法候はんずる事を背いて御勘気を蒙り、御内を罷り出でたる体にて本国へ罷り下つて後、この人に取り寄り候べし。」とよくよく相謀つて、己が宿所へぞ帰りける。
 かねて謀りつる事なれば、竹沢、翌日より宿々の傾城どもを数十人呼び寄せて、遊び戯れ舞ひ歌ふ。これのみならず、相伴ふ傍輩ども二、三十人招き集めて、博奕を昼夜十余日までぞしたりける。或る人、これを畠山に告げ知らせたりければ、畠山、大きに偽り怒りて、「制法を破る罪科、一つにあらず。およそ道理を破る法はあれども、法を破る道理なし。況んや有道の法をや。一人の科を誡むるは、万人を助けんためなり。この時、緩々の沙汰致さば、向後の狼籍、断ゆべからず。」とて、則ち竹沢が所帯を没収して、その身を追ひ出だされけり。竹沢、一言の陳謝にも及ばず、「あな、事々し。左馬頭殿に仕はれぬ侍は、身一つは過ぎぬか{*4}。」と、飽くまで広言吐き散らして、己が所領へぞ帰りにける。
 かくて数日あつて、竹沢、ひそかに新田兵衛佐殿へ人を奉つて申しけるは、「親にて候ひし入道、故新田殿{*5}の御手に属し、元弘の鎌倉合戦に忠を抜きんで候ひき。某又、先年、武蔵野の御合戦の時、御方に参つて忠戦致し候ひし條、定めて思し召し忘れ候はじ。その後は、世の{*6}転変、度々に及んで、御座所をも更に存知仕らで候ひつる間、力なく、暫くの命を助かりて御代を待ち候はんために、畠山禅門に属して候ひつるが、心中の趣、気色に顕はれ候ひけるに依つて、さしたる罪科ともおぼえぬ事に、一所懸命の地を没収せらる。結句討つべしなんどの沙汰に及び候ひし間、則ち武蔵の御陣を逃げ出でて、当時は深山幽谷に隠れ居たる体にて候。某がこの間の不義をだに御免しあるべきにて候はば、御内奉公の身と罷り成り候て、自然の御大事には御命に代はり参らせ候べし。」と、懇ろにぞ申し入れたりける。
 兵衛佐、これを聞きたまひて暫くは、「申す所、誠しからず。」とて、見参をもし給はずして、密議なんどを知らせらるる事もなかりければ、竹沢、尚も心中の偽らざる処を顕はして近づき奉らんため、京都へ人を上せ、ある宮の御所より少将殿と申しける上臈女房の、年十六、七ばかりなる、容色類なく、心様優にやさしくおはしけるを、とかく申し下して、先づ己が養君にし奉り、御装束、女房達に至るまで様々にし立てて、ひそかに兵衛佐殿の方へぞ出だしたりける。
 義興、元来好色の心深かりければ、類なく思ひ通はして、一夜の程の隔ても千年を経る心地におぼえければ、常の隠れ家を替へんともし給はず、少しひたたけたる式にて{*7}、その方様の草のゆかりまでも、心置くべき事とはつゆばかりも思ひ給はず。誠に、褒娰一たび笑んで幽王国を傾け、玉妃{*8}傍らに媚びて玄宗世を失ひ給ひしも、かくやと思ひ知られたり。されば、太公望が、「利を好む者には財珍を与へてこれを迷はし、色を好む者には美女を与へてこれを惑はす。」と、敵を謀る道を教へしを知らざりけるこそ愚かなれ。
 かくて竹沢、奉公の志切なる由を申しけるに、兵衛佐、早、心打ち解けて見参し給ふ。やがて、鞍置きたる馬三匹、唯今縅し立てたる鎧三領、召替のためとて引き参らす。これのみならず、越後より附き纏ひ奉つて、ここかしこに隠れ居たる兵どもに、皆一献を進め、馬、物具衣裳、太刀刀に至るまで、用々に随つて漏らさずこれを引きける間、兵衛佐殿も、竹沢を他に異なる思ひを成され、傍輩どもも皆、「これに過ぎたる御要人あるべからず。」と、悦ばぬ者はなかりけり。かやうに朝夕宮仕への労を積み、昼夜無二の志を顕はして、半年ばかりになりにければ、佐殿{*9}、今は何事につけても心を置き給はず、謀叛の計略、与力の人数、一事も残らず心底を尽くして知らされけるこそ浅ましけれ。
 九月十三夜は暮天雲晴れて、月も名に負ふ夜を顕はしぬと見えければ、今夜、明月の会に事を寄せて、佐殿を我が館へ入れ奉り、酒宴の砌にて討ち奉らんと議して、無二の一族若党三百余人催し集め、我が館の傍らにぞ篭め置きける。日暮れければ、竹沢、急ぎ佐殿に参つて、「今夜は明月の夜にて候へば、恐れながら私の茅屋へ御入り候て、草深き庭の月をも御覧候へかし。御内の人々をも慰め申し候はんために、白拍子ども、少々召し寄せて候。」と申しければ、「興ある遊びありぬ{*10}。」と、面々に皆悦んで、やがて馬に鞍置かせ、郎従ども召し集めて、已に打ち出でんとし給ひける処に、「少将の御局より。」とて佐殿へ御消息あり。披きて見給へば、「過ぎし夜に、御事を悪しき様なる夢に見参らせて候ひつるを、夢説き{*11}に問ひて候へば、『重き御慎しみにて候。七日が間は、門の内を御出であるべからず。』と申し候なり。御心得候べし。」とぞ申されたりける。
 佐殿、これを見給ひて、執事井弾正{*12}を近づけて、「如何あるべき。」と問ひ給へば、井弾正、「凶を聞きて、慎しまずといふ事や候べき。唯、今夜の御遊びをば止めらるべしとこそ存じ候へ。」とぞ申しける。佐殿、「実にも。」と思ひ給ひければ、「俄に風気の心地あり。」とて、竹沢をぞ帰されける。竹沢は、今夜の企て、案に相違して安からず思ひけるが、「そもそも佐殿の、少将の御局の文を御覧じて止まり給ひつるは、いかさま、我が企てを内々推して告げ申されたるものなり。この女性を生けて置きては叶ふまじ。」とて、明日の夜、ひそかに少将の局を門へ呼び出だし奉りて、刺し殺して堀の中にぞ沈めける。
 痛ましいかな、都をば打ち続きたる世の乱れに、荒れのみまさる宮の中に年経て住みし人々も、秋の木の葉の散り散りに、己が様々になりしかば、憑む影なくなりはてて、身を浮草の寄るべとは、この竹沢をこそ憑み給ひしに、何故と思ひわけたる方もなく、見てだに消えぬべき秋の霜{*13}の下に伏して、深き淵に沈められ給ひける今はの際の有様を、思ひ遣るだに哀れにて、よその袖さへ萎れにけり。
 その後より竹沢、「我が力にては尚討ち得じ。」と思ひければ、畠山殿の方へ使を立てて、「兵衛佐殿の隠れ居られて候所をば、委細に存知仕つて候へども、小勢にては討ち漏らしぬ{*14}とおぼえ候。急ぎ一族にて候江戸遠江守と下野守{*15}とを下され候へ。彼等によくよく評定して、討ち奉り候はん。」とぞ申しける。畠山大夫入道、大きに悦んで、やがて江戸遠江守とその甥下野守とを下されけるが、「討手を下す由、兵衛佐、伝へ聞かば、在所を替へて隠るる事もあり。」とて、江戸伯父甥が所領、稲毛荘十二郷を闕所になして、則ち給人をぞつけられける。江戸伯父甥、大きに偽り怒つて、やがて稲毛荘へ馳せ下り、給人を追ひ出だし、城郭を構へ、一族以下の兵五百余騎招き集めて、「唯、畠山殿に向ひ、一矢射て討死せん。」とぞ罵りける。
 程経て後、江戸遠江守、竹沢右京亮を縁に取つて兵衛佐に申しけるは、「畠山殿、故なく懸命の地を没収せられ、伯父甥共に牢浪の身と罷りなる間、力及ばず一族どもを引率して、鎌倉殿の御陣に馳せ向ひ、畠山殿に向つて一矢射んずるにて候。但し、然るべき大将を仰ぎ奉らでは、勢の附くことあるまじきにて候へば、佐殿を大将に憑み奉らんずるにて候。先づ忍びて鎌倉へ御越し候へ。鎌倉中に当家の一族、いかなりとも二、三千騎あるべく候。その勢をつけて相模国を打ち従へ、東八箇国を押して、天下を覆す謀りごとを巡らし候はん。」と、誠にたやすげにぞ申したりける。
 「さしも志深き竹沢が執し申すなれば、疑ふ所にあらず。」と憑まれて、則ち武蔵、上野、常陸、下総の間に内々与力しつる兵どもに、事のよしを相触れて、十月十日の暁に兵衛佐殿は、忍びて先づ鎌倉へとぞ急がれける。江戸、竹沢は、かねて支度したる事なれば、矢口の渡りの船の底を二所ゑり貫いて、のみ{*16}をさし、渡りの向うには宵より江戸遠江守、同下野守、ひた物具にて三百余騎、木の蔭、岩の下に隠れて、余る所あらば討ち止めんと用意したり。後には竹沢右京亮、究竟の射手百五十人すぐつて、取つて帰されば遠矢に射殺さんと巧みたり。
