六 判官御自害の事
十郎権頭、喜三太は、櫓の上より飛んで下りけるが、喜三太は、首の骨を射られて失せにけり。兼房は、楯を後ろにあてて、主殿のたる木に取りつきて、持仏堂の広庇にとび入る{*1}。
こゝに、しやさうと申す雑色、故入道、判官殿へ参らせたる下郎なれども、「きやつばらは、自然の御用{*2}に立つべき者にて候。御召し使ひ候へ。」と、あながちに申しければ、別の雑色、嫌ひけれども、馬の上を許され{*3}申したりけるが、この度、人々多く落ち行けども、彼ばかりとゞまりてけり。兼房に申しけるは、「それ、見参に入りたまふべきや。しやさうは、御内にて防ぎ矢仕り候なり。故入道申されし旨の上は、下郎にて候へども、死出の山の御供仕り候べし。」とて、さんざんに戦ふ程に、面を向ふる者なし。下郎なれども、彼ばかりこそ、故入道申せし言葉をたがへずして{*4}、留まりけるこそ不便なれ。
「さて、自害の刻限になりたるやらん。又、自害はいかやうにしたるをよきと言ふやらん。」と宣へば、「佐藤四郎兵衛が京にて仕りたるをこそ、後まで人々ほめ候へ。」と申しければ、「仔細なし。さては、疵の口広きこそよからめ。」とて、三條小鍛冶が宿願あつて、鞍馬へ打つて参らせたる刀の六寸五分ありけるを、別当、申しおろして、今の剣と名づけて秘蔵しけるを、判官、幼くて鞍馬へ御出での時、守り刀に奉りしぞかし。義経、幼少より秘蔵して、身をはなさずして、西国の合戦にも鎧の下にさされける。かの刀をもつて、左の乳の下より刀をたて、「後ろへ徹れ。」とかき切つて、疵の口を三方へかき破り、腹わたを繰り出だし、刀を衣の袖にておし拭ひ、衣ひきかけ、脇息してぞおはしましける。
北の方をよび出だし奉りて宣ひけるは、「今は、故入道の後家の方にても、せうとの方にても{*5}、渡らせ給へ。皆都の者にて候へば、情なくは当たり申し候はじ。故郷へも送り申すべし。今より後、さこそ便りを失ひ、御歎き候はんとこそ、後の世までも心にかゝり候はんずれども、なにごとも前世の事と思し召して、あながちに御歎き有るべからず。」と申させ給へば、北の方、「都を連れられ参らせて出でしより、今まで長らへてあるべしともおぼえず。みちにてこそ、自然の事もあらば、まづみづからを失はれんずらんと思ひしに、今更驚くべきにあらず。はやはやみづからを御手にかけさせ給へ。」とて、取りつき給へば、義経、「自害より先にこそ申したく候ひつれども{*6}、余りの痛はしさに申し得ず候。今は、兼房に仰せ付けられ候へ。兼房、近く参れ。」と有りけれども、いづくに刀を立て参らすべしともおぼえずして{*7}、ひれ伏しければ、北の方、仰せられけるは、「人の親の御目ほど賢かりけり。あれ程の不覚人と御覧じ入つて{*8}、多くの者の中に、女にてあるみづからにつけ給ひたれ。我にいはるゝまでも有るまじきぞ。いはぬ先に失ふべきに、暫くも生けておき、恥を見せんとするうたてさよ。さらば、刀を参らせよ。」とありしかば、兼房、申しけるは、「こればかりこそ不覚なるが道理にて候へ。君、御産ならせ給ひて{*9}三日と申すに、兼房を召されて、『この君を、汝がはからひなり。』と仰せかうぶりて候ひしかば、やがて御産所に参り、抱きそめまゐらせてよりその後は、出仕の暇だにもおぼつかなく思ひ参らせ、御成人候へば、女御、后にもせばやとこそ存じ候ひつるに、北の政所、うち続きかくれさせ給へば、おもふに甲斐なき歎きのみ、神や仏に祈りし祈りはむなしくて、かやうに見なし奉らんとは、つゆ思はざりしものを。」とて、鎧の袖を顔にあてて、さめざめと泣きければ、「よしや嘆くとも、今はかひあらじ。敵の近づくに。」と有りしかば、兼房、目もくれ心も消えておぼえしかども、「かくては叶ふまじ。」と、腰の刀をぬき出だし、御肩の上を押さへ奉り、右の御脇より左の乳の下へ、つとさし徹しければ、御息の下に念仏して、やがてはかなく成り給ひぬ。
