江戸期版本を読む

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六代ゆるしを蒙り上洛 附 長谷の観音 並 稽文仏師の事

 東の方より墨染の衣著たる僧の、文袋頚に懸けて、鴾毛なる馬に乗つて馳せ来る。「何者ならん。」と思ひける程に、上人の弟子に覚文と云ふ僧なりけり。「今一足も急げ。」とて、先立ちて馳せけるが、馬より下るゝや遅き、高声に、「誤ちし給ふな、北條殿。」とて、文袋より二位殿の御ゆるし文、取り出でたり。北條、披き見ければ、自筆にてぞ書かれたりけるそのことばに云く、「小松三位中将の息六代、高雄の上人、しきりに申し請ふ間、預け給ふ所なり。」と書かれたり。北條、高らかに読み上げぬ。「あゝ、嬉しきものかな。」とてうち置きければ、「ゆるし給ひけるにこそ。」とて、武士ども、聞きて悦びあへり。斎藤五、斎藤六、これを聞きけん心の中、いかばかりなりけんと、測り難し。
 さる程に、上人もやがて馳せ来りたり。馬より下り、「やゝ、北條殿。若公は申し預かりぬ。今一足もとて、ゆるし文を先立て奉りぬ。定めて見給ひぬらん。鎌倉殿、宣ひつるは、『この童は、平家の嫡々の正統なり。父の三位中将は、初度の討手の大将軍なり。いかにものがれ難し。頼朝も、幼稚をなだめられて、今かかる身となれり。この童をゆるし置きては、定めて後悪しかりなんず。上人が奉公、その恩忘れがたけれども、この事は難治なり。』とて、つやつやゆるぎ給はざりつるを、日頃の忠ども申し続けて、『上人が心を破り給ひては、鎌倉殿も、いかでか冥加おはすべき。これをたびたらば、やがて法師になして仏法修行せんずれば、更に後悪しき事、侍るまじ。もし預け給はずば、文覚、鎌倉にて飲食を断ち、思ひ死にして御子孫の怨霊ともなるべし。』など、一度はおどしつ、一度はすかしつ、種々に申しつる程に、『そもそも維盛卿の息をば、頼朝を相し給ひし様に、見給ふ処ありて、かくは申し請け給ふか。』と問ひ給ひつる間、『これは、その儀に思ひ寄らず。ゆるす方なき程の不覚の人にて、いさゝかも心に篭めたる事は侍らず。わりなき姿{*1}の不便さに、慈悲の心に催されて。』とまで申したれば、ゆるし給ひぬ。」と、ゆゝしく気色してぞ云ひける。
 北條は、「承りし日数も過ぎしかば、御ゆるしなきにこそと思ひ給ひつれば、罷り下りつるに、賢くぞ誤り仕らざりける。今一時も遅かりせば、本意なき事もありなまし。」と申しければ、上人、「実に日数も延びぬれば、心もとなかりつるに、今日まで別の事なきは、御辺の御恩。」とぞ悦びける。
 かくて若公は、上人に相具して、再び都に帰り上り給ひけり。これやこの爼上の魚の江海に移り、刀下の鳥の林薮に交じはるとは、只夢の心地ぞし給ひける。六代御前は、猶も現とはおぼさざりければ、
  消えずとて憑む命にあらねども今朝まで露の身ぞ残りける
と、いと哀れにいとほしく聞こえければ、北條も又、涙をぞ流しける。斎藤五、斎藤六も、更に現とは思はざりけり。北條、鞍置たる馬二匹引き出して、兄弟にたびければ、こたびは請けとりけり。申しけるは、「日ごろ情を懸けられ奉りつる御恩、申し尽くし難し。」とて、涙を流す。若君も、宣ふことばなけれども、思ひ歎きにやつれさせ給へるも{*2}いたはしく思ひ給ひけるに引き替へ、うれしげにおぼして顧み給へば、北條、涙を拭ひて申しけるは、「一日も御送りに参るべけれども、急ぎ申すべき大事ども侍れば、こゝより罷り下るべし。久しく馴れ奉り、御名残こそつくし難く侍れ。」と申せば、若公も、うち涙ぐみ給ひて、「日ごろの名残こそ。」と宣ふも、いとつきづきしく{*3}こそ聞こえけれ。
