江戸期版本を読む

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歌謡 松の枝(他十)

松の枝

 常磐なる、松の枝には雛鶴の、巣立つを見れば動き無き、巌の方に居る亀の、千代万代も限り無き、齢は君がためなれや。心も清き池水の、広き恵みぞ有難き。
(高野氏幸若安信本)

 松の枝には雛鶴の、巣立つを見れば動き無き、巌の方に居る亀の、千代よろづ代も限り無き、齢は君がためなれや。心も清き池水の、広き恵みぞ有難き。
(三浦氏幸若安信本)


山科

 山科の、山の岩根に松植ゑて、常磐堅磐に祈りけむ、言の葉添へしいにしへも、今この御代にや優るべき。君が千歳のためしには、子の日の松をまづぞ引く。夏は涼しき水鳥の、青葉の山の松の風。千年を草に聞くなるは、こや松虫の声ならん。年ふる雪の下にても、変はらぬは松の色とかや。
(三浦氏幸若安信本)


老人

 老人は若く成り、若きはいつも老いもせず、富貴の家と成るとかや。長生殿の、内には春秋を富むなるも、かくやと思ひ知られたり。
(高野氏幸若安信本)


一天平

 一天平らかにしては又、四海なほ無事なり。十日の雨、土くれを動かさず、五日の風、枝を鳴らさず、まことにめでたき時世かな。
(幸若長明本)


天下泰平

 天下泰平、国土安穏の御代なれば、よろづ宝に飽き満ちて、寿命長遠、徳自在。寿命長遠、徳自在。
(幸若長明本)


長生殿

 長生殿の内には、春秋を富めり。不老門の前には、日月遅し。
(幸若長明本)


時津風

 時津風、治まる秋津嶋根こそ、堯舜無為の化を今に、八百よろづ代と仰ぐなる、民の竈も賑ひて、四季折々の貢ぎ物、運ぶ鄙路も道直ぐに、君々たれば臣も又、勇みある代の目出たさよ。
(幸若直良本)


敷嶋

 敷嶋や、広き恵みに逢坂の、関も鎖ざさず千里まで、道ある今の御代久に、小家富職おのづから、かの郤城の老人が、巷の歌のためしなり。
(幸若直良本)


天下帰伏

 天下皆、帰伏して嘉辰令月の、喜び際もましまさず。春は花見の歌の会。夏は涼しき流水に、盃も浮かぶなり。手まづ遮る朗詠し、秋は紅葉の色に染み、月に夜すがら嘯きて、巷に謡ひ舞ひ遊ぶ。げに治まれる君が代の、栄え久しき始めなり。
(幸若直良本)


四季の節

 あら面白の谷々や。春はまづ咲く梅が谷、続きの里や匂ふらん。夏は涼しき扇の谷。秋は露草笹目が谷。冬はげにも雪の下、亀が谷こそ久しけれ。遥かの沖を見渡せば、舟に帆掛くる稲村が崎とかや。飯島江の嶋続いたり。蓬莱宮と申すとも、いかでこれにはまさるべき。かるが故に名付けて、歩みを運ぶ輩は、諸願必ず満足せり。ていとうの鼓の音、さつさつの鈴の声々に、千早の袖を振りかざす、神慮すずしめの、御神楽の音は暇も無し。
(高野氏幸若安信本)


都辺り(京入りの内)

 八條殿、九條殿、皆御供と聞こえけり。都辺りの里々に、伏見、深草、鳥羽、八幡。淀、一口、竹田の里。松に花ある藤の森。稲荷、新熊野。六波羅、八坂、長楽寺。祇園、中山、北白河。賀茂のりうげ、雲林寺。さて舟岡、芹生、八瀬の里。鞍馬、静原、嵯峨、太秦。東寺、四塚、桂の里。古賀、山崎や、宝寺。その夜の内に京入りする、面々の灯し火松明は、都の内に隈も無し。粟田口より三條までは、隙間なうこそ見えにけれ。物によくよく譬ふれば、吉野龍田の花紅葉の、色めき合へる風情なり。
(曲節集一本)

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本能寺
(毛利家本)

