江戸期版本を読む

当コンテンツは、以下の出版物の草稿です。『翻刻『道歌心の策』』『翻刻・現代語訳『秋の初風』』『翻刻 谷千生著『言葉能組立』』『津の寺子屋「修天爵書堂」と山名信之介』『津の寺子屋「修天爵書堂」の復原』。御希望の方はコメント欄にその旨記して頂くか、サイト管理者(papakoman=^_^=yahoo.co.jp(=^_^=を@マークにかえてご送信ください))へご連絡下さい。なお、当サイトの校訂本文及び注釈等は全て著作物です。翻字自体は著作物には該当しませんが、ご利用される場合には、サイト管理者まご連絡下さい。

校訂「義経記」(日本文学大系本)WEB凡例

  1:底本は「義経記」(1926年国民図書刊 国会図書館デジタルコレクション)です。
  2:校訂の基本方針は「本文を忠実にテキスト化しつつ、現代の人に読みやすくする」です。
  3:底本のふりがなは全て省略しました。
  4:底本の漢字は原則現在(2024年)通用の漢字に改めました。
  5:二字以上の繰り返し記号(踊り字)はテキストにないため、文字表記しました。
  6:底本の適宜改行し、句読点および発話を示す鍵括弧は適宜修正、挿入しました。
  7:底本の漢文は適宜訓読を修正し、書き下して示しました。
  8:校訂には『義経記』(日本古典文学大系新装版 1992年岩波書店刊)を参照しました。
  9:底本の修正のうち、必要と思われるものは校訂者注で示しました。但し、以下の漢字は、原則としてかな表記に変更しました。
仮名表記とした主な漢字
あ行
 あざわら(冷笑)ふ あた(能)ふ あた(辺)り あた(中)る あと(跡) あなた(彼方) あは(哀)れ あはれみ(哀憐) あひて(対手) あ(逢)ふ あまた(数多) あまつさ(剰)へ あやか(肖)る あやまち(過失) あ(有)り ありか(在所) あわ(周章)つ いか(如何・何) いかゞ(如何) いかに(如何) いか(忿)る い(厳)し いた(痛)はし いたづ(徒)ら いつ(何時) いづかた(何方) いづく(何処) いづ(何)れ いとけな(幼)し いにし(古)へ いば(嘶)ふ いへど(雖)も いや(弥) いや(痍)す い(愈)ゆ いよいよ(弥・愈) い(入)る うしろ(背) うた(慨)て う(打)ち うつぶし(俯伏) うと(疎)まし お(於・置)いて おとづ(音信)る おのれ(汝) おはしま(坐)す おは(坐)す おぼ(覚)ゆ おろ(愚)か
か行
 か(斯) かしこ(彼処) かすか(微) かたき(讐敵) かたく(頑固)なはし かたち(容貌・容) かたびら(衫) かち(徒) かちはだし(徒跣) かづ(被)く かどはか(誘拐)す かね(予)て かはらけ(土器) かひふ(貝吹)す かへ(却・反)つて かやう(斯様) かりそめ(苟且・仮初) きこしめ(食召・聞召)す きつと(急度) きやつ(彼奴) くせごと(曲事) くつ(履) くら(闇)し くりがた(刳形) くれなゐ(呉藍) げ(実・気) けが(汙)す けが(汙)る けなげ(健気) げ(実)に こ(此) こゝ(爰・此処) こと(言) ことば(言・詞) こなた(此方) こは(強) これ(是れ・是)
さ行
 さ(左・然) さかさま(逆様) さ(指)す さすが(流石) さて(扨) さね(礼) さぶら(侍)ふ さま(様) さや(𩋡) さら(晒)す しか(然)り しき(頻)り したゝり(滴瀝) しのぶ(忍) しばし(暫時) しばらく(暫時) しもべ(下部) しるし(徴・印) しれもの(癡者) すか(賺)す すぐ(直) すく(健)やか すゝ(雪・濯)ぐ すべ(凡)て すまひ(住居) すみか(住処・棲所) すゑ(季) 責(せ)む そし(誹・謗)る そ(其) そこ(其処) そ(染)む そら(虚) そらそら(空々)なり それがし(某)
た行
 た(闌)く た(度)し たゝず(佇)む たづ(尋)ぬ たと(仮)ひ たとへ(仮令) たはぶれ(戯言) たまたま(偶) ため(為) ためし(例) たやす(容易・輒)し たれがし(某) ちかづき(親人) ぢき(直) ちやう(丁) ついで(次・序) つが(番)ふ つ(付)く つく(竭)す つとめ(勤修・勤行) つはもの(兵・兵士) つゆ(露) つらゝ(凍冰) と(疾)し と(問・訪)ふ とぶら(訪)ふ とま(留)る とも(共) ども(共・供) と(兎)もかく(角)
な行
 なか(中)ら ながら(存命)ふ な(無)し なゝめ(斜)ならず な(成)り の(除)く のゝし(訇)る の(陳)ぶ
は行
 はからひ(計略) ばか(許)り はかりごと(謀) は(穿・履)く は(作)ぐ はざま(峡間・間・狭間) はした(下女) は(走)す はた(将) はだし(跣) はな(放)る は(食)む はや(逸)る ばら(原) ひがごと(僻事) ひ(退)く ひざまづ(跪)く ひしめ(犇)く ひそ(密)か ひた(直) ひつさ(提)ぐ ひでり(旱魃) ひとしほ(一入) ひとへ(偏)に ひと(独)り ひとりごと(独言) ひねもす(終日) ひま(間隙) ひめもす(終日) ふるまひ(挙動) ほとり(辺)
ま行
 まう(設)く まさ(正)なし まじ(交)る ま(先)づ まつりごと(政) まのあたり(眼前) まばら(疎) まゝ(儘) まみ(見)ゆ まも(凝視)る まゆみ(檀弓) まゐ(参・進)らす まんまる(真円) みち(途) みめ(眉目) むちう(鞭)つ むな(空)し むな(心)もと むら(村) め(奴) も(若)し もてな(款待・饗)す もと(許・本) もとで(資本) もの(物・者) ものう(懶)し もみ(紅葉)づ もろとも(諸共)
や行
 やう(様) やが(軈・頓)て やす(易)し やなぐひ(胡簶) やには(矢庭) やゝ(稍) ゆる(免)す ゆゑ(故) よ(除)く よ(能)し よそ(余所) よ(依)つて よみがへ(蘇生)る よみぢ(黄泉)
ら行
 ら(等)
わ行
 わ(和) わざ(態)と わらは(妾) わり(理)なし をこ(烏滸) をは(了)る

校訂「義経記」(日本文学大系本)WEB目次

校訂「義経記」(日本文学大系本)WEB目次

巻第一
11 義朝都落ち 常磐都落ち 牛若鞍馬いり
12 正門坊 牛若貴船詣で
13 吉次が奥州物語 遮那王殿鞍馬いで

巻第二
21 鏡の宿にて吉次宿に強盗入る 遮那王殿元服
22 阿野の禅師に御対面 義経陵が館を焼き給ふ
23 伊勢三郎義経の臣下に初めて成る 義経秀衡に御対面
24 鬼一法眼

巻第三
31 熊野の別当乱行 弁慶生まる 弁慶山門を出づ
32 書写山炎上
33 弁慶洛中にて人の太刀を取りき 弁慶義経と君臣の契約
34 頼朝謀叛の事 頼朝謀叛により義経奥州より出で給ふ事

巻第四
41 頼朝義経に対面
42 義経平家の討手に上り給ふ 腰越の申し状
43 土佐坊義経の討手に上る
44 義経都落ち  45 住吉大物二箇所合戦

巻第五
51 判官吉野山に入り給ふ
52 静吉野山に捨てらる 義経吉野山を落ち給ふ
53 忠信吉野にとゞまる  54 忠信吉野山の合戦
55 吉野法師判官を追つ掛け奉る

巻第六
61 忠信都へ忍び上る 忠信最後
62 忠信が首鎌倉へ下る 判官南都へ忍び御出あり
63 関東よりくわんじゆ坊を召さる
64 静鎌倉へ下る  65 静若宮八幡へ参詣

巻第七
71 判官北国落ち  72 大津次郎 荒乳山
73 三の口の関とほり給ふ  74 平泉寺御見物
75 如意の渡りにて義経を弁慶うち奉る
76 直江の津にて笈さがされき
77 亀割山にて御産 判官平泉へ御著

巻第八
81 嗣信兄弟御弔ひ 秀衡死去
82 秀衡が子ども判官殿に謀叛 鈴木三郎重家高館へ参る
83 衣川合戦
84 判官御自害 兼房が最期 秀衡が子ども御追討
校訂「義経記」(日本文学大系本 1926年刊)WEB凡例