 上人は、若公具し奉り、急ぎ上りけるが、道にて年も暮れにければ、尾張国熱田社にて年をとり、正月五日、文覚上人の二條猪熊の里の坊に落ち著き給ひて、旅の疲れをいたはりつゝ、夜に入りて大覚寺を尋ね奉りけれども、建て治めて{*4}人もなし。「如何になり給ひけるやらん。悲しさの余りに身など投げ給ひにけるやらん。又、平家のゆかりとて、武士などの取り奉りたるにや。」と、あきれ迷ひてその辺りを尋ねけれども、夜ふけにければ、答ふる者もなし。縁の上に立ちやすらひ給ひたりけるに、若公の飼ひ給ひける犬の、籬の隙より走り出でて、尾うち振りて向ひたりければ、「人々はいづくへぞ。」と問ひ給へども、なじかは答ふべき。「せめての思ひの余りに宣ふにこそは。」と、いと悲し。
 夜もすがら三人一所におはして、旅の歎き思ひ続けて語り給ひける中にも、「命生きて帰り上りたる甲斐には、この人々に見え奉りたらばこそは嬉しからめ。道の程だにも心もとなかりつるに。」とて、泣き居給へるぞ心苦しき。限りあれば、夜も既に明けにけり。そのあたりなりける人、出で来て申しけるは、「若公出で給ひし後は、御歎きの余りに淵河にも身を入れんなど仰せ候ひけるが、もし又、帰り上り給ふ事もぞある。甲斐なき命を生きて、上人の左右をも聞かん程、大仏へ参りて、それより長谷寺に伝ひ、百日篭らせ給ふべしと承りしが、御年をば奈良にてとらせ給ひけり。今は長谷にと聞き侍る。」と申しければ、「それは、さも侍らん。」と、少し心落ち居て、斎藤五、急ぎ長谷寺へ参りけり。若公は又、上人に相具して、高雄へぞ上りにける。
 斎藤五、長谷に尋ね{*5}参りて、「かくなん帰り上り給へり。」と申しければ、母上も乳母の女房も、夢の心地して、つゆ現ともおぼえ給はず。「若公下り給ひにし日より、大覚寺をば迷ひ出でて、この御堂に夜昼うつぶし臥して、『大慈大悲の誓ひは、罪あるをも罪なきをも漏らし給はず、必ず願を満て給ふなれば、などかは今一度相見る程の命生き給はざらん。』と、心を砕き、思ひを運びて祈り申し給へる験にや。」とぞ思ひ給ひける{*6}。「但し、今度は百日参篭とこそ思ひ侍りつれども、左様に帰り上り給ふなる上は、又もこそ。」とて、観音に悦びの礼拝を奉り、師匠{*7}に暇を乞ひ給ひ、急ぎ出で給ひたりければ、若公も、高雄より下り、会ひ{*8}給へり。
 母上も乳母も、うち見給ふより、互に涙に咽びて、とみに宣ひ出づる事なし。嬉しきにも辛きにも、先立つものは涙なり。「かく遁れ難き命の助かりて、再びいとほしき面影を見る事も、ひとへに長谷の観音の御利生なり。」とぞおぼえける。
 (この寺は、これ聖武天皇の御願、法道仙人の建立なり。文武天皇の御宇に、この仙人、観音の霊像を{*9}造らんと云ふ願ありて、料木を尋ねけるに、難波浦に夜な夜な光を放つ物あり。行きて見れば、楠の流木なり。「たゞ事に非ず。」と思ひて、これを取りて、庵を造り加持する事十五年、養老五年に大権の化現、稽主勲稽文会と云ふ仏師に誂へて、二丈六尺の十一面観音を造り奉る。三時の行法功を積み、安置の砌を祈る処に、夢中に金人来りて示していはく、「この峯に磐石あり。その面、金容なり。大悲菩薩の所座なり。我等神王、天竜八部、梵王、帝釈、日月二天、閻魔、水天、四天王等、番々守護の霊石なり。」と。夢覚めて後、雷鳴り、雨ふりて、山崩れ、石砕くる声あり。明旦、その所を見るに、引き平らげたる事、あたかも鏡の面の如し。中に、方八尺の瑪瑙の石あり。石面に大きなる足跡あり。人の踏めるが如し。仙人、寸法を取りて、菩薩の御足にくらぶるに、更に広狭なし。霊像をすゑ奉るに、本跡の如し。公家に奏達せしかば、神亀元年に伽藍を建立して、同じき四年三月二十日、行基菩薩を以て供養を遂げらるゝ寺なり。古老、伝へて{*10}云く、「風輪際より三俣の大石ありて、閻浮提に出世{*11}せり。一つは中天竺摩訶陀国寂滅道場の金剛座、これなり。一つは大日本国大和国長谷寺の菩薩の座、これなり。」といへり。)