扨も右大将信長公。上洛ましましてよりしよしんにとうりやうし。ていたうにゑんばいたりし叓年久し。其比江州安土山に城墎を構へ。東西の甍南北の台。金殿紫閣は天上の雲に連なり。玉楼粉墻わ湖水の波に輝く。其地の美麗はたとへて云にたらず。或わ数百連の鷹を集。山野に狩場のあそびをなし。或は若干の馬を揃へ。都におひて馬場の興を儘し給ふ。中に就て。甲斐信濃両国の守護。武田の四郎勝頼。年来のしうそ有。是に依て。御嫡男秋田の城介信忠の卿を大将とし。徳川三河守家康を先勢と定め。駿河甲斐信濃の凶徒をきりしたがへ。武田四郎勝頼。同嫡子の太郎信頼が首をうつて。三ヶ国平均に属し。御馬をこそはいれられけれ。扨羽柴筑前守秀吉は。去天正六年幡州に下り。別所を退治してより以来。西国征伐の軍使を承り。備前美作の守護。宇喜田を手に属し。幡磨但馬因幡。都合五ヶ国の人数を引卒し。天正十年三月十五日。備中の国冠が城に押寄る。城のかため敵の備ゑ。さうなくうちよすべき要害にあらず。然に此城におひては。たとひ人数を損ずと云共。二つなく責破り。西国の響となすべきよし相定めさせ玉ひけり。是に依て杉原七郎左衛門。仙石権兵衛尉。荒木平太夫を先として。彼表て肝要に践へたる。水の手にをしよせ。則水をぞとめたりける。秀吉大義に感じ玉ひ。両三人に御馬をこそは下されけれ。城内より取々懇望をいたすといへ共。万牛五丁の攻をなし。即時に乗込み。悉く首を刎らるゝ。時日をうつさず亦河屋が城を取巻く。彼城主。敵軍の威をみて。毛利家の援兵をまたず。掻楯を下し甲を脱甲参をこそ致しけれ。其後又。高松の城にうちよせてあたりの体を見給ふに三方は沢沼にて曽て人馬の通ひなし一方は大堀を構へつゝ毛利家より久敷相拵る所にて要害殊に堅固なり縦ひ大軍取詰て日を送る共輙く力攻には成難し。去間秀吉。暫く工夫したまひ。水責にすべき由相定めさせ玉ひけり。城の廻り二三里の間に。山と等く堤をつき。堤の裏には。大木を以て。楗をかけさせ。大河小河の水上を。尋させ玉いて。山をほり岩石をきりぬき。池の辺の瀦水田井の流を濫觴とし。悉く関かけ。忽彼地を。一つの。湖となせり。堤の上にわ付城数ヶ所拵へ。大船を作り。筏をからくみ。敵城の乙の丸に攻込み。合壁屋宅引払ひ。甲の丸一つとなる。城内の者共は。水の。漲にしたがつて。大木の梢にゆかをかき。板をからむ。波に漂舎宅は。唯船の。人たるにことならず。籠の内の鳥とかや。網代の魚の如くにて遁れん方はなかりけり。然るに秀吉の御陣所。五町十町の間引隔て。後詰の其為に一万余騎を。備へらる。毛利右馬頭輝元は。小早川左右門佐隆景。吉川駿河守元春をちかづけ。彼高松の城。すくいをなさでは叶うべからず。備中表におひて。是非骸を曝すべしとて。分国十ヶ国の人数。五万余騎を引卒し。備中の国かうざんのむかひ。釈迦が峰不動が嵩を陣取る。敵相十町に過ず。故に双方即時にあいかゝるにをよばず。数日をこそはおくられけれ。爰にをいて秀吉。彼後詰の人数にきりかゝり。しゆうをけつすべし。然らは当日西国の限り。一篇に属すべきのむね。安土に至て使者をたて。上意を得玉ふの所に。信長きこしめし。卒爾の合戦しかるべからざるの由。御下知仰あり。頓て右大将も。御嫡男信忠の卿を相ぐし。御上洛ましまして。惟任日向守光秀を加勢としてさしくだされ。秀吉と相談をとぐべし。合戦の手だてに依て。御動坐有べきとの御諚なり。惟任常よりも気色をよふして。をうけを申すやうこそ。ゆゝしけれ。今度西国の強敵によりて秀吉に加勢をなし粉骨を尽すべきの御諚こそ何よりもつて面目なれ。弥忠勤を抽でたてまつり御おんしやうにあづかるべしと申しつゝ頓而御前を罷立扨備中へはくだらずし蚤に謀反を工みけり。併ら当座の存念にあらず年来の逆意なりとぞきこへける。いかゞおもひけん。五月廿八日。愛宕山へ登り。一座の連歌を催す。則光秀発句に曰。時はいま。天が下しる五月哉。今是をおもひ合すれば。誠に謀反の先兆也。何人か兼て是を悟らんや。然に天正十年六月朔日夜半より。一万余の人数をひき。丹波の国亀山をうつたち。四條西の洞院。本能寺右大将の御所へぞうちよせたる。荒いたはしや信長は。此事をば夢にもしろしめされず。宵には御嫡男信忠の卿を近付玉ひ。いつよりも親く。若輩の時よりの。昔語をしたまひつゝ。唯今互の栄花のほどを悦び。明日の最後をばしろしめされず。行末長久の楽をおもひ。給ふこそ。はかなかりける次第なれ。亦村井入道近習の小姓其外を召集させたまひつゝ。御憐愍の御言をかけ玉ひ夜も更ければ信忠は御暇乞ましまして妙覚寺におかへりある其後信長は閨の内に御入あり常に御寵愛の人々をめしよせて鴛鴦の衾連理の枕夜牛の私語是や誠にしゆんふんがくわいあんごくのたのしみ盧生が邯鄲の枕もげに夢の世の夢なりとは後にぞおもひしられたる。惟任は小間途中にひかへ。魁として。明知弥平次。同勝兵衛。同次右衛門。孫十郎。斎藤内蔵助。其外の諸卒を四方にわかち。御所の廻りを取まきけり。夜も明ぐれを見はからひ。門木戸を打破り。合壁をひきこほし。一度にざつと乱入。信長の御運のつくる所は。此比天下静謐の條。御用心もましまさず。国々の諸侍。或わ東国警固の為に残しをき。或わ西国の御出勢とかや。亦織田の三七信孝は。四国ついたうの為に。惟任五郎左衛門。蜂屋伯耆守を相加へ。和泉の堺の津に舟揃へしてぞをわしける。其外の諸侍。西国御動坐。御供申すべき用意の為に。無人の御在京なり。偶御供の人々も。洛中所々に打散。やうやう小姓衆五十余人には過ざりけり。信長夜討の由をきこしめし。森の乱法師を召て。ことの子細を尋玉ふ。乱法師承り。惟任が謀反の由を申しあぐる信長此由聞召。夫南山の春のはなは。逆風之を散し。東嶺の秋の月は狂雲之を蔵す。千歳の松も斧斤の厄を不免。また怨を以て恩に報ずる様のなきにしもあらず。なんぞ今更。驚くべけんや。先敵の。案内を見んとて。広縁さして出給ひ。むかふ兵五六人。手の下にいふせ後には。十文字ををつとつて。敵数輩かけたをし。門外迄をつちらし。数ヶ所の。御疵をかうふり。御座をさしてひき給ふ森の乱法師をはじめ。湯浅甚介。落合小八郎。大塚又一郎。薄田与五郎。高松虎松等は。常に御そばを。離ざる面々なり。是に依て。一番にとりあはせ同じ如くに名乗て出。一足もさらず。枕をならべ討死す。続て進む人々は。中尾源太郎。狩野の又九郎。菅屋角蔵。矢代勝介針阿弥。此外の兵共。卅人計。おもひおもひの働にて。一旦防き戦といへども。大勢に攻たてられ。悉くうたれけり。其時信長。御殿には手づから。火をかけさせ玉ひつゝ御腹めされたりけるは様すくなき次第なり。村井入道春長軒は。御門外に家あり。御所の震動するを聞。始わ喧𠵅かと心得。物具取あへず走り出。あいしづめんと思ひ是を見れば。惟任が人数一万計にて取まきけり。荒おもひよらずの叓共や。扨有べきにてあらざれば。信忠の御陳所。妙覚寺へはせさんじ。此旨角と申上る。信忠聞しめし。是非本能寺へかけいり。もろともに腹をきるべきよしせんぎ有。然に敵軍重々堅固の囲み。真に咫尺千里なり。空をかける翔ならでは内へ入べきやうもなし。信忠の御諚には。当寺は腹を切べき所にあらず。いづくにか心静に。生害すべき所の有と御尋ありければ。春長軒承り。忝くも親王の御方の御座まします。二條の御所へ移り給ふべしとて。御所へ案内を申し。春宮をば輦にして。内裡へ移し奉り。信忠纔二三百計にて。二條の御所へ入給ふ。信長の御馬廻り。惟任にへだてらるゝ残党。二條の御所へはせ加る者五六百。御前に是有人々は。御舎弟の御坊。織田の又十郎。村井入道父子三人。団の平八菅屋九右衛門父子。福住平左衛門。猪子兵助。下石彦右衛野々村三十郎。赤坐七郎右衛門斎藤新五。津田の九郎次郎。佐々川兵庫毛利新介。塙の伝三郎桑原吉蔵水野九蔵。伊丹新三小山田の弥太郎。春日源八。桜木伝七郎。山口をべん。此外歴々の諸侍。一筋におもひきつて。惟任が寄来るをぞ待かけたる。惟任は右大将に御腹をめさせ。御殿の火焔となるを見て安堵のおもひをなし。信忠二條の御所に楯籠り玉う由をきゝ。武士にいきをもつがせず。二條の御所へをしよせたり。御所には勿論覚悟の前。大手の門をひらかせ。弓鉄炮を前にたて。内に叩る兵共。思ひ思ひの得道具持あう前後を鎮て居たりけり。惟任が魁したる兵共。面もふらずかゝりけり。前にたてたる弓鉄炮。差取引つめ。散々に討退け。垗処について出。追払推込れ。数刻防きたゝかふたり。寄手は六具をさしかため。荒手を入かへ責かゝる。味方は素膚に帷一重心は剛に勇共。長鑓長刀大打物。刃を揃へて攻入れば。此にては五十人彼にては百人。残ずくなく打なされ。御殿まぢかく詰よせたり。信忠御兄弟は御腹巻をめされ。御そばの面々も。百人計具足をき。信忠一番に。切て出させ玉い。明智孫十郎。杉丹の三右衛門。加成清次。此三人にわたりあひ。火花をちらしきりむすび。孫十郎を切ふせ。清次三右衛門。首丁々と打落す。御近習の面々も。力の限りきりあひ。内に攻入敵の人数。悉く追払ひ。最後の合戦。残る所もなかりけり。信忠は御らんじて。いつ迄かくてあるべきと。御殿の四方に火をかけ。真中に取籠り。腹十文字にきり玉う。其外の精兵も。思ひ思ひに腹きつて。一度に焔と成にけり。信長御歳四十九あう。信忠は貳十六いたむべしおしむべしと上下袂をしほりけり。爰に濃州の住人。松田の平介一忠と云者有。其夜は辺土にあつて。御所への夜討のよしを聞。走り来て是をとへば。惟任が逆心に依て。右大将御父子御腹をめさるゝ由を申す。一忠此よしきくよりも。荒いたはしの御事や。某ふせうの者と云ながら。数年めしつかはれし報恩の為に。追腹をきらんとて。妙顕寺に走りいり。本堂の内にして硯筆をとり出し。一首の辞世かく計。其きはに。きえ残る身の。浮雲も。つゐにはおなじ。道の山風。かやうに詠じ。又参学に心をそめし故により。一句の偈をつくつて曰く。手に活人三尺の釼を握て。即今截断す尽乾坤と。かやうにかきをき。腹切て死だりし。一忠が心中をほめぬ人こそなかりけれ。惟任は洛中を鎮め。西の岡勝龍寺の城に。明智勝兵衛を残しをき。其日の午の刻坂本の城に至る。安土の御所にわ此由をきゝ。前夫人後夫人。東西の局々のおもひ人。雑人にいたるまで。かちはだしにて。皆ちりぢりになりにけり。信長御在世の御時は。只仮初の往還にも。鸞輿飾車千乗万騎の驂にて美々敷粧をひきかへて愁苦辛勤の有様譬へば唐の。玄宗の楊貴妃安禄山が謀に蜀道の。難を凌ぐ悲み楚の項羽の虞美人漢の高祖の戦に烏江の波に漂しも是にわいかでまさるべき。扨惟任は安土山に移り。長浜さを山へ人数をつかはし。江州一片にあひしたがへ。六月十日坂本の城に皈陣す。然ば備中表。秀吉の御陣には。六月三日夜半計に。蜜に注進状有。披て是を見玉うに。信長御生害の御事なり。則使をちかづけ。ことの子細を尋玉ふに。有の儘に申上る。秀吉此由聞玉い。左右眼に泪をうかべ。あら白地なる事共や。叢乱茂せんとすれば秋風之を破り。王者明らかならんとすれば讒臣之を覆う。人をしるを以て。良将と名付たり。是裡無道なる光秀を。右大将の御存ちなき心のほどこそをろかなれ。秀吉都に有ならば。かゝる謀反はよもせさせじ。たとひ御父子をうち奉る共。其時日を移さず逆徒の首を。刎べきに其甲斐もなき無念さよ。よしよし時刻はうつる共惟任が首をきつて。信長公の御吊の香供に。そなふべきとおもひきつて。少も愁傷を色にも出したまはず。弥陣を張寄給ふ。日畑の要害。其外現形する城々をばひきつけ。高松一城をば。是非攻果すべしと思ひ定玉う。然に信長の御事。かくすとすると諸陣へもれきこへて。さはぐやからも有ならば。あしかりなんとおぼしめし。秀吉心中のどうぜざる所を諸卒にしらせん為。狂哥をよみてぞふれられける。両川の。ひとつに落てながるれば。毛利高松ももくつにぞなる。此返哥をせざらんものは。臆病者とかけられて。皆返哥をぞせられける。まことにきやうげんきぎよなれど。諸卒をいさめん謀尤とこそきこへけれ。其後高松の城より降参して。常構の大将。ならびに芸州の加勢腹を切り。雑兵をば助けらるべき由申すにより。船をつかはし検使をたて。名ある者共をば皆腹をきらせ。雑兵をば助られたり。此時敵陣へ使者をたて。安国寺の西堂を招きよせ。ことの子細をのべ玉ふ毛利家分国の内。備中備後伯耆出雲岩見。此五ヶ国を此方へ渡し。ばつかにしよくするにおひてはくわぼくせしめ。向後たかひに入魂すべき條々なり。安国寺頓ておうけを申し。五ヶ国ならびに人質誓紙をしんぜらるゝ。是に依て先毛利家の陣を払わせ。秀吉は心静にもてなし。六月六日未の刻。備中表をひきしりぞき。備前の国ぬまの城にそつかれける。七日にわ大雨天をくらまし。疾風地を動ず。数ヶ所の大河水漲て。真に巨海のごとし。然共其日貳十里計のなんがんを凌ぎ。幡州姫地に至て差陣たり。諸卒そろはずといへ共。九日に姫地をたち。明石の浦に一夜の陣をぞかけられける。其比淡路の凶徒ら。雑賀船をひきつけ。海賊してぞ居たりける。秀吉此由聞玉ひ。我上洛のあとあとの。通路のさまたげせられじとて。兵船を揃へ。浅野弥兵衛仙石権兵衛尉。生駒甚介明石与四郎をつかはされ。淡路嶋巣本の城をとりまき。凶徒を随へ玉ふ。秀吉は接州富田に陣を居へ。先手の人数天神の馬場まで取つゞけ。惟任が行をこそはまぼられけれ。惟任は秀吉着陣の事をば夢にもしらず。勝龍寺の西。山崎の東口に陣をすへ。秀吉は西国にをいて釣留るの條。急度せつしうに働をなし。幡州に乱入すべし。然らは秀吉敗軍裡あるべからず。国堺にをいて。悉く討果すべき評議半に。秀吉昨日富田に着陣のよし注進あり。惟任あんに相違して。俄に行をあらため。人数をたてなをし。一戦にをよぶべき。覚悟をこそは定めけれ。秀吉の人数備前。備中に相後れ五六千にわ過ざりけり然とは申せ共究竟の兵也秀吉此吊合戦の念の太刀こゝなるべし味方の人数は三筋にわけ川手山手を箕手に廻し秀吉は中筋いさみかゝれるいきほひたとへばはしたかの野鳥にあうか如くなり。惟任是をみて人数貳万計だんだんにたてならべ数刻防き戦かうたり中筋のはたては風にしたがふ雲よりもなをはやし左右の人数一度にばつときりかゝる鬼神天魔波旬も何かは以てたまるべきをひくづされて北にけり。惟任が近習一万計一手にかたまり勝龍寺に楯籠るちりぢりに北る者をば或わ久我縄手或は西の岡桂川淀鳥羽迄をつつめをつつめ首をとり丹波の道筋へもいりきり落る武者をば一人ものがさず是をうち則勝龍寺へ人数をよせ惟任が落行べき道筋をとりきりて悉くとりひしくべき行とこそは見へにけれ。惟任は先非を悔うといへどもかへらず。聖人のことわざにいはく。いつてうのいかりに其身をわすれ。そのしんにをよぼす。まどへるにあらずやと。おもひつゞけておもひ川。たえずながるゝ水の泡のうたかた人の世の中の。因果は車輪のごとくにて昨日ほろぼす主君の為今日は我身の上となるむくひのほどこそはかなけれ。去乍先一端坂本の城に楯籠り。時刻を待べき工夫をなし。夜半ばかりに近習五六人に此由をしらせ。城の内を忍び出る。寄手は昼の合戦につかれ。鎧の袖をかたしき干戈をまくらとす。其隙をうかゞひ。もとより此所の案内をばしつゝ。大道をばとをらずして。田の畔伝ひ薮原の細道。悪虎尾を踏ながら。毒蛇の口をのがれつゝ囲を社は出にけれ。城の内にわ惟任が落をきゝ。我先に我先にと崩出て。或は外聴によせ合せ。或わ待ち伏に行あたり。残少くうたれたり。又明知弥平次は。安土の城に居たりしが。惟任はいぐんのよしを聞。彼山をやきはらひ。貳千余の人数をひき。惟任にはせくわゝらんとやおもひけん。大津をさしてうつてのぼりしが。堀久太郎に行合ひ。やがてをつたてられ。小船に取乗坂本の城にたて籠る。勝龍寺に寄手の人数は。惟任が跡をしたひ。小利醍醐相坂。また吉田白川山中。方々へをつかくる。其夜は雨車軸をながし。物あひそれとは見へね共。落武者とおぼふるをばみなやみうちにぞしたりける。秀告は其翌日三井寺に至り。諸口よりうつとり来る首。悉く実検したまう中に惟任が首有。秀吉是を見給ひ。やあいかに惟任汝が悪逆のつもり。それがしが忠勤の志。天命にあらはれたりと御喜は限りなし。明知弥平次は此由を聞よりも。惟任が一類。我身の眷属悉くさし殺し。腹切てしんだりし。弥平次が心中ほめぬ人こそなかりけれ。扨秀吉は大津より安土に至り。当国にて反逆の輩。悉くちうばつす。中にも阿閉淡路守。同子息孫五郎。惟任が一味して。北の郡に居たりしを。一柳一介をつかはされ。阿閉が一類を磔にあげられたり。夫より尾州濃州に相働き。清巣の城に御馬をたて玉い。今度未落居の面々をば。悉く改め。忠勤の輩には領知をあたへ。国家をしづむべき法度を定め。都へ登り玉ひけり。然に惟任が首をば。死骸を尋ね首をつぎ。粟田口にはたものにあけ玉ふ。京童が是をみて落書をこそはたてにけれ。主の首。きるよりはやく。うたるゝは。これたうばつを。あたるなりけり。残る凶徒の頸をば。千七百余きう。信長公の御腹をめされし。本能寺の内に。首塚につみ給ひ御孝養にそなへらるゝ。此上は御葬礼を。とりをこなわでは叶わざるぎと思しめし。十月初より。紫野大徳寺にをいて。一七日の法叓を催し。一万貫の施物をこそはなされけれ。扨御葬礼の次第は。沈香を以て仏像を作らせ。龕の中へ入玉ひ。金沙金襴の厳りをなし。宝殊をたれ。金銀を鏤め。七宝の荘厳は目を驚す計也。蓮台野には火屋を作り。方百貳十間の四門に。白綾の幕をはり。秀吉御分国の大名小名。悉くはせあつまり。其外貴賤の輩は所関なくみへにけり。秀吉心に思しめす。信長公の御供は是迄なりと思しめし御いろをめされて不動国行の御太刀を自もたせ玉ひつゝ御輿の其跡に泪をおさへておとも有是を見る人々尤かうこそあるべけれと上下万民をしなべて皆涙をながしけり。秀吉はかやうに信長公の報恩の御為に御ちうぎをつくされしに惟任は引替御孝恩を蒙り栄花に誇り楽をきはめしに長久をば願はずしてなんぞやゆへなく信長公を討奉る叓天罰をのがれがたし六月二日に信長を害し奉り同き十三日にかれがかうべを刎らるゝ寔因果歴然とかや秀吉備中表にて武勇をはげまし籌策をめぐらさずは争か速に惟任を退治し此本意を達せんや大国の様にも楚のくわいわうを都のくわんもんにいれんとて項羽高祖ふたりの臣下是を守護し奉り晋の代ほろぼしくわいわうをいつきかしづき崇め申したりしに項羽無道の臣下にてくわいわうをうつて都をしらんとぞしたりける高祖是に依て七拾余度の合戦に終に高祖打勝ち項羽を亡し玉ひて漢下数百年の天下をたもたせ給ひけるとかや然にそれは七十余度のたゝかひ秀吉は月をこヘず怨をくつがへし給ふ叓誠に一世の冥加末代の亀鏡なりとかんぜぬ人はなかりけり。

