新田左兵衛佐義興自害の事
さる程に、尊氏卿逝去あつて後、筑紫はかやうに乱れぬといへども、東国は未だ静かなり。ここに、故新田左中将義貞の子息左兵衛佐義興、その弟武蔵少将義宗、故脇屋刑部卿義助の子息右衛門佐義治三人、この三、四年が間、越後国に城郭を構へ、半国ばかりを打ち従へて{*1}居たりけるを、武蔵、上野の者どもの中より、弐心なき由の連署の起請を書いて、「両三人の御中に一人、東国へ御越し候へ。大将にし奉つて、義兵を揚げ候はん。」とぞ申したりける。義宗、義治二人は、思慮深き人なりければ、「この頃の人の心、左右なく憑み難し。」とて許容せられず。
義興は、大はやりにして、忠功人に先立たん事を、いつも心に懸けて思はれければ、是非の遠慮を廻らさるるまでもなく、僅かに郎従百余人を行きつれたる旅人の様に見せて、ひそかに武蔵国へぞ越えられける。元来、張本の輩は申すに及ばず、古、新田義貞に忠功ありし族、今、畠山入道道誓に恨みを含む兵、ひそかに音信を通じ、頻りに媚びを入れて、催促に随ふべき由を申す者多かりければ、義興、今は身を寄する所多くなつて、上野、武蔵両国の間に、その勢ひ、漸く萌せり。
天に耳なしといへども、これを聞くに人を以てする事なれば、互に隠密しけれども、兄は弟に語り、子は親に知らせける間、この事、程なく鎌倉の管領足利左馬頭基氏朝臣、畠山入道道誓に聞こえてけり。畠山大夫入道、これを聞きしより、敢へて寝食を安くせず。在所を尋ね聞きて大勢を差し遣はせば、国内通計して行方を知らず。又、五百騎三百騎の勢を以て、道に待つて夜討に寄せて討たんとすれば、義興、さらに事ともせず、蹴散らしては道を通り、打ち破つては囲みを出で、千変万化、総て人のわざにあらずと申しける間、「今はすべき様なし。」とて、手に余りてぞおぼえける。
「さてもこの事、如何すべき。」と、畠山入道道誓、昼夜案じ居たりけるが、或る夜、ひそかに竹沢右京亮{*2}を近づけて、「御辺は先年、武蔵野の合戦の時、かの義興の手に属して忠ありしかば、義興も定めてその旧好を忘れじとぞ思はるらん。されば、この人を僞つて討たんずる事は、御辺に過ぎたる人、あるべからず。如何なる謀りごとをも巡らして、義興を討つて左馬頭殿{*3}の見参に入れ給へ。恩賞は宜しく請ふによるべし。」とぞ語られける。
竹沢は、元来欲心熾盛にして、人の嘲りをも顧みず、古のよしみをも思はず、情なき者なりければ、かつて一議をも申さず。「さ候はば、兵衛佐殿の疑ひを散じて、相近づき候はんために、某、わざと御制法候はんずる事を背いて御勘気を蒙り、御内を罷り出でたる体にて本国へ罷り下つて後、この人に取り寄り候べし。」とよくよく相謀つて、己が宿所へぞ帰りける。
かねて謀りつる事なれば、竹沢、翌日より宿々の傾城どもを数十人呼び寄せて、遊び戯れ舞ひ歌ふ。これのみならず、相伴ふ傍輩ども二、三十人招き集めて、博奕を昼夜十余日までぞしたりける。或る人、これを畠山に告げ知らせたりければ、畠山、大きに偽り怒りて、「制法を破る罪科、一つにあらず。およそ道理を破る法はあれども、法を破る道理なし。況んや有道の法をや。一人の科を誡むるは、万人を助けんためなり。この時、緩々の沙汰致さば、向後の狼籍、断ゆべからず。」とて、則ち竹沢が所帯を没収して、その身を追ひ出だされけり。竹沢、一言の陳謝にも及ばず、「あな、事々し。左馬頭殿に仕はれぬ侍は、身一つは過ぎぬか{*4}。」と、飽くまで広言吐き散らして、己が所領へぞ帰りにける。
