江戸期版本を読む

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三月十二日合戦の事

 六波羅には、かかる事とは夢にも知らず。「摩耶の城へは大勢下しつれば、敵を攻め落とさん事、日を過ごさじ。」と心安く思ひける。その左右を、今や今やと待ちける所に、寄せ手、打ち負けて逃げ上るよし披露あつて、実説は未だ聞かず。何とある事やらん、不審、端多き所に、三月十二日申の刻ばかりに、淀、赤井、山崎、西岡辺三十余箇所に火をかけたり。「こは何事ぞ。」と問ふに、「西国の勢、已に三方より寄せたり。」とて、京中、上を下へ返して騒動す。
 両六波羅、驚いて、地蔵堂の鐘を鳴らし、洛中の勢を集められけれども、宗徒の勢は摩耶の城より追つ立てられ、右往左往に逃げ隠れぬ。その外は、奉行頭人なんど云はれて、肥え脹れたる者どもが馬に舁き乗せられて、四、五百騎馳せ集まりたれども、皆唯あきれ迷へるばかりにて{*1}、さしたる擬勢もなかりけり。六波羅の北方越後守仲時、「事の体を見るに、いかさま、居ながら敵を京都にて相待たんことは、武略の足らざるに似たり。洛外に馳せ向つて防ぐべし。」とて、両検断隅田、高橋に、在京の武士二万余騎を相副へて、今在家、作道、西の朱雀、西八條辺へ差し向けらる。これは、この頃南風に雪とけて、河水岸に余る時なれば、桂川を隔てて戦ひを致せとの謀りごとなり。
 さる程に、赤松入道円心、三千余騎を二つに分けて、久我縄手、西七條より押し寄せたり。大手の勢、桂河の西の岸に打ち臨んで、川向うなる六波羅勢を見渡せば、鳥羽の秋山風に、家々の旗翩翻として、城南の離宮の西門より、作道、四塚、羅城門の東西、西の七條口まで支へて、雲霞の如くに{*2}充満したり。されどもこの勢は、桂川を前にして防げと下知せられつるその趣を守つて、川をば誰も越えざりけり。寄せ手は又、思ひの外、敵大勢なるよと思惟して、左右なく討つて懸からんともせず。唯両陣、互に川を隔てて、矢軍に時をぞ移しける。中にも帥律師則祐、馬を踏み放してかち立ちになり、矢たばね解いて押しくつろげ、一枚楯の陰より、引き詰め引き詰め散々に射けるが、「矢軍ばかりにては勝負を決すまじかり。」とひとり言して、脱ぎ置いたる鎧を肩にかけ、兜の緒をしめ、馬の腹帯を堅めて、唯一騎、岸より下にうち下し、手縄かいくり渡さんとす。
 父の入道、遥かに見て、馬を打ち寄せ、面に塞がつて制しけるは、「昔、佐々木三郎が藤戸を渡し、足利又太郎が宇治河を渡したるは{*3}、かねてみをじるしを立てて案内を見置き、敵の無勢を目にかけて先をばかけしものなり。河上の雪消え、水増さりて、淵瀬も見えぬ大河を、かつて案内も知らずして渡さば、渡さるべきか。たとひ馬強くして渡る事を得たりとも、あの大勢の中へ唯一騎{*4}かけ入りたらんは、討たれずといふ事あるべからず。天下の安危、必ずしもこの一戦に限るべからず。暫く命を全うして、君の御代を待たんと思ふ心のなきか。」と、再三強ひて止めければ、則祐、馬を立て直し、抜いたる太刀を収めて申しけるは、「御方と敵と対揚すべき程の勢にてだに候はば、我と手を砕かずとも、運を合戦の勝負に任せて見候べきを、御方は僅かに三千余騎、敵はこれに百倍せり。急に戦ひを決せずして、敵に無勢の程を見透かされなば、戦ふといへども利あるべからず。されば、太公が兵道の詞に、『兵勝の術は、ひそかに敵人の機を察して、速やかにその利に乗つて、疾くその不意を撃て。』と云へり。これ、吾が困兵を以て敵の強陣を破る謀りごとにて候はずや。」と云ひ捨て、駿馬に鞭を進め、漲つて流るる瀬枕に、逆波を立ててぞ泳がせける。これを見て、飽間九郎左衛門尉、伊東大輔、河原林二郎、木寺相模、宇野能登守国頼、五騎続いて颯と打ち入れたり{*5}。
 宇野と伊東は馬強うして、一文字に流れを截つて渡る。木寺相模は、逆巻く水に馬を放たれて、兜の手辺ばかり僅かに浮かんで見えけるが、波の上をや泳ぎけん、水底をや潜りけん、人より前に渡りついて、河の向うの流れ洲に、鎧の水したでてぞ立ちたりける。彼等五人が振舞を見て、尋常の者ならずとや思ひけん、六波羅の二万余騎、人馬、東西に僻易して、敢へて駆け合はせんとする者なし。あまつさへ、楯の端しどろになつて色めき渡る所を見て{*6}、「先駆の御方討たすな、続けや。」とて、信濃守範資、筑前守貞範、真先に進めば、佐用、上月の兵三千余騎、一度に颯と打ち入つて、馬筏に流れをせきあげたれば、逆水岸に余り、流れ十方に分かれて、元の淵瀬は中々に陸地を行くがごとくなり。三千余騎の兵ども、向ふの岸に打ち上り、死を一挙のうちに軽くせんと、進み勇める勢ひを見て、六波羅勢、叶はじとやおもひけん、未だ戦はざる前に、楯を捨て旗を引いて、作道を北へ東寺を指して引くもあり、竹田川原をのぼりに法性寺大路へ落つるもあり。その道二、三十町が間には、捨てたる物具地に満ちて、馬蹄の塵に埋没す。
 さる程に、西七條の手、高倉少将の子息左衛門佐、小寺、衣笠の兵ども、早京中へ攻め入りたりと見えて、大宮、猪熊、堀川、油小路の辺、五十余箇所に火をかけたり。又、七條、八條、九條の間にも戦ひありとおぼえて、汗馬東西に馳せ違ひ、鬨の声天地を響かせり。ただ大三災一時に起こつて、世界悉く劫火のためにやけ失するかと疑はる。京中の合戦は、夜半ばかりのことなれば、目ざすとも知らぬ暗き夜に、鬨の声ここかしこに聞こえて、勢の多少も軍立ちの様も見分かざれば、いづくへ何と向うて軍をなすべしともおぼえず。京中の勢は、先づただ六條河原に馳せ集まつて、あきれたる体にて控へたり。

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校訂者注
 1:底本は、「あきるゝ許りにて、」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 2:底本は、「雲霞(うんか)の如く充満」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 3:底本頭注に、「〇佐々木三郎 盛綱。」「〇足利又太郎 忠綱。」とある。
 4:底本は、「唯一人」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 5:底本は、「打ち入りたり。」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 6:底本頭注に、「〇僻易 しりごみ。」「〇しどろ 不規律。」「〇色めき 負け色づき。」とある。