 「大勢にて御通り候はば、人の見咎め奉る事もこそ候へ。」とて、兵衛佐の郎従どもをば、かねて皆抜け抜けに鎌倉へ遣はしたり。世良田右馬助、井弾正忠、大島周防守、土肥三郎左衛門、市河五郎、由良兵庫助、同新左衛門尉、南瀬口六郎、僅かに十三人を打ち連れて、更に他人をば交じへず、のみをさしたる船に込み乗つて、矢口の渡りに押し出だす。これを三途の大河とは、思ひ寄らぬぞあはれなる。つらつらこれを譬ふれば、無常の虎に追はれて煩悩の大河を渡れば、三毒の大蛇浮かび出でて、これを呑まんと舌を伸べ、その残害を遁れんと、岸の額なる草の根に命をかけて取り附きたれば、黒白二つの月の鼠がその草の根をかぶるなる、無常の喩へに異ならず{*17}。
 この矢口の渡りと申すは、面四町に余りて浪嶮しく底深し。渡守、已に櫓を押して河の半ばを渡るとき、取りはづしたる由にて、櫓櫂を河に落とし入れ、二つののみを同時に抜いて、二人の水手、同じ様に河にかばかばと飛び入つて、うぶに入つてぞ逃げ去りける。これを見て、向うの岸より兵四、五百騎駆け出でて、鬨をどつと作れば、後より鬨を合はせて、「愚かなる人々かな。たばかるとは知らぬか。あれを見よ。」と欺いて{*18}、箙を敲いてぞ笑ひける。さる程に、水、船に湧き入つて腰中ばかりになりける時、井弾正、兵衛佐殿を抱き奉りて、宙に差し揚げたれば、佐殿、「安からぬものかな。日本一の不道人どもにたばかられつることよ。七生まで汝等がために恨みを報ずべきものを。」と大きに怒つて、腰の刀を抜き、左の脇より右のあばら骨まで掻き廻し掻き廻し、二刀まで切り給ふ。
 井弾正、腸を引き切つて河中へがばと投げ入れ、己が喉笛二所刺し切つて、自らかうづか{*19}を掴み、己が首を後ろへ折りつくる音、二町ばかりぞ聞こえける。世良田右馬助と大島周防守とは、二人、刀を柄口まで突き違へて、引つ組んで河へ飛び入る。由良兵庫助、同新左衛門は、船の艫舳に立ちあがり、刀を逆手に取り直して、互に己が首を掻き落とす。土居三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎三人は、各、袴の腰引きちぎりて裸になり、太刀を口にくはへ、河中に飛び入りけるが、水の底を潜りて向うの岸へかけ上がり、敵三百騎の中へ走り入り、半時ばかり切り合ひけるが、敵五人討ち取り、十三人に手負はせて、同じ枕に討たれにけり。
 その後、水練を入れて、兵衛佐殿並びに自害討死の首十三求め出だし、酒に浸して、江戸遠江守、同下野守、竹沢右京亮五百余騎にて、左馬頭殿のおはします武蔵の入間河の陣へ馳せまゐる。畠山入道、ななめならず悦んで、小俣少輔次郎{*20}、松田、河村を呼び出だしてこれを見せらるるに、「仔細なき兵衛佐殿にておはしまし候ひけり。」とて、この三、四年が先に、数日相馴れ奉りし事ども申し出でて、皆涙をぞ流しける。見る人、悦びの中に哀れを添へて、共に袖をぞぬらしける。
 この義興と申すは、故新田左中将義貞の思ひ者の腹に出で来たりしかば、兄越後守義顕が討たれし後も、親父、猶これを嫡子には立てず、三男武蔵守義宗を六歳の時より昇殿せさせて時めきしかば、義興は、あるにもあらず、みなし子にて上野国に居たりしを、奥州国司顕家卿、陸奥国より鎌倉へ攻め上る時、義貞に志ある武蔵、上野の兵ども、この義興を大将に取り立てて、三万余騎にて奥州国司に力を合はせ、鎌倉を攻め落として吉野へ参じたりしかば、先帝{*21}、叡覧あつて、「誠に武勇の器用たり。尤も義貞が家をも興すべき者なり。」とて、童名徳寿丸と申ししを、御前にて元服させられて、新田左兵衛佐義興とぞ召されける。
 器量、人にすぐれ、謀りごと巧みに、心飽くまで早かりしかば、正平七年の武蔵野の合戦、鎌倉の軍にも大敵を破り、万卒に当たる事、古今未だ聞かざる処多し。その後、身をそばめ、唯二、三人武蔵、上野の間に隠れ行き給ひし時、宇都宮の清党が三百余騎にて取り篭めたりしも、討ち得ず。その振舞、あたかも天を翔り地を潜る術ありと、怪しき程の勇者なりしかば、鎌倉の左馬頭殿も、京都の宰相中将殿も{*22}、安き心地をばせざりつるに、運命窮まりて短才庸愚の者どもにたばかられ、水に溺れて討たれ給ふ。
 かかりし程に、江戸、竹沢が忠功抜群なりとて、則ち数箇所の恩賞をぞ行はれける。「あはれ、弓矢の面目かな。」と、これを羨む人もあり。又、「汚き男の振舞かな。」と爪弾きをする人もあり。竹沢をば、猶も、「謀叛与党の者どもを委細に尋ねらるべし。」とて、御陣に留め置かれ、江戸二人には暇たびて、恩賞の地へぞ下されける。江戸遠江守、喜悦の眉を開きて、則ち拝領の地へ下向しける。
 十月二十三日の暮程に、矢口の渡りに下り居て渡りの船を待ち居たるに、兵衛佐殿を渡し奉りし時、江戸が語らひを得て、のみを抜いて舟を沈めたりし渡守が、江戸が恩賞賜ひて下ると聞きて、種々の酒肴を用意して、迎ひの船をぞ漕ぎ出だしける。この船、已に河の中を過ぎける時、俄に天掻き曇りて、雷鳴り水嵐烈しく吹き漲りて、白波、船を漂はす。渡守、あわて騒いで、漕ぎ戻さんと櫓を押して船を直しけるが、逆巻く浪に打ち返されて、水手梶取一人も残らず、皆水底に沈みけり。
 「天の怒り、只事に非ず。これはいかさま、義興の怨霊なり。」と、江戸遠江守、怖ぢをののきて、河端より引き返し、「余の処をこそ渡さめ。」とて、これより二十余町ある上の瀬へ、馬を早めて打ちける程に、稲光、行く前に閃きて、雷、大きに鳴りはためく。「在家は遠し、日は暮れぬ。唯今雷神に蹴殺されぬ。」と思ひければ、「御助け候へ、兵衛佐。」と、手を合はせ虚空を拝して逃げたりけるが、とある山の麓なる辻堂を目にかけて、「あれまで。」と馬をあをりける処に、黒雲一叢、江戸が頭の上に落ちさがりて、雷電、耳の辺に鳴り閃きける間、余りの怖ろしさに後ろを屹と顧みたれば、新田左兵衛佐義興、緋縅の鎧に竜頭の五枚兜の緒をしめて、白栗毛なる馬の額に角の生ひたるに乗り、あひの鞭をしとと打つて、江戸を弓手のものになし、鐙の鼻に落ちさがりて、わたり七寸ばかりなる雁俣を以て、かひがね{*23}より乳の下へ、かけずふつと射通さるると思ひて、江戸、馬よりさかさまに落ちたりけるが、やがて血を吐き悶絶躄地しけるを、輿に乗せて江戸が門へ舁きつけたれば、七日が間、足手をあがき、水に溺れたる真似をして、「あら、堪へがたや。これ、助けよ。」と、叫び死にに死ににけり。
 有為無常の世の習ひ、明日を知らぬ命の中に、僅かの欲に耽り、情なき事どもを巧み出だし振舞ひし事、月を隔てず因果歴然、忽ちに身に著きぬる事、これ又、未来永劫の業障なり。その家に生まれて箕裘{*24}を継ぎ、弓箭を取るは、世俗の法なれば力なし。ゆめゆめ人は、かやうの思ひの外なる事を好み振舞ふ事、あるべからず。
 又、その{*25}明日の夜の夢に、畠山大夫入道殿の見給ひけるは、黒雲の上に大鼓を打つて、鬨を作る声しける間、「何者の寄せ来るやらん。」と怪しくて、音する方を遥かに見遣りたるに、新田左兵衛佐義興、たけ二丈ばかりなる鬼になつて、牛頭馬頭、阿放羅刹ども、十余人前後に随へ、火車を引きて左馬頭殿のおはする陣中へ入るとおぼえて、胸打ち騒いで夢覚めぬ。禅門{*26}、夙に起きて、「かかる不思議の夢をこそ見て候へ。」と、語り給ひける詞の未だ果てざるに、俄に雷火落ち懸かり、入間河の在家三百余宇、堂舎仏閣数十箇所、一時に灰燼となりにけり。
 これのみならず、義興討たれし矢口の渡りに、夜な夜な光り物出で来て、往来の人を悩ましける間、近隣の野人村老集まつて、義興の亡霊を一社の神に崇めつつ、新田大明神とて、常磐堅磐の祭礼今に絶えずとぞ承る。不思議なりし事どもなり。