女院六道廻り物語の事

 法皇、申させ給ひけるは、「何事につけても、如何に昔も恋しく、便無き御事にて候らん。隔てなく仰せられよ。昔のよしみ、更に忘れまゐらせず。」と聞こえさせ給へば、女院、仰せのありけるは、「何かは便なく候べき。朝夕の事は、隆房の北の方{*1}、訪らひ申せば煩ひなし。かかる身となりて候。一旦の歎きに任せてこそ、君をも恨み申し候ひつれども、誠は、将来不退の悦びと思ひ取りてこそ候へ。
 「今更申すに及ばざる事なれども、偕老同穴の眤びをなして、千秋万歳と祝ひし竜顔{*2}に別れ奉りて、幾程もなく父相国に後れ候ひにき。都の外に漂ひて後は、又八條の尼公にも別れ、天津御子にも後れ奉りぬ{*3}。親しき人々を始めて、有りと有りし者ども、唯一時に亡びにき。親を思ひ、子を悲しむ心は、獣すら猶ほ深しと申す。まして人界の類には、何事かこれにすぎん。釈尊入滅の時は、身子の羅漢{*4}、五百の弟子の悲しみのこゑ、天に昇り、地を響かす。迦葉尊者{*5}のをめきけるこゑは、三千世界に聞こえけり。生者必滅の道、愛別離苦の理なれども、この身の有様は、昔も今もためし少なうこそ候ひぬれ。いかばかりかは惜しくも悲しくも候ひし。されども、殺さぬ命、かぎりあれば、一人残り留まりて、かの後生菩提を弔ひ候へば、賢くぞ残り留まりにける。貧女が一灯とかやも、かくこそとおぼえ候。諸仏薩埵、いかでか納受し給はざらん。
 「中にも、繰り言{*6}の様に候へども、五障三従の身{*7}を持ちながら、早く釈迦大師遺弟につらなる竜女が成仏、憑みあり。忝く弥陀他力本願を信ず。韋提の得悟、疑ひなし。この世は仮の宿なれば、屠所の羊の足早き思ひをなし、月日の鼠の口騒がしき観を凝らしつつ、三時に六根の罪障を懺悔して、一筋に九品の蓮台を相待つ。臨終の夕に一念の窓を開きて、順次の暁、三尊の迎へを得ん事、これ既に一旦別離の故に候。法華経には、『善知識は、これ大因縁。』と説かれたり、かの浄蔵、浄眼は、生きて父の知識たり。安徳天皇は、崩じて母の知識たり。されば、今度生死を離れ、菩提に到らん事は、思ひ定めて候。『三界無安、猶如火宅。衆苦充満、甚可怖畏。』と説かれたれば、さなしとても、心ある人は厭ふべし。いはんや我が身、か程の憂目にあひながら、いかでかつれなく思ひ知らず、むなしく過ごし候べき。
 「また、韋提希夫人の、悪子のために閉ぢられて、如来を請じ奉り、『不楽閻浮提、濁悪世也。此濁悪処、地獄餓鬼畜生盈満、多不善聚。』と歎き給ひけんも、思ひ知られ候。その故は、人は皆、生を替へてこそ六道をば見候へ。そも隔生即忘{*8}とて、生死、道へだたりぬれば、昇沈苦楽、悉くに忘れ、胎卵湿化、一つとして覚えず。それに、自らこそ生を替へずして、まのあたり六道の苦楽を経廻り候へ。天上人中の快楽も、夢の中の戯れ、地獄鬼畜の愁歎も、迷ひの前の悲しみなり。今は、見たき所もなく、住みたき境も候はず。されば、日に随ひ、衆苦充満の穢土の厭はしく、時を逐ひ、快楽不退の極楽は、ねがはれ候へば、さりとも今度は生死をば離れ候ひなんと、憑もしく候へば、世の事、つゆ思はず。されば、何事にかは今更貪る思ひもあり、諂ふ心も候べき。」と申させ給ひければ、法皇、聞こし召して、「この條、覚束なく候。天竺には、釈迦如来の御弟、難陀尊者在俗の時、仏の通力に随ひ奉り、九山八海を廻り、天上地獄を見たりき。唐土には、玄弉三蔵、まのあたりに六道を見たまひき。我が朝には、金峯山の日蔵上人、蔵王権現の御誓ひによりて六道を見たりとは、承り伝へたり。かれ等は皆、大権の化現たる上、仏神の通力によつて見て候。女人の御身として、正しく六道を御覧じける事、実しからぬ様にこそおぼえ候へ。」と仰せければ、女院、うち笑はせ給ひて申させ給ひけるは、「勅諚、誠にさる事に候へども、自ら生を替へずして、六道の苦楽を経たる有様を、この世になぞらへて申し候はん。
 「我が身、入道相国の世に候ひし時、その娘として、何事にか乏しく候ひし。院の御位の時は、后の宮にて候ひしかば{*9}、十五にて内へ参り、やがて女御の宣旨を下され、十六の時、后妃の位に備はり、君王の傍らに候ひて、朝には朝政を進めまゐらせ奉りて、夜は夜を専らにして、二十二にて王子御誕生ありしかば、春宮にこそ立たせ給ふべかりしかども、いつしか天子の位につかせ給ひしかば、二十五にて院号賜はりて、建礼門院と云はれ、天下の国母と仰がれし後は、百敷の大宮人にかしづかれて、一天四海を掌の内に握り、百官万民を眼の前に照らしつゝ、竜楼鳳闕の九重の中に、清涼紫宸の床を相並べ、玉の簾の内、錦の茵の上にして、詩歌、管絃、扇合、絵合の興に戯れ、玄上、鈴鹿、河霧、牧馬{*10}のしらべを聞き、大内山の花の春は、南殿{*11}の桜に心を澄まして、日の長き事を忘れ、清涼殿の秋の夜は、雲居の月に思ひを懸けて、夜の明けなん事を歎き、冬は右近の馬場にふる雪を、まづさく花かと悦び、夏は木陰涼しき暁に、初郭公の音も嬉し。玄冬素雪のさゆる朝なれども、衣を重ねて嵐を防ぎ、九夏三伏の熱き夕には、泉に向つて納涼す。長生不老の術を求めて、衰へざる事を願ひ、蓬莱不死の薬を尋ねて、久しく保たん事を思ひき。乳泉の滋味、朝夕に備へたり。綺羅の妙なる色、夜も昼もかざらんとす。一門の栄華は堂上花の開くが如く、万人の群集は門前に市を立つるに異ならず。かの極楽世界の荘厳も、菩薩聖衆の快楽も、いかでかこれにはすぎんとおぼえ候ひき。貧しき事なくほこりて、乏しき事を知らず。醜き事なし。忘れて善所をねがはず。明けても暮れても楽しみ栄えし事は、大梵王宮の高台の閣、天帝釈城の勝妙の楽しみ、衆車園の遊び、歓喜園の戯れ、ねがはざるにふるなる忉利天の葡萄、打たずして鳴る帝釈宮の楽の音、かくこそと思ひ侍りき。
 「これは暫く天上の楽しみと思ひ候ひしに、去にし養和の秋の初め、七月の末に、木曽義仲に都を落とされて、行幸、俄になりしかば、九重の内を迷ひ出でて、八重立つ雲の外をさし、故郷を一片の煙とうち眺め、旅衣万里の浪に片敷きて、浦伝ひ島伝ひして明かし暮らし、折々に波間幽かに千鳥の声を聞き、夜もすがら友なき事を悲しみ、浦路遥かに藻塩の煙を見る。ひねもすは堪へぬ思ひ、懇ろなり。憑む便りもなく、寄る方もなかりし事は、これやこの、天上の五衰退没{*12}の苦ならんと覚えて、『天上欲退時、心生大苦悩。地獄衆苦痛、十六不及一{*13}。』と書かれたるも、これなり。今度人界に生まれて、愛別怨憎の苦を受け、盛者必衰の悲しみを含めり。人間の事は、今更申すに及ばず。
 「同じき秋の末、九月上旬になりしかば、昔は雲の上にして見し月を、今は伏屋の床にしてながめし事の心憂さ。十月の頃にや、備中国水島、幡磨国室山、所々の合戦に打ち勝ちたりしかば、人々の色、少し直りて見えし程に、摂津国一谷と云ふ所にて、一門多く亡びし後は、直衣束帯の姿を改めて、皆鉄をのべて身をつゝみ、諸の獣の皮を以て足手に纏ひつゝ、鎧の袖を片敷き、兜の鉢を枕とし、明けてもくれても、目に見ゆる物は弓箭兵杖の具、海にも陸にも、耳に聞こゆるものは、矢叫び軍呼ばひの声のみなり。これやこの、須弥の半腹にして、天帝修羅、各、権をあらそひ、三世にたえず戦ふ一日三時の闘諍、天鼓自然鳴の報いならんと思へば、修羅道の苦患も経たる心地し候ひし。
 「豊後国にて、少し心を休むるやらんと思ひ候ひし程に、尾形三郎に追ひ出だされて、山鹿城に篭り入りしに、空かき曇り、晴れ間もなかりしかば、唐の一行上人の火羅国へ流されたりけんやうに、月日の光をも見ず、浅ましき有様にて候ひし程に、それをも追ひ落とされしかば、二位殿は、先帝をいだきまゐらせ、網代の輿に奉り、箱崎の方へ落ちさせ給ひしに、その外の人々は、公卿も殿上人も、かちはだしにて迷ひ出でつゝ、兵船に棹をさし、泣く泣く浪路に焦がれ給ひ、よるせも知らぬ船の中に漂ひしかば、山野広しといへども、休まんとするに処なし。国々悉く塞がつて、御調物もかまへねば、供御を備ふる人もなし。人天多しといへども、食を願ふに与へずといへるに異ならず。諸の苦中に、これ尤も甚し。得尸羅城の餓鬼は、五百生の間、終に水を得る事なく、師子国の餓鬼は、恒伽河の七度山となり海となるまで、飲食の名を聞かず。さればにや、血肉の頭を破りて脳を食し、恩愛の子を生みて自ら食す。これを以て、倶舎には、『我夜生五子、随生皆自食。』といへり。まれに供御を備へたりとも、水なければまゐらせず。万水、海に満ちたれども、飲まんとすれば潮水なり。自ら陸にあがりて、このみをとらんとすれば、敵、既に寄するといへば、捨てて去りぬ。百菓、林に結ぶ。取らんとすれば人目しげし。餓鬼道の苦に異ならず。
 「一谷を落とされて後は、夫は妻に別れ、妻は夫に別れ、親は子を失ひ、子は親に後れて、喚き叫ぶこゑ、船の中に充ち満ち、泣き悶ゆるこゑ、陸の側らに尽きざりしかば、叫喚、大叫喚{*14}とおぼえたり。助くる船ありしかども、人多く込み乗りしかば、底の水屑となりにき、たまたま船に乗る人も、心にまかせぬ波の上と云ひながら、あるいは淡路のせとをおし渡り、阿波の鳴戸を沖懸かりに、紀伊路に赴く船もあり。あるいは葦屋の沖に懸かりつゝ、浜の南宮を伏し拝み、九国へ赴く船もあり。思ひ思ひに漕ぎ別れ、あまの焼く火に身を焦がし、磯打つ波に袖ぬらす。白鷺の遠樹に群れ居るを見ては、源氏の旗かと肝を消し、夜雁雲居に啼き渡るを聞きては、兵船を漕ぐかと魂を迷はす。源平、互にまけぬれば、首を刎ね、足手を切る。身は紅と染むる時は、等活地獄ともおぼえたり。玄冬素雪の冬の夜は、衾は袖狭くすそ短くして、霜の朝、雪の夜も、褄を重ぬる事なければ、紅蓮、大紅蓮の氷に閉ぢらるゝが如し。九夏三伏の夏なれども、班女が扇も捨てられつゝ、