かくて数日あつて、竹沢、ひそかに新田兵衛佐殿へ人を奉つて申しけるは、「親にて候ひし入道、故新田殿{*5}の御手に属し、元弘の鎌倉合戦に忠を抜きんで候ひき。某又、先年、武蔵野の御合戦の時、御方に参つて忠戦致し候ひし條、定めて思し召し忘れ候はじ。その後は、世の{*6}転変、度々に及んで、御座所をも更に存知仕らで候ひつる間、力なく、暫くの命を助かりて御代を待ち候はんために、畠山禅門に属して候ひつるが、心中の趣、気色に顕はれ候ひけるに依つて、さしたる罪科ともおぼえぬ事に、一所懸命の地を没収せらる。結句討つべしなんどの沙汰に及び候ひし間、則ち武蔵の御陣を逃げ出でて、当時は深山幽谷に隠れ居たる体にて候。某がこの間の不義をだに御免しあるべきにて候はば、御内奉公の身と罷り成り候て、自然の御大事には御命に代はり参らせ候べし。」と、懇ろにぞ申し入れたりける。
兵衛佐、これを聞きたまひて暫くは、「申す所、誠しからず。」とて、見参をもし給はずして、密議なんどを知らせらるる事もなかりければ、竹沢、尚も心中の偽らざる処を顕はして近づき奉らんため、京都へ人を上せ、ある宮の御所より少将殿と申しける上臈女房の、年十六、七ばかりなる、容色類なく、心様優にやさしくおはしけるを、とかく申し下して、先づ己が養君にし奉り、御装束、女房達に至るまで様々にし立てて、ひそかに兵衛佐殿の方へぞ出だしたりける。
義興、元来好色の心深かりければ、類なく思ひ通はして、一夜の程の隔ても千年を経る心地におぼえければ、常の隠れ家を替へんともし給はず、少しひたたけたる式にて{*7}、その方様の草のゆかりまでも、心置くべき事とはつゆばかりも思ひ給はず。誠に、褒娰一たび笑んで幽王国を傾け、玉妃{*8}傍らに媚びて玄宗世を失ひ給ひしも、かくやと思ひ知られたり。されば、太公望が、「利を好む者には財珍を与へてこれを迷はし、色を好む者には美女を与へてこれを惑はす。」と、敵を謀る道を教へしを知らざりけるこそ愚かなれ。
かくて竹沢、奉公の志切なる由を申しけるに、兵衛佐、早、心打ち解けて見参し給ふ。やがて、鞍置きたる馬三匹、唯今縅し立てたる鎧三領、召替のためとて引き参らす。これのみならず、越後より附き纏ひ奉つて、ここかしこに隠れ居たる兵どもに、皆一献を進め、馬、物具衣裳、太刀刀に至るまで、用々に随つて漏らさずこれを引きける間、兵衛佐殿も、竹沢を他に異なる思ひを成され、傍輩どもも皆、「これに過ぎたる御要人あるべからず。」と、悦ばぬ者はなかりけり。かやうに朝夕宮仕への労を積み、昼夜無二の志を顕はして、半年ばかりになりにければ、佐殿{*9}、今は何事につけても心を置き給はず、謀叛の計略、与力の人数、一事も残らず心底を尽くして知らされけるこそ浅ましけれ。
