江戸期版本を読む

当コンテンツは、以下の出版物の草稿です。『翻刻『道歌心の策』』『翻刻・現代語訳『秋の初風』』『翻刻 谷千生著『言葉能組立』』『津の寺子屋「修天爵書堂」と山名信之介』『津の寺子屋「修天爵書堂」の復原』。御希望の方はコメント欄にその旨記して頂くか、サイト管理者(papakoman=^_^=yahoo.co.jp(=^_^=を@マークにかえてご送信ください))へご連絡下さい。なお、当サイトの校訂本文及び注釈等は全て著作物です。翻字自体は著作物には該当しませんが、ご利用される場合には、サイト管理者まご連絡下さい。

六 判官御自害の事

 十郎権頭、喜三太は、櫓の上より飛んで下りけるが、喜三太は、首の骨を射られて失せにけり。兼房は、楯を後ろにあてて、主殿のたる木に取りつきて、持仏堂の広庇にとび入る{*1}。
 こゝに、しやさうと申す雑色、故入道、判官殿へ参らせたる下郎なれども、「きやつばらは、自然の御用{*2}に立つべき者にて候。御召し使ひ候へ。」と、あながちに申しければ、別の雑色、嫌ひけれども、馬の上を許され{*3}申したりけるが、この度、人々多く落ち行けども、彼ばかりとゞまりてけり。兼房に申しけるは、「それ、見参に入りたまふべきや。しやさうは、御内にて防ぎ矢仕り候なり。故入道申されし旨の上は、下郎にて候へども、死出の山の御供仕り候べし。」とて、さんざんに戦ふ程に、面を向ふる者なし。下郎なれども、彼ばかりこそ、故入道申せし言葉をたがへずして{*4}、留まりけるこそ不便なれ。
 「さて、自害の刻限になりたるやらん。又、自害はいかやうにしたるをよきと言ふやらん。」と宣へば、「佐藤四郎兵衛が京にて仕りたるをこそ、後まで人々ほめ候へ。」と申しければ、「仔細なし。さては、疵の口広きこそよからめ。」とて、三條小鍛冶が宿願あつて、鞍馬へ打つて参らせたる刀の六寸五分ありけるを、別当、申しおろして、今の剣と名づけて秘蔵しけるを、判官、幼くて鞍馬へ御出での時、守り刀に奉りしぞかし。義経、幼少より秘蔵して、身をはなさずして、西国の合戦にも鎧の下にさされける。かの刀をもつて、左の乳の下より刀をたて、「後ろへ徹れ。」とかき切つて、疵の口を三方へかき破り、腹わたを繰り出だし、刀を衣の袖にておし拭ひ、衣ひきかけ、脇息してぞおはしましける。
 北の方をよび出だし奉りて宣ひけるは、「今は、故入道の後家の方にても、せうとの方にても{*5}、渡らせ給へ。皆都の者にて候へば、情なくは当たり申し候はじ。故郷へも送り申すべし。今より後、さこそ便りを失ひ、御歎き候はんとこそ、後の世までも心にかゝり候はんずれども、なにごとも前世の事と思し召して、あながちに御歎き有るべからず。」と申させ給へば、北の方、「都を連れられ参らせて出でしより、今まで長らへてあるべしともおぼえず。みちにてこそ、自然の事もあらば、まづみづからを失はれんずらんと思ひしに、今更驚くべきにあらず。はやはやみづからを御手にかけさせ給へ。」とて、取りつき給へば、義経、「自害より先にこそ申したく候ひつれども{*6}、余りの痛はしさに申し得ず候。今は、兼房に仰せ付けられ候へ。兼房、近く参れ。」と有りけれども、いづくに刀を立て参らすべしともおぼえずして{*7}、ひれ伏しければ、北の方、仰せられけるは、「人の親の御目ほど賢かりけり。あれ程の不覚人と御覧じ入つて{*8}、多くの者の中に、女にてあるみづからにつけ給ひたれ。我にいはるゝまでも有るまじきぞ。いはぬ先に失ふべきに、暫くも生けておき、恥を見せんとするうたてさよ。さらば、刀を参らせよ。」とありしかば、兼房、申しけるは、「こればかりこそ不覚なるが道理にて候へ。君、御産ならせ給ひて{*9}三日と申すに、兼房を召されて、『この君を、汝がはからひなり。』と仰せかうぶりて候ひしかば、やがて御産所に参り、抱きそめまゐらせてよりその後は、出仕の暇だにもおぼつかなく思ひ参らせ、御成人候へば、女御、后にもせばやとこそ存じ候ひつるに、北の政所、うち続きかくれさせ給へば、おもふに甲斐なき歎きのみ、神や仏に祈りし祈りはむなしくて、かやうに見なし奉らんとは、つゆ思はざりしものを。」とて、鎧の袖を顔にあてて、さめざめと泣きければ、「よしや嘆くとも、今はかひあらじ。敵の近づくに。」と有りしかば、兼房、目もくれ心も消えておぼえしかども、「かくては叶ふまじ。」と、腰の刀をぬき出だし、御肩の上を押さへ奉り、右の御脇より左の乳の下へ、つとさし徹しければ、御息の下に念仏して、やがてはかなく成り給ひぬ。
 御衣ひきかづけまゐらせて、君の御側におき奉りて、五つにならせ給ふ若君、御乳母の抱き参らせたる所につと参り、「御館も上様も{*10}、死出の山と申す道、こえさせ給ひて、黄泉の遙かの界におはしまし候なり。『若君も、やがて入らせ給へ。』と仰せ候ひつる。」と申しければ、害し奉るべき兼房がくびに抱き付き給ひて、「死出の山とかやに早々参らん。兼房、急ぎ連れて参れ{*11}。」と責め給へば、いとゞせん方なく、前後おぼえずに成りて、落涙にせきあへず、「あはれ、前の世の罪業こそ悲しけれ。若君さま、御館の御子と生まれさせ給ふも、かくあるべき契りかや。『かめわり山にて巣守になせ{*12}。』と宣ひし御言葉の末、誠に今まで耳にあるやうにおぼゆるぞ。」とて、またさめざめと泣きけるが、4敵はしきりに近づく。かくては叶はじ{*13}。」と思ひ、二刀さし貫き、「わつ。」とばかり宣ひて、御息とまりければ、判官殿の衣の下におし入れ奉る。さて、生まれて七日にならせ給ふ姫君も、同じくさし殺し奉る。北の方の衣の下におし入れ奉り、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」と申して、我が身を抱きて立ちたりけり。
 判官殿、いまだ御息の通ひけるにや、御目を御覧じあけさせ給ひて、「北の方は、いかに。」と宣へば、「はや御自害ありて、御側に御入り候{*14}。」と申せば、御側を探らせ給ひて、「これはたれ。」と仰せければ、「若君にてわたらせ給ふ。」と申せば、御手をさしわたさせ給ひて、北の方に取りつき給ひぬ。兼房、いとゞ哀れぞまさりける。「はやはや城に火をかけよ。」とばかりを最後の御言葉にて、こときれ果てさせ給ひけり。