 かかる目出たき施無畏の薩埵{*12}にて、信心渇仰の人、利益むなしき事なければ、母上も、この菩薩に帰して六代を儲け、この大悲を憑みて祈誓し給ひければ、夢の中には白馬に乗りて帰ると見、現の前には再び相見る事を得たりけり。
 さても六代は、習はぬ旅の東路に、跡に心の留まりし事、折に触れて北條が情を残しし事ども、つきづきしく語り給ひても泣き給ひければ、見る人も聞く人も、皆袂を絞りけり。旅のしるしとおぼえて、日黒みして、少し面痩せ給ひければ、母上、いたはしく悲しくぞ見給ひける。「かくても暫く副ひ奉らばや。」と思ひ給へども、「世の聞こえも怖ろしく、又、上人の思はん事も憚りあり。」とて、急ぎ高雄へ帰り給ひぬ。
 上人は、なゝめならずかしづき奉りて、斎藤五、斎藤六をも{*13}はぐゝみ、母上の大覚寺の住居の幽かなるをも訪ひ申しけり。若公、姿形、心づかひ、類なくおはしけるにつけても、文覚は、「かかれども、如何なる事かあらんずらん{*14}。」と、そら怖ろしく肝つぶれてぞおぼえける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「物のわきまへもないほどの様子。」とある。
 2:底本は、「思ひ歎くに覚束なくし給へるも」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 3:底本は、「つきつきしく」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇つきつきし 似合はしい。」とある。
 4:底本頭注に、「戸などを閉ぢ塞いで。」とある。
 5:底本は、「尋ねて参りて、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い削除した。
 6:底本は、「思ひける。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 7:底本頭注に、「祈祷などを依頼する僧。」とある。
 8:底本は、「合ひ給へり。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 9:底本は、「霊像造らん」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 10:底本は、「伝へ云く、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 11:底本は、「出生(しゆつしやう)」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 12:底本は、「施無畏(せむゐ)の薩埵(さつた)」。底本頭注に、「観世音菩薩の異称。」とある。
 13:底本は、「斎藤六も孚(はぐゝ)み、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 14:底本は、「何事かあらんずと、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改め、『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。

文覚関東下向の事

 乳母の女房は、せめて心のあられぬ儘迷ひ出でて、その辺を行きける程に、あやしき尼の過ぎたりけるが{*1}、「女房は、何事を思ふ人ぞ。たゞならずこそ見侍れ。」と問へば、乳母、涙を流してしかじかと語る。