巻第八

摩耶合戦の事 附 酒部瀬河合戦の事

 先帝{*1}、已に船上に著御成つて、隠岐判官清高、合戦に打ち負けし後、近国の武士どもみな馳せ参るよし、出雲伯耆の早馬、しきなみに打つて六波羅へ告げたりければ、「事、已に珍事に及びぬ{*2}。」と、聞く人、色を失へり。これについても、「京近き所に敵の足をためさせては叶ふまじ。先づ摂津国摩耶の城へ押し寄せて、赤松を退治すべし。」とて、佐々木判官時信、常陸前司時知に、四十八箇所の篝{*3}、在京人並びに三井寺法師三百余人を相副へて、以上五千余騎を摩耶の城へぞ向けられける。その勢、閏二月五日、京都を立つて、同じき十一日の卯の刻に、摩耶の城の南の麓、求塚、八幡林よりぞ寄せたりける。
 赤松入道、これを見て、わざと敵を難所におびき寄せんために、足軽の射手一、二百人を麓へ下して、遠矢少々射させて城へ引き上りけるを、寄せ手、勝つに乗つて五千余騎、さしも嶮しき南の坂を、人馬に息も継がせず、揉みに揉うでぞあげたりける。この山へ上るに、七曲りとて、嶮しく細き路あり。この所に至りて、寄せ手、少し上りかねて支へたりける所を、赤松律師則祐、飽間九郎左衛門尉光泰二人、南の尾崎へ下り降つて、矢種を惜しまず散々に射ける間、寄せ手、少し射しらまかされて、互に人を楯になしてその陰に隠れんと、色めき{*4}ける気色を見て、赤松入道子息信濃守範資、筑前守貞範、佐用、上月、小寺、頓宮の一党五百余人、鋒を双べて、大山の崩るるが如く二の尾より討つて出でたりける間、寄せ手、跡より引つ立つて、「返せ。」と云ひけれども、耳にも聞き入れず、我先にと引きけり。その道、或いは深田にして、馬の蹄、膝を過ぎ、或いは荊棘生ひ繁つて、行く先いよいよ狭ければ、返さんとするも叶はず、防がんとするも便りなし。されば、城の麓より武庫河の西の縁まで道三里が間、人馬、いやが上に重なり死んで、行人、路を去りあへず。
 向ふ時、七千余騎と聞こえし六波羅の勢、僅かに千騎にだにも足らで引き返しければ、京中、六波羅の周章なのめならず。然りといへども、敵、近国より起こつて、附き従ひたる勢、さまで多しとも聞こえねば、たとひ一度二度、勝つに乗る事ありとも、何程の事かあるべきと、敵の分限を推し量つて、引くとも機をば失はず。かかる所に、備前国の地頭御家人も、大略敵になりぬと聞こえければ、「摩耶の城へ勢重ならぬ前に、討手を下せ。」とて、同じき二十八日、又一万余騎の勢を差し下さる。赤松入道、これを聞いて、「勝ち軍の利は、謀りごと不意に出で、大敵の気を凌いで、須臾に変化して先んずるにはしかじ。」とて、三千余騎を率し、摩耶の城を出でて、久々知、酒部に陣を取つて待ちかけたり。
 三月十日、六波羅勢、既に瀬河に著きぬと聞こえければ、合戦は明日にてぞあらんずらんとて、赤松、少し油断して、一村雨の過ぎける程、物具の露をほさんと、僅かなる在家にこみ入つて、雨の晴れ間を待ちける所に、尼崎より船を留めて上がりける阿波の小笠原、三千余騎にて押し寄せたり。赤松、僅かに五十余騎にて大勢の中へかけ入り、面も振らず戦ひけるが、大敵、凌ぐに叶はねば、四十七騎は討たれて、父子六騎にこそなりにけれ。六騎の兵、皆笠印をかなぐり捨てて、大勢の中に颯と交じはりて駆け廻りける間、敵、これを知らでやありけん、又、天運の助けにやかかりけん、いづれも恙なくして、御方の勢の昆屋野の宿の西に三千余騎にて控へたるその中へ馳せ入つて、虎口に死を遁れけり。
 六波羅勢は、昨日の軍に敵の勇鋭を見るに、小勢なりといへども欺き難し{*5}と思ひければ、瀬河の宿に控へて進み得ず。赤松は、又敗軍の士卒をあつめ、遅れたる勢を待ちそろへんために、かからず。互に陣を隔てて、未だ雌雄を決せず。「丁壮そぞろに軍旅に疲れなば、敵に気を奪はるべし。」とて、同じき十一日、赤松、三千余騎にて敵の陣へ押し寄せて、先づ事の体を伺ひ見るに、瀬河の宿の東西に家々の旗二、三百流れ、梢の風に翻して、その勢二、三万騎もあらんと見えたり。御方をこれに合はせば、百にしてその一、二をも比ぶべし{*6}とは見えねども、戦はで勝つべき道なければ、ひとへに唯討死と志して、筑前守貞範、佐用兵庫助範家、宇野能登守国頼、中山五郎左衛門尉光能、飽間九郎左衛門尉光泰、郎等共に七騎にて、竹の陰より南の山へ打ち上がつて進み出でたり。
 敵、これを見て、楯の端少し動いて、かかるかと見れば、さもあらず。色めきたる気色に見えける間、七騎の人々、馬より飛び下り、竹の一叢繁りたるを木楯に取つて、差し詰め引き詰め散々にぞ射たりける。瀬川の宿の南北三十余町に、沓の子{*7}を打つたるやうに控へたる敵なれば、何かはばづるべき。矢頃近き敵二十五騎、真つさかさまに射落とされければ、矢面なる人を楯にして、馬を射させじとたてかねたり。平野伊勢前司、佐用、上月、田中、小寺、八木、衣笠の若者ども、「すはや、敵は色めきたるは。」と、胡簶を叩き勝ち鬨を作つて、七百余騎、轡を双べてぞ駆けたりける。大軍の靡く癖なれば、六波羅勢、前陣返せども後陣続かず。行く先は狭し、「閑かに引け。」といへども、耳にも聞き入れず{*8}。子は親を捨て、郎等は主を知らで、我先にと落ち行きける程に、その勢、大半討たれて、僅かに京へぞ帰りける。
 赤松は、手負生け捕りの頚三百余、宿河原に切り懸けさせて、また摩耶の城へ引き返さんとしけるを、円心が子息帥律師則祐、進み出でて申しけるは、「軍の利は、勝つに乗つて逃ぐるを追ふに如かず。今度、寄せ手の名字を聞くに、京都の勢、数を尽くして向ひて候なる。この勢ども、今四、五日は、長途の負け軍にくたびれて、人馬共に物の用にたつべからず。臆病神の覚めぬ前に続いて攻むるものならば、などか六波羅を一戦のうちに攻め落とさでは候べき。これ、太公が兵書に出でて、子房が心底に秘せし所にて候はずや。」と云ひければ、諸人皆、この議に同じて、その夜やがて宿河原を立つて、路次の在家に火をかけ、その光を松明にして、逃ぐる敵に追つすがうて攻め上りけり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「後醍醐帝。」とある。
 2:底本は、「及ひぬ」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 3:底本は、「篝火(かゞりび)、」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 4:底本頭注に、「負け色づき。」とある。
 5:底本頭注に、「侮り難い。」とある。
 6:底本は、「校(たくら)ぶべし」。底本頭注及び『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い改めた。
 7:底本頭注に、「沓の裏に打つた鋲。」とある。
 8:底本は、「耳にも入れず、」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。