七 兼房が最期の事

 十郎権頭、「今は中々に心にかゝることなし。」とひとりごとし、かねてこしらへたる事なれば、走り廻りて火をかけたり{*15}。をりふし西風ふき、猛火は程なく御殿につきけり。御死骸の御上には、遣戸格子をはづしおき、御跡の見えぬ様にぞこしらへける{*16}。兼房は、焔にむせび、東西くれてありけるが、「君を守護し申さん。」とて、「最期のいくさ、少なくしたり。」とや思ひけん、鎧を脱ぎすて、腹巻の上帯しめ固め、妻戸よりつと出で見れば、その日の大将長崎太郎兄弟、壺の内にひかへたり。
 「敵自害のうへは、何事か有るべき。」とて、油断しけるを、兼房、いひけるは、「唐土天竺は知らず、我が朝において、御内の御座所{*17}に、馬に乗りながらひかふべき者こそおぼえね。かくいふ者をば誰とか思ふ。清和天皇十代の御末、八幡殿には四代の孫、鎌倉殿{*18}の御舎弟に、九郎大夫判官殿の御内に十郎権頭兼房。もとは、久我大臣殿の侍なり。今は源氏の郎等なり。樊噲を欺く度々の高名、その隠れなし。いざや、手なみを見せん。法も知らぬ奴ばらかな。」といふこそ久しけれ。長崎太郎が馬手の鎧の草摺半枚かけて、膝の口、鐙のみづをがね、馬のをりぼね{*19}、五枚かけて斬りつけたり。主も馬も、足を立てかへさず倒れけり。おしかゝり、首をかかんとせし所に、「兄を討たせじ。」と、弟の次郎、兼房に打つてかゝる。兼房、走り違ふ様にして、馬より引き落とし、左の脇にかいはさみて、「ひとり越ゆべき死出の山、供して越えよや。」とて、焔の中にとび入りけり。
 兼房、思へば恐ろしや。ひとへに鬼神の振舞なり。これは、もとより期したる事なり。長崎次郎は、「勧賞にあづかり、御恩かうぶり、朝恩に誇るべき。」と思ひしに、心ならずとらはれて、焼け死にするこそ無慙なれ。

八 秀衡が子ども御追討の事

 かくて泰衡は、判官殿の御首もたせ、鎌倉へ奉る。頼朝、仰せけるは、「そもそもこれらは不思議の者{*20}どもかな。頼みて下りつる義経を討つのみならず、これは現在、頼朝が兄弟と知りながら、院宣なればとて、左右なく討ちぬるこそ奇怪なれ。」とて、泰衡がそへて参らせたる宗徒の侍二人、その外雑色下べに至るまで、一人も残さず首を斬りてぞかけられ{*21}ける。やがて、「軍兵をさし遣はし、泰衡討たるべき。」僉議有りければ、先陣望み申す人々、千葉介、三浦介、左馬介、大学頭、大炊助、梶原を初めとして、望み申しけれども、「善悪に頼朝、私には計らひ難し。」とて、若宮に参詣有りけるに、「畠山、夢想のこと有り。」とて、重忠を始めとして、都合その勢七万余騎、奥州へ発向す。
 昔は、十二年まで戦ひける所ぞかし。今度は、僅に九十日のうちに攻め落とされけるこそ不思議なれ。錦戸、ひづめ{*22}、泰衡、大将以下三百人が首を、畠山が手に取られける。残る所、雑人等に至るまで、みな首を取りければ、数を知らざる所なり。
 故入道が遺言の如く、錦戸、ひづめの両人、両関をふさぎ、泰衡、泉{*23}、判官殿の御下知に従ひて、軍をしたりせば、いかでかかやうになり果つべき。親の遺言といひ、君に不忠といひ、悪逆無道を存じ立ちて、命も亡び、子孫絶えて、代々の所領、他人の宝となるこそ悲しけれ。武士たらん者は、忠孝を専らとせずんばあるべからず。口惜しかりし者どもなり。

校訂者注
 1:底本は、「とび入り、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 2:底本頭注に、「万一の御用。」とある。
 3:底本頭注に、「乗馬の儘通行するを許され。当時は乗馬で通行することは制限があつた。」とある。
 4:底本は、「たかへずして、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 5:底本頭注に、「〇故入道の後家 秀衡の未亡人。衛門督信頼の兄基成の女。」「〇せうと 兄。後家の兄達をいふのであらう。」とある。
 6:底本頭注に、「義経自ら自害する前に北の方の自害を申したくあつたが。」とある。
 7:底本頭注に、「北の方を討ち奉るとしても何処に刀を打ち込むとも思はれず。」とある。
 8:底本頭注に、「わが父が兼房をこの位の不覚人と見られて。」とある。
 9:底本頭注に、「〇こればかり云々 北の方を討ち奉ることばかりは臆するのが尤もなことである。」「〇君御産ならせ 北の方がお生まれになつて。」とある。
 10:底本は、「御館(おんたち)もかみさまも、」。底本頭注に、「〇御館 貴人の尊称に云ふ。義経をさす。」「〇かみさま 上様。御母北の方。」とあるのに従い改めた。
 11:底本は、「急(いそ)ぎ参れ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 12:底本頭注に、「〇かめわり山 羽前国舟形村亀割山。」「〇巣守 荒地に居残ることで山中に棄ておかれること。」とある。
 13:底本は、「叶はず。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 14:底本は、「御自害(ごじがい)、御側(おんそば)に御入り候。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。底本頭注に、「〇御側に御入り候 御側においでなさる。」とある。
 15:底本は、「火をかけ、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 16:底本は、「見えぬ様(やう)にはこしらへける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 17:底本は、「御内(みうち)の御座所(ござどころ)」。底本頭注に、「大将の御いでになる所。」とある。
 18:底本頭注に、「〇八幡殿 源義家。」「〇鎌倉殿 頼朝。」とある。
 19:底本頭注に、「〇みづをがね 水緒金。鐙の革帯をしめる鉤。」「〇をりがね 馬のさんづに隆くあらはれた骨。」とある。
 20:底本頭注に、「けしからぬ者。」とある。
 21:底本頭注に、「獄門にさらされ。」とある。
 22:底本頭注に、「〇錦戸 泰衡の庶兄西木戸太郎国衡。」「〇ひづめ 泰衡の弟ひづめの五郎通衡か。」とある。
 23:底本頭注に、「〇両関 念珠の関と白河の関。」「〇泉 泰衡の弟泉三郎中衡。」とある。

