伊吹
(大頭左兵衛本)
義朝に三男、童名は文殊子、元服召され、その後、兵衛佐頼朝、いまだ若にておはせしが、待賢門の夜戦に駆け負けさせ給ひ、東国さして落ち給ふ。西坂本までは、父の御供召されしが、暗さは暗し、雪は降る、下がり松の辺りより、御父義朝に追ひ遅れさせ給ひ、夜のほのぼのと明くるまで、吹雪に吹かれて道も無き、雪の山にぞ迷はれける。御年は十二歳。いつしか都におはせし時は、輿、車、稀にも馬に召すをだに、世にも不思議におぼせしに、かち裸足なる雪の道、これが初めの事なれば、さこそ物憂くおはすらん。
産衣と申す鎧をば、小原の里に預け置き、髭切の御佩刀を、杖についてぞ落ちられける。されども弓矢の名将とて、かかる吹雪の物憂きに、髭切ばかり捨てもせで、命と共に持たれたり。既にその夜も明けければ、「今は追手や懸かるらん。行方も知らぬ雑兵の、その手に懸かり中々に、源氏の名をくたさむよりも、清き自害をせむ。」とて、雪の上に柴折り敷き、御肌の守りより、法華経一巻取り出し、心静かにあそばして、追手懸からば尋常に、清き自害と思し召し、暫く息をつぎ給ふ。
かかりける所に。蓑笠着たる男、二人連れて通りしを、頼朝、この由御覧じて、「この者どもを頼み、いづくへもひとまづ落ちばやなむ。」と思し召し、「なう。いかに、旅人。」と、御言葉をかけ給ふ。「何事にや。」と申して、御傍近く参りければ、頼朝、この由御覧じて、「我は、人目を包む者。しかるべくは御芳志に、助けて賜べ。」と宣へば、庄司、この由承り、「これは、間近き北近江、伊吹の裾に住まひする、草野の庄司とは、我が事なり。子にて候藤九郎、君の御供仕り、罷り出て候ひしが、待賢門の夜戦に、味方駆け負け給ひて、行き方知らずと承れば、その行方をも聞かむため、片田の辺にありつるが、都へ上り候ぞや。かかる差し合ひなかりせば、易き程の事なれども、人を助け参らせて、我が子は何と成るべき。」と、すげなくそこを通りけり。
頼朝、この由御覧じて、「さては、運命尽きぬるや。暫しとどまり、願はくは、死骸をなりとも隠して行け。腹を切る。」と宣ひて、押し肌脱がせ給へば、庄司、心弱くして、御刀にすがりつき、「年の程を見申せば、まだうら若きみどり子の、松も久しき末までも、げに頼もしき年の程。我が子も生きてあるならば、この君にいか程、年増さむ。この君、御自害ましまさば、父母伝へ聞こし召し、さこそ庄司を疎ましく、鬼畜のやうに思すべき。この君をひとまづ落とさばや。」と思ひ、蓑に押し巻き奉り、十文字に結ひからげ、供の男にかき負ほせ、上に古蓑うち掛けて、都へは上らずし、片田を指して下りしは、情け一とぞ聞こえける。
幾程なくて、後よりも、横川法師の大将に、大矢の註記、先として、五十余人、楯をつき、「怪ししや。旅人よ、止まれ、止まれ。」と追つかくる。庄司、荷持を先に立て、我が身は後に踏み留まつて、「これは、他所より来らず。御領内の百姓、小原の里に住まひする、二郎太夫と申す者。元三の菓子のために、野老を持たせて坂本ヘ、参る者にて候なり。落人は、この先へ、その数あまた御通りある。疾うして追はし給へや。」と、雪踏みのけて遣り過ごす。かくて、「義朝は、片田より御舟に召され、向ひの地へ。」と聞こえければ、力及ばず、追手の者ども皆、坂本に帰る。その後、静かに歩み、片田へ入り参らせ、知る人を頼み、一葉の舟に棹をさし、朝妻の浜に上がり、「さのみ蓑にはいかにとして、御身を包み申さむ。」と、それより御手を肩にかけ、草野の里に入れ申し、我が宿所にていたはりて、新玉の月を送りしは、めでたかりける次第かな。