九月十三夜は暮天雲晴れて、月も名に負ふ夜を顕はしぬと見えければ、今夜、明月の会に事を寄せて、佐殿を我が館へ入れ奉り、酒宴の砌にて討ち奉らんと議して、無二の一族若党三百余人催し集め、我が館の傍らにぞ篭め置きける。日暮れければ、竹沢、急ぎ佐殿に参つて、「今夜は明月の夜にて候へば、恐れながら私の茅屋へ御入り候て、草深き庭の月をも御覧候へかし。御内の人々をも慰め申し候はんために、白拍子ども、少々召し寄せて候。」と申しければ、「興ある遊びありぬ{*10}。」と、面々に皆悦んで、やがて馬に鞍置かせ、郎従ども召し集めて、已に打ち出でんとし給ひける処に、「少将の御局より。」とて佐殿へ御消息あり。披きて見給へば、「過ぎし夜に、御事を悪しき様なる夢に見参らせて候ひつるを、夢説き{*11}に問ひて候へば、『重き御慎しみにて候。七日が間は、門の内を御出であるべからず。』と申し候なり。御心得候べし。」とぞ申されたりける。
佐殿、これを見給ひて、執事井弾正{*12}を近づけて、「如何あるべき。」と問ひ給へば、井弾正、「凶を聞きて、慎しまずといふ事や候べき。唯、今夜の御遊びをば止めらるべしとこそ存じ候へ。」とぞ申しける。佐殿、「実にも。」と思ひ給ひければ、「俄に風気の心地あり。」とて、竹沢をぞ帰されける。竹沢は、今夜の企て、案に相違して安からず思ひけるが、「そもそも佐殿の、少将の御局の文を御覧じて止まり給ひつるは、いかさま、我が企てを内々推して告げ申されたるものなり。この女性を生けて置きては叶ふまじ。」とて、明日の夜、ひそかに少将の局を門へ呼び出だし奉りて、刺し殺して堀の中にぞ沈めける。
痛ましいかな、都をば打ち続きたる世の乱れに、荒れのみまさる宮の中に年経て住みし人々も、秋の木の葉の散り散りに、己が様々になりしかば、憑む影なくなりはてて、身を浮草の寄るべとは、この竹沢をこそ憑み給ひしに、何故と思ひわけたる方もなく、見てだに消えぬべき秋の霜{*13}の下に伏して、深き淵に沈められ給ひける今はの際の有様を、思ひ遣るだに哀れにて、よその袖さへ萎れにけり。
その後より竹沢、「我が力にては尚討ち得じ。」と思ひければ、畠山殿の方へ使を立てて、「兵衛佐殿の隠れ居られて候所をば、委細に存知仕つて候へども、小勢にては討ち漏らしぬ{*14}とおぼえ候。急ぎ一族にて候江戸遠江守と下野守{*15}とを下され候へ。彼等によくよく評定して、討ち奉り候はん。」とぞ申しける。畠山大夫入道、大きに悦んで、やがて江戸遠江守とその甥下野守とを下されけるが、「討手を下す由、兵衛佐、伝へ聞かば、在所を替へて隠るる事もあり。」とて、江戸伯父甥が所領、稲毛荘十二郷を闕所になして、則ち給人をぞつけられける。江戸伯父甥、大きに偽り怒つて、やがて稲毛荘へ馳せ下り、給人を追ひ出だし、城郭を構へ、一族以下の兵五百余騎招き集めて、「唯、畠山殿に向ひ、一矢射て討死せん。」とぞ罵りける。
程経て後、江戸遠江守、竹沢右京亮を縁に取つて兵衛佐に申しけるは、「畠山殿、故なく懸命の地を没収せられ、伯父甥共に牢浪の身と罷りなる間、力及ばず一族どもを引率して、鎌倉殿の御陣に馳せ向ひ、畠山殿に向つて一矢射んずるにて候。但し、然るべき大将を仰ぎ奉らでは、勢の附くことあるまじきにて候へば、佐殿を大将に憑み奉らんずるにて候。先づ忍びて鎌倉へ御越し候へ。鎌倉中に当家の一族、いかなりとも二、三千騎あるべく候。その勢をつけて相模国を打ち従へ、東八箇国を押して、天下を覆す謀りごとを巡らし候はん。」と、誠にたやすげにぞ申したりける。