五 衣川合戦の事

 さる程に、寄せ手、長崎大夫のすけを初めとして三万余騎、一手になりて押し寄せたり。「今日の討手は、いかなる者ぞ。」「秀衡が家の子、長崎太郎太夫。」と申す。「せめて、泰衡、錦戸などにてもあらばこそ、最後の軍をもせめ。東の方の奴ばらが郎等に向ひて、弓を引き、矢を放さんこと、有るべからず。」とて、「自害せん。」と宣ひけり。
 こゝに、北の方の乳母親に十郎権頭{*1}、喜三太二人は、家の上にのぼりて、遣戸格子を小楯にして、散々に射る。大手には武蔵坊、片岡、鈴木兄弟、鷲尾、増尾、伊勢三郎、備前平四郎、以上、人々八騎なり。常陸坊を初めとして、残り十一人の者ども、今朝より近きあたりの山寺を拝みに出でけるが、そのまゝ帰らずして、失せにけり。いふばかりなき事どもなり。
 弁慶、その日の装束には、黒皮縅の鎧の裾金物平たく打つたるに、黄なる蝶を三つ二つ打つたりけるを著て、大薙刀の真ん中握り、うちいたの上に立ちけり{*2}。「囃せや、殿ばら達。東の方の奴ばらに、もの見せん。若かりし時は叡山にて、よしある方には詩歌管絃の方にも許され、武勇の道には、悪僧の名を取りき。一手舞うて、東の方の賤しき奴ばらに見せん。」とて、鈴木兄弟に囃させて、
  うれしや滝の水、鳴るは滝の水  日は照るとも、絶えずとうたり
  東の奴ばらが鎧兜を首もろともに  衣川に切り流しつるかな
とぞ舞うたりける。
 寄せ手、聞きて、「判官殿の御内の人々{*3}程、剛なる事はなし。寄せ手三万騎に、城の内は、僅か十騎ばかりにて、何程の立て合ひせんとて舞まふらん。」とぞ申しける。寄せ手の者、申しけるは、「いかに思し召し候とも、三万余騎ぞかし。舞も、おき給へ。」と申せば、「三万も、三万によるべし。十騎も、十騎によるぞ。己等が軍せんと企つる様の可笑しければ、笑ふぞ。叡山、春日山の麓にて、五月会に競馬をするに、少しも違はず。可笑しや。鈴木、東の方の奴ばらに、手なみの程を見せてくれうぞ。」とて、打物ぬきて鈴木兄弟、弁慶、轡を並べて、錏を傾けて、太刀を兜の真向にあてて、どつと喚きてかけたれば、秋風に木の葉を散らすに異ならず。寄せ手の者ども、元の陣へぞ引き退く{*4}。「口には似ざる者や。勢にこそよれ。不覚人どもかな。返せや、返せや。」と喚きけれども、返し合はする者もなし。
 かかりける所に、鈴木三郎、てる日の太郎と「組まん。」と、「わ君は、たそ。」「御内の侍に、てるひの太郎高治。」「さて、わ君が主こそ鎌倉殿の郎等よ。わ君が主の祖父清衡、後三年の戦ひのとき、郎等たりけるとこそ聞け。その子に武衡、その子に秀衡、その子に泰衡。されば、我らが殿には、五代の相伝の郎等ぞかし。重家は、鎌倉殿には重代の侍なり。されば、重家がためには、あはぬ敵なり。されども、弓矢とる身は、逢ふを敵。面白し。泰衡が内には、恥ある者とこそきけ。それが、恥ある武士に後ろをみする事や有る。きたなしや、とゞまれ、とゞまれ。」といはれて、返し合はせ、右の肩を切られて、引きて退く。鈴木、すでに弓手に二騎、馬手に三騎切りふせ、七、八騎に手負はせて、我が身も痛手負ひ、「亀井六郎、犬死すな。重家は、今は、かうぞ。」と、これを最後の言葉にて、腹かき切つてふしにけり。
 「紀伊国藤代を出でし日より、命をば君に奉る。いま思はず一所にて死し候はんこそ、嬉しく候へ。死出の山にては、かならず待ち給へ。」とて、鎧の草摺かなぐりすてて、「音にも聞くらん、目にも見よ。鈴木三郎が弟に亀井六郎、生年二十三。弓矢の手なみ、日頃人に知られたれども、東の方の奴ばらは、いまだ知らじ。始めてもの見せん。」と、いひもはてず{*5}、大勢の中へわつて入り、弓手にあひつけ馬手にせめつけ斬りけるに、面を向ふるものぞなき。敵三騎打ちとり、六騎に手をおうせて、我が身も大事の疵あまたおひければ、鎧の上帯おしくつろげ、腹かき切つて、兄のふしたる所に、同じ枕に伏しにけり。
 さても武蔵は、かれにうち合ひ、これに打ちあひする程に、咽笛うちさかれ、血出づる事は限りなし。世の常の人などは、血酔ひなどするぞかし。弁慶は、血の出づれば、いとゞ血そばへして{*6}、人をも人とも思はず。前へ流るゝ血は、鎧の働くに従ひて、赤血{*7}になりて流れける程に、敵、申しけるは、「こゝなる法師、あまりのもの狂はしさに、前にも母衣かけたるぞ。」と申しけり{*8}。「あれ程のふて者{*9}に、寄り合ふべからず。」とて、手綱を控へてよせず。弁慶、度々の戦になれたる事なれば、倒るゝやうにては、起き上がり起き上がり、河原を走りありくに、面を向ふる人ぞなき。さる程に、増尾十郎も討死す。備前平四郎も、敵あまた討ちとり、我が身も疵あまた負ひければ、自害して失せぬ。片岡と鷲尾、一つになりて戦ひけるが、鷲尾は、敵五騎討ち取りて死にぬ。片岡、一方すきければ、武蔵坊、伊勢三郎と一所にかゝる。伊勢三郎、敵六騎討ち取り、三騎に手負はせて、思ふやうに軍して、深手負ひければ、暇乞ひして、「死出の山にて待つぞ。」とて、自害してんげり。
 弁慶は、敵逐ひ払ひて、君の御前に参りて、「弁慶こそ参りて候へ。」と申しければ、君は、法華経の八の巻を{*10}あそばしておはしましけるが、「いかに。」と宣へば、「軍は、かぎりに成つて候。備前、鷲尾、増尾、鈴木兄弟、伊勢三郎、各、いくさ、思ひの儘に仕り、討死仕りて候。今は、弁慶と片岡ばかりに成つて候。限りにて候程に、君の御目に今一度かゝり候はんずるために、参りて候。君、御先立ち給ひ候はば、死出の山にて御待ち候へ。弁慶、先立ち参らせ候はば、三途の河にて待ち参らせん。」と申せば、判官、「今ひとしほ名残の惜しきぞよ。死なば一所とこそ契りしに、我も、もろともにうち出でんとすれば、不足なる敵なり。弁慶を内に留めんとすれば、御方のおのおの討死する。自害の所へ雑人を入れたらば、弓矢の疵なるべし。今は力およばず。たとひわれ先立ちたりとも、死出の山にて待つべし。先立ちたらば、誠に三途の河にて待ち候へ。御経も、今少しなり。読み果つる程は、死したりとも我を守護せよ。」と仰せられければ、「さん候。」と申して、御簾{*11}をひき上げ、君をつくづくと見参らせて、御名残惜しげに涙に咽びけるが、敵の近づく声を聞き、御暇申して立ち出づるとて、又立ちかへり、かくぞ{*12}申し上げける。
  六道のみちのちまたに待てよ君後れさきだつならひありとも
かく忙はしき中にも、未来をかけて申しければ、御返歌に、
  後の世もまた後の世もめぐりあへ染むむらさきの雲の上まで
と仰せられければ、声を立ててぞ泣きにける。
 さて、片岡とうしろ合はせにさし合はせて、一町を二手に分けて駆けたりけるが、二人にかけ立てられて、寄手の兵ども、むらめかして引き退く。片岡、七騎が中に走り入つて戦ふほどに、肩も腕もこらへずして、疵多く負ひければ、「叶はじ。」とや思ひけん、腹かき切り、失せにけり。
 弁慶、今は一人なり。薙刀の柄、一尺ばかりふみ折りて、かばとすて、「あはれ、中々よきものや。えせかた人{*13}の足手にまぎれて、悪かりつるに。」とて、きつと踏んばり立つて、敵いれば、よせあはせて、はたと切り、ふつとは切り、馬の太腹前膝、ばらりばらりと切り付け、馬より落つる所は、長刀の先にて首をはね落とし、背{*14}にて敲きおろしなどして狂ふほどに、一人に切り立てられて、面を向くる者ぞなき。鎧に矢の立つ事、数を知らず。折りかけ折りかけしたりければ、蓑をさかさまに著たるやうにぞ有りける。黒羽、白羽、染羽、いろいろの矢ども、風に吹かれて見えければ、武蔵野の尾花の、秋風に吹き靡かるゝに異ならず。八方を走りまはりて狂ひけるを、寄せ手の者ども、申しけるは、「敵も味方も討死すれども、弁慶ばかり、いかに狂へども、死なぬは。不思議なり。おとに聞こえしにも勝りたり。我らが手にこそかけずとも、鎮守大明神、たちよりて蹴殺し給へ。」と、呪ひけるこそをこがましけれ。
 武蔵は、敵を打ち払ひて、薙刀をさかさまに杖につきて、仁王立ちに立ちにけり。ひとへに力士{*15}の如くなり。一口笑ひて立ちたれば、「あれ、見たまへ。あの法師、我らを討たんとて、こなたを守らへ、しれ笑ひ{*16}してあるは。たゞごとならず。近くよりて討たるな。」とて、左右なく近づく者もなし。さる者の申しけるは、「剛の者は、立ちながら死する事あると言ふぞ。殿ばら、当たりて見たまへ。」と申しければ、「我、当たらん。」といふ者もなし。ある武者、馬にてあたりを馳せければ、疾くより死したる者なれば、馬に当たりて倒れけり。長刀を握りすくみてあれば、倒れざまに先へうちこすやうに見えければ、「すは、すは。又狂ふは。」とて、はせのきはせのき控へたり。されども、倒れたるまゝにて動かず。その時、「我も、我も。」とよりけるこそ、をこがましく見えたりけれ{*17}。立ちながらすくみたる事は、「君の御自害のほど、人をよせじとて、守護のためか。」とおぼえて、人々、いよいよ感じけり{*18}。