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校訂者注
 1:底本は、「打徒(うちしたが)へて」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
 2:底本頭注に、「良衡。」とある。
 3:底本頭注に、「足利基氏。」とある。
 4:底本頭注に、「身一つの生計が出来ぬか。」とある。
 5:底本頭注に、「〇新田兵衛佐殿 義興。」「〇故新田殿 義貞。」とある。
 6:底本は、「其の後(のち)世はの」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
 7:底本頭注に、「心みだれた体で。」とある。
 8:底本頭注に、「楊貴妃。」とある。
 9:底本頭注に、「兵衛佐義興。」とある。
 10:底本頭注に、「遊びありぬべしの意。」とある。
 11:底本頭注に、「〇御事 貴方。」「〇夢説 夢の吉凶を判じ説く者。」とある。
 12:底本頭注に、「直秀。」とある。
 13:底本頭注に、「刀。」とある。
 14:底本頭注に、「打漏らしぬべしの意。」とある。
 15:底本頭注に、「〇江戸遠江守 堯寛。」「〇下野守 名は能登。」とある。
 16:底本頭注に、「栓。」とある。
 17:底本頭注に、「命を草の根とし日月を黒白の鼠として世のはかないのを喩ふ。」とある。
 18:底本頭注に、「嘲つて。」とある。
 19:底本頭注に、「髪束。」とある。
 20:底本頭注に、「名は義弘。」とある。
 21:底本頭注に、「後醍醐帝。」とある。
 22:底本頭注に、「〇鎌倉の左馬頭 足利基氏。」「〇京都の宰相中将 足利義詮。」とある。
 23:底本頭注に、「肩胛骨。」とある。
 24:底本は、「箕裘(ききう)」。底本頭注に、「家業。」とある。
 25:底本は、「又翌夜(あすのよ)」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
 26:底本頭注に、「仏門に入つた男子。畠山大夫入道を指す。」とある。