或る時庄司、申しけるは、「さもあれ御身は、義朝の御内にては、いかやうの人の公達にて御座候ぞ。御名字を御名乗り候へ。」頼朝、聞こし召されて、「義朝の御内にては、名もなき者にて候。」と、深く包ませ給ふ。庄司、承り、「それは、いかやうの人にても御座あれ、これまで助け申すまでの事。さて、これよりいづくを指して御急ぎぞ。御心ざしの所まで、送り届け申すべし。頼朝、聞こし召されて、「指して行くべき方も無し。いづくの里なりとも、『哀れ。』と言ふ人のあらば、住み果てなむ。」とぞ仰せける。庄司、承り、「我が子の九郎、まだ見えず。折節、来り給へば、九郎が生まれ来れるか、主とも子とも思ふべし。これにましまし候へ。」とて、深くいたはり奉る。
かくて日数を経る程に、国内通計の事なれば、御父義朝は、尾張の国野間の内海にて、長田に討たれさせ給ひ、御首上り、獄門に懸かれる由を聞こし召し、「いかに、庄司。承れ。我をば誰とか思ふらん。義朝に三男、童名は文殊子、元服して頼朝なり。さりともと思ひし父は、討たれ給ひぬ。今は命生きたりとも、誰か哀れと問ふべきぞ。都へ上り、今一度父の御首一目見、もしも命の長らへば、様をも変へて、ひたすらに亡き人々を弔ふべし。暇申して、さらば。」とて、立ち出させ給へば、庄司を始め女房も、御袂にすがりつき、「さては、我が子の九郎めが、主君にてましますや。我が子にこそは離れめ、君さへ離れ参らせて、我等は何と成るべき。」と、袂にすがり泣きゐたり。
頼朝、この由聞こし召し、「げにげに、申すも理なり。髭切をとどめ置く。これに置きては悪しかりなむ。美濃の国青墓の長者が元へ送りつつ、『いかならむ世までも、失はで置け。』と申すべし。これに刀一つあり。八幡殿の御刀、名を岩切と申すなり。憂き世の中の形見に、庄司殿に取らするぞ。不思議の世にも出たらば、この刀をしるべにて、尋ね来り給へや。」と、我が身は脇差ばかりにて、編笠にやつれ果て、都へ上り給ひける、心ざしこそ哀れなれ。
さる程に、六波羅殿には、人々に勧請行はせ給ふ。弥平兵衛宗清には、美濃の国垂井を賜はり、罷り下り候ひしが、今津河原を通る時、頼朝に参り会ひ、「編笠の内、人に忍ばせ給ふ体、怪しく思ひ申す。」とて、笠引き落として見申せば、頼朝にておはします。「天の与ふる所。」とて、やがて生け捕り奉り、美濃の国へは下らずし、急ぎ都へ上り、六波羅にてこの由、かくと申しければ、清盛、聞こし召されて、「さればこそとよ、ここぞよ。恩は天の成す所、果報は過去の宿執。義朝は討たれぬ。悪源太、朝長は腹切りぬ。頼朝は生け捕りぬ。今は誰か残りゐて、平家に敵を成すべきぞ。やがて頼朝斬るべけれども、故刑部卿忠盛の、仏事折節差し合ひなり。仏事過ぎて斬るべし。それまでは宗清に預くるぞ。」宗清、頼朝を預かり申し、幾程ならぬ生涯を、見るこそ中々哀れなれ。