御衣ひきかづけまゐらせて、君の御側におき奉りて、五つにならせ給ふ若君、御乳母の抱き参らせたる所につと参り、「御館も上様も{*10}、死出の山と申す道、こえさせ給ひて、黄泉の遙かの界におはしまし候なり。『若君も、やがて入らせ給へ。』と仰せ候ひつる。」と申しければ、害し奉るべき兼房がくびに抱き付き給ひて、「死出の山とかやに早々参らん。兼房、急ぎ連れて参れ{*11}。」と責め給へば、いとゞせん方なく、前後おぼえずに成りて、落涙にせきあへず、「あはれ、前の世の罪業こそ悲しけれ。若君さま、御館の御子と生まれさせ給ふも、かくあるべき契りかや。『かめわり山にて巣守になせ{*12}。』と宣ひし御言葉の末、誠に今まで耳にあるやうにおぼゆるぞ。」とて、またさめざめと泣きけるが、4敵はしきりに近づく。かくては叶はじ{*13}。」と思ひ、二刀さし貫き、「わつ。」とばかり宣ひて、御息とまりければ、判官殿の衣の下におし入れ奉る。さて、生まれて七日にならせ給ふ姫君も、同じくさし殺し奉る。北の方の衣の下におし入れ奉り、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」と申して、我が身を抱きて立ちたりけり。
判官殿、いまだ御息の通ひけるにや、御目を御覧じあけさせ給ひて、「北の方は、いかに。」と宣へば、「はや御自害ありて、御側に御入り候{*14}。」と申せば、御側を探らせ給ひて、「これはたれ。」と仰せければ、「若君にてわたらせ給ふ。」と申せば、御手をさしわたさせ給ひて、北の方に取りつき給ひぬ。兼房、いとゞ哀れぞまさりける。「はやはや城に火をかけよ。」とばかりを最後の御言葉にて、こときれ果てさせ給ひけり。
七 兼房が最期の事
十郎権頭、「今は中々に心にかゝることなし。」とひとりごとし、かねてこしらへたる事なれば、走り廻りて火をかけたり{*15}。をりふし西風ふき、猛火は程なく御殿につきけり。御死骸の御上には、遣戸格子をはづしおき、御跡の見えぬ様にぞこしらへける{*16}。兼房は、焔にむせび、東西くれてありけるが、「君を守護し申さん。」とて、「最期のいくさ、少なくしたり。」とや思ひけん、鎧を脱ぎすて、腹巻の上帯しめ固め、妻戸よりつと出で見れば、その日の大将長崎太郎兄弟、壺の内にひかへたり。
「敵自害のうへは、何事か有るべき。」とて、油断しけるを、兼房、いひけるは、「唐土天竺は知らず、我が朝において、御内の御座所{*17}に、馬に乗りながらひかふべき者こそおぼえね。かくいふ者をば誰とか思ふ。清和天皇十代の御末、八幡殿には四代の孫、鎌倉殿{*18}の御舎弟に、九郎大夫判官殿の御内に十郎権頭兼房。もとは、久我大臣殿の侍なり。今は源氏の郎等なり。樊噲を欺く度々の高名、その隠れなし。いざや、手なみを見せん。法も知らぬ奴ばらかな。」といふこそ久しけれ。長崎太郎が馬手の鎧の草摺半枚かけて、膝の口、鐙のみづをがね、馬のをりぼね{*19}、五枚かけて斬りつけたり。主も馬も、足を立てかへさず倒れけり。おしかゝり、首をかかんとせし所に、「兄を討たせじ。」と、弟の次郎、兼房に打つてかゝる。兼房、走り違ふ様にして、馬より引き落とし、左の脇にかいはさみて、「ひとり越ゆべき死出の山、供して越えよや。」とて、焔の中にとび入りけり。
兼房、思へば恐ろしや。ひとへに鬼神の振舞なり。これは、もとより期したる事なり。長崎次郎は、「勧賞にあづかり、御恩かうぶり、朝恩に誇るべき。」と思ひしに、心ならずとらはれて、焼け死にするこそ無慙なれ。
八 秀衡が子ども御追討の事
かくて泰衡は、判官殿の御首もたせ、鎌倉へ奉る。頼朝、仰せけるは、「そもそもこれらは不思議の者{*20}どもかな。頼みて下りつる義経を討つのみならず、これは現在、頼朝が兄弟と知りながら、院宣なればとて、左右なく討ちぬるこそ奇怪なれ。」とて、泰衡がそへて参らせたる宗徒の侍二人、その外雑色下べに至るまで、一人も残さず首を斬りてぞかけられ{*21}ける。やがて、「軍兵をさし遣はし、泰衡討たるべき。」僉議有りければ、先陣望み申す人々、千葉介、三浦介、左馬介、大学頭、大炊助、梶原を初めとして、望み申しけれども、「善悪に頼朝、私には計らひ難し。」とて、若宮に参詣有りけるに、「畠山、夢想のこと有り。」とて、重忠を始めとして、都合その勢七万余騎、奥州へ発向す。
