江戸期版本を読む

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舟人馬方鐙屋の庭{*1}

 北国の雪竿、毎年一丈三尺降らぬといふ事なし。神無月の初めより山道を埋づみ、人馬の通ひ絶えて、明けの年の涅槃の頃まではおのづからの精進して、塩鯖売りの声をも聞かず。茎桶の用意、焚き火を楽しみ、隣り向かひも音信不通になりて、半年は何もせずに、明け暮れ煎じ茶にして送りぬ。諸事をかねがね貯へ置きし故に、渇命に及ばざりき。かかる浦山へ、馬の背ばかりにて荷物を取らば、よろづ高直にして迷惑すべし。世に船ほど重宝なる物はなし。
 ここに、坂田の町に鐙屋と言へる大問屋住みけるが、昔は僅かなる人宿せしに、その身才覚にて、近年次第に家栄え、諸国の客を引き請け、北の国一番の米の買ひ入れ、惣左衛門といふ名を知らざるはなし。表口三十間、裏行き六十五間を家蔵に建て続け、台所の有様、目を覚ましける。米、味噌出し入れの役人、薪の請け取り、魚奉行、料理人、椀、家具の部屋を預かり、菓子の捌き、煙草の役、茶の間の役、湯殿役、又は使ひ番の者も極め、商ひ手代、内証手代、金銀の渡し役、入り帳の付け手。諸事、一人に一役づつ渡して、物の自由を調へける。
 亭主、年中袴を着て、少しも腰を伸さず。内儀は軽い衣装をして、居間を離れず、朝から晩まで笑ひ顔して、なかなか上方の問屋とは格別、人の機嫌を取り、身過ぎを大事に掛けける。座敷数限りなく{*2}、客一人に一間づつ渡しける。都にて蓮葉女と言ふを、所詞にて杓と言へる女、三十六、七人。下に絹物、上に木綿の縦縞を着て、大かた今織の後ろ帯、これにも女頭ありて指図をして、客に一人づつ、寝道具上げ下ろしの為に付け置きける。
 十人寄れば十国の客。難波津の人あれば播州網干の人もあり。山城の伏見衆、京、大津、仙台、江戸の人、入り交じりての世間話。いづれを聞きても皆賢く、その一分を捌きかねつるは一人もなし。年寄りたる手代は、我が為になる事をして置く。若い手代は悪所遣ひし過ごし、とかく親方に徳をつけず。これを思ふに、遠国へ商ひに遣ひぬる手代は、律義なる者はよろしからず。何事をも内端に構へて、人の後につきて、利を得る事難し。又、大気にして主人に損掛けぬる程の者は、よき商売をもして、取り過ごしの引き負ひをも埋づむる事早し。
 この問屋に数年、あまた商人かたぎを見及びけるに、初めての馬下りより葛籠を開けて{*3}、都染の定紋付きに道中着る物を脱ぎ替へ、蟇肌取り捨て新しき足袋、草履。鬢撫でつけて、くはへ楊枝。誰にか見すべき采体を繕ひ、「この辺りの名所見に行く。」とて、用を勤めし手代を案内に連れける人、今まで幾人か。して出られしためしなし。
 親方かかりの、程なく親方になる人は、気の付け所、格別なり。ここに着くといなや、面若い者に近寄り、「いよいよ後月中頃の書状の通りと、相場変はりたる事はないか。所々で気色は変はるものにて、日和見定め難く、あの山の雲立ちは二百日を待たずに風とは、御覧なされぬか。」「当年の紅の花の出来は。」「青苧は何程。」と、いる事ばかりを尋ね、干鮭の抜け目のない男、間なく上方の旦那殿より身代よしとなられける。いづれ、物には仕様の有る事ぞかし。
 この鐙屋も、武蔵野の如く広う取りしめもなく、問屋長者に似て、いづくに内証危なかりしは、定まりし貢銭取るをまだるく、手前の商ひをして大方は仕損じ、損をかけぬるものぞかし。問屋一片にして、客の売り物買ひ物大事に掛くれば、何の気遣ひもなし。
 惣じて問丸の内証、脇よりの見立てと違ひ、思ひの外、諸事、もののいる事なり。それを実体なる所帯になせば、必ず衰微して家久しからず。年中の足り余り、元日の五つ前ならでは知れず。常には算用のならぬ事なり。鎧屋も仕合せの有る時、来年中の台所物、前年の{*4}極月に調へ置き、それより年中取り込み金銀を、長持に落とし穴を開けてこれに打ち入れ、十二月十一日、定まつて勘定を仕立てける。確かなる買ひ問屋、銀を預けても夜の寝らるる宿なり。

【口訳】
 北国の雪は、雪竿によれば、毎年一丈三尺降らぬといふ事はない。十月の初めから山道を降り埋づめ、人馬の交通が絶えて、翌年の涅槃会の頃まではやむを得ず精進して、塩鯖売りの声さへも聞かない。茎桶{*5}の用意をしたり、焚き火を楽しんだりして、隣り、向かひも音信不通になり、半年は何もせずに、明け暮れ煎じ茶を飲んで送る。でも、色々の食料をあらかじめ貯へて置くので、飢渇に及ぶ事はない。かやうな浦里へ馬上ばかりの荷物を取り寄せたら、すべて高値になり困るであらう。世に船ほど便利な物は他にない。
 ここに、酒田の町に鐙屋といふ大問屋が住んでゐたが、昔は貧弱な宿屋をしてゐたが、その身の才覚で近年次第に家が栄え、諸国の客を引き受け、北国一番の米の買ひ入れ問屋となり、惣左衛門といふ名を知らぬ者はない。表口三十間、裏行き六十五間ほどの屋敷を、家や蔵で建て続け、台所の有様は素晴らしいものである。即ち、米、味噌の出し入れの役人、薪の受け取り人、魚奉行、料理人、椀、家具の部屋を預かる役、菓子の取り捌き役、煙草盆の役、茶の間の役、湯殿役、又は使ひ番の者も定め、商ひ手代、内証手代、金銀の渡し役、入り帳の記入役等、一人につき一役づつ受け持たせて、事務の円滑を図つた。
 主人は年中、袴を着て、少しも腰を伸ばさず{*6}、内儀は身軽な衣装して、居間を離れず、朝から晩まで笑ひ顔して、なかなか上方の問屋とは格別違つたもので、人の機嫌を取り、家業を大事に心掛けるのであつた。座敷は無数にあつて、客一人に一間づつあてがふのであつた。都で蓮葉女{*7}と言ふのを、所言葉では杓と言つてゐるが、それが三十六、七人もあつて、下には絹物、上には木綿の縦縞を着て、大かた今織金襴の後ろ帯{*8}をしてゐる。これにも女頭があつて指図をなし、客に一人づつ、寝道具の上げ下ろしの為に付けるのであつた。
 世話に言ふ如く、「十人寄れば十国の客。」で、大阪の人もあれば播州網干の人もあり、山城の伏見衆、京、大津、仙台、江戸の人々が、入り交じつて世間話をしてゐるのは、どれを聞いても皆抜け目がなく、その受け持ちの商売を埒明け得ない者は一人もない。年寄つた手代は自分の為になる事をしておくものだ。若い手代は悪所遣ひ{*9}をし過ごし、とかく主人に儲けを得させない。これを思ふに、遠方へ商ひに遣る手代は、実直な者はよろしくない。かやうな手代は何事も控へ目にして、人の後について商ふので、利を得る事が難しい。又、気が太くて主人に損かける程の者は、一方にうまい商売をもして、取り込んだ借銭をも埋める事が早いものだ。
 この問屋では数年来、多くの商人気質を見来つたのであるが、初めてここに着いて馬を下りた時から、はや、葛籠開けて都染の定紋付きに道中着物を脱ぎ替へ、蟇肌{*10}の足袋を取り捨てて、新しい足袋に草履を履き、鬢撫でつけて楊枝をくはへ、誰に見せようかといふめかしぶりで{*11}、「この辺の名所を見に行く。」と言つて、用を勤めてゐる手代を案内に連れるやうな客がよくある。かやうな人は今まで幾人出世されたか{*12}。ほとんどその例がない。
 主人持ちが程なく主人になるやうな人は、気の付け所が違ふ。ここに着くやいなや、若い者に近寄り、「相場は前月中頃の書状の通りと違ふ事は、確かにないか。所々で空模様は変はるもので、日和が見定め難いが、あの山の雲の立ち方には、二百日を待たずに風が吹くとは御覧なされぬか。」「今年の紅花の出来ばえは。」「青苧{*13}はいくらの相場か。」と、入り用な事だけを尋ね、干し鮭{*14}の如く抜け目のない男で、間もなく上方の主人殿よりも身代よしとなられたものだ。とにかく物事にはやり方のあるものだ。
 この鐙屋も、武蔵野の如く{*15}手広く引き締まるところもなく、世話にも言ふ如く、問屋は長者に見えるが{*16}、どこの国でも問屋の生計が危なくなるわけは、一定の口銭を取る家業をまだるく思ひ、自分勝手な商ひをして大抵は失敗し、客に損をかけるからだ。問屋の家業を専一にして、売り物買ひ物を大切に心がければ{*17}、何の心配もないものだ。
 いつたい問屋の暮らし向きは、外からの観察とは違つて、思ひのほか諸事につけ、費用のいるものだ。それだからとて、実直な営業ぶりになせば必ず衰微して、遠からず潰れるものだ。一年中の残高は、元日の朝八時前でなくてはわからない{*18}。平生は収支の決算はできないものだ。鎧屋も儲けのあつた時は、来年中の台所物を前年の十二月に買ひ調へておき、その後は一年中受け入れる事ばかりとし、その金銀をば、長持に落とし穴を開けてこれに打ち入れ、十二月十一日、定まつて決算を作り上げるのであつた。かやうに確かな買ひ問屋で、銀を預けても夜寝られる宿である。

【批評】
 本篇は、鐙屋といふ米買ひ入れ問屋の大仕掛けな営業ぶりを語るものであるが、それは全篇の五分の二で、他はこの問屋の客の口を借りて、世相人心を述べてゐる。手代気質の実相が鋭く捉へられてをり、問屋の実情や商売ぶりがよく写されてゐる。本篇は、鐙屋の繁昌ぶりを述べてはゐるが、むしろこの問屋の大仕掛けな組織、例へば、それぞれ分業的になつてゐる役目を列挙するやうなところは、西鶴の得意とする点で、越後屋の分業的な店先を描いてゐるのと似てをり、かやうな描写をなすところが特色の一つであつて、致富の道を述べるよりも、事実の姿を描くところに価値がある。