「あら、いたはしや、頼朝。幾程ならぬ御生涯。」とて、心まします御僧達を請じ申し、後世の黄泉、暗き闇の、迷ひを頼み奉り、いまだ幼稚にましませど、持経者にてましませば、日夜に御経怠らず、暁方の廻向には、「この御経の功力によつて、父、兄々、先立つ人、一つ蓮に生まれ給へ。」と、一心に廻向し給へば、宗清も女房も、この由を承り、「たゞ、人の宝には、子に過ぎたるはましまさず。あれ程歎きの御中に、念仏申し、経を読み、廻向の心ざしをば、十方の神仏、さこそ嬉しく思すらむ。悔しくも又宗清が、生け捕り参らせ候ひて、憂き目を見る悲しさよ。」と、夫婦共に言ひ語り、深き思ひと成りにけり。
小夜うち更けて殊更、心細げにまします所に、宗清夫婦参り、酒を勧め申せども、更に見入れ給はず。「若き人にてましませば、御心をも慰めばや。」と思ひ、「いかに頼朝、聞こし召され候へ。まことや、承れば、故刑部卿忠盛の、仏事折節差し合ひなり。その他、死罪の人々も、皆首を継ぐと承る。殊更御身をば、横川の僧都めいしゆむ、三井の僧正ゆふはむ、仁和寺のけいうむ、折りしきり申さるる御訴訟の前なれば、たとひ流罪は成さるるとも、死罪は更に候まじ。御心安く思し召せ。」と、偽りすかし申せば、頼朝、聞こし召され、「あら、愚かなり、宗清。命を惜しみ、頼朝が、歎く身にては無きぞとよ。昔は源平両家とて、鳥の二つの羽がひ、車の両輪の如くにて、劣りまさりは無くし、天下の守りとありつるが、前世いかなる事ありて、この時滅び果つるらむ。『父、兄々、先立つ人、一つ蓮に生まれむ。』と、この事ならで、他事も無し。今夜はこの酒、呑むべきなり。各々も参り給へや。」と、歎く気色もましまさず。
頼朝、仰せけるやうは、「この程は、管絃すさめつる。余り思へば心無し。笛やある。」と仰せければ、宗清承り、漢竹の横笛を、取り出して参らせ上ぐる。頃は春の半ばなれば、双調に音を取つて、じゆむこむ楽をあそばす。憂き身の上の歎きには、くわひこむ楽をあそばす。宗清も女房も、感涙抑へがたうして、琵琶一面、琴一張取り出し、女房に琴を押し預け、我が身は琵琶の緒を合はせ、撥音気高く弾きければ、女房、涙諸共に、十二の絃を選り立て、為の緒に手を掛けにけり。これ仏教の器物、憂さもつらさもうち忘れ、これに慰み給ひけり。
夜もほのぼのと明け方に、門を叩く者あり。人を出して問はすれば、「頼朝を今日斬るべし。」と申す使なり。琵琶、琴を取り潜め、頼朝に抱きつき申し、泣くより外の事は無し。頼朝、大人しやかに仰せけるやうは、「定めて某が首は、大路を渡さるべし。髪けづりて賜び給へ。」宗清も女房も、「名残のため。」と思ひければ、三十三枚の櫛と払ひを取り出し、「昨日までは一筋を、千筋百筋、千秋万歳と祝ひし黒髪を、いつぞの程に引き替へ、今日は又、六條河原の蓬が元の塵と、成さむ事こそ悲しけれ。」と、落つる涙に目がくれて、櫛の立てども見え分かず。
