三月十二日合戦の事
六波羅には、かかる事とは夢にも知らず。「摩耶の城へは大勢下しつれば、敵を攻め落とさん事、日を過ごさじ。」と心安く思ひける。その左右を、今や今やと待ちける所に、寄せ手、打ち負けて逃げ上るよし披露あつて、実説は未だ聞かず。何とある事やらん、不審、端多き所に、三月十二日申の刻ばかりに、淀、赤井、山崎、西岡辺三十余箇所に火をかけたり。「こは何事ぞ。」と問ふに、「西国の勢、已に三方より寄せたり。」とて、京中、上を下へ返して騒動す。
両六波羅、驚いて、地蔵堂の鐘を鳴らし、洛中の勢を集められけれども、宗徒の勢は摩耶の城より追つ立てられ、右往左往に逃げ隠れぬ。その外は、奉行頭人なんど云はれて、肥え脹れたる者どもが馬に舁き乗せられて、四、五百騎馳せ集まりたれども、皆唯あきれ迷へるばかりにて{*1}、さしたる擬勢もなかりけり。六波羅の北方越後守仲時、「事の体を見るに、いかさま、居ながら敵を京都にて相待たんことは、武略の足らざるに似たり。洛外に馳せ向つて防ぐべし。」とて、両検断隅田、高橋に、在京の武士二万余騎を相副へて、今在家、作道、西の朱雀、西八條辺へ差し向けらる。これは、この頃南風に雪とけて、河水岸に余る時なれば、桂川を隔てて戦ひを致せとの謀りごとなり。
さる程に、赤松入道円心、三千余騎を二つに分けて、久我縄手、西七條より押し寄せたり。大手の勢、桂河の西の岸に打ち臨んで、川向うなる六波羅勢を見渡せば、鳥羽の秋山風に、家々の旗翩翻として、城南の離宮の西門より、作道、四塚、羅城門の東西、西の七條口まで支へて、雲霞の如くに{*2}充満したり。されどもこの勢は、桂川を前にして防げと下知せられつるその趣を守つて、川をば誰も越えざりけり。寄せ手は又、思ひの外、敵大勢なるよと思惟して、左右なく討つて懸からんともせず。唯両陣、互に川を隔てて、矢軍に時をぞ移しける。中にも帥律師則祐、馬を踏み放してかち立ちになり、矢たばね解いて押しくつろげ、一枚楯の陰より、引き詰め引き詰め散々に射けるが、「矢軍ばかりにては勝負を決すまじかり。」とひとり言して、脱ぎ置いたる鎧を肩にかけ、兜の緒をしめ、馬の腹帯を堅めて、唯一騎、岸より下にうち下し、手縄かいくり渡さんとす。
父の入道、遥かに見て、馬を打ち寄せ、面に塞がつて制しけるは、「昔、佐々木三郎が藤戸を渡し、足利又太郎が宇治河を渡したるは{*3}、かねてみをじるしを立てて案内を見置き、敵の無勢を目にかけて先をばかけしものなり。河上の雪消え、水増さりて、淵瀬も見えぬ大河を、かつて案内も知らずして渡さば、渡さるべきか。たとひ馬強くして渡る事を得たりとも、あの大勢の中へ唯一騎{*4}かけ入りたらんは、討たれずといふ事あるべからず。天下の安危、必ずしもこの一戦に限るべからず。暫く命を全うして、君の御代を待たんと思ふ心のなきか。」と、再三強ひて止めければ、則祐、馬を立て直し、抜いたる太刀を収めて申しけるは、「御方と敵と対揚すべき程の勢にてだに候はば、我と手を砕かずとも、運を合戦の勝負に任せて見候べきを、御方は僅かに三千余騎、敵はこれに百倍せり。急に戦ひを決せずして、敵に無勢の程を見透かされなば、戦ふといへども利あるべからず。されば、太公が兵道の詞に、『兵勝の術は、ひそかに敵人の機を察して、速やかにその利に乗つて、疾くその不意を撃て。』と云へり。これ、吾が困兵を以て敵の強陣を破る謀りごとにて候はずや。」と云ひ捨て、駿馬に鞭を進め、漲つて流るる瀬枕に、逆波を立ててぞ泳がせける。これを見て、飽間九郎左衛門尉、伊東大輔、河原林二郎、木寺相模、宇野能登守国頼、五騎続いて颯と打ち入れたり{*5}。
宇野と伊東は馬強うして、一文字に流れを截つて渡る。木寺相模は、逆巻く水に馬を放たれて、兜の手辺ばかり僅かに浮かんで見えけるが、波の上をや泳ぎけん、水底をや潜りけん、人より前に渡りついて、河の向うの流れ洲に、鎧の水したでてぞ立ちたりける。彼等五人が振舞を見て、尋常の者ならずとや思ひけん、六波羅の二万余騎、人馬、東西に僻易して、敢へて駆け合はせんとする者なし。あまつさへ、楯の端しどろになつて色めき渡る所を見て{*6}、「先駆の御方討たすな、続けや。」とて、信濃守範資、筑前守貞範、真先に進めば、佐用、上月の兵三千余騎、一度に颯と打ち入つて、馬筏に流れをせきあげたれば、逆水岸に余り、流れ十方に分かれて、元の淵瀬は中々に陸地を行くがごとくなり。三千余騎の兵ども、向ふの岸に打ち上り、死を一挙のうちに軽くせんと、進み勇める勢ひを見て、六波羅勢、叶はじとやおもひけん、未だ戦はざる前に、楯を捨て旗を引いて、作道を北へ東寺を指して引くもあり、竹田川原をのぼりに法性寺大路へ落つるもあり。その道二、三十町が間には、捨てたる物具地に満ちて、馬蹄の塵に埋没す。
さる程に、西七條の手、高倉少将の子息左衛門佐、小寺、衣笠の兵ども、早京中へ攻め入りたりと見えて、大宮、猪熊、堀川、油小路の辺、五十余箇所に火をかけたり。又、七條、八條、九條の間にも戦ひありとおぼえて、汗馬東西に馳せ違ひ、鬨の声天地を響かせり。ただ大三災一時に起こつて、世界悉く劫火のためにやけ失するかと疑はる。京中の合戦は、夜半ばかりのことなれば、目ざすとも知らぬ暗き夜に、鬨の声ここかしこに聞こえて、勢の多少も軍立ちの様も見分かざれば、いづくへ何と向うて軍をなすべしともおぼえず。京中の勢は、先づただ六條河原に馳せ集まつて、あきれたる体にて控へたり。
校訂者注
1:底本は、「あきるゝ許りにて、」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
2:底本は、「雲霞(うんか)の如く充満」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
3:底本頭注に、「〇佐々木三郎 盛綱。」「〇足利又太郎 忠綱。」とある。
4:底本は、「唯一人」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
5:底本は、「打ち入りたり。」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
6:底本頭注に、「〇僻易 しりごみ。」「〇しどろ 不規律。」「〇色めき 負け色づき。」とある。