菊池合戦の事

 小弐、大友は、菊池に九国を打ち従へられて、その成敗に従ふ事、安からず思ひければ、「細川伊予守の下向を待つて旗を挙げん。」と企てけるが、「伊予守、崇徳院の御霊に罰せられて犬死しぬ。」と聞こえければ、力を失うて機を顕はさず。
 かかる処に、畠山治部大輔が未だ宮方には従はで、楯篭りたる六笠城を攻めんとて、菊池肥後守武光、四千余騎にて十一月十七日、肥後国を立つて日向国へぞ向ひける。道四日路が間、山を越え川を渡つて、行く先は嶮岨に、後は難所にてぞありける。小弐、大友、菊池が催促に応じて、豊後国中に打ち出でて勢ぞろへをしけるが、「これこそよき時分なれ。」と思ひければ、菊池を日向国へ遣り過ごして後、大友刑部大輔氏時、旗を挙げて豊後の高崎城に取り上る。宇都宮大和前司{*1}は、河を前にして豊前の路を塞ぎ、肥前刑部大輔は、山を後ろに当てて筑後の道をぞ塞ぎける。「菊池、已に前後の大敵に取り篭められて、いづくへか引くべき。唯、篭の中の鳥、網代の魚の如し。」と、憐れまぬ人もなかりけり。
 菊池、この二十余年が間、筑紫九国の者どもが軍立て、手柄のほどを、敵に受け御方になして、よく知り透かしたりければ、「後ろには敵、旗を上げ道を塞ぎたり。」と聞こえけれども、更に事ともせず。十一月十日より矢合はせして、畠山治部大輔が子息民部少輔が篭りたる三俣城を昼夜十七日が中に攻め落として、敵を討つこと三百人に及べり。畠山父子、憑み切つたる三俣城を落とされて、かなはじとや思ひけん、詰めの城にもたまらず、引いて深山の奥へ逃げ篭りければ、菊池、「今は、これまでぞ。」とて、肥後国へ引き返すに、後を塞ぎし大敵ども、更に戦ふ事なければ、箭の一つをも射ず、己が館へぞ帰りける。
 これまでは未だ太宰小弐、阿蘇大宮司、宮方を背く気色なかりければ、彼等に牒じ合はせて、菊池、五千余騎を率して、大友を退治せんために豊後国へ馳せ向ふ。この時、太宰小弐、俄に心替はりして、太宰府にして旗を挙げければ、阿蘇大宮司、これに与して、菊池が後を塞がんと、小国といふ処に九箇所の城を構へて、「菊池{*2}を一人も討ち漏らさじ。」とぞ企てける。菊池、兵糧運送の路を止められて、豊後へ寄する事も叶はず、又、太宰府へ向はんずる事も難儀なりければ、「先づ我が肥後国へ引き返してこそ、その用意をも致さめ。」とて、菊池へ引き返しけるが、阿蘇大宮司が構へたる九箇所の城を一々に攻め落として通るに、阿蘇大宮司、憑み切つたる手の者ども、三百余人討たれければ、敵の通路を止むるまでは思ひよらず、我が身の命を希有にしてこそ落ち行きけれ。
 さる程に、「七月に征西将軍宮{*3}を大将として、新田の一族、菊池の一類、太宰府へ寄す。」と聞こえしかば、小弐は、「陣を取つて敵を待たん。」とて、大将太宰筑後守頼尚、子息筑後新小弐忠資、甥の太宰筑後守頼泰、朝井但馬将監胤信、筑後新左衛門頼信、窪能登太郎泰助、肥後刑部大輔泰親、太宰出雲守頼光、山井三郎惟則、饗庭左衛門蔵人重高、同左衛門大夫行盛、相馬小太郎、木綿左近将監、西河兵庫助、草壁六郎、牛糞刑部大輔。松浦党には、佐志将監、田平左衛門蔵人、千葉右京大夫、草野筑後守、子息肥後守、高木肥前守、綾部修理亮、藤木三郎、幡田次郎、高田筑前前司、三原、秋月の一族、島津上総入道、渋谷播磨守、本間十郎、土屋三郎、松田弾正少弼、河尻肥後入道、詫間三郎、鹿子木三郎。これ等を宗徒の侍として、都合その勢六万余騎、杜渡を前に当てて味坂荘に陣を取る。
 宮方には、先帝第六の皇子征西将軍宮、洞院権大納言、竹林院三位中将、春日中納言、花山院四位少将、土御門少将、坊城三位、葉室左衛門督、日野左少弁、高辻三位、九條大外記、子息主水正。新田一族には、岩松相模守、世良田大膳大夫、田中弾正大弼、桃井左京亮、江田丹波守、山名因幡守、堀口三郎、里見十郎。侍大将には、菊池肥後守武光、子息肥後次郎、甥肥前次郎武信、同孫三郎武明、赤星掃部助武貫、城越前守、賀屋兵部大輔、見参岡三河守、庄美作守、国分二郎、故伯耆守長年が次男名和伯耆権守長秋、三男修理亮、宇都宮刑部丞、千葉刑部大輔、白石三河入道、鹿島刑部大輔、大村弾正少弼、太宰権小弐、宇都宮壱岐守、大野式部大輔、派讃岐守、溝口丹波守、牛糞越前権守、波多野三郎、河野辺次郎、稲佐治部大輔、谷山右馬助、渋谷三河守、同修理亮、島津上総四郎、斎所兵庫助、高山民部大輔、伊藤摂津守、絹脇播磨守、土持十郎、合田筑前守。これ等を宗徒の兵として、その勢都合八千余騎、高良山、柳坂、水縄山三箇所に陣をぞ取つたりける。
 同じき七月十九日に、菊池はまづ、己が手勢五千余騎にて筑後河を打ち渡り、小弐が陣へ押し寄す。小弐、如何おもひけん、戦はず、三十余町引き退き、大原に陣を取る。菊池、続いて攻めんとしけるが、間に深き沼あつて、細道一つありけるを、三所掘り切つて細き橋を渡したりければ、渡るべき様もなかりけり。両陣、僅かに隔てて旗の文鮮やかに見ゆる程になれば、菊池、わざと小弐を恥ぢしめんために、金銀にて月日を打つて著けたる旗の蝉本に、一紙の起請文をぞ押したりける。これは去年、太宰小弐、古浦城にて已に一色宮内大輔に討たれんとせしを、菊池肥後守、大勢を以て後詰めをして、小弐を助けたりしかば、小弐、悦びに堪へず、「今より後、子孫七代に至るまで、菊池の人々に向つて弓を引き矢を放つ事、あるべからず。」と、熊野の牛王の裏に血を絞りて書きたりし起請なれば、今、情なく心替はりしたる処のうたてしさを、且は天に訴へ、且は人に知らしめんためなりけり。
 八月十六日の夜半ばかりに、菊池、先づ夜討に馴れたる兵を三百人すぐつて、山を越え水を渡つて搦手へ廻す。宗徒の兵七千余騎をば三手に分けて、筑後河の端に添ひて、河音に紛れて嶮岨へ廻りて押し寄す。大手の寄せ手、今は近づかんとおぼえける程に、搦手の兵三百人、敵の陣へ入つて三処に鬨の声を揚げ、十方に走り散つて、敵の陣々へ矢を射懸けて、後ろへ廻つてぞ控へたる。分内狭き所に六万余騎の兵、沓の子{*4}を打つたる様に役所を作り並べたれば、鬨の声に驚き、いづれを敵と見分けたる事もなく、ここに寄り合ひかしこに懸け合つて、喚き叫びて追つつ返しつ同士討をする事、数刻なりしかば、小弐、憑み切つたる兵三百余人、同士討にこそ討たれけれ。
 敵陣騒ぎ乱れて、夜、已に明けければ、一番に{*5}菊池次郎、くだんの起請の旗を進めて、千余騎にてかけ入る。小弐が嫡子、太宰新小弐忠資、五千余騎にて戦ひけるが、父が起請や子に負ひけん、忠資、忽ちに打ち負けて、引き返し引き返し戦ひけるが、敵に組まれて討たれにけり。これを見て、朝井但馬将監胤信、筑後新左衛門、窪能登守、肥前刑部大輔、百余騎にて取つて返し、近づく敵に引つ組み引つ組み、刺し違へて死にければ、菊池孫次郎武明、同越後守、賀屋兵部大輔、見参岡三河守、庄美作守、宇都宮刑部丞、国分次郎以下、宗徒の兵八十三人、一所にて皆討たれにけり。小弐が一陣の勢は、大将の新小弐討たれて引き退きければ、菊池が前陣の兵、汗馬を伏せて控へたり。
 二番に菊池が甥肥前次郎武信、赤星掃部助武貫、千余騎にて進めば、小弐が次男太宰越後守頼泰、並びに太宰出雲守、二万余騎にて相向ふ。初めは百騎づつ出で合ひて戦ひけるが、後には敵御方二万二千余騎、颯と入り乱れ、ここに分かれかしこに合ひ、半時ばかり戦ひけるが、組んで落つれば下り重なり、切つて落とせば首をとる。戦ひ未だ決せざる前に、小弐方には赤星掃部助武貫を討つて悦び、寄せ手は引きかへす。菊池が方には、太宰越後守を生け捕りて、勝ち鬨を上げてぞ悦びける。この時、宮方に結城右馬頭、加藤大夫判官{*6}、合田筑前入道、熊谷豊後守、三栗屋十郎、太宰修理亮、松田丹後守、同出雲守、熊谷民部大輔以下、宗徒の兵三百余人討死しければ、将軍方には、饗庭右衛門蔵人、同左衛門大夫、山井三郎、相馬小太郎、木綿左近将監、西河兵庫助、草壁六郎以下、憑み切つたる兵ども七百余人討たれにけり。
 三番には、宮の御勢、新田の一族、菊池肥後守、一手になつて三千余騎、敵の中を破つて、蜘手十文字に駆け散らさんと喚いて懸かる。小弐、松浦、草壁、山賀、島津、渋谷の兵二万余騎、左右へ颯と分かれて散々に射る。宮方の勢、射立てられて引きける時、宮は三所まで深手を負はせ給ひければ、日野左少弁、坊城三位、洞院権大納言、花山院四位少将、北山三位中将、北畠源中納言、春日大納言、土御門右少弁、高辻三位、葉室左衛門督に至るまで、宮を落とし参らせんと、踏み止まつて討たれ給ふ。
 これを見て、新田の一族三十三人、その勢千余騎、横合ひに懸かりて、両方の手先を追ひまくり、真中へ会釈もなく駆け入つて、引つ組んで落ち、討ち違へて死に、命を限りに戦ひけるに、世良田大膳大夫、田中弾正大弼、岩松相模守、桃井右京亮、堀口三郎、江田丹後守、山名播磨守、敵に組まれて討たれにけり。
 菊池肥後守武光、子息肥後二郎は、宮の御手を負はせ給ふのみならず、月卿雲客、新田一族達、若干討たるるを見て、「いつのために惜しむべき命ぞや。日頃の契約違はずば、我に伴ふ兵ども、残らず討死せよ。」と励まして{*7}、真先に駆け入る。敵、これを見知りたりければ、射て落とさんと、鏃をそろへて雨の降る如く射けれども、菊池が著たる鎧は、この合戦のために三人張の精兵に草摺を一枚づつ射させて、通らぬさねを一枚まぜに拵へて縅したれば、如何なる強弓が{*8}射けれども、裏かく矢一つもなかりけり。
 馬は射られて倒るれども、乗り手は創を被らねば、乗り替へては駆け入り駆け入り、十七度まで駆けけるに、菊池、兜を落とされて、小鬢を二太刀切られたり。「すはや、討たれぬ。」と見えけるが、小弐新左衛門武藤と押し並べて組んで落ち、小弐が首を取つて鋒に貫き、兜を取つて打ち著て、敵の馬に乗り替へ、敵の中へ破つて入り、今日の卯の刻より酉の下りまで、一息をも継がず相戦ひけるに、新小弐を始めとして一族二十二人、憑み切つたる郎従四百余人、その外の軍勢三千二百二十六人まで討たれにければ、小弐、今は叶はじとや思ひけん、太宰府へ引き退きて、宝万嶽に引き上がる。
 菊池も、勝ち軍はしたれども、討死したる人を数ふれば、千八百余人と註したりける。続いて敵にも懸からず、「しばらく手負を助けてこそ、又合戦を致さめ。」とて、肥後国へ引きかへす。
 その後は、敵も御方も皆、己が領知の国に楯篭りて、中々軍もなかりけり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「名は宏知。」とある。
 2:底本は、「菊地(きくち)」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
 3:底本頭注に、「世良親王。」とある。
 4:底本は、「沓(くつ)の子」。底本頭注に、「沓裏の鋲。」とある。
 5:底本は、「一番菊池(きくち)」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
 6:底本頭注に、「〇結城右馬頭 親昭。」「〇加藤大夫判官 名は宗高。」とある。
 7:底本は、「励まされて、」。『太平記 五』(1988年)頭注に従い改めた。
 8:底本は、「強弓(つよゆみ)か」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。

将軍御逝去の事

 同じき年{*1}四月二十日、尊氏卿、背に癰瘡出でて、心地例ならずおはしければ、本道、外科の医師、数を尽くして参り集まり、倉公、華佗が術を尽くし、君臣佐使の薬{*2}を施し奉れども、更にしるしなし。陰陽頭、有験の高僧集まつて、鬼見、太山府君、星供、冥道供、薬師の十二神将の法、愛染明王、一字文殊、不動慈救、延命の法、種々の懇祈を致せども、病、日に随つて重くなり、時を添へて憑み少なく見え給ひしかば、御所中の男女、気を呑み、近習の従者、涙を押さへて、日夜寝食を忘れたり。かかりし程に、身体次第に衰へて、同じき二十九日寅の刻、春秋五十四歳にて遂に逝去し給ひけり。
 さらぬ別れの悲しさは、さる事ながら、国家の柱石砕けぬれば、「天下、今も如何。」とて、歎き悲しむ事、限りなし。さてあるべきにあらずとて、中一日あつて、衣笠山の麓等持院に葬し奉る。鎖龕は天竜寺の竜山和尚、起龕は南禅寺の平田和尚、奠茶は建仁寺の無徳和尚、奠湯は東福寺の鑑翁和尚、下火{*3}は等持院の東陵和尚にてぞおはしける。
 哀れなるかな、武将に備はつて二十五年、向ふ処は必ず従ふといへども、無常の敵の来るをば、防ぐにその兵なし。悲しいかな、天下を治めて六十余州、命に随ふ者多しといへども、有為の境を辞するには、伴ひて行く人もなし。身は忽ちに化して暮天数片の煙と立ち上り、骨は空しく留まつて卵塔一掬の塵となりにけり。別れの涙に掻き暮れて、これさへとまらぬ月日かな。五旬程なく過ぎければ、日野左中弁忠光朝臣を勅使にて、従一位左大臣の官を贈らる。宰相中将義詮朝臣、宣旨を啓いて三度拝せられけるが、涙をおさへて、
  かへるべき道しなければ位山のぼるにつけてぬるる袖かな
と詠ぜられけるを、勅使も哀れなる事に聞きて、ありのままに奏聞しければ、君、限りなく叡感あつて、新千載集を選ばれけるに、委細の事書を載せられて、哀傷の部にぞ入れられける。勅賞のいたり、誠に忝かりし事どもなり。

