六代ゆるしを蒙り上洛 附 長谷の観音 並 稽文仏師の事
東の方より墨染の衣著たる僧の、文袋頚に懸けて、鴾毛なる馬に乗つて馳せ来る。「何者ならん。」と思ひける程に、上人の弟子に覚文と云ふ僧なりけり。「今一足も急げ。」とて、先立ちて馳せけるが、馬より下るゝや遅き、高声に、「誤ちし給ふな、北條殿。」とて、文袋より二位殿の御ゆるし文、取り出でたり。北條、披き見ければ、自筆にてぞ書かれたりけるそのことばに云く、「小松三位中将の息六代、高雄の上人、しきりに申し請ふ間、預け給ふ所なり。」と書かれたり。北條、高らかに読み上げぬ。「あゝ、嬉しきものかな。」とてうち置きければ、「ゆるし給ひけるにこそ。」とて、武士ども、聞きて悦びあへり。斎藤五、斎藤六、これを聞きけん心の中、いかばかりなりけんと、測り難し。
さる程に、上人もやがて馳せ来りたり。馬より下り、「やゝ、北條殿。若公は申し預かりぬ。今一足もとて、ゆるし文を先立て奉りぬ。定めて見給ひぬらん。鎌倉殿、宣ひつるは、『この童は、平家の嫡々の正統なり。父の三位中将は、初度の討手の大将軍なり。いかにものがれ難し。頼朝も、幼稚をなだめられて、今かかる身となれり。この童をゆるし置きては、定めて後悪しかりなんず。上人が奉公、その恩忘れがたけれども、この事は難治なり。』とて、つやつやゆるぎ給はざりつるを、日頃の忠ども申し続けて、『上人が心を破り給ひては、鎌倉殿も、いかでか冥加おはすべき。これをたびたらば、やがて法師になして仏法修行せんずれば、更に後悪しき事、侍るまじ。もし預け給はずば、文覚、鎌倉にて飲食を断ち、思ひ死にして御子孫の怨霊ともなるべし。』など、一度はおどしつ、一度はすかしつ、種々に申しつる程に、『そもそも維盛卿の息をば、頼朝を相し給ひし様に、見給ふ処ありて、かくは申し請け給ふか。』と問ひ給ひつる間、『これは、その儀に思ひ寄らず。ゆるす方なき程の不覚の人にて、いさゝかも心に篭めたる事は侍らず。わりなき姿{*1}の不便さに、慈悲の心に催されて。』とまで申したれば、ゆるし給ひぬ。」と、ゆゝしく気色してぞ云ひける。
北條は、「承りし日数も過ぎしかば、御ゆるしなきにこそと思ひ給ひつれば、罷り下りつるに、賢くぞ誤り仕らざりける。今一時も遅かりせば、本意なき事もありなまし。」と申しければ、上人、「実に日数も延びぬれば、心もとなかりつるに、今日まで別の事なきは、御辺の御恩。」とぞ悦びける。
かくて若公は、上人に相具して、再び都に帰り上り給ひけり。これやこの爼上の魚の江海に移り、刀下の鳥の林薮に交じはるとは、只夢の心地ぞし給ひける。六代御前は、猶も現とはおぼさざりければ、
消えずとて憑む命にあらねども今朝まで露の身ぞ残りける
と、いと哀れにいとほしく聞こえければ、北條も又、涙をぞ流しける。斎藤五、斎藤六も、更に現とは思はざりけり。北條、鞍置たる馬二匹引き出して、兄弟にたびければ、こたびは請けとりけり。申しけるは、「日ごろ情を懸けられ奉りつる御恩、申し尽くし難し。」とて、涙を流す。若君も、宣ふことばなけれども、思ひ歎きにやつれさせ給へるも{*2}いたはしく思ひ給ひけるに引き替へ、うれしげにおぼして顧み給へば、北條、涙を拭ひて申しけるは、「一日も御送りに参るべけれども、急ぎ申すべき大事ども侍れば、こゝより罷り下るべし。久しく馴れ奉り、御名残こそつくし難く侍れ。」と申せば、若公も、うち涙ぐみ給ひて、「日ごろの名残こそ。」と宣ふも、いとつきづきしく{*3}こそ聞こえけれ。
上人は、若公具し奉り、急ぎ上りけるが、道にて年も暮れにければ、尾張国熱田社にて年をとり、正月五日、文覚上人の二條猪熊の里の坊に落ち著き給ひて、旅の疲れをいたはりつゝ、夜に入りて大覚寺を尋ね奉りけれども、建て治めて{*4}人もなし。「如何になり給ひけるやらん。悲しさの余りに身など投げ給ひにけるやらん。又、平家のゆかりとて、武士などの取り奉りたるにや。」と、あきれ迷ひてその辺りを尋ねけれども、夜ふけにければ、答ふる者もなし。縁の上に立ちやすらひ給ひたりけるに、若公の飼ひ給ひける犬の、籬の隙より走り出でて、尾うち振りて向ひたりければ、「人々はいづくへぞ。」と問ひ給へども、なじかは答ふべき。「せめての思ひの余りに宣ふにこそは。」と、いと悲し。
夜もすがら三人一所におはして、旅の歎き思ひ続けて語り給ひける中にも、「命生きて帰り上りたる甲斐には、この人々に見え奉りたらばこそは嬉しからめ。道の程だにも心もとなかりつるに。」とて、泣き居給へるぞ心苦しき。限りあれば、夜も既に明けにけり。そのあたりなりける人、出で来て申しけるは、「若公出で給ひし後は、御歎きの余りに淵河にも身を入れんなど仰せ候ひけるが、もし又、帰り上り給ふ事もぞある。甲斐なき命を生きて、上人の左右をも聞かん程、大仏へ参りて、それより長谷寺に伝ひ、百日篭らせ給ふべしと承りしが、御年をば奈良にてとらせ給ひけり。今は長谷にと聞き侍る。」と申しければ、「それは、さも侍らん。」と、少し心落ち居て、斎藤五、急ぎ長谷寺へ参りけり。若公は又、上人に相具して、高雄へぞ上りにける。