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本能寺
(毛利家本)

 さても右大将信長公、上洛ましましてより、諸臣に棟梁し、帝道に塩梅たりし事、年久し。その頃、江州安土山に城郭を構へ、東西の甍、南北の台、金殿紫閣は天上の雲に連なり、玉楼粉墻は湖水の浪に輝く。その地の美麗は、譬へて言ふに足らず。或いは数百もとの鷹を集め、山野に狩場の遊びを成し、或いは若干の馬を揃へ、都に於いて馬場の興を尽くし給ふ。中に就いて、甲斐、信濃両国の守護、武田の四郎勝頼、年頃の愁訴あり。これによつて、御嫡男秋田の城介、信忠の卿を大将とし、徳川三河守家康を先勢と定め、駿河、甲斐、信濃の凶徒を切り従へ、武田四郎勝頼、同嫡子の太郎信勝が首を打つて、三ヶ国平均に属し、御馬をこそは入れられけれ。
 さて羽柴筑前守秀吉は、さる天正六年、播州に下り、別所を退治してより以来、西国征伐の軍使を承り、備前、美作の守護、宇喜多を手に属し、播磨、但馬、因幡、都合五ヶ国の人数を引率し、天正十年三月十五日、備中の国、冠が城に押し寄する。「城の固め、敵の備へ、左右なく打ち寄すべき要害にあらず。しかるにこの城に於いては、たとひ人数を損ずといふとも、二つなく攻め破り、西国の響きと成すべき」由、相定めさせ給ひけり。これによつて、杉原七郎左衛門、仙石権兵衛尉、荒木平太夫を先として、かの表、肝要にふまへたる水の手に押し寄せ、則ち水をぞ止めたりける。秀吉、大儀に感じ給ひ、両三人に、御馬をこそは下されけれ。城内より、取り取り懇望を致すといへども、万牛五丁の攻めを成し、即時に乗り込み、悉く首を刎ねらるる。時日を移さず、又、河屋が城を取り巻く。かの城主、敵軍の勢ひを見て、毛利家の援兵を待たず、掻楯を下ろし、兜を脱ぎ、降参をこそ致しけれ。
 その後又、高松の城にうち寄せて、辺りの体を見給ふに、三方は沢沼にて、かつて人馬の通ひ無し。一方は大堀を構へつつ、毛利家より、久しく相拵ふる処にて、要害、殊に堅固なり。たとひ大軍、取り巻いて日を送るとも、たやすく力攻めには成りがたし。さる間秀吉、暫く工夫し給ひ、「水攻めにすべき」由、相定めさせ給ひけり。城の周り二、三里の間に、山と等しく堤を築き、堤の裏には、大木を以て柵をかけさせ、大河小河の水上を、尋ねさせ給ひて、山を掘り、岩石を切り抜き、池の辺の溜り水、田井の流れを濫觴とし、悉く堰きかけ、忽ちかの地を、一つの湖と成せり。堤の上には、付け城数ヶ所拵へ、大舟を作り、筏を絡組み、敵城の乙の丸に攻め込み、合壁屋宅引き払ひ、甲の丸、一つと成る。城内の者どもは、水の漲るに従つて、大木の梢に床をかき、板を絡む。浪に漂ふ舎宅は只、舟の人たるに異ならず。籠の内の鳥とかや、網代の魚の如くにて、遁れん方はなかりけり。
 しかるに秀吉の御陣所、五町十町の間引き隔て、後詰のそのために、一万余騎を備へらる。毛利右馬頭輝元は、小早川左衛門佐隆景、吉川駿河守元春を近付け、「かの高松の城、救ひを成さでは叶ふべからず。備中表に於いて、是非骸を曝すべし。」とて、分国十ヶ国の人数、五万余騎を引率し、備中の国高山の向かひ、釈迦が峰、不動が嶽を陣取る。敵相、十町に過ぎず。故に双方、即時に相懸かるに及ばず、数日をこそは送られけれ。ここに於いて秀吉、「かの後詰の人数に切り懸かり、雌雄を決すべし。しからば当日、西国の限り、一遍に属すべき」の旨、安土に至つて使者を立て、上意を得給ふの処に、信長聞こし召し、「卒爾の合戦、しかるべからざる」の由、御下知仰せあり。
 やがて右大将も、御嫡男信忠の卿を相具し、御上洛ましまして、「惟任日向守光秀を、加勢としてさし下され、秀吉と相談を遂ぐべし。合戦の手立てによつて、御動坐あるべき。」との御諚なり。惟任、常よりも、気色を良うして御受けを、申すやうこそゆゆしけれ。「今度、西国の強敵によりて、秀吉に加勢を成し、粉骨を尽くすべきの御諚こそ、何より以て面目なれ。いよいよ忠勤を抜きん出奉り、御恩賞に預かるべし。」と申しつつ、やがて御前を罷り立ち、さて備中へは下らずし、ひそかに謀叛を巧みけり。「しかしながら、当座の存念にあらず。年来の逆意なり。」とぞ聞こえける。いかが思ひけん、五月二十八日、愛宕山へ登り、一座の連歌を催す。則ち光秀、発句に曰く。
  時は今天が下しる五月かな
今、これを思ひ合はすれば、まことに謀叛の先兆なり。何人か、かねてこれを悟らんや。
 しかるに天正十年、六月朔日夜半より、一万余の人数を引き、丹波の国亀山をうつ立ち、四條西の洞院本能寺、右大将の御所へぞうち寄せたる。あら、いたはしや。信長は、この事をば、夢にも知ろし召されず。宵には御嫡男、信忠の卿を近付け給ひ、いつよりも親しく、若輩の時よりの、昔語りをし給ひつつ、只今、互の栄華の程を悦び、明日の最後をば知ろし召されず。行く末長久の、楽しみを思ひ給ふこそ、はかなかりける次第なれ。又、村井入道、近習の小姓その外を、召し集めさせ給ひつつ、御憐愍の御言葉をかけ給ひ、夜も更けぬれば信忠は、御暇乞ひましまして、妙覚寺に御帰りある。その後信長は、閨の内に御入りあり、常に御寵愛の、人々を召し寄せて、鴛鴦の衾、連理の枕、夜半のささめごと。これやまことに、しゆんふんがくわいあんごくの楽しみ。「盧生が邯鄲の枕も、げに夢の世の夢なり。」とは、後にぞ思ひ知られたる。
 惟任は小間、途中に控へ、先駆けとして明智弥平次、同勝兵衛、同次右衛門、孫十郎、斎藤内蔵助、その外の諸卒を四方に分かち、御所の周りを取り巻きけり。夜も明けぐれを見計らひ、門木戸を打ち破り、合壁を引き毀し、一度にざつと乱れ入る。信長の御運の尽くる処は、この頃天下静謐の條、御用心もましまさず。国々の諸侍、或いは東国警固のために残し置き、或いは西国の御出勢とかや。又、織田の三七信孝は、四国追討のために、惟住五郎左衛門、蜂屋伯耆守を相加へ、和泉の堺の津に、舟揃へしてぞおはしける。その外の諸侍、西国御動坐、御供申すべき用意のために、無人の御在京なり。たまたま御供の人々も、洛中所々にうち散り、やうやう小姓衆、五十余人には過ぎざりけり。
 信長、夜討の由を聞こし召し、森の蘭法師を召して、事の子細を尋ね給ふ。蘭法師、承り、「惟任が謀叛」の由を申し上ぐる。信長、この由聞こし召し、「それ南山の春の花は、逆風、之を散らし、東嶺の秋の月は、狂雲、之を蔵す。千歳の松も、斧斤の厄を免れず。又、怨を以て恩に報ずる、ためしの無きにしもあらず。何ぞ今更、驚くべけんや。まづ敵の案内を見ん。」とて、広縁さして出給ひ、向かふ兵五、六人、手の下に射伏せ、後には十文字を押つ取つて、敵数輩かけ倒し、門外まで追つ散らし、数ヶ所の御疵を蒙り、御座をさして引き給ふ。森の蘭法師を始め、湯浅甚介、落合小八郎、大塚又一郎、薄田与五郎、高松虎松等は、常に御傍を、離れざる面々なり。これによつて、一番に取り合はせ、同じ如くに名乗つて出、一足も去らず、枕を並べ討死す。続いて進む人々は、中尾源太郎、狩野の又九郎、菅屋角蔵、矢代勝介、針阿弥。この外の兵ども三十人ばかり、思ひ思ひの働きにて、一旦防ぎ戦ふといへども、大勢に攻め立てられ、悉く討たれけり。その時信長、御殿には、手づから火をかけさせ給ひつつ、御腹召されたりけるは、ためし少なき次第なり。
 村井入道春長軒は、御門外に家あり。御所の震動するを聞き、初めは、「喧嘩か。」と心得、物具取りあへず走り出、「相鎮めん。」と思ひ、これを見れば、惟任が人数、一万ばかりにて取り巻きけり。「あら、思ひ寄らずの事どもや。」さてあるべきにてあらざれば、信忠の御陣所、妙覚寺へ馳せ参じ、この旨、「かく。」と申し上ぐる。信忠聞こし召し、「是非本能寺へ駆け入り、諸共に腹を切るべき」由、詮議あり。しかるに敵軍、重々堅固の囲み、真に咫尺千里なり。空を翔ける翼ならでは、内へ入るべきやうもなし。
 信忠の御諚には、「当寺は、腹を切るべき所にあらず。いづくにか心静かに、生害すべき所のある。」と御尋ねありければ、春長軒、承り、「忝くも親王の、御方の御座まします、二條の御所へ移り給ふべし。」とて、御所へ案内を申し、春宮をば輦にして、内裏へ移し奉り、信忠、わづか二、三百ばかりにて、二條の御所へ入り給ふ。信長の御馬廻り、惟任に隔てらるる残党、二條の御所へ、馳せ加はる者五、六百。御前にこれある人々は、御舎弟の御坊、織田の又十郎、村井入道父子三人、団の平八、菅屋九右衛門父子、福住平左衛門、猪子兵助、下石彦右衛門、野々村三十郎、赤坐七郎右衛門、斎藤新五、津田の九郎次郎、佐々川兵庫、毛利新介、塙の伝三郎、桑原吉蔵、水野九蔵、伊丹新三、小山田の弥太郎、春日源八、桜木伝七郎、山口をべん。この外、歴々の諸侍、一筋に思ひ切つて、惟任が寄せ来るをぞ待ちかけたる。
 惟任は、右大将に御腹を召させ、御殿の火焔と成るを見て、安堵の思ひを成し、「信忠、二條の御所に、楯籠り給ふ」由を聞き、武士に息をも継がせず、二條の御所へ押し寄せたり。御所には勿論、覚悟の前。大手の門を開かせ、弓鉄砲を前に立て、内に控ふる兵ども、思ひ思ひの得道具持ち、あう、前後を鎮めて居たりけり。惟任が先駆けしたる兵ども、面も振らず懸かりけり。前に立てたる弓鉄砲、差し取り引き詰め散々に打ち退け、たじろぐについて出、追つ払ひ、押し込まれ、数刻防ぎ戦うたり。寄せ手は六具をさし堅め、新手を入れ替へ攻め懸かる。味方は素肌に帷子一重、心は剛に勇めども、長鑓、長刀、大打物、刃を揃へて攻め入れば、ここにては五十人、かしこにては百人、残り少なく討ちなされ、御殿間近く詰め寄せたり。
 信忠御兄弟は、御腹巻を召され、御傍の面々も、百人ばかり具足を着、信忠、一番に切つて出させ給ひ、明智孫十郎、杉丹の三右衛門、加成清次、この三人に渡り合ひ、火花を散らし、切り結び、孫十郎を切り伏せ、清次、三右衛門、首丁々と打ち落とす。御近習の面々も、力の限り切り合ひ、内に攻め入る敵の人数、悉く追ひ払ひ、最後の合戦、残る処もなかりけり。信忠は御覧じて、「いつまでかくてあるべき。」と、御殿の四方に火をかけ、真中に取り籠り、腹十文字に切り給ふ。その外の精兵も、思ひ思ひに腹切つて、一度に焔と成りにけり。信長、御歳四十九、あう、信忠は二十六。「悼むべし、惜しむべし。」と、上下、袂を絞りけり。