新待賢門院{*4} 附 梶井宮御隠れの事

 同じき四月十八日、吉野の新待賢門女院、隠れさせ給ひぬ。一方の国母にておはしければ、一人を始め参らせて、百官皆、椒房の月に涙を落とし、掖庭{*5}の露に思ひを砕く折節、「如何にありける事ぞや。」とて涙を拭ひける処に、又同じき年五月二日、梶井二品親王、御隠れありければ、山門の悲歎、竹苑の御歎き、更に類なし。これ等は皆、天下の重き歎きなりしかば、知るも知らぬも押しなべて、「世の中、如何あらんずらん。」と打ちひそめき、洛中、山上、南方、打ち続きたる哀傷、蘭省露深く、柳営煙暗くして、台嶺{*6}の雲の色悲しんで、「今年は如何なる歳なれば、高き歎きの花散りて、蔭の草葉に懸かるらん。」と、僧俗男女、共に押しなべて袖をぞしぼりける。

崇徳院の御事

 今年の春、筑紫の探題にて将軍より置かれたりける一色左京大夫直氏{*7}、舎弟修理大夫範光は、菊池肥前守武光に打ち負けて、京都へ上られければ、小弐、大友、島津、松浦、阿蘇、草野に至るまで、皆宮方に従ひ靡き、筑紫九国の内には唯、畠山治部大輔{*8}が日向の六笠城に篭りたるばかりぞ、将軍方とては残りける。「これを無沙汰にて差し置かば、今将軍の逝去に力を得て、菊池、いかさま都へ攻め上りぬとおぼゆる。これ、天下の一大事なり。急いで討手の大将を下さでは叶ふまじ。」とて、故細川陸奥守顕氏の子息、式部大夫繁氏を伊予守になして、九国の大将にぞ下されける。
 この人、先づ讃岐国へ下り、兵船をそろへ軍勢を集むる程に、延文四年六月二日、俄に病みついて、物狂ひになりたりけるが、自ら口走つて、「我、崇徳院の御領を落として、軍勢の兵粮料所に充て行ひしに依つて、重病を受けたり。天の責め、八万四千の毛の穴に入つて、五臓六腑に余る間、すさまじき風に向へども盛んなる炎の如く、冷ややかなる水を飲めども沸き返る湯の如し。あら、熱や、堪へ難や。これ、助けてくれよ。」と悲しみ叫びて、悶絶躄地{*9}しければ、医師、陰陽師の看病の者ども、近づかんとするに、あたり四、五間の中は、猛火の盛んに燃えたる様に熱して、更に近づく人もなかりけり。
 病みついて七日に当たりける卯の刻に、黄なる旗一流れ差して、ひた兜の兵千騎ばかり、三方より同時に鬨の声を揚げて押し寄せたり。誰とは知らず、敵寄せたりと心得て、この間馳せ集まりたる兵ども五百余人、大庭に走り出でて散々に射る。箭種尽きぬれば打物になつて、追つつ返しつ半時ばかりぞ戦ひたる。搦手より寄せける敵かとおぼえて、紅の母衣掛けたる兵十余騎、大将細川伊予守が首と家人行吉掃部助が首とを取つて、鋒に貫き、「憎しと思ふ者をば、皆討ち取つたるぞ。これ看よや、兵ども。」とて、二つの首を差し上げたれば、大手の敵七百余騎、勝ち鬨を三声どつと作つて帰るを見れば、この寄せ手、天に上り雲に乗じて、白峯の方へぞ飛び去りける。
 変化の兵、帰り去れば、これを防ぎつる者ども、討たれぬと見えつる人も死せず、手負と見えつるも、恙なし。「こは、いかなる不思議ぞ。」と、互に語り互に問ひて、暫くあれば、伊予守も行吉も、同時にはかなくなりにけり。誠に濁悪の末世といひながら、不思議なる事どもなり。

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校訂者注
 1:底本は、「同じき四月」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
 2:底本は、「君臣佐使(さし)の薬」。底本頭注に、「一方剤の中に主とする薬を君とし他の薬を臣とし佐とし使とする意。」とある。
 3:底本は、「下火(あご)」。底本頭注に、「火葬の時火をつける僧の役名。」とある。
 4:底本頭注に、「河野左中将公廉の女で後村上帝の御母。」とある。
 5:底本頭注に、「〇椒房、掖庭 共に後宮。」とある。
 6:底本頭注に、「比叡山。」とある。
 7:底本頭注に、「範氏の子。」とある。
 8:底本頭注に、「国久。」とある。
 9:底本は、「躄地(びやくち)」。底本頭注に、「地に膝行するさま。ゐざりの様。」とある。

八幡御託宣の事

 ここにて落ち集まりたる勢を見れば、五万騎に余れり。「この上に、伊賀、伊勢、和泉、紀伊国の勢ども、猶馳せ集まるべし。」と聞こえしかば、「暫くこの勢を散らさで、今一合戦あるべきか。」と、諸大将の意見まちまちなりけるを、直冬朝臣、「許否、凡慮の及ぶ処にあらず。八幡の御宝前にして御神楽を奏し、託宣の詞について軍の吉凶を知るべし。」とて、様々の奉幣を奉り、蘋蘩{*1}を勧めて、則ち神の告げをぞ待たれける。社人の打つ鼓の声、きね{*2}が袖ふる鈴の音、更け行く月に神さびて、聞く人、信心を傾けたり。託宣の神子{*3}、啓白の句、詞巧みに玉を連ねて、様様の事どもを申しけるが、
  たらちねの親をまもりの神なればこの手向けをばうくるものかは
と一首の神歌を繰り返し繰り返し二、三遍詠じて、その後、御神はあがらせ給ひにけり。諸大将、これを聞きて、「さては、この兵衛佐殿を大将にて将軍と戦はん事は、向後も叶ふまじかりけり。」とて、東山、北陸道の勢は、駒に鞭をうち己が国々へ馳せ下り、山陰、西海の兵は、船に帆を揚げて落ちて行く。
 誠に征罰の法、合戦の体は士卒にありといへども、雌雄は大将に依るものなり。されば、周の武王は木主{*4}を作つて殷の世を傾け、漢の高祖は、義帝を尊みて秦の国を滅ぼせし事、旧記の載する所、誰かこれを知らざらん。直冬、これ何人ぞや。子として父を攻めんに、天、豈許す事あらんや。始め遊和軒朴翁が、天竺震旦の例を引いて、「今度の軍に宮方、勝つ事を得難し。」と眉を顰めて申ししを、「実にも理なりけり。」とは、今こそ思ひ知られたれ。
 東寺落ちて、明けの日、東寺の門にたつ。
  とにかくに取りたてにける石堂も九重よりしてまた落ちにけり
  深き海高き山名とたのむなよ昔もさりし人とこそきけ
  唐橋や塩の小路のやけしこそ桃井どのは鬼味噌をすれ{*5}