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校訂者注
 1:底本語釈に、「〇舟人(ふなひと)馬(むま)方鐙屋(あぶみや)の庭(には) 諺『船頭馬方御乳の人。』(横暴な意)をふまへた。」とある。
 2:底本は、「かぎりなく」。『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
 3:底本は、「あげて」。底本語釈及び『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
 4:底本は、「前(まへ)年極月」。『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
 5:底本語釈に、「〇茎桶(くきをけ) 茎漬けの桶。野菜の茎、根などを塩漬けにしておく桶。」とある。
 6:底本語釈に、「〇のさず 伸ばさない。腰を伸さずとは、腰をかがめて客に応接しながら絶えず働くさま。」とある。
 7:底本語釈に、「〇蓮葉女(はすばをんな) 京阪地方の問屋の下女。」とある。
 8:底本語釈に、「〇後帯(うしろおび) 後ろで帯を結ぶ事。従来、女は老若共に前帯であつたが、延宝頃から、若い女の間に後ろ帯が流行し始めたのである。」とある。
 9:底本語釈に、「〇悪(あく)所つかひ 悪所(あくしよ)づかひ。遊里で金を使ふこと。」とある。
 10:底本語釈に、「〇皺皮(ひきはだ) 蟇肌(ひきはだ)の義で、皺のある革。ここは道中用の革足袋の一種である綱貫沓(つなぬきぐつ)であらう。雪沓の一つで、牛革製である。」とある。
 11:底本語釈に、「〇采体(とりなり) 風采。」とある。
 12:底本語釈に、「〇して出られし 稼ぎ出された。『られ』は敬語の助動詞。大した人でもない者に敬語を使ふのは西鶴の筆ぐせで、又滑稽味ある所以の一つ。」とある。
 13:底本語釈に、「〇青苧(あをそ) 麻の皮。当時は最上地方が第一の産地で、奈良晒布の原料となつた。」とある。
 14:底本語釈に、「〇干鮭(からさけ) 鮭の腸を除いて素干しにしたもの。干鮭は北国の産であり、眼球は付いたままになつてゐるので、『抜け目のない』の飾りとして書いた。」とある。
 15:底本語釈に、「〇武蔵野のごとく 武蔵鐙(あぶみ)といふ鐙があるので、鐙屋の鐙の縁としても、武蔵野を持ち出した。。」とある。
 16:底本語釈に、「〇問(とひ)屋長者に似(に)て 諺『問屋、長者に似たり。』に拠る。諺の意は、問屋は貨物が輻輳し、手代丁稚も多く、賑やかに外観は見えるので、富豪に似てゐるといふ事。」とある。
 17:底本は、「心がくれば」。
 18:底本語釈に、「〇五つ前(まへ) 一年中の収支の決算が、大みそかから夜を徹して、元日の明け方までかかるのである。」とある。

天狗は家名の風車{*1}

 智恵の海広く、日本の人の働きを見て、身過ぎにうとき唐楽天が逃げて帰りし事の可笑し。詩を歌ふは耳遠く、横手節といへる小歌の出所を尋ねけるに、紀の路大湊泰地といふ里の妻子の歌へり。この所は繁昌にして、若松叢立ちける中に鯨恵比須の宮を斎ひ、鳥居にその魚の胴骨立ちしに、高さ三丈ばかりも有りぬべし。
 目馴れずしてこれに興さめて、浦人に尋ねければ、この浜に鯨突きの羽指しの上手に天狗源内と言へる人、毎年、「仕合せ男。」とて、昔この人を雇ひて舟を仕立てけるに、或る時、沖に一叢、夕立雲の如く潮吹きけるを目がけ、一の銛を突きて風車のしるしをあげしに、又、天狗とは知りぬ。諸人、浪の声を揃へ、笛、太鼓、鉦の拍子を取つて、大綱つけて轆轤に巻きて磯に引き上げけるに、そのたけ三十三尋二尺六寸。せみと言へる大鯨、前代の見始め。七郷の賑ひ、竈の煙立ち続き、油を絞りて千樽の限りもなく、その身、その皮、鰭まですたる所なく、長者に成るはこれなり。切り重ねし有様は山なき浦に珍しく、雪の富士、紅葉の高雄ここに移しぬ。
 いつとても捨て置く骨を、源内、貰ひ置きてこれをはたかせ、又{*2}油を採りけるに、思ひの外なる徳より分限に成る{*3}。末々の人の為、大分の事なるを、今まで気の付かぬこそ愚かなれ。近年工夫をして鯨網を拵へ、見つけ次第に取り損ずる事なく、今、浦々にこれを仕出しぬ。昔日は浜庇の住まひせしが、檜造りの長屋。二百余人の漁師を抱へ、舟ばかりも八十艘。何事しても図に乗つて、今は金銀うめきて、遣へど後は減らず。根へ入りての内証よし、これを楠木分限と言へり。
 「信あれば徳あり。」と、仏に仕へ神を祭る事、おろかならず。中にも西の宮を有り難く、例年正月十日{*4}には人より早く詣でけるに、一年帳綴ぢの酒に前後を忘れ、やうやう明け方より、手船の二十挺立ちを押し切らせ行くに、いつの年より遅き事を何とやら心がかりに思ひしに、年男の福太夫といふ家来、子細らしき顔付きして申し出せしは、「二十年以来、朝恵比須に参り給ふに、当年は日の入り。旦那の身代も提灯ほどな火が降らう。」と、思ひも寄らぬあだ口。
 いよいよ気を背きて脇差に手は掛けしが、「ここが思案。」と収めて、「春の夜の闇を、提灯なしには歩かれじ。」と、足を伸ばし胸をさすりて苦笑ひの中に、早船、広田の浜に着きて、心静かに参詣せしに、松原寂しく御灯の光幽かに、皆下向ばかりにて、参るは我より外になく、心をせきて、神前になれば「お神楽。」と言へど、社人は車座に居て銭繋ぎかかり、誰の彼のとかによひ合ひ、舞姫の後にて鼓ばかり打ちてそこそこに埒明け、鈴も遠いから頂かせて仕舞はれける。
 神の事ながら少し腹立ちて、大方に廻りて又舟に取り乗り、袴も脱がず浪枕して、いつとなく寝入りけるに、後より恵比須殿、烏帽子の脱げるも構はず、玉襷して袖まくり、片足上げて岩の鼻から船に乗り移らせ給ひ、あらたなる御声にて、「やれやれ、よい事を思ひ出してゐてから、忘れたは。この福をいづれの漁師なりとも、機嫌に任せ語り与ようと思ふに、今の世の人心せはしく、我が言ふ事ばかり言うて、ざらざらと立ち行けば、何を言うて聞かす間もなし。遅く参りて汝が仕合せ。」と耳たぶに寄らせられ、ささやき給ふは、「魚島時に限らず、生け船の鯛を、いづくまでも無事に着けやう有り。弱りし鯛の腹に、針の立て所、尾先より三寸程前を、尖りし竹にて突くといなや、生きてはたらく鯛の療治。新しき事ではないか。」と語り給ふと夢覚めて、「これは世のためしぞ。」と御告げに任せけるに、案の如く鯛を殺さず。これに又利を得て、仕合せのよい時津風、真艫に舟を乗りける。

【口訳】
 海のやうに智恵の多い日本人の働きを見て、渡世に疎い支那の楽天が逃げ帰つた事{*5}の可笑しさよ。詩を歌ふのは聞いてもわかりにくいもので、やはり日本の歌が面白い。横手節といふ小歌の出所を尋ねてみると、紀伊の国の大湊である、泰地といふ村の妻子どもが歌つてゐると言ふ。この所は賑やかな所で、若松の林の中に鯨恵比須の宮を祭り、鳥居に鯨の胴骨{*6}が立つてゐるが、高さは三丈ばかりもあらう。見馴れないので、びつくりして浦人に尋ねたところが、次のやうに話した。
 この浜に、鯨突きの羽刺しの上手に天狗源内と言つた人があつたが、毎年、「運のよい男だ。」と言ふので{*7}、昔、この人を雇つて鯨舟を編成したが、或る時、沖に一叢、夕立雲の如く潮吹くのを認め、一の銛を突き当てて風車の旗印を掲げたところが、「今度も源内だな。」と人々は知つた。舟人は、浪音に掛け声を揃へ、笛、太鼓、鉦の拍子を取りながら、太綱をつけて轆轤{*8}に巻き、磯に引き上げたところが、そのたけ三十三尋二尺六寸もあり、せみと言ふ大鯨で、昔から初めての見ものである。これが為、近郷の村々は賑ひ、竈の煙が立ち続き、油を採つたが千樽以上に及び{*9}、その肉、その皮、鰭まですたる所が無く、長者に成るのはこの鯨の為である。切り重ねた有様は、山のない浜に雪の富士が聳え、紅葉に名高い高雄{*10}をここに移したやうであつた。
 獲れた度にいつも捨てておいた骨を、源内は今度貰ひ置きて、これを搗き砕かせ、また油を採つたところが、案外な利益を得た為に、分限と成つた。下々の人にとつて大分の利益となるのに、今まで人々が気の付かなかつた{*11}のは、愚かであつた。近年工夫をして鯨網を拵へ、見つけ次第に取りそこなふ事がなく、今では浦々にこれをし始めた。この源内は、以前は浜の貧弱な家に住んでゐたが{*12}、檜造りの長屋を建て、二百余人の漁師を雇ひ、舟だけでも八十艘あり、何事しても仕合せよく、今は金銀がうめくほど溜まり、いくら遣つても後が減らず、根底深い身代よしとなつてゐる。こんなのを楠木分限と言ふ{*13}。
 「信あれば徳あり。」と思つて、仏に仕へ神を祭る事がおろそかでない。中にも西の宮を信心して、毎年正月十日には人よりも早く参詣してゐたが、或る年、帳綴ぢ{*14}の祝ひ酒に前後不覚となり、やつと明け方から手船の二十挺立ちを仕立て、浪を押し切らせて行くに、いつもの年より遅い事を何だか気がかりに思つてゐたところ、年男{*15}の福太夫といふ下男が、分別らしい顔つきをして申し出すには、「二十年この方、朝恵比須にお参りなさるに、今年は日暮れにならう。旦那の身代も、今に提灯ほどな火が降らう{*16}。」と、思ひも寄らぬ冗談を叩いた。
 いよいよ癪にさはつて、脇差に手は掛けたが、「ここが分別どころだ。」と気を落ちつけ、「春の闇夜を提灯なしには歩かれまいよ。」と言つて、両足を伸ばし怒りの胸をさすつて苦笑してゐる内に、早船{*17}が広田の浜に着いたので、心静かに参詣したところが、松原は寂しく、御灯明の光はほの暗く、皆帰る人ばかりで、参る人は自分らより外に無く、気をせいて神前に至り、「御神楽を奉納致したい。」と言つたが、社人らは車座になつて銭を繋ぎ始め、誰がやれの彼がやれのと譲り合ひ{*18}、やつと引き受けたが、舞姫の後ろで鼓ばかりを打つて急いで片付け、鈴も遠い所から頂かせて仕舞はれた{*19}。
 神の事ではあるが、少し腹が立つて、末社もざつと廻つて又舟に乗り、袴も脱がずに横になり、いつの間にか眠つたところ、後から恵比須殿が、烏帽子の脱げるのも構はず、襷がけして袖をまくり、片足上げて岩の端から船にお乗り移りになつて、あらたかな御声で、「やれやれ、よい事を思ひ出してゐながら忘れたは。この福をどの漁師でも、都合次第に伝授しようと思ふのに、今の者は性急で、自分の願ひ事ばかり言うて、さつさと出て行くので、何を言ひ聞かせる間もない。遅く参つて、そちはかへつて仕合せぢや。」と耳たぶに寄らせられて、ささやきなさるには、「魚島時に限らず、生け船{*20}の鯛をどこまでも無事に着ける法がある。弱つた鯛の腹に、針の立て所は尾先から三寸程前を、尖つた竹で突くや否や、生きてはたらくといふ鯛の療治法ぢや。奇抜な事ではないか。」と見て、夢が覚めた。「これは奇特な事だ{*21}。」と、御告げに随ひ、やつてみたところが、案の如く鯛を殺さずに運べた。これにまた利を得て仕合せよく、順風を真艫に受けて舟を乗り出す如く、繁昌した。

【批評】
 今までの話は、都市に場面を採つてゐたのに、これは南海の漁村。殊に捕鯨事業を背景にしてゐるので、目先が変はつてゐて、読者に清新な感興を与へる。やはり写実の態度は失はないのであるが、殊に西の宮参詣の一件は、小説らしい構想。初めを「智恵の海広く」と書き出し、終はりを「仕合のよい時津風、真艫に舟を乗りける。」と結んでゐるのも、海岸を舞台にした作に対して、ふさはしい首尾である。