「さしも志深き竹沢が執し申すなれば、疑ふ所にあらず。」と憑まれて、則ち武蔵、上野、常陸、下総の間に内々与力しつる兵どもに、事のよしを相触れて、十月十日の暁に兵衛佐殿は、忍びて先づ鎌倉へとぞ急がれける。江戸、竹沢は、かねて支度したる事なれば、矢口の渡りの船の底を二所ゑり貫いて、のみ{*16}をさし、渡りの向うには宵より江戸遠江守、同下野守、ひた物具にて三百余騎、木の蔭、岩の下に隠れて、余る所あらば討ち止めんと用意したり。後には竹沢右京亮、究竟の射手百五十人すぐつて、取つて帰されば遠矢に射殺さんと巧みたり。
「大勢にて御通り候はば、人の見咎め奉る事もこそ候へ。」とて、兵衛佐の郎従どもをば、かねて皆抜け抜けに鎌倉へ遣はしたり。世良田右馬助、井弾正忠、大島周防守、土肥三郎左衛門、市河五郎、由良兵庫助、同新左衛門尉、南瀬口六郎、僅かに十三人を打ち連れて、更に他人をば交じへず、のみをさしたる船に込み乗つて、矢口の渡りに押し出だす。これを三途の大河とは、思ひ寄らぬぞあはれなる。つらつらこれを譬ふれば、無常の虎に追はれて煩悩の大河を渡れば、三毒の大蛇浮かび出でて、これを呑まんと舌を伸べ、その残害を遁れんと、岸の額なる草の根に命をかけて取り附きたれば、黒白二つの月の鼠がその草の根をかぶるなる、無常の喩へに異ならず{*17}。
この矢口の渡りと申すは、面四町に余りて浪嶮しく底深し。渡守、已に櫓を押して河の半ばを渡るとき、取りはづしたる由にて、櫓櫂を河に落とし入れ、二つののみを同時に抜いて、二人の水手、同じ様に河にかばかばと飛び入つて、うぶに入つてぞ逃げ去りける。これを見て、向うの岸より兵四、五百騎駆け出でて、鬨をどつと作れば、後より鬨を合はせて、「愚かなる人々かな。たばかるとは知らぬか。あれを見よ。」と欺いて{*18}、箙を敲いてぞ笑ひける。さる程に、水、船に湧き入つて腰中ばかりになりける時、井弾正、兵衛佐殿を抱き奉りて、宙に差し揚げたれば、佐殿、「安からぬものかな。日本一の不道人どもにたばかられつることよ。七生まで汝等がために恨みを報ずべきものを。」と大きに怒つて、腰の刀を抜き、左の脇より右のあばら骨まで掻き廻し掻き廻し、二刀まで切り給ふ。
井弾正、腸を引き切つて河中へがばと投げ入れ、己が喉笛二所刺し切つて、自らかうづか{*19}を掴み、己が首を後ろへ折りつくる音、二町ばかりぞ聞こえける。世良田右馬助と大島周防守とは、二人、刀を柄口まで突き違へて、引つ組んで河へ飛び入る。由良兵庫助、同新左衛門は、船の艫舳に立ちあがり、刀を逆手に取り直して、互に己が首を掻き落とす。土居三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎三人は、各、袴の腰引きちぎりて裸になり、太刀を口にくはへ、河中に飛び入りけるが、水の底を潜りて向うの岸へかけ上がり、敵三百騎の中へ走り入り、半時ばかり切り合ひけるが、敵五人討ち取り、十三人に手負はせて、同じ枕に討たれにけり。
その後、水練を入れて、兵衛佐殿並びに自害討死の首十三求め出だし、酒に浸して、江戸遠江守、同下野守、竹沢右京亮五百余騎にて、左馬頭殿のおはします武蔵の入間河の陣へ馳せまゐる。畠山入道、ななめならず悦んで、小俣少輔次郎{*20}、松田、河村を呼び出だしてこれを見せらるるに、「仔細なき兵衛佐殿にておはしまし候ひけり。」とて、この三、四年が先に、数日相馴れ奉りし事ども申し出でて、皆涙をぞ流しける。見る人、悦びの中に哀れを添へて、共に袖をぞぬらしける。