三上皇吉野より御出での事

 足利右兵衛佐直冬、尾張修理大夫高経、山名伊豆守時氏、桃井播磨守直常以下の官軍、今度諸国より攻め上つて、東寺、神南度々の合戦に打ち負けしかば、皆、己が国々に逃げ下つて、猶この素懐を達せんことをはかる。これに依つて、洛中は今、静謐の体にて、髪をかむり衽{*6}を左にする人はなけれども、遠国は猶しづまらで、戈を担ひ粮を包む事、隙なし。
 ここに持明院の本院、新院、主上、春宮{*7}は皆、去々年の春、南方へ捕らはれさせ給ひて、賀名生の奥に押し篭められおはせしかば、「とても都には茨宮{*8}、已に御位に即かせ給ひぬる上は、山中の御住まひ、余りに御痛はしければ。」とて、延文二年の二月に、皆、賀名生の山中より出だし奉りて、都へ還幸なし奉る。
 上皇は、故院の住み荒らさせ給ひし伏見殿に移らせ給ひて御座あれば、参り仕ふる月卿雲客の一人もなし。庭には草生ひ繁りて、梧桐の黄葉を踏み分けたる道もなく、軒には苔深くむして、見る人からに袖ぬらす月さへ疎くなりにけり。本院は、去る観応三年八月八日、河内の行宮にして御出家あり。御年四十一、法名勝光智とぞ申しける。御帰洛の後、本院、新院、両御所ともに夢窓国師の御弟子にならせ給ひて、本院は、嵯峨の奥、小倉の麓に幽かなる御庵をむすばれ、新院は伏見の大光明寺にぞ御座ありける。いづれも物さびしく人目かれたる御住まひ、申すも中々おろかなり。
 かの悉達太子は、浄飯王の宮を出でて檀特山に分け入り、善施太子は、鳩留国の翁に身を与へて檀施の行を修し給ふ。これは皆、十千の国を合はせたる十六の大国{*9}を保ち給ひし王位なれども、捨つるとなればその位、一塵よりも猶軽し。況んや我が国は粟散辺地の境なり。たとひ天下を一統にして無為の大化に楽しませ給ふとも、かの大国の王位に比すれば、千億にしてその一つにも及び難し。かやうの理を思し召し知らせ給ひて、憂きを便りに捨てはてさせ給ひぬる世なれば、御身も軽きのみならず、御心も又閑かにして、半間の雲、一榻の月{*10}、禅余の御友となりにければ、中々御心安くぞ渡らせ給ひける。

飢人身を投ぐる事

 かくて事の様を見聞くに、天下、この二十余年の兵乱に、禁裏、仙洞、竹苑、椒房を始めとして、公卿、殿上、諸司、百官の宿所宿所、多く焼け亡びて、今は僅かに十が二、三残りたりしを、又今度の東寺合戦の時、地を払つて、京白川に武士の屋形の外は、在家の一宇も続かず。離々たる原上の草、累々たる白骨、叢に纏はれて、ありし都の跡とも見えずなりにければ、蓮府槐門{*11}の貴族、なま上達部、上臈、女房達に至るまで、或いは大井、桂川の波の底の水屑となる人もあり、或いは遠国におち下つて田夫野人の賤しきに身を寄せ、或いは片田舎に立ち忍びて、桑の門、竹の扉に住み侘び給へば、夜の衣薄くして暁の霜冷たく、朝気の煙絶えて後、首陽に死する人多し{*12}。
 中にも哀れに聞こえしは、或る御所の上北面に兵部少輔なにがしとかやいひける者、日頃は富み栄えて楽しみ身に余りけるが、この乱の後、財宝は皆取り散らされ{*13}、従類眷属はいづちともなく落ち失せて、唯七歳になる女子、九つになる男子と、年頃相馴れし女房と、三人ばかりぞ身に添ひける。都の内には身を置くべき露のゆかりもなくて、道路に袖をひろげん事{*14}もさすがなれば、思ひかねて、女房は娘の手を引き、夫は子の手を引きて、泣く泣く丹波の方へぞ落ち行きける。誰を憑むとしもなく、いづくへ落ち著くべしともおぼえねば、四、五町行きては野原の露に袖を片敷きて泣き明かし、一足歩んでは木の下草にひれふして{*15}泣き暮らす。唯、夢路をたどる心地して、十日ばかりに丹波国井原の岩屋の前に流れたる思出河といふ所に行き到りぬ。
 都を出でしより、道に落ちたる栗柿なんどを拾ひて、僅かに命を継ぎしかば、身も余りにくたびれ、足も立たずなりぬとて、母、幼き者みな、川の端に倒れ伏して居たりければ、夫、余りに見かねて、とある家のさりぬべき人の所と見えたる内へ行きて、中門の前にたたずみて、つかれ乞ひをぞしたりける。暫くあつて、内より{*16}侍中間十余人走り出でて、「用心の最中、なまばうたる人{*17}の疲れ乞ひするは、夜討強盜の案内見るものか。然らずば宮方の廻文持つて廻る人にてぞあるらん。いましめ置いて拷問せよ。」とて、手取り足取り打ち縛り、上げつ下しつ二時ばかりぞ責めたりける。
 女房、幼き者、かかる事とは思ひ寄らず、川の端に疲れ臥して、今や今やと待ち居たりける処に、道を通る人、行きやすらひて、「あな、あはれや。京家の人かとおぼしき人の年四十ばかりなりつるが疲れ乞ひしつるを、怪しき者かとて、あれなる家に捕らへて、上げつ下しつ責めつるが、今は責め殺してぞあるらん。」と申しけるを聞きて、この女房、幼き者、「今は、誰に手を引かれ、誰を憑みてか暫くの命をも助かるべき。後れて死なば、冥途の旅にひとり迷はんも憂かるべし。暫く待つて伴はせ給へ。」と、声々に泣き悲しみて、母と二人の幼き者、互に手に手を取り組み、思出河の深き淵に身を投げけるこそ哀れなれ。
 兵部少輔は、いかに責め問ひけれども、この者元来咎なければ、落ちざりける間、「さらば、許せ。」とて許されぬ。これにもこりず、妻子の飢ゑたるが悲しさに、又とある在家へ行きて、木の実なんどを乞ひ集めて、さきの川端へ行きて見るに、母、幼き者どもが著けたる小草鞋、杖なんどはあつて、その人はなし。「こは、如何になりぬる事ぞや。」とあわて騒ぎて、かなたこなた求めありく程に、渡しより少し下なる井堰に、あやしき物のあるを立ち寄つて見たれば、母と二人の子と、手に手を取り組みて流れかかりたり。取り上げて泣き悲しめども、身も冷えはてて、色も、はや変はりはててければ、女房と二人の子を抱きかかへて、又、元の淵に飛び入り、共に空しくなりにけり。
 今に至るまで、心なき野人村老、縁も知らぬ行客旅人までも、この川を通る時、哀れなることに聞き伝へて、涙を流さぬ人はなし。誠に悲しかりける有様かなと、思ひやられてあはれなり。

公家武家栄枯地を替ふる事

 公家の人は、かやうに窮困して、溝壑に埋づまり道路に迷ひけれども、武家の族は、富貴日頃に百倍して、身には錦繍を纏ひ、食には{*18}八珍を尽くせり。前代相模守の天下を成敗せし時、諸国の守護、大犯三箇條の検断の外は、いろふ事なかりしに、今は大小の事、共に唯、守護の計らひにて、一国の成敗、我意に任すれば、地頭後家人を郎従の如くに{*19}召し仕ひ、寺社本所の所領を兵粮料所とて押さへて管領す。その権威、唯、古の六波羅、九州の探題の如し。
 又、都には佐々木佐渡判官入道道誉を始めとして、在京の大名、衆を結んで茶の会を始め、日々に寄り合ひ活計を尽くすに、異国本朝の重宝を集め、百座の粧ひをして、皆、曲彔の上に豹虎の皮を敷き、思ひ思ひの緞子金襴を裁ち著て、四主頭の座に列をなして並み居たれば、唯、百福荘厳の床の上に、千仏の光を並べて坐し給へるに異ならず。異国の諸侯は遊宴をなす時、食膳方丈とて、座の周り四方一丈に珍物を供ふなれば、それに劣るべからずとて、面五尺の折敷に十番の斎羹、点心百種、五味の魚鳥、甘酸苦辛の菓子ども、色々様々据ゑ並べたり。
 飯後に{*20}旨酒三献過ぎて、茶の懸け物に百物、百の外に又、前引きの置き物をしけるに、初度の頭人は、奥染物各百づつ六十三人が前に積む。第二度の頭人は、色々の小袖十重ねづつ置く。三番の頭人は、沈のほた百両づつ、麝香の臍三つづつ添へて置く。四番の頭人は、沙金百両づつ金糸花の盆に入れて置く。五番の頭人は、唯今仕立てたる鎧一縮に、鮫懸けたる白太刀、柄鞘皆金にて打ちくくみたる刀に、虎の皮の火打袋をさげ、一様にこれを引く。以後の頭人二十余人、我、人に勝れんと、様をかへ数を尽くして山の如く積み重ねぬ。さればその費え、幾千万と云ふ事を知らず。
 これをもせめて取つて帰らば、互にこれを以て彼に替へたる物どもとすべし。伴につれたる遁世者、見物のために集まる田楽、猿楽、傾城、白拍子なんどに皆取りくれて、手を空しくして帰りしかば、窮民孤独の飢ゑを助くるにもあらず、又、供仏施僧の檀施にもあらず。唯、金を泥に捨てて、玉を淵に沈めたるに相同じ。この茶事過ぎて、又博奕をして遊びけるに、一立てに五貫十貫立てければ、一夜の勝負に五、六十貫負くる人のみあつて、百貫とも勝つ人はなし。これも田楽、猿楽、傾城、白拍子に配り捨てける故なり。
 そもそもこの人々、長者の果報あつて、地より物が湧きけるか、天より財が降りけるか。降るにあらず、湧くにあらず。唯、寺社本所の所領を押さへ取り、土民百姓の資財を責め取り、論人訴人の賄賂を取り集めたる物どもなり。古の公人たりし人は、賄賂をも取らず、勝負をもせず。囲碁双六をだに甚だ禁ぜしに、万事の沙汰を差し置いて、訴人来れば酒宴、茶の会なんどいひて対面に及ばず。人の歎きをも知らず、嘲りをも顧みず、長時に遊び狂ひけるは、前代未聞の僻事なり。
 かかりし程に、延文三年二月十二日、故左兵衛督直義入道恵源、さしも爪牙耳目の武臣たりしかば、従二位の贈爵を苔の下なる遺骸にぞ賜はりける。「法体死去の後、かくの如き宣下、その例なし。」とぞ、人皆申し合はれける。

