江戸期版本を読む

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上杉畠山流罪死刑の事

 さる程に、上杉伊豆守重能、畠山大蔵少輔直宗をば、所領を没収し、宿所を破却して、共に越前国へ流し遣はされけり。この人々、「さりとも死罪に行はるるまでの事は、よも非じ。」と憑まれけるにや、暫しの別れを悲しみて、女房、幼き人々まで皆伴ひて下り給へども、馴れぬ旅寝の床の露、おきふし袖をや濡らすらん。日頃より翫びし事なれば、旅の思ひを慰めんと、一面の琵琶を馬鞍にかけ、旅館の月に弾じ給へば、王昭君が、「胡角一声霜後夢、漢宮万里月前腸」と、胡国の旅を悲しみしも、かくやと思ひ知られたり。
 嵐の風に関越えて、紅葉ぞぬさと手向山、暮れ行く秋の別れまで、身にしられたる哀れにて、遁れぬ罪を身の上に、今は大津の東の浦、浜の真砂の数よりも、思へば多き歎きかな。絶えぬ思ひを志賀の浦、渚によするさざ波の、返るを見るも羨ましく、七座の神を伏し拝み、身の行く末を祈りても、都に又も帰るべき。事は堅田に引く網の、目にもたまらぬ我が涙、今津海津を過ぎ行けば、湖水の霧にそばだちて、波間に見えたる小島あり。これなりけり、都良香が古、「三千世界は眼の前に尽きぬ」と詠ぜしかば、「十二因縁は心の内に空し」といふ下の句を、弁才天の継ぎ給ひし竹生島よと望み見て、暫く法施を奉る。焼かぬ塩津を過ぎ行けば、思ひ越路の秋の風、音は荒血の山越えて、浅茅色づく野を行けば、末こそしらね梓弓、敦賀の津にも身を寄せて、袖にや浪のかかるらん。厳しく守る武士の、矢田野はいづく帰る山、名をのみ聞けるかひもなし。治承の乱れに篭りけん、火打が城を見上ぐれば、蝸牛の角の上三千界、石火の光の中一刹那、あはれあだなる憂世かなと、今更驚くばかりなり。無常の虎の身を責むる、上野の原を過ぎ行けば、今は我ゆゑ騒がしき、月の鼠の根をかぶる{*1}、いつまで草{*2}のいつまでか、露の命の懸かるべき。とても消ゆべき水の泡の、流れ留まる処とて、江守荘にぞ著きにける。
 当国の守護代細川刑部大輔、八木光勝、これをうけ取つて、あさましげなる柴の庵の、暫しも如何住まれんと、見るだに物憂き住居なるに、警固を据ゑてぞ置かれたりける。痛ましきかな、都にてはさしも気高かりし薄桧皮の屋形の、三葉四葉{*3}に作り並べて綺麗なるに、車馬門前に群集し、賓客堂上に充満して、花やかにこそ住み給ひしに、今は引き替へたる鄙の長途にやすらふだにも悲しきに、竹の編戸、松の垣、時雨も風もたまらねば、袂の乾く隙もなし。されば、「如何なる宿業にて、かかる憂き目に逢ふらん。」と、我ながら怨めしくて、あるもかひなき命なりけるを、猶も師直、不足にや思ひけん、後の禍ひをも顧みず、ひそかに討手を差し下し、守護代八木光勝にいひ合はせ、「上杉、畠山を討つべし。」とぞ下知しける。
 光勝、元は上杉が下知に随ふ者なりけるが、武蔵守に語らはれて、俄に心変じければ、八月二十四日の夜半ばかりに、伊豆守の配所、江守荘へ行きて、「昨日の暮ほどに、高弁定信の大勢にて当国の府に著きて候を、何事やらんと内々相尋ねて候へば、かたがたを討ち参らせんために下つて候なる。かやうにて御座候ては、いかでか叶はせたまひ候べき。今夜、急ぎ夜に紛れて落ちさせたまひて、越中越後の間に立ち忍ばせたまひて、将軍へ事の仔細を申し入れさせ給ひ候はば、師直等は、忽ちに御勘気を蒙り、御身の罪は軽くなつて、などか帰参の御事なかるべき。警固の兵どもにも道の程の御怖畏候まじ。唯、はや討手の近附き候はぬ先に落ちさせ給ひ候へ。」と、誠に弐心なげに申しければ、出し抜くとは夢にも知り給はず。取る物も取り敢へず、女房、幼き人々まで皆引き具して、上下五十三人、かちはだしなる有様にて加賀の方へぞ落ちられける。
 時しもこそあれ、霰交じりに降る時雨、面を打つが如くにて、僅かに細き田面の道、上は氷れる馬さくり{*4}、踏めば深泥、膝にあがる。簑もなく笠も著ざれば、肌までぬれ徹り、手かがまり足凍えたるに、男は女の手を引き、親は幼き子を負ひて、いづくを落ち著くべき処とも知らず、唯、「後より討手や懸かるらん。」と、怖ろしきままに落ち行く心の中こそ哀れなれ。
 八木光勝、かねて近辺に触れ廻り、「上杉、畠山の人々、流人の身として落ちて{*5}行く事あらば、是非なく皆討ち止めよ。」と申す間、江守、浅生水、八代荘、安居、波羅蜜の辺りに居たる溢れ者{*6}ども、太鼓を鳴らし鐘を撞いて、「落人あり。討ち止めよ。」と騒動す。上杉、畠山、これに驚いて、一足も先へ落ち延びんと倒れふためきて、足羽の渡しへ行き著きたれば、川の橋を引きはづして、足羽、藤島の者ども、川向かうに楯を一面に衝き並べたり。「さらば、後へ帰り、八木をこそ憑まめ。」と、憂かりし江守へ立ち帰れば、又、浅生水の橋をはね外して、後にも敵充ち満ちたり。ただ、疲れの鳥の、犬と鷹とに攻めらるらんも、かくやと思ひ知られたり。これまでも、「主の先途を見はてん。」と附き従ひたりける若党十三人、主の自害を勧めんため、押し肌脱いで、一度に腹をぞ切つたりける。
 畠山大蔵少輔、続いて腹掻き切り、その刀を引き抜いて、上杉伊豆守の前に投げ遣り、「御腰刀は、ちと寸延びて見え候。これにて御自害候へ。」といひもはてず、うつぶしになつて倒れにけり。伊豆守、その刀を手に取りながら、幾程ならぬ憂世の名残惜しみかねて、女房の方をつくづくと見て、袖を顔に押しあて、唯さめざめと泣き居たるばかりにて、そぞろに時をぞ移されける。さる程に、八木光勝が中間どもに生け捕られて、刺し殺されけるこそうたてけれ。「武士たる人は、平生の振舞は、よしや、ともかくもあれ。あながち見る処にあらず。唯、最後の死にやうをこそ執する事なるに、きたなくも見え給ひつる死に場かな。」と、爪弾きせぬ人もなかりけり。
 女房は、「年頃日頃のなじみ、昨日今日の情の色、いつ忘るべしともおぼえず。」と泣き悲しみて、「その淵瀬に身をも沈めん。」と、人目の隙を求め給ひけるを、年頃、知識に憑まれたりける聖、とかく止め教訓して、往生院の道場にて髪剃り落とし奉りて、なき跡を弔ふ外は更に他事なし{*7}とぞ聞こえし。
 かやうに万なりぬれば、天下の政道、しかしながら武家の執事の手に落ちて、今に乱れぬとぞ見えたりける。