斎藤五、長谷に尋ね{*5}参りて、「かくなん帰り上り給へり。」と申しければ、母上も乳母の女房も、夢の心地して、つゆ現ともおぼえ給はず。「若公下り給ひにし日より、大覚寺をば迷ひ出でて、この御堂に夜昼うつぶし臥して、『大慈大悲の誓ひは、罪あるをも罪なきをも漏らし給はず、必ず願を満て給ふなれば、などかは今一度相見る程の命生き給はざらん。』と、心を砕き、思ひを運びて祈り申し給へる験にや。」とぞ思ひ給ひける{*6}。「但し、今度は百日参篭とこそ思ひ侍りつれども、左様に帰り上り給ふなる上は、又もこそ。」とて、観音に悦びの礼拝を奉り、師匠{*7}に暇を乞ひ給ひ、急ぎ出で給ひたりければ、若公も、高雄より下り、会ひ{*8}給へり。
母上も乳母も、うち見給ふより、互に涙に咽びて、とみに宣ひ出づる事なし。嬉しきにも辛きにも、先立つものは涙なり。「かく遁れ難き命の助かりて、再びいとほしき面影を見る事も、ひとへに長谷の観音の御利生なり。」とぞおぼえける。
(この寺は、これ聖武天皇の御願、法道仙人の建立なり。文武天皇の御宇に、この仙人、観音の霊像を{*9}造らんと云ふ願ありて、料木を尋ねけるに、難波浦に夜な夜な光を放つ物あり。行きて見れば、楠の流木なり。「たゞ事に非ず。」と思ひて、これを取りて、庵を造り加持する事十五年、養老五年に大権の化現、稽主勲稽文会と云ふ仏師に誂へて、二丈六尺の十一面観音を造り奉る。三時の行法功を積み、安置の砌を祈る処に、夢中に金人来りて示していはく、「この峯に磐石あり。その面、金容なり。大悲菩薩の所座なり。我等神王、天竜八部、梵王、帝釈、日月二天、閻魔、水天、四天王等、番々守護の霊石なり。」と。夢覚めて後、雷鳴り、雨ふりて、山崩れ、石砕くる声あり。明旦、その所を見るに、引き平らげたる事、あたかも鏡の面の如し。中に、方八尺の瑪瑙の石あり。石面に大きなる足跡あり。人の踏めるが如し。仙人、寸法を取りて、菩薩の御足にくらぶるに、更に広狭なし。霊像をすゑ奉るに、本跡の如し。公家に奏達せしかば、神亀元年に伽藍を建立して、同じき四年三月二十日、行基菩薩を以て供養を遂げらるゝ寺なり。古老、伝へて{*10}云く、「風輪際より三俣の大石ありて、閻浮提に出世{*11}せり。一つは中天竺摩訶陀国寂滅道場の金剛座、これなり。一つは大日本国大和国長谷寺の菩薩の座、これなり。」といへり。)
かかる目出たき施無畏の薩埵{*12}にて、信心渇仰の人、利益むなしき事なければ、母上も、この菩薩に帰して六代を儲け、この大悲を憑みて祈誓し給ひければ、夢の中には白馬に乗りて帰ると見、現の前には再び相見る事を得たりけり。
さても六代は、習はぬ旅の東路に、跡に心の留まりし事、折に触れて北條が情を残しし事ども、つきづきしく語り給ひても泣き給ひければ、見る人も聞く人も、皆袂を絞りけり。旅のしるしとおぼえて、日黒みして、少し面痩せ給ひければ、母上、いたはしく悲しくぞ見給ひける。「かくても暫く副ひ奉らばや。」と思ひ給へども、「世の聞こえも怖ろしく、又、上人の思はん事も憚りあり。」とて、急ぎ高雄へ帰り給ひぬ。
上人は、なゝめならずかしづき奉りて、斎藤五、斎藤六をも{*13}はぐゝみ、母上の大覚寺の住居の幽かなるをも訪ひ申しけり。若公、姿形、心づかひ、類なくおはしけるにつけても、文覚は、「かかれども、如何なる事かあらんずらん{*14}。」と、そら怖ろしく肝つぶれてぞおぼえける。
1:底本頭注に、「物のわきまへもないほどの様子。」とある。
2:底本は、「思ひ歎くに覚束なくし給へるも」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
3:底本は、「つきつきしく」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇つきつきし 似合はしい。」とある。
4:底本頭注に、「戸などを閉ぢ塞いで。」とある。
5:底本は、「尋ねて参りて、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い削除した。
6:底本は、「思ひける。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
7:底本頭注に、「祈祷などを依頼する僧。」とある。
8:底本は、「合ひ給へり。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
9:底本は、「霊像造らん」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
10:底本は、「伝へ云く、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
11:底本は、「出生(しゆつしやう)」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
12:底本は、「施無畏(せむゐ)の薩埵(さつた)」。底本頭注に、「観世音菩薩の異称。」とある。
13:底本は、「斎藤六も孚(はぐゝ)み、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
14:底本は、「何事かあらんずと、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改め、『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。