さてあるべきにてあらざれば、夫婦共に分けけづり、行水せさせ参らせて、生絹の一重、肌に召させ、練貫に大口重ね、「憂かりけるかな。法なり。」とて、高手の縄を掛け申す。宗清も女房も、高手の縄に取りついて、「それ、『人は一樹の蔭、一河の水を汲む事も、他生の機縁。』と承るが、今生ならぬ御機縁に参り合ひ候て、今更憂き目を見る事よ。御用ゐもあるならば、我々夫婦が首を召され、頼朝の御命を助け給へや。悲しや。」と、流涕、焦がれ泣きければ、げに心なき方までも、哀れと問はぬ人ぞ無き。
頼朝、逆修のために、卒塔婆を三本刻ませ給ふ。「一本は父のため、一本は兄々、今一本は我がため。」と、上に阿字をあそばし、中には経の文、下には旨趣の廻向の旨をあそばし、年号、日付、源頼朝とあそばし、宗清を召され、「この辺に、駒の蹄も通はず、車に圧されぬ所やある。立てて参れ。」宗清、承つて、三本の卒塔婆を賜はり、斎所を尋ね歩きしに、「いづくいづくと申すとも、駒の蹄も通はず、車に圧されぬ所は、池殿の山荘、中嶋なり。」と申し、西八條に持ちて行き、中じまにわたり。三本の卒都婆を立つる。
かの池殿と申すは、故刑部卿忠盛の後家にておはします。清盛の御ためには御継母、慈悲第一の人なり。折節、縁行して御座ありしが、この由を御覧じ、「誰が卒塔婆ぞ。」と問ひ給ふ。「只今斬られさせ給ふべき、頼朝の卒塔婆。」と申す。「いくつに成るぞ。」と問ひ給ふ。「十三。」と申す。召し寄せて御覧じて、「人して書かせ給ひけるか。」「いや、自筆なり。」と申す。「年の程より遥かに、手は大人しくありけるぞ。要文ども多けれども、殊に殊勝なる名文なり。何々、『我従無数劫来、積集諸大善根、一分不留我身、施与十方衆生。』この文の心は、『我、無数劫よりこの方、積み集むる諸々の大善根、一分も我が身にとどめず、十方の衆生に施し与ふ。』これ、悲華経の文なり。この理を聞く時は、助けでいかがあるべき。車遣り出せ、牛飼。急ぎ供せよ、宗清。」と、取る物も取りあへず、六條河原に出させ給ふ。
さる間、頼朝をば追つ立ての官軍、七、八十人が中にして、源五右馬允、縄取なり。介錯人は、難波、妹尾。五條の橋より六條河原へ引き出す。頼朝、早く敷皮に御直りありければ、介錯人は参り、西の方へ押し向け、「御念仏。」と勧むれば、手を合はせ高らかに、高声念仏申さるる。池殿の御車を、半町ばかり遣り寄するに、御念仏のその声が、車の内へ聞こえければ、池殿、聞こし召され、「尼が行くと思はば、やがて首を切らうず。人に知らせで、この車を速めよ。やれ、宗清。鞭を打てや、牛飼よ。只一所に躍るは、わざと頼朝斬らせむとや。頼朝斬らするものならば、尼は御所へは帰るまじい。やがて身を投げ、死なうぞ。いかにや、殿、宗清。抱き下ろして賜び給へ。只一飛びに走らうに。」物見の簾をざつと打ち上げ、車の榻へ、只今転び落ちむとし給ふ。
検見に立つた後藤内、車の飛ぶを見付け、「いかさま、四箇の大寺より、大僧正か僧都の、召し人乞はむ車ぞ。疾く斬れやつ。」と指をさす。太刀取、後ろに廻つて、投げかけんとせし時、八幡の誓ひかや、河原の石に踏みくじけ、うつ伏しにかつぱと転び、太刀を河原へ投げかけ、起き上がつて、太刀を取らむ取らむとする間に、車をさつと遣り寄せ、いまだ止めもせざりしに、池殿、転び落ち給ひ、頼朝を引つ立て、同じ車にうち乗せ、「求めた殿が首かな。今はよも斬られじ。心安く思へ。」とて、はらはらと泣き給ふ。頼朝も、池殿の御袂にすがり付き、はらはらと泣き給ふ。物によくよく譬ふれば、罪深き罪人、倶生神の手に渡り、無間大城の底に堕とさるべかりしを、六道能化の地蔵の、錫杖をからりとうち振つて、「訶訶訶微婆麼曵。」と呼ばはりかけ、救ひ上げ、助けむとし給ふも、これ程ぞありつらん。八條殿に帰らるる。