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校訂者注
 1:底本は、「十郎権頭(ごんのかみ)」。底本頭注に、「増尾十郎権頭兼房。」とある。
 2:底本は、「うちいたの上に立ちける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇うちいた 陣中で敷皮の代りに用ゐる板。」とある。
 3:底本は、「御内(みうち)の人々」。底本頭注に、「家臣の人々。」とある。
 4:底本は、「寄手(よせて)の陣(ぢん)へ引退(ひきしりぞ)く。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 5:底本は、「いひはてず、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 6:底本は、「血(ち)そばえして、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇血酔ひ 出血におびえて茫然となること。」「〇血そばえ 血を見て戯れ興じること。」とある。
 7:底本は、「あけち」。底本頭注に従い改めた。
 8:底本は、「母衣(ほろ)かけたるぞ。』と申しける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇母衣 戦陣に矢を防ぐもの。竹を骨とし布で覆ふ。背に負うて装飾ともした。」とある。
 9:底本頭注に、「不敵な者。」とある。
 10:底本は、「法華経(ほけきやう)の巻(まき)を」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 11:底本は、「簾(みす)」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 12:底本は、「かく申し上げける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 13:底本は、「えせかた人(うど)」。底本頭注に、「頼もしげない身方。」とある。
 14:底本は、「胸(むね)」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 15:底本は、「りきしゆ」。底本頭注に従い改めた。
 16:底本頭注に、「〇守らへ ぢつと見つめ。」「〇しれ笑ひ 癡れた笑ひ。」とある。
 17:底本は、「見えたりけり。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 18:底本は、「感じける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。

三 秀衡が子ども判官殿に謀叛の事

 かくて入道、死しけれども、かはる事もなく、兄弟の子ども、うちかへうちかへ判官殿へ出仕して、その年も暮れにけり。明くる二月の頃、泰衡が郎等、何事をか聞きたりけん、夜ふけ、人静まりてひそかに来り、泰衡にいひけるは、「判官殿、泉の御曹司{*1}と一つにならせ給ひ、御内を打ち奉らんと用意にて候。合戦の習ひ、人に先をせられぬれば、悪しき御事にて候なり。急ぎ御用意あるべし。」と語りける程に、泰衡、聞いて安からぬ事に思ひ、「さらば、用意すべし。」とて、二月二十一日、「入道の仏事孝養を営まん。」と用意しけるが、仏事をばさし置き、一腹の舎弟泉の冠者を夜討にしけるこそうたてけれ。
 それを見て、兄の錦戸、ひつめの五郎、弟のともとしの冠者{*2}、「このこと、人の上ならず。」とて、各、心々になりにけり。「六親不和にして三宝の加護なし。」とは、これをいふなり。判官も、「さては、義経にも思ひかゝらん。」とて、武蔵坊を召して、廻文を書かせらる。九州には、「菊地、原田、臼杵、緒方、急ぎまゐるべき。」由を仰せられて、雑色駿河次郎に給びぬ。夜を日につぎて京に上り、「筑紫へ下らん。」とす。いかなる者かいひけん、このよし、六波羅に聞きて、駿河を召し取りて、下べ二十余人さしそへて、関東へ下されけり。
 鎌倉殿、廻文を御覧じて、大きに怒り、「九郎は{*3}、不思議の者かな。同じ兄弟といひながら、頼朝を度々思ひかへるこそ不思議なれ。秀衡も死去しつ、奥も傾きぬに{*4}、攻めんに何程の事あるべき。」と仰せありければ、梶原、御前に候ひけるが、「仰せにて候へども、愚かの御計らひにて候や。宣旨なつて、秀衡を召されけるに、昔、将門八万余騎、今の秀衡十万八千余騎にて、片道を賜はらば、参るべき由申しけるに、さては、叶はずとて止められ、遂に京を見ず{*5}とこそ承りて候へ。秀衡一人にても妨げ候はば、念珠{*6}、白河両関を固め、判官殿の御下知に従ひて、軍を仕り候はば、日本国の勢をもつて、百年二百年戦ひ候とも、一天四海、民の煩ひとはなり候とも、うち従へん事、叶ひ候まじ。たゞ泰衡を御すかし候て、御曹司{*7}を討ちまゐらさせたまひ、その後、御攻め候はば、しかるべく候はんずる。」由を申しければ、「尤もしかるべし。」とて、頼朝、「私の下知{*8}ばかりにて、叶ふまじ。」とて、院宣を申されけり。「泰衡が義経を討ちたらば、本領に常陸国をそへて、子々孫々に至るまで賜ふべき。」由なり。鎌倉殿、御下知をそへて遣はさる。
 泰衡、いつしか故入道{*9}の遺言を背きて、領承申しぬ。但し、「御せんじを賜ひて討ち奉るべき。」由、申しければ、「さらば。」とて、安達四郎清忠を召して、「この二、三年、知行をいくまみたるらん。検見{*10}に罷り下るべき。」由、仰せ出ださる。「承り候。」とて、清忠、奥{*11}へぞ下りける。さる程に、泰衡、俄に狩をぞ始めける。判官も、出でて狩し給ふ。清忠、紛れ歩きて見奉るに、疑ひなき判官殿にておはします。軍は、文治五年四月二十九日巳の時と定めけり。この事、義経は、夢にも知り給はず。
 かかりし所に、民部権少輔基成と言ふ人あり。平治の合戦の時、うせ給ひし悪右衛門督信頼の兄にておはします。「謀叛の者の一門なれば。」とて、東国に下られたりけるを、故入道{*12}、情をかけたまへり。その上、秀衡が、基成の女に具足して、子どもあまたあり。嫡子二男泰衡、三男泉三郎忠致、これ等三人が祖父なり。されば、人、重くし奉り、「少輔の御寮。」とぞ申す{*13}。この子どもより先に、嫡子錦戸太郎頼衡とて、極めてたけ高く、ゆゝしく芸能もすぐれ、大の男の剛のもの、強弓精兵にて{*14}、謀りごとかしこくあるを、嫡子に立てたりせばよかるべきに、「男の十五より内にまうけたる子をば、嫡子には立てぬことなり。」とて、当腹の二男を嫡子に立てける。入道、おもへば、あへなかりけり。
 この基成は、判官殿に浅からず申し承り候はれけり。この事、ほのかに聞きて、あさましく思ひて、「孫どもを制せばや。」と思はれけれども、「恥づかしくも、所領を譲りたる事もなし。我さへ彼等に預けられたる身ながら、勅勘の身なり。院宣くだる上、何と制すとも、叶ふまじ。」あまり思へば悲しくて、判官殿へ消息を奉る。「殿を、関東より、『うち奉れ。』とて、院宣下りぬ。この間の狩をば、栄耀{*15}の狩と思し召すや。命こそ大切に候へ。一まづ落ちさせ給ふべく候やらん。殿の親父義朝は、舎弟信頼に与せられ、謀叛のために同科{*16}の死罪に行なはれ給ひぬ。また基成、東国に遠流{*17}の身となり、御辺もこれに御渡り候へば、千々の縁深かりけりと思ひ知られて候ひつるに、又おくれ参らせて歎き候はん事こそ、口惜しく候へ。同じ道に御供申し候はんこそ本意にて候べきに、年老い、身かひがひしくも候はで、かひなき御孝養を申さん事、行くもとまるも同じ道。」とかきくどき、泣く泣く遣はされけり。
 判官、この文を御覧じて、御返事には、
  文、悦び入り候。仰せの如く、いづ方へも落ちゆくべきにて候へども、勅勘の身として、空を飛び地をくゞるとも、叶ひ難く思へば、こゝにて自害を仕るべし。さればとて、錆矢の一つも放つべきにても候はず。この御恩、今生にては、むなしくなりぬ。来世にては、必ず一仏浄土の縁となり奉るべし。これは、一期のひき{*18}にて候。御身を放さず御覧候へ。
と、唐櫃一合、御返事に添へて遣はされけり。その後も、文ありけれども、「自害の用意仕る。」とて、御返事に及ばず。
 されば、産して七日になりたまふ北の方を呼び出だして、申されけるは、「義経は、関東より院宣下りて、失はるべく候。昔より、女の罪科といふ事なし。他所へ渡らせ給ひ候へ。義経は、心静かに自害の用意を仕るべし。」と宣へば、北の方、聞こし召しもあへず、袖を顔におしあてて、「いとけなきより、片時も放れじと慕ひし乳母の名残をふりすてて、つき奉りて下りけるは、かやうに隔て奉らんためかや。女の習ひ、片思ひこそ恥づかしく候へども、人の手に懸けさせ給ふな。」と{*19}、御傍をはなれ給はず。判官も、涙にむせび給ひ、御ことばもなく、持仏堂の東の正面をしつらひて、入れ奉り給ひけり。