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校訂者注
 1:底本は、「天狗は家な風車」。底本語釈に従い改めた。底本語釈に、「天狗風(旋風)をふまへた 。」とある。
 2:底本は、「はたかせ、油(あぶら)を」。『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
 3:底本は、「成。」。底本語釈に、「〇成 成り。」とある。『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
 4:底本は、「七月十日」。底本語釈及び『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
 5:底本語釈に、「〇身過(みすぎ)にうとき 楽天は詩人だから、かく言ふ。」「〇逃げて帰りし事 謡曲『白楽天』に拠る。」とある。
 6:底本語釈に、「〇胴骨(どうほね) どうぼね。あばら骨の付いた脊柱。」とある。
 7:底本語釈に、「〇羽指(はさし) 早刺(はやさし)の義で、銛を素早く投げて鯨を突き刺すのを任務とする。」「〇天狗源内 天狗といふのは、源内の銛の早業を褒めて、つけたあだ名から来たものであらう。敏捷な事を『天狗の失敗。』などと諺に言ふ。」「〇仕合男(しあはせをとこ) 運のよい男。ここは、鯨に銛をよく当てる男。」とある。
 8:底本語釈に、「〇轆轤(ろくろ) 綱で物を引き寄せる滑車で、鯨の肉塊を引き寄せる巻き轆轤。海岸にある。」とある。
 9:底本語釈に、「〇竈(かまど)の煙(けふり)立(たち)つゞき 鯨の皮肉骨等を、細かく切つて大釜に入れ、煎じて油を採るので、かく言ふ。又、村人の富む意をも含めた。」「〇油(あぶら) 鯨油(げいゆ)。江漢の西遊日記『瀬美鯨、十間余の物。油二百樽、金にして四百両なり。鯨に廃る所なし。』」とある。
 10:底本語釈に、「〇雪(ゆき)の富士(ふじ) 皮と肉との間にある脂肪層は。色が白い。それの堆積した形容。」「〇紅葉(もみぢ)の高雄(たかを) 鯨の肉は暗紅色。高雄山は京の西北郊にあり、紅葉の名所。」とある。
 11:底本は、「気のつかなつた」。
 12:底本語釈に、「〇浜(はま)びさし 浜廂。浜辺に建ててある苫廂。苫廂は、菅、茅などで屋根を葺いたもの。浜の苫屋。」とある。
 13:底本語釈に、「〇楠木分限(くすのきふんげん) 基礎の固い富豪。楠の木の根は深く土中に入り、四方にはびこるものである。」とある。
 14:底本語釈に、「〇帳縫(ちやうとぢ) 商家に於いて帳簿を新しく綴ぢて祝ふ事。正月四日には物価を記入する帳簿を綴ぢて祝ひ、同月十一日には年中売買の帳簿を綴ぢて祝ふ。十一日の帳祝ひは、十日にも行はれた。」とある。
 15:底本語釈に、「〇年男(としをとこ) 新年の雑務を務める男。」とある。
 16:底本語釈に、「〇挑灯程な火がふらふ 火が降るとは生計の苦しい事。『日の入』とあるので、闇にも縁のある提灯を持ち出した。」とある。
 17:底本語釈に、「〇早船(はやふね) 小早を言ふ。」とある。
 18:底本語釈に、「〇兼(かによ)ひあひ 互に憚り合ふ事。」とある。
 19:底本語釈に、「〇鼓(つゞみ)ばかり 笛、銅拍子などあるのだけれども、ものぐさくて鳴らさないのである。」「〇いたゞかせて 実際ならば、息災延命の為、鈴を参拝者の頭上で舞姫が振るのだが、これもうるさがつて、遠い所からその型だけを示すのである。」「〇仕舞(しまは)れける 終はりとなさつた。」とある。
 20:底本語釈に、「〇魚島時(うをしまとき) うをしまどき。明石海峡に於いて、春季最も多く鯛の漁獲される頃。」「〇生船(いけふね) いけぶね。生きた魚を養つておく水槽(みづぶね)。」とある。
 21:底本語釈に、「〇世(よ)の例(ためし) 世に無き例。」とある。

才覚を笠に着る大黒{*1}

 一に俵、二階造り、三階蔵を見渡せば、都に大黒屋と言へる分限者有りける。富貴に世を渡る事を祈り、五條の橋、切り石に架け替はる時、西詰より三枚目の板を求め、これを大黒に刻ませ、信心に徳あり。次第に栄え、家名を大黒屋新兵衛と知らぬ人はなかりき。
 男子三人無事に育て、いづれも賢く、親仁喜び老後の楽しみを極め、追つつけ隠居の支度をせしに、惣領の新六、俄に金銀を費し、算用なしの色遊び。半年たたぬに百七十貫目、入り帳の内見えざりしに、とても埒の明かざる僉議なれば、手代、一つに心を合はせ、買ひ置きの有り物に勘定仕立て、七月前をやうやうに済まし、「向後、奢りを止め給へ。」と異見さまざま申せしに、更に聞き入れずして、その年の暮れに又二百三十貫目足らず。今は内証に尾が見えて、稲荷の宮の前に知るべの人ありて、身を隠しぬ。
 律義なる親仁、腹立せられしを、色々詫びても機嫌直らず。町衆に袴着せて旧里を切つて、子を一人捨てける。されば、親の身としてこれ程までうとまるる事、大方ならぬ悪心なり。新六、是非もなき仕合せ、はや当分の借り屋にも居られぬ首尾になりて、ここを立ち退き、東の方へ行く道の草鞋銭とてもなく、「悲しさは{*2}我が身一つ。」と歎くに甲斐もなし。
 頃は十二月二十八日の夜、水風呂に入りしを、「それ、親仁様。」と言ふ声恐ろしく、濡れ身に綿入一つ肩に掛け、左に帯を提げて、下帯には気を付けずして逃げ延び、今日旅立つにも尻からげ気の毒。二十九日の空定めなく、溜まりもやらぬ白雪の、藤の森の松に降りしこりて、菅笠なしの首筋に入相の鐘も胸に響きて、大亀谷、勧修寺の茶屋の奇麗に湯釜のたぎるを好もしく、「堪へ難き寒さを凌ぐ物よ。」と思ひながら、一銭も無ければ腰掛けを見合はせ、大津、伏見駕籠の立ち続き、大勢のどさくさ紛れに咽の渇きをやめ、立ちさまに人の脱ぎ捨てし豊嶋莚を外し、初めて盗み心になつて行くに、小野といふ里に着きぬ。
 落ち葉して梢寂しき柿の木の蔭に、童友達の集まりて、「惜しや。弁慶が死にける。」と悔むを聞けば、特牛ほどなる黒犬なるを、立ち寄りてこれを貰ひ、かの莚に包み、音羽山の麓に行きて、野に鍬使ふ男を招き、「これは、疳の妙薬になる犬なり。三年余り種々の薬を与へ、今、黒焼になす。」と言へば、「さては、諸人の為ぞ。」と辺りの柴、枯れ笹を集め、火打袋を取り出し、煙の種となし、里人にも僅かに取らせ、残るを肩に置きて、山家の作り言葉になりて、「狼の黒焼は。」と声の可笑しげに売りて、行くも帰るもの関越えて、知るも知らぬもに突き付け商ひ。ずいぶん道中の人に馴れたる心の針屋、筆屋騙られて、追分より八丁までに五百八十が物、代なして、まづは才覚男。
 「この取り廻しが京にて出れば、遠い江戸までは行かずに済む事を。」と心ながら泣いつ笑うつ、勢田の長橋、末に頼みを掛けて草津の人宿にて年を取り、姥が餅を昔の鏡山に見なし、やがて心の花も咲き出る桜山。色も香も有る若盛り、稼ぐに追ひ着く貧乏神は、足弱き老曽の森の注連飾りもおのづからに春めきて、秋見る月も頼もしく、不破の関戸の明け暮れ、美濃路、尾張を過ぎて東海道の在々廻り、都を出て六十二日目に品川に着きぬ。
 これまでの口を過ぎ、銭二貫三百延ばし、売り残せし黒焼きを磯浪に沈めて、それより江戸入りを急ぎしに、暮れて、行く当てどもなければ、東海寺門前に一夜を明かしけるに、その片蔭に薦かぶりて非人あまた臥しけるが、春も浦風荒く浪枕の騒がしく、目の合はぬ夜半まで身の上の事ども物語するを聞くに、皆、筋なき乞食。
 一人は大和の龍田の里の者。「少しの酒造りて、六、七人の世を楽々と送りしに、次第に溜まりし金銀取り集めて百両になる時、所の商ひまだるく、万事うち捨てここに下るを、一門残らず、親しき友の色々申して止めける。我が無分別盛んに任せ、呉服町の肴棚借りて、上上吉諸白の軒並びには出しけれども、鴻の池、伊丹、池田、南都。根強き大木の杉の香りに及び難く、酒元手を皆、水になして、四斗樽の薦を身にかぶりて、古郷の龍田へ紅葉の錦は着ずとも、せめて新しき木綿布子なれば帰るに。」と男泣きして、「これにつけても、仕付けたる事をやめまじきものぞ。」と言ふ程よろしからず。よい智恵の出時、もはや遅し。
 又一人は泉州堺の者なりしが、よろづに賢過ぎて、芸自慢してここに下りぬ。手は平野仲庵に筆道を許され、茶の湯は金森宗和の流れを汲み、詩文は深草の元政に学び、連俳は西山宗因の門下と成り、能は小畠の扇を請け、鼓は生田与右衛門の手筋。朝に伊藤源吉に道を聞き、夕に飛鳥井殿の御鞠の色を見、昼は玄斎の碁会に交じはり、夜は八橋検校に弾き習ひ、一節切は宗三に弟子となりて息使ひ、浄瑠璃は宇治嘉太夫節。踊りは大和屋の甚兵衛に立ち並び、女郎狂ひは島原の大夫高橋にもまれ、野郎遊びは鈴木平八をこなし、騒ぎは両色里の太鼓に本粋になされ、人間のする程の事、その道の名人に尋ね覚え、「何をしたればとて、人の中には住むべきものを。」と腕頼みせしが、かかる至り穿鑿、当分身過ぎの用には立ち難く、十露盤を置かず秤目知らぬ事を悔しがりぬ。武士勤めは勝手を知らず、町人奉公もおろかなりとて追ひ出され、今この身になりて思ひ当たり、諸芸の代はりに身を過ぐる種を教へ置かれぬ親達を恨みける。
 今一人は、親から江戸の地生えにて、通り町に大屋敷を持ちて、一年に六百両づつ定まつての棚賃を取りながら、始末の二字を弁へなく、その家まで売り果たし、身の置き所なく、心の燃ゆる火宅を出て、車善七が仲間外れの物貰ひとなりぬ。
 思ひ思ひの身の上物語、さりとては同じ思ひに哀れ深く、新六、枕に立ち寄り、「我等も京の者なるが、旧里切られて御江戸を頼みに下りけるが、各々話を聞くに、心細し。」と恥を包まず申せば、三人ともに口を揃へて、「詫び言の手立てはあらずや。」「をば様もないか。」「何とぞ下り給はぬがよいものを。」と言ふ。「はや、後へ帰らぬ昔。今から先の思案なり。さて、面々の利発にて、かく浅ましく成り給ふは不思議なり。何事を見立て給ひても有るべき。」と言へば、「いかないかな。この広き御城下なれども、日本のかしこき人の寄り合ひ。銭三文あだには儲けさせず。只、銀が銀を溜める世の中。」と言へり。
 「久しく見及び給ふ内に、商ひの仕出しは無きか。」と尋ねしに、「されば、大分にすたり行く貝殻を拾ひて、霊岩嶋にして石灰を焼くか。」「物事忙しき所なれば、刻み昆布、花鰹かきて量り売りか。」「続き木綿を買うて手拭の切り売りか。」「かやうの事ならでは、軽い商売有るまじ。」と言ふにぞ智恵付き、夜の明け方に立ち別れけるが、三人に三百の置き銭。悦ぶ事限りなく、「御仕合せ見えて、富士山程の金持ちに。今の事ぞ。」と申しける。
 それより伝馬町の太物棚に知るべ有りて尋ね行き、この度の子細を語れば、哀れをかけ、「男の働くべき所はここなり。一稼ぎ。」と言ふにぞ力を得て、思ひ入れの木綿を調へ、切り売りの手拭。しかも三月二十五日、初めて下谷の天神に行きて、手水鉢のもとにて売り出しけるに、参詣の人、「買うての幸ひ。」と一日に利を得て、毎日これより仕出して、十ケ年たたぬ内に五千両の分限に指され、「一人の才覚者。」と言はれ、新六が指図を受けて所の人の宝とは成りける。暖簾に菅笠着たる大黒を染めければ、笠大黒屋と言へり。八つ屋敷方に出入り、九つ小判の買ひ置き、十で丁ど治まりたる、御代に住める事のめでたし。