泉の水をも結ばねば、木陰涼しき便りもなし。焦熱、大焦熱の炎に焦がるゝ心地なり。
 「今一つの道も{*15}経たる様に思ひ候へども、それまでは申すも事長き様に候へば。」と申させ給へば、法皇、仰せのありけるは、「六道の有様、生を替へず御覧じ廻る由、誠に理に候。但し、今一つを残させ給ふ事、いと本意なし。仏道には懺悔とて、罪をかくさずとこそ承り候へ。御憚りあるまじきにこそ。」と申させ給へば、女院、「家を出でて、かかる身となり候ひぬれば、何かは苦しく候べき。又、御伴に候はるゝ人々も、見なれし事なれば、恥づかしかるべきに非ず。」とて、「自らは、君王にまみえられ奉りて、后妃の位に備はり候ひし上は、仮初の妻を重ぬべしとこそ思はず候ひしに、阿波民部大輔成能が、宗盛に心を通はして、呼び入れまゐらせしかば、讃岐国屋島につきて、大裏造りなどして安堵して候ひしに、そこをも源氏に追ひ落とされて、一つ船の中に住居なりしかば、兄の宗盛に名を立つ{*16}と云ふ聞きにくき事を云ふをも、又、九郎判官にいけどられて、心ならぬあだ名を立て{*17}候へば、畜生道に云ひなされたり。誠に女人の身ばかり、申すに付けて悲しけれども、我が身一人の事にあらず。昔もためしの候ひければこそ。
 「天竺の術婆訶は、后の宮{*18}に契りをなし、夢路を恨みて炎と昇り、阿育大王の鳩那羅太子は、八万四千の后を亡ぼし給ひけり。震旦には、則天皇后は長文成に会ひ給ひ、遊仙崛を作らせ、雪山と申す獣に会ひけんも口惜しや。唐の玄宗皇帝の楊貴妃は、一行阿闍梨に心を移して、咎なき上人を流し給ふ。吾が朝には、聖武天皇の御娘孝謙女帝は、道鏡禅師に心を移して、恵美大臣を亡ぼし、仁明天皇の五條后と申すは、冬嗣大臣の御女なり。業平中将に御心を通はして、『我が通ひ路の関守は』と侘び給ひければ、中将も、『よひよひ毎にうちもねななむ』とながめけり。文徳天皇の染殿后は、清和帝の御母儀、太政大臣忠仁公の御女なり。柿本紀僧正、御修法のついでに思ひを懸け奉り、紺青鬼と変じて、御身に近付きたりけん、同じ道と云ひながら、怖ろしくぞおぼゆる。清和天皇の二條后と申すは、贈太政大臣長良の御女なりけるが、在原業平が忍びつゝ、五條渡りの西の対の亭に、『月やあらぬ』とながめけり。寛平法皇の京極御息所は、時平大臣の御娘。志賀寺詣の御時、かの寺の上人、心を懸け奉り、今生の行業を譲り奉らんと申せば、
  よしさらば真の道のしるべして我をいざなへゆらぐ玉の緒
とうちながめ給ひて、御手を授け給ひけり。源氏の女三の宮は、柏木右衛門督に通ひて、薫大将を産めり。
  誰が世にか種は蒔きしと人問はばいかゞ岩根の松は答へむ
と、源氏の云ひけんも恥づかしや。狭衣大将は、聞きつゝも、『涙に曇る』と忍びけり。
 「天竺、震旦、我が朝、貴きも賤しきも、灯に入る夏の虫、妻を恋ふる秋の鹿、山野の獣、江河の鱗に至るまで、この道{*19}に迷ひて心を尽くし、命を失ふ習ひなり。されば、『所有三千界、男子諸煩悩、合集為一人、女人為業障。』と仏の説き給へるも、理とおぼえたり。今も昔も、男女の習ひ、力及ばざる事なれば、とてもかくても候ひなん。これをこそ、『自らは六道を経たり。』とは申すに候へ。
 「但し、猶ほ生死の境にかへるべき恩愛の道の悲しさは、先帝の御事、忘れんとすれども忘れず。思ひ消せどもけされず。これや妄念ならんと思ひ候へば、仏の御名を唱へ、経教の文を習ひ、花を摘み、水を汲む事怠らず。『よしよし、恩愛別離の歎きによらずば、いかでか厭離穢土の志もいでこん。』と、うち翻して思へば、ゆゝしき善知識とこそおぼえて候へ。長門国壇浦にして、『軍は只今ぞ限り。』とて、人々の海へ入り給ひし時、自らも同じ波の底{*20}に沈まずして、武士に取りあげられ、二度都へ帰り上り、憂き事を見聞き候ひしには、『いかなりける先の世の罪の報いにや。』と、口惜しく候ひしかども、今は、『死なざりける事の嬉しさよ。』と、引き替へ嬉しく候なり。
 「その故は、自ら生き残らずば、誰かはこの人々の後世をば弔ひたまひ候べき。この寂光院と申すは、よに静かなる所にて候。如何に情なき人なりとても、心を澄まし、哀れを催すべき有様なれば、いはんや自らは、恨み歎き、身にあまり候へば、御堂に参りて夜もすがら香の煙と燃え焦がれ、朝の露と泣きしをれて、静かに念仏申し経を読みて、人々の後世を祈り申し候ひし験にや、ある夜、いさゝかまどろみ入りて候ひし夢に、昔の大内には超過して、ゆゝしき所に罷りて候ひしかば、先帝を始めまゐらせて、一門の卿相雲客、目出たく礼儀して候ひしかば、『都を出でて後は、かかる所は未だ見ず。これは、いづこぞ。』と尋ね候ひしに、新中納言知盛と思しき人、『これは、竜宮城。』と答へしかば、『有り難かりける所かな。こゝには、苦はなきか。』と問ひ候ひしに、『いかでか苦なくて候べき。竜軸経の中に説かれて候。よくよく御覧じて、後生弔ひましませ。』と申すと思ひて覚め候ひぬ。『あな、無慙や。さてはこの人々、竜宮城に生まれにけり。後世を弔はれて、かく夢に見えけるにこそ。』と思ひて、雪の朝の{*21}寒きにも、峯に登つて花を摘み、嵐烈しき夕にも、谷に下りて水を掬ぶ。難行苦行、日重なり、転経念仏、功積もりて、仏に祈り申し候へば、『さりとも今はこの人々、竜畜の依身を改めて、浄土菩提に到りぬらん。』とこそおぼえて候へ。化功、己に帰するの道理あれば、自らも、この尼女房達も、憑もしくこそ候へ。さてもさても、有り難き御幸に、何となきくどき事のいぶせさこそ。」と仰せられもあへさせ給はず、御涙に咽ばせ給へば、公卿、殿上人の、籬のはざま、杉の御庵の隙より承り、見まゐらせて、昔、まのあたり見まゐらせし御事なれば、いみじかりし御有様も、只今の様におぼえて哀れなり。限りあれば、昔、釈尊の霊鷲山にて法説き給ひけんも、いかでかこれにはすぎんとぞ、各、袖を絞りける。
 法皇、御涙をおし拭はせましまして、「一乗妙典の御法をたもち、十念成就の本願を憑みて、九品の往生をねがひ、聖衆来迎を待ち、すぎ別れさせ給ひし高倉先帝、安徳天皇、一品大相国、屋島内府{*22}已下兄弟骨肉、六親眷属もろともに、敵のために亡ぼされ、波の底に沈みし輩も、一仏浄土に生まれ給へと、難行苦行して御弔ひあれば、妄念の罪早く消えて、菩提の縁を結び給はん事、御疑ひあるまじ。」と申させ給ひけるに、夕陽、西に傾きて、入合の鐘も響きけり。小夜も漸うふけ行けば、巴峡の猿の一叫び、憐れを催す友となり、こゝろ騒がしきむさゝびも、所からにぞ心澄む。いさゝ群竹吹く風に、旅寝の夢も覚めぬべし。玉巻く葛葉{*23}の朝露は、行人の袖を絞るらん。何事に付けても御心澄まずと云ふ事なし。
 卯月の末の事なれば、ありあけの月の出づるをしるべにて、法皇、還御ならせ給ふ。御名残惜しく思し召しければ、たゞ先立つものとては、御涙ばかりなり。芹生の里の細道、来迎院のありさま、忘れ難くぞ思し召す。女院も、御名残申させ給ひつゝ、遥かに見送りまゐらせて、ありし昔の大内山の御住居、思し召し出ださせ給ひて、御名残惜しく思し召しければ、泣く泣く立ち入らせ給ひつゝ、御本尊に向ひまゐらせて、高声に念仏申させ給ひて、「天子聖霊、成等正覚。」と廻向せさせ給ひて、絶え入るやうにおはしけるぞ、いとほしき。昔は、南に向はせ給ひて、天照大神、八幡大菩薩を拝ませ給ひて、「天子宝算、千秋万歳。」とこそ祈らせ給ひしに、今は西に向はせ給ひつゝ、「弥陀如来、観音、勢至。」と唱へて、「過去聖霊、往生極楽。」とたむけさせ給ふも哀れなり。
 建久三年三月十三日に、法皇、隠れさせ給ひぬ。その後、主上{*24}、代をしろしめす。おり居{*25}にならせ給ひて、承久三年、思し召し立つ御事のありけるが、御謀叛の事顕はれて、院{*26}は、隠岐国へ流されましまし、宮々は、国に遷され給ひぬ。雲客卿相、あるいは浮島が草の原にて露の命を消し、あるいは菊河の早き流れに憂名を流すなど、披露ありければ、女院、聞こし召して、今更又悲しくぞ思し召しける。この院は、高倉院の御子にておはしまししかば、女院には御継子にて、安徳天皇の御弟にましまししかば、よその御事とも思し召さず。配流の後は、隠岐院とぞ申しける。又は、後鳥羽院とも名づけ奉る。
 平家、都を落ちて西海の浪に漂ひ、先帝、海中に沈み給ひ、百官悉く亡びし事、只今の様におぼえて、その愁へ、未だやすまらせ給はず。「いかなる罪の報いにて、露の命の消えやらで、又かかる事を聞こし召すらん。」と、尽きせぬ御歎き、うち続かせ給ひけるにつけても、朝夕の行業、おこたらせ給はざりけるが、御歳六十八と申しし貞応三年の春の頃に、五色の糸を御手にひかへ、「南無西方極楽教主、阿弥陀如来。本願誤り給はず、必ず引摂し給へ。」と祈誓して、高声に念仏申させ給ひて、引き入らせ給ひければ{*27}、紫雲、空に聳き、異香、空に薫じつゝ、音楽、雲に聞こえ、光明、窓を照らして、往生の素懐を遂げさせ給ひけるこそ貴けれ。二人の尼女房も、遅速こそありけれども、皆本意の如く、臨終正念に終はりけり。
 泡沫無常の世の習ひ、分段輪廻の里の癖、いづくか常住の所なる。誰も不退の身ならねども、上一人の玉の台より、下万民の柴の枢に至るまで、今も昔も類すくなき事どもなり。されば、女院の今生の御恨みは、一旦の事。善知識は、これ莫大の因縁なり。昔の如く后妃の位におはしまさば、いかでか法性の常楽をば経させ給ふべき。源平両家のあらそひありて、憂目を御覧じけるは、ひとへに往生極楽の勝因のきざしけるにこそ。」と、心ある人は、皆貴み申しけるとかや。
 (本云)南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。十返廻向すべし。