この義興と申すは、故新田左中将義貞の思ひ者の腹に出で来たりしかば、兄越後守義顕が討たれし後も、親父、猶これを嫡子には立てず、三男武蔵守義宗を六歳の時より昇殿せさせて時めきしかば、義興は、あるにもあらず、みなし子にて上野国に居たりしを、奥州国司顕家卿、陸奥国より鎌倉へ攻め上る時、義貞に志ある武蔵、上野の兵ども、この義興を大将に取り立てて、三万余騎にて奥州国司に力を合はせ、鎌倉を攻め落として吉野へ参じたりしかば、先帝{*21}、叡覧あつて、「誠に武勇の器用たり。尤も義貞が家をも興すべき者なり。」とて、童名徳寿丸と申ししを、御前にて元服させられて、新田左兵衛佐義興とぞ召されける。
器量、人にすぐれ、謀りごと巧みに、心飽くまで早かりしかば、正平七年の武蔵野の合戦、鎌倉の軍にも大敵を破り、万卒に当たる事、古今未だ聞かざる処多し。その後、身をそばめ、唯二、三人武蔵、上野の間に隠れ行き給ひし時、宇都宮の清党が三百余騎にて取り篭めたりしも、討ち得ず。その振舞、あたかも天を翔り地を潜る術ありと、怪しき程の勇者なりしかば、鎌倉の左馬頭殿も、京都の宰相中将殿も{*22}、安き心地をばせざりつるに、運命窮まりて短才庸愚の者どもにたばかられ、水に溺れて討たれ給ふ。
かかりし程に、江戸、竹沢が忠功抜群なりとて、則ち数箇所の恩賞をぞ行はれける。「あはれ、弓矢の面目かな。」と、これを羨む人もあり。又、「汚き男の振舞かな。」と爪弾きをする人もあり。竹沢をば、猶も、「謀叛与党の者どもを委細に尋ねらるべし。」とて、御陣に留め置かれ、江戸二人には暇たびて、恩賞の地へぞ下されける。江戸遠江守、喜悦の眉を開きて、則ち拝領の地へ下向しける。
十月二十三日の暮程に、矢口の渡りに下り居て渡りの船を待ち居たるに、兵衛佐殿を渡し奉りし時、江戸が語らひを得て、のみを抜いて舟を沈めたりし渡守が、江戸が恩賞賜ひて下ると聞きて、種々の酒肴を用意して、迎ひの船をぞ漕ぎ出だしける。この船、已に河の中を過ぎける時、俄に天掻き曇りて、雷鳴り水嵐烈しく吹き漲りて、白波、船を漂はす。渡守、あわて騒いで、漕ぎ戻さんと櫓を押して船を直しけるが、逆巻く浪に打ち返されて、水手梶取一人も残らず、皆水底に沈みけり。
「天の怒り、只事に非ず。これはいかさま、義興の怨霊なり。」と、江戸遠江守、怖ぢをののきて、河端より引き返し、「余の処をこそ渡さめ。」とて、これより二十余町ある上の瀬へ、馬を早めて打ちける程に、稲光、行く前に閃きて、雷、大きに鳴りはためく。「在家は遠し、日は暮れぬ。唯今雷神に蹴殺されぬ。」と思ひければ、「御助け候へ、兵衛佐。」と、手を合はせ虚空を拝して逃げたりけるが、とある山の麓なる辻堂を目にかけて、「あれまで。」と馬をあをりける処に、黒雲一叢、江戸が頭の上に落ちさがりて、雷電、耳の辺に鳴り閃きける間、余りの怖ろしさに後ろを屹と顧みたれば、新田左兵衛佐義興、緋縅の鎧に竜頭の五枚兜の緒をしめて、白栗毛なる馬の額に角の生ひたるに乗り、あひの鞭をしとと打つて、江戸を弓手のものになし、鐙の鼻に落ちさがりて、わたり七寸ばかりなる雁俣を以て、かひがね{*23}より乳の下へ、かけずふつと射通さるると思ひて、江戸、馬よりさかさまに落ちたりけるが、やがて血を吐き悶絶躄地しけるを、輿に乗せて江戸が門へ舁きつけたれば、七日が間、足手をあがき、水に溺れたる真似をして、「あら、堪へがたや。これ、助けよ。」と、叫び死にに死ににけり。