【口訳】
 一に俵、二階造り、三階蔵を見渡せば{*3}、これぞ都に名高い分限者大黒屋である。富裕に暮らす事を願ひ、五條の橋が切り石に架け替はる時、西詰から三枚目の橋板を求め、これを大黒の像に刻ませ、信心すれば徳があり{*4}、次第に繁昌し、屋号を大黒屋新兵衛と言つて、知らぬ人はなかつた。
 男子三人を無事に愛育し、どれも賢いので親爺は喜び、老後の楽しみを極め、やがて隠居の準備をした。ところが長男の新六が俄に金銀を遣ひ出し、算用構はぬ傾城狂ひをやり、半年たたぬ内に、入り帳締高の内、百七十貫目の現銀が足らなかつた{*5}。これを取り調べたところで到底片付かぬ事なので、手代たちも新六と一緒に心を合はせ、買ひ置きの在庫品で計算の合ふやうに拵へ立て、盆前をやつと済まし{*6}、「以後、放蕩をやめなさい。」と手代たちは、異見さまざま申したが、少しも聞き入れないで、その年の暮れに又二百三十貫目足らなかつた。今は内情が暴露して{*7}、稲荷の宮の前に知る人があつて、そこに身を隠した。
 実直な親爺も、とうとう腹を立てられたのを、色々お詫びしても機嫌が直らず、町衆に袴を着けて付き添つて貰ひ、町奉行所に願ひ出て勘当の処分をして{*8}、子を見捨てた。しかるに親の身として、これ程までに子をうとんじなさるのは、並大抵でない怒りがあるからだ。新六も仕方がない事になり、はや当分の借り屋にも居られぬ始末となつて、ここを立ち退き、江戸の方に行く事にしたが、道中の草鞋銭さへもなく、「我が身一人が悲しい。」と歎いても、今さら甲斐もない。
 頃は十二月二十八日の夜、水風呂{*9}に入つてゐたが、「それ、親爺様だ。」と言ふ声が恐ろしく、濡れ身に綿入一つを肩に引つ掛け、左に帯を提げ、褌には気を付けずに逃げ延びたので、今日旅立つにしても、尻からげするには困つた。二十九日の空模様は定めなく、積もる程でもない白雪が、藤の森の松林に降りまさつて、菅笠なしの首筋に入り、夕べを告げる鐘の音も胸にしみながら、大亀谷、勧修寺に来ると、茶屋の綺麗に{*10}湯釜のたぎるのがおいしさうで、「あれは堪へ難い寒さをしのぐものよ。」と思ひながら、一文も無いので腰掛けるのを見合はせ、大津、伏見駕籠{*11}が立ち続いて、大勢の者が入り込むどさくさ紛れに一杯飲んで、咽の渇きをなほし、立ちしなに人の脱ぎ捨ててゐる豊嶋莚を外し取り{*12}、初めて盗み心になつて行くと、小野といふ村に着いた。
 落葉して梢寂しい柿の木の蔭に、子供仲間が集まつて、「あつたら、弁慶が死んだ。」と悔むのを聞けば、特牛{*13}ほどの大きな黒犬であるので、立ち寄つてこれを貰ひ受け、かの莚に包み、音羽山の麓に行つて、野良に鍬打つ男を招き、「これは、疳の妙薬になる犬ぢや。三年余り色々の薬を与へ、今、黒焼きにしようと思ふところぢや。」と言へば、「それは人様の御為になりますぞ。」と言つて、辺りの柴、枯れ笹を集め、火打袋を取り出して焼いてくれたので、新六は村の人にも少し与へ、残りを肩に掛けて、山男の訛りに似せて、「狼の黒焼きは要りませんか。」と、おかしな声で売り歩き、逢阪の関を越え、知る人も知らぬ人にも押し売りをしたが、ずいぶん道中の人に馴れたずるい針売り{*14}筆売りさへも、これに騙られて、追分から大津の八町までに五百八十文ほど売つて{*15}、まづは才覚男となつた。
 「この工夫が京で浮かんだら、遠い江戸までは行かずに済んだのに。」と、心の中に泣いたり笑つたりして、瀬田の長橋{*16}を渡つては行く末に頼みを掛け、草津の宿屋で新年を迎へ、姥が餅を食べながら鏡山を眺めては、家に居た時の鏡餅に思ひ比べ、やがて咲き出る桜山を見れば、やがて気も勇み立ち、「わしもまだ色も香も有る若盛りだ。稼ぐに追ひつく貧乏神はないはず{*17}。それは足が弱くて老人みたいなもの。」かく思へば、老曽の森の注連飾りもおのづから春めいて見え、「秋に眺めたら、さぞ月も面白からう。」と思ひながら不破の関を通り、明け暮れ美濃路、尾張を過ぎて{*18}、東海道の在々所々を廻り、都を出て六十二日目に品川に着いた。
 ここまでの暮らしを立て、銭二貫三百文蓄へ、売り残した黒焼きは磯の浪に捨て、それから江戸入りを急いだが、日が暮れかかつて行くべき予定の所もないので、東海寺の門前に一夜を明かした。しかるに、門の傍に薦をかぶつた非人があまた寝てゐたが、春でも浦風は荒く、枕元の浪が騒がしく、眠れずに夜中まで身の上の事ども話すのを聞いてゐると、皆零落してなつた乞食である{*19}。
 一人は大和の龍田の村の者で、「少しの酒を造つて、六、七人の家族を楽々と養つて来たが、次第に溜まつた金銀を取り集めて百両になつた時、所の商ひは手ぬるいと思ひ、万事を見捨ててここに下るのを、一族は皆、親しい友人も色々言つて止めたが、無分別の盛んなままに、呉服町の肴店を借り、上上吉諸白の看板を掲げた店と並んで開店はしたものの、鴻の池、伊丹、池田、奈良などの老舗の香り良き酒にはとても及ばず{*20}、酒元手を皆なくし、四斗樽の薦を身にかぶる身となつたが、故郷の龍田へ錦は着なくとも、せめて新しい木綿の布子なりともあれば、帰るのに。」と男泣きして、「これにつけても、仕付けた商売はやめてはならぬものだ。」と言ふ事が、既に間に合はぬ。よい智恵の出る時、もはや遅い。
 又、一人は泉州堺の者であつたが、万事に才があり、芸自慢してこの江戸に下つた。書は平野仲庵に伝授を受け、茶道は金森宗和の流れを習ひ、詩文は深草の元政に学び、連歌俳諧は西山宗因の門下となり、能は小畠の伝を受け、鼓は生田与右衛門の手筋を覚え、朝に伊藤源吉に道を聞き、夕に飛鳥井殿に御鞠を習ひ{*21}、昼は玄斎の碁会に交じはり、夜は八橋検校に弾き習ひ、一節切は宗三に入門して吹き習ひ{*22}、浄瑠璃は宇治嘉太夫節、踊りは大和屋甚兵衛に習ひ、傾城狂ひは嶋原の太夫高橋に教へ込まれ、野郎遊びは鈴木平八を自由にし、遊興は両色里の太鼓持ちに本当の粋人になされ{*23}、人間のする程の事はその道の名人に尋ね覚え、「何をしたからとて、人交じはりはできるものを。」と腕頼みしてゐたが、かかる芸三昧は、さしあたり生活の役には立ち難く、算盤を置かず秤目知らぬ事を後悔した。武士勤めは勝手を知らず、町人奉公も「駄目だ。」と言つて追ひ出され、今この身になつて思ひ当たり、諸芸の代はりに生業を教へておかれなかつた親達を恨むのであつた。
 いま一人は、親の代から江戸の生えぬきで、通り町に大屋敷を持つてゐて、一年に六百両づつ定まつた家賃を取りながら、倹約する事を知らないためにその家まで売つてしまひ、身の処置に困り、苦しい世間から逃れて、車善七の手下に投じ、仲間外れの乞食となつた{*24}。
 思ひ思ひの身の上話を聞いて、「それでは自分と同じ身の上。」と思ひ、深く同情しながら、新六は非人の枕元に立ち寄り、「わしも京の者ぢやが、勘当受けて御江戸を頼みにして下つたが、お前さん達の話を聞いて心細くなつた。」と恥を包まず事情を申せば、三人共に口を揃へて、「謝る方法はないものか。」「伯母様もないのか。」「何とぞここには下りなさらぬがよいものを。」と言ふ。新六、「はや、後へ帰らぬ昔の事。これから先の思案ぢや。さて、お前さん方は利発でありながら、かう浅ましう成られたのは不思議ぢや。ここではどんな商ひでも、見立てたら有る筈ぢやに。」と言へば、「どうしてどうして。この広い御城下だけれど、皆日本の偉い人たちの集まりだ。銭三文だつてたやすくは儲けさせない。どうせお金のある者が金を溜める世の中だもの。」と言ふ。
 新六、「お前さん方は、久しく世間を見てゐる内には、商ひの新工夫は何か見つからぬものかな。」と尋ねたところ、非人、「さうだな。大分にすたつて行く貝殻を拾ひ集めて、霊岩島で焼いて石灰にするか。」「又、ここは万事忙しいから、刻み昆布か花鰹を削つて量り売りをするか。」「木綿の匹を買つて手拭ひの切り売りをするか。」「こんな事でもしないでは、手軽い商売はあるまい。」と言ふ。これに思案が浮かんで、夜の明け方に立ち別れたが、三人に三百文の置き銭をしたところ、悦ぶ事限りなく、「御運が開けて、富士山程の金持ちにならるるは間もない事よ。」と申した。
 それから伝馬町の太物店{*25}に知人が有るので尋ねて行き、この度の事情を話したら、同情して、「男の働くべき所はここだ。一稼ぎしてみよ。」と主人が言ふので元気づき、かねて考へておいた木綿を買ひ調へ、手拭ひの切り売りをする事にし、しかも三月二十五日、初めて下谷の天神に行つて{*26}、手水鉢の傍で売り出したところが、参詣の人、「買うての仕合せ。」と言つて求めるので、一日に利を得、毎日これから商売に新工夫をして、十年たたぬ内に五千両の分限と見込まれ、「第一の才覚者。」と言はれ、町中の人は、万事新六が指図を受ける事となり、所の人の宝と成つた。暖簾に{*27}菅笠を着た大黒天を染め抜いてあるので、「笠大黒屋。」と人は言つた。八つ、屋敷方に出入りする事になり、九つ、小判の買ひ置きをして、十で丁度治まつてゐる御代に、住んでゐる事のめでたさよ{*28}。