大嘗会の事

 さる程に、「年内、やがて大礼あるべし。」と、重ねて評定せられけり。「当年三月七日に行ふべし。」と沙汰ありしかども、大儀、事行はれず。さりながら、「さのみ延引、如何。」とて、果たし遂げらるべきにぞ定まりける。
 それ大礼と申すは、大内回禄の後は、代々の流例として、大極殿の儀式を移されて、太政官庁にてこれを行はる。内弁{*8}は、洞院太政大臣公賢公とぞ聞こえし。
 「即位の内弁を大相国勤仕の事、先縦、たまさかなり{*9}。」或いは、「不快なり。」と、僉議まちまちなりしを、勧修寺大納言経顕卿、進んで申されけるは、「相国の内弁の先例、両度なり。保安、久寿の両主なり。保安は、誠に凶例ともいつつべし。久寿は又、佳例なれば、かの先規をいかでか嫌はるべき。その上、今の相国は、時に当たる職に達し、世に聞こえたる才幹なり。されば、君主も義を問ひ、政道を問ひ給へば、一人の師範、その身に当たれり。諸家も礼を学び、和漢の鑑と仰ぎて、四海の儀刑、人に恥ぢず。」と申されしかば、皆閉口して、是非の沙汰にも及ばず、相国、内弁に定まり給ひけり。外弁{*10}は、三條坊門源大納言家信、高倉宰相広通、冷泉宰相経隆なり。左の侍従は花山院宰相中将家賢、右の侍従は菊亭三位中将公真なり。
 御即位の大礼は、四海の経営にて、緇素{*11}の壮観、比すべき事なければ、遠近、踵を継いで群をなす。両院{*12}も、御見物のために御幸なつて、外弁の仮屋の西南の門外に御車を立てらる。天子諸卿、冕服を著し、諸衛諸陣、大儀を服す。四神の旗を壺に立て、諸衛、鼓を陣に振る。紅旗、風に巻いて画竜揚がり、玉幡、日に映じて文鳳翔る。秦の阿房宮にも異ならず、呉の姑蘇台もかくやとおぼえて、末代といひながら、かかる大儀を執り行はるる事、ありがたかりしためしなり。この日、如何なる日ぞや。貞和五年十二月二十六日。天子、登壇即位して、数度の大礼、事ゆゑなく行はれしかば、今年はめでたく暮れにけり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「仏説譬喩経に『時有一人、遊於曠野、爲悪象所逐、怖走無依見一空井、傍有樹根、即尋根下潜身井中、有黒白二鼠、互齧樹根。』」とある。
 2:底本は、「壁草(いつまでぐさ)」。底本頭注に、「古い壁に生ずる草。」とある。
 3:底本は、「三葉四葉(みつばよつば)」。底本頭注に、「古今集の序に『この殿はむべもとみけりさき草の三葉四葉に殿造りせり。』」とある。
 4:底本頭注に、「馬のふんだ泥路。」とある。
 5:底本は、「落ち行く」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
 6:底本頭注に、「無頼漢。」とある。
 7:底本は、「更に事なし」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 8:底本頭注に、「節会に主として事を執つた職名で承明門内で諸事を弁じた故の名。」とある。
 9:底本頭注に、「〇先縦邂逅なり 先例があまり無かつた。邂逅は期せずして会ふこと。」とある。
 10:底本は、「外弁(げべん)」。底本頭注に、「節会に承明門内で諸事を弁じた職名。内弁に対す。」とある。
 11:底本は、「緇素(しそ)」。底本頭注に、「僧侶と俗人。」とある。
 12:底本頭注に、「光厳院と光明院。」とある。

右兵衛佐直冬鎮西没落の事

 かかりし後は、いよいよ師直、権威重くなつて、三條殿方の人々は、面を垂れ、眉を顰む。中にも右兵衛佐直冬は、中国の探題にて備後の鞆におはしけるを、師直、近国の地頭御家人に相触れて、「討ち奉れ。」と申し遣はしたりければ、同じき九月十三日、杉原又四郎、二百余騎にて押し寄せたり。俄の事なれば、防ぐべき兵も寡なくて、直冬朝臣、既に誅せられ給ひぬべかりしを、磯部左近将監が若党、散々に防ぎけるが、いづれも究竟の手だれにて、志す矢壺を違へず射ける矢に、十六騎に手負はせて、十三騎、馬よりさかさまに射て落としたりければ、杉原、少しひるんで懸かり得ざりければ、その間に右兵衛佐殿は、河尻肥後守幸俊が船に乗つて、肥後国へぞ落ちられける。志ある者は、小舟に乗つて追ひつき奉る。
 この佐殿{*1}は、武将の嫡家にて、中国の探題に下されて、人皆従ひ靡き奉り、富貴栄耀の門を開き、旨酒好会の席を延べ、楽しみ未だ半ばならざりしに、夢の間に引きかへて、心筑紫{*2}の落ち潮の、鳴戸にさして行く船は、片帆は雲に遡り、煙水眼に茫々たり。万里漂泊の愁へ、一葉扁舟の憂き思ひ、浪馴れ衣袖朽ちて、涙忘るるばかりなり。「一年、父尊氏卿{*3}、京都の軍に利なくして九州へ落ち給ひたりしが、幾程なく帰洛の喜びになり給ひしこと、遠からぬ佳例なり。」と、人々、上には勇めども、行方もいかがしらぬひ{*4}の、筑紫に赴く旅なれば、せん方なくぞ見えたりける。
 九月十三夜、名におふ月明らかにして、旅泊の思ひも切なりければ、直冬、
  梓弓われこそあらめひきつれて{*5}人にさへうき月を見せつる
と詠じ給へば、袖を濡らさぬ人はなし。

左馬頭義詮上洛の事

 さる程に、三條殿は、師直師泰が憤り猶深きに依つて、天下の政務の事、口入に及ばず。大樹{*6}は元来、政務を謙譲し給へば、自ら関東より左馬頭義詮を急ぎ上洛あらせて、直義に相替はらず政道を申し附け、師直、諸事を申し沙汰すべきに定まりにけり。
 この左馬頭と申すは、千寿王丸と申して、久しく関東に据ゑ置かれたりしが、「今は器にあたるべし{*7}とて、権柄のために上洛ある。」とぞ聞こえし。同じき十月四日{*8}、左馬頭、鎌倉を立つて、同じき二十二日に入洛し給ひけり。上洛の体、ゆゆしき見物なりとて、粟田口、四宮河原辺まで桟敷を打つて、車を立て、貴賤、巷をぞ争ひける。師直以下の在京の大名、悉く勢多まで参向す。東国の大名も、川越、高坂を始めとして、大略、送りて上洛す。馬具足綺麗なりしかば、誠に耳目を驚かす。その美を尽くし、善を尽くすも理なるかな。将軍の長男にて、直義の政務に替はり、天下の権を執らんために上洛ある事なれば、一際珍らかなり。
 今夜、将軍の亭に著き給へば、仙洞より勧修寺大納言経顕卿を勅使にて、典厩{*9}上洛の事を賀し仰せらる。
 同じき二十六日、三條坊門高倉、直義朝臣の宿所へ移住せられ、やがて政務執行の沙汰始めあり。めでたかりし事どもなり。