源平盛衰記 下巻 終


校訂者注
 1:底本は、「隆房北の方」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 2:底本は、「竜顔(りうがん)」。底本頭注に、「高倉院。」とある。
 3:底本は、「又八條の尼公(あまぎみ)にも別れ、天津御子(あまつみこ)にも後れ奉りぬ」。底本頭注に、「〇八條の尼公 建礼門院の母二位尼。」「〇天津御子 安徳天皇。」とある。
 4:底本は、「身子(しんじ)の羅漢(らかん)」。底本頭注に、「釈迦十大弟子中の舎利弗をいふ。羅漢とは修行者の悟了到達する極位。」とある。
 5:底本は、「迦葉尊者(かせふそんじや)」。底本頭注に、「釈迦上足の弟子。」とある。
 6:底本は、「老言(おいごと)」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 7:底本は、「五障(しやう)三従(じう)の身」。底本頭注に、「女人。」とある。
 8:底本は、「隔生即忘(きやくしやうそくまう)」。底本頭注に、「人は皆過去世を有するが生まれ変つたので一も記憶しないといふ意」とある。
 9:底本は、「院の御位(みくらゐ)の時は後宮(こうきう)にて候ひしかば」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇院の御位 高倉天皇の御在位。」とある。
 10:底本は、「玄上(げんじやう)鈴鹿(すゞか)河霧(かはぎり)牧馬(ぼくば)」。底本頭注に、「〇玄上 琵琶の名器」「〇鈴鹿 和琴の名器」「〇河霧 の和琴の名器」「〇牧馬 琵琶の名器」とある。
 11:底本頭注に、「紫宸殿。」とある。
 12:底本は、「五衰退没(すゐたいもつ)」。底本頭注に、「天人の果報尽滅する相。」とある。
 13:底本頭注に、「天上の果報尽きて其の境界を退く時の苦痛の烈しいのに比べると地獄の受苦は其の十六分の一にも及ばないといふ。」とある。
 14:底本頭注に、「大叫喚地獄の略。」とある。
 15:底本は、「道を経たる」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 16:底本頭注に、「艶聞を流すこと。」とある。
 17:底本頭注に、「浮気の名を世間に立てる。」とある。
 18:底本は、「后室」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
 19:底本頭注に、「男女の道」とある。
 20:底本は、「同じ流れの底」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
 21:底本は、「雪の朝(あした)寒きにも」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
 22:底本は、「一品大相国(いつぽんだいしやうこく)、屋島内府(やしまのないふ)」。底本頭注に、「〇一品大相国 一位太政大臣平清盛。」「〇屋島内府 平宗盛」とある。
 23:底本は、「玉巻(ま)く葛(くず)の葉(は)の朝露(あさつゆ)は、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い削除した。
 24:底本頭注に、「後鳥羽天皇」とある。
 25:底本頭注に、「御譲位。」とある。
 26:底本頭注に、「後鳥羽上皇。」とある。
 27:底本は、「引入らせ給ひけれど、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。