 ここに濃州の住人、松田の平介一忠といふ者あり。その夜は辺土にあつて、御所への夜討の由を聞き、走り来てこれを問へば、「惟任が逆心によつて、右大将御父子、御腹を召さるる」由を申す。一忠、この由聞くよりも、「あら、いたはしの御事や。某、不肖の者といひながら、数年召し使はれし報恩のために、追腹を切らん。」とて、妙顕寺に走り入り、本堂の内にして、硯筆を取り出し、一首の辞世、かくばかり。
  その際に消え残る身の浮雲も終には同じ道の山風
かやうに詠じ、又、参学に心を染めし故により、一句の偈を作つて曰く。
  手に活人三尺の釼を握つて  即今截断す尽乾坤
と、かやうに書き置き、腹切つて死んだりし、一忠が心中を、褒めぬ人こそなかりけれ。
 惟任は、洛中を鎮め、西の岡勝龍寺の城に、明智勝兵衛を残し置き、その日の午の刻、坂本の城に至る。安土の御所には、この由を聞き、前夫人、後夫人、東西の局々の思ひ人、雑人に至るまで、かち裸足にて、皆散り散りに成りにけり。信長御在世の御時は、只仮初の往還にも、鸞輿、飾車、千乗万騎の驂にて、美々しき粧ひを引き替へて、愁苦辛勤の有様、譬へば唐の玄宗の、楊貴妃、安禄山が謀り事に、蜀道の難を凌ぐ悲しみ。楚の項羽の虞美人、漢の高祖の戦ひに、烏江の浪に漂ひしも、これにはいかでまさるべき。さて惟任は、安土山に移り、長浜、佐和山へ人数を遣はし、江州一辺に相従へ、六月十日、坂本の城に帰陣す。
 しかれば備中表、秀吉の御陣には、六月三日夜半ばかりに、ひそかに注進状あり。開いてこれを見給ふに、信長御生害の御事なり。則ち、使を近付け、事の子細を尋ね給ふに、ありのままに申し上ぐる。秀吉、この由聞き給ひ、左右眼に涙を浮かべ、「あら、あからさまなる事どもや。『叢乱、茂せんとすれば、秋風、之を破り、王者、明らかならんとすれば、讒臣、之を覆ふ。』人を知るを以て、良将と名付けたり。これ程無道なる光秀を、右大将の御存じなき、心の程こそ愚かなれ。秀吉、都にあるならば、かかる謀叛は、よもせさせじ。たとひ御父子を討ち奉るとも、その時日を移さず、逆徒の首を刎ぬべきに、その甲斐もなき無念さよ。よしよし、時刻は移るとも、惟任が首を切つて、信長公の御弔ひの、香供に供ふべき。」と思ひ切つて、少しも愁傷を、色にも出し給はず。いよいよ陣を張り、寄せ給ふ。
 日畑の要害その外、現形する城々をば引き付け、「高松一城をば、是非攻め果たすべし。」と思ひ定め給ふ。しかるに、「信長の御事、隠すとすると、諸陣へ洩れ聞こえて、騒ぐ輩もあるならば、悪しかりなん。」と思し召し、秀吉、心中の動ぜざる処を、諸卒に知らせんため、狂歌を詠みてぞ触れられける。
  両川の一つに落ちて流るれば毛利高松も藻屑にぞ成る
「この返歌をせざらん者は、臆病者。」とかけられて、皆返歌をぞせられける。まことに狂言綺語なれど、「諸卒を勇めん謀り事、尤も。」とこそ聞こえけれ。
 その後、高松の城より降参して、当構への大将、並びに芸州の加勢、「腹を切り、雑兵をば助けらるべき」由申すにより、舟を遣はし、検使を立て、名ある者どもをば、皆腹を切らせ、雑兵をば助けられたり。この時、敵陣へ使者を立て、安国寺の西堂を招き寄せ、事の子細を述べ給ふ。「毛利家分国の内、備中、備後、伯耆、出雲、石見、この五ヶ国をこの方へ渡し、幕下に属するに於いては、和睦せしめ、向後、互に入魂すべき」條々なり。安国寺、やがて御受けを申し、五ヶ国並びに人質、誓紙を進ぜらるる。これによつて、まづ毛利家の陣を払はせ、秀吉は心静かにもてなし、六月六日未の刻、備中表を引き退き、備前の国、沼の城にぞ着かれける。
 七日には大雨、天をくらまし、疾風、地を動かす。数ヶ所の大河、水漲つて、真に巨海の如し。しかれどもその日、二十里ばかりの難艱を凌ぎ、播州姫路に至つて着陣たり。諸卒揃はずといへども、九日に姫路を立ち、明石の浦に、一夜の陣をぞかけられける。その頃、淡路の凶徒ら、雑賀舟を引き付け、海賊してぞ居たりける。秀吉、この由聞き給ひ、「我上洛の後々の、通路の妨げせられじ。」とて、兵船を揃へ、浅野弥兵衛、仙石権兵衛尉、生駒甚介、明石与四郎を遣はされ、淡路嶋、洲本の城を取り巻き、凶徒を従へ給ふ。秀吉は、摂州富田に陣を据ゑ、先手の人数、天神の馬場まで取り続け、惟任が手立てをこそは目守られけれ。
 惟任は、秀吉着陣の事をば、夢にも知らず。勝龍寺の西、山崎の東口に陣を据ゑ、「秀吉は、西国に於いて釣り留まるの條、きつと摂州に働きを成し、播州に乱入すべし。しからば秀吉敗軍、程あるべからず。国境に於いて、悉く討ち果たすべき」評議半ばに、秀吉、昨日富田に着陣の由、注進あり。惟任、案に相違して、俄に手立てを改め、人数を立て直し、一戦に及ぶべき、覚悟をこそは定めけれ。
 秀吉の人数、備前、備中に相後れ、五、六千には過ぎざりけり。しかりとは申せども、究竟の兵なり。秀吉、「この弔ひ合戦の、思ひの太刀、ここなるべし。味方の人数は三筋に分け、川手、山手を箕の手に廻し、秀吉は中筋。」勇み懸かれる勢ひ、譬へばはし鷹の、野鳥に遇ふが如くなり。惟任、これを見て、人数二万ばかり、段々に立て並べ、数刻防ぎ戦うたり。中筋の旗手は、風に従ふ雲よりも、猶速し。左右の人数、一度にばつと切り懸かる。鬼神、天魔、波旬も、何かは以て堪るべき。追ひ崩されて逃げにけり。
 惟任が近習一万ばかり、一手に固まり、勝龍寺に楯籠る。散り散りに逃ぐる者をば、或いは久我縄手、或いは西の岡、桂川、淀、鳥羽まで、追つ詰め追つ詰め首を取り、丹波の道筋へも入り切り、落つる武者をば、一人も逃さずこれを討ち、則ち勝龍寺へ人数を寄せ、惟任が落ち行くべき、道筋を取り切りて、悉く取りひしぐべき、手立てとこそは見えにけれ。惟任は、先非を悔ゆといへども、還らず。聖人の諺に曰く、「一朝の怒りにその身を忘れ、その親に及ぼす。惑へるにあらずや。」と。思ひ続けて思ひ川、絶えず流るる水の泡の、うたかた人の世の中の、因果は車輪の如くにて、昨日滅ぼす主君のため、今日は我が身の上と成る、報ひの程こそはかなけれ。
 さりながら、「まづ一旦、坂本の城に楯籠り、時刻を待つべき」工夫を成し、夜半ばかりに、近習五、六人にこの由を知らせ、城の内を忍び出る。寄せ手は昼の合戦に疲れ、鎧の袖を片敷き、干戈を枕とす。その隙を窺ひ、元よりこの所の、案内をば知つつ。大道をば通らずして、田の畔伝ひ、薮原の細道、悪虎の尾を踏みながら、毒蛇の口を逃れつつ、囲みをこそは出にけれ。城の内には、惟任が落つるを聞き、「我先に、我先に。」と崩れ出て、或いは鬨に寄せ合はせ、或いは待ち伏せに行き当たり、残り少なく討たれたり。又、明智弥平次は、安土の城に居たりしが、惟任敗軍の由を聞き、かの山を焼き払ひ、二千余の人数を引き、「惟任に馳せ加はらん。」とや思ひけん、大津を指して、打つて上りしが、堀久太郎に行き合ひ、やがて追つ立てられ、小舟に取り乗り、坂本の城に楯籠る。
 勝龍寺に寄せ手の人数は、惟任が後を慕ひ、山科、醍醐、逢坂、又、吉田、白川、山中、方々へ追つかくる。その夜は雨、車軸を流し、物あひそれとは見えねども、落武者とおぼゆるをば、皆闇討ちにぞしたりける。秀吉はその翌日、三井寺に至り、諸口より討つ取り来る首、悉く実検し給ふ中に、惟任が首あり。秀吉、これを見給ひ、「やあ、いかに、惟任。汝が悪逆の積もり、某が忠勤の志、天命に顕はれたり。」と、御喜びは限り無し。明智弥平次は、この由を聞くよりも、惟任が一類、我が身の眷属、悉く刺し殺し、腹切つて死んだりし。弥平次が心中、褒めぬ人こそなかりけれ。
 さて秀吉は、大津より安土に至り、当国にて叛逆の輩、悉く誅伐す。中にも阿閉淡路守、同子息孫五郎、惟任が一味して、北の郡に居たりしを、一柳一介を遣はされ、阿閉が一類を、磔に上げられたり。それより尾州、濃州に相働き、清洲の城に御馬を立て給ひ、今度未落居の面々をば、悉く改め、忠勤の輩には領知を与へ、国家を鎮むべき法度を定め、都へ上り給ひけり。しかるに惟任が首をば、死骸を尋ね、首を継ぎ、粟田口に磔に上げ給ふ。京童がこれを見て、落書をこそは立てにけれ
  主の首切るより早く討たるるはこれたうばつを当たるなりけり
残る凶徒の頸をば、千七百余級、信長公の御腹を召されし、本能寺の内に、首塚に積み給ひ、御孝養に供へらるる。
 「この上は御葬礼を、執り行はでは叶はざる儀。」と思し召し、十月初めより、紫野大徳寺に於いて、一七日の法事を催し、一万貫の施物をこそは成されけれ。さて御葬礼の次第は、沈香を以て仏像を作らせ、龕の中へ入れ給ひ、金沙金襴の飾りを成し、宝珠を垂れ、金銀を鏤め、七宝の荘厳は、目を驚かすばかりなり。蓮台野には火屋を作り、方百二十間の四門に、白綾の幕を張り、秀吉御分国の大名小名、悉く馳せ集まり、その外、貴賤の輩は、所せきなく見えにけり。秀吉、心に思し召す。「信長公の御供は、これまでなり。」と思し召し、御色を召されて、不動国行の御太刀を、みづから持たせ給ひつつ、御輿のその後に、涙を押さへて御供あり。これを見る人々、「尤も、かうこそあるべけれ。」と、上下万民押しなべて、皆涙を流しけり。
 秀吉は、かやうに信長公の、報恩の御ために、御忠義を尽くされしに、惟任は引き替へ、御孝恩を蒙り、栄華に誇り、楽しみを極めしに、長久をば願はずして、何ぞや故なく、信長公を討ち奉る事、天罰を逃れがたし。六月二日に信長を害し奉り、同じき十三日に、彼が頭を刎ねらるる。まこと、因果歴然とかや。秀吉、備中表にて、武勇を励まし、籌策を巡らさずは、いかでか速やかに惟任を退治し、この本意を達せんや。
 大国のためしにも、「楚の懐王を、都の関門に入れん。」とて、項羽、高祖、二人の臣下、これを守護し奉り、秦の世滅ぼし、懐王をいつきかしづき、崇め申したりしに、項羽、無道の臣下にて、「懐王を討つて、都をしらん。」とぞしたりける。高祖、これによつて、七十余度の合戦に、終に高祖打ち勝ち、項羽を滅ぼし給ひて、漢下数百年の天下を、保たせ給ひけるとかや。「しかるにそれは、七十余度の戦ひ。秀吉は月を越えず、怨を覆し給ふ事、まことに一世の冥加、末代の亀鏡なり。」と、感ぜぬ人はなかりけり。