直義朝臣隠遁の事 附 玄恵法印末期の事

 さる程に、直義は、世の交じはりを止め、細川兵部大輔顕氏の錦小路堀河の宿所へ移られにけり。「猶も師直師泰は、かくて始終御憤りを止めらるまじければ、身のため悪しかるべしとて、ひそかに失ひ奉るべき由、内々議す。」と聞こえければ、その疑ひを散ぜんために、先づ世に望みなく、御身を捨て果てられたる心の中を知らせんとにや、貞和五年十二月八日、御歳四十二にして御髪を落とし給ひける。未だ強仕の齢{*10}幾程も過ぎざるに、剃髪染衣の姿に帰したまひし事、盛者必衰の理といひながら、うたてかりける事どもなり{*11}。
 かかりしかば、「天下の事いろひし程こそあれ、今は、大廈高墻の内に身を置き軽羅褥茵の上に楽しむべきに非ず。」とて、錦小路堀河に幽閉閑疎の御住居、垣に苔むし軒に松古りぬるが、茅茨煙に篭つて、夜の月朦朧たり。荻花風にそよいで、暮の声蕭疎たり。時移り事去つて、人物、古にあらざることを感じ、蘿窓草屋の底に座来して、経巻をなげうつ隙もなかりけり。時しもあれ、秋暮れて時雨がちなる冬闌けぬ。寂しさまさる簾の外には、香炉峯の雪もうらやましく、身の古はあだし世の、夢かとぞ思ふ思ひきや、雪踏み分けし小野の山、今更思ひしられつつ、問ふ人もがなと思へども、世の聞き耳を憚つて、事問ふ人もなかりしに、独清軒玄恵法印、師直が許しを得て時々参りつつ、異国本朝の物語どもして慰め奉りけるが、「老病に犯されて参り得ず。」と申しければ、薬を一包み送り給ふとて、その包み紙に、
  ながらへて問へとぞおもふ君ならで今はともなふ人もなき世に
とありしかば、法印、これを見て、泣く泣く、
  {*k}君が一日の恩を感じて  我が百年の魂を招く
  病を扶けて床下に坐し  書を披いて涙痕を拭ふ{*k}
と、一首の小詩に九廻の思ひ{*12}を尽くして奉る。
 その後、程なく法印、身まかりにけり。恵源禅閤{*13}、哀れに思ひて、自らこの詩の奥に紙を継ぎて、六喩般若の真文を写して、かの追善にぞ擬せられける。

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校訂者注
 1:底本は、「佐殿(すけどの)」。底本頭注に、「右兵衛佐足利直冬。」とある。
 2:底本は、「心筑紫(こゝろつくし)」。底本頭注に、「心尽しと筑紫とを云ひ懸く。」とある。
 3:底本は、「父尊氏、」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
 4:底本は、「行方(ゆくへ)も如何(いかゞ)しらぬひの、」。底本頭注に、「〇しらぬひの 筑紫の枕詞で知らぬを含め云ふ。」とある。
 5:底本頭注に、「梓弓を引くを含め云ふ。」とある。
 6:底本は、「大樹(たいじゆ)」。底本頭注に、「将軍。」とある。
 7:底本頭注に、「重要の任に当るべし。」とある。
 8:底本は、「十月十四日」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 9:底本頭注に、「左右馬寮の唐名でこゝは義詮を指す。」とある。
 10:底本は、「強仕(きやうし)の齢(よはひ)」。底本頭注に、「四十歳。礼記に『四十曰強而仕。』」とある。
 11:底本は、「事もどなり。」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 12:底本頭注に、「憂悶の心情。崔魯の詩に『玉楼春暖笙歌夜、肯信愁傷日九回。』」とある(底本は「王楼」)。
 13:底本は、「禅巷(ぜんかう)」。『太平記 四』(1985年)本文及び頭注に従い改めた。
 k:底本、この間は漢文。

左兵衛督師直を誅せんと欲する事

 かかりし処に、師直師泰等誅罰の事、上杉、畠山が讒、尚深く、妙吉侍者、頻りに申されければ、将軍に知らせ奉らで、左兵衛督{*1}、ひそかに上杉、畠山、大高伊予守、粟飯原下総守、斎藤五郎左衛門入道、五、六人に評定あつて、内々師直兄弟を誅せらるる謀りごとをぞ議せられける。「大高伊予守は大力なり。宍戸安芸守は物馴れたる剛の者なれば。」とて、彼等二人を組手に定め、「もし手に余ることあらば、討ち洩らさぬ様に用心せよ。」とて、器用の者ども百余人、物具せさせて、ひそかにこれを隠し置き、師直をぞ召されける。
 師直は、夢にも思ひ寄るべき事ならねば、若党中間は皆、遠侍、大庭に並み居て、中門の唐垣をかけへだて、師直唯一人、六間の客殿に坐したり。師直が今の命は、風待つ程の露よりも危ふしと見えける処に、殊更この事、勝れて申し沙汰したりける粟飯原下総守清胤、俄に心がはりして、「告げ知らせばや。」と思ひければ、ちと色代{*2}する様にして、吃と目くばせをしたりければ、師直、心早きものなりければ{*3}、やがて心得て、かりそめに罷り出づる体にて、門前より馬に打ち乗り、己が宿所にぞ帰りける。
 その夜、やがて粟飯原、斎藤二人、執事の屋形に来つて、「この間、三條殿の御企て、上杉、畠山の人々の隠謀、とこそ候ひつれ、かくこそ候ひつれ。」と語りければ、執事、様々の引出物して、「猶も殿中様の事は、内々告げ承り候へ。」とて、斎藤、粟飯原を帰しけり。師直、これより用心厳しくして、一族若党数万人、近辺の在家に宿し置き、出仕を止め、虚病してぞ居たりける。
 去年の春より越後守師泰は、楠退治のために河内国に下つて、石川河原に向ひ城を構へて居たりけるを、師直、使を遣はして事の由を告げたりければ、畠山左京大夫清国、紀伊国の守護にておはしけるを呼び奉つて、石川城をふまへさせて、越後守は、急ぎ京都へぞ帰り上りける。
 左兵衛督は、師泰が大勢にて上洛する由、聞き給ひて、「この者が心をとらでは叶ふまじ。すかさばや。」と思はれければ、飯尾修理進入道を使にて、「武蔵守が行事、万、短才庸愚の事ある間、暫く世務のいろひを止むるところなり。今より後は、越後守を以て管領に居せしむるものなり。政所以下の沙汰、毎事慇懃に沙汰せらるべし。」とぞ委補せられける。師泰、この使に対して、「仰せ、畏まつて候へども、枝を切つて後、根を断たんとの御意にてぞ候らん。いかさま、罷り上り候て御返事をば申し入れ候べし。」と、事の外なる返事申して、やがてその日、石川の陣をぞ打ち出でける。甲冑を鎧うたる兵三千余騎にて打つ立つて、持楯、一枚楯、人夫七千余人に持たせて、ひたすら合戦の体に出で立つて、わざと白昼に京に入る。目を驚かす有様なり。
 「師泰、執事の宿所に著きて、三條殿合戦の企てあり。」と聞こえければ、八月十一日の宵に、赤松入道円心と子息律師則祐、弾正少弼氏範、七百余騎にて武蔵守の屋形へ行き向ふ。師直、急ぎ対面あつて、「三條殿、謂はれなく師直が一家を亡ぼさんとの御用意、事、已に喉に迫り候間、将軍へ内々事の由を歎き申して候へば、『武衛、左様の企てに及ぶ條、事の体、隠便ならず。速やかにその儀を留めて、讒者の罪を緩くすべからず。よくよく制止を加ふべし。もし猶、叙用せずして討手を遣はす事あらば、尊氏、必ず師直と一所になつて安否を共にすべし。』と仰せ出だされ候。将軍の御意、かくの如くに候へば、今は、恐れながら三條殿の討手に向つて、矢一つ仕らんずるにて候。京都の事は、内々志を通ずる人多く候へば、心安く候。尚も唯、難儀におぼえ候は、左兵衛佐殿、備後におはせられ候へば、一定、中国の勢を引きて攻め上られぬとおぼゆるばかりにて候。今夜、急ぎ播磨へ御下り候うて、山陰山陽の両道を、杉坂船坂の切所にて支へて給はり候へ。」とて、一献を勧められけるが、「この太刀は、保昌{*4}より伝へて、代々身を放たざる守りと存じ候へども、これを参らすべし。」とて、懐剣といふ太刀を錦の袋より取り出だして、赤松にこそ引きたりけれ。
 円心、やがて領掌し、その夜、都を立つて播磨国に馳せ下り{*5}、三千余騎を二手に分けて、備前の船坂、美作の杉坂、二つの道を差し塞ぎ、義旗、雲竜を靡かして、回天の機をぞ顕はしける。されば直冬、「大勢にて上らん。」と議せられけるが、その支度、相違したりけり。

