六段目
あら、いたはしや、若君は、権現堂にましますが、革籠の内の疲れかや、又、せんもんの罰にもや、腰がいさせ給ふが、夜もすがら権現に祈誓かけさせ給へば、程なく元気つかせ給ひ、御前を罷り立ち、急ぎ給へば程もなく、東山清水寺に着き給ふ。御前に参り、「南無や大悲観世音。某を今一度、世に立てて賜はれ。」と、深く祈誓をかけ給ひ、二夜三日ぞ籠らるる。これはさて置き、ここに都、梅津の院と申すは、七旬に及ぶまで、御子一人もあらざれば、清水に詣であり、養子を授け賜はれと、深く祈誓をかけ給ひ、その夜は通夜と聞こえける。夜半ばかりの事なるに、有難や、御本尊は、枕上に立ち給ひ、「いかに、梅津。御身の養子になる児は、左の籠り堂にあるべし。」と告げ給ふ。梅津、夢さめ、かつぱと起き、「あら、有難や。」と、左の格子を見給へば、厨子王のおはします。梅津、なのめに思し召し、厨子王丸を伴ひ、館に下向と聞こえける。
御所にもなれば、やがて御装束なされ、参内あり。梅津が養子継ぎ目の由を奏聞ある。一座の公卿、御覧じ、「いかに梅津の院の養子なりとも、昨日今日まで、がらんを数へし乞食非人、我等が対座に叶ふまじ。」と宣へば、厨子王、今申さではと思し召し、系図の巻物取り出し、扇に載せて上げ給へば、八條殿、巻物をさつと開き、拝見あり。「そもそもこの巻物と申すは、大唐にも始まらず、我が朝にても始まらず。天竺ほしの帝七十一代、本朝人皇五十四代、平親王将門に四代の孫、岩城の判官正氏の惣領、厨子王丸有俊判。」とぞ読み上げたり。帝、叡聞ましまし、「何、正氏が二男にてありけるか。何より以て不憫なり。本領なれば、奥州五十四郡下さるる。」厨子王、綸旨を頂き、「奥州五十四郡も、望みに候はず。丹後五郡を賜はれ。」と、重ねて奏聞ありければ、綸言再び返らねば、丹後五郡をも得さすとの綸言なり。厨子王、はつと[〇脱あるか]て、やがて御殿を罷り出、梅津の御所にぞ帰られける。
それよりも若君は、まづ母上の御行方を尋ねんと、供人を引き具し、佐渡が島へぞ急がるる。程なく佐渡になりしかば、かなたこなたを尋ね給へば、さも浅ましき女性一人、鳴子の綱に手を掛け、粟の鳥を逐ひ給ふ。若君、立ち寄り聞き給ふに、さも浅ましき声音にて、「安寿恋しや。厨子王恋しや。ほやれ、ほう。鳥も生ある物ならば、逐はずと立つて得させよ。」と、涙と共に逐ひ給ふ。若君は聞こし召し、さては疑ふ処なし、疑ふ処なし。急ぎ埴生に跳んで入り、母上様に抱き付き、「厨子王、参りてこざあるわ。」母上は聞こし召し、「盲目、なぶり給ふか。」と、杖振り上げて打ち給ふ。若君、げに道理、理なりと、系図の巻物取り出し、母上の両眼に押し当て、「南無日本の諸神、母の両眼、平安ならせて賜はれ。」と祈り給へば、不思議や。潰れし両眼、明らかになり給へば、互にひしと抱き付き、これは、これはとばかりなり。御喜びは限りなし。
さてそれよりも、母上をば都に送り、御身は三千余騎の御供にて、国分寺へ御入りあり。聖、見えさせ給はねば、所の者を召され、「いかに、汝ら。この所に僧はなきか。」と宣へば、当所の者、承り、「この三日以前まで、尊き聖の御座候が、御宿札を御覧じ、いづくともなく落ちられ候。」と申す。「その儀ならば、急ぎ具して参れ。」「承る。」と申して、程なく高手小手に縛め、引き据うる。若君、御覧じ、跳んで下り、縄切りほどき、「いかに、御聖。某は、いつぞや朱雀権現堂まで送り給ひたる、革籠のわつぱは某なり。」と、形見の袖を見せ給へば、聖、驚き、「さては、御代に出給ふか。」と、御喜びは限りなし。時に聖、宣ふは、「さるにても姉君様は、邪慳の太夫、責め殺すを、愚僧、拾ひて弔ひ申せし。」と、剃り髪を参らする。若君は御覧じて、形見を顔に押し当てて、「今は世に出た甲斐もなし。共に消えん。」と泣き給ふ。
落つる涙の隙よりも、「太夫、召せ。」と使立つ。太夫、五人の子供引き具し、国分寺の白洲に畏まる。若君、御覧じ、「いかに、太夫。某を見知りてあるか。汝が内に召し使はれし、わすれぐさよ。何とて姉御をば責め殺してあるぞ。姉上、返せ、大夫。姉御、浮世にましませば、か程の恨み、よもあらじ。我、あだを恩にて報ぜん。大国なりとも小国なりとも望め。」とある。三郎、進み出、「あはれ、大国を賜はれかし。」と申す。君、聞こし召し、「願ふ処の幸ひなり。まづ太夫をこの白洲に、腰より下を掘り埋め、兄弟五人の奴ばらに、竹のこぎりにて首を挽かせよ。」畏まつて、やがてかくこそ行ひける。太郎、二郎は御許しあり。三郎に渡りける。三郎、のこぎり受け取り、「いかに、父。三一年中の念仏を、只今申させ給へ。」と、一挽き挽いては千僧供養、百に余りて六つの年、首は前にぞ落ちにける。君、御覧じ、「それそれ、はや暇取らせよ。」畏まつて御前に引き据ゑ、やがて首をぞ切りにける。
その後、伊勢の小萩召し寄せられ、御喜びは限りなし。さて、それより母上諸共、本国に帰国あり。相馬の郡に御所を建て、再び富貴の家と栄え給ふ。千秋万歳の御喜び、めでたきとも中々、申すばかりはなかりけり。
・「そもそもこの巻物と申すは、大唐にも始まらず、我が朝にても始まらず。天竺ほしの帝七十一代、本朝人皇五十四代、平親王将門に四代の孫、岩城の判官正氏の惣領、厨子王丸有俊判。」とぞ読み上げたり。――底本「『そもそもこの巻物と申すは、天竺ほしの帝に七十二代、大唐にては平しん王に五十四代、我が朝に渡りては、人王四代の朝臣、日本の将軍将門の御孫、岩城の判官正氏の惣領、厨子王丸有俊判。』とぞ読み上げたり。[この系図の巻の文、錯誤あるか。一本、そもそもこの巻物と申すは、大唐にも始まらず、我が朝にても始まらず。天竺ほしの帝七十一代、本朝人王五十四代、平親王将門に四代の孫、云々]」。