昔は、十二年まで戦ひける所ぞかし。今度は、僅に九十日のうちに攻め落とされけるこそ不思議なれ。錦戸、ひづめ{*22}、泰衡、大将以下三百人が首を、畠山が手に取られける。残る所、雑人等に至るまで、みな首を取りければ、数を知らざる所なり。
故入道が遺言の如く、錦戸、ひづめの両人、両関をふさぎ、泰衡、泉{*23}、判官殿の御下知に従ひて、軍をしたりせば、いかでかかやうになり果つべき。親の遺言といひ、君に不忠といひ、悪逆無道を存じ立ちて、命も亡び、子孫絶えて、代々の所領、他人の宝となるこそ悲しけれ。武士たらん者は、忠孝を専らとせずんばあるべからず。口惜しかりし者どもなり。
校訂者注
1:底本は、「とび入り、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
2:底本頭注に、「万一の御用。」とある。
3:底本頭注に、「乗馬の儘通行するを許され。当時は乗馬で通行することは制限があつた。」とある。
4:底本は、「たかへずして、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
5:底本頭注に、「〇故入道の後家 秀衡の未亡人。衛門督信頼の兄基成の女。」「〇せうと 兄。後家の兄達をいふのであらう。」とある。
6:底本頭注に、「義経自ら自害する前に北の方の自害を申したくあつたが。」とある。
7:底本頭注に、「北の方を討ち奉るとしても何処に刀を打ち込むとも思はれず。」とある。
8:底本頭注に、「わが父が兼房をこの位の不覚人と見られて。」とある。
9:底本頭注に、「〇こればかり云々 北の方を討ち奉ることばかりは臆するのが尤もなことである。」「〇君御産ならせ 北の方がお生まれになつて。」とある。
10:底本は、「御館(おんたち)もかみさまも、」。底本頭注に、「〇御館 貴人の尊称に云ふ。義経をさす。」「〇かみさま 上様。御母北の方。」とあるのに従い改めた。
11:底本は、「急(いそ)ぎ参れ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
12:底本頭注に、「〇かめわり山 羽前国舟形村亀割山。」「〇巣守 荒地に居残ることで山中に棄ておかれること。」とある。
13:底本は、「叶はず。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
14:底本は、「御自害(ごじがい)、御側(おんそば)に御入り候。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。底本頭注に、「〇御側に御入り候 御側においでなさる。」とある。
15:底本は、「火をかけ、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
16:底本は、「見えぬ様(やう)にはこしらへける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
17:底本は、「御内(みうち)の御座所(ござどころ)」。底本頭注に、「大将の御いでになる所。」とある。
18:底本頭注に、「〇八幡殿 源義家。」「〇鎌倉殿 頼朝。」とある。
19:底本頭注に、「〇みづをがね 水緒金。鐙の革帯をしめる鉤。」「〇をりがね 馬のさんづに隆くあらはれた骨。」とある。
20:底本頭注に、「けしからぬ者。」とある。
21:底本頭注に、「獄門にさらされ。」とある。
22:底本頭注に、「〇錦戸 泰衡の庶兄西木戸太郎国衡。」「〇ひづめ 泰衡の弟ひづめの五郎通衡か。」とある。
23:底本頭注に、「〇両関 念珠の関と白河の関。」「〇泉 泰衡の弟泉三郎中衡。」とある。