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三木
(毛利家本)

爰に尾張の国の住人。織田の弾正忠平の朝臣信長。若きより昼夜弓箭を捨ず。武勇を好み給ふ。是に依て去永禄の初つかた。美濃尾張両国の敵をきり随へ。江州佐々木の一党を追伐し。程なく上洛あつて。此比都を守護し。おごれる三善家の輩を悉く退治し玉ひ。五畿内は申すにをよばず。丹波幡磨の国まで。こんくわんをいれずと云人なし。然れば禁中をおもんじ。平家の元をつとめて宰相の中将にて参内ましまし其後だいしやうをけんじ右大臣にへあがりて栄花の春をむかへゑいようの秋をきはめ給ふなり。去乍御心に少し。御不足の事やおはしましけんじじやうをかいて。禁中へ挙玉ふ其詞に曰く。たうぐわんのこと。しだいの昇じんいよいよおんたくによくすべきといへどもせいはつのこういまだおはらざるのでう先一くわんを。じせんとす東夷北狄既にほろびぬ南蛮西戎なんぞ属せざらん万歳安寧四海平均の時にあたつて重て勅命にとうようし棟梁塩梅の忠をいたすべし然ばけんしよくをもつて嫡男信忠の卿に譲りあたふべきの旨宜くそうたつに。預るべき者なり卯月一日信長判とうの右大弁殿へとぞかき給ふ。角てぶくわんにましまして。日本をたいらげたまはんとの御心中とぞ聞えける。扨諸国へ軍卒をつかはし給ふ。東国ゑわ徳川参河守家康。瀧川左近将監一益。北国ゑわ柴田修理亮勝家。佐々内蔵佐成政。前田又左衛門利家。丹波の国ゑわ惟任日向守光秀。南方大坂表へは佐久間右衛門尉信盛。西国ゑわ羽柴筑前守秀吉なり。扨幡州東八郡の守護。別所小三郎長治。秀吉にたいし。牟楯の濫觴を尋るに。天正六年三月の始秀吉御下知に任て。彼地に下向の叓は。長治一味同心の故なり。同き月の七日に秀吉幡州国衙のかすやが舘に陳を布く。爰に長治が伯父別所山城守賀相と云侫人あり。長治にあいかたつて云く。秀吉此地に入て自由の働あり。殃い終に我身にをよぶべしとて。戈を逆にして味方の勢に陳ぶれし。中途より立帰り。三木城墎に楯籠り一夜の談合さまざまなり。中に就て。此旨上聞に達するならば。程なく上勢下るべし。さあらん時は。要害の普請。出城の始末不覚たるべしとて。先たばかり状をかいてのぼせらるゝ。公義にたいし牟楯にあらず。秀吉乱入狼藉のあまり有。一旦城墎にたて籠り。御気色を伺奉るべきよし使者をたて。其間に居城を構ゑ。出城の普請をぞきはめける。今度大敵を防べき。城々はしかたには櫛橋左京進神吉にわ神吉民部少輔。高砂には梶原平三兵衛。野口にわ。長井四郎左衛門淡河にわ。淡河弾正忠。はじ谷には。きぬがさ豊前守。是みな要害主人堅固なり。残る小城をば。悉く引払ひ。かうづき中村高橋党。服部後藤長谷川神沢大村三枝。上原魚住賀古賀須屋。きしのたるゐ飯尾党。扨亦藤田の六十三騎此人々を先として。人質誓紙とりかはし。いさみにいさんで。三木の城ゑぞ籠りける。たとへば異国のかんしん。はんくわいがよせたり共あやうかりとは見えざりけり。秀吉此由きゝ玉ひ。荒思ひよらずの事共や。小三郎長治をば。此行末の案内者と頼み。一廉の受領をもなし。心をへだてじとおもひしにより。当国の人質は申すにをよばず。他国の人質迄取あつめ。長治に預けるこそ不覚なれ。咋日の花は今日の塵。昨日の友は今日の怨。あすかの川の淵ならで。瀬にかはりゆくならひとはいまこそおもひしられたれ。よしよし当国の面々。悉く敵に成共。何ほどの事の有べきぞ。有馬中務少輔小寺明石は心替りにてはなきか。別所孫右衛門重棟は。そうりやう兄弟の義について一味するかととひ給ふ。中務少輔小寺明石はもとより異儀も候はず。重棟わ秀吉の御前に畏り。左右眼に泪をうかべ。唯面目を失ひ奉ると計也。秀吉御らんじて。汝が兄山城守賀相が。偏にはかりことゝ覚たり。長治にたいし状をつかはし。ことの子細を尋よと仰ければ。重棟承り。則状を調へてぞ遣しける。使両三度にをよぶといへ共。賀相にいさめられ。終に。返答にあたはず。扱既に破れたり。秀吉此由きこしめし。軍兵を引卒し。三木の城へぞよせられける。彼城墎と申すは。前には河水漲て後に高山そびへつゝ。林に続て人家あり。岩そばたつて道せばし。殊更こうしやの拵へて。くろみくろみに人数をふせ鉄炮軍を先として弓弦をならして待かけたり。秀吉御らんじて。谷々を放火させ。先手の者ををひはらはせ。其月は先本の陣へぞ引給ふ。翌日にわ長井四郎左衛門がふまへたる。野口の城へぞ寄られたる。是非此城を攻とり。軍の先兆とすべきとの儀定なり。城にわ待儲たる事なれば。櫓上。塀の狭間より射出す鏃鉄鉋。雨の如く霰に似たり。一陣少し引退く。二陳には石俵竹手把てつほう楯をかざしつれ。堀ぎわへよせきたり。則土手を。つかせらる彼所と申すは。幡州にての広みにて山遥に海遠し中に田地漫々たり比は三月中旬に。あをみわたれるばくばうの風になびきて散乱す。数万人の人足にて。彼麥をながせつゝ。堀の。埋草にぞしたりける。せいろうをたかくあげ。三日三夜。入かへ入かへ攻給ふ。八方に螺を吹き。鐘を鳴して大鼓を打。鬨音城拍子。只雷電に異ならず。物によくよくたとふれば。風に吹るゝ小船の。逆浪に浮沈み。ひやうはくするが如にて城の内なる輩は。あう前後を忘じて居たりけり。長井堪ずや思ひけん。降参申命を助られん叓をのぞむ。秀吉弓矢の墓をやらんが為に。赦して城を請取給ふ。然に別所中国の守護。毛利家と契約をなす叓年久し。此時飛脚早打隙もなく。合力勢をぞこはれける。毛利右馬頭輝元。もとより律儀をたつる方なれば。援兵をつかはすとて。小早川左衛門佐隆景。吉川駿河守元春に。貳万騎をさし加へ。備州作州の境に陳をはり。けいさくをめぐらす。此旨右大将きこしめし。後詰の其為に御出勢とぞきこへける。御嫡男信忠卿を大将とし。都合其勢一万五千余騎。幡州なだにをりくだり。所々に陳をぞとられける。彼堺目より。中国の人数ものぼらず。くわんぐんもくだらず。互に行を見あはせらる。信忠の御諚には。某加勢のしるしに。別所がよりきの持し神吉の城。此要害を攻破り。きほひをとらんとおぼしめし。即時に人数をうちよせ。四方八面に楯をつき。火水になれとぞ責たまふ。城のうちにはをししづめ。人をうたんの謀ちかぢかとひきつけたり。美濃尾張の人々は。本より心かうにして。手負死人をふみつけ。数千人の者共。堀の埋草と成まで。無理にかゝつて攻たりけり。もとより小城の事なれば。大軍をうけたもたん事。蟷蜋が立車にむかつて。長譬を頼むに似たり。かゝりける所に。神吉民阝が同名に。藤太夫と云者あり。そうりやう民部が首をきつて。御味方にまいるべき由を申す。信忠きこしめし。急ぎまいれとの御諚にて。民部は首をぞうたれける。爰に三木よりの加勢に。梶原の重衛門。入道してとうあんと云者有。藤太夫が心替の由をきき。荒頼ても頼がたきは人の心や。をいと云そうりやうと云。三世のきゑんをむすびこし。其甲斐もなく心替をしけるぞや。殊更人質を。長治にまいらせて。まだいわげなきみどり子を武士の手にかけてひきさがさせんむざんさよ此行末にながらへてたとひ身をもつよなり共義理をちがへし人なりとうしろゆびをさすならば生たる甲斐は有まじとひとりごとにぞ申ける。其後寄手の兵は。城大将が首をみて。落居したると心得。内へいつてみんとて。あう我も我もと乱入とうあん此由みるよりも。爰にて切て出寄手の兵共を。いちいちに乙乱し。高名せばやと思へ共。とても討死すべき身の。余多の人をほろぼし。つみをつくりて何かせん。さらば最後を急ぐべしと。大手の櫓にとりあがり腹十文字にきつたるをほめぬ人こそなかりけれ。信忠の卿は。此きほひを以て。三木の城にをしよせ。其辺見をよばせ給ひ。二里三里の間に。相城二つ三つつけさせ。夫より御馬を入給ふ。秀吉は平山と言峯を拵へ。居城と定め。敵城をこそまぼられけれ。其後三木の城内の各評義して。敵の人数は三千四千に過ず。城の内に楯籠士卒七八千。誠に大軍を以て。小敵の擒となる叓無念きはまりなし。是非引出し一軍し。勝負を決すべきよし儀諚して。長屋表に取出。平畠に人数を立る。平山より是を見て。先勢五百計打出し。秀吉も物具したまひ。平山のこしひらみをぢんどり。先勢を谷あいにをろさるゝ。三木方には室田ほずみ。岡村がたうをけいしへいと定め。先手の見合せしたりけり。其日の大将は。山城守賀相。長治が舎弟。小八郎治定。是両人とぞきこえける。鉄炮軍はじまれば。川をわたりてかゝらんと。馬一面に揃へつゝくつばみをならし。ざゞめかいて向のきしにのりつけいさみかゝれる威ひ。天魔をもしりぞけ。波旬をも欺けり。谷に陳取先勢。錣を傾け待懸しに。其陳へはかゝらずし。本陳の山を目にかけてうつて。のぼるこそやさしけれ。秀吉御覧じて。今日の軍に勝べき叓は案の内。走りかゝる敵相。十町に過たり。人馬の息相限り有。ちかぢかとひきつけ。残らずうたんと下知しけり。羽柴小一郎秀長。此由を承り。人に先をこされじと。はやるな面々と。人々をいさめをき。一番鑓をぞいれられける。秀長の人数。一度にはつときりかゝる。秀吉つゞいてこみかゝる。三木方の兵に。久米の五郎久勝。志水弥四郎直近。一足もさらず大将はいづくにぞ討死せんと名乗つゝ大勢の中へわつて入る。され共物の数ならず此両人もうたれけり。残の兵共。むかふをばきりふせ北をばをひうつ。山城名馬にのつてひく。小八郎治定。とつてひきかへし。馬よりもおりにけり。ひぐちの太良をりあひて。ほそ首中に打落す。其外の兵共城の内迄をつこみ。をもとの人の首数を二三十うつとつてあう凱歌挙てぞひかれける。其比接津国の守護たりし。荒木接津守村重。信長公にたいし。謀反して天下をくつがへさんとや思ひけん。先京都より幡州への通路をとむる。秀吉此由聞玉い。急き村重が舘に至り。こわいかに村重望のあらば秀吉に申されよ。公儀にをいてわはからふべし。御身かくなりあがり。此国の守護といはるゝ叓。誰が恩とか思うらん。恩を怨にて報ずるかや天道の有ならば後のむくひのいかならんなう村重と仰けり。村重少も同心の気色見へざりければ。夫より京都に馳上り。御人数を引下し。高槻茨木の両城。調略を以て御味方となし。有岡一城に攻なし。扨幡磨へのつたひの城。節所節所に付双べ。都よりの通路をば心易ぞしたまひける。其後毛利の輝元。