 尼、又やゝ墨染の袖を絞りて申しけるは、「我が身も、平家の若公を血の中より手馴れ奉り、いとほし、哀れとはぐゝみ奉りつる程に、この四、五日が前に、北條とかや云ふ武士にとられて、水に入れられたれば、現心もなくて髪を下し、貴き所をも拝み、かの後世をも弔はんとて、あくがれありくなり。世には我のみ物を思ふかと歎きたれば、ためしもありける悲しさよ。」とて、互に語りて泣きけるが、尼、申しけるは、「この奥に高雄と云ふ所あり。かしこにおはする上人{*2}こそ、鎌倉殿にもなゝめならず重く思はれ奉り、世にも赦されたる人にて侍るが、形よき児を求め侍ると承れ。あはれ、我が養ひ君だにもおはせば、歎き申してみんと思へども、今は甲斐なし。もし千万に一つも、さる事もぞある。行きて歎き給へかし。」と、細々に語りつゝ、「尼も、ついでにかの山寺拝まん{*3}。思ひ立ち給へ。」と申せば、いと嬉しき事に思ひて、母上にはかくとも申さず、やがて尼と伴ひて、高雄にのぼり、上人の庵室に尋ね行き、「物申さん。」といへば、上人、障子を引きあけて、「何者ぞ。これへは、女人いれぬ所なり。何事をか云ふべき。」と宣へば、「血の中より生ふし立て奉り、今年十二になり給ひつる若公を、昨日、武士にとられて侍り。鎌倉殿には重き御事と承り侍れば、尋ね上り侍り。命、生け給ひなんや。」とて、上人の前に臥しまろび、手をすり声を挙げて悶え焦がるゝありさま、誠に無慙に見えければ、上人、事の様を委しく尋ね給ふ。乳母、起き上がりて、泣く泣く申しけるは、「小松三位中将殿北の方の、親しくおはします人の子を取りて、やしなひ奉りつるを、中将殿の実の御子とや人の申したりけん、昨日のくれ程に、武士の取りて罷り侍りにき。如何なり給ひぬらん。」と、云ひもあへず涙を流す。「武士は誰とか聞き給ひし。」と問ひければ、「北條四郎とこそは承りしか。」と申しければ、「罷り向つて尋ね侍るべし。」とて、上人、急ぎ出で給ひぬ。
 この事、恃むべきにはあらねども、思量もなかりつるに、上人の憑もしげに申しけるに、少し心地出で来て{*4}、大覚寺へ帰りまうでたれば、母上、宣ひけるは、「身など投げに出でたるやらんと思ひつれば、我も堪へ忍ぶべき心地もせねば、水の底にもと思ひ立たるゝに、猶ほ心のあるやらん、この姫君の事を思ふに、今までやすらはれつる{*5}。」とて泣き給へば、高雄の上人に申しつる事、又、上人の申しつる事とて、語り申しければ、北の方、これを聞き給ひて、手をすりて、「嬉しくも尋ね行きて歎きけり。あはれ、乞ひ請けて、今一度見せよかし。」とて、尽きせぬ涙もせき敢へ給はず。
 文覚、北條四郎の宿所に行き向ひて、かくと云ひければ、急ぎ出でて対面あり。「誠や、平家維盛息男のおはすなるは。」と問ひければ、北條、「今度の上洛、條々の沙汰侍り。『平家は、一門広かりしかば、子孫、定めて多かるらん。尋ね出して失ふべし。腹の内までも見るべし。中にも故中将の息、故中御門大納言の娘の腹に六代と云ふ童は、平氏の正統なり。必ず尋ね出だせ。』と、鎌倉殿の仰せを蒙る。心の及ぶ程尋ね奉りつれども、行くへを知り奉り侍らざりつれば、罷り下りなんと思ひ侍りつるに、昨日、はからざるに迎へ取り奉りたるが、みめ事がら{*6}類なく見え給ふいとほしさに、未だ、ともかくもし奉らず。中々心苦しくこそ侍れ。」と申す。
 文覚、「見奉らばや。」と云ひければ、「この内におはす。」とて、障子を引きあけて入れたりけるに、二重織物の直垂に、黒き念珠の小さきを持ち給ひたりけるが、上人を見て、念珠を懐に引き入れて、顔うち赤めて寄り居給へり。顔つきより始めて、いと美しく見え給へり。この世の人ともおぼえず。天人のかたちだも限りあれば、いかでかこれには過ぐべきとおぼえたり。今宵は打ち解け寝ね給はざりけりとおぼえて、面痩せ給へり。何とか思ひ給ひけん、上人を見給ひて、うち涙ぐみ給へり。「如何ならん末の代に敵となるとも、いかゞはこれを失ふべき。」とおぼえければ、上人も、墨染の袖を絞りけり。北條も、猛き武士といへども、岩木ならねば涙を流す。