御所を囲む事

 さる程に、「洛中には唯今合戦あるべし。」とてあわて立ちて、貞和五年八月十二日の宵より、数万騎の兵、上下へ馳せ違ふ。馬の足音、草摺の音、鳴り止む隙もなかりけり。
 先づ三條殿へ参りける人々には、吉良左京大夫満義{*6}、同上総三郎満貞、石堂中務大輔頼房、同左馬頭頼直、石橋左衛門佐和義、子息治部大輔宣義、尾張修理大夫高経{*7}、子息民部少輔氏経、舎弟左近大夫将監氏頼、荒河三河守詮頼、細川刑部大輔頼春、同兵部大輔顕氏、畠山大蔵少輔直宗、上杉伊豆守重能、同左馬助朝房、同弾正少弼朝貞、長井大膳大夫広秀、和田越前守、高土佐守師秋、千秋三河左衛門大夫惟範、大高伊予守重成、宍戸安芸守朝重、二階堂美濃守行通、佐々木豊前次郎左衛門尉顕清、里見蔵人義宗、勝田能登守助清、狩野下野三郎、苑田美作守、波多野下野守、同因幡守、祢津小次郎、和久四郎左衛門尉、斎藤左衛門大夫利康、飯尾修理進入道、須賀壱岐守清秀、秋山新蔵人朝政、島津四郎左衛門尉、これ等を宗徒の兵として、都合その勢七千余騎、轅門を固めて控へたり。
 執事師直の屋形へ馳せ加はる人々には、山名伊豆守時氏、今川五郎入道心省、同駿河守頼貞、吉良左近大夫将監貞経、大島讃岐守盛真、仁木左京大夫頼章、舎弟越後守義長、同弾正少弼頼勝、桃井修理亮義盛、畠山宮内少輔国頼、細川相模守清氏、土岐刑部大輔頼康、同明智次郎頼兼、同新蔵人頼雄、佐々木佐渡判官秀綱、同四郎左衛門尉秀定、同近江四郎氏綱、佐々木大夫判官氏頼、舎弟四郎左衛門尉直綱、同五郎左衛門尉定詮、同大原判官時親、千葉介貞胤、宇都宮三河入道、武田伊豆前司信氏、小笠原兵庫助政長、逸見八郎信茂、大内民部大輔、結城小太郎、梶原河内守、佐竹掃部助師義、同和泉守、三浦遠江守行連、同駿河次郎左衛門、大友豊前太郎頼時、土肥美濃守高真、土屋備前守範遠、安保肥前守忠実、小田伊賀守、田中下総三郎、伴野出羽守長房、木村長門四郎、小幡左衛門尉、曽我左衛門尉、海老名尾張六郎季直、大平出羽守義尚、粟飯原下総守清胤、二階堂山城三郎行元、中條備前守秀長、伊勢勘解由左衛門、設楽五郎兵衛尉、宇佐美三河三郎、清久左衛門次郎、富永孫四郎、寺尾新蔵人、厚東駿河守、富樫介を始めとして、多田院御家人、常陸平氏、甲斐源氏、高家の一族は申すに及ばず、畿内近国の兵、芳志恩顧の輩、我も我もと馳せ寄る間、その勢程なく五万余騎、一條大路、今出川、転法輪、柳が辻、出雲路河原に至るまで、透きまもなく打ち込みたる。
 将軍、これに驚かせ給ひ、三條殿へ使を以て仰せられけるは、「師直、師泰、過分の奢侈、身に余つて、忽ち主従の礼を乱る。末代といひながら、事、常篇に絶えたり{*8}。この上は、いかさま、それへ寄する事もあるべし。急ぎこれへ御渡り候へ。一所にて安否を定めん。」と仰せられければ、左兵衛督、馳せ集まりたる兵どもを召し具して、将軍の御所近衛東洞院へぞおはしける。この事の様を見て、叶はじとや思ひけん、初め馳せ集まりたる兵ども、五騎十騎落ち失せて、師直の手にぞ加はりける。されば、宗徒の御一族、近習の輩、弐心なく忠を存ずる兵、僅かに千騎にも足らざりけり。
 明くれば八月十三日の卯の刻に、武蔵守師直、子息武蔵五郎師夏、雲霞の兵を相率して、法成寺河原に打ち出でて、二手にむづと押し分けて、将軍の御所の東北を十重二十重に囲みて、三度鬨をぞ揚げたりける。越後守師泰は、七千余騎を引き分けて、西南の小路を立て切り、搦手にこそ廻りけれ。「四方より火をかけて焼き攻めにすべし。」と聞こえしかば、兵火の余煙遁れ難しとて、その近辺の卿相雲客の亭、長講堂、三宝院へ資財雑具をはこび、僧俗男女、東西に逃げ迷ふ。
 内裏も近ければ、軍勢、事に触れて狼藉をも致すべしとて、俄に竜駕を促され、持明院殿へ行幸なる。摂籙大臣、諸家の卿相、あわて騒いで馳せまゐる。宮中の官女上達部、かちにて逃げふためけば、八座七弁、五位六位、大吏外記、悉く階下庭上に立ち連なり、禁中変化の有様は、目も当てられざる事どもなり。暦応より以来は、天下、武家に帰し、世上も少し穏やかなりしに、去年、楠正行、乱を起こせしかども、討死せしかば、いよいよ無為の世になりぬと喜びあふ処に、俄にこの乱出で来ぬれば、「とにもかくにも、治まりやらぬ世の中。」と、歎かぬ者こそなかりけれ。
 将軍{*9}も左兵衛督も、「師直、師泰、たとひ押し寄するといふとも、防戦に及ばん事、かへつて恥辱なるべし。兵、門前に防がば、御腹召さるべし。」とて、小具足ばかりにて閑まり返つておはしけり。師直、師泰、擬勢はこれまでなれども、さすがに押し寄する事はなく{*10}、いたづらに時をぞ移しける。
 さる程に、須賀壱岐守を以て師直が方へ仰せられけるは、「累祖義家朝臣、天下の武将たりしより以来、汝が累祖、当家累代の家僕として、未だかつて一日も主従の礼儀を乱さず。然るに、一旦の怒りを以て、身に余る恩を忘れ、穏やかに仔細を述べず、大軍を起こして東西に囲みをなす。これ、たとひ尊氏を賤しとすとも、天の責めをば遁るべからず。心中に憤る事あらば、退いて所存を申すべし。但し、讒者の真偽に事を寄せて、国家を奪はんとの企てならば、再往の問答に及ぶべからず。白刃の前に我が命を止めて、忽ちに黄泉の下に汝が運を見るべし。」と、唯一言の中に若干の理を尽くして仰せられければ、師直、「いやいや、これまでの仰せを承るべしとは存ぜず。ただ讒臣の申す処を御承引候て、故なく三條殿より師直が一類滅ぼさんとの御結構にて候間、その身の誤らざる処を申し開き、讒者の張本を賜ひて、後人の悪習を懲らさんために候。」とて、旗の手を一同に颯と下させ、楯を一面に進めて両殿を囲み奉り、御左右{*11}遅しとぞせめたりける。
 将軍、いよいよ腹を据ゑかねて、「累代の家人に囲まれて、下手人乞はれ、出だす例やある。よしよし、天下の嘲りに身を替へて討死せん。」とて、御小袖といふ鎧取つて召されければ、堂上堂下に集まりたる兵、兜の緒をしめ、色めき渡つて、「あはや、天下の安否よ。」と肝を冷やしける処に、左兵衛督、宥め申されけるは、「彼等、奢侈の梟悪、法に過ぐるに依つて、一旦誡め沙汰すべき由、相計らふを伝へ聞き、結句かへつて狼藉を企つる事、当家の瑕瑾、武略の衰微、これに過ぎたる事や候べき。しかしながら、この禍ひは、直義を恨みたる処なり。然るを、軽々しく家僕に対して防戦の御手を下さるる事、口惜しく候べし。彼今、讒者を指し申す上は、師直が申し請くるに任せ、彼等を召し出ださるる事、何の痛みか候べき。もし猶予の御返答あらんに、師直、逆威を振ひ、忠義を忘れば、一家の武運、この時軽くして、天下の大変、まのあたりあるべし。」と堅く制し申されしかば、将軍も、「諌言、違ふ処なし。」と思ひ給ひければ、「師直が申し請くる旨に任せ、今より後は、左兵衛督殿に政道いろはせ奉る事、あるべからず。上杉、畠山をば遠流せらるべし。」と許されければ、師直、喜悦の眉を開き、囲みを解きて打ち帰る。
 次の朝やがて、「妙吉侍者を召し捕らん。」と人を遣はしけるに、早、先立つて逐電しければ、行き方も知れず。財産は方々へ運び取り、浮雲の富貴、忽ちに夢の如くなりにけり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「直義。」とある。
 2:底本は、「色代(しきだい)」。底本頭注に、「挨拶。」とある。
 3:底本は、「ものなれば、」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。底本頭注に、「〇心早きもの 敏捷の者。」とある。
 4:底本は、「保昌(はうじやう)」。底本頭注に、「姓は藤原。致忠の子。」とある。
 5:底本は、「播磨(の)国へ馳せ下(くだ)り、」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 6:底本頭注に、「源義家七代の孫貞義の子。」とある。
 7:底本頭注に、「足利次郎家定の子。」とある。
 8:底本頭注に、「事が常規に外れてゐる。当時の通語。」とある。
 9:底本頭注に、「足利尊氏。」とある。
 10:底本は、「事なく、」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
 11:底本は、「御左右(おんさう)」。底本頭注に、「とかくの御返事。」とある。