四 鈴木三郎重家高館へ参る事

 重家を御前に召され、「そもそも吾殿は、鎌倉殿より御恩を賜ふに、世になき義経{*20}がもとに遥々と来り、いく程なく、かやうの事出で来るこそ不便なれ。」と宣へば、鈴木、申しけるは、「さん候。鎌倉殿より、甲斐国にて所領一所賜はりて候ひしが、寝てもさめても君の御事、片時も忘れ参らせず。余りに御面影身にしみて、参りたく存じ候ひしほどに、年頃の妻子など、熊野の者にて候ひしを、送りつかはし候て、今は今生に思ひおく事、いさゝかも候はず。但し、すこし心にかゝることの候は、一昨日著き申すみちにて、馬の足を損じ候て、痛み候へども、御内の案内いかゞと存じ、申し入れず候。今かく候へば、しかるべき。これこそ期したる弓矢{*21}にて候へ。たとひこれに参りあひ候はずとも、遠き近きの差別にてこそ候へ。君、討たれさせ給ひぬと承りて候はば、何のために命をかばひ候べき。所々にて死し候はば、死出の山路も{*22}はるかに後れ奉るべきに、これにて心安く御供仕り候はん。」とて、世に心地よげに申しければ、判官も、御涙に咽び、うち頷き給ひけり。
 さて鈴木、申し上げけるは、「下人に腹巻ばかりこそ著せて下りて候へ。討死の上、具足の善悪は、いり候まじく候へども、後に{*23}きこえ候はんこと、無下に候はんか。」と申しければ、「鎧は、あまたさせたる。」とて、しきめにまきたる赤糸縅の究竟の鎧を取り出だし、御馬にそへ下さる。腹巻は、舎弟亀井に取らせけり{*24}。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「泰衡弟泉三郎忠衡。御曹司は部屋住の公達。」とある。
 2:底本頭注に、「〇錦戸 庶兄西木戸太郎国衡。」「〇ひつめの五郎 弟通衡か。」「〇ともよしの冠者 弟頼衡か。」とある。
 3:底本は、「九郎不思議」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。底本頭注に、「〇不思議 奇怪。」とある。
 4:底本は、「奥(おく)も傾(かたぶ)かぬに、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改めた。
 5:底本頭注に、「宣旨が下つて秀衡を召されたが、北陸道七国半分を賜はらば上洛しませうと御答へ申して聞き入れられず遂に上洛しなかつた。」とある。
 6:底本「二 秀衡死去の事」頭注に従い改めた。
 7:底本頭注に、「義経。」とある。
 8:底本頭注に、「頼朝個人の命令。」とある。
 9:底本頭注に、「秀衡。」とある。
 10:底本は、「検見(けんみ)」。底本頭注に、「物事を調べ見る役。」とある。
 11:底本頭注に、「奥州。」とある。
 12:底本頭注に、「秀衡。」とある。
 13:底本は、「人をも具(ぐ)し奉り、少輔(せう)の御料(ごれう)とぞ申す。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 14:底本は、「大(だい)の男(をとこ)剛(がう)のもの、強弓(つよゆみ)せいびやうにて、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補い、底本頭注に「〇せいびやう 精兵。」とあるのに従い改めた。
 15:底本は、「えいえう」。底本頭注に従い改めた。
 16:底本は、「謀叛(むほん)の為にひくわの死罪(しざい)」。底本頭注に、「〇謀叛の為 義朝が信頼に党して平治の乱を起したので。」とある。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改めた。
 17:底本は、「東国(とうごく)に落つるの身」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 18:底本頭注に、「一生の引出物。」とある。
 19:底本は、「懸(か)けさせ給ふ、御傍を」。底本頭注及び『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 20:底本頭注に、「落ちぶれた義経。」とある。
 21:底本は、「期(ご)したる弓矢(ゆみや)」。底本頭注に、「覚悟し予期した戦争。」とある。
 22:底本は、「死出(しで)の山路(やまぢ)を」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 23:底本は、「後はきこえ」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇具足の善悪云々 甲冑のよい悪いに拘らず六具揃つたものを著せたい。」「〇後はきこえ云々 後後の評判になるのもまづい事でもありませう。」とある。
 24:底本は、「取らせける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。