先帝船上へ臨幸の事

 畿内の軍、未だ静かならざるに、又四国、西国、日を追つて乱れければ、人の心皆、薄氷を履んで、国の危ふき事、深淵に臨むが如し。
 「そもそも今、かくの如く天下の乱るる事は、ひとへに先帝の宸襟より、事、起これり。もし逆徒、刺し違うて奪ひ取り奉らんとする事もこそあれ。相構へてよくよく警固仕るべし。」と、隠岐判官{*1}が方へ下知せられければ、判官、近国の地頭御家人を催して、日番、夜廻り隙もなく、宮門を閉ぢて警固し奉る。
 閏二月下旬は、佐々木富士名判官{*2}が番にて、中門の警固にて候ひけるが、如何思ひけん、あはれ、この君{*3}を取り奉つて、謀叛を起こさばやと思ふ心ぞ附きにける。されども、申し入るべき便りもなくて、案じ煩ひける処に、或る夜、御前より官女を以て御杯を下されたり。判官、これを賜はりて、よき便なりと思ひければ、ひそかにかの官女を以て申し入れけるは、「上様には、未だ知ろし召され候はずや。楠兵衛正成、金剛山に城を構へて楯篭り候ひし処に、東国勢、百万余騎にて上洛し、さんぬる二月の初めより攻め戦ひ候といへども、城は剛うして、寄せ手、已に引き色になりて候。又、備前には伊東大和二郎、三石と申す所に城を構へて、山陽道を差し塞ぎ候。播磨には赤松入道円心、宮{*4}の令旨を賜はつて、摂津国まで攻め上り、兵庫の北摩耶と申す処に陣を取つて候。その勢、已に三千余騎。京を縮め地を略して、勢ひ近国に振ひ候なり。
 「四国には、河野の一族に土居二郎、得能弥三郎、御方に参つて旗を挙げ候処に、長門の探題上野介時直、彼に打ち負けて行方を知らず落ち行き候ひし後、四国の勢、悉く土居、得能に属し候間、既に大船を揃へて、これへ御迎へに参るべしとも聞こえ候。又、先づ京都を攻むべしとも披露す。御聖運開かるべき時、已に至りぬとこそおぼえて候へ。義綱が当番の間に、忍びやかに御出で候て、千波の湊より御船に召され、出雲、伯耆の間、いづれの浦へも風に任せて御船を寄せられ、さりぬべからんずる武士を御憑み候て、暫く御待ち候へ。義綱、恐れながら攻め参らせんために罷り向ふ体にて、やがて御方に参り候べし。」とぞ奏し申しける。
 官女、この由申し入れければ、主上、猶も、彼、偽りてや申すらんと思し召されける間、義綱が志の程をよくよく伺ひ御覧ぜられんために、かの官女を義綱にぞ下されける。判官は、面目、身に余りておぼえける上、最愛又甚しかりければ、いよいよ忠烈の志を顕はしける。「さらば、汝、先づ出雲国へ越えて、同心すべき一族を語らひて御迎へに参れ。」と仰せ下されける程に、義綱、則ち出雲へ渡りて塩冶判官{*5}を語らふに、塩冶、如何思ひけん、義綱を追ひ篭め置きて、隠岐国へ帰さず。主上、暫くは義綱を御待ちありけるが、余りに事滞りければ、唯運に任せて御出であらんと思し召して、或る夜の宵の紛れに、三位殿の御局{*6}の御産のこと近づきたりとて、御所を御出であるよしにて、主上、その御輿にめされ、六條少将忠顕朝臣ばかりを召し具して、ひそかに御所をぞ御出でありける。この体にては、人の怪しめ申すべき上、駕輿丁も無かりければ、御輿をば止められて、忝くも十善の天子、自ら玉趾を草鞋の塵にけがして、自ら泥土の地を踏ませ給ひけるこそあさましけれ。
 頃は三月二十三日の事なれば、月待つ程の暗き夜に、そことも知らぬ遠き野の道をたどりて歩ませ給へば、今は遥かに来ぬらんと思し召されたれば、跡なる山は未だ滝の響きの仄かに聞こゆる程なり。もし追つ懸け参らする事もやあるらんと、恐ろしく思し召しければ、一足も先へと御心ばかりは進めども、いつ習はせたまふべき道ならねば、夢路をたどる心地して、唯一所にのみやすらはせ給へば、こは如何せんと思ひ煩ひて、忠顕朝臣、御手を引き御腰を押して、今夜いかにもして湊の辺までと、心を遣り給へども、心身共に疲れ果てて、野径の露に徘徊す。
 夜いたく更けにければ、里遠からぬ鐘の声の月に和して聞こえけるを、道しるべに尋ね寄りて、忠顕朝臣、或る家の門を叩き、「千波湊へは、いづ方へ行くぞ。」と問ひければ、内よりあやしげなる男、一人出で向ひて、主上の御有様を見参らせけるが、心なき田夫野人なれども、何となく痛はしくや思ひ参らせけん、「千波湊へは、これより僅か五十町ばかり候へども、道、南北へ分かれて、いかさま御迷ひ候ひぬと存じ候へば、御道しるべ仕り候はん。」と申して、主上を軽々と負ひ参らせ、程なく千波湊へぞ著きにける。ここにて時打つ鼓の声を聞けば、夜は未だ五更の初めなり。この道の案内者仕りたる男、かひがひしく湊の中を走り廻り、伯耆の国へ漕ぎ戻る商人船のありけるを、とかく語らひて、主上を屋形の内に乗せ参らせ、その後、暇申してぞ止まりける。この男、誠に只人にあらざりけるにや、君御一統の御時に、最も忠賞あるべしとて、国中を尋ねられけるに、我こそそれにて候へと申す者、遂に無かりけり。
 夜も已に明けければ、船人、纜を解いて順風に帆を揚げ、湊の外に漕ぎ出だす。船頭、主上の御有様を見奉りて、只人にては渡らせ給はじとや思ひけん、屋形の前に畏まつて申しけるは、「かやうの時、御船を仕つて候こそ、我等が生涯の面目にて候へ。いづくの浦へ寄せよと御諚に随ひて、御船の梶をば仕り候べし。」と申して、実に他事もなげなる気色なり。忠顕朝臣、これを聞きたまひて、隠しては中々悪しかりぬと思はれければ、この船頭を近く呼び寄せて、「これ程に推し当てられぬる上は、何をか隠すべき、屋形の中に御座あるこそ、日本国の主、忝くも十善の君{*7}にていらせ給へ。汝等も、定めて聞き及びぬらん。去年より隠岐判官が館に押し篭められて御座ありつるを、忠顕、盜み出だし参らせたるなり。出雲、伯耆の間に、いづくにても、さりぬべからんずる泊りへ、急ぎ御船を著けて、おろしまゐらせよ。御運開けなば、必ず汝を侍に申し成して、所領一所の主になすべし。」と仰せられければ、船頭、実に嬉しげなる気色にて、取梶面梶取り合はせて、片帆にかけてぞ馳せたりける。
 今は、海上二、三十里も過ぎぬらんと思ふ所に、同じ追風に帆を懸けたる船十艘ばかり、出雲、伯耆を指して馳せ来れり。筑紫船か商人船かと見れば、さもあらで、隠岐判官清高、主上を追ひ奉る船にてぞありける。船頭、これを見て、「かくては叶ひ候まじ。これに御隠れ候へ。」と申して、主上と忠顕朝臣とを船底にやどし参らせて、その上に、あひ物とて、乾したる魚の入りたる俵を取り積みて、水手梶取、その上に立ち双んで、櫓をぞ押したりける。さる程に、追手の船一艘、御座船に追つ附いて、屋形のなかに乗り移り、ここかしこ捜しけれども、見出だし奉らず。「さては、この船には召さざりけり。もし怪しき舟や通りつる。」と問ひければ、船頭、「今夜の子の刻ばかりに千波湊を出で候ひつる船にこそ、京上臈かとおぼしくて、冠とやらん著たる人と、立烏帽子著たる人と、二人乗らせ給ひて候ひつる。その船は、今は五、六里も先立ち候ひぬらん。」と申しければ、「さては、疑ひもなき事なり。早、船をおせ。」とて、帆を引き梶を直せば、この船は、やがて隔たりぬ。
 今はかうと心安くおぼえて、跡の浪路を顧みれば、又一里ばかり下がり、追手の船百余艘、御座船を目にかけて、鳥の飛ぶが如くに追ひ懸けたり。船頭、これを見て、帆の下に櫓を立てて、万里を一時に渡らんと、声を帆に挙げて押しけれども、折節、風たゆみ、潮に向うて、御船、更に進まず。水手梶取、如何せんとあわて騒ぎける間、主上、船底より御出でありて、はだへの御守りより仏舎利を一粒取り出ださせたまひて、御畳紙に載せて、波の上にぞ浮けられける。竜神、これに納受やしたりけん、海上、俄に風変はりて、御座船をば東へ吹き送り、追手の船をば西へ吹きもどす。さてこそ主上は、虎口の難を御遁れあつて、御船は、時の間に伯耆の国名和湊に著きにけり。
 六條少将忠顕朝臣、一人先づ船よりおり給ひて、「この辺には、如何なる者か弓矢取つて人に知られたる。」と問はれければ、道行く人、立ち休らひて、「この辺には、名和又太郎長年と申す者こそ、その身、さして名ある武士にては候はねども、家富み一族広うして、心がさある者にて候へ。」とぞ語りける。忠顕朝臣、よくよくその仔細を尋ね聞いて、やがて勅使を立てて仰せられけるは、「主上、隠岐判官が館を御逃げあつて、今この湊に御座あり。長年が武勇、かねて上聞に達せし間、御憑みあるべき由を仰せ出ださるるなり。憑まれ参らせ候べしや否や、速やかに勅答申すべし。」とぞ仰せられたりける。
 名和又太郎は、折節、一族ども呼び集めて酒飲うで居たりけるが、この由を聞きて{*8}、案じ煩うたる気色にて、ともかくも申し得ざりけるを、舎弟小太郎左衛門尉長重、進み出でて申しけるは、「古より今に至るまで、人の望む所は、名と利との二つなり。我等、忝くも十善の君に憑まれ参らせて、骸を軍門に曝すとも、名を後代に残さん事、生前の思ひ出で、死後の名誉たるべし。唯一筋に思ひ定めさせ給ふより外の儀、あるべしとも存じ候はず。」と申しければ、又太郎を始めとして、当座に候ひける一族ども二十余人、皆この儀に同じけり。「さらば、やがて合戦の用意候べし。定めて追手も跡より懸かり候らん。長重は、主上の御迎ひに参つて、直に船上山へ入れ参らせん。かたがたは、やがて打つ立ちて船上へ御参り候べし。」と云ひ捨てて、鎧一縮{*9}して走り出でければ、一族五人、腹巻取つて投げ懸け投げ懸け、皆高紐しめて、共に御迎ひにぞ参じける。
 俄の事にて、御輿なんどもなかりければ、長重、著たる鎧の上に荒薦を巻いて、主上を負ひ参らせ、鳥の飛ぶが如くして船上へ入れ奉る。長年、近辺の在家に人を廻し、「思ひ立つ事ありて、船上に兵粮を上ぐる事あり。我が倉の内にある所の米穀を、一荷持ちて運びたらん者には、銭を五百づつ{*10}取らすべし。」と触れたりける間、十方より人夫五、六千人出で来りて、我劣らじと持ち送る。一日が中に兵粮五千余石運びけり。その後、家中の財宝悉く人民百姓に与へて、己が館に火をかけ、その勢百五十騎にて船上に馳せ参り、皇居を警固仕る。
 長年が一族名和七郎{*11}と云ひける者、武勇の謀りごとありければ、白布五百反ありけるを旗にこしらへ、松の葉を焼いて煙にふすべ、近国の武士どもの家々の紋を書いて、ここの木の本、かしこの峯にぞ立て置きける。この旗ども、峯の嵐に吹かれて陣々に翻りける様、山中に大勢充満したりと見えて、おびただし。