雲景未来記の事

 又、この頃、天下第一の不思議あり。出羽国羽黒といふ所に、一人の山伏あり。名をば雲景とぞ申しける。「希代の目に逢ひたり。」とて、熊野の牛王の裏に告文を書きて、出だしたる未来記あり。
 雲景、諸国一見悉くあつて、過ぎにし春の頃より思ひ立つて、都に上り、今熊野に居住して、華洛の名跡を巡礼する程に、貞和五年二十日の事なるに、天竜寺一見のために、西郊にぞ赴きける。官の庁の辺りより、年六十ばかりなる山伏一人、行き連れたり。かの雲景に、「御身は、いづくへ御座ある人ぞ。」と問ひければ、「これは、諸国一見の者{*1}にて候が、公家武家の崇敬あつて建立ある大伽藍にて候なれば、一見仕り候はばやと存じて、天竜寺へ参り候なり。」とぞ語りける。「天竜寺もさる事なれども、我等が住む山こそ日本無双の霊地にて侍れ。いざや、見せ奉らん。」とてさそひ行く程に、愛宕山とかや聞こゆる高峯に到りぬ。誠に仏閣綺麗にして、玉を敷き、金を鏤めたり。
 信心肝に銘じ、身の毛よだち貴く思ひければ、かくてもあらまほしく思ふ処に、この山伏、雲景が袖を控へて、「これまで参り給ひたる思ひ出に、秘所どもを見せ奉らん。」とて、本堂の後ろ、座主の坊とおぼしき所へ行きたれば、これ又、殊勝の霊地なり。ここに至つて見れば、人多く坐し給へり。或いは衣冠正しく金笏を持ち給へる人もあり、或いは貴僧高僧の形にて香染の衣著たる人もあり。雲景、恐ろしながら広廂{*2}にくぐまり居たるに、御座を二帖敷きたるに、大きなる金の鵄、翅をつくろひて著座したり。右の脇には、たけ八尺ばかりなる男の大弓大矢を横たへたるが、畏まつてぞ候ひける。左の一の座には、袞竜の御衣{*3}に日月星辰を鮮やかに織りたるを著給へる人、金の笏を持つて並み居給ふ。
 座敷{*4}の体、余りに怖ろしく不思議にて、引導の山伏に、「如何なる御座敷候ぞ。」と問へば、山伏、答へけるは、「上座なる金の鵄こそ崇徳院にて渡らせ給へ。その傍なる大男こそ為義入道の八男、八郎冠者為朝よ。左の座こそ代々の帝王、淡路の廃帝、井上皇后{*5}、後鳥羽院、後醍醐院、次第の登位を追つて悪魔王の棟梁となり給ふ、やんごとなき賢帝達よ。その座の次なる僧綱達こそ、玄昉、真済、寛朝{*6}、慈恵、頼豪、仁海、尊雲等の高僧達、同大魔王となつて、今ここに集まり、天下を乱し候べき評定にてあり{*7}。」とぞ語りける。
 雲景、恐ろしながら、「不思議の事かな。」と思ひつつ畏まり居たれば、一の座の宿老の山伏、「これは、いづくより来り給ふ人ぞ。」と問ひければ、引導の山伏、しかじかとぞ申しける。その時、この老僧、会釈して、「さらば、この間京中の事どもをば皆、見聞き給ふらん。何事か侍る。」と問ひければ、雲景、「殊なる事も候はず。この頃は唯、四條河原の桟敷の崩れて、人多く打ち殺され候事、『昔も今も、かかる事候はず。唯、天狗のわざ。』とこそ申し候へ。その外には、『将軍御兄弟、この頃執事の故に、御中不快。』と申し候。『これ、もし天下の大儀に成り候はんずるやらん。』と貴賤、申し候。」とぞ答へける。
 その時、この{*8}山伏申しけるは、「さることもあるらん。桟敷の顛倒は、総じて天狗のわざばかりにも非ず。故をいかにといふに、当関白殿{*9}は、忝くも天津児屋根尊の御末、天子輔佐の臣として、やんごとなき上臈にて渡らせ給ふ。梶井宮と申すは、今上皇帝の御連枝{*10}にて、三塔の貫首、国家護持の棟梁、円宗顕密の主にておはします。将軍と申すは、弓矢の長者にて、海内の衛護の人なり。而るに、この桟敷と申すは、橋の勧進に桑門の世捨人{*11}が興行する処なり。見物の者といふは、洛中の地下人、商売の輩どもなり。それに日本一州を治め給ふ貴人達、交じはり雑居し給へば、正八幡大菩薩、春日大明神、山王権現の怒りを含ませ給ふに依つて、この地を戴き給ふ堅牢地神、驚かせ給ふ間、その勢に応じて、皆崩れたるなり。この僧も、その頃京に罷り出でしかども、村雲の僧に申すべき事ありて立ち寄りしに、時刻移りて見ず。」とぞ申しける。
 雲景、「さて今、村雲の僧と申して、行徳権勢、世に聞こえ候は、如何なる人にて候ぞ。京童部は一向、『天狗にておはします。』と申し候は、如何様の事にて候やらん。」と問ひければ、この僧の曰く、「それは、さる事候。かの僧は、殊にさかしき人にて候間、天狗の中より選び出だして、乱世のなかだちのために遣はしたるなり。世の中乱るれば、元の住所へ帰るべきなり。さてこそ所多きに村雲といふ所に住するなれ。雲は、天狗の乗り物なるに依つての故なり。かやうの事、ゆめゆめ人に知らせ給ふべからず。初めてここへ尋ね来り給へば、委細の物語を申すなり。」とぞ語りける。
 雲景、「不思議の事をも見聞くものかな。」と思ひて、「天下の重事、未来の安否を聞かばや。」と思ひて、「さて将軍御兄弟、執事の間の不和は、いづれか道理にて始終通り候べき。」と問へば、「三條殿と執事の不快は、一両月を過ぐべからず。大なる珍事なるべし。理非の事は、是非を弁へ難し。この人々、身の難に逢ひ不肖なる時は、『あはれ、世を保たん時は、政道をもよく行はんずるものを。』と思ひしかども、富貴充満の後は、古のあらまし、一事も通らず。上暗く下へつらひて、諸事に親疎あれば、神明三宝の冥鑑にも背き、天下貴賤の人望にも違ひて、我が非をば知らず、人を謗り合ふ心あり。唯、獅子の虫の獅子の肉を食らふが如し。たまたま仁政と思ふ事も、さもあらず。唯、人の煩ひ歎きのみなり。
 「それ仁とは、恵みを四海に施し、深く民を憐れむを仁といふ。それ政道といふは、国を治め人を憐れみ、善悪親疎を分かたず撫育するを申すなり。然るに近日の儀、いささかも善政を聞かず。欲心熾盛にして、君臣父子の道をも弁へず、唯、人の財を我が有にせんとばかりの心なれば、偽り飾らずといふ事なし。仏神よく知見しおはしませば、我が企つる処も成らず、果報浅深に依つていささか世を取り国を保つものありといへども、真実の儀にあらず。されば、一人として世を治め、運長久に保たざるなり。君を軽んじ、仏神をだにも恐るる処なき末世なれば、かつてその外の政道、何事かあるべき。然る間、悪逆の道こそ替はれ、猜み、もどき{*12}合ふ輩、いづれも差別なく亡びんこと、疑ひなし。喩へば、山賊と海賊と寄り合つて、互に犯科の得失を指し合ふが如し。
