舟人馬方鐙屋の庭{*1}
北国の雪竿、毎年一丈三尺降らぬといふ事なし。神無月の初めより山道を埋づみ、人馬の通ひ絶えて、明けの年の涅槃の頃まではおのづからの精進して、塩鯖売りの声をも聞かず。茎桶の用意、焚き火を楽しみ、隣り向かひも音信不通になりて、半年は何もせずに、明け暮れ煎じ茶にして送りぬ。諸事をかねがね貯へ置きし故に、渇命に及ばざりき。かかる浦山へ、馬の背ばかりにて荷物を取らば、よろづ高直にして迷惑すべし。世に船ほど重宝なる物はなし。
ここに、坂田の町に鐙屋と言へる大問屋住みけるが、昔は僅かなる人宿せしに、その身才覚にて、近年次第に家栄え、諸国の客を引き請け、北の国一番の米の買ひ入れ、惣左衛門といふ名を知らざるはなし。表口三十間、裏行き六十五間を家蔵に建て続け、台所の有様、目を覚ましける。米、味噌出し入れの役人、薪の請け取り、魚奉行、料理人、椀、家具の部屋を預かり、菓子の捌き、煙草の役、茶の間の役、湯殿役、又は使ひ番の者も極め、商ひ手代、内証手代、金銀の渡し役、入り帳の付け手。諸事、一人に一役づつ渡して、物の自由を調へける。
亭主、年中袴を着て、少しも腰を伸さず。内儀は軽い衣装をして、居間を離れず、朝から晩まで笑ひ顔して、なかなか上方の問屋とは格別、人の機嫌を取り、身過ぎを大事に掛けける。座敷数限りなく{*2}、客一人に一間づつ渡しける。都にて蓮葉女と言ふを、所詞にて杓と言へる女、三十六、七人。下に絹物、上に木綿の縦縞を着て、大かた今織の後ろ帯、これにも女頭ありて指図をして、客に一人づつ、寝道具上げ下ろしの為に付け置きける。
十人寄れば十国の客。難波津の人あれば播州網干の人もあり。山城の伏見衆、京、大津、仙台、江戸の人、入り交じりての世間話。いづれを聞きても皆賢く、その一分を捌きかねつるは一人もなし。年寄りたる手代は、我が為になる事をして置く。若い手代は悪所遣ひし過ごし、とかく親方に徳をつけず。これを思ふに、遠国へ商ひに遣ひぬる手代は、律義なる者はよろしからず。何事をも内端に構へて、人の後につきて、利を得る事難し。又、大気にして主人に損掛けぬる程の者は、よき商売をもして、取り過ごしの引き負ひをも埋づむる事早し。
この問屋に数年、あまた商人かたぎを見及びけるに、初めての馬下りより葛籠を開けて{*3}、都染の定紋付きに道中着る物を脱ぎ替へ、蟇肌取り捨て新しき足袋、草履。鬢撫でつけて、くはへ楊枝。誰にか見すべき采体を繕ひ、「この辺りの名所見に行く。」とて、用を勤めし手代を案内に連れける人、今まで幾人か。して出られしためしなし。
親方かかりの、程なく親方になる人は、気の付け所、格別なり。ここに着くといなや、面若い者に近寄り、「いよいよ後月中頃の書状の通りと、相場変はりたる事はないか。所々で気色は変はるものにて、日和見定め難く、あの山の雲立ちは二百日を待たずに風とは、御覧なされぬか。」「当年の紅の花の出来は。」「青苧は何程。」と、いる事ばかりを尋ね、干鮭の抜け目のない男、間なく上方の旦那殿より身代よしとなられける。いづれ、物には仕様の有る事ぞかし。
この鐙屋も、武蔵野の如く広う取りしめもなく、問屋長者に似て、いづくに内証危なかりしは、定まりし貢銭取るをまだるく、手前の商ひをして大方は仕損じ、損をかけぬるものぞかし。問屋一片にして、客の売り物買ひ物大事に掛くれば、何の気遣ひもなし。
惣じて問丸の内証、脇よりの見立てと違ひ、思ひの外、諸事、もののいる事なり。それを実体なる所帯になせば、必ず衰微して家久しからず。年中の足り余り、元日の五つ前ならでは知れず。常には算用のならぬ事なり。鎧屋も仕合せの有る時、来年中の台所物、前年の{*4}極月に調へ置き、それより年中取り込み金銀を、長持に落とし穴を開けてこれに打ち入れ、十二月十一日、定まつて勘定を仕立てける。確かなる買ひ問屋、銀を預けても夜の寝らるる宿なり。
【口訳】