【批評】
 本篇は、その構想を見るに、作者の狙ひ所は、第一が三人の非人の身の上話であり、第二が新六の道行である。永代蔵が、単に金儲けの手段、致富の道を教へるところの書でなく、それはむしろ一部分に過ぎないといふ適例の一つでもある。
 非人の身の上話は、当時の世相を語るものに他ならない。又、道行文の面白さ。近古の戦記物語などの道行文に比較すれば、又おのづから別種の妙趣があつて、読者を曳き摺つて行く。彼は、公卿、武士の旅。これは、尻からげの町人の道中。彼はもつぱら歌語漢語を用ゐ、これは雅俗混淆、しかも時代の生きた言葉を駆使してゐる。それだけ実生活の描写に効果があるわけである。
 西鶴の文に縁語の多い事は特色の一つであるが、自由に生きた言葉を駆使してゐるために、古風な文に堕せず、清新味が溢れてゐるのである。しかもそこには滑稽味が漂ひ、俳諧味が流れてゐるのであるが、また作者の態度を見るに、主観を示さず情熱を吐かず、冷やかに静かに自然の光景、人事の推移を描写してゐる。これがまた、作者の大きな特徴である。

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校訂者注
 1:底本語釈に、「〇才覚(さいかく)を笠(かさ)に着(き)る大黒(たいこく) 『笠に着る』は
恃み誇る意であるが、新六は才覚を誇つたわけではないが、江戸で才覚を現したので、言ひ掛けたのであらう。」とある。
 2:底本は、「かなしきは」。底本語釈及び『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
 3:底本語釈に、「〇一に俵(たはら)二階(かい)造(つく)り三階(かい)蔵(くら) 大黒屋の大黒の縁として、大黒舞の歌詞をふまへて書くと共に、大黒屋の大きい家造りを示した。古今夷曲集(寛文六年刊)序『大黒の能を聞くに、一に俵をふまへ、二ににつこと笑ひ、三に三界の福珠を袋いつはいに入れ。』」とある。
 4:底本語釈に、「〇大黒(だいこく)に刻(きざ)ませ 橋板で大黒の像を刻めば福を得るといふ事は、今も言ふ事である。この事は町人嚢、商人生業鑑等に見える。」「〇信心(しん(二字以上の繰り返し記号))に徳(とく)あり 諺『信あれば徳あり。』」とある。
 5:底本語釈に、「〇見へざりしに 現銀が見えない。諺『勘定合つて銭足らず。』の類。」とある。
 6:底本語釈に、「〇七月前(まへ) 盆前。盆前の支払ひ日。」とある。
 7:底本語釈に、「〇内証(しやう) ここは内情。」「〇尾(を)が見えて 化けの皮が現れて。稲荷の使である狐の縁。」とある。
 8:底本語釈に、「〇町衆(しゆ) ちやうしゆ。まちしゆとも言ふ。ここは五人組の事。」「〇袴(はかま)きせて 礼装してもらつて。」「〇旧里(きうり)を切(きつ)て 勘当して。勘当された者は人別帳(宗門帳)から除籍され、町内から追放され、無宿者となる。」とある。
 9:底本語釈に、「〇水風呂(すいふろ) すゐぶろ。据桶に水を入れて沸かす浴槽。据(すゑ)風呂の訛と思はれるが、湯風呂(蒸し風呂)に対して水風呂と書くのであらう。」とある。
 10:底本は、「綺麗で」。
 11:底本語釈に、「〇大津(をゝつ)伏見(ふしみ)駕籠(かご) 大津へ通ふ駕籠、伏見へ通ふ駕籠。」とある。
 12:底本語釈に、「〇豊嶋莚(てしまむしろ) 狭くて短い。摂津豊嶋郡から産した。」「〇はづし 鉤などに懸けてあるのを外して盗んだのである。」とある。
 13:底本語釈に、「〇弁慶(べんけい) 犬の名。」「〇特牛(こというし) ことひうし。強大な牡牛。」とある。
 14:底本語釈に、「〇心の針(はり)屋 諺『心の針』を取る。心の針は、『心に針を持つ。』とも言ひ、心に悪意を持つ事。」とある。
 15:底本語釈に、「〇代(しろ)なして 物を金に代へて。売つて。」とある。
 16:底本語釈に、「〇勢田(せた)の長橋(ながはし) 瀬田川に架してある橋。河中に一小島があつて、橋は大小二つから成る。当時、大は九十六間、小は三十六間であつた。長橋の長から『すゑ』と言つた。」とある。
 17:底本語釈に、「〇かせぐに追著(をひつく)貧乏神(びんぼうがみ) 諺『稼ぐに追ひつく貧乏なし。』又『老曽の森』の『老』の縁として『足よはき』と書き、貧乏神の追ひつき得ない意を含めた。」とある。
 18:底本語釈に、「〇明暮(あけくれ) 関戸の戸の縁。毎日。『過ぎて』にかかる。」「〇美濃路(みのぢ) 美濃街道。草津から湖東を北して中山道を辿り、鳥居本(とりゐもと)(米原の南)から右折して美濃路に入る。美濃路を通つて尾張に入り、今の東海道に再び出る。」とある。
 19:底本語釈に、「〇非人(ひにん) 賤民の一種として取り扱はれてゐた者。その貧しい者は乞食をした。京阪では乞食(こじき)と言ひ、江戸では宿無(やどなし)と言つた。非人は戸籍即ち人別帳があり、小屋を有した。宿無は人別帳外の者で、即ち無頼無宿の徒である。宿無に対して人別帳中の者を宿有(やどあり)と言つた。」「〇筋(すぢ)なき乞食(こつしき) 諺『乞食に筋なし。』これをふまへた。諺の意は、いつたん乞食となれば、家柄など誇つてもだめで、家筋の無いと同然。」とある。
 20:底本語釈に、「〇上上吉 じやうじやうきち。最上等。」「〇諸白(もろはく) 麹も米も諸共によく白げたのを用ゐて醸造した上等の酒。片白(かたはく)の対。」「〇鴻(かう)の池(いけ) 今の摂津川辺郡鴻池村。富豪鴻池氏はこの地の出身。」「〇南都(なんと) 奈良。古来良酒を産する。」「〇根(ね)づよき大木(ぼく)の杉(すぎ)のかほり 『根づよき大木』は強い基礎を有する老舗。『杉のかほり』は酒。樽は杉材で作る。酒にしみた杉の香を木香(きが)と言ふ。」とある。
 21:底本語釈に、「〇朝(あした)に 論語里仁篇『子曰、朝聞道夕死可矣。』に拠る。又、『ゆふべ』と対照させた。」「〇伊藤源吉(いとうげんきち) 伊藤仁斎。」「〇飛鳥井殿(あすかゐどの) 鞠の師範家。」「〇鞠(まり)の色(いろ) 鞠のいきほひ。色は旗色などの色で、勢ひ、ぐあひなどの意。」とある。
 22:底本語釈に、「〇一節切(よきり) 笛の一種。ひとよぎりの尺八とも称した。」「〇宗三(そうさん) 中村宗三。一節切の名手。盲目であつた。」とある。
 23:底本語釈に、「〇大和(やまと)屋の甚(ぢん)兵衛 初代大和屋甚兵衛。京都の歌舞伎俳優。踊りに巧みであつた。」「〇立ならび 習ふ事。踊りを習ふ時は師匠と同じ側に並ぶ。」「〇鈴木(すゞき)平八 京の有名な歌舞伎若衆。」「〇両(りやう)色里(いろさと) 島原と、川東の石塩町、祇園町辺とを指す。」「〇本透(ほんすい) 本粋(ほんすゐ) 本当の粋人。」とある。
 24:底本語釈に、「〇火宅(くはたく) 世間。苦悩の現世。『火宅を出て』は、普通ならば出家する意であるが、ここは世間を捨てて非人の群に投じたのである。」「〇車(くるま)善(ぜん)七 江戸の非人頭(かしら)の名。代々、車善七を名乗る。彼は配下の非人を統率し、囚人の警衛その他の雑役を命ぜられた。」「〇仲間はづれ 善七配下の非人は有籍者で、人別帳に載せられてゐるので、これは人別帳以外の宿無である。」とある。
 25:底本語釈に、「〇太物棚(ふとものたな) 太物は木綿の太糸で織つた反物。」とある。
 26:底本語釈に、「〇三月廿五日 月次の天神祭の日。」「〇下谷(したや)の天神(てんじん) 西鶴の頃は上野にあつた。上野を下谷の岡とも称した。」とある。
 27:底本は、「暖簾の」。
 28:底本語釈に、「〇八つ屋敷(やしき)かたに 以下、八つ九つ十と連ねたのは、冒頭の『一に俵二階造り三階蔵』の語句と照応首尾させたもので、大黒舞の歌詞に拠つた。」「〇小判(ばん)の買置(かいをき) 当時は小判や銭に相場があつて売買された。」「〇丁(てう)ど治(をさま)まりたる 初めに挙げた大黒舞の歌詞『八つ屋敷を広めて、九つ小蔵をぶつ立て、十でとうどおさまつた。』をふまへた。」とある。