 「されば、近年武家の世を執る事、頼朝卿より以来高時に至るまで已に十一代、蛮夷の賤しき身を以て世の主たる事、必ず本義にはあらねども、世、澆季に及ぶしるしに力なく、時と事と、唯一世の道理にあらず。臣君を殺し、子父を殺す、力を以て争ふべき時到る故に、下剋上の一端にあり。高貴、清花も、君主、一の人{*13}も、共に力を得ず。下輩下賤の士、四海を呑む。これに依つて、天下、武家となるなり。これ、必ず誰がためにも非ず。時代機根相萌して、因果業報の時到る故なり。
 「君を遠島へ配し奉り、悪を天下に行ひし義時{*14}を、浅ましといひしかども、宿因のある程は、子孫、無窮に光栄せり。これ又、涯分の政道を行ひ、己を責めて徳を施ししかば、国豊かに、民苦しまず。されども宿報漸く傾く時、天心に背き仏神捨て給ふ時を得て、先帝{*15}、高時を追伐せらる。これ、必ずしも後醍醐院の聖徳の至りに非ず。自滅の時到るなり。世も上代、仁徳も今の君主に勝り給ひし後鳥羽院の御時は、上の威も強く、下の勢も弱かりしかども、下勝ち、上負けぬ。今、末世濁乱の時分なれども、下勝つ事を得ず、上負けざる事は、貴賤に依らず、運の興廃なるべし。これを以て心得給ふべし。」と語りければ、雲景、重ねて申さく、「先代、運尽きて亡びしかば、など先朝{*16}、久しく御代をば治めおはしまし候はぬ。」と問ひければ、「それ又、仔細ある事に候。
 「先朝、随分賢王の行ひをせんとし給ひしかども、真実、仁徳撫育の叡慮は総じてなし。絶えたるを継ぎ廃れたるを興し、神明仏陀を御帰依ある様に見えしかども、憍慢のみあつて実義おはしまさず。されども、それ程の賢王も末代にはあるまじければ、何事にもよき真似をばすべし。これを以て、暫くなれどもその御器用に当たり、運の傾く高時、消え方の灯の前の扇とならせ給ひて亡ぼし給ひぬ。その理に報いて、累代、繁栄四海に満ぜし{*17}先代をば亡ぼし給ひしかども、誠に尭舜の功、聖明の徳おはしまさねば、高時に劣る足利に世をば奪はれさせ給ひぬ。今、持明院殿は、なかなか権を執り運を開く武家に従はせ給ひて、ひとへに幼児の乳母を憑むが如く、奴と等しくなつておはします程に、仁道の善悪に依つて、かへつて形の如く安全におはしますものなり。これも、御本意にはあらねども、理をも欲心をも打ち捨てておはしまさば、末代邪悪の時、中々御運を開かせ給ふべきものなり。
 「とても王法は、平家の末より本朝には尽きはてて、武運ならでは立つまじかりしを御了知もなくて、仁徳聖化は昔に及ばずして、国を執らん御欲心ばかりを先とし、元に世を復すべしとて、末世の機分、戎夷の掌に堕つべき御悟り無かりしかば、御鳥羽院の御謀叛いたづらになつて、公家{*18}の威勢、その時より塗炭に堕ちしなり。されば、その宸襟を休めんために、先朝、高時を失ひ給ひしかども、尚、公家の代をば取らせ給はぬものなり。
 「さても、三種の神器を本朝の宝として、神代より伝はる璽、国を治め守るも、この神器なり。これは、伝ふるを以て詮となす。然るに、今の王者、この明器を伝ふる事なくて位を践みおはします事、誠に王位とも申し難し。然れども、さすが三箇の重事を執り行はせ給へば、天照大神も守らせ給ふらんと、憑もしき処もあるなり。この明器、我が朝の宝として、神代の始めより人皇の今に至るまで、取り伝へおはします事、誠に小国なりといへども、三国{*19}に超過せる我が朝神国の不思議は、これなり。されば、この神器なからん代は、月入りて後の残夜の如し。末代のしるし、王法を神道棄て給ふ事と知るべし。
 「この重器は、平家滅亡の時、安徳天皇、西海に渡し奉りて海底に沈められし時、神璽、内侍所をば取り返し奉りしかども、宝剣は遂に沈み失せぬ。されば王法、悪王ながら安徳天皇の御時までにて失ひ果てぬる証は、これなり。その故は、後鳥羽院の始めて三種の重器なくして元暦に践祚ありしに、その末流の皇統、継体として今に御相承の佳模{*20}とは申せども、思へば、かの元暦よりこそ正しく、本朝に武家を始め置かれ、海内に則り、君王をないがしろにし奉る事は、出で来にけれ。されば、武運、王道に勝ちし表示には、宝剣はその時までにて失せにき{*21}。依つて、武威盛んに立つて、国家を奪ふなり。
 「然れども、その尽きし後百余年は、武家、我意に任せて天下を司るといふとも、王位も文道も相残る故に、関東、形の如く政道をも治め、君王をも崇め奉る体にて、諸国に総追捕使をば置きたれども、諸司要脚の公事正税、仏神の本主相伝領には手を懸けず、めでたかりしに、時代純機、宿報の感果ある事なれば、後醍醐院、武家を亡ぼし給ふに依つて、いよいよ王道衰へて、公家悉く廃れたり。この時を得て、三種の神器は、いたづらに微運の君に随つて、空しく辺鄙外土に交じはり給ふ{*22}。これ、神明、我が朝を棄て給ひ、王威、残る所なく尽きし証拠なり。これ、元暦の安徳天皇の御時に相同じ。国を受け給ふ主に随ひ給はぬは、国を守らざるしるしなり。されば、神道王法、共になき代なれば、上廃れ下驕つて、是非を弁ふる事なし。然れば、師直師泰が安否、将軍兄弟の通塞{*23}も、弁へ難し。」とぞ語りける。
 雲景、重ねて申しけるは、「さては早、乱悪の世にて、下、上に逆ひ、師直師泰、我がままにしすまして、天下を保つべきか。」と問へば、「いや、さはあるべからず。如何に末世濁乱の儀にて、下先づ勝つて、上を犯すべし。されども又、上を犯す咎遁れ難ければ、下又、その咎に伏すべし。その故は、将軍兄弟も、敬ひ奉るべき一人の君主を軽んじたまへば、執事その外家人等も又、武将を軽んじ候。これ、因果の道理なり。されば、地口天心を呑む{*24}といふ変あれば、如何にも下剋上の謂はれにて、師直、先づ勝つべし。これより天下、大きに乱れて、父子兄弟、怨讎を結び、政道、いささかもあるまじければ、世上も左右なく静まり難し。」とぞ申しける。
 雲景、「今、かやうに世間の事、鏡を懸けて宣ひつる人は、誰そ。」と尋ぬれば、「かの老僧こそ、世に人の持ち扱ふ{*25}愛宕山の太郎房にておはします。」と答へける。尚も天下の安危、国の治乱を問はんとする処に、俄に猛火燃え来つて、座中の客、七顛八倒する程に、門外へ走り出づると思うたれば、夢の覚めたる心地して、大内の旧跡、大庭の椋の木の下に、朦々としてぞ立つたりける。
 四方を見廻したれば、日、已に西の山の端に残りて、京へ出づる人多ければ、それに伴ひて我が宿坊に辿り来て、心閑かにかの不思議を案ずるに、疑ひなく天狗道に行きにけり。「これは、唯打ち棄つべきに非ず。且は末代の物語、且は当世の用心にもなれかし。」と思ひしかば、我が身の刑を顧みず、委細に書き載せ、熊野の牛王の裏に告文を書き添へ、貞和五年閏六月三日と書きつけて、伝奏につけて進奏す。誠に怪異の事どもなり。