船上合戦の事

 さる程に、同じき二十九日、隠岐判官、佐々木弾正左衛門尉、その勢三千余騎{*12}にて南北より押し寄せたり。
 この船上と申すは、北は大山に続きそばだち、三方は地さがりに、峯に懸かれる白雲、腰を繞れり。俄に拵へたる城なれば、未だ堀の一所をも掘らず、塀の一重をも塗らず、唯所々に大木少々伐り倒して逆木にひき、房舎の甍を破つてかい楯にかけるばかりなり。
 寄せ手三千余騎、坂中まで攻め上つて、城中をきつと見上げたれば、松柏生ひ茂つて、いと深き木陰に、勢の多少は知らねども、家々の旗四、五百流れ、雲に翻り日に映じて見えたり。「さては、はや近国の勢どもの悉く馳せ参りたりけり。この勢ばかりにては攻め難し。」とや思ひけん、寄せ手、皆心に危ぶみて進み得ず。城中の勢どもは、敵に勢の分際を見えじと、木陰にぬはれ伏して{*13}、時々射手を出だし、遠矢を射させて日を暮らす。かかる所に、一方の寄せ手なりける佐々木弾正左衛門尉、遥かの麓にひかへて居たりけるが、いづ方より射るともしらぬ流れ矢に右の眼を射ぬかれて、矢庭に伏して死にけり。これに依つて、その手の兵五百余騎、色を失うて、軍をもせず。佐渡前司は、八百余騎にて搦手へ向ひたりけるが、俄に旗を巻き、兜を脱いで降参す。
 隠岐判官は、猶かやうの事をも知らず。搦手の勢は、定めて今は攻め近づきぬらんと心得て、一の木戸口に支へて、新手を入れかへ入れかへ、時移るまでぞ攻めたりける。日、已に西山に隠れなんとしける時、俄に天かき曇り、風吹き雨降る事、車軸の如く、雷の鳴ること山を崩すが如し。寄せ手、これにおぢわなないて、ここかしこの木陰に立ちよつて、群がり居たる所に、名和又太郎長年が舎弟、太郎左衛門尉長重、小次郎長生が、射手を左右に進めて散々に射させ、敵の楯の端のゆるぐ所を、得たりやかしこしと、抜き連れて{*14}討つてかかる。大手の寄せ手千余騎、谷底へ皆まくり落とされて、己が太刀長刀に貫かれて命を落とす者、その数を知らず。
 隠岐判官ばかり、辛き命を助かりて、小舟一艘に取り乗り、本国へ逃げ帰りけるを、国人、いつしか心変はりして、津々浦々を堅め防ぎける間、波に任せ風に随ひて、越前の敦賀へ漂ひよりたりけるが、幾程もなくして六波羅没落の時、江州番馬の辻堂にて腹掻き切つて失せにけり。世、澆季に成りぬといへども、天理、未だありけるにや、余りに君を悩まし奉りける隠岐判官が、三十余日が間に滅びはてて、首を軍門の幢に懸けられけるこそ不思議なれ。
 主上、隠岐国より還幸成りて、船上に御座ありと聞こえしかば、国々の兵どもの馳せ参る事、引きもきらず。先づ一番に出雲の守護塩谷判官高貞、富士名判官と打ち連れ、千余騎にて馳せ参る。その後、浅山二郎八百余騎、金持の一党三百余騎、大山の衆徒七百余騎。すべて出雲、伯耆、因幡三箇国の間に、弓矢に携はる程の武士どもの、参らぬ者はなかりけり。これのみならず。石見国には沢、三角の一族。安芸国には熊谷、小早川。美作国には菅家の一族、江見、芳賀、渋谷、南三郷。備後国には江田、広沢、宮、三吉。備中には新見、成合、那須、三村、小坂、河村、庄、真壁。備前には今木、大富太郎幸範、和田備後二郎範長、知間二郎親経、藤井、射越五郎左衛門尉範貞、児島、中吉、美濃権介、和気弥次郎季経、石生彦三郎。この外、四国九州の兵までも、聞き伝へ聞き伝へ、我先にと馳せ参りける間、その勢、船上山に居余りて、四方の麓二、三里は、木の下、草の陰までも、人ならずと云はぬ所はなかりけり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「佐々木清高。」とある。
 2:底本頭注に、「三郎左衛門尉義綱。」とある。
 3:底本頭注に、「後醍醐帝。」とある。
 4:底本頭注に、「大塔宮。」とある。
 5:底本は、「塩冶(えんや)判官」。底本頭注に、「高貞。」とある。
 6:底本頭注に、「廉子。藤原公廉の女。」とある。
 7:底本は、「十善(じふぜん)に君」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 8:底本は、「この由聞きて」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 9:底本は、「一縮(しゆく)」。底本頭注に、「鎧を著けて一ゆすりゆすつてよく膚身につくやうにすること。」とある。
 10:底本は、「銭(ぜに)五百づゝを」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 11:底本頭注に、「国高。」とある。
 12:底本は、「二千余騎」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。底本頭注に、「〇佐々木弾正左衛門尉 昌綱。」とある。
 13:底本頭注に、「〇勢の分際 軍勢の多少。」「〇ぬはれ伏して ここかしこに隠れ伏して。」とある。
 14:底本頭注に、「刀を抜き連ねて。」とある。