 文覚、申しけるは、「この若公を見奉るに、先世に如何なる契りかありけん、余りにいとほしく思ひ奉れば、鎌倉殿へ参りて、申し請くべし。今二十日を待ち給へ。それは、御辺の芳心なるべし。文覚、鎌倉殿に忠を致し、功を入れ奉る事は、且見給ひし事ぞかし。今更申すに及ばねども、下野殿{*7}の頚を盗み取りて、文覚が頚にかけて鎌倉へ参りしより後は、千里の道を遠しとせず。足柄、箱根を股に挟みて、摂津国経島楼御所{*8}に参り、右兵衛督光能を以て院宣令旨を申し賜はり、二十日余りの道を七日八日に上下し、その間に富士河、大井河にて水に溺れ、宇津の山、高師山にて疲れに臨み侍りし事、一度に非ず。命を軽んじ契りを重くして、かやうに奉公し侍りし時は、手を合はせて、『我{*9}、世にあらば、如何なる事なりとも、文覚が所望をば違へじ。』とこそ宣ひしか。今、平家を亡ぼして、天下を手にとり給ふ事、ひとへに文覚が恩徳に非ずや。昔の契り、改め給はずば、いかでかそのことの末をば違へ給ふべき。一期の大事、この所望にあり。もし若公を預け給はずば、やがて文覚、鎌倉にて干死にして、死霊となりなば、鎌倉殿のためも由なかるべし。人倫の法として、重恩忘れ給ふべきならねば、夜を日に継いで、鎌倉へ下つて申し請くべし。」とて出でければ、斎藤五、斎藤六、これを聞きて、上人を仏のごとくに{*10}三度礼拝して、嬉しさの余りにも、只涙をぞ流しける。
 若公は、をさなき心に、「一門の亡びけるは、この上人のしわざにや。怨めしや。」とおぼしけれども、今は、我が身に当たりては、嬉しく憑もしくぞ思しける。今度は斎藤五、急ぎ大覚寺へ参りて、上人の申しつる事どもを語りければ、人々、手を合はせ、悦びあへり。「ゆるされんは知らず。まづ二十日の命は生きぬるにこそ。」と、母上も乳母も、心少し安まりぬ。「これは、ひとへに長谷の観音の御助けとおぼゆれば、始終も憑もし。」とぞ宣ひける。
 文覚、既に関東へ下りけるが、大覚寺にうち寄り、乳母の女房を呼び出して、「先世に、この若公に如何なる契りの有りけるやらん、見奉りしよりいとほしく思ひ奉れば、鎌倉に下り侍るなり。さりとも申し預かりなんと思ひ侍り。ゆり給ひたらば、必ず高雄に置き奉り給へ。」と云ひければ、「御命を助け給ひなんには、ともかくも上人の御計らひにこそ。」とて涙を流す。母上も、見聞き給ひては、鎌倉のゆるされは知らずとも、差し当たりて、かく憑もしく云ひければ、うれしさつらさ{*11}掻き乱して、泣き給へり。
 文覚、既に下りて後は、明けても暮れても、只上人の登りをぞ待ち給ひける。「いかゞ聞きなさん。」と心苦しくおぼしけるに、留まらぬ月日過ぎ行きて、二十日も既に満ちければ、「こはいかにとなりぬるやらん。さしも憑もしくこそ宣ひしに、ゆるされのなければこそ、おとづれも聞かざるらめ。」と、肝を砕ける程に、北條も、「上人は、二十日とこそ申ししに、今に承る事なし。御ゆるされのなきにこそ。誠にいかでかゆり給ふべき。平家の嫡々にておはすれば、たやすく宥め奉り難し。在京も、この左右を待つ程なり。都にて年をくらすべきにあらず。暁、罷り下りなん。」とて出で立ちければ、斎藤五、斎藤六、手を束ね、心を砕けども甲斐なくて、この度は二人ながら大覚寺へ参りて、「上人も、今まで見え侍らず。この御事に又、都にて年を重ぬべきにも非ずとて、北條も、暁下りなんと仕る。鎌倉へ下りつかで、道にて失ひ奉り侍らんずるにこそ。北條より始めて、家子も郎等どもも、見奉りては涙を流す。終に如何になし奉らんずるにか。」とて、兄弟、袖を顔に覆ひて泣き悲しみければ、母上、乳母、宣ひけるは、「上人、憑もしげに申して下りし後は、心の隙もありつるに、暁になりぬれば、もしやと思しつる憑みも弱り果てぬるにこそ。」とて、頭をつどへて、只泣くより外の事なし。