小早川の隆景。三木の城みつぐべきてだてとして。数百艘にふなよそほひして。明石の浦魚住にをしあぐる。軍使には乃美兵部丞。児玉内蔵太輔。其外紀州雑賀の士卒。海ぎはに要害構へ。船引付てぞ居たりける。秀吉此由きこしめし。三木と魚住の通路をとゞめんと思し召し。君が峰を初め。四方八面を。かこまれけるとかや。廻りの付城。三十ばかり。其透々に番屋をたて。塀柵乱杭逆茂木表にわ荊棘を引つゝ。裏にわ堀をほらせけり。飛鳥はそもしらず地を走る獣ものがれつべうはなかりけり。城の内には此由をみて。敵の人数。たとひをひをひくはゝる共。五六千にわよも過じ。其勢を以て。六七里の間をかこまれけるこそ不思義なれ。西国よりの兵粮。魚住についてあり。いかにもしていれんとて。精兵百人すぐつて。弓に手矢をとりそへ。しのびにかかつて。魚住ゑ出し。此者共を案内者とさだめつゝ。天正七年九月十日。芸州の住人に。生石中務少輔。手嶋一介。並に紀州の住人。土橋平丞。渡辺藤左衛門を先として。七八千の士卒をひき表ては要害きびしとて。後の方へまはつて。兵粮をはこばする。宵よりも出ぬれど。はやあけがたになつて。大村坂ゑつきぬれば。あいづのゝろしあげさせ。塀柵をきりくずす。三木の面々かけあはせ。兵粮をばいれずして。谷の大膳亮が付城ゑ攻あがり。数刻防き戦たり。大膳は外構をとられじと。乙の丸へぞおりたりける。先懸したる三木の者。あうはや外構にをしよする。大膳此由見るよりも。大手の門をひらかせ太長刀のさやはづしいさみにいさんで切て出。手本に進む兵を。七八騎なぎふする。然れ共大膳が。運のつくるかなしさは。長刀のつばもと。二三寸をいて。づんどをれて力なし。其後打物ぬきもつて。大勢の中へわつていり。数十人に手をおほせ。刀の刃つきぬれば。脇指ぬいて腹切て。そこにて討死したりしをおしまぬ者はなかりけり。三木方の兵共。其儘にひくならばなんもなからん所に。かさの丸をとらんとて。人数をばひかざりけり。秀吉早々かけつけらるべき所に。敵一手には働かじ。北方の襲にて。南方よりの行かわあるべきと。見合らるゝ所に。如此の住進有。すは。やつと云儘に。風にしたがふ旗先。敵陣ゑさしむけ。馬に鞭をあらくあて。一刻にかけつけ。声をどつとかけにけり。敵も名有侍にて。さうなく太刀場をとられじと面もふらずかゝりけり。秀吉御らんじて。三木の城と。大村の間を。をしへだてんと思召し。かさざかの上よりも。すくに人数ををろさるゝ。山城は。三千余騎にて大村前にそなへけり。其中へ秀吉。三百計にて。御馬を入給ひ。わつたてをんまはし。散々にきり玉う。三木方の者共は。風に木の葉の散ごとく四方へばつとにげにけり。そこにてとつてひつかへし鑓前にて討死する者二三百。其中にとつても。別所甚太夫。同三太夫。同左近の将監。光枝小太郎。同名道夕。櫛橋弥五三。高橋平左衛門。三宅与平次。小野権左衛門。砥堀孫太夫以上軍の大将。此外雑兵。六百余人うたれつゝ。首墳にこそつかれけれ其外撫切打捨わ数をもしらぬ計なり。角て弥城のよはるをみて。又付城をよせらるゝ。南わ八幡山。西わ平田北は長屋。東は大塚。城へのちかさは五六町。ついぢの高さは一丈余。うへには二重塀に石をいれ。摸雁舁楯。高くいゝ重々に構をつき。川の面に虵籠をふせ簗杭うつて楗掻橋の上にも番を居へ巴巻水の底迄も人の通を用心す。裡には大名小名の陳屋を宿屋作にたてさせ小路をとをし辻々に門をきり昼夜によらず往来の人をゑらみてとをしけり。暗夜になれば町々の篝火。灯明の光わ月の如くにて数は星に異ならず。秀吉近習の人々を。六時にわかつて三百人。番屋番屋の名字をかきつけ。付城の主人に。判形すヘさせまはされたり。若も油断輩は。上下によらず成敗し。重き者をば磔。軽わ誅殺す。人々是をみ舌を掉て恐れけり。荒むさんや城の内には旧穀悉く尽き。既に餓死する者数千人。初は糠蒭を食とし。中比は牛馬鶏犬をころしくらう。後にわ手負死人の。しゝむらをさいてくうとかや。異国の楽羊ならでは。人をくらう様のありとは更にきかざりけり。天正八年正月六日。宮の上の要害。調略を以て秀吉自身のりこみ。其日又諸軍をよせらるゝ。堀ぎは三町に過ず。秀吉宮の上より下墨玉い。同十一日白昼に。南構に人数をつけ。山下を放火し。秀吉秀長は。彦の進が持し鷹の尾。ならびに山城がかまへにかけ入。敵数輩うつとり。爰を詮度と戦たり。敵の士卒は。詰の丸にぞ籠りける。是が譬へかや神無月。神無月時雨の雲の立田山梢まばらにちりはてゝ下枝に残る紅葉ばの嵐を待にことならず。長治是をみて。舎弟彦進をちかづけ。やあ何とかおもふ。とても此城久しくたもつべきにてもなし。今夜腹をきらんとおもへ共。敵陣へ案内し。残士卒共とがなふしてくみする族。助てたべと懇望の状をかひて出すべし。いかにと有しかば。彦進承り。尤と申しつゝ。則状を調へて敵陳ゑこそ出されけれ。唯今申入る意趣は。去々年以来敵対の事。ゆへなきにあらずといへども。今更疎意を述にあたわず。併時節到来天運既にきはまれり。なんぞほぞをくふにたへん。長治並に同名。山城守同。彦進。両三人。来。十七日申の刻腹を。きるべきに相定め畢ぬ。残る士卒雑人巳下。とがなうして。悉く首を。刎られん事わふびんの題目也。御憐愍を以て扶け。をかるゝにをいては。今生の悦び来世のたのしみ。何事か是にすぎん。此旨宜く。御披露にあづかるべし。仍恐々謹言。正月。十五日別所。小三良長治。浅野弥兵衛尉殿ゑとぞかゝれける。此旨則披露の所に。秀吉是を見給ひ。真に文武二道の侍なりと。しばしかんじ給ひつゝ。雑兵を扶けんとの返答にそへられ。酒肴用意し。最後の遊宴あるべしとて。城の内へぞをくられける。長治は秀吉の返答をきゝ。荒うれしの事共や。いざさらば酒盛せんとて。両日両夜の遊山こそいつにすぐれて覚へたれ。嘆の中の悦とは。今此事をや申すらん。小蝶の夢のたはむれ槿花一日の栄。たとひ千年をふるとても。限なくては叶はず。なまじいに某ら。弓馬の家に生れつゝ。名をくたさじと思うこそ。実に哀なる心なれ。今夜計を名残とて。夫婦の人は。閨の戸の。とぼそもさゝでいざよひの月やあらぬとこしかたを思出つゝもろともに十四十五の春よりもはかなきちぎりをむすびそめ連理の枕水鳥のをしのふすまの下にたゝおきふしなれし呉竹のよは定なき習とわしらざりけるぞをろかなる。しばしまとろみて。明ければ十七日。早朝にをきいで。行水し香を焼。かみをあげさせ。ひたけゝれば。彦進をめしよせ。山城に使をたて。兼日に定むる如く。今日申の刻生害あるべしと申せ。彦進承り。此旨山城に云渡す。山城返答には。我等両三人腹をきり。諸卒を助て何にかせん。城の内を焼破り。もろともにほのをとなつて。骸骨を蔵すべしとぞ申しける。城の内の者共此由をきくよりも。すはや山城先約をへんずるぞ。山城壱人の覚悟にて。残党をころさんとや。諸卒はみな一統したる叓なれば。山城をうたんとてこそよせにけれ。山城櫓にあがつて。火をかけて焼くずさんとしけるを。けらいの者も敵なれば。首をうつてぞ出しける。長治は是をきゝ。もとよりも覚悟の前。我等一類の末後此時にきしたりと。三歳の緑子を膝の上にかきのせ。荒果報つたなの叓共や。かゝれとてしもうばたまの。このくろかみはなでずして。一筋をちすぢになれとねがひこし。其行末をひきかへて。あまつさへたらちねの。手にかゝる叓のむざんさよと。心のたけき長治もしばし泪にむせびけり。角ては叶はじとおもひきり腰の刀をひんぬいて心元を一刀あつと計を最後にて朝の露ときえにけり女房が是をみて自害をせんとしたりしを長治は見るよりもとつて引よせさしころし同じ枕にをしふせ絹ひきかづけをかれけり友之が女房も同じ如く生害し今はおもひも残らずと。兄弟はうちつれておもてをさしてぞ出にける。扨客殿の縁の板に畳一帖しかせつゝ左右に。居なをりて皆人々をめし出し暇乞をすべしとて気色を違ヘずにつこと笑ひ此三年が間の籠城を相届くる志のせつなさは海よりもふかく。山よりも猶高しいづれの日か此恩を報ぜんとおもひこし其甲斐もなくして角なりはつる無念さよ去乍それがしら両三人が生害し扨各を助くるこそうれしかりける次第なれ。さらばかたがた。最後の名残是迄と。脇指とつてなをし。弓手にかはとつきたて。妻手へさつとひきまはす。三宅肥前治忠入道。首をちやうど打落し。治忠が。申しやうこそ哀なれ。此先御恩に。あづかる人は多れど。此度の御供を。申す人は更になし。某も。当家譜代の。年寄と云なから。述懐の子細有。出頭にもをよばず。ある甲斐もなくして。人がましき事なれ共。御介錯のあらされば。御供申すさらばとて。腹切てしんだりけり。友之此由見るよりも。あつはれ清き自害かな。友之も腹切て。名を後代にとゞむべし。皆見給へと云儘に。腹十文字に切破り。臓腑をくつて捨にけり。長治年は廿三友之は貳拾一。惜べし惜べし。扨山城が女房も自害をせんと思ひきり。男子二人女子一人三刀に差殺し剣を含み死たるは哀れなりける次第也。翌日には城の内の者共を出し。悉く助けられたり。其中に小姓一人。短尺を持て来る。よみて見れは辞世なり。先長治哥に角ばかり。今はたゞ。恨もあらず。もろ人の。命にかはる我身とおもへば。同友之。命をも。おしまざりけりあづさ弓末の代までの名を思うとて。三宅治忠入道も。君なくはうき身の命なにかせん。残りて甲斐の有る世なりともとかやうに詠ず。げにも文武の誉れ。なのした豈むなしからんや。秀吉は別所三人の首を京都へのぼせ。信長公の御実検に備へ。幡州にては御着志方。魚住。此城々を同事に攻ふせ。但馬一国一篇に属す。備前美作此先に一味せり。其外西国四国懇望の使札。日々に到来の旨。上聞に達す。武勇と云調略と云。比類なきよし御感状。誠に弓矢の面目。何叓か是にしかんや。其後秀吉。三木の城にうつり。地を清め。堀を䟽ゑ。今度退参する。人民を引直し。法度を定め。当国の面々わ。云々をよばず。但州備州の諸侍。着到の。旨に任せ。在城すべきよし。厳重の間。人々屋敷を構ゑ。門を双べ。日を経ざるに数千間の家をたつる。皆人。耳目を驚す。或人の曰く。秀吉に十徳有。君に忠心あり。臣に賞罰有。軍に武勇有。民に慈悲有。行うに政道有。意に正直有。内に智福有外に威光有。聴に金言有。見に奇特有若輩の時よりも人間抜群の主人。猶行末の繁昌。仰ぬ人はなかりけり。