法皇大原入御の事

 後白河法皇、女院のかすかなる御有様を聞こし召して、御心ぐるしく思し召しければ、「一つ御所にも住ませたまはばや。」と思し召しけれども、その頃、九條殿、摂政にておはす。近衛殿{*1}、御篭居なり。いつしか引き替へたる代になりて、都の人の心、さまざまなり。また、「十郎蔵人行家、九郎大夫判官義経等、都を出でたりといへども、生死未だ定まらず。人の口もつゝましく、鎌倉源二位の漏れ聞かん事、憚りあり。」と思し召して過ごさせ給ふほどに、秋も暮れ冬も過ぎて、あらたまの年立ちかへり、文治二年にもなりぬ。
 二月上旬の頃、「大原山の奥へ御幸ならばや。」と思し召しけれども、余寒猶ほ烈しくして、去年の白雪消え遣らず、谷のつらゝもうちとけねば、思し召しとゞまらせ給ふに、春も過ぎ、夏にもなりにけり。北祭{*2}などうち過ぎて、卯月の末の三日、思し召し立たせ給ふ。大原の御幸とは、世の聞こえを憚らせ給ひつゝ、「補陀落寺の御幸。」と披露ありて、あじろの輿に奉り、夜を篭めて、忍びて寂光院へ御幸あり。御伴の公卿には後徳大寺左大将実定、花山院大納言兼雅、按察使大納言泰通、冷泉大納言隆房、侍従大納言成通、桂大納言雅頼、堀川中納言通亮、花園中納言公氏、梅小路三位中将盛方、唐橋三位綱屋、源三位資親。殿上人には柳原左馬頭重雅、吉田右大弁親季、伏見左大弁重弘、右兵衛佐時景。北面には高倉左衛門尉、石川判官、河内守長実を始めとして、已上十八人とぞ聞こえし。
 清原深養父(肥後守元輔と云ふ。下総守春光の息なり。)が建てたりし補陀落寺を拝ませたまひつゝ、女院の住ませたまひける芹生の里、大原や、小塩の山の麓なる寂光院へぞ御幸なる。分け入る山の道すがら、秋の頃にはあらねども、夏草のしげみが末をたどり入らせたまふにも、露にしをるゝ御衣の袖、膚を徹す嵐の音、すさまじくぞ思し召す。卯月末のことなれば、遠山にかゝる白雲は、散りにし花の形見とや、青葉に見ゆる梢には、春の名残、惜しまるゝ。始めたる御幸なれば、御覧じ馴れたる方もなし。細谷川の水、岩間を過ぐる音すごく、芹生の里の細道、誰踏み初めて通ひけん。逢ふ人稀なる岨のがけ路、たどりたどり{*3}入らせ給ふほどに、女院の御庵室近くなるよし聞こし召せども、緑衣の監使、宮門を守るなし。主殿の伴の御奴{*4}、庭を払ふも見えざりけり。
 かの寂光院の景気を御覧じければ、古くつくりなせる山水木立、何となくわざとにはあらねども、由あるさまなる御堂なり。
  {*5}甍破れては霧不断の香を焼き  枢落ちては月常住の灯をかゝぐ{~*5}
とは、かやうの所をや、まうすべき。檐には、つた茂り、庭には葎、片敷きて、心のまゝに荒れたる籬は、しげき野辺よりも猶ほ乱れ、冰とけぬる谷川の筧の水も絶え絶えなり。浪に漂ふ池のうきぐさ、錦をさらすかと疑はれ、露を含める岸のやまぶき、玉を貫くかと誤たる。青葉まじりの遅桜、梢の花も散り残り、若紫の藤の花、墻根の松にかゝれるも、春の名残を惜しめとや、君の御幸を待ちがほなり。「八重立つ雲の絶え間より、初音ゆかしき山郭公をば、この里人のみや馴れて聞くらん。」と思し召し知らせたまひけり。岸の青柳色深くして、池水みどりの浪に立ちければ、法皇、かくぞ思し召しつゞけさせ給ひける。
  池水に岸の青柳散りしきて浪の花こそさかりなりけれ
 御堂の後ろに蓬の軒を並べて、あやしげなる柴の庵、二つ三つありけるを、「女院の御庵室。」と聞こし召せば、「哀れなる御すみかかな。」と叡覧あり。北面の下﨟を以て、「人やある。」と尋ねさせ給へども、寂寞の柴の枢なれば、無人声として答ふる人もなし。
  {*6}香煙窓を出づるも、芝草覆ひて人無し  禅侶壇に向ふ、金磬鳴りて響き有り{~*6}
瑜伽振鈴の音にこそ「庵室の中に人あり。」とも聞こし召せ。香煙細く燃え昇りて、片々として空に消え、人跡遥かに絶え果てて、蕭然として音もせず。
 僅かに人目ありがほに、賤しき尼一人、御留守に置かれたり。法皇、この尼を召して、「女院はいづくへ渡らせ給ひたるぞ。」と御尋ねありければ、尼、答へて申しけるは、「この上の山へ御花摘みに入らせ給ひ候ひぬ。」と申すに、法皇、これを聞こし召すより、いつしかあはれに思し召して、「さこそ世を遁れさせ給ふと申しながら、如何に賤がわざをば、せさせ給ふぞ。御前近く召し仕はせ給ふ人のなきか。自らつませ給はずば、御事の闕けさせ給ふべきか。」と聞こえさせ給へば、この尼、申しけるは、「家を出で、御飾りをおろさせ給ふ程にては、などかさる御行ひもなくて候べき。
 「過去の戒善修福の功によつて、忝く天下の国母とならせ給ひたれども、先の世にかやうの懇ろの御勤めの候はざりければこそ、今かかる憂目をも御覧ぜられ候へ。されば、『欲知過去因、見其現在果。欲知未来果、見其現在因。』とて、『過去の業因によつて現在の得報を知り、現在の善悪に応じて未来の苦楽を悟るべし{*7}。』と説かれ候。又、『今我疾苦、皆由過去。今生修福、報在将来。』とも宣べられて候へば、大内遊宴の昔の楽しみは、誠に戒善によれりと申せども、その戒徳、始終たもちとげさせ給はざりける故、露の御命、かりそめに置く草の便りも枯れ果てさせ給へば、因果の道理をも{*8}知ろし召し、未来の昇沈をかねて覚りおはしまして{*9}、花を摘み水をあぐる御事、いつも御自らなり。なじかは賤がわざとも思し召さるべき。」と申すを御覧ずれば、色黒うして、つかれ衰へたる老尼の、紙衣{*10}の上に濃き墨染の衣をぞ著たりける。
 「あの身の程にて、賢々しくかやうの事を申す不思議さよ。」と思し召し、「己は如何なる者ぞ。」と問はせ給へば、尼、さめざめとうち泣きて、暫しは物も申さず。「いかに、いかに。」と度々勅諚ありければ、尼、泣く泣く申すやう、「かやうの有様にて申すも、愚かにおぼえつゝ、憚り思ひ候へども、度々勅諚、恐れあれば申すなり。我は、一年、平治の乱れの時、悪衛門督信頼に失はれ候ひし少納言入道信西が孫、弁入道貞憲が娘に阿波内侍と申ししは、尼がことに候ひき。」とて、御前にうつぶき臥して泣きければ、法皇、聞こし召し、「無慙やな。まことや、この尼は、紀伊二位にも孫なり。かの二位と申すは、法皇の御乳母なりければ、この尼も御乳母子にて、殊に御身近く召し仕はれし人なれば、懐かしかるべきものにこそ。替はれるかたちとて、御覧じ忘れけるこそ哀れなれ。」と思し召し、竜顔より御涙せき敢へずぞ流れさせ給ひける。
 さて、女院を待ちまゐらさせ給ふその程に、かなたこなた、たたずませ給ひて御覧ずれば、いさゝ小竹に風そよぎ、後ろは岸、前は野沢。山月、窓に臨んでは閨の灯をかゝげ、松風、軒をおとづれて草庵の枢を開く。世にたたぬ身の習ひとて、憂き節しげき竹柱、都の方の言伝は、間遠にかこふ竹垣や。僅かに伴なふ者とては、賤が爪木の斧の音、正木の葛、青つゞら{*11}。長山遥かに連なつて、来る人稀なる里なれば、たまたまこと問ふ者とては、巴峡の猿の一叫び、ねぐら定むる鶏、やもめ烏のうかれ音。樒の花柄、花笥{*12}、かつ見るからに哀れなり。
  {*13}耳に満つるは樵歌牧笛の声  眼を遮るは竹煙松霧の色{~*13}
とかや。「かかる閑居の有様を、忍びてすごさせ給ひけん。」と叡覧あるにつけても、御涙ぞ進みける。草の庵の御住居、幽かなる有様、
  {*14}瓢箪しばしばむなし  草、顔淵の巷に滋し{~*14}
と云ひつべし。柴の編戸も荒れはてて、竹の簀子もあらはなり。
  {*15}藜蓼深く鎖ざせり  雨、原憲の枢を湿ほす{~*15}
ともおぼえたり。何事に付けても御心を傷ましめずと云ふことなし。
 さても、竹の編戸を打ち叩き叡覧あれば、昔の空薫き{*16}にひき替へて、香の煙ぞ匂ひたる。僅かに方丈なる御庵室を、一間は仏所にしつらひて、身泥仏{*17}の三尺の弥陀の三尊、東向きに立てられたり。来迎の儀式とおぼえたり。中尊の御手には五色の糸をかけ{*18}、御前の机に浄土の三部経を置かれける。内に観無量寿経あそばしさしたりとおぼしくて、半巻ばかり巻かれたり。傍に一巻の巻物あり。披きて御覧ずれば、高倉先帝、安徳天皇を始めまゐらせて、太政入道、小松大臣、屋島内府{*19}以下、一門の卿相雲客、御身近く召し仕はれける諸大夫、侍に至るまで、姓名を書き註されたる過去帳なり。「毎日に読みあげ、弔はせ給ふにや。」と思し召しければ、竜顔に露を争ひて、御衣の袖にもかゝりける。
 仏の左には普賢の絵像を懸け、御前には八軸の法華経を置かれたり。右には善導和尚の御影を懸け奉り、浄土の御疏{*20}九帖、往生要集を置かれたり。北の壁には琴、琵琶各一帳立てられたり。「管絃歌舞菩薩の来迎の粧ひを思し召しなぞらふか。」とおぼえたり。又、時々の御心慰みにや、古今、万葉、源氏、狭衣、その外の狂言綺語の物語、多く取り散らされて、折々の御手すさみ、昔の御名残とおぼえて哀れなり。
 御傍の障子の色紙形には、諸経の要文ども書かれたり。中にも、
  一切業障海  皆従妄想生  若欲懺悔者  端坐思実相
と見えたり。「昇沈不定の悲しみ、この死生、かの歎きも、真如平等の理に迷ひ、妄想顛倒の心より起これり。懺悔の方法によらずば、いかでか恵日の光{*21}に照らされん。」とおぼえたり。
  諸行無常  是生滅法  生滅滅已  寂滅為楽
とも書かれたり。この文の心は、「一切の行は、皆無常なり。無常の虎の声は、朝々暮々耳に近づけども、世路のはしりに聞こえず。雪山の鳥の音は、日々夜々に今日死を知らずと{*22}鳴けども、すみかを出でて忘れず。冥途の使、身に競ひ、屠所の羊の足早うして、親に先立つ子、子に先立つ親、妻に別るゝ夫、夫に後るゝ妻、形は芭蕉の風に破るゝがごとく、命は水の泡、波に随ひて消えぬ。万法皆、しかなれば、諸行無常。」と置かれたり。
  若有重業障  無生浄土因  乗弥陀願力  必生安楽国
とも書かれたり。「妄想懺悔も便りなく、寂滅為楽も覚らねば、弥陀の悲願にすくはれて、往生安楽憑みあり。」とおぼえたり。又、参河入道寂照が大唐国へ渡りつゝ、清涼山の竹林寺に詣でて、終焉をとりける夕に詠じける詩もあり。
  {*23}草庵人無く杖に扶けられて立つ  香炉火有り西に向ひて眠る
  笙歌遥かに聞く孤雲の上  聖衆来り迎ふ落日の前{~*23}
  雲の上にほのかに楽の音すなり人にとはばやそら聞きかそも
この詩歌の次に、女院、かくぞ思し召しそへられける。
  乾くまもなき墨染の袂かなこはたらちねが袖の雫か
御腰障子にも、女院の御手とおぼしくて
  おもひきや深山の奥に住居して雲居の月をよそにみむとは
  消えがたの香の煙のいつまでと立ちめぐるべきこの世なるらむ
この外、四季の歌も書かれたり。
  いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな
  うちしめり菖蒲ぞかをる郭公啼くや五月の雨の夕暮
  久かたの月の桂も秋は猶ほ紅葉すればや照りまさるらむ
  さしもまた問はれぬ宿と知りながら踏までぞ惜しき庭の白雪
 北の山のはに三尺の閼伽棚を造り、樒入れたる花がつみ、霰玉ちる閼伽の折敷ぞ置かれたる。御傍らの障子を引きあけ御覧ずれば、御寝所とおぼえて、蕨のほどろををり敷きて、鹿の臥猪の床{*24}をあらそへり。夜の御衾とおぼしくて、白き{*25}御小袖のあやしげなるに麻の衣、紙の御衾{*26}とり具して、竹の棹に懸けられたり。これ等を御覧じ廻らすに付けても、片山陰の柴の庵の御住居、一品ならず哀れに、御心すまずと云ふ事なし。昔は玉の台をみがき、錦の帳の中に、漢宮入内の后として明かし暮らし給ひつゝ、漢家本朝の珠玉、各、数を尽くし、綾羅錦繍の御衣、色々袖をそろへて、御目に御覧ずるものとては、源氏、狭衣の狂言をのみもてあそび、御耳に触るるものとては、詩歌管絃の音をのみ聞こし召ししに、今は、柴ひき結ぶ庵の中、げに消え易き露の御住居。「盛者必衰の理、眼の前にあらはなり。」と、思し召し続けさせ給ふにも、昔、逢坂の蝉丸が、山階や藁屋の床に住まひつゝ、往き来の人に身をまかせ、月日を送りけるにも、
  世の中はとてもかくてもありぬべし宮も藁屋もはてしなければ
と詠じける事も限りあれば、かくこそ{*27}思し召し続けさせ給ひては、「中々由なく御幸なつて、この有様を見つるものかな。」と、竜顔、所せきまで御涙を流させ給へば、御伴の公卿。殿上人、北面の輩に至るまで、皆袖をぞ絞りける。
 かやうに哀れなる御事ども、やゝ御覧じ廻らしける程に、後ろの山の尾上より、岩の岨路を踏み渡り、木の根の間を伝ひつゝ、尼こそ二人おり下れ。共に濃き墨染の衣をぞ著たりける。一人の尼は、爪木に蕨折り副へて、胸に抱へて前にあり。一人の尼は、樒、躑躅、藤の花入れたる花笥、肱に懸けて後にあり。法皇、怪しく思し召し、御めかれもせず{*28}御覧ずれば、爪木に蕨折り具して胸に抱へたる尼は、大宮太政大臣伊通公の御孫、鳥飼中納言伊実卿の御娘、五條大納言邦綱卿{*29}の養子、大納言典侍殿と申して、本三位中将重衡卿の北の方、先帝の御乳母なり。花篭肱に懸けたるは、即ち女院にてぞおはしける。御留守に置かれたるは、弁入道貞憲の娘、阿波内侍と申すも、大納言典侍殿と申すも、女院の后の宮にて渡らせ給ひし御時より、つかのまも御身を離れまゐらせざりし人どもの、実の道に入らせ給ふまでも付きまゐらせたりける、「先の世の御契りの程、哀れ。」とぞ思し召しける。