 「さても斎藤五、斎藤六、如何思ふ。」と宣へば、「いづくまでも最後の御伴申して、斬られさせ給ひたらば、御身をも取り納め奉り、出家入道し、山々寺々修行して、花を摘み、香をひねりて、御菩提をこそ弔ひ奉り侍らめ。」と申せば、母上、泣く泣く手を合はせて悦び給へり。「定めなき世と云ひながら、露の命の消えも失せなで、若きを先立て、かれがためと仏に申さん事の悲しさよ。」と、涙に咽び給ふぞ哀れなる。兄弟は、又六波羅へ帰りぬ。
 又、母上、乳母、夜叉御前、語りては泣き、泣きては語り、夜もすがらこそ焦がれけれ。暁方に母上、乳母の女房に宣ひけるは、「只今ちとまどろみたりつる夢に、この子の白き馬に乗りて来りたりつるが、『余りに恋しく思ひ奉りつれば、暫しの暇を乞ひ請けて参りたり。』とて、傍らに居て、さめざめと泣きつるぞや。程なく驚かれて、もしやと傍らを捜れども、人もなし。夢なりとも、暫しもあらで覚めにけるこそ悲しけれ。」と宣へば、乳母もこれを聞きて、共に声をそろへてなきあかしけり。
 十六日に、北條は、六代殿相具して、鎌倉へ下る。斎藤五、斎藤六、血の涙を流し、輿の左右に付きて下りけり。北條、「これに乗れ。」とて、馬をたびたれども、乗らず。あまりの悲しさに、痛き事も忘れけるにや、物をだにもはかず。唯袖を絞りて、足に任せて走りけり。既に都を出でて、会坂をも越えければ、いつしか故郷も山を隔てて見えず。大津浦、粟津原、勢田の唐橋うち渡り、野路、篠原も過ぎぬれば、今日は鏡に著きにけり。いづくも旅寝と云ひながら、母上や乳母に別れつゝ、羊の歩みの道なれば、いかに悲しくおぼしけん。明けければ鏡を立ちて、宿々国々過ぎ行きけり。若公は、涙に咽びて、道すがらも物まかなひたれども、つゆ見も入れ給はず。あやしげなる僧の上るを見ては、「上人やらん。」と肝をけし、文持ちたる者あれば、「上人のおとづれか。」と心を迷はす。又、駒{*12}を早むる者あれば、「急ぎ我を失へとの使やらん。」と疑はれ、武士、さゝめごとする時は、「我を切れとの物語やらん。」と覚束なければ、御涙せき敢へ給はず。この有様を見奉るにも、兄弟の者ども、せん方なし。
 年も既に暮れなんとすれば、馬の足を早めて下りけるが、駿河国千本松原と云ふ所に下り居て、北條、斎藤五、斎藤六を招いて云ひけるは、「今は、鎌倉も近くなり侍りぬ。各、これより帰り上り給へ。」と云ふ。二人の者ども、「さては、こゝにて失ひ奉るべきにこそ。」と、胸塞がり、心迷ひて、云ひ出す事もなくしてうつぶし居たり。やゝありて、「故三位中将殿の仰せを蒙りて、この三年が間、夜昼付き奉り、一日片時離れ奉らず。如何にもなり給はんを見奉らんとて、これまで下れり。さては、今を限りの御命にや。」とて、声も惜しまず叫びけり。
 北條、重ねて申しけるは、「『平家の人々の御子尋ね取り奉りたらば、時日を経べからず。急ぎ失ひ奉れ。』と、度々仰せを蒙りしかども、この若公の御事をば、上人も去り難く申されしかば、今までも待ち侍れども、御ゆるしのなきにこそ。今は力の及ぶ処にあらず。約束の日数も過ぎて、これまで具し奉る事も、上人のおとづれを聞く事もやと思ひ侍りつるなり。又、足柄の山をこそ越え侍るべかりつれども、上人は、定めて箱根越えにこそ上らんと存ずれば、これまでは具足し奉りぬ。鎌倉へは、今一両日の日数を経て、山を越え奉らん事、鎌倉殿の御気色、知り難く侍れば、こゝにて御暇を奉るべきなり。」とて、北條、若公に申しけるは、「日ごろ馴れ奉りて、いかにし奉るべしともおぼえ侍らねども、志の程は見えまゐらせぬ。今は、何事も先世の事と思し召し、世をも人をも恨み給ふべからず。御心静かに御念仏候べし。」と申しければ、若公の御返事とおぼしくて、泣く泣く二度うちうなづき給ひけり。