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三木
(毛利家本)

 ここに尾張の国の住人、織田の弾正忠、平の朝臣信長、若きより昼夜弓箭を捨てず、武勇を好み給ふ。これによつて、去る永禄の初めつ方、美濃、尾張両国の敵を切り従へ、江州佐々木の一党を追伐し、程なく上洛あつて、この頃都を守護し、驕れる三好家の輩を悉く退治し給ひ、五畿内は申すに及ばず、丹波、播磨の国まで、懇願を入れずといふ人無し。しかれば禁中を重んじ、平家の元を務めて、宰相の中将にて参内ましまし、その後、大将を兼じ、右大臣に経上がりて、栄花の春を迎へ、栄耀の秋を極め給ふなり。
 さりながら、御心に少し御不足の事やおはしましけん、辞状を書いて禁中へ上げ給ふ。その言葉に曰く、
  当官の事、次第の昇進、いよいよ恩沢に浴すべきといへども、征伐の功、いまだ終はらざるの條、まづ一官を辞せんとす。東夷北狄、既に滅びぬ。南蛮西戎、何ぞ属せざらん。万歳安寧、四海平均の時に当たつて、重ねて勅命に登用し、棟梁塩梅の忠を致すべし。しかれば、顕職を以て嫡男信忠の卿に譲り与ふべきの旨、宜しく奏達に預かるべきものなり。
    卯月一日    信長判
  頭の右大弁殿へ
とぞ書き給ふ。「かくて武官にましまして、日本を平らげ給はんとの御心中。」とぞ聞こえける。さて諸国へ軍卒を遣はし給ふ。東国へは徳川三河守家康、瀧川左近将監一益。北国へは柴田修理亮勝家、佐々内蔵佐成政、前田又左衛門利家。丹波の国へは惟任日向守光秀。南方大坂表へは佐久間右衛門尉信盛。西国へは羽柴筑前守秀吉なり。
 さて播州東八郡の守護、別所小三郎長治、秀吉に対し、矛盾の濫觴を尋ぬるに、天正六年三月の初め、秀吉、御下知に任せて、かの地に下向の事は、長治一味、同心の故なり。同じき月の七日に、秀吉、播州国衙の賀須屋が舘に陣を布く。ここに長治が伯父、別所山城守賀相といふ侫人あり。長治に相語つて曰く、「秀吉、この地に入りて、自由の働きあり。禍、終に我が身に及ぶべし。」とて、戈を逆しまにして、味方の勢に陣触し、中途より立ち帰り、三木城郭に楯籠り、一夜の談合様々なり。「中に就いて、この旨、上聞に達するならば、程なく上勢下るべし。さあらん時は、要害の普請、出城の始末、不覚たるべし。」とて、まづたばかり状を書いて上せらるる。「公儀に対し、矛盾にあらず。秀吉、乱入狼藉の余りあり。一旦城郭に楯籠り、御気色を伺ひ奉るべき」由、使者を立て、その間に居城を構へ、出城の普請をぞ極めける。
 今度大敵を防ぐべき城々は、志方には櫛橋左京進。神吉には神吉民部少輔。高砂には梶原平三兵衛。野口には長井四郎左衛門。淡河には淡河弾正忠。端谷には衣笠豊前守。これ皆要害、主人堅固なり。残る小城をば悉く引き払ひ、上月、中村、高橋党、服部、後藤、長谷川、神沢、大村、三枝、上原、魚住、賀古、賀須屋、来住野、垂井、飯尾党、さて又、藤田の六十三騎、この人々を先として、人質誓紙取り交はし、勇みに勇んで三木の城へぞ籠りける。譬へば異国の韓信、樊噲が寄せたりとも、危ふかりとは見えざりけり。
 秀吉、この由聞き給ひ、「あら、思ひ寄らずの事どもや。小三郎長治をば、この行く末の案内者と頼み、一廉の受領をも成し、『心を隔てじ。』と思ひしにより、当国の人質は申すに及ばず、他国の人質まで取り集め、長治に預けけるこそ不覚なれ。咋日の花は今日の塵、昨日の友は今日の怨。飛鳥の川の淵ならで、瀬に変はり行く習ひとは、今こそ思ひ知られたれ。よしよし、当国の面々、悉く敵に成るとも、何程の事のあるべきぞ。有馬中務少輔、小寺、明石は、心変はりにてはなきか。別所孫右衛門重棟は、惣領兄弟の義について、一味するか。」と問ひ給ふ。
 中務少輔、小寺、明石は、元より異儀も候はず。重棟は、秀吉の御前に畏まり、左右眼に涙を浮かべ、只、「面目を失ひ奉る。」とばかりなり。秀吉、御覧じて、「汝が兄、山城守賀相が、ひとへに謀り事とおぼえたり。長治に対し、状を遣はし、事の子細を尋ねよ。」と仰せければ、重棟、承り、則ち状を調へてぞ遣はしける。使、両三度に及ぶといへども、賀相に諫められ、終に返答にあたはず。扱ひ、既に破れたり。秀吉、この由聞こし召し、軍兵を引率し、三木の城へぞ寄せられける。
 かの城郭と申すは、前には河水漲つて、後ろに高山聳へつつ、林に続いて人家あり、岩岨立つて道狭し。殊更功者の拵へて、黒み黒みに人数を伏せ、鉄砲軍を先として、弓弦を鳴らして待ちかけたり。秀吉、御覧じて、谷々を放火させ、先手の者を追ひ払はせ、その日はまづ、元の陣へぞ引き給ふ。翌日には、長井四郎左衛門がふまへたる、野口の城へぞ寄せられたる。「是非この城を攻め取り、軍の先兆とすべき。」との議定なり。城には待ち設けたる事なれば、櫓の上、塀の狭間より射出す、鏃、鉄砲、雨の如く、霰に似たり。一陣、少し引き退く。二陣には、石俵、竹楯、鉄砲楯をかざし連れ、堀際へ寄せ来り、則ち土手を築かせらる。
 かの所と申すは、播州にての広みにて、山遥かに海遠し。中に田地漫々たり。頃は三月中旬に、青み渡れる麦芒の、風に靡きて散乱す。数万人の人足にて、かの麦を薙がせつつ、堀の埋め草にぞしたりける。井楼を高く上げ、三日三夜、入れ替へ入れ替へ攻め給ふ。八方に法螺を吹き、鐘を鳴らして、大鼓を打ち、鬨の声、鉦囃子、只雷電に異ならず。物によくよく譬ふれば、風に吹かるる小舟の、逆浪に浮き沈み、漂泊するが如くにて、城の内なる輩は、あう、前後を忘じて居たりけり。長井、堪へずや思ひけん、降参申し、命を助けられん事を望む。秀吉、弓矢のはかをやらんがために、許して城を受け取り給ふ。
 しかるに別所、中国の守護毛利家と、契約を成す事、年久し。この時、飛脚、早打、暇もなく、合力勢をぞ乞はれける。毛利右馬頭輝元、元より律儀を立つる方なれば、「援兵を遣はす。」とて、小早川左衛門佐隆景、吉川駿河守元春に、二万騎をさし加へ、備州、作州の境に陣を張り、計策を巡らす。この旨、右大将聞こし召し、「後詰のそのために御出勢。」とぞ聞こえける。御嫡男信忠卿を大将とし、都合その勢一万五千余騎、播州灘におり下り、所々に陣をぞ取られける。かの境目より、中国の人数も上らず、官軍も下らず、互に手立てを見合はせらる。
 信忠の御諚には、「某加勢のしるしに、別所が与力の持ちし神吉の城、この要害を攻め破り、競ひを取らん。」と思し召し、即時に人数をうち寄せ、四方八面に楯を突き、「火水に成れ。」とぞ攻め給ふ。城の内には、「押し静め、人を討たん」の謀り事、近々と引き付けたり。美濃、尾張の人々は、元より心剛にして、手負死人を踏み付け、数千人の者ども、堀の埋め草と成るまで、無理に懸かつて攻めたりけり。元より小城の事なれば、大軍を受け保たん事、蟷螂が立車に向かつて、張飛を頼むに似たり。かかりける処に、神吉民部が同名に、藤太夫といふ者あり。「惣領民部が首を切つて、御味方に参るべき」由を申す。信忠、聞こし召し、「急ぎ参れ。」との御諚にて、民部は首をぞ討たれける。
 ここに三木よりの加勢に、梶原の重衛門、入道して冬庵といふ者あり。藤太夫が心変はりの由を聞き、「あら、頼みても頼みがたきは人の心や。甥と言ひ惣領と言ひ、三世の機縁を結び来し、その甲斐もなく、心変はりをしけるぞや。殊更人質を長治に参らせて、まだいわけなきみどり子を、武士の手に懸けて、引き裂かさせん無残さよ。この行く末に長らへて、たとひ身を持つ世なりとも、『義理を違へし人なり。』と、後ろ指をさすならば、生きたる甲斐はあるまじ。」と、一人言にぞ申しける。その後、寄せ手の兵は、城大将が首を見て、「落居したる。」と心得、「内へ入つて見ん。」とて、あう、「我も、我も。」と乱れ入る。冬庵、この由見るよりも、「ここにて切つて出、寄せ手の兵どもを一々に追つ乱し、高名せばや。」と思へども、「とても討死すべき身の、あまたの人を滅ぼし、罪を作りて何かせん。さらば最後を急ぐべし。」と、大手の櫓に取り上がり、腹十文字に切つたるを、褒めぬ人こそなかりけれ。
 信忠の卿は、この競ひを以て、三木の城に押し寄せ、その辺、見及ばせ給ひ、二里三里の間に、相城二つ三つ付けさせ、それより御馬を入れ給ふ。秀吉は、平山といふ峯を拵へ、居城と定め、敵城をこそ目守られけれ。
 その後、三木の城内の各々評議して、「敵の人数は、三千四千に過ぎず。城の内に楯籠る士卒、七、八千。まことに、大軍を以て小敵の擒と成る事、無念極まりなし。是非引き出し、一軍し、勝負を決すべき」由議定して、長屋表に取り出、平畠に人数を立つる。平山よりこれを見て、先勢五百ばかり打ち出し、秀吉も物具し給ひ、平山の腰、平みを陣取り、先勢を谷間に下ろさるる。三木方には、室田、穂積、岡村、加藤をけいしへいと定め、先手の見合はせしたりけり。その日の大将は、山城守賀相、長治が舎弟小八郎治定、この両人とぞ聞こえける。鉄砲軍始まれば、「川を渡りて懸からん。」と、馬一面に揃へつつ、轡を鳴らし、ざざめかいて、向かひの岸に乗り付け、勇みかかれる勢、天魔をも退け、波旬をも欺けり。谷に陣取る先勢、錣を傾け待ち懸けしに、その陣へは懸からずし、本陣の山を目に懸けて、打つて上るこそ優しけれ。
 秀吉、御覧じて、「今日の軍に勝つべき事は、案の内。走り懸かる敵間、十町に過ぎたり。人馬の息合ひ、限りあり。近々と引き付け、残らず討たん。」と下知しけり。羽柴小一郎秀長、この由を承り、「『人に先を越されじ。』と逸るな、面々。」と人々を諫め置き、一番鑓をぞ入れられける。秀長の人数、一度にばつと切り懸かる。秀吉、続いて込み懸かる。三木方の兵に久米の五郎久勝、志水弥四郎直近、一足も去らず、「大将はいづくにぞ。討死せん。」と名乗りつつ、大勢の中へ割つて入る。されども物の数ならず、この両人も討たれけり。残りの兵ども、向かふをば切り伏せ、逃ぐるをば追ひ討つ。山城、名馬に乗つて引く。小八郎治定、取つて引つ返し、馬よりも下りにけり。樋口の太郎、折り合ひて、細首、宙に打ち落とす。その外の兵ども、城の内まで追つ込み、御元の人の首数を、二、三十討つ取つて、あう、勝鬨上げてぞ引かれける。
 その頃、摂津国の守護たりし、荒木摂津守村重、「信長公に対し謀叛して、天下を覆さん。」とや思ひけん、まづ京都より播州への通路を止むる。秀吉、この由聞き給ひ、急ぎ村重が舘に至り、「こはいかに、村重。望みのあらば、秀吉に申されよ。公儀に於いては計らふべし。御身、かく成り上がり、この国の守護と言はるる事、誰が恩とか思ふらん。恩を怨にて報ずるかや。天道のあるならば、後の報ひのいかならん。なう、村重。」と仰せけり。村重、少しも同心の気色、見えざりければ、それより京都に馳せ上り、御人数を引き下し、高槻、茨木の両城、調略を以て御味方と成し、有岡一城に攻め成し、さて播磨への伝ひの城、切所切所に付け並べ、都よりの通路をば、心安うぞし給ひける。