 法皇は、女院と御覧じまゐらせられて、忝くも、かちの御行にて、山に向ひて歩みおはしましけり{*30}。女院は、かくとも思し召しよらせ給はざりければ、おり下らせ給ひけるが、夏山のみどりの木の間より、御庵室の方を御覧ずれば、払はぬ庭の叢に、あじろの輿を舁きすゑて、例よりも、よに人繁き様なりければ、「里遠み人も通はぬ柴の戸に、あやしや。誰かこと問はん。」と思し召して、木陰に添うて、よくよくこれを御覧ずれば、法皇の御幸とみなしまゐらせ給ひつゝ、「思ひの外の御幸かな。」と、恥づかしさにあきれさせ給ひつゝ、思し召し煩はせ給ひて、山へも帰り上らせ給はず、御庵室へもすゝみ下らせ給はず。
 寂寞の柴の枢には、ひとへに摂取の光明を待ちて、十念の窓の前には、専ら聖衆の来迎をこそ期しつるに、思ひの外なる御幸なる上、さすが御身の有様も、如何にとやらん思し召し、「只今の程に消えも失せなばや。」と思し召しけれども、霜雪ならねば、そも叶はせ給はず。霧霞ならねば、立ち隔つる御事もなし。「心憂し。」と思し召して、立ちすくませ給ひたりけるが、「世を遁れ、様をやつして深山に篭り、自ら花を摘み、水を揚ぐる程にては、何かは苦しかるべき。猶も憂世に留まる心のあればこそ、恥づる思ひもあらめ。」と思し召し返して、つれなく下りさせ給ひにけり。
 御庵室に入らせ給ひつゝ、昔の御名残とおぼえて、鈍色二つ衣を御衣の上に引き懸けさせ給ひて、法皇の御前に参らせ給ひつゝ、「如何にかく遥々の山の奥、浅ましき{*31}草の庵へ御幸ならせ給ひ候こそ、現ともおぼえ候はね。」と、仰せられも敢へさせ給はず、御涙をはらはらと流させ給へば、法皇は、「その後、御ゆくへの覚束なさに参りたり。」とばかりにて、御袖を竜顔に押し当てさせ給ひて、御涙にぞ咽ばせ給ふ。暫しは互に御ことばも出し給はず。
 やゝ久しくありて、女院、御涙の隙より、年頃日頃、うらめしく思し召しける御事どもを、崩し立てて申させ給ひけるは、「君をば高き山、深き海とこそ、宗盛は憑みまゐらせて、内々は西国へも御幸なしまゐらせんと計らひ申し候ひしに、思ふには違ひて、御所にも渡らせ給はず。後にこそ比叡の山にとも承り候ひしか。君に棄てられまゐらせ候ひし後は、憑む木の本に雨のたまらぬとかやの風情にて、宗盛以下一門の人々、泣く泣く都を落ち、長夜に迷へる心地して、寿永の秋の空に、主上{*32}ばかりを取りまゐらせて、あくがれ出で候ひし有様、御輿を差し寄せて、『疾く疾く。』と進めまゐらせ候ひしかば、まだいとけなき主上をいだき奉り、神璽、宝剣ばかりとり具して、自らも心ならず御輿に乗り候ひぬ。御伴には平大納言時忠、内蔵頭信基ばかりぞ候ひし。行く先も涙にしをれて道見えず。都をば一片の煙と焼き上げて、西海の浪の上に漂ひ、習はぬ船の中にて年月を送る。
 「春の雁の越路に伝ひ、秋の燕の故郷に帰るをよそにうらやみ、夜は渚の千鳥と共に泣き明かし、昼は磯辺の浪に袖を浸す。海士の焼く藻の夕煙、物や思ふと燃え焦がれ、枯野の草の朝露に、虫の恨みもいと悲し。浦吹く風もいたく身にしみ、岸打つ波も音すさまじ。満つ潮船を挙ぐる時は、只今や水の底に入りなんと魂をけし、荒き風波をたゝふる時は、又すはや船を覆すと心を迷はす。
 「さても筑前国太宰府とかやに落ち著きて候ひしかば、近き夷は皆参りたれども、遠きはまづ使をまゐらせ候ひし程に、豊後国の住人尾形三郎維義が、一院の御諚とて、大勢にて寄すると申ししかば、取る物も取り敢へず、駕輿丁{*33}もなければ、玉の御輿をも打ち捨てて、主上を次の御輿にのせまゐらせて、あやしき者どもにかかせまゐらせつゝ、公卿、殿上人、指貫のそばをとり、女房、北の方は、裳唐衣を泥にふみ、箱崎と申す所へ我先にと、あらそひ行けども、猶ほ道遠くおぼえて、一日に行き帰るなる道を、ゆきもやらず、日も暮れ夜もふけぬ。折節雨風烈しくて、沙を天にあぐ。竜にあらねば雲へも上らず、鳥にあらざれば天にもかけり難し。唯長夜に迷へる心地にて、男女の泣き悲しむこゑは、地獄の罪人もかくやと思ひ知られ候ひき。人々は、『鬼界、高麗とかやへも渡らん。』と申し候ひしかども、波風向ひて叶はねばとて、山鹿兵藤次秀遠に具せられて、山鹿城に篭りて候ひしに、維義、猶ほ寄すと申ししかば、竜頭鷁首もなければ、たかせ{*34}とて小船どもに乗りつれて、夜もすがら落ち行きて、豊前国柳と申す所に著きて、それに七日ぞ候ひし。これへも敵寄すと申ししかば、又船に取り乗り、潮に引かれ波に任せて漂ひ行き候ひしに、小松の大臣が子、三男左中将清経が、『都をば源氏に攻め落とされぬ。鎮西をば維義に追ひ出だされぬ。いづくへ行けば遁るべきか。』とて、月の隈なく候ひし夜、船の屋形の上に昇り、東西南北見渡して、『あはれ、はかなき世の中かな。いつまであるべき所ぞや。網にかゝれる魚の様に心苦しく物を思ふ事よ。』とて、念仏静かに申しつゝ、波の底に沈み候ひにき。これぞ憂き事の始めにて候ひし。
 「その後、讃岐の屋島に渡りて、阿波民部大輔成能が、もてなし奉りて、『内裏造るべし。』など聞こえ候ひしかば、少し安堵したる心地の候ひし程に、こゝをも九郎判官に攻め落とされて、屋島を漕ぎ出で、又潮に引かれ風に随ひて、いづくを差して行くともなくゆられありきて、長門国門司関壇浦にて、『今は、かく。』とて、人々皆、海へ入り候ひにき。二位殿は、先帝をいだき奉りて、練袴のそば高くはさみ、『君の御宝なれば。』とて、宝剣を腰にさし、神璽をば脇に挟みて、鈍色の二つ衣うちかづき、舷に臨み候ひしかば、先帝、あきれさせ給ひて、『これは、いづくへ行かんずるぞ。』と仰せられ候ひしに、『兵どもが、御船に箭をまゐらせ候へば、こと御船へ行幸{*35}なしまゐらせ候なり。』と申すや遅き、波の底へ入り候ひにき。
 「さて、先帝の御乳母帥典侍、あの大納言典侍已下の女房達、これを見て、声をそろへて喚き叫ぶ事、おびたゞし。軍よばひにも劣り候はず。あるいは波の底に沈み、あるいはいけどりにせられて命を失ふ。中にも、宗盛、清宗父子、沈みも果てなで、生きながら取り上げられ候ひしを、まのあたり見候ひし事、いつ忘るべきともおぼえず。自らも同じ底のみくづとなり候ひしを、渡部番とかや云ふ者にとり上げられ、あらけなき武士に具せられ、つれなく命のながらへつゝ、再び都に帰り上り、かく憂身の有様として、君の御幸を見まゐらする事の恥づかしさよ。」とて、又さめざめと泣きおはしましければ{*36}、法皇、仰せの有りけるは、「人間有為の理、三界無安の悲しみ、あるにつけても歎き多く、無きにつけても愁へ繁し。生老病死の仮の身、終に保ちうる事、難し。愛別怨憎の定まれる報い、人毎にあり。前後の相違、耳に近うして、常にこれを聞き、老少不定、眼に遮り、しきりにこれを見る。世のさが、人のくせ{*37}と思し召して、今更に御歎き{*38}候べからず。但し、この御有様にて渡らせ給ふとは、ゆめゆめ知りまゐらせず。誰かは訪らひまゐらせ候。」と申させ給へば、「信隆、隆房の北の方の計らひとしてこそ、かくても候へ。昔は、かの人々の育みにて世に候べしとは、かねて思ひ寄らざるものを。」とて、御涙ぐみおはしければ、法皇{*39}、「如何に、六條摂政の方よりは、申す事候はずや。」と申させ給へば、「世に恐れて、それよりはおとづるゝ事候はず。」と申させ給ひけり。
 この御有様を見聞きまゐらせて、法皇を始めまゐらせつゝ、供奉の公卿、殿上人、あるいは冠の巾子{*40}を地に付け、あるいは束帯の袖を絞りけり。その中に、後徳大寺左大将実定は、哀れに堪へ給はず、御前の座を立ち出でて、縁におはしけるが、古き詩を、
  {*41}朝には紅顔有りて世路に誇り  夕には白骨となりて郊原に朽つ{~*41}
と詠じ給ひて、御庵室の柱に、
  古は月にたとへし君なれど光失ふ深山べの里
と書きすさまれたりければ、いとゞ哀れを催しけり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「〇九條殿 藤原兼実」「〇近衛殿 藤原基通」とある。
 2:底本頭注に、「賀茂祭。」とある。
 3:底本は、「問ひ(二字以上の繰り返し記号)」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 4:底本は、「主殿(とのも)の伴(とも)の御奴(みやつこ)」。底本頭注に、「主殿寮の下僕で禁廷の掃除などをする者。」とある。
 5・6・13~15・23・41:底本、この間は漢文。
 7:底本は、「悟るへし」。
 8:底本は、「道理も知召(しろしめ)し、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
 9:底本は、「覚りおはして、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 10:底本は、「紙衣(かみこ)」。底本頭注に、「紙にて製したる衣。」とある。
 11:底本は、「賤が爪木(つまぎ)の斧の音、正木(まさき)の葛(かづら)、青黒葛(あをつゞら)」。底本頭注に、「〇爪木 爪折つた薪」「〇正木の葛 一種の蔓草。」「〇青黒葛 蔓草の一種。」とある。
 12:底本は、「樒(しきみ)の花柄(がら)、花笥(はなかつみ)」。底本頭注に、「〇花笥 花を摘み入れる篭。」とある。
 14:底本頭注に、「〇顔淵 孔子の門弟にて清貧なりし人。」とある。
 15:底本頭注に、「〇原憲 孔子の門弟で狷介なりし人。」とある。
 16:底本は、「空薫(そらだき)」。底本頭注に、「何処よりとも知れぬやうに香を薫らすこと。」とある。
 17:底本は、「身泥仏(しんでいぶつ)」。底本頭注に、「土偶の仏体。」とある。
 18:底本頭注に、「引接を祈る心で阿弥陀如来の手にかける」とある。
 19:底本頭注に、「平宗盛」とある。
 20:底本は、「浄土の御疏(ごしよ)」。底本頭注に、「善導和尚の著はした観無量寿経疏。」とある。
 21:底本は、「恵日(ゑにち)の光」。底本頭注に、「仏の智恵の朗らかなのを日に喩へた語。」とある。
 22:底本は、「知らず鳴けども、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 24:底本は、「蕨(わらび)のほどろををり敷きて、鹿の臥猪(ふすゐ)の床(とこ)を争へり。」。底本頭注に、「〇蕨のほどろ 蕨」の穂のたけ開けてほゝけたもの。」「〇鹿の臥猪の床 枯草をかき集めて床となし猪などの臥すのにたとへる。」とある。
 25:底本は、「白御小袖」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 26:底本頭注に、「紙で作つた寝衣。」とある。
 27:底本は、「かくこそと思し召し」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い削除した。
 28:底本頭注に、「目を放さず。」とある。
 29:底本は、「邦綱(くにつな)殿」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
 30:底本は、「歩(あゆ)みおはしけり。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 31:底本は、「浅ましく草(くさ)の庵(いほ)へ」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 32:底本頭注に、「安徳天皇。」とある。
 33:底本は、「駕輿丁(がよちやう)」。底本頭注に、「輿を舁く者。」とある。
 34:底本は、「舼舟(たかせ)」。底本頭注に、「艇の小さくて深きもの。」とある。
 35:底本は、「こと御船へ御幸」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇こと御船 別の船」とある。
 36:底本は、「泣き坐(おは)しければ、」。
 37:底本頭注に、「人の有様。」とある。
 38:底本は、「今更に歎き候べからず」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
 39:底本は、「法師」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 40:底本は、「冠(かぶり)の巾子(こし)」。底本頭注に、「冠の後方に立ちて髻を容れるために設けたもの」とある。