新田義貞に綸旨を賜ふ事

 上野国の住人新田小太郎義貞と申すは、八幡太郎義家十七代の後胤、源家嫡流の名家なり。然れども、平氏世を執つて、四海皆その威に服する折節なれば力なく、関東の催促に随つて、金剛山の搦手にぞ向はれける。ここに、如何なる所存か出で来にけん、或る時、執事船田入道義昌を近づけて宣ひけるは、「古より、源平両家、朝家に仕へて、平氏世を乱る時は、源家これを鎮め、源氏上を侵す日は、平家これを治む。義貞、不肖なりといへども、当家の門楣{*1}として、譜代弓箭の名をけがせり。然るに今、相模入道{*2}の行跡を見るに、滅亡遠きにあらず。我、本国に帰つて義兵を挙げ、先朝{*3}の宸襟を休め奉らんと存ずるが、勅命を蒙らでは叶ふまじ。如何にして大塔宮の令旨を賜はつて、この素懐を達すべき。」と問ひ給ひければ、船田入道、畏まつて、「大塔宮は、この辺の山中に忍びて御座候なれば、義昌、方便を廻らして、急いで令旨を申し出だし候べし。」と、事易げに領掌申して、己が役所へぞ帰りける。
 その翌日、船田、己が若党を三十余人、野伏の姿に出で立たせて、夜中に葛城の峯へ上せ、我が身は落ち行く勢の真似をして、朝まだきの霧隠れに、追つつ返しつ半時ばかり、同士軍をぞしたりける。宇多、内郡の野伏ども、これを見て、御方の野伏ぞと心得、力を合はせんために{*4}、余所の峯よりおり合ひて近づきたりける処を、船田が勢の中に取り篭めて、十一人まで生け捕りてけり。船田、この生け捕りどもを解き赦して、ひそかに申しけるは、「今、汝等をたばかり搦め取りたる事、全く誅せんためにあらず。新田殿、本国へ帰つて御旗を挙げんとし給ふが、令旨なくては叶ふまじければ、汝等に大塔宮の御座所を尋ね問はんために、召し捕りつるなり。命惜しくば案内者して、こなたの使をつれて、宮の御座あんなる所へ参れ。」と申しければ、野伏ども、大きに悦びて、「その御意にて候はば、いと安かるべきことにて候。この中に一人、暫しの暇を給はり候へ。令旨を申し出だして参らせ候はん。」と申して、残り十人をば留め置き、一人、宮の御方へとてぞ参りける。
 今や今やと相待つ処に、一日ありて、令旨を捧げて来れり。開いてこれを見るに、令旨にはあらで、綸旨の文章に書かれたり。その詞に曰く、
  綸言を被つて称く、化を敷き万国を理むるは明君の徳なり。乱を撥め四海を鎮むるは武臣の節なり。頃年の際、高時法師が一類、朝憲を蔑如して恣に逆威を振ふ。積悪の至り、天誅已に顕はる。爰に累年の宸襟を休めんが為に、将に一挙の義兵を起さん。叡感尤も深し。抽賞何ぞ浅からん。早く関東征罰の策を巡らし天下静謐の功を致すべし。てへれば綸旨此の如し。仍て執達件の如し。
    元弘三年二月十一日  左少将
  新田小太郎殿
 綸旨の文章、家の眉目に備へつべき綸言なれば、義貞、なのめならず悦びて、その翌日より虚病して、急ぎ本国へぞ下られける。宗徒の軍をもしつべき勢どもは、とにかくに事を寄せて、国々へ帰りぬ。
 兵粮運送の道絶えて、千剣破の寄せ手、以ての外に気を失へる由聞こえければ、又、六波羅より宇都宮をぞ下されける。紀清両党千余騎、寄せ手に加はりて、未だ気を屈せざる新手なれば、やがて城の堀の際まで攻め上りて、夜昼少しも引き退かず、十余日までぞ攻めたりける。この時にぞ、塀の際なる鹿垣、逆茂木、皆引き破られて、城も少し防ぎかねたる体にぞ見えたりける。
 されども、紀清両党の者とても、斑足王の身をもからざれば、天をも翔り難し。竜伯公が力を得ざれば、山をもつんざき難し。あまりにせんかたやなかりけん、面なる兵には軍をさせて、後ろなる者は、手に手に鋤鍬を以て山を掘り倒さんとぞ企てける。実にも、大手の櫓をば、夜昼三日が間に念なく掘り崩してけり。諸人、これを見て、「唯始めより軍を止めて掘るべかりけるものを。」と後悔して、我も我もと掘りけれども、周り一里に余れる大山なれば、左右なく掘り倒さるべしとは見えざりけり。

赤松蜂起の事

 さる程に、楠が城強くして、京都は無勢なりと聞こえしかば、赤松二郎入道円心、播磨国苔縄城より討つて出で、山陽、山陰の両道を差し塞ぎ、山里、梨原の間に陣をとる。
 ここに、備前、備中、備後、安芸、周防の勢ども、六波羅の催促に依つて上洛しけるが、三石の宿に打ち集まりて、山里の勢を追ひ払うて通らんとしけるを、赤松筑前守{*5}、舟坂山に支へて、宗徒の敵二十余人を生け捕りてけり。然れども、赤松、これを討たせずして、情深く相交じはりける間、伊東大和二郎{*6}、その恩を感じて、忽ちに武家与力の志を変じて、官軍合体の思ひをなしければ、先づ己が館の上なる三石山に城郭を構へ、やがて熊山へ取り上りて義兵を揚げたるに、備前の守護加治源二郎左衛門、一戦に利を失うて、児島を指して落ちて行く。これより西国の路、いよいよ塞がつて、中国の動乱、なのめならず。
 西国より上洛する勢をば、伊東にささへさせて、後ろは思ひもなかりければ、赤松、やがて高田兵庫助が城を攻め落として、片時も足を休めず、山陽道を指して攻め上る。路次の軍勢、馳せ加はつて、ほどなく七千余騎になりにけり。この勢にて六波羅を攻め落とさんことは、案の内なれども、もし戦ひ利を失ふことあらば、引き退いて、暫く人馬をも休めんために、兵庫の北に当つて、摩耶と云ふ山寺のありけるに先づ城郭を構へて、敵を二十里が間に縮めたり。

河野謀叛の事

 六波羅には、一方の討手にはと憑まれける宇都宮は、千剣破の城へ向ひつ。西国の勢は、伊東に支へられて上り得ず。今は、四国の勢を摩耶の城へは向くべしと、評定せられける処に、後の二月四日、伊予の国より早馬を立てて、「土居二郎、得能弥三郎、宮方になつて旗をあげ、当国の勢を相附けて、土佐国へ打ち越ゆるところに、去月十二日、長門の探題上野介時直、兵船三百余艘にて当国へ押し渡り、星岡にして合戦を致す処に、長門、周防の勢、一戦に打ち負けて、手負、死人、その数を知らず。あまつさへ、時直父子、行方を知らず、云々。それより後、四国の勢、悉く土居、得能に属する間、その勢、已に六千余騎。宇多津、今張の湊に船をそろへ、唯今攻め上らんと企て候なり。御用心有るべし。」とぞ告げたりける。

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校訂者注
 1:底本は、「門楣(もんび)」。底本頭注に、「楣は門の横梁。門楣は主だつたもの。」とある。
 2:底本頭注に、「高時。」とある。
 3:底本頭注に、「後醍醐帝。」とある。
 4:底本は、「合はせん為」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 5:底本頭注に、「貞範。円心の子。」とある。
 6:底本頭注に、「惟群。」とある。