巻第八

一 嗣信兄弟御弔ひの事

 さる程に、判官殿、高館にうつらせ給ひて後、佐藤荘司が後家のもとへも、折々御使つかはされ、憐れみ給ふ。人々、奇異の思ひをなす。ある時、武蔵を召して仰せられけるは、「嗣信、忠信兄弟があとを弔はせ給ふべき。」由、仰せられける。そのついでに、「四国西国にて討死したる者ども、忠の浅深にはよるべからず。死後なれば、冥帳に入れて弔へ。」と仰せ下さるゝ。弁慶、涙をながし、「尤も忝き御こと候。上として、かやうに思し召さるゝこと、まことに延喜天暦の帝と申すとも、いかでか{*1}かやうには渡らせおはしまし候はん。急ぎ思し召し立ちたまへ。」と申しければ、「さらば、貴僧たちを請じ、仏事とり行ふべき。」よし、仰せ付けらる。武蔵、この事、秀衡に申しければ、入道も、かつうは御心ざしの程を感じ、かつうは彼等が事を今一しほ不便に思ひ、しきりに涙にぞ咽びける。
 兄弟の母尼公の方へも、御使有りけり{*2}。孫ども、後家ども引き具して参る。御心ざしの余りに、御自筆にも法華経遊ばされ、弔はせ給ふ。有り難きためしには、人々、申しあへり。尼公、申されけるは、「兄弟の者の孝養、まことに身において有りがたき御心ざし、又は死後の名、何事かこれにこえ申すべき。これ程の御心ざしを、この世に長らへて候はば、いかばかりかたじけなく思ひ参らせ候はんと、いよいよ涙つくし難く候。されども今は、思ひきり参らせ候。幼き者ども{*3}を、あひつゞき君へまゐらせ候はん。いまだ童名にて候。」と申しければ、判官、「それは、秀衡が名をもつくべけれども、兄弟の者どもの名残形見なれば、義経、名をつけべし。さりながらも、秀衡に聞かせよ。」と仰せられて、御使有りければ、「入道、内々申し上げたき折節候。恐れ入るばかりに候。」と申しければ、「さらば秀衡、計らひて。」と宣へば、秀衡、承り申して、髪取りあげ、烏帽子きせ、御前に畏まる。
 判官、御覧じて、嗣信が若をば佐藤三郎義信、忠信が子をば佐藤四郎義忠と付けたまふ。尼公、なゝめならず喜び、「いかに、泉三郎。かねて申せし物、我が君へ奉れ。」と申しければ、佐藤の家に伝はれる重代の太刀を進上す。北の方へは唐綾の御小袖、巻絹など取りそへて奉る。その外、侍達にもそれぞれに参らせける。尼公、いとゞ涙にむせび、「あはれ、同じくは、兄弟の者ども御供して下り、御前にて孫どもに烏帽子を著せなば、いかばかり嬉しからまし。」と、流涕、こがれければ、二人の嫁も、なき人の事を一しほ思ひ出だし、別れし時のやうに、声もをしまず悲しみけり。君も、哀れに思し召し、御涙を流させ給ふ。御前なりし人々、秀衡は申すにおよばず、袂を顔におしあてて、おのおの涙をぞ流しける。
 判官、杯取りあげたまひ、義信に下さる。杯の敬拝{*4}、当座の会釈、まことにおとなしく見えければ、「嗣信に、よくも似たるものかな。汝が父、八島にて義経が命に代はりたりしをこそ、源平両家の目の前、諸人の目を驚かし、類あらじと言ひしが、まことに我が朝の事はいふに及ばず、唐土天竺にも、主君に心ざし深きもの多しといへども、かかるためしなしとて、三国一の剛の者といはれしぞかし。今日よりしては、義経を父と思へ。」と仰せられて、御座近く召されて、おくれの髪を撫でさせたまひ、御涙せきあへ給はず。その時亀井、片岡、伊勢、鷲尾、増尾十郎、権頭、あらき弁慶をはじめとして、こゑを立ててぞ泣きにける。
 暫くありて御涙をとゞめ、義忠に御杯下され、「汝が父、吉野山にて大衆追つ懸けたりしに、義経をかばひて、一人峯に留まらんといひしを、義経も、留めん事を悲しみ、一処にと千度百度いひしに、侍のことばは綸言にも同じ、なほし汗の如しとて、已に自害せんとせしまゝに、力及ばず{*5}一人峯に残し置きたりしに、数百人の敵を六、七騎にて禦ぎ、あまつさへ、鬼神のやうにいはれし横川の覚範をうち取り、都に上り、江間小四郎{*6}を引きうけ、そこをも斬りぬけしに、普通の者ならば、それよりこれへ下るべきに、義経を慕ひ、在りかを知らずして、六條堀河のふるき宿所にかへり来て、義経を見ると思ひて、こゝにて腹を切らんとて、自害したりし心ざし、かれといひこれと言ひ、兄弟の者の心ざしを、いつの世に忘るべき。ためし少なき剛の者とて、鎌倉殿{*7}も惜しみ給ひ、孝養し給ふと聞く。汝も、忠信に劣るまじき者かな。」とて、又御落涙ありけり。
 判官、伊勢三郎を召して、小桜縅、卯の花縅の鎧を二人に下されけり。尼公、なみだを止めて、「あら、有り難の御諚や。さぶらひ程{*8}、剛にても剛なるべき者はなし。我が子ながらも剛ならずば、か程までは御諚も有るまじ。汝等も、成人仕り、父どもが如く、君の御用に立ち、名を後代にあげよ。不忠を仕らば、父どもに劣れる者とて、傍輩達に笑はれんぞ。後ろ指をさされば{*9}、家の疵なるべし。御前にて申すぞ。よく承り留めよ。」とぞ申しける。おのおの、これを聞きて、「兄弟が剛なりしも道理かな。只今尼公の申すやう、さしも猛き人かな。」と、おのおの感じ申しける。

