上杉畠山流罪死刑の事
さる程に、上杉伊豆守重能、畠山大蔵少輔直宗をば、所領を没収し、宿所を破却して、共に越前国へ流し遣はされけり。この人々、「さりとも死罪に行はるるまでの事は、よも非じ。」と憑まれけるにや、暫しの別れを悲しみて、女房、幼き人々まで皆伴ひて下り給へども、馴れぬ旅寝の床の露、おきふし袖をや濡らすらん。日頃より翫びし事なれば、旅の思ひを慰めんと、一面の琵琶を馬鞍にかけ、旅館の月に弾じ給へば、王昭君が、「胡角一声霜後夢、漢宮万里月前腸」と、胡国の旅を悲しみしも、かくやと思ひ知られたり。
嵐の風に関越えて、紅葉ぞぬさと手向山、暮れ行く秋の別れまで、身にしられたる哀れにて、遁れぬ罪を身の上に、今は大津の東の浦、浜の真砂の数よりも、思へば多き歎きかな。絶えぬ思ひを志賀の浦、渚によするさざ波の、返るを見るも羨ましく、七座の神を伏し拝み、身の行く末を祈りても、都に又も帰るべき。事は堅田に引く網の、目にもたまらぬ我が涙、今津海津を過ぎ行けば、湖水の霧にそばだちて、波間に見えたる小島あり。これなりけり、都良香が古、「三千世界は眼の前に尽きぬ」と詠ぜしかば、「十二因縁は心の内に空し」といふ下の句を、弁才天の継ぎ給ひし竹生島よと望み見て、暫く法施を奉る。焼かぬ塩津を過ぎ行けば、思ひ越路の秋の風、音は荒血の山越えて、浅茅色づく野を行けば、末こそしらね梓弓、敦賀の津にも身を寄せて、袖にや浪のかかるらん。厳しく守る武士の、矢田野はいづく帰る山、名をのみ聞けるかひもなし。治承の乱れに篭りけん、火打が城を見上ぐれば、蝸牛の角の上三千界、石火の光の中一刹那、あはれあだなる憂世かなと、今更驚くばかりなり。無常の虎の身を責むる、上野の原を過ぎ行けば、今は我ゆゑ騒がしき、月の鼠の根をかぶる{*1}、いつまで草{*2}のいつまでか、露の命の懸かるべき。とても消ゆべき水の泡の、流れ留まる処とて、江守荘にぞ著きにける。
当国の守護代細川刑部大輔、八木光勝、これをうけ取つて、あさましげなる柴の庵の、暫しも如何住まれんと、見るだに物憂き住居なるに、警固を据ゑてぞ置かれたりける。痛ましきかな、都にてはさしも気高かりし薄桧皮の屋形の、三葉四葉{*3}に作り並べて綺麗なるに、車馬門前に群集し、賓客堂上に充満して、花やかにこそ住み給ひしに、今は引き替へたる鄙の長途にやすらふだにも悲しきに、竹の編戸、松の垣、時雨も風もたまらねば、袂の乾く隙もなし。されば、「如何なる宿業にて、かかる憂き目に逢ふらん。」と、我ながら怨めしくて、あるもかひなき命なりけるを、猶も師直、不足にや思ひけん、後の禍ひをも顧みず、ひそかに討手を差し下し、守護代八木光勝にいひ合はせ、「上杉、畠山を討つべし。」とぞ下知しける。
光勝、元は上杉が下知に随ふ者なりけるが、武蔵守に語らはれて、俄に心変じければ、八月二十四日の夜半ばかりに、伊豆守の配所、江守荘へ行きて、「昨日の暮ほどに、高弁定信の大勢にて当国の府に著きて候を、何事やらんと内々相尋ねて候へば、かたがたを討ち参らせんために下つて候なる。かやうにて御座候ては、いかでか叶はせたまひ候べき。今夜、急ぎ夜に紛れて落ちさせたまひて、越中越後の間に立ち忍ばせたまひて、将軍へ事の仔細を申し入れさせ給ひ候はば、師直等は、忽ちに御勘気を蒙り、御身の罪は軽くなつて、などか帰参の御事なかるべき。警固の兵どもにも道の程の御怖畏候まじ。唯、はや討手の近附き候はぬ先に落ちさせ給ひ候へ。」と、誠に弐心なげに申しければ、出し抜くとは夢にも知り給はず。取る物も取り敢へず、女房、幼き人々まで皆引き具して、上下五十三人、かちはだしなる有様にて加賀の方へぞ落ちられける。
時しもこそあれ、霰交じりに降る時雨、面を打つが如くにて、僅かに細き田面の道、上は氷れる馬さくり{*4}、踏めば深泥、膝にあがる。簑もなく笠も著ざれば、肌までぬれ徹り、手かがまり足凍えたるに、男は女の手を引き、親は幼き子を負ひて、いづくを落ち著くべき処とも知らず、唯、「後より討手や懸かるらん。」と、怖ろしきままに落ち行く心の中こそ哀れなれ。
八木光勝、かねて近辺に触れ廻り、「上杉、畠山の人々、流人の身として落ちて{*5}行く事あらば、是非なく皆討ち止めよ。」と申す間、江守、浅生水、八代荘、安居、波羅蜜の辺りに居たる溢れ者{*6}ども、太鼓を鳴らし鐘を撞いて、「落人あり。討ち止めよ。」と騒動す。上杉、畠山、これに驚いて、一足も先へ落ち延びんと倒れふためきて、足羽の渡しへ行き著きたれば、川の橋を引きはづして、足羽、藤島の者ども、川向かうに楯を一面に衝き並べたり。「さらば、後へ帰り、八木をこそ憑まめ。」と、憂かりし江守へ立ち帰れば、又、浅生水の橋をはね外して、後にも敵充ち満ちたり。ただ、疲れの鳥の、犬と鷹とに攻めらるらんも、かくやと思ひ知られたり。これまでも、「主の先途を見はてん。」と附き従ひたりける若党十三人、主の自害を勧めんため、押し肌脱いで、一度に腹をぞ切つたりける。