北国の雪は、雪竿によれば、毎年一丈三尺降らぬといふ事はない。十月の初めから山道を降り埋づめ、人馬の交通が絶えて、翌年の涅槃会の頃まではやむを得ず精進して、塩鯖売りの声さへも聞かない。茎桶{*5}の用意をしたり、焚き火を楽しんだりして、隣り、向かひも音信不通になり、半年は何もせずに、明け暮れ煎じ茶を飲んで送る。でも、色々の食料をあらかじめ貯へて置くので、飢渇に及ぶ事はない。かやうな浦里へ馬上ばかりの荷物を取り寄せたら、すべて高値になり困るであらう。世に船ほど便利な物は他にない。
ここに、酒田の町に鐙屋といふ大問屋が住んでゐたが、昔は貧弱な宿屋をしてゐたが、その身の才覚で近年次第に家が栄え、諸国の客を引き受け、北国一番の米の買ひ入れ問屋となり、惣左衛門といふ名を知らぬ者はない。表口三十間、裏行き六十五間ほどの屋敷を、家や蔵で建て続け、台所の有様は素晴らしいものである。即ち、米、味噌の出し入れの役人、薪の受け取り人、魚奉行、料理人、椀、家具の部屋を預かる役、菓子の取り捌き役、煙草盆の役、茶の間の役、湯殿役、又は使ひ番の者も定め、商ひ手代、内証手代、金銀の渡し役、入り帳の記入役等、一人につき一役づつ受け持たせて、事務の円滑を図つた。
主人は年中、袴を着て、少しも腰を伸ばさず{*6}、内儀は身軽な衣装して、居間を離れず、朝から晩まで笑ひ顔して、なかなか上方の問屋とは格別違つたもので、人の機嫌を取り、家業を大事に心掛けるのであつた。座敷は無数にあつて、客一人に一間づつあてがふのであつた。都で蓮葉女{*7}と言ふのを、所言葉では杓と言つてゐるが、それが三十六、七人もあつて、下には絹物、上には木綿の縦縞を着て、大かた今織金襴の後ろ帯{*8}をしてゐる。これにも女頭があつて指図をなし、客に一人づつ、寝道具の上げ下ろしの為に付けるのであつた。
世話に言ふ如く、「十人寄れば十国の客。」で、大阪の人もあれば播州網干の人もあり、山城の伏見衆、京、大津、仙台、江戸の人々が、入り交じつて世間話をしてゐるのは、どれを聞いても皆抜け目がなく、その受け持ちの商売を埒明け得ない者は一人もない。年寄つた手代は自分の為になる事をしておくものだ。若い手代は悪所遣ひ{*9}をし過ごし、とかく主人に儲けを得させない。これを思ふに、遠方へ商ひに遣る手代は、実直な者はよろしくない。かやうな手代は何事も控へ目にして、人の後について商ふので、利を得る事が難しい。又、気が太くて主人に損かける程の者は、一方にうまい商売をもして、取り込んだ借銭をも埋める事が早いものだ。
この問屋では数年来、多くの商人気質を見来つたのであるが、初めてここに着いて馬を下りた時から、はや、葛籠開けて都染の定紋付きに道中着物を脱ぎ替へ、蟇肌{*10}の足袋を取り捨てて、新しい足袋に草履を履き、鬢撫でつけて楊枝をくはへ、誰に見せようかといふめかしぶりで{*11}、「この辺の名所を見に行く。」と言つて、用を勤めてゐる手代を案内に連れるやうな客がよくある。かやうな人は今まで幾人出世されたか{*12}。ほとんどその例がない。
主人持ちが程なく主人になるやうな人は、気の付け所が違ふ。ここに着くやいなや、若い者に近寄り、「相場は前月中頃の書状の通りと違ふ事は、確かにないか。所々で空模様は変はるもので、日和が見定め難いが、あの山の雲の立ち方には、二百日を待たずに風が吹くとは御覧なされぬか。」「今年の紅花の出来ばえは。」「青苧{*13}はいくらの相場か。」と、入り用な事だけを尋ね、干し鮭{*14}の如く抜け目のない男で、間もなく上方の主人殿よりも身代よしとなられたものだ。とにかく物事にはやり方のあるものだ。
この鐙屋も、武蔵野の如く{*15}手広く引き締まるところもなく、世話にも言ふ如く、問屋は長者に見えるが{*16}、どこの国でも問屋の生計が危なくなるわけは、一定の口銭を取る家業をまだるく思ひ、自分勝手な商ひをして大抵は失敗し、客に損をかけるからだ。問屋の家業を専一にして、売り物買ひ物を大切に心がければ{*17}、何の心配もないものだ。