検見、奉行も斬り手も、六波羅殿に帰つて、清盛に、かくと申しければ、「疾く斬らぬこそ不覚よ。」と、御後悔は量り無し。やがて、主馬判官盛国を召され、「汝、八條殿に参り、あれにて申すべき事は、『力及ばず、頼朝をば池殿に参らせ置き候ひぬ。源氏に伝はる重宝に、鎧には、かむだか、産衣、七龍、八龍とてあり。太刀には髭切とて候を、今度義朝、待賢門を出し時、嫡子悪源太にも譲らず、二男朝長にも譲らず、三男頼朝に譲りぬる由、聞いて候。恐れながら、池殿の御口入により、尋ね出して賜はらば、平家の宝たるべし。」と、御使をこそ立てられけれ。
池殿、聞こし召されて、頼朝にこの由、かくと仰せければ、頼朝、聞こし召され、「あら、何ともなの事どもや。命を惜しみ、いかにとして、家に伝はる重宝を、敵の手に渡すべき。」と、思し召されける間、とかく物をも宣はず、思ひ入つてぞおはしける。池殿、仰せけるやうは、「あら、愚かなり、頼朝。命だにあるならば、宝は又も求めて持つべし。只、みづからに御任せ候て、ありのままに仰せられよ。」頼朝、「げにも。」と思し召し、「産衣をば山科のじやうしんが元、太刀をば美濃の国青墓の長者が元に、預け置き候ひぬ。」と、ありのままに仰せければ、池殿、聞こし召されて、六波羅にてこの由、かくと仰せければ、やがて六波羅より使者を立て、召し出させ給ふ。かくて二つの宝、平家に納めらるべきにてありしかども、小松殿の仰せには、「これは、よからぬ御諚かな。源氏に持ちてこそ、宝とは成るべけれ、平家の方に持つならば、障礙をば成すとも、宝と成る事、候まじ。只々、返し給へ。」と、元の源氏へ返されたり。
「その儀にてあるならば、頼朝をば、いかなる遠嶋へも流し置け。」との御諚なり。一番の度には、伊勢の国御座の嶋と聞こゆる。池殿、聞こし召されて、「御座の嶋とやらんは、伊勢平氏が多くして、叶ふまじ。」とぞ仰せける。二番の度には、伊豆の国北條蛭が小嶋。これも心元無くし、御身間近き侍に、纐纈の源五盛康が嫡子、盛長と申して、十六歳に罷り成るを、間近き様に召され、「いかに、盛長よ。頼朝が供をして、伊豆の国に下り、朝夕宮づき申すべし。いささかの事もあるならば、急ぎ尼に知らせよ。俄の事にてあるならば、盛長、先に腹を切れ。跡をは弔うて得さすべし。いかに、頼朝。生まずとも、尼をば親と思ふべし。御身を子とも思はうぞ。南無や、源氏の氏神、正八幡大菩薩。頼朝の御寮を安穏に守り給へや。」と、後ろ姿を拝み給ふ。頼朝も立ち帰り、伏し拝ませ給ひけり。「生まれ合うたる親子ぞ。」と、御悦びは限りなし。
さる程に頼朝、盛長を伴ひ、伊豆の国に下つて、北條蛭が小嶋にて、二十一年の春秋を、送らせ給ひけるとかや。終に源氏一円の御代と成り給ひて、攻めし所はどこどこぞ。一谷鵯越、讃岐に屋島、長門に壇ノ浦、早鞆が沖までも、三年三月に攻め靡け、天下を治め給ふ事、八幡大菩薩の御誓ひとぞ聞こえける。