千剣破の城軍の事

 千剣破城の寄せ手は、前の勢八十万騎に又、赤坂の勢、吉野の勢馳せ加はつて、百万騎に余りければ、城の四方二、三里が間は、見物相撲の場の如く打ち囲んで、尺寸の地{*1}をも余さず充ち満ちたり。旌旗の風に翻つて靡く気色は、秋の野の尾花が末よりも繁く、剣戟の日に映じて輝きける有様は、暁の霜の枯草に敷けるが如くなり。大軍の近づく処には、山勢これがために動き、鬨の声の震ふ中には、坤軸須臾に砕けたり。この勢にも恐れずして、僅かに千人に足らぬ小勢にて、誰を憑み何をか待つともなきに、城中にこらへて防ぎ戦ひける楠が心の程こそ不敵なれ。
 この城、東西は谷深く切れて、人の上るべきやうもなし。南北は金剛山に続きて、しかも峯そばだちたり。されども高さ二町ばかりにて、廻り一里に足らぬ小城なれば、何程の事かあるべきと、寄せ手、これを見侮つて、初め一両日の程は向ひ陣をも取らず、攻め支度をも用意せず、我先にと城の木戸口{*2}の辺まで、かづきつれてぞ上りたりける。城中の者ども、少しも騒がず静まりかへつて、高櫓の上より大石を投げ懸け投げ懸け、楯の板を微塵に打ち砕いて、漂ふ処{*3}を差しつめ差しつめ射ける間、四方の坂より転び落ち、落ち重なつて手を負ひ死を致す者、一日が中に五、六千人に及べり。長崎四郎左衛門尉、軍奉行にてありければ、手負、死人の実検をしけるに、執筆十二人、夜昼三日が間、筆をも置かず註せり。さてこそ、「今より後は、大将の御許しなくして合戦したらんずる輩をば、かへつて罪科に行はるべし。」と触れられければ、軍勢、暫く軍を止めて、先づ己が陣々をぞ構へける。
 ここに赤坂の大将金沢右馬助、大仏奥州に向つて宣ひけるは、「前日、赤坂を攻め落としつる事、全く士卒の高名にあらず。城中の構へを推し出だして、水を留めて候ひしに依つて、敵、程なく降参仕り候ひき。これを以てこの城を見候に、これ程僅かなる山の巓に、用水あるべしともおぼえ候はず。又、あげ水なんどをよその山よりかくべき便りも候はぬに、城中に水、沢山に有りげに見ゆるは、いかさま、東の山の麓に流れたる渓水を、夜々に汲むかとおぼえて候。あはれ、宗徒の人人一両人に仰せ付けられて、この水を汲ませぬやうに{*4}御計らひ候へかし。」と申されければ、両大将、「この議、然るべく{*5}おぼえ候。」とて、名越越前守を大将として、その勢三千余騎をさし分けて、水の辺に陣を取らせ、城より人降りくだりぬべき道々に、逆茂木を引きてぞ待ちかけける。
 楠は、元より勇気智謀相兼ねたる者なりければ、この城を拵へける初め、用水の便りを見るに、五所の秘水とて、峯通る山伏の秘して汲む水、この峯に有つて、滴る事、一夜に五斛{*6}ばかりなり。この水、いかなる旱りにもひる事なければ、形の如く人の口中を潤さん事、相違あるまじけれども、合戦の最中は、或いは火矢を消さんため、又喉の乾く事繁ければ、この水ばかりにては不足なるべしとて、大きなる木を以て、水舟を二、三百打たせて、水を湛へ置きたり。又、数百箇所作り双べたる役所の軒に継ぎ樋を懸けて、雨降れば、雨垂を少しも余さず舟に受け入れ、舟の底に赤土を沈めて、水の性を損ぜぬやうにぞ拵へける。この水を以て、たとひ五、六十日雨降らずともこらへつべし。その中に又、などかは雨降ることなからんと了簡しける、智慮の程こそ浅からね。
 されば、城よりはあながちにこの谷水を汲まんともせざりけるを、水ふせぎける兵ども、夜毎に機をつめて、今や今やと待ちかけけるが、始めの程こそありけれ{*7}、後には次第次第に心怠り機緩まつて、「この水をば汲まざりけるぞ。」とて、用心の体、少し無沙汰にぞなりにける。楠、これを見すまして、究竟の射手を揃へて二、三百人、夜に紛れて城よりおろし、まだ東雲の明けはてぬ霞隠れより押し寄せ、水辺に詰めて居たる者ども二十余人斬り伏せて、すきまもなく切つてかかりける間、名越越前守、こらへかねて、元の陣へぞ引かれける。寄せ手数万の軍勢、これを見て、渡り合はせんと{*8}ひしめけども、谷を隔て尾を隔てたる道なれば、たやすく馳せ合はする兵もなし。とかくしけるその間に、捨て置きたる旗、大幕なんど取り持たせて、楠が勢、閑かに城中へぞ引き入りける。
 その翌日、城の大手に三本傘の紋書きたる旗と、同じき紋の幕とを引きて、「これこそ皆、名越殿より賜はつて候ひつる御旗にて候へば、御紋附きて候間、他人のためには無用に候。御内の人々、これへ御入り候ひて、召され候へかし。」と云つて、同音にどつと笑ひければ、天下の武士どもこれを見て、「あはれ、名越殿の不覚や。」と、口々に云はぬ者こそなかりけれ。名越一家の人々、この事を聞いて、安からぬ事に思はれければ、「当手の軍勢ども、一人も残らず城の木戸を枕にして、討死をせよ。」とぞ下知せられける。これに依つて彼の手の兵五千余人、思ひ切つて、討てども射れども用ゐず、乗り越え乗り越え城の逆茂木ひとへ引き破つて、切り岸の下までぞ攻めたりける。されども、岸高うして切り立つたれば、やたけに{*9}思へども、昇り得ず。唯いたづらに城を睨み、怒りを抑へて息つき居たり。
 この時、城の中より、切り岸の上に横たへて置きたる大木十ばかり切つて落としかけたりける間、将棋倒しをする如く、寄せ手四、五百人、圧しに打たれて死にけり。これにちがはんと、しどろに成つて{*10}騒ぐ処を、十方の櫓より差し落とし、思ふやうに射ける間、五千余人の兵ども、残りすくなに討たれて、その日の軍は果てにけり。誠に志の程は猛けれども、唯仕出だしたる事もなくて、若干討たれにければ、「あはれ、恥の上の損かな。」と、諸人、口ずさみは猶止まず。尋常ならぬ合戦の体を見て、寄せ手も侮りにくくや思ひけん、今は始めのやうに、勇み進んで攻めんとする者もなかりけり。