巻 第四十八

女院吉田御住居 同 御出家の事

 建礼門院と申すは、平家太政入道清盛の御娘、高倉院の后、安徳天皇の御母儀におはしましき。悪徒に引かれて都を出でて、三年の間、西海に落ち下らせ給ひて、舟の中、波の上に漂ひ給ひし程に、元暦元年三月二十四日に、長門国門司関壇浦にて源氏のために攻められつつ、あるいは命を白刃のさきに失ひ、あるいは身を蒼海の底に沈めつゝ、上下悉く亡び給ひし時、建礼門院も、先帝と同じく海中に入りおはしけるを、渡辺党に源兵衛尉眤が子に源五馬允番と云ふ者、取り上げ奉りたりければ、それよりあらけなき武士の手に懸かつて、西国より都へ還り上り給ひて、東山の麓吉田の辺なる所にぞ立ち入らせたまひける。
 中納言法橋慶恵とて奈良法師なりける者の朽ち坊なり。住みあらして年久しくなりにければ、庭には草深うして、軒のしのぶ茂り、簾絶えて、ねや顕はなれば、雨風もたまるべくもなし。昔は玉の台をみがき、錦の帳に纏はれて明かし暮らしたまひしに、今は、ありとある人には皆別れ果てて、浅まし気なる朽ち坊に、只一人落ち著き給へる御心の中、いかばかりなりけん。道の程、ともなひ給ひつる女房達も、これより皆散り散りに成り果てて、御心細さにいとゞ消えいるやうにぞ思し召されける。誰憐れみ誰育み奉るべしとも見えず。魚の陸に上るが如く{*1}、鳥の子の巣を離れたるよりも猶ほ悲しく、うかりし波の上、船の中の御住居、今は恋しく思し召さるゝ。「同じ底のみくづとも成りぬべかりし身の、せめての罪の報いにや、残り留まりて。」と思し召せども甲斐ぞなき。「天上の五衰の悲しみ、人間にもありけるものを。」とぞ思し召し知られける。
 五月一日、女院、御髪おろさせ給ふ。御戒師には長楽寺の阿証坊上人印西ぞ参られける。御布施は、先帝の御直衣とぞ承りし。上人、これを賜はりて、何と云ふことばをば出ださざりけれども、涙を流し、墨染の袖絞るばかりなり。先帝の海へ入らせ給ひけるその期まで召し奉りたりければ、御移り香も未だ尽きず。御形見とて西国より持たせ給ひたりけり。「如何ならん世までも、御身を放たじ。」と思し召しけれども、御布施に成りぬべき物のなき上、「かの御菩提の御ために。」と、泣く泣く取り出ださせ給ひけるぞ悲しき。上人、庵室に還り、かの御直衣にて十六ながれの幡を縫ひ、長楽寺の常行堂に懸けられて、御菩提を弔ひ奉り給ひけるこそ有り難けれ。「たとひ修羅闘戦の咎によつて蒼海の底に沈み給ふとも、などか常行荘厳の善に答へて、青蓮の上に生まれ給はざらん{*2}。」と、憑もしくこそおぼえけれ。
 女院は、御年十五にて内へ参り{*3}給ひしかば、やがて女御の宣旨下されき。十六にて后妃の位に備はり、君王の傍に候し給ひて、朝には万機をすゝめ奉り、夜は夜を専らにせさせ給ひ、二十二にて王子御誕生おはしましき。いつしか皇太子に立たせ給ふ。東宮、位に即かせ給ひしかば、二十五にて院号あり。建礼門院と申しき。太政入道の御娘なる上、天下の国母にておはしまししかば、世の重くし奉る事、なゝめならず。今年は二十九にぞ成らせ給ふ。桃李の粧ひ猶こまやかに、芙蓉の御形、未だ衰へさせ給はねども、翡翠の御簪、今は付きても何にかはせさせ給ふべきなれば、御様かへさせ給へり。
 憂世を厭ひ、誠の道に入らせ給へども、御歎きは休まらず。「人々の、今はかうとて海に入り給ひし有様、先帝の御面影、いかならん世にか思し召し忘るべき。露の命、何にかゝりて今まで消えやらざるらん{*4}。」と思し召し続けさせ給ひては、御涙せき敢へさせ給はず。五月の短夜なれども、明かしかねさせたまひつゝ、自らうちまどろませ給ふことなれば、昔の事を夢にだに御覧ぜず。遅々たる残りの灯火の、壁に背きたる影幽かに、蕭々たる暗き夜、窓打つ雨音しづかなり。「上陽人が上陽宮に閉ぢられたりけん悲しさも限りあれば、さびしさは、これには過ぎじ。」とぞ思し召されける。昔を忍ぶ妻となれとや、もとの主や移し植ゑたりけん軒近き花橘の、風なつかしく薫りたりける折しも、山郭公の一声二声おとづれて、遥かに聞こえければ、御涙をおし拭はせ給ひて、御硯の蓋にかくぞ書きすまさせ給ひける。
  郭公花橘の香をとめてなくはむかしの人や恋しき
と。大納言典侍、これを御覧じて、いとゞ悲しく思し召しければ、
  猶も又昔をかけて忍べとやふりにし軒に薫るたち花