二 秀衡死去の事

 文治四年十二月十日の頃より、入道、重病をうけて、日数かさなりて弱り行けば、耆婆、扁鵲が術だにも、あへて叶ふべきと見えざれば、秀衡、女、子息、その外所従をあつめて、泣く泣く申されけるは、「限りある業病をうけ、命を惜しむなど聞きし事、きはめて人の上にてだにも、いふかひなき事に思ひつるに、身の上になりて、思ひ知られたるなり。その故は、入道、この度命を惜しく存ずる事は、判官殿、入道を頼みに思し召して、遙かの道を妻子具しておはしたるに、せめて十年心安くふるまはせ奉らで、今日明日に入道死ぬるならば、闇の夜にともしびを失ふ如くに、山野に迷ひ給はん事こそ口をしく存ずれ。こればかりこそ、今生に思ひ置くこと、冥途のさはりとおぼゆれ。されども、叶はぬならひなれば、力なし。判官殿に参り、最期の見参申したく存ずれども、余りに苦しく、合期ならず{*10}。「これへ。」と申さんは、その恐れあり。この旨を御耳に入れ奉れよ。
 「又、各、この遺言を用ゐるべきか。用ゐるべきにあらば、いふべき事を静かにきくべし。」と宣へば、各、「いかでか背き申すべき。」と申しければ、苦しげなる声にて、「それがし死したらば、定めて鎌倉殿より、『判官殿、討ち奉れ。』との御教書下るべし。『その勲功には、常陸を賜ふべき。』とあらんずるぞ。相構へてそれを用ゐるべからず。入道が身には、出羽奥州、過分の所にてあるぞ。いはんや親にも、よもまさじ。各が身をもつて他国を賜はらん事、叶ふべからず。鎌倉よりの御使なりとも、首を切れ。両三度に及びて御使を斬るならば{*11}、その後は、よも下されじ。たとひ下さるゝとも、大事にてぞあらんずらん。その用意をせよ。念珠、白河両関をば、錦戸{*12}に防がせて、判官殿をおろかになし奉るべからず。過分の振舞、あるべからず。この遺言をだにも違へずは、末世といふとも、汝等が末の世は安穏なるべしと心得よ。生を隔つとも。」といひ置きて、これを最期の言葉にて、十二月二十一日の曙に、終にはかなくなりぬ。
 妻子眷属、泣き悲しむといへども、かひぞなき。判官殿へこの由、申されければ、驚き思し召して、馬に一鞭をすゝめて、急ぎおはしたり。むなしき死骸に抱きつかせ給ひて、仰せられけるは、「境はるかの道を凌ぎて、これまで下る事も、入道を頼みてこそ下り候へ。父義朝には、二歳にて別れ奉りぬ。母は、都におはすれども、平家に渡らせ給へば、互に心よからず。兄弟ありといへども、幼少より方々に有りて、寄り合ふこともなく、あまつさへ、あはれみを垂れ給ふべき頼朝には不和なり。いかなる親の歎き、子の別れといふとも、これには過ぎじ。」と悲しみ給ふ事、かぎりなし。「たゞ義経が運のきはむる所。」とて、さしもにたけき御心を引きかへて、深くぞ歎き給ひける。亀割山にて生まれ給へる若君も、判官殿と同じやうに、白き衣を召して、野べの送りをし給へり。見奉るに、いとゞ哀れぞ増さりける。「同じ道に。」と悲しみ給へども、むなしき野辺に只一人、送り棄ててぞ帰り給ふ。あはれなりし事どもなり。

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校訂者注
 1:底本は、「いかで斯様(かやう)には」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 2:底本は、「有りける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 3:底本頭注に、「嗣信忠信の遺子。」とある。
 4:底本は、「けうはい」。底本頭注に、「きやうはいであらう。敬拝。」とあるのに従い改めた。
 5:底本頭注に、「やむを得ず。」とある。
 6:底本頭注に、「北條義時。」とある。
 7:底本頭注に、「頼朝。」とある。
 8:底本は、「さぶらひは」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 9:底本は、「さされ、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 10:底本は、「合期(がふご)ならず」。底本頭注に、「思ふやうにならぬ。」とある。
 11:底本は、「御使きたるならば、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 12:底本頭注に「〇ねんし 念珠の関であらう。」とあるのに従い改めた。底本頭注に、「〇錦戸 西木戸太郎国衡。秀衡の庶長子で泰衡等の庶兄。」とある。

八 亀割山にて御産の事

 おのおの亀割山を越え給ふに{*1}、北の方、御身をいたはり給ふことあり。御産近くなりければ、兼房、心苦しくぞ思ひける。山深くなるまゝに、いとゞ絶え入り給へば、時々は、もり奉りて行く。麓の里遠ければ、一夜の宿を取るべき所もなし。山の峠にて、道のほとり二町ばかりわけ入りて、ある大木の下に敷皮をしき、木のもとを御産所と定めて、宿し参らせけり。いよいよ御苦痛をせめければ、つゝましさも早忘れさせ給ひて、息ふき出だして、「人人近くて叶ふまじ。遠くのけよ。」と仰せられければ、さぶらひども、皆こゝかしこへ立ちのきけり。御身近くは、十郎権頭{*2}、判官殿ばかりぞおはしける。
 北の方、「これとても、心安かるべきにはあらねども、せめては力及ばず{*3}。」とて、又たえ入り給ひけり。判官も、「今は、かくぞ。」とぞ{*4}思し召しける。猛き心も失ひはてて、「かかるべしとは、かねて知りながら、これまで具足し奉り、京をばはなれ、思ふ所へは行きつかず、途中にてむなしくなし奉らん事の悲しさよ。誰を頼みて、これまで遙々、あらぬ里に御身をやつし、義経ひとり慕ひ給ひて、かかるうき旅の空に迷ひつゝ、片ときも心安きことを見せ聞かせ奉らず、失ひ奉らん事こそ悲しけれ。人に別れては、片ときもあるべしともおぼえず。たゞ同じ道に。」とかきくどき、涙もせきあへず悲しみ給へば、さぶらひどもも、「軍の陣にては、かくはおはせざりしものを。」と、みな袂を絞りけり。
 暫くありて、息ふき出だして、「水を。」と仰せられければ、武蔵坊、水瓶を取つて出でたりけれども、雨は降る、暗さはくらし、いづ方へ尋ね行くべきとはおぼえねども、足にまかせて谷をさしてぞ下りける。耳をそばだてて、「谷河の水や流るゝ。」と聞きけれども、この程久しく照りたる空なれば、谷の小河も絶えはてて、流るゝ水もなかりければ、武蔵坊、たゞかきくどき、ひとりごとに申しけるは、「御果報こそ少なくおはするとも、かやうに易き水をだにも、尋ねかねたる悲しさよ。」とて、泣く泣く谷にくだる程に、山河の流るゝ音を聞き付けて悦び、水を取りて、「嶺に上らん。」とすれども、山は霧深くして、帰るべき方を失ひけり。「貝を吹かん。」とすれども、「麓の里近かるらん。」とおもひて、左右なく吹かず。されども、「時刻移つては叶ふまじ。」と思ひて、貝をぞ吹きたりける。嶺にも貝を合はせたる。弁慶、とかくして水を持ちて、御枕に参りて、「参らせん。」としければ、判官、涙に咽びて仰せられけるは、「尋ねて参りたるかひもなし。早こときれ果て給ひぬ。誰に参らせんとて、これまでは、たしなみけるぞや。」とて泣き給へば、兼房も、御枕にひれ伏してぞ泣き居たり。
 弁慶も、涙をおさへて、御枕によりて、御頭を動かして申しけるは、「よくよく都にとゞめ奉らんと申し候ひしに、心弱くてこれまで具足し参らせて、今憂き目を見せたまふこそ悲しけれ。たとひ定業にて渡らせ給ふとも、これ程に弁慶が丹誠を出だして尋ね参りて候水を{*5}、聞こし召し入りてこそ、いかにもならせ給ひ候はめ。」とて、水を御口に注ぎ奉りければ、「うけ給ふ。」とおぼしくて、判官の御手に取り付き給ひて、又消え入り給へば、判官も、共にきえ入る心地しておはしけるを、弁慶、「心弱き御事候や。事もことにこそより候へ。そこ退き給へ、権頭。」とて、おし起こし奉る。
 御腰をいだき奉り、「南無八幡大菩薩。願はくは、御産、平安になし給へ。さて、我が君をば、棄てはてたまひ候や。」と祈念しければ、常陸坊も、掌を合はせてぞ祈りける。権頭は、こゑを立ててぞ悲しみける。判官も、今はかきくれたる心地して、御頭をならべて、ひれふし給ひけり{*6}。北の方、御心地つきて、「あら、心うや。」とて、判官に取りつき給へば、弁慶、御腰を抱きあげ奉れば、御産、やすやすとぞ{*7}し給ひける。武蔵、少人のむづかる御声を聞いて、篠懸{*8}におしまきて、抱き奉る。何とは知らねども、御臍の緒切りまゐらせて、「ゆあびせ奉らん。」とて、水瓶にありける{*9}水にて洗ひ奉り、「やがて御名を付け参らせん。これは、亀割山の亀の万劫をとつて、鶴の千歳に{*10}なぞらへて、亀鶴殿。」とぞつけ奉る。判官、これを御覧じて、「あら、いとけなの者の有り様やな。いつか人となりぬべきとも見えず。義経が心安くばこそ、又行く末もしづかならめ。物の心を知らぬさきに、疾く疾くこの山の巣守になせ{*11}。」と宣ひけり。
 北の方、聞こし召して、今まで御身を悩まし奉りたるとも思し召されず、「怨めしくも承り候ものかな。たまたま人界に生を受けたるものを、月日の光をも見せずして、むなしくなさんこと、いかにぞや。御不審{*12}かうぶらば、それ、権頭、取りあげよ。これより都へ抱きて上るとも、いかでかむなしくなすべき。」と悲しみ給へば、武蔵、これを承つて、「君一人を頼み参らせて候へば、自然の事も候はば、又頼み奉るべき方も候まじきに、この若君を見あげ参らせんこそ頼もしく候へ。これ程いつくしき若君を、いかでか失ひ参らせ候べき。」とて、「果報は、伯父鎌倉殿にあやかり参らせ給ふべし。力は、かひがひしくは候はねども、弁慶に似給へ。御命は、千歳万歳を保ち給へ。」とて、「これより平泉へは、さすがに程遠く候に、みち行く人に行き逢うて候はんに、『はかな。』とばしむづかりて、弁慶うらみ給ふな{*13}。」とて、篠懸にかいまきて、笈の中にぞ入れたりける。その間、三日に下り著き給ひけるに、一度も{*14}なき給はざりけるこそ不思議なれ。
 その日は、せひのうちといふ所にて、一両日御身いたはり、明くれば、馬を尋ねて乗せ奉り、その日は栗原寺に著き給ふ。それよりして、亀井六郎、伊勢三郎を御使にて、平泉へぞ遣はされける。