 その後、毛利の輝元、小早川の隆景、三木の城見継ぐべき手立てとして、数百艘に舟装ひして、明石の浦魚住に押し上ぐる。軍使には乃美兵部丞、児玉内蔵太輔。その外、紀州、雑賀の士卒、海際に要害構へ、舟引き付けてぞ居たりける。秀吉、この由聞こし召し、「三木と魚住の通路をとどめん。」と思し召し、君が峰を初め、四方八面を囲まれけるとかや。周りの付け城、三十ばかり、その隙々に番屋を立て、塀、柵、乱杭、逆茂木、表には荊棘を引きつつ、裏には堀を掘らせけり。飛ぶ鳥はそも知らず、地を走る獣も、逃れつべうはなかりけり。
 城の内にはこの由を見て、「敵の人数、たとひ追々加はるとも、五、六千にはよも過ぎじ。その勢を以て、六、七里の間を囲まれけるこそ不思議なれ。西国よりの兵糧、魚住に着いてあり。いかにもして入れん。」とて、精兵百人すぐつて、弓に手矢を取り添へ、忍びにかかつて魚住へ出し、この者どもを案内者と定めつつ、天正七年九月十日、芸州の住人に生石中務少輔、手嶋一介、並びに紀州の住人、土橋平丞、渡辺藤左衛門を先として、七、八千の士卒を引き、「表は要害厳し。」とて、後ろの方へ廻つて、兵糧を運ばする。
 宵よりも出ぬれど、早、明け方に成つて、大村坂へ着きぬれば、合図の狼煙上げさせ、塀柵を切り崩す。三木の面々懸け合はせ、兵糧をば入れずして、谷の大膳亮がへ攻め上がり、数刻防ぎ戦ひたり。大膳は、「外構へを取られじ。」と、乙の丸へぞ下りたりける。先駆けしたる三木の者、あう、早、外構へに押し寄する。大膳、この由見るよりも、大手の門を開かせ、大長刀の鞘外し、勇みに勇んで切つて出、手元に進む兵を、七、八騎薙ぎ伏する。しかれども、大膳が運の尽くる悲しさは、長刀の鍔元、二、三寸置いて、づんど折れて力無し。その後、打物抜き持つて、大勢の中へ割つて入り、数十人に手を負ほせ、刀の刃尽きぬれば、脇指抜いて腹切つて、そこにて討死したりしを、惜しまぬ者はなかりけり。
 三木方の兵ども、その儘に引くならば、何もなからん処に、「かさの丸を取らん。」とて、人数をば引かざりけり。秀吉、早々駆け付けらるべき処に、「敵、一手には働かじ。北方の襲ひにて、南方よりの手立て、変はるべき。」と見合はせらるる処に、かくの如くの注進あり。「すはやつ。」と言ふ儘に、風に従ふ旗先、敵陣へさし向け、馬に鞭を荒く当て、一刻に駆け付け、声をどつと掛けにけり。敵も名ある侍にて、「左右なく太刀場を取られじ。」と、面も振らず懸かりけり。
 秀吉、御覧じて、「三木の城と大村の間を、押し隔てん。」と思し召し、笠坂の上よりも、すぐに人数を下ろさるる。山城は三千余騎にて、大村前に備へけり。その中へ秀吉、三百ばかりにて御馬を入れ給ひ、割つ立て、追ん廻し、散々に切り給ふ。三木方の者どもは、風に木の葉の散る如く、四方へばつと逃げにけり。そこにて取つて引つ返し、鑓前にて討死する者、二、三百。その中に取つても、別所甚太夫、同三太夫、同左近の将監、光枝小太郎、同名道夕、櫛橋弥五三、高橋平左衛門、三宅与平次、小野権左衛門、砥堀孫太夫、以上、軍の大将。この外、雑兵六百余人討たれつつ、首塚にこそ築かれけれ。その外、撫で切り、打ち捨ては、数をも知らぬばかりなり。
 かくていよいよ城の弱るを見て、又、付け城を寄せらるる。南は八幡山、西は平田、北は長屋、東は大塚。城への近さは五、六町、築地の高さは一丈余り。上には二重塀に石を入れ、虎落、掻楯高く結ひ、重ね重ねに柵を築き、川の面に蛇籠を伏せ、簗杭打つて柵掻き、橋の上にも番を据ゑ、渦巻く水の底までも、人の通ひを用心す。内には大名小名の、陣屋を宿屋造りに建てさせ、小路を通し、辻々に門を切り、昼夜によらず往来の、人を選みて通しけり。暗夜になれば、町々の篝火灯明の、光は月の如くにて、数は星に異ならず。秀吉、近習の人々を、六時に分かつて三百人、番屋番屋の名字を書き付け、付け城の主人に、判形据ゑさせ廻されたり。もしも油断の輩は、上下によらず成敗し、重き者をば磔、軽きは誅殺す。人々これを見、舌を震つて恐れけり。
 あら、無残や。城の内には、旧穀悉く尽き、既に餓死する者、数千人。初めは糠、藁を食とし、中頃は牛馬鶏犬を殺し食らふ。後には手負死人の、ししむらを割いて食ふとかや。異国の楽羊ならでは、人を食らふさまの、ありとは更に聞かざりけり。
 天正八年正月六日、宮の上の要害、調略を以て、秀吉自身乗り込み、その日又、諸軍を寄せらるる。堀際、三町に過ぎず。秀吉、宮の上より下げすみ給ひ、同十一日白昼に、南構へに人数を付け、山下を放火し、秀吉、秀長は、彦之進が持ちし鷹の尾、並びに、山城が構へに駆け入り、敵数輩討つ取り、ここを先途と戦ひたり。敵の士卒は、詰の丸にぞ籠りける。これが譬へかや、神無月、神無月、時雨の雲の立田山、梢まばらに散り果てて、下枝に残る紅葉葉の、嵐を待つに異ならず。
 長治、これを見て、舎弟彦之進を近付け、「やあ、何とか思ふ。とてもこの城、久しく保つべきにても無し。『今夜、腹を切らん。』と思へども、敵陣へ案内し、『残る士卒ども、咎なうして与する輩、助けて賜べ。』と、懇望の状を書いて出すべし。いかに。」とありしかば、彦之進承り、「尤も。」と申しつつ、則ち状を調へて、敵陣へこそ出されけれ。
  只今申し入るる意趣は、去々年以来、敵対の事、故なきにあらずといへども、今更素意を述ぶるにあたはず。しかしながら、時節到来、天運、既に極まれり。何ぞ臍を食ふに耐へん。長治、並びに同名山城守、同彦之進、両三人、来る十七日申の刻、腹を切るべきに相定め畢んぬ。残る士卒、雑人以下、咎なうして悉く首を刎ねられん事は、不憫の題目なり。御憐愍を以て、助け置かるるに於いては、今生の悦び、来世の楽しみ、何事かこれに過ぎん。この旨、宜しく御披露に預かるべし。よつて恐々謹言。
    正月十五日    別所小三郎長治
  浅野弥兵衛尉殿へ
とぞ書かれける。
 この旨、則ち披露の処に、秀吉、これを見給ひ、「真に文武二道の侍なり。」と、暫し感じ給ひつつ、「雑兵を助けん。」との返答に添へられ、酒肴用意し、「最後の遊宴あるべし。」とて、城の内へぞ贈られける。
 長治は、秀吉の返答を聞き、「あら、嬉しの事どもや。いざ、さらば酒盛せん。」とて、両日両夜の遊山こそ、いつにすぐれておぼえたれ。「嘆きの中の悦びとは、今この事をや申すらん。小蝶の夢の戯れ、槿花一日の栄え。たとひ千年を経るとても、限りなくては叶はず。なまじひに某ら、弓馬の家に生まれつつ、名をくたさじ。」と思ふこそ、げに哀れなる心なれ。「今夜ばかりを名残。」とて、夫婦の人は閨の戸の、とぼそもささで、「十六夜の、月やあらぬ。」と来し方を、思ひ出つつ諸共に、十四十五の春よりも、はかなき契りを結び初め、連理の枕、水鳥の、鴛の衾の下に只、起き臥し馴れし呉竹の、世は定めなき習ひとは、知らざりけるぞ愚かなる。
 暫しまどろみて、明けければ十七日早朝に、起き出、行水し、香を焚き、髪を上げさせ、日長けければ、彦之進を召し寄せ、「山城に使を立て、『兼日に定むる如く、今日申の刻、生害あるべし。』と申せ。」彦之進承り、この旨、山城に言ひ渡す。山城返答には、「我等両三人、腹を切り、諸卒を助けて何にかせん。城の内を焼き破り、諸共に炎と成つて、骸骨を蔵すべし。」とぞ申しける。城の内の者ども、この由を聞くよりも、「すはや、山城、先約を変ずるぞ。山城一人の覚悟にて、残党を殺さんとや。」諸卒は皆、一統したる事なれば、「山城を討たん。」とてこそ寄せにけれ。山城、櫓に上がつて、「火を掛けて焼き崩さん。」としけるを、家来の者も敵なれば、首を打つてぞ出しける。
 長治はこれを聞き、「元よりも覚悟の前。我等一類の末後、この時に期したり。」と、三歳のみどり子を、膝の上に舁き乗せ、「あら、果報つたなの事どもや。かかれとてしもうばたまの、この黒髪は撫でずして、『一筋を、千筋に成れ。』と願ひ来し、その行く末を引き替へて、あまつさへたらちねの、手にかかる事の無残さよ。」と、心の猛き長治も、暫し涙にむせびけり。「かくては叶はじ。」と思ひ切り、腰の刀を引ん抜いて、心元を一刀。「あつ。」とばかりを最後にて、朝の露と消えにけり。女房がこれを見て、「自害をせん。」としたりしを、長治は見るよりも、取つて引き寄せ刺し殺し、同じ枕に押し臥せ、衣引きかづけ置かれけり。
 友之が女房も、同じ如く生害し、「今は思ひも残らず。」と、兄弟はうち連れて、表をさしてぞ出にける。さて客殿の縁の板に、畳一帖敷かせつつ、左右に居直りて、皆人々を召し出し、「暇乞をすべし。」とて、気色を違ヘずにつこと笑ひ、「この三年が間の籠城を、相届くる志の切なさは、海よりも深く、山よりも猶高し。いづれの日かこの恩を、報ぜんと思ひ来し、その甲斐もなくして、かく成り果つる無念さよ。さりながら、某等両三人が生害し、さて各々を助くるこそ、嬉しかりける次第なれ。さらば方々、最後の名残、これまで。」と、脇指取つて直し、弓手にがばと突き立て、妻手へさつと引き廻す。
 三宅肥前治忠入道、首をちやうど打ち落とし、治忠が申しやうこそ哀れなれ。「このさき、御恩に預かる人は多けれど、この度の御供を、申す人は更に無し。某も、『当家譜代の年寄。』と言ひながら、述懐の子細あり、出頭にも及ばず、ある甲斐もなくして、人がましき事なれども、御介錯のあらざれば、御供申す。さらば。」とて、腹切つて死んだりけり。友之、この由見るよりも、「あつぱれ、清き自害かな。友之も腹切つて、名を後代にとどむべし。皆、見給へ。」と言ふ儘に、腹十文字に切り破り、臓腑をくつて捨てにけり。長治、年は二十三、友之は二十一、惜しむべし、惜しむべし。さて山城が女房も、「自害をせん。」と思ひ切り、男子二人、女子一人、三刀に刺し殺し、剣を含み、死にたるは、哀れなりける次第なり。
 翌日には、城の内の者どもを出し、悉く助けられたり。その中に小姓一人、短冊を持つて来る。読みて見れば辞世なり。まづ長治歌に、かくばかり。
  今は只恨みもあらず諸人の命に替はる我が身と思へば
同友之。
  命をも惜しまざりけり梓弓末の代までの名を思ふとて
三宅治忠入道も。
  君なくは憂き身の命何かせん残りて甲斐のある世なりとも
と、かやうに詠ず。げにも文武の誉れ、名の下、豈空しからんや。
 秀吉は、別所三人の首を京都へ上せ、信長公の御実検に供へ、播州にては、御着、志方、魚住、この城々を同時に攻め伏せ、但馬一国、一遍に属す。備前、美作、この先に一味せり。その外、西国、四国、懇望の使札、日々に到来の旨、上聞に達す。武勇と言ひ調略と言ひ、比類無き由、御感状。まことに弓矢の面目、何事かこれに如かんや。その後、秀吉、三木の城に移り、地を清め、堀を浚へ、今度退散する人民を引き直し、法度を定め、「当国の面々は言ふに及ばず、但州、備州の諸侍、着到の旨に任せ、在城すべき」由、厳重の間、人々、屋敷を構へ、門を並べ、日を経ざるに、数千軒の家を建つる。皆人、耳目を驚かす。
 或る人の曰く、「秀吉に十徳あり。君に忠心あり、臣に賞罰あり、軍に武勇あり、民に慈悲あり、行ふに政道あり、心に正直あり、内に智福あり、外に威光あり、聴くに金言あり、見るに奇特あり。」若輩の時よりも、人間抜群の主人。猶行く末の繁昌、仰がぬ人はなかりけり。

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