怪我の冬神鳴{*1}

 さざ波や、近江の湖に沈めても、一升入る壺はその通りなり。
 大津の町に醤油屋の喜平次といふ者有りける。この所は北国の舟着き、ことさら東海道の繁昌。馬継ぎ、替へ駕籠、車を轟かし人足の働き、蛇の鮓、鬼の角細工。何をしたればとて売れまじき事にあらず。近年問屋町、長者の如く屋造り、昔に変はり二階撥音やさしく、柴屋町よりしやれ女呼び寄せ、客の遊興昼夜の限りもなく、天秤の響き渡り、金銀も有る所には瓦石の如し。
 「身代ほど高下の有る物はなし。」と喜平次、荷桶下ろして無常観じける。「我、商ひに廻れる先々にも、世は愁喜貧福の分かち有りて、さりとは思ふままならず。賢き人は素紙子着て、愚かなる人はよき衣を身に重ねし。とかく一仕合せは、分別の外ぞかし。然れどもその身働かずして、銭が一文、天から降らず、地から涌かず。正直に構へた分にも、埒は明かず。身に応じたる商売をおろそかにせじ。」と一日暮らしを楽しみける。
 関寺のほとりに森山玄好と言へる人、かたの如く医師は上手、殊に老功なれども、比叡の山風ほどの事にも、かつて薬まはらず。門に「物申。」の声絶えて、内に神農の掛け絵も身震ひして、よろづの紙袋の書付け、埃に埋もれ、冬も羽二重の単羽織、煎じやう常に変はらぬ衣装つき。医師も傾城の身に同じ、呼ばぬ所へは行かれず。宿に居れば外聞悪しく、毎日朝脈の時分より立ち出でて、四の宮の絵馬を眺め、又は高観音の舞台に行きて近江八景も、朝夕見ては面白からず。身過ぎは、欠けて暇の有るほど気の毒なるものはなし。人には「絵馬医者。」と言はれて口惜しかりし。或る人取り立て、碁会の宿して、一番に三銭づつ茶の代取りて、やうやう{*2}死なぬを徳にして世を送る人も有り。
 又、馬屋町といふ所に坂本屋仁兵衛殿とて、以前は大商人なりしが、大分の銀を無くなし、残る物とて家蔵売りて、二十八貫目ありしを取つて退き、その後三十四、五度も商売替へられし内に、今は残らず喰ひ込みて、何をすべき便りもなく、昔の厚鬢も薄く仁体をかしげなれば、「一つも埒の明かぬ男。貧乏神の社人になれ。」とて一門中、これを見限る。されども、母親の隠居銀十貫目あるを、一人の子なれば不憫に思はれ、「せめてはこれを取らせ、世に住む種ともなれかし。然れども、仁兵衛に渡しては一年もあるまじ。」姉聟に預けて月に八十目づつ利銀渡し、「この有り切りに五人口を過ぎよ。」と言はれし。まづ夫婦、子が一人、弟に仁三郎とて背僂病み、一人は乳飲ませし姥が、足立たずして外に頼む嶋もなく、ここに掛かり舟。日和を見ても、どれを一人「出て行け。」と言ふ者もなし。さりとては、十貫目の利銀にて八十目取り、五人口は過ぎ難し。この銀、朔日に請け取り、五匁の屋賃をのけて置き、白米のよきに味噌、塩、薪を調へ、常住、香の物菜。この外にはいかないかな、三月の鯛を一枚、松茸一斤二分する時も、目に見るばかり。咽が渇けば白湯に焦穀。油火も真ん中に一つ灯して、これを寝さまに消して、鼠の荒るるを構はず。盆正月の着る物もせず、年中始末に身を堅め、慰みには観世紙縷をして、明け暮れ不自由なる世や。
 「商ひの道知る。」とて、百目に足らぬ銀にて七、八人、楽々と年越すもあり。
 又、松本の町に後家有り。一人の娘に黄唐茶の振袖に菅笠を着せて、言葉少し訛り習ひ、「抜け参りの者に御合力。」と御伊勢様を売りて、この十二、三年も同じ嘘にて世を過ぐる女もあり。
 又、池の川の針屋、細き事なれども、娘を京への縁組を聞き立て、「銀二千枚付くる。」とて仲人嬶が飛び廻り、「強いたら百貫目は付けて遣らるべし。」とささやきし。「人の内証は知れぬもの。この大津の内にもさまざまあり。」と、醤油売り廻る先々にて見聞き、喜平次が宿に帰りて語りける。
 この女房、ずいぶん賢く、子供も奇麗に育て、人の物をも負はず。年取り物をも師走の初め頃より調へ、「節季に帳かたげた男の顔を見ぬを嬉しや。」とて万事を仕舞ひけるに、この幾年か、銭取り集めて七匁五分か八匁、七匁六分、八匁八、九分の残り。終に十匁と持ちて年越えたる事なく、「板木で押したるやうなこの家の若夷。」と祝ひけるに、ぐわらぐわらと空定めなや、冬神鳴。十二月二十九日の夜の明け方に落ちかかりて、一跡に一つの鍋釜、微塵粉灰に砕かれ、これを歎くにかひなく、片時も無ければならず買ひ求めしに、その年の暮れにそれ程足らずして、九匁二十四、五所に買ひ掛かり、やかましき事を聞きぬ。「これを思ふに、当て所の必ず違ふものは世の中。我も、神鳴の落ちぬまでは、世に怖き物は無かりしに。」と悔みぬ。

【口訳】
 さざ波や、近江の湖のやうな大きな湖に沈めても、一升入る壺はその通り、一升しか入らないものだ{*3}。大津の町に醤油屋の喜平次といふ者があつた。ここは北国の船の着く港で、ことさら東海道の繁昌な宿場で、馬を継ぎ替へたり、駕籠を乗り替へたり、荷車の音が轟き、人足がめざましく働き、蛇の鮓、鬼の角細工{*4}、何を商うたとて売れない事はない。近年問屋町は、屋造りが昔に変はつて長者の家の如く立派になり、二階には三味線の撥音がなまめかしく聞こえ、柴屋町から白女を呼び寄せて{*5}客の遊興する事が盛んで、昼夜の差別もなく天秤の音が響き渡つてゐるが、金銀も沢山有る所には、石や瓦のやうである。
 「人の身代ほど高下の有る物は外にない。」と呟きながら、喜平次は荷桶を下ろして無常を観じた。「自分が商ひに廻る先々にも、世には愁喜貧福の差別が有つて、とにかく思ふままならぬものぢや。えらい人は素紙子{*6}を着て、愚かな人は美しい絹を重ねてゐる。とかく一仕合せ{*7}にあふ事は、分別の外ぢや。けれども自身が働かないでは、銭一文だつて天から降らず、地から涌くものでもない。それかとて、正直に構へてゐたところで、うまくは運ばぬ。結局、身に応じた商売を疎略にせぬ事ぢや。」と、一日暮らしを楽しんでゐた。
 関寺の辺に森山玄好といふ人があつたが、例の通り、医者としては上手と言はれ、殊に老功と言はれてゐるけれども、比叡の山風ではないが、風の気ぐらゐの病気にも、ついぞ薬が効いた事がない{*8}。門には「お頼み申します。」の声が絶えて、内には神農の掛け絵も貧乏ゆるぎして、よろづの薬袋の書付けは埃に埋もれ、冬も羽二重の一重羽織を着て、「煎じやう常の如し{*9}。」の通り、衣裳もいつも同じだ。医者も遊女の身に同じく、呼ばぬ家には行かれないのだ。それかとて、家に居れば世間体が悪く、毎日、朝の往診の頃から外出して、四の宮神社の絵馬を眺めたり、又は高観音の舞台に行つて近江八景を眺めたりするが、それも朝夕見ては面白くもない。家業がなくて暇の有るほど苦痛な事は外にない。この人、人には「絵馬医者。」と言はれて口惜しい事であつた。さて、或る人の世話で碁会の宿をして、一番に三文づつ茶代を取つて、やつと死なないのを仕合せにして世を送る人もまた有る。
 又、馬屋町といふ所に坂本屋仁兵衛殿と言つて、以前は大商人であつたが、大分の銀を無くなし、残る物とては家蔵ばかりになつたが、これも売つて二十八貫目受け取つて立ち退き、その後、三十四、五度も商売替へをされた間に、今は残らず喰ひ込んで、何をすべき手立てもなく、昔の厚鬢も薄くなり、風采が妙に可笑しいので、「何一つうまく行かない男だ。」と言ふので、「貧乏神の社人にでもなれ。」と言つて、一門中この男を見捨てた。
 けれども母親は、自分の隠居銀十貫目あるのを、一人息子の事であるから不憫に思はれ、「せめてこれをあの子に与へ、生活費にさせたいものだ。けれども仁兵衛に渡しては、一年もあるまい。」と、姉聟にこれを預けて、月に八十目づつ利息を渡す事にし、さて仁兵衛に、「これだけで五人の暮らしを立てよ。」と言はれた。まづ夫婦に子が一人、弟に仁三郎とてせむし、いま一人は乳飲ませた乳母が、足が立たないで、外に頼る人もなく、この家に厄介になつてゐる。都合は良くても誰一人「出て行け。」と言ふ者もない。とにかく十貫目の利銀で八十目取つても{*10}、五人口は過ぎ難い。
 この銀を朔日に受け取り、その内から銀五匁の家賃を除いて置き、白米のよいのと味噌、塩、薪を買ひ調へ、いつも香の物のおかずで{*11}、この外にはどうしてどうして、三月の安い鯛一枚、松茸一斤が僅か二分する時でも{*12}、買ふ事なく目に見るばかりだ。咽が渇けば白湯に香煎{*13}を投じて飲み、油火も室の真ん中に一つ灯すのみで、これも寝る時には消して、鼠が荒れても構はない。盆正月の着物も新調せず、年中倹約で身を堅め、慰みには観世ごよりをよつて暮らすのであつたが、さても明け暮れ不自由な世渡りだ。
 が、又一方には、商ひの道を知つてゐるので、百目に足らぬ銀子で七、八人の家族が楽々と年を越す者もある。
 又、松本の町に後家があつた。一人の娘に黄枯茶の振袖を着せ、菅笠をかぶらせて、他国の言葉使ひを訛り習はせ、「御合力を頼みます。」と言はせ、御伊勢様を悪用して{*14}、この十二、三年も同じ嘘をついて渡世する女もある。
 又、池の川の或る針屋は、細い身代のやうに見えるけれども、娘を京へ縁組させるといふ事を仲人嬶が聞き出し、「持参銀二千枚、娘に付ける{*15}。」と言ふので、方々飛び廻り、「無理に勧めたら、百貫目は娘に付けて遣られませう。」とささやいてゐた。「これにつけても、人の身代は脇からはわからぬものだ。この大津の内にもさまざまな人がある。」と、醤油を売り廻る先々で見聞きして、喜平次が自分の家に帰つて語るのであつた。
 この男の女房はずいぶん抜け目がなく、子供も綺麗に育て、負債をせず、新年の品物も師走の初め頃から買ひ調へ、「節季に掛け取り男の顔を見ないのを嬉しい事よ。」とて万事を済ますのであつたが、この数年は銭を取り集めて、銀にして七匁五分か八匁、七匁六分、八匁八、九分残るくらゐで、ついぞ十匁と持つて年越した事がなく、「板木で押したやうに毎年変はらぬこの家だ。」とて若恵比寿{*16}を祝ふのであつたが、ぐわらぐわらと空定めなや、冬神鳴が十二月二十九日の夜の明け方に落ちかかつて、一身代に一つしかない鍋釜を微塵粉灰に砕かれ、歎いても甲斐がなく、それかとて片時も無くてはならないので買ひ求めたところが、その年の暮れに、その鍋釜代だけ銀が足らなくなり、二十四、五か所の店に銀九匁の買ひ掛かりをしてゐたのが払へなくなり、掛け取りにうるさく催促せられる事になつた{*17}。「これを思ふに、予想の必ず違ふものは世の中の常。わしも、神鳴の落ちないまでは、世の中に怖いものは無かつたのに。」と悔んだ。

【批評】
 本篇は、種々の小話からなつてゐるが、この小話を、醤油屋喜平次がその売り回る先々で見聞して、家に帰つて語る事にしてゐる。そこに今までの篇と違つたところがあり、構想の上に新味を出し、以て千篇一律を破らうとしてゐる事が推せられる。
 本篇を仮に三節に分かつならば、第一節に於いては大津の繁昌を述べて、正直平凡な醤油屋喜平次を点出し、保守実直な小商人の性情を描いてゐる。第二節は喜平次が見聞した五つの小話からなつてゐて、その主なものは、森山玄好、坂本屋仁兵衛などである。第三節では再び喜平次に帰り、思ひがけぬ冬神鳴に家財を砕かれ、債鬼に責められるところで、この小商人の性情が鮮やかに出てゐる。
 本篇を通観するに、主人公喜平次の描写は全体の三分の一足らずで、他の三分の二は第二節が占め、他人の生活描写になつてゐる。即ち、本篇は中途で筋が分裂した観があるけれども、反対に世相の断面が鮮明に描かれてゐる事に注意せねばならない。喜平次にせよ、玄好、仁兵衛にせよ、極めて無能の徒で、新長者教の名に甚だふさはしくないと感ずるのであるが、作者西鶴の持ち前の詩才と興味とは、おのづから世相人心の描写に傾く。喜平次の話も、教訓話と見られぬ事もないが、それにしては余りに不甲斐ない人物たちの言動である。再びその轍を踏ませない為の教訓と言ふよりも、その価値も興味も重心も、むしろ痛快な描写にある。
 本篇も、平凡生活の種々相を描いたところに価値がある。永代蔵が致富出世の修養談に終はらなかつた事は、かへつてこの書をして文芸的価値あらしめた所以である。