 長崎四郎左衛門尉、この有様を見て、「この城を力攻めにすることは、人の討たるるばかりにて、その功成りがたし。ただ取り巻いて食攻めにせよ。」と下知して、軍を止められければ、徒然に皆堪へかねて、花の下の連歌師{*11}どもを呼び下し、一万句の連歌をぞ始めたりける。その初日の発句をば、長崎九郎左衛門尉師宗、
  さきがけてかつ色みせよ山桜
としたりけるを、脇の句、工藤二郎右衛門尉、
  嵐や花のかたきなるらむ
とぞ附けたりける。誠に両句ともに、詞の縁巧みにして、句の体は優なれども、御方をば花になし、敵を嵐に喩へければ、禁忌なりける表爾かな{*12}と、後にぞ思ひ知られける。
 大将の下知に随ひて、軍勢皆、軍を止めければ、慰む方やなかりけん、或いは碁、双六を打ちて日を過ごし、或いは百服茶、褒貶の歌合なんどを翫んで夜を明かす。これにこそ城中の兵は、中々悩まされたる心地して、心を遣る方もなかりける。
 少し程経て後、正成、「いで、さらば、又寄せ手をたばかりて居眠りさまさん。」とて、芥を以て人たけに人形を二、三十作つて、甲冑をきせ兵仗を持たせて、夜中に城の麓に立て置き、前に畳楯をつき双べ、その後ろにすぐりたる兵五百人を交じへて、夜のほのぼのと明けける霧の下より、同時に鬨をどつと作る。四方の寄せ手、鬨の声を聞いて、「すはや、城の中より打ち出でたるは。これこそ敵の運の尽くる処の死に狂ひよ。」とて、我先にとぞ攻め合はせける。城の兵、かねて巧みたる事なれば、矢軍ちとする様にして、大勢相近づけて、人形ばかりを木隠れに残し置いて、兵は皆、次第次第に城の上へ引き上る。寄せ手、人形を実の兵ぞと心得て、これを討たんと相集まる。正成、所存の如く敵をたばかり寄せて、大石を四、五十、一度にばつと放す。一所に集まりたる敵三百余人、矢庭に打ち殺され、半死半生の者五百余人に及べり。軍はててこれを見れば、あはれ、大剛の者かなとおぼえて、一足も引かざりつる兵皆、人にはあらで、藁にて作れる人形なり。これを討たんと相集まりて、石に打たれ矢に当たつて死せるも高名ならず。又、これを危ぶみて進み得ざりつるも、臆病の程顕はれていふかひなし。唯とにもかくにも万人の物笑ひとぞなりにける。
 これより後は、いよいよ合戦を止めける間、諸国の軍勢、ただいたづらに城を目守り上げて居たるばかりにて、する業一つもなかりけり。ここに如何なる者か詠みたりけん、一首の古歌を翻案して、大将の陣の前にぞ立てたりける。
  よそにのみ見てややみなむ葛城のたかまの山の峯のくすの木
 軍もなくて、そぞろに向ひ居たるつれづれに、諸大将の陣々へ、江口、神崎の傾城どもを呼び寄せて、様々の遊びをぞせられける{*13}。名越遠江入道と同兵庫助とは、伯叔甥にておはしけるが、共に一方の大将にて、攻め口近く陣を取り、役所を双べてぞおはしける。ある時、遊君の前にて双六を打たれけるが、賽の目を論じて、いささか詞の違ひけるにや、伯叔甥二人、突き違へてぞ死なれける。両人の郎従ども、何の意趣もなきに、刺し違へ刺し違へ、片時が間に{*14}死ぬる者、二百余人に及べり。城の中よりこれを見て、「十善の君に仇を{*15}なし奉る天罰に依つて、自滅する人々の有様見よ{*16}。」とぞ笑ひける。誠にこれ、只事にあらず。天魔波旬の所行かとおぼえて、浅ましかりし珍事なり。
 同じき三月四日、関東より飛脚到来して、「軍を止めて、いたづらに日を送る事、然るべからず。」と下知せられければ、宗徒の大将達、評定有つて、御方の向ひ陣と敵の城との間に、高く切り立てたる堀に橋を渡して、城へ打ち入らんとぞ巧まれける。これがために京都より番匠を五百余人召し下し、五、六、八、九寸の材木を集めて、広さ一丈五尺、長さ二十丈余に架け橋をぞ作らせける。架け橋、既に作り出だしければ、大綱を二、三千筋附けて、車を以て巻き立て、城の切り岸の上へぞ倒し懸けたりける。魯般が雲の架け橋も、かくやとおぼえて巧みなり。やがて、はやりをの兵ども五、六千人、橋の上を渡り、我先にと進みたり。
 あはや、この城、唯今打ち落されぬと見えたるところに、楠、かねて用意やしたりけん、投げ松明のさきに火をつけて、橋の上に薪を積めるが如くに投げ集めて、水弾きを以て油を滝の流るるやうにかけたりける間{*17}、火、橋桁に燃え附いて、渓風、炎を吹き敷いたり。なまじひに渡りかかりたる兵ども、前へ進まんとすれば、猛火、盛んに燃えて身を焦がす。帰らんとすれば、後陣の大勢、前の難儀をも云はず支へたり。側へ飛びおりんとすれば、谷深く巌そびえて肝を冷し、如何せんと身を揉みて押しあふ程に、橋桁、中より燃え折れて、谷底へどうと落ちければ、数千の兵、同時に猛火の中へ落ち重なつて、一人も残らず焼け死にけり。その有様、ひとへに八大地獄の罪人の刀山剣樹につらぬかれ、猛火鉄湯に身を焦がすらんも、かくやと思ひ知られたり。
 さる程に、吉野、戸津河、宇多、内郡の野伏ども、大塔宮の命を含んで相集まること七千余人、ここの峯、かしこの谷に立ち隠れて、千剣破の寄せ手どもの往来の路を差し塞ぐ。これに依つて、諸国の兵の兵粮、忽ちに尽きて、人馬共に疲れければ、転漕{*18}に怺へかねて、百騎、二百騎引いて帰る処を、案内者の野伏ども、所々のつまりづまりに待ち受けて討ち留めける間、日々夜々に討たるる者、数を知らず。希有にして命ばかりを助かる者は、馬、物具を捨て、衣裳を剥ぎ取られて裸なれば、或いはやぶれたる蓑を身に纏ひてはだへばかりを隠し、或いは草の葉を腰に巻きて恥をあらはせる落人ども、毎日に引きも切らず十方へ逃げ散る。前代未聞の恥辱なり。されば、日本国の武士どもの重代したる物具、太刀、刀は、皆この時に至つて失せにけり。
 名越遠江入道、同兵庫助二人、詮なき口論して、共に死に給ひぬ。その外の軍勢ども、親は討たるれば、子は髻を切つてうせ、主、疵を被れば、郎従助けて引きかへす間、始めは八十万騎と聞こえしかども、今は僅かに十万余騎になりにけり。