いつたい問屋の暮らし向きは、外からの観察とは違つて、思ひのほか諸事につけ、費用のいるものだ。それだからとて、実直な営業ぶりになせば必ず衰微して、遠からず潰れるものだ。一年中の残高は、元日の朝八時前でなくてはわからない{*18}。平生は収支の決算はできないものだ。鎧屋も儲けのあつた時は、来年中の台所物を前年の十二月に買ひ調へておき、その後は一年中受け入れる事ばかりとし、その金銀をば、長持に落とし穴を開けてこれに打ち入れ、十二月十一日、定まつて決算を作り上げるのであつた。かやうに確かな買ひ問屋で、銀を預けても夜寝られる宿である。
【批評】
本篇は、鐙屋といふ米買ひ入れ問屋の大仕掛けな営業ぶりを語るものであるが、それは全篇の五分の二で、他はこの問屋の客の口を借りて、世相人心を述べてゐる。手代気質の実相が鋭く捉へられてをり、問屋の実情や商売ぶりがよく写されてゐる。本篇は、鐙屋の繁昌ぶりを述べてはゐるが、むしろこの問屋の大仕掛けな組織、例へば、それぞれ分業的になつてゐる役目を列挙するやうなところは、西鶴の得意とする点で、越後屋の分業的な店先を描いてゐるのと似てをり、かやうな描写をなすところが特色の一つであつて、致富の道を述べるよりも、事実の姿を描くところに価値がある。
校訂者注
1:底本語釈に、「〇舟人(ふなひと)馬(むま)方鐙屋(あぶみや)の庭(には) 諺『船頭馬方御乳の人。』(横暴な意)をふまへた。」とある。
2:底本は、「かぎりなく」。『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
3:底本は、「あげて」。底本語釈及び『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
4:底本は、「前(まへ)年極月」。『新潮日本古典集成 日本永代蔵』(1977)に従い改めた。
5:底本語釈に、「〇茎桶(くきをけ) 茎漬けの桶。野菜の茎、根などを塩漬けにしておく桶。」とある。
6:底本語釈に、「〇のさず 伸ばさない。腰を伸さずとは、腰をかがめて客に応接しながら絶えず働くさま。」とある。
7:底本語釈に、「〇蓮葉女(はすばをんな) 京阪地方の問屋の下女。」とある。
8:底本語釈に、「〇後帯(うしろおび) 後ろで帯を結ぶ事。従来、女は老若共に前帯であつたが、延宝頃から、若い女の間に後ろ帯が流行し始めたのである。」とある。
9:底本語釈に、「〇悪(あく)所つかひ 悪所(あくしよ)づかひ。遊里で金を使ふこと。」とある。
10:底本語釈に、「〇皺皮(ひきはだ) 蟇肌(ひきはだ)の義で、皺のある革。ここは道中用の革足袋の一種である綱貫沓(つなぬきぐつ)であらう。雪沓の一つで、牛革製である。」とある。
11:底本語釈に、「〇采体(とりなり) 風采。」とある。
12:底本語釈に、「〇して出られし 稼ぎ出された。『られ』は敬語の助動詞。大した人でもない者に敬語を使ふのは西鶴の筆ぐせで、又滑稽味ある所以の一つ。」とある。
13:底本語釈に、「〇青苧(あをそ) 麻の皮。当時は最上地方が第一の産地で、奈良晒布の原料となつた。」とある。
14:底本語釈に、「〇干鮭(からさけ) 鮭の腸を除いて素干しにしたもの。干鮭は北国の産であり、眼球は付いたままになつてゐるので、『抜け目のない』の飾りとして書いた。」とある。
15:底本語釈に、「〇武蔵野のごとく 武蔵鐙(あぶみ)といふ鐙があるので、鐙屋の鐙の縁としても、武蔵野を持ち出した。。」とある。
16:底本語釈に、「〇問(とひ)屋長者に似(に)て 諺『問屋、長者に似たり。』に拠る。諺の意は、問屋は貨物が輻輳し、手代丁稚も多く、賑やかに外観は見えるので、富豪に似てゐるといふ事。」とある。
17:底本は、「心がくれば」。
18:底本語釈に、「〇五つ前(まへ) 一年中の収支の決算が、大みそかから夜を徹して、元日の明け方までかかるのである。」とある。