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校訂者注
 1:底本語釈に、「〇怪我(けが)の冬神鳴(ふゆかみなり) 思ひがけない冬の神鳴。」とある。
 2:底本は、「漸(やう(二字以上の繰り返し記号))と」。『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
 3:底本語釈に、「〇一升入壺(つぼ)は其通(とを)り也 諺「一升壺には一升。」いくら働いても発展しない醤油屋喜平次を書く為にこの諺を用ゐた。」とある。
 4:底本語釈に、「〇蛇(じや)の鮓(すし) 次の鬼の角細工と共に、珍奇な物。」とある。
 5:底本語釈に、「〇柴屋町(しばやまち) 大津にある遊里。」「〇白(しやれ)女 遊女。『しやれ』は粋のこと。野暮の反対。」とある。
 6:底本語釈に、「〇素紙子(すかみこ) すがみこ。柿渋を引かない白地の紙衣。」とある。
 7:底本語釈に、「〇一仕合(しあはせ) ひとしあはせ。一儲け。町人の仕合せは金儲けである。」とある。
 8:底本語釈に、「〇老功(らうこう) 老巧とも書く。経験を積み巧者なこと。」「〇叡(ひへ)の山風(かぜ) 風邪。叡(ひへ)は比叡(ひえ)。冷えをもぢつた。」「〇まはらず 効験がない。」とある。
 9:底本語釈に、「〇せんじやう 煎じやう。薬袋には煎じ薬の場合には多くの場合「せんじやう常のごとし」と書いてあるので、これに言ひかけた。」とある。
 10:底本語釈に、「〇拾貫目の利銀(りぎん)にて八拾目取 銀一貫目につき一か月の利銀が八匁となる。今日の八厘に当たる。一人息子に渡すのであるから、ことさら利銀を高くしたのである。預銀としては高利である。」とある。
 11:底本語釈に、「〇五匁 銀五匁。」「〇香(かう)の物菜(ものさい) 漬け物の菜。漬け物をおかずにする。」とある。
 12:底本語釈に、「〇三月の鯛(たい) 陰暦三月頃は鯛の出盛る頃で、従つて値も安い。それでも買はないのである。」「〇貮分 二分(ふん)。銀二分。一分は一匁の十分の一。」とある。
 13:底本語釈に、「〇焦穀(こがし) 糯米のこがしに陳皮、山椒、茴香などを細末にして交ぜたもの。湯に浮かせて飲む。香煎。」とある。
 14:底本語釈に、「〇御合力(かうりよく) おがふりよく。金品を施与すること。当時は既に似せ道者、似せ順礼などがあつた。」「〇御伊勢様(いせさま)を売(うり)て 伊勢神宮を利用して生活費や金儲けの種にする事。」とある。
 15:底本語釈に、「〇ほそき事なれ共 見かけは細い身代のやうであるけれども。『ほそき』は針の縁。」「〇聞立(きゝたて) 聞き込み。仲人かかが。」「〇銀貮千枚(まい) 丁銀二千枚。丁銀は銀貨の一種で、一枚はほぼ四十三匁あるから、貫にすれば八十六貫目となる。それ故、『強いたら百貫目は付けて遣らるべし。』とささやくのである。」「〇付る 付くる。敷銀(しきぎん)(持参銀)として嫁につけてやること。仲人は敷銀の十分の一を世話料として貰ふ事になつてゐた。」「〇仲人(なかうど)かゝ 仲人嬶。職業的に仲人をなす女を卑しめて言ふ言葉。」とある。
 16:底本語釈に、「〇若(わか)ゑびす 大晦日の夜から元日の暁にかけて、版木で刷つた恵比寿の紙札を毘沙門天の札と共に売り歩いた。これらの札を買つて歳徳棚などに供へて福を祈る。」とある。
 17:底本は、「催促がやかましいといふ事を聞いた」。『日本古典文学大系48 西鶴集 下』(1960)に従い改めた。

世界の借屋大将

 「借屋請状之事。室町菱屋長左衛門殿借屋に居申され候藤市と申す人、慥かに千貫目御座候。」「広き世界に並びなき分限、我なり。」と自慢申せし子細は、二間口の棚借りにて千貫目持ち、都の沙汰になりしに、烏丸通に三十八貫目{*1}の家質を取りしが、利銀積もりておのづから流れ、初めて家持ちとなり、これを悔やみぬ。今までは、「借屋に居ての分限」と言はれしに、向後、家有るからは、京の歴々の内蔵の塵埃ぞかし。
 この藤市、利発にして、一代の内にかく手前富貴になりぬ。第一、人間堅固なるが身を過ぐる元なり。この男、家業の外に反故の帳をくくり置きて、店を離れず一日筆を握り、両替の手代通れば銭小判の相場を付け置き、米問屋の売り買ひを聞き合はせ、生薬屋、呉服屋の若い者に長崎の様子を尋ね、繰り綿{*2}、塩、酒は江戸棚の状日を見合はせ、毎日万事を記し置けば、紛れし事はここに尋ね、洛中の重宝になりける。
 ふだんの身持ち、肌に単襦袢、大布子、綿三百目入れて一つより外に着る事なし。袖覆輪といふ事、この人取り始めて、当世の風俗見よげに始末になりぬ。革足袋に雪踏を履きて、終に大道を走りありきし事なし。一生の内に絹物とては紬の花色、一つは海松茶染にせし事、「若い時の無分別。」と、二十年もこれを悔しく思ひぬ。紋所を定めず、丸の内に三つ引き、又は一寸八分の巴を付けて、土用干しにも畳の上にぢきには置かず。麻袴に鬼綟の肩衣、幾年か折り目正しく取り置かれける。町並に出る葬礼には、是非なく鳥部山に送りて、人より後に帰りさまに、六波羅の野道にて丁稚もろとも苦参を引いて、「これを蔭干しにして、腹薬なるぞ。」と、只は通らず。けつまづく所で火打石を拾ひて袂に入れける。朝夕の煙を立つる世帯持ちは、よろづかやうに気を付けずしてはあるべからず。
 この男、生れ付きてしはきにあらず。万事の取り廻し、人の鑑にもなりぬべき願ひ。かほどの身代まで年取る宿に餅搗かず。「忙はしき時の人遣ひ、諸道具の取り置きもやかましき。」とて、これも利勘にて大仏の前へ誂へ、一貫目につき何程と極めける。十二月二十八日の曙、急ぎて担ひ連れ、藤屋店に並べ、「請け取り給へ。」と言ふ。餅は搗きたての、好もしく春めきて見えける。旦那は聞かぬ顔して十露盤置きしに、餅屋は時分柄に暇を惜しみ、幾度か断りて、才覚らしき若い者、杜斤の目りんと請け取つて帰しぬ。一時ばかり過ぎて、「今の餅、請け取つたか。」と言へば、「はや渡して帰りぬ。」「この家に奉公する程にもなき者ぞ。温もりの冷めぬを請け取りし事よ。」と、又目を懸けしに、思ひの外にかんのたつ事。手代、我を折つて、喰ひもせぬ餅に口を開きける。
 その年明けて夏になり、東寺あたりの里人、茄子の初生りを目籠に入れて売り来るを、七十五日の齢これ楽しみの、一つは二文、二つは三文に値段を定め、いづれか二つ取らぬ人はなし。藤市は一つを二文に買ひて言へるは、「今一文で、盛りなる時は大きなるが有り。」と心を付くる程の事、悪しからず。
 屋敷の空き地に柳、柊、譲り葉、桃の木、花菖蒲、数珠玉など取り交ぜて植ゑ置きしは、一人有る娘が為ぞかし。葭垣に自然と朝顔の生えかかりしを、「同じ眺めには、はかなき物。」とて、刀豆に植ゑ替へける。何より我が子を見るほど面白きはなし。娘、大人しくなりて、やがて嫁入り屏風を拵へ取らせけるに、「洛中尽くしを見たらば、見ぬ所をありきたがるべし。源氏、伊勢物語は、心のいたづらになりぬべき物なり。」と、多田の銀山出盛りし有様書かせける。この心からは、いろは歌を作りて読ませ、女寺ヘも遣らずして筆の道を教へ、ゑひもせす京のかしこ娘となしぬ。親の世智なる事を見習ひ、八歳より墨に袂を汚さず。節句の雛遊びをやめ、盆に踊らず。毎日、髪頭もみづから梳きて丸髷に結ひて、身の取り廻し人手にかからず。引き習ひの真綿も着丈の縦横を出かしぬ。いづれ女の子は、遊ばすまじきものなり。
 折節は正月七日の夜、近所の男子を藤市方へ、「長者に成りやう{*3}の指南を頼む。」とて遣はしける。座敷に燈輝かせ、娘を付け置き、「露地の戸の鳴る時、知らせ。」と申し置きしに、この娘しほらしく畏まり、灯心を一筋にして、「物申。」の声するとき元の如くにして、勝手に入りける。三人の客、座に着く時、台所に摺鉢の音響き渡れば、客、耳を喜ばせ、これを推して「皮鯨の吸ひ物。」と言へば、「いやいや。初めてなれば雑煮なるベし。」と言ふ。又一人はよく考へて「煮麺。」と落ち付きける。必ず言ふ事にして可笑し。
 藤市は座敷に出て、三人に世渡りの大事を物語して聞かせける。一人申せしは、「今日の七草といふ謂はれは、いかなる事ぞ。」と尋ねける。「あれは神代の始末始め。雑炊といふ事を知らせ給ふ。」又一人、「掛け鯛を六月まで荒神の前に置きけるは。」と尋ぬ。「あれは、朝夕に魚を喰はずに、これを見て喰うた心せよといふ事なり。」又、太箸を取る由来を問ひける。「あれは、汚れし時白げて、一膳にて一年中あるやうに。これも神代の二柱を表すなり。よくよく万事に気をつけ給へ。さて、宵から今まで各々話し給へば、もはや夜食の出づべき所なり。出さぬが長者に成る心なり。最前の摺鉢の音は、大福帳の上紙に引く糊を摺らした。」と言はれし。