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校訂者注
 1:底本は、「尺寸をも余さず」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 2:底本は、「木戸の辺(へん)」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 3:底本は、「漂(ただよ)ふ処」。底本頭注に、「動揺する処。」とある。
 4:底本は、「汲まぬやうに」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 5:底本は、「然るべしと覚(おぼ)え候。」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 6:底本は、「五斛(こく)」。底本頭注に、「五石に同じ。」とある。
 7:底本は、「始めの程こそあれ、」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 8:底本は、「渡り合(あ)はんと」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 9:底本頭注に、「弥猛に。いよいよ勇み猛つて。」とある。
 10:底本頭注に、「〇これにちがはん 之れを避けよう。」「〇しどろ 不規律。」とある。
 11:底本は、「花下(はなのもと)の連歌師(れんかし)」。底本頭注に、「花下は連歌師の団体の号か。」とある。
 12:底本は、「禁忌(きんき)なりける表爾(へうじ)」。底本頭注に、「〇禁忌 いまはしいこと。」「〇表爾 表現。」とある。
 13:底本は、「遊びをさせられける。」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 14:底本は、「片時(へんじ)が程に」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 15:底本は、「十善(じふぜん)の君に敵(あた)を」。底本頭注に、「〇十善の君 天皇。」とある。
 16:底本は、「有様(ありさま)を見よ。」。『太平記 一』(1977年)に従い削除した。
 17:底本は、「かけたる間、」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 18:底本は、「転漕(てんそう)」。底本頭注に、「水陸の運送。」とある。

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