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校訂者注
 1:底本は、「一見(けん)にて候が、」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
 2:底本は、「広廂(ひろびさし)」。底本頭注に、「寝殿内の一間通りの廂。」とある。
 3:底本は、「袞竜(こんりよう)の御衣(ぎよい)」。底本頭注に、「天子の礼服。」とある。
 4:底本は、「桟敷(さじき)」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 5:底本頭注に、「〇淡路の廃帝 淳仁天皇。」「〇井上皇后 聖武帝の皇女。光仁帝皇后。」とある。
 6:底本頭注に、「〇玄肪 阿刀氏。」「〇真済 紀氏。」「〇寛朝 敦実親王の子で池僧正と号す。」とある。
 7:底本は、「評定にてある。」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 8:底本は、「其の時山伏」。『太平記 四』(1985年)に従い補った。
 9:底本頭注に、「藤原良基。」とある。
 10:底本頭注に、「兄弟。」とある。
 11:底本は、「桑門(さうもん)の世捨人(よすてびと)」。底本頭注に、「僧侶。」とある。
 12:底本頭注に、「非難し。」とある。
 13:底本頭注に、「摂政又は関白。」とある。
 14:底本頭注に、「北條義時。」とある。
 15:底本頭注に、「後醍醐帝。」とある。
 16:底本頭注に、「〇先代 北條高時。」「〇先朝 後醍醐帝。」とある。
 17:底本は、「満(み)たせし」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 18:底本頭注に、「朝廷。」とある。
 19:底本頭注に、「印度、支那、日本。」とある。
 20:底本は、「佳模(かも)」。底本頭注に、「佳例。」とある。
 21:底本は、「失ひにき。」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 22:底本頭注に、「〇微運の君 南朝の天皇を指す。」「〇辺鄙外土 片田舎即ち吉野を指す。」とある。
 23:底本頭注に、「吉凶。」とある。
 24:底本は、「地口(ちこう)天心(てんしん)を呑む」。底本頭注に、「下が上を凌ぐ。」とある。
 25:底本頭注に、「もてはやす。」とある。

巻第二十七

天下妖怪の事 附 清水寺炎上の事

 貞和五年正月の頃より、犯星客星{*1}、隙なく現じければ、「かたがたその慎しみ軽からず。王位の愁へ、天下の変、兵乱、疫癘あるべし。」と陰陽寮、頻りに密奏す。これをこそ如何と驚く処に、同じき二月二十六日夜半ばかりに、将軍塚、おびただしく鳴動して、虚空に兵馬の馳せ過ぐる音、半時ばかりしければ、京中の貴賤、不思議の思ひをなし、「何事のあらんずらん。」と魂を冷やす処に、明くる二十七日の午の刻に、清水坂より俄に失火出で来て、清水寺の本堂、阿弥陀堂、楼門、舞台、鎮守まで一宇も残らず炎滅す。火災は尋常の事なれども、風吹かざるに、大きなる炎遥かに飛び去つて、厳重の御祈祷所、一時に焼失すること、只事にあらず。およそ天下の大変ある時は、霊仏霊社の回禄{*2}、定まれる表事なり。
 又、同じき六月三日、八幡の御殿、辰の刻より酉の時まで鳴動す。神鏑、声を添へて、王城を差して鳴りて行く。
 又、六月十日より、太白、辰星、歳星の三星、あはせて打ち続きしかば、「月日を経ず大乱出来して、天子位を失ひ、大臣災ひを受け、子父を殺し、臣君を殺し、飢饉疫癘兵革相続き、餓莩{*3}巷に満つべし。」と天文博士、註説す。
 また閏六月五日戌の刻に、巽の方と乾の方より稲光輝き出でて、両方の光、寄り合つて戦ふが如くして、砕け散つては寄り合つて、風の猛火を吹き上ぐるがごとく、余光、天地に満ちてひかる中に、異類異形のもの見えて、乾のひかり退き行き、巽のひかり進み行きて、互のひかり消え失せぬ。「この妖怪、いかさま、天下おだやかならじ。」と申し合ひにけり。