【口訳】
 「借屋請状之事」として、「室町菱屋長左衛門殿借屋に居申され候藤市と申す人、慥かに千貫目御座候。」と、家請け人が書いてゐる如く、この藤市{*4}は、「広い世間に並びなき分限者は自分だ。」と自慢してゐた。その自慢するわけは、僅か二間間口の借家住まひしてゐながら、千貫目持ちであつたからで、この事が都の評判になつてゐたが、かつて烏丸通にある借り主の家を、三十八貫目の貸し金の抵当に取つておいたのが、借り主が利子を滞らせたので自然に流れ、初めて家持ちとなつたので、これを悔やんだ。今までは「借り屋に居ての分限者。」と言はれたのに、今後は自分の家に住むからは、千貫目の銀ぐらゐは、京の一流どころの内蔵の塵埃みたいなものだ。
 この藤市は利発で、一代の内に、かく身代が豊かになつた。第一、その人物が健実な為であつて、この事が渡世の基である。この男は家業の外に、反故になつた帳簿を綴ぢ直しておいて、店を離れずに一日中筆を握りながら、両替屋の手代が通れば銭や小判の相場を尋ねて付け置き、米問屋の売買の値を聞き合はせ、生薬屋、呉服屋の若い者に長崎の様子を尋ね、繰り綿、塩、酒は江戸店から来る状日{*5}を見合はせ、毎日万事を記しておくので、人々も、わからぬ事はこの店に尋ね、京中の重宝となるのであつた。
 平生の身持ちは、肌に単襦袢を着、大布子に綿三百目{*6}を入れ、これ一つより外に着る事はない。袖べりを掛ける事は、この人が掛け始めたもので、当世の服装が見よく、かつ経済になつた。革足袋に雪踏を履いて、ついぞ大通りを走り歩いた事がない{*7}。一生の内に絹物と言つては紬だけで、一つは花色で、いま一つは海松茶染にした事を、「若い時の無分別であつた。」と、二十年の間もこれを悔しく思つてゐた。
 紋所を定めず、丸の内に三つ引き、又は一寸八分の巴を付けて、土用干しにも畳の上にぢかには置かず、礼服も麻袴に強い鬼綟の肩衣で{*8}、幾年か折り目正しくしまつて置かれた。町内の人の皆出る葬式には、やむなく鳥部山に野辺送りして、ことさら人よりは後に帰る道で、六波羅の野道で丁稚と共にせんぶりを根引きし{*9}、「これを蔭干しにしておけば、腹薬になるのだよ。」と言つて只は通らず、つまづいた所では火打石を拾ひ取つて袂に入れるのであつた。朝夕飯炊く煙を立てる世帯持ちは、万事かやうに気を付けなくてはいけない。
 この男、生来吝いのではない。「万事の始末について、人の手本にもならう。」といふ願ひがあるので、かほどの身代になるまで、年を取るにも我が家で餅を搗いた事がない。「年末の多忙な時に人手を使つたり、諸道具を備へて置くのも煩はしい事だ。」と思つて、これも打算の上から大仏の前の餅屋へ誂へ、一貫目につき何程と代銀を約束した。十二月二十八日の曙に、餅屋の若い者どもが急いで担ひ連れ、藤屋の店に並べ、「受け取り下さい。」と言ふ。餅は搗きたてのおいしさうで、春めいて見えた。ところが主人は聞かぬふりして、算盤を置いてゐるので、餅屋は歳末なので暇を惜しみ、幾たびか早く受け取る事を促すので、気の利いてゐるらしい手代が、扛秤できちんと秤り{*10}、受け取つて帰した。一時ばかり過ぎて主人が、「今の餅、受け取つたか。」と言へば、「はや渡して帰りました。」と言ふ。主人、「この家に奉公する程の値打ちもない者だ。温もりの冷めぬ餅をよくも受け取つたものだ。」と叱つた。そこで又秤つてみたところが、思ひの外に目が減つてゐるのであつた{*11}。手代も全く参つて、食べもしない餅のことで口を開いて呆れた。
 その年が明けて夏になつたが、東寺あたりの村人が茄子の初なりを目籠に入れて売りに来たのを、「初物食べれば七十五日の命が延びる{*12}。」と言ふので、これを楽しみの一つとして、一つは二文、二つは三文の定価であるのを、誰でも二つ買ひ取らぬ人はない。ところが藤市は、一つを二文に買つて言ふには、「今一文で、出盛りの頃は大きなのが幾つも買へる。」と。この男が気を付ける程の事は、皆この通りでぬかりがない。
 屋敷の空き地に柳、柊、譲り葉、桃の木、花菖蒲、数珠玉など取り交ぜて植ゑておいたのは{*13}、一人有る娘の為である。葭垣に自然と朝顔の生えかかつたのを、「同じ眺めとしては、これはつまらぬ物だ。」と言つて、刀豆に植ゑ替へた。何より、我が子を教育するほど、面白い事は他にない。娘が年頃になつて、まもなく嫁入り屏風を拵へてやつたのであるが、「京の名所尽くしを見たらば、まだ見ない所を歩きたがるであらう。それかとて、源氏物語や伊勢物語の絵は浮気になるものだ。」と考へ、多田の銀山の出盛る有様を画かせた。この心がけから、みづからいろは短歌を作つて娘に暗誦させ{*14}、女寺ヘも遣らずに自宅で手習ひを教へ、つひに京一番の賢い娘と育て上げた{*15}。親の始末な事を見習つて、八歳から袂を墨で汚さず、節句の雛遊びをやめ、盆にも踊らず、毎日、髪も自分で梳いて丸髷{*16}に結ひ、自分の身のまはりの事は人の世話にならず、引き習ひの真綿{*17}も、着丈の縦横をうまく仕上げるのであつた。かやうにしつけ次第で何でもできるのだから、とかく女の子は遊ばせておいてはならぬものだ。
 時は正月七日の夜のこと、近所の人々がその男子を、「長者に成る方法の指導を頼む。」と言つて藤市方へ遣はした。藤市方では座敷に燈火をともさせ、娘を付けておき、「露地の戸の鳴る時、知らせよ。」と申し付けておいたところが、この娘、殊勝にも親爺の命を奉じ、灯心を一筋に減らしておいて{*18}、「ごめん下さい。」の声がする時、元のやうに明るくして勝手の方へ入つた。三人の客が座に着いた時、台所に摺り鉢の音が響き渡つてゐるので、客はこれを聞いて、喜びながら推測して、一人が「皮鯨の吸ひ物かね。」と言へば、また一人は、「いやいや。初めて来たのだから雑煮だらう。」と言ふ。又一人はよく考へてから、「煮麺だよ。」と落ちついて言つた{*19}。来客が必ず言ふ事で、可笑しい。
 藤市は座敷に出て、三人に渡世の秘訣を話して聞かせた。さて一人が申すには、「今日の七草といふ謂はれは、どういふ事ですか。」と尋ねた。「あれは神代の始末始めで、雑炊といふ事をお知らせになるのぢや{*20}。」又一人、「掛け鯛を六月まで荒神の前に置く事になつてゐますのは{*21}。」と尋ねた。「あれは、朝夕に魚を食べずに、これを見て食べた心持ちになれといふ事ぢや。」また一人が、太箸を使ふ由来を問うた。「あれは、箸が汚れた時に白く削つて、一膳で一年中あるやうにといふわけで、これも神代の二柱を表したものぢや{*22}。よくよく万事に気をつけなされ。さて、宵から今まで各々お話しなされたので、もはや夜食の出る時分ぢや。しかし、出さぬが長者に成る心がけぢや。最前の摺り鉢の音は、大福帳の上紙に引く糊を摺らせたのぢや{*23}。」と言はれた。

【批評】
 本篇は、今までの篇とは違つて、いはゆる前置きの御談義がない。これ第一の長所である。藤屋市兵衛といふ極端な始末屋を主人公として一貫してゐる。他人の挿話を交じへて以て本筋を弛めるやうな事がない。これ第二の長所である。藤市の言動について、微細な点まで観察され、はなはだ鮮明に描写されてゐる。これ第三の長所である。その描かれた言動は、極めて人の意表に出てゐるものが多い。これ第四の長所である。
 作者の筆が説明的でなく、また主観的でなく、描写的であり観照的であるから、作品に含まれてゐる滑稽味が一層痛快に鑑賞させられる。けれども藤市の徹底した態度は、藤市自身にとつては何ら奇矯でもなければ滑稽でもない。彼はあくまで利勘の上に立ち、功利主義の上に立ち、しかも真面目である。しかしこの真面目さも、一般の人心と対照される時には、バランスが破れる感じがする。そこから滑稽感が生まれる。
 本篇の文芸的価値は、始末の教訓には存しないで、始末の描写にある。本篇は各篇中の一代表作と言ふことができるのみならず、また一傑作と称すべきであらう。

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校訂者注
 1:底本は、「二十八貫目」。底本口訳、語釈、『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
 2:底本は、「操線(くりわた)」。底本口訳、語釈、『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
 3:底本語釈に、「〇成やう 成るやう。」とある。『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)の本文に従った。
 4:底本語釈に、「〇藤市(ふぢいち) 藤屋市兵衛の略称。」とある。
 5:底本語釈に、「〇江戸棚(えどだな) 江戸の出店。」「〇状(じやう)日 じやうび。書状の来る日。町飛脚問屋から配達するのである。」とある。
 6:底本語釈に、「〇大布(ぬの)子 おほぬのこ。木綿の大綿入りの着物。」「〇綿(わた)三百目 普通の約三倍である。」とある。
 7:底本語釈に、「〇はしりありきし事なし 強い革足袋、雪踏でさへも、損ずる事を恐れるからである。」とある。
 8:底本語釈に、「〇鬼綟(おにもぢ) 縑は綟とも書き、麻のより糸で目を粗く織つた布。これの最も粗いのを鬼綟と言ふ。」とある。
 9:底本語釈に、「〇苦参(たうやく) せんぶり。薬草の名。」とある。
 10:底本語釈に、「〇杜斤(ちぎ) 扛秤(ちぎ)。衡器の一種で、重い物を秤る。」「〇りんと きちんと。厳正な形容。」とある。
 11:底本語釈に、「〇減(かん)のたつ事 減(へり)の増すこと。『たつ事』の『事』は感動の語。」とある。
 12:底本語釈に、「〇七十五日の齢(よはひ) 諺『初物七十五日。』」とある。
 13:底本語釈に、「〇柳(やなぎ) 新年の太箸(柳箸)にし、或いは三月の雛節句に桃の花と共に花瓶に活け、或いは餅花をこの木の枝に着ける。」「〇柊(ひいらぎ) 節分の夜、家の入り口などに柊の枝をさし挟む。これは悪疫を防ぐ為である。樹の肌が白く滑らかで堅いから、小箱を造るのによい。又、その実は女児の玩になる。」「〇楪葉(ゆづりは) 新年のしめ縄にさし挟み、或いは鏡餅などに添へる。」「〇桃(もゝ)の木(き) 雛の節供に桃の花を供へる。」「〇はな菖蒲(しやうぶ) 女児としては薬玉に使ひ、或いは髪に挿して悪疫を払ふ。又、菖蒲湯を仕立てて沐浴する。」「〇薏苡仁(じゆずだま) 数珠玉の義。糸に貫いて、今も女児の玩具にする。又、薬用に供する。」とある。
 14:底本語釈に、「〇いろは歌を作りて いろは四十八字の各字を頭に置いて短句を作つたもの。児童の教訓用である。『いろはたんか』(刊年不明)と題する黒小本がある。『いかな日も人にすくれてあさねして。ろくな心はもちもせで。はらたちそうなかほゝして。につことわらふ事もなく。』」とある。
 15:底本語釈に、「〇かしこ娘(むすめ) 『かしこき娘』を特に『かしこ娘』と言つたのは、いろは短歌の縁であり、また女の手紙の終りに書く『かしこ』を思はせたのである。」とある。
 16:底本語釈に、「〇丸曲(まるわげ) 髪を丸くわがねて結ふもの。普通ならば島田わげ、かうがいわげなどに結ふのを、時代遅れで下女などしか結はない丸曲を結ふと言ふのである。」とある。
 17:底本語釈に、「〇引ならひの真綿(まわた) 練習の為、引き延ばして着物に入れる真綿。」とある。
 18:底本語釈に、「〇灯心(とうしん)を一筋(すぢ)にして 灯心は、普通には二筋以上であるけれども、客の来ない間は、倹約して一筋にしておくのである。」とある。
 19:底本語釈に、「〇摺鉢(すりはち)の音(をと) 三人の客は皆、味噌を摺る音と推量したのである。」「〇皮鯨(かはくしら) 鯨の皮を塩漬けにしたもの。ここは味噌汁の吸い物である。」「〇雑煮(ざうに) 京阪は味噌汁であつた。」「〇煮麺(にうめん) 当時は索麺(そうめん)を味噌汁で煮込んだもの。」とある。
 20:底本語釈に、「〇増水(ぞうすい) 普通には雑炊(ざふすゐ)と書く。野菜などを煮込んだ粥。飯とは違ひ、水が多くて量を増すから経済になる。」とある。
 21:底本語釈に、「〇六月迄(まで) 六月一日まで供へておいて、この日に羹などにして食べる。邪気を払ふと言ふ。」「〇荒神(くはうじん) 竈の神。民間では飢餲、火災を免れしめる神として祭る。」とある。
 22:底本語釈に、「〇神代(かみよ)の二柱(はしら) 伊邪那岐、伊邪那美の二柱の神。神は一柱二柱と数へるから、箸二本をこれに付会した。」とある。
 23:底本語釈に、「〇上紙(うはかみ) 表紙。自家で帳を綴ぢる時、紙を幾枚も糊で合はせて表紙を造る。ここは十一日の帳綴ぢに間に合ふやうに、この七日から糊を作り、あらかじめ上紙を作つておくのである。さうしないと、上紙が十一日までには乾かない。」とある。

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