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校訂者注
 1:底本は、「蘋蘩(ひんぱん)」。底本頭注に、「神への供物。」とある。
 2:底本頭注に、「巫女。」とある。
 3:底本は、「託宣(たくせん)の神子(みこ)」。底本頭注に、「神の仰せを告げる巫女。」とある。
 4:底本は、「木主(もくしゆ)」。底本頭注に、「位牌。」とある。
 5:底本頭注に、「〇塩の小路 七條大路の町名。」「〇鬼味噌 羊質虎皮の意で俗に弱みそといふ語。」とある。
 6:底本は、「衽(じん)」。底本頭注に、「おくみ。」とある。
 7:底本巻30「持明院殿吉野遷幸」頭注に、「〇本院 光厳天皇。」「〇新院 光明天皇。」「〇主上 崇光天皇。」「〇春宮 直仁親王。」とある。
 8:底本は、「茨宮(いばらのみや)」。底本頭注に、「後光厳天皇。」とある。
 9:底本頭注に、「仁王経下巻に『閻浮提有十六大国、五百中国、十千小国。』と見ゆ。」とある。
 10:底本は、「半間(はんかん)の雲一榻(たふ)の月、」。底本頭注に、「雲に家の一間を借し月に榻を分ち与へる意。」とある。
 11:底本は、「蓮府槐門(れんぷくわいもん)」。底本頭注に、「大臣。」とある。
 12:底本は、「朝気(あさげ)の煙(けぶり)絶えて後、首陽(しゆやう)に死する人多し。」。底本頭注に、「〇朝気の煙 朝飯を炊ぐ煙。」「〇首陽に死する人 伯夷叔齊の首陽山の故事から餓死する人の意。」とある。
 13:底本は、「取散(とりち)らされて、」。『太平記 五』(1988年)に従い削除した。
 14:底本頭注に、「袖乞乞食などになること。」とある。
 15:底本は、「ひれふし泣き暮(くら)す。」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
 16:底本は、「暫くあつて侍(さぶらひ)」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
 17:底本頭注に、「怪しき人。」とある。
 18:底本は、「食(しよく)に八珍を」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
 19:底本は、「如く召仕(めしつか)ひ、」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
 20:底本は、「飯後(はんご)は旨酒(ししゆ)」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。