田楽の事 附 長講見物の事

 今年、多くの不思議打ち続く中に、洛中に田楽を翫ぶ事、法に過ぎたり。大樹{*4}、これを興ぜらるる事、又、類なし。されば、万人手足を空にして、朝夕これがために婬費す。「関東亡びんとて、高時禅門、好み翫びしが、先代一流断滅しぬ。よからぬ事なり。」とぞ申しける。
 同じき年六月十一日、抖擻の沙門{*5}ありけるが、四條橋を渡さんとて、新座本座の田楽を合はせ、老若に分かちて、能くらべをぞせさせける。四條河原に桟敷を打つ。「希代の見物なるべし。」とて、貴賤の男女、こぞる事ななめならず。公家には摂籙{*6}大臣家、門跡は当座主梶井二品法親王、武家は大樹、これを興ぜられしかば、その以下の人々は申すに及ばず、卿相雲客、諸家の侍、神社寺堂の神官僧侶に至るまで、我劣らじと桟敷を打つ。五、六、八、九寸の安の郡{*7}などをゑり貫きて、わたり{*8}八十三間に三重四重に組み上げ、物もおびただしく構へたり。
 已に時刻になりしかば、軽軒香車、地を争ひ、軽裘肥馬、繋ぐに所なし。幔幕、風に飛揚して、薫香、天に散満す。新、本の老若、東西に仮屋を打つて、両方に橋懸かりを懸けたりける。楽屋の幕には纐纈を張り、天蓋の幕は金襴なれば、片々と風に散満して、炎を揚ぐるに異ならず。舞台に曲彔縄床を立て並べ、紅緑の氈を延べ敷いて、豹虎の皮を懸けたれば、見るに眼を照らされて、心も空になりぬるに、律雅、調べ凄まじく、颯声、耳を澄ます処に、両方の楽屋より中門口の鼓を鳴らし、音取りの笛を吹き立てたれば、匂ひ薫蘭を凝らし、粧ひ紅粉を尽くしたる美麗の童八人、一様に金襴の水干を著して、東の楽屋より練り出でたれば、白く清らかなる法師八人、薄化粧の鉄漿黒にて、色々の花鳥を織り尽くし、染め狂はしたる水干に、銀の乱紋打つたる下濃の袴に下括りして拍子を打ち、綾藺笠{*9}を傾け、西の楽屋よりきらめき渡つて出でたるは、誠にゆゆしくぞ見えたりける。
 一のささら{*10}は本座の阿古、乱拍子は新座の彦夜叉、刀玉{*11}は道一。各々神変の堪能なれば、見物、耳目を驚かす。かくて立て合ひ終はりしかば、日吉山王の示現利生の新たなる猿楽を、肝に染みてぞ出だしたる。かかる処に、新座の楽屋より、八、九歳の童に猿の面をきせ、御幣を差し上げて、赤地の金襴の打ち懸けに虎の皮の貫{*12}を踏み開き、小拍子に懸けて紅緑の反り橋を斜めに踏んで出でたりけるが、高欄に飛び上がり、左へ廻り右へ巡り、跳ね返つては上がりたる有様、誠にこの世のものとは見えず。「忽ちに山王神託して、この奇瑞を示さるるか。」と、感興、身にぞ余りける。されば、百余間の桟敷ども、こらへかねて座にも堪らず、「あら、面白や。堪へがたや。」と喚き叫びける間、感声、席に余りつつ、暫しは閑まりもやらず。
 かかる処に、将軍の御桟敷のあたりより、いつくしき女房の練貫の褄高く取りけるが、扇を以て幕を揚ぐるとぞ見えし。大物の五六にて打ちつけたる桟敷、かたぶき立つて、「あれや、あれや。」といふほどこそあれ、上下二百四十九間、ともに将棋倒しをするが如く、一度にどうとぞ倒れける。若干の大物ども落ち重なりける間、打ち殺さるる者、その数を知らず。かかる紛れに物取りども、人の太刀刀を奪ひて逃ぐるもあり、見つけて切つて留むるもあり。或いは腰膝を打ち折られ、手足を打ち切られ、或いは己と抜けたる{*13}太刀長刀にここかしこを突き貫かれて血にまみれ、或いは沸かせる茶の湯に身を焼き、喚き叫ぶ。ただ、衆合叫喚の罪人もかくやとぞ見えたりける。
 田楽は、鬼の面を著ながら、装束を取つて逃ぐる盜人を、赤き笞を打ち振りて、追つて走る。人の中間若党は、主の女房を舁き負ひて逃ぐる盗人を、打物の鞘をはづして追つ懸くる。返し合はせて切り合ふところもあり、切られて朱になる者もあり。修羅の闘諍、獄率の呵責、眼の前にあるが如し。「梶井宮も、御腰を打ち損ぜさせたまひたり。」と聞こえしかば、一首の狂歌を四條河原に立てたり。
  釘附にしたる桟敷のたふるるは梶井宮{*14}の不覚なりけり
又、「二條関白殿も御覧じ給ひたり。」と申しければ、
  田楽の将棋だふしの桟敷には王ばかりこそ上がらざりけれ
 「これ、只事にあらず。いかさま、天狗の所行にこそあるらん。」と思ひ合はせて、後、よくよく聞けば、山門西塔院釈迦堂の長講{*15}、所用ありて下りける道に、山伏一人行き合つて、「只今、四條河原に希代の見物の候。御覧候へかし。」と申しければ、長講、「日、已に日中になり候。また、用意の桟敷なんど候はで、唯今よりその座に臨み候とも、内へ如何か入り候べき。」と申せば、山伏、「内へ易く入れ奉れるべき様、候。唯、我が後について歩まれ候へ。」とぞ申しける。長講、「実にも、聞ける如くならば、希代の見物なるべし。さらば、行きて見ばや。」と思ひければ、山伏の後につきて三足ばかり歩むと思ひたれば、おぼえず四條河原に行き至りぬ。
 早、中門の口打つ程になりぬれば、鼠戸の口も塞がりて{*16}、入るべき方もなし。「如何して内へは入り候べき。」とわぶれば、山伏、「我が手に取りつかせ給へ。飛び越えて内へ入り候はん。」と申す間、「実しからず。」と思ひながら手に取りつきたれば、山伏、長講を小脇に挟んで、三重に構へたる桟敷を軽々と飛び越えて、将軍の御桟敷の中にぞ入りにける。
 長講、席に坐し、座中の人々を見るに、皆、仁木、細川、高、上杉の人々ならでは交じはりたる人もなければ、「如何この座には居候べき。」と、蹲踞したる体を見て、かの山伏、忍びやかに、「苦しかるまじきぞ。唯、それにて見物したまへ。」と申す間、長講は、「様ぞあるらん。」と思ひて、山伏と並んで将軍の対座に居たれば、種々の献杯、様々の美物の、杯の始まるごとに、将軍、殊にこの山伏と長講とに色代{*17}ありて、替はる替はる始めたまふ処に、新座の楽屋より、猿の面を著て御幣を差し挙げ、橋の高欄を一飛び飛びては拍子を踏み、踏みては御幣を打ち振つて、誠に軽げに跳り出でたり。
 上下の桟敷見物衆、これを見て、座席にも堪らず、「面白や、堪へがたや。我、死ぬるや。これ、助けよ。」と喚き叫んで感ずる声、半時ばかりぞののめきける{*18}。この時、かの山伏、長講が耳にささやきけるは、「余りに人の物狂はしげに見ゆるが憎きに、肝つぶさせて興を醒まさせんずるぞ。騒ぎ給ふな。」といひて、座より立つて、或る桟敷の柱を、「えいや、えいや。」と押すと見えけるが、二百余間の桟敷皆、天狗倒しに逢ひてけり。よそよりは、辻風の吹くとぞ見えける。誠に今度桟敷の儀、神明、御眸を廻らされけるにや。
 かの桟敷崩れて人多く死にける事は、六月十一日なり。その次の日、終日終夜大雨。車軸を降らし、洪水盤石を流し、昨日の河原の死人、汚穢、不浄を洗ひ流し、十四日の祇園神幸の路をば清めける。天竜八部、悉く霊神の威を助けて、清浄の法雨を注ぎける、ありがたかりしためしなり。

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校訂者注
 1:底本は、「犯星(ぼんしやう)客星(きやくしやう)」。底本頭注に、「ともに不祥の星の名。」とある。
 2:底本頭注に、「火神。火災。」とある。
 3:底本は、「餓莩(がへう)」。底本頭注に、「飢ゑ死んだ者。」とある。
 4:底本は、「大樹(だいじゆ)」。底本頭注に、「将軍。」とある。
 5:底本は、「抖擻(とそう)の沙門(しやもん)」。底本頭注に、「行脚の僧。」とある。
 6:底本は、「摂籙(せつろく)」。底本頭注に、「摂政。」とある。
 7:底本頭注に、「材木の出所。五六八九寸は材木の角をいふ。」とある。
 8:底本は、「囲(かこ)み」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 9:底本は、「綾藺笠(あやゐがさ)」。底本頭注に、「狩猟の時などに用ゐる藺で編んだ笠。」とある。
 10:底本は、「簓(さゝら)」。
 11:底本頭注に、「猿楽の技術の名。刀を空へ投げて手で受くるわざ。」とある。
 12:底本は、「貫(つらぬき)」。底本頭注に、「脚にはく皮製のもの。」とある。
 13:底本は、「己(おのれ)と抜きたる」。『太平記 四』(1985年)に従い改めた。
 14:底本は、「梶井宮(かぢゐのみや)」。底本頭注に、「〇梶井 鍛冶に言ひ懸く。」とある。
 15:底本頭注に、「堂守。」とある。
 16:底本頭注に、「〇中門の口打つ程云々 見物が大入りで木戸を閉ぢる程になつたので。」「〇鼠戸 門側の切戸。」とある。
 17:底本は、「色代(しきだい)」。底本頭注に、「挨拶。」とある。
 18:底本頭注に、「騒いだ。」とある。

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