大臣父子鎌倉より上洛 附 女院寂光院入御の事

 女院は、「吉田{*5}にも、かりに立ち入らせ給ふ。」と思し召しけれども、五月も立ち、六月も半ばに過ぎぬ。今日までもながらへさせ給ふべくも思し召さざりしかども、御命は限りあれば、明けぬ暮れぬと過ぐさせ給ひし程に、「大臣殿父子、本三位中将、鎌倉より還り上りたまふ。」と聞かせ給ひければ、誠ならず思し召しけれども、「甲斐なき命ばかりもや。」と思し召しける程に、「大臣殿父子は、都近き近江国勢多と云ふ所にて、うせたまひぬ。」と聞こし召しければ、悲しとも云ふばかりなし。三位中将、奈良の大衆の中へ出だされて、今は限りの御有様、御首は大卒堵婆に釘づけにせられ給へる事、又、大臣殿父子の御首、大路を渡して獄門の木に懸けられたる事、人参りて細々と申しければ、「由なく聞かせつるものかな。」と思し召しつゝ、御胸塞がり、御涙せき敢へさせ給はず。
 都に近くて、かかる事を聞こし召すに付けても、尽きせぬ御歎きは休まらせ給はず。「露の命、風を待つ程も、深山の奥にも篭り入らばや。」と思し召しけれども、さるべき便りもなし。吉田には、去んぬる文治元年九月九日の大地震に、築地も崩れ、荒れたる屋どもも{*6}、いとゞ傾き破れて、すませ給ふべき御有様にも見えさせ給はず。憑もしき人一人もなし。「地震に、地打ち返すべし。」など聞こし召せば、「惜しかるべき御命にはなけれども、只尋常にて{*7}消えいらばや。」とぞ思し召しける。くれ行く秋のさびしさは、いとゞ御心細からずと云ふ事なし。心の儘に荒れたる籬は、繁き野辺よりも露けくて、折知りがほに、いつしか虫の音声々に怨むるも哀れなり。都も尚静かなるまじき様に聞こし召しければ、「今少しかき篭らばや。」とぞ思し召しける。何事も替はり果てぬる憂世なれば、「如何に。」と申す人もなし。自ら哀れをかけ訪らひ申しける草の便りも枯れ果てて、誰育み奉るべしとも思し召さざりけるに、信隆卿の北の方と、隆房卿の北の方と、忍びつゝ、時々憐れみ申しける。
 秋も既に半ばになりぬ。御ものおもひに秋の哀れをさへうち副へて、いとゞ忍び難く思し召せば、夜のやうやう長くなる儘には、御寝覚めがちにて、明かしぞかねさせ給ひける。さても女院に候はせ給ひける女房のゆかりにて、「大原の奥に寂光院と申す所を尋ね出だしたり。」と申しければ、悦び思し召して、渡らせ給ふべきに定まりにけり。御乗物などは、冷泉大納言隆房の北の方より、忍びたる様にて女房車二両、まゐらせられけり。
 かの北の方と申すは、女院の御妹にておはしける故なり。大方も、常に訪らひ申されければ、「嬉し。」と思し召しけり。「この人の憐れみて、かくあるべしとこそ、かけても思し召さざりしか。」とて、御涙を浮かべさせ給へば、候ひ給ひける人々も、皆袖をぞ絞りける。
 頃は十月末の事にや、いと人通ひたりとも見えぬ道を、遥々と分け入らせ給ふに、四方の梢の色衰へたるを御覧ずるにつけても、「我が身の上ならん。」と、御心すまずと云ふ事なし。山陰なればにや、日も既に暮れかゝりぬ。何となく御心細く思し召すに、野寺の鐘の入相の音すごく、草葉の露にそぼぬれさせたまへり。かくて分け入らせ給へば、地形幽閑の洞の内、西の山の麓、北の山の谷の奥に、寂光院と云ふ御堂あり。あやしげなる坊もあり。「年経にけり。」とおぼえて、古りにける石の色、落ちくる水の音も、由ある体なり。緑蘿の垣、紅葉の山、絵にかくとも筆も及び難し。いつしか空かき陰り、うち時雨れつゝ、嵐烈しうして、木の葉猥りがはし。鹿の音時々おとづれて、虫の怨みも絶え絶え弱れり。秋の悲しみ、秋の哀れをさへ取り集めたる御心すごさに、古き歌を思し召し出でつゝ、
  奥山に紅葉ふみ分け啼く鹿の声聞く時ぞ秋はかなしき
と口ずさませ給ひけるにつけても、「浦伝ひ島伝ひせしかども、さすがこれ程はなかりしものを。」と思し召すぞ、「せめての御事。」とおぼえて哀れなる。秋の木の葉の霜を待つよりも、猶ほ危ふき御住居なり。窓打つ雨の音幽かに、松吹く風、物騒がしく、知らぬ鳥の声のみ軒近くおとづれて、たのもの雁は雲居遥かに啼きわたり、荻の上風うちそよぎ、はぎの下露、玉をたる。故ある気色、御覧じ棄て難く、昔の事ども思し召し出でさせ給ひて、御涙せきあへさせ給はざりける折しも、外面の谷の楢の葉のそよぎけるを、「誰ならん。日ごろは、さてこそありつれども、こと問ふ人もなかりつるに。故郷人のとひ来るにや。」と、御心迷ひして、急ぎ物の隙より御覧ずれば、故郷の人には非ずして、妻恋ふ鹿の籬の中をぞ通りける。山深き御住居、今更におぼし知られて、かくぞ思し召しつゞけさせ給ひける。
  里遠み誰か問ひ来む楢の葉のそよぐは鹿の渡るなりけり
かくて、御心凄く、幽かなる御住居にてぞ渡らせ給ひける。
 常は、仏の御前に参り給ひて、「過去聖霊、一仏浄土へ導き給へ。」と申させ給ふにつけても、「先帝の御面影、二位殿、今は、かくとて海へ入らせ給ひし御有様、如何ならん世にか思し召し忘るべき。露の命、何にかゝりて消えやらざるらん。」と思し召すも、理なり。御歎きは、ひしと御身に添ひて、忘れまゐらする時はなけれども、殊に悲しく思し召し出でさせ給ふ折節にや、仏の御前に倒れ臥させ給ひて、消えいらせ{*8}給ふ御事も度々なりければ、御前なる尼、女房達、「こは如何にや。」とて、抱へ奉りつゝ、をめき叫び合へり。やゝ久しくありてぞ、人心地出で来させ給ひける。「尽きせぬ御歎きの積もりにや。」とおぼえて哀れなり。かくて年月を経る程に、

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校訂者注
 1:底本は、「上るが如し、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 2:底本は、「などか常行荘厳(じやうぎやうしやうごん)の善に答へて、青蓮(しやうれん)の上に生まれ給はざらん」。底本頭注に、「〇常行荘厳の善 常行堂を麗美にした善行。」「〇青蓮 極楽浄土の蓮座。」とある。
 3:底本頭注に、「内裏に参ること、即ち入内」とある。
 4:底本は、「消えやらざらんと」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
 5:底本頭注に、「京都の郊外」とある。
 6:底本は、「屋(や)どもいとゞ」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
 7:底本は、「尋常(よのつね)にて」。底本頭注に、「普通の有様にて。」とある。
 8:底本は、「消えいらさせ給ふ」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。

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