巻第三十三

京軍の事

 「昨日、神南の合戦に山名打ち負けて、本陣へ引き返しぬ。」と聞こえしかば、将軍、比叡山をおり下つて、三万余騎の勢を率し、東山に陣をとる。仁木左京大夫頼章は、丹後、丹波の勢三千余騎を従へて、嵐山に取り上る。京より南、淀、鳥羽、赤井、八幡に至るまでは、宮方の陣となり、東山、西山、山崎、西岡は、皆将軍方の陣となる。その中にありとあらゆる神社仏閣は、役所の垣楯のために毀たれ、山林竹木は、薪櫓の料に切り尽くさる。「京中をば、敵、横合ひに駆くる時、見透かす様になせ。」とて、東山より寄せて、日々夜々に焼き払ふ。「白河をば、敵を雨露に侵させて、人馬に気を尽くさせよ。」とて、東寺より寄せて焼き払ふ。僅かに残る竹苑、椒庭、里内裏、三台九棘{*1}の宿所宿所、皆門戸を閉ぢて人もなければ、野干{*2}の住みかとなりはて、荊棘、扉を覆へり。
 さる程に二月八日、細川相模守清氏、千余騎にて四條大宮へ押し寄せ、北陸道の敵八百余騎に懸け合つて、追つつ返しつ日ねもす戦ひ暮らして、左右へ颯と引き退くところに、紺糸の鎧に紫の母衣懸けて、黒瓦毛なる馬に厚総懸けて乗つたる武者、年の程四十ばかりに見えたるが、唯一騎、馬をしづしづと歩ませ寄せて、「今日の合戦に、進む時は士卒に先だつて進み、引く時は士卒に後れて引かれ候ひつるは、いかさま、細川相模守殿にてぞおはすらん。声を聞きても、我を誰とは知り給はんずれども、日、已に夕陽になりぬれば、分明に見分くる人もなくて、あはぬ敵にや逢はんずらんと存ずる間、事新しく名のり申すなり。これは、今度北陸道を打ち従へて罷り上りて候、桃井播磨守直常にて候ぞ。あはれ、相模殿に参り会ひて、日頃承り及びし力の程をも見奉り、直常が太刀の金をも御覧候へかし。」と高声に名のりかけて、馬を北頭に立ててぞ控へたる。
 相模守は、元来、敵に少しも詞を懸けられて、たまらぬ気の人なりければ、「桃井。」と名のりたるを聞きて、少しも擬議せず。これも唯一騎、馬を引き返して歩ませ寄する。あひ近になりければ、互に、「あはれ、敵や。天下の勝負、唯、我と彼とが死生にあるべし。馬を駆け合はせ、組んで勝負をせん。」と、鎧の綿噛を掴んで引きつけたるに、詞には似ず、桃井が力、弱くおぼえければ、兜を引き切つて投げ捨て、鞍の前輪に押し当てて、首掻き切つてぞ差し挙げたる。
 やがて、相模守の郎従十四、五騎来りたるに、この首と母衣とを持たせて将軍の御前へ参り、「清氏こそ、桃井播磨守を討つて候へ。」とて、軍の様を申されければ、蝋燭を明らかに燃し、これを見給ふに、年の程は、さもやとおぼえながら、さすがそれとは見えず。「田舎に住んで、早、多年になりぬれば、面変はりしけるにや。」と不審して、昨日降人に出でたりける八田左衛門太郎といひける者を召され、「これをば誰が首とか見知りたる。」と問はれければ、八田、この首を一目見て、涙をはらはらと流し、「これは、越中国の住人に二宮兵庫助と申す者の首にて候。去月に越前の敦賀に著きて候ひし時、この二宮、気比大明神の御前にて、今度京都の合戦に、仁木、細川の人々と見る程ならば、我、桃井と名のつて、組んで勝負を仕るべし。これ、もし偽り申さば、今生にては永く弓矢の名を失ひ、後生にては無間の業を受くべしと、一紙の起請を書きて宝殿の柱に押して候ひしが、果たして討死仕りけるにこそ。」と申しければ、その母衣を取り寄せて見給ふに、実にも、「越中国の住人二宮兵庫助、骸を戦場に曝し、名を末代に留む。」とぞ書きたりける。「昔の実盛は、鬢鬚を染めて敵にあひ、今の二宮は、名字を替へて命をすつ。時代隔たるといへども、その志、相同じ。あはれ、剛の者かな。」と、惜しまぬ人こそなかりけれ。
 二月十五日の朝は、東山の勢ども、上京へ打ち入つて兵粮を取るよし聞こえければ、「蹴散らかさん。」とて、苦桃兵部大輔、尾張左衛門佐、五百余騎にて東寺を打ち出で、一條二條の間を二手になつて打ち廻る。これを見て細川相模守清氏、佐々木黒田判官、七百余騎にて東山よりおり下る。尾張左衛門佐が後陣に、朝倉下野守{*3}が五十騎ばかりにて通りけるを、「追つ詰めて討たん。」と、六條河原より京中へ駆け入る。朝倉、少しも騒がず、馬を東頭に立て直して、閑かに敵を待ちかけたり。
 細川、黒田が大勢、これを見て、あなづりにくしとや思ひけん、あはひ半町ばかりになつて、馬を一足に颯とかけ据ゑて、同音に鬨をどつと作る。朝倉、少しも擬議せず、大勢の中へ駆け入つて、馬煙を立てて切り合ふ。左衛門佐、これを見て、「朝倉討たすな、つづけ。」とて、三百余騎にて取つて返し、六條東洞院を東へ、烏丸を西へ、追つつ返しつ七、八度までぞ揉み合ひたる。細川、度毎に追つ立てらるる体に見えけるに、南部六郎とて世に勝れたる兵ありけるが、唯一騎踏み止まつては戦ひ、返し合うては切つて落とし、八方を捲りて戦ひけるに、左衛門佐の兵ども、箆白になつてぞ見えたりける。
 左衛門佐の兵の中に三村首藤左衛門、後藤掃部助、西塔金乗坊とて、手番うたる{*4}勇士五騎あり。互に屹と眼くばせして、南部に組まんと相近づく。南部、尻目に見て、からからと打ち笑ひ、「物々しの人々かな。いで、胴切つて太刀の金の程見せん。」とて、五尺六寸の太刀を以て開いて、片手打ちに、しとと打つ。金乗房、透間なく、つと懸け寄つてむずと組む。南部、元来、大力なれば、金乗を取つて宙に差し上げたれども、人飛礫に打つまでは、さすが叶はず。太刀の寸延びたれば、手元近うして、さげ切りにもせられず、ただ押し殺さんとや思ひけん、築地の腹に押し当てて、「えいや、えいや。」と押しけるに、己が乗つたる馬、尻居にどうと倒れければ、馬は南部が引敷の下に在りながら、二人引つ組んで伏したり。四騎の兵、馳せ寄りて、遂に南部を討つてければ、金乗、南部が首を取つて、鋒に貫きて馳せ返る。これにて軍は止みて、敵御方、相引きに京白川へぞ帰りにける。
 又、同じき日の晩景に、仁木右京大夫義長、土岐大膳大夫頼康、その勢三千余騎にて七條河原へ押し寄せ、桃井播磨守直常、赤松弾正少弼氏範、原、蜂屋が勢二千余騎と寄り合はせて、河原三町を東西へ追つつ返しつ、煙塵を捲いて戦ふ事、二十余度に及べり。中にも桃井播磨守が兵ども、半ば過ぎて創を被りければ、新手を替へて相助けんために東寺へ引き返しける程に、土岐の桔梗一揆百余騎に攻め立てられ、返し合はする者は切つて落とされ、城へ引き篭る者は、城戸、逆茂木にせかれ、入り得ず。城中、騒ぎあわてて、「すはや、唯今この城、攻め落とされぬ。」とぞ見えたりける。
 赤松弾正少弼氏範は、郎等小牧五郎左衛門が痛手を負ひて引きかねたるを助けんと、馬の上より手を引き立てて歩ませけるを、大将直冬朝臣、高櫓の上より遥かに見給ひて、「返して御方を助けよ。」と、扇を揚げて二、三度まで招かれける間、氏範、小牧五郎左衛門をかい掴んで、城戸の内へ投げ入れ、五尺七寸の太刀の鐔本取り延べて、唯一騎返し合はせ返し合はせ、馳せ並べ馳せ並べ切りけるに、或いは兜の鉢を立て破りに胸板まで破りつけられ、或いは胴中を瓜切り{*5}に斬つて落とされける程に、さしも勇める桔梗一揆、かなはじとや思ひけん、七條河原へ引き退いて、その日の軍は止みにけり。
 三月十三日、仁木、細川、土岐、佐々木、佐竹、武田、小笠原、相集まつて七千余騎、七條西洞院へ押し寄せ、一手は但馬、丹後の敵と戦ひ、一手は尾張修理大夫高経と戦ふ。この陣の寄せ手、ややもすれば懸け立てらるる体に見えければ、将軍より使者を立てられて、「那須五郎を罷り向かはすべし。」と仰せられける。那須は、この合戦に打ち出でける始め、故郷の老母のもとへ人を下して、「今度の合戦にもし討死仕らば、親に先立つ身となつて、草の蔭、苔の下までも御歎きあらんを見奉らんずることこそ、思ひ遣るも悲しく存じ候へ。」と申し遣はしたりければ、老母、泣く泣く委細に返事を書いて申し送りけるは、「古より今に至るまで、武士の家に生まるる人、名を惜しみて命を惜しまず。皆これ、妻子に名残を慕ひ、父母に別れを悲しむといへども、家を思ひ嘲りを恥づる故に、惜しかるべき命を捨つるものなり。始め身体髪膚を我に受けて、損なひ破らざりしかば、その孝、已に顕はれぬ。今又、身を立て道を行ひて、名を後の世に揚ぐるは、これ孝の終はりたるべし。されば、今度の合戦に相構へて身命を軽んじて、先祖の名を失ふべからず。これは、元暦の古、曩祖那須与一資高{*6}、八島の合戦の時、扇を射て名を揚げたりし時の母衣なり。」とて、薄紅の母衣を錦の袋に入れてぞ送りたりける。
 さらでだに戦場に臨みて、いつも命を軽んずる那須五郎が、老母に義を勧められて、いよいよ気を励ましける処に、将軍より別して使を立てられ、「この陣の戦ひ、難儀に及ぶ。向つて敵を払へ。」と、余儀なくも仰せられければ、那須、かつて一議も申さず、畏まりて領状す。唯今、御方の大勢ども、立つ足もなくまくり立てられて、敵皆、勇み進める真中へ、会釈もなく駆け入つて、兄弟三人一族郎従三十六騎、一足も引かず討死しける。
 那須が討死に、「東寺の敵、機に乗らば、合戦又、難儀になりぬ。」と危ふくおぼえける処に、佐々木六角判官入道崇永と相模守清氏と、両勢一手になつて、七條大宮へ駆け抜け、敵を西にうけ東に顧みて、入り替はり入り替はり、半時ばかりぞ戦ひたる。東寺の敵も、ここを先途と思ひけるにや、戒光寺の前に垣楯掻きて、打ち出で打ち出で、火を散らして戦ひけるに、相模守、薄手あまた所に負ひて、「すはや、討たれぬ。」と見えければ、崇永、いよいよ進みて、これを討たせじと戦うたる{*7}。
 かかる処に、土岐桔梗一揆五百余騎にて、「新手に替はらん。」と進みけるを見て、敵も新手をや憑みけん、垣楯の蔭をはつと捨て、半町ばかりぞ引いたりける。「敵に息を継がせば、又立て直す事もこそあれ。」とて、佐々木と土岐と垣楯の内へ入つて、敵の陣に入り替はらんとしけるが、廻る程も猶遅くやおぼえけん、佐々木が旗差堀次郎{*8}、竿ながら旗を内へ投げ入れて、己が身は、やがて垣楯を上り越えてぞ入つたりける。その後、相模守と桔梗一揆と、左右より廻つて垣楯の中へ入り、南に楯を突き並べて、三千余騎を一所に集め、向ひ城の如くにて踏まへたれば、東寺に篭る敵軍の勢、気を屈し勢を呑まれて、城戸より外へ出でざりけり。
 京中の合戦は、かくの如く数日に及びて、雌雄日々に替はり、安否今にありと見えけれども、時の管領仁木左京大夫頼章は、一度も桂川より東へ打ち越えず。唯、嵐山より遥かに見下して、御方の勝ちげに見ゆる時は、延び上がりて悦び、負くるかと思しき時は、色を変じて落ち支度の外は他事なし。同じ陣にありける備中の守護飽庭ばかりぞ、余りに見かねて、己が手勢ばかりを引き分けて、度々の合戦をばしたりける。
 されども、大廈は一本の支ふる処にあらず。山陰道をば頼章の勢に塞がれ、山陽道は義詮朝臣に囲まれ、東山北陸の両道は、将軍の大勢に塞がれて、僅かに河内路より外は、あきたる方なかりければ、兵粮運送の道も絶えぬ。重ねて攻め上るべき助けの兵どももなし。合戦は、今まで互角なれども、将軍の勢、日々に随つて重なる。「かくては始終叶はじ。」とて、三月十三日の夜に入つて、右兵衛佐直冬朝臣、国々の大将相共に、東寺、淀、鳥羽の陣を引きて、八幡、住吉、天王寺、境浦へぞ落ちられける。

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校訂者注
 1:底本は、「三台九棘(だいきうきよく)」。底本頭注に、「三公九卿に同じ。公卿の事。」とある。
 2:底本は、「野干(やかん)」。底本頭注に、「狐。」とある。
 3:底本頭注に、「正景。広景の子。」とある。
 4:底本は、「手番(てつが)うたる」。底本頭注に、「打揃ひたる。」とある。
 5:底本頭注に、「瓜を切るやうに二つ割りにすること。」とある。
 6:底本頭注に、「平家物語に『宗高。』とす。」とある。
 7:底本は、「戦ひける。」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
 8:底本は、「旗差(はたさし)堀(の)次郎」。底本頭注に、「〇旗差 馬に乗つて大将の旗を持つ兵。」「〇堀次郎 時貞。」とある。

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