畠山大蔵少輔、続いて腹掻き切り、その刀を引き抜いて、上杉伊豆守の前に投げ遣り、「御腰刀は、ちと寸延びて見え候。これにて御自害候へ。」といひもはてず、うつぶしになつて倒れにけり。伊豆守、その刀を手に取りながら、幾程ならぬ憂世の名残惜しみかねて、女房の方をつくづくと見て、袖を顔に押しあて、唯さめざめと泣き居たるばかりにて、そぞろに時をぞ移されける。さる程に、八木光勝が中間どもに生け捕られて、刺し殺されけるこそうたてけれ。「武士たる人は、平生の振舞は、よしや、ともかくもあれ。あながち見る処にあらず。唯、最後の死にやうをこそ執する事なるに、きたなくも見え給ひつる死に場かな。」と、爪弾きせぬ人もなかりけり。
女房は、「年頃日頃のなじみ、昨日今日の情の色、いつ忘るべしともおぼえず。」と泣き悲しみて、「その淵瀬に身をも沈めん。」と、人目の隙を求め給ひけるを、年頃、知識に憑まれたりける聖、とかく止め教訓して、往生院の道場にて髪剃り落とし奉りて、なき跡を弔ふ外は更に他事なし{*7}とぞ聞こえし。
かやうに万なりぬれば、天下の政道、しかしながら武家の執事の手に落ちて、今に乱れぬとぞ見えたりける。
大嘗会の事
さる程に、「年内、やがて大礼あるべし。」と、重ねて評定せられけり。「当年三月七日に行ふべし。」と沙汰ありしかども、大儀、事行はれず。さりながら、「さのみ延引、如何。」とて、果たし遂げらるべきにぞ定まりける。
それ大礼と申すは、大内回禄の後は、代々の流例として、大極殿の儀式を移されて、太政官庁にてこれを行はる。内弁{*8}は、洞院太政大臣公賢公とぞ聞こえし。
「即位の内弁を大相国勤仕の事、先縦、たまさかなり{*9}。」或いは、「不快なり。」と、僉議まちまちなりしを、勧修寺大納言経顕卿、進んで申されけるは、「相国の内弁の先例、両度なり。保安、久寿の両主なり。保安は、誠に凶例ともいつつべし。久寿は又、佳例なれば、かの先規をいかでか嫌はるべき。その上、今の相国は、時に当たる職に達し、世に聞こえたる才幹なり。されば、君主も義を問ひ、政道を問ひ給へば、一人の師範、その身に当たれり。諸家も礼を学び、和漢の鑑と仰ぎて、四海の儀刑、人に恥ぢず。」と申されしかば、皆閉口して、是非の沙汰にも及ばず、相国、内弁に定まり給ひけり。外弁{*10}は、三條坊門源大納言家信、高倉宰相広通、冷泉宰相経隆なり。左の侍従は花山院宰相中将家賢、右の侍従は菊亭三位中将公真なり。
御即位の大礼は、四海の経営にて、緇素{*11}の壮観、比すべき事なければ、遠近、踵を継いで群をなす。両院{*12}も、御見物のために御幸なつて、外弁の仮屋の西南の門外に御車を立てらる。天子諸卿、冕服を著し、諸衛諸陣、大儀を服す。四神の旗を壺に立て、諸衛、鼓を陣に振る。紅旗、風に巻いて画竜揚がり、玉幡、日に映じて文鳳翔る。秦の阿房宮にも異ならず、呉の姑蘇台もかくやとおぼえて、末代といひながら、かかる大儀を執り行はるる事、ありがたかりしためしなり。この日、如何なる日ぞや。貞和五年十二月二十六日。天子、登壇即位して、数度の大礼、事ゆゑなく行はれしかば、今年はめでたく暮れにけり。
校訂者注
1:底本頭注に、「仏説譬喩経に『時有一人、遊於曠野、爲悪象所逐、怖走無依見一空井、傍有樹根、即尋根下潜身井中、有黒白二鼠、互齧樹根。』」とある。
2:底本は、「壁草(いつまでぐさ)」。底本頭注に、「古い壁に生ずる草。」とある。
3:底本は、「三葉四葉(みつばよつば)」。底本頭注に、「古今集の序に『この殿はむべもとみけりさき草の三葉四葉に殿造りせり。』」とある。
4:底本頭注に、「馬のふんだ泥路。」とある。
5:底本は、「落ち行く」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
6:底本頭注に、「無頼漢。」とある。
7:底本は、「更に事なし」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
8:底本頭注に、「節会に主として事を執つた職名で承明門内で諸事を弁じた故の名。」とある。
9:底本頭注に、「〇先縦邂逅なり 先例があまり無かつた。邂逅は期せずして会ふこと。」とある。
10:底本は、「外弁(げべん)」。底本頭注に、「節会に承明門内で諸事を弁じた職名。内弁に対す。」とある。
11:底本は、「緇素(しそ)」。底本頭注に、「僧侶と俗人。」とある。
12:底本頭注に、「光厳院と光明院。」とある。