九 判官平泉へ御著の事

 秀衡、「判官の御使。」と聞き、急ぎ対面す。「この程、北陸道にかゝりて御下りとは、内々承り候ひつれども、一定{*15}を承らず候ひつるによつて、御迎へをも参らせず。越後、越中こそ怨みあらめ、出羽国は{*16}、秀衡が知行のところにて候へば、各、何故御披露候ひて、国の者どもに送られさせおはしまし候はざりけるぞ。急ぎ、御迎へに人を参らせよ。」とて、嫡子泰衡冠者{*17}を呼びて、「判官殿の御迎へに参れ。」と申しければ、泰衡、百五十騎にてぞ参りける。北の方の御迎へには、御輿をぞ参らせける。「かくもありけるものを。」と仰せられて、磐井郡におはしましたりければ、秀衡、左右なく{*18}吾がもとへは入れ参らせず。月見殿とて、常に人も通はぬ所にすゑ奉り、日々の椀飯をもてなし奉る。北の方には、容顔美麗に心優なる女房達十二人、その外下女、はした者にいたるまで、調へてぞ付け奉る。
 判官は、かねての約束なりければ、名馬百疋、鎧五十両、征矢五十こし、弓五十挺。御手所{*19}には、もゝふの郡、牡鹿郡、志太郡、玉造、遠田郡とて、国の内にてよき郡、一郡には三千八百町づゝ有りけるを、五郡ぞ参らせける。侍どもには、すぐれたる胆沢、ゑさし、はましの荘とて、このうち、分々に配分せられけり。「時々は、いづくへも出で、慰み給へ。」とて、骨つよき馬十匹づゝ、履、行縢{*20}にいたるまで、心ざしをぞ運びける。「しよせん、今はなにに憚るべき。只思ふ様に遊ばせ参らせよ。」とて、泉の冠者{*21}に申しつけて、両国の大名三百六十人をすぐつて、日々の椀飯を供へたる。やがて、「御所つくれ。」とて、秀衡がやしきより西にあたりて、衣河とて、地を引き、御所造りて入れ奉る。城の体を見るに、前には{*22}衣川、東は秀衡が館なり。西は、たうくがいはやとて、しかるべき山につゞきたり。かやうに城郭を構へて、上見ぬ鷲の如くにておはしけり。昨日までは空山伏、今日はいつしか男になりて{*23}、栄華ひらきてぞおはしける。折々ごとに北陸道の御物語、北の方の御ふるまひなど仰せられ、各、申し出だし、笑ひ草にぞなりにける。
 かくて年も暮れければ、文治三年に成りにけり。

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校訂者注
 1:底本は、「こゑ給ふに、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 2:底本は、「十郎権頭(らうごんのかみ)」。底本頭注に、「北の方の傅 増尾十郎兼房。」とある。
 3:底本頭注に、「苦痛が迫り来ては何とも致方がない。」とある。
 4:底本は、「と思召(おぼしめ)しける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 5:底本は、「尋(たづ)ね参りて候を、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 6:底本は、「ひれふし給ひける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 7:底本は、「やす(二字以上の繰り返し記号)とし給ひける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 8:底本は、「篠懸(すゞかけ)」。底本頭注に、「修験者の衣。」とある。
 9:底本は、「緒(を)をつぎまゐらせて、御湯(みゆ)をひかせ奉らんとて、水瓶(みづがめ)にあけける」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 10:底本は、「千歳(せんざい)なぞらへて」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 11:底本頭注に、「〇すもり 荒れた処に居残ることで巣守にするは山中に棄てる意。」とあるのに従い改めた。
 12:底本頭注に、「御嫌疑御勘気をいふ。」とある。
 13:底本頭注に、「脱文でもあるか。強ひていへば、笈の中で窮屈だとぢれて泣いて弁慶を恨み給ふなの意か。ばしは意を強める接尾語。」とある。
 14:底本は、「一度なき」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 15:底本は、「一定(いちぢやう)」。底本頭注に、「確かなこと。」とある。
 16:底本は、「越後越中こそ怨(うら)みあらめ、出羽(の)国の者どもに、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 17:底本は、「もとよしの冠者」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 18:底本は、「左右(さう)なく」。底本頭注に、「無造作には。」とある。
 19:底本は、「御手所(おんてじよ)」。底本頭注に、「直領。」とある。
 20:底本は、「履行縢(くつむかばき)」。底本頭注に、「〇行縢 毛皮で作つて、狩猟の時前股に著用したもの。」とある。
 21:底本は、「いつの冠者」。底本頭注に、「いづみの冠者の誤りか。秀衡の三男和泉三郎忠衡。」とあるのに従い改めた。
 22:底本は、「前衣川(ころもがは)、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 23:底本は、「空山伏(そらやまぶし)、今日(けふ)はいつしか男(をとこ)になりて、」。底本頭注に、「〇空山伏 にせ山伏。」「〇男になり 俗人になつて。」とある。

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