有為無常の世の習ひ、明日を知らぬ命の中に、僅かの欲に耽り、情なき事どもを巧み出だし振舞ひし事、月を隔てず因果歴然、忽ちに身に著きぬる事、これ又、未来永劫の業障なり。その家に生まれて箕裘{*24}を継ぎ、弓箭を取るは、世俗の法なれば力なし。ゆめゆめ人は、かやうの思ひの外なる事を好み振舞ふ事、あるべからず。
又、その{*25}明日の夜の夢に、畠山大夫入道殿の見給ひけるは、黒雲の上に大鼓を打つて、鬨を作る声しける間、「何者の寄せ来るやらん。」と怪しくて、音する方を遥かに見遣りたるに、新田左兵衛佐義興、たけ二丈ばかりなる鬼になつて、牛頭馬頭、阿放羅刹ども、十余人前後に随へ、火車を引きて左馬頭殿のおはする陣中へ入るとおぼえて、胸打ち騒いで夢覚めぬ。禅門{*26}、夙に起きて、「かかる不思議の夢をこそ見て候へ。」と、語り給ひける詞の未だ果てざるに、俄に雷火落ち懸かり、入間河の在家三百余宇、堂舎仏閣数十箇所、一時に灰燼となりにけり。
これのみならず、義興討たれし矢口の渡りに、夜な夜な光り物出で来て、往来の人を悩ましける間、近隣の野人村老集まつて、義興の亡霊を一社の神に崇めつつ、新田大明神とて、常磐堅磐の祭礼今に絶えずとぞ承る。不思議なりし事どもなり。
校訂者注
1:底本は、「打徒(うちしたが)へて」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
2:底本頭注に、「良衡。」とある。
3:底本頭注に、「足利基氏。」とある。
4:底本頭注に、「身一つの生計が出来ぬか。」とある。
5:底本頭注に、「〇新田兵衛佐殿 義興。」「〇故新田殿 義貞。」とある。
6:底本は、「其の後(のち)世はの」。『太平記 五』(1988年)に従い改めた。
7:底本頭注に、「心みだれた体で。」とある。
8:底本頭注に、「楊貴妃。」とある。
9:底本頭注に、「兵衛佐義興。」とある。
10:底本頭注に、「遊びありぬべしの意。」とある。
11:底本頭注に、「〇御事 貴方。」「〇夢説 夢の吉凶を判じ説く者。」とある。
12:底本頭注に、「直秀。」とある。
13:底本頭注に、「刀。」とある。
14:底本頭注に、「打漏らしぬべしの意。」とある。
15:底本頭注に、「〇江戸遠江守 堯寛。」「〇下野守 名は能登。」とある。
16:底本頭注に、「栓。」とある。
17:底本頭注に、「命を草の根とし日月を黒白の鼠として世のはかないのを喩ふ。」とある。
18:底本頭注に、「嘲つて。」とある。
19:底本頭注に、「髪束。」とある。
20:底本頭注に、「名は義弘。」とある。
21:底本頭注に、「後醍醐帝。」とある。
22:底本頭注に、「〇鎌倉の左馬頭 足利基氏。」「〇京都の宰相中将 足利義詮。」とある。
23:底本頭注に、「肩胛骨。」とある。
24:底本は、「箕裘(ききう)」。底本頭注に、「家業。」とある。
25:底本は、「又翌夜(あすのよ)」。『太平記 五』(1988年)に従い補った。
26:底本頭注に、「仏門に入つた男子。畠山大夫入道を指す。」とある。