 斎藤五、斎藤六に宣ひけるは、「今を限りにこそあるめれ。これまで付き下りて、終になき者にみなさん事こそ、各が心の中、推し量られて、いと無慙なれ。母御前へ御文まゐらせたく思へども、筆の立てどもおぼえねば、叶はず。ことばには、『鎌倉までは、別の事なく下り著き侍り。日数経るに随ひて、いとゞ人々の御事、恋しくこそ侍れ。』と申せ。こゝにて失はれたりとは、ゆめゆめ申すべからず。終に隠れあるまじけれども、いかにとしても{*13}知らせ奉らじと思ふなり。余りに歎き給はん事の心苦しきに、我が身こそかくなるとも、己等は急ぎ上りて、よくよく御宮仕へ申すべし。」と宣ひつゞけて、涙を流したまへば、兄弟の者どもは、「君に後れ奉り、安穏に都に上り著くべしともおぼえ侍らず。」とて、臥し倒れて喚き叫ぶ。このありさまを見て、北條、いとゞ涙を流しければ、家子郎等も、皆袖を絞りけり。
 日も既にくれなんとすれば、「さてもあるべき事ならず。」とて、北條、泣く泣く、「疾く疾く。」と勧めけれども、家子郎等も、これをこゝにてきらんと云ふ者なし。いづれも堅く辞退しければ、北條も思ひ煩ひけるに、

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校訂者注
 1:底本は、「会ひたりけるが、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 2:底本頭注に、「高尾山神護寺の僧文覚上人。」とある。
 3:底本は、「彼の山寺拝まんと思ひ立ち給へ。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 4:底本は、「憑もしげに少(すこ)し心地(こゝち)出で来て、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。「〇心地出で来て 心が落ちついて。」
 5:底本頭注に、「躊躇する。」とある。
 6:底本頭注に、「容貌態度。」とある。
 7:底本頭注に、「源義朝。」とある。
 8:底本は、「楼御所(ろうのごしよ)」。底本頭注に、「後白河法皇の幽せられし牢の御所。」とある。
 9:底本は、「我が世にあらば、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
 10:底本は、「仏のごとくに三度礼拝して、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
 11:底本は、「うれしきつらき」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 12:底本は、「小馬(こま)」。底本頭注に従い改めた。
 13:底本は、「いつしかは」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。

六代御前の事

 故三位中将維盛の子に、六代と云ふ人あり。これは、平家、都を落ちし時、北の方、「如何ならん野の末山の奥までも相具し給ふべし。をさなき者どもをば、誰に預け、誰育くめとて、打ち捨て出で給ふぞや。」とて、慕ひ焦がれ給ひしかども、「行く先とても、穏しかるべきかは。」とて、振り捨て給ひし若君なり。平家の嫡々なる上、歳もおとなしかりければ、「如何にもして尋ね出ださん。」としけれども、聞く事もなければ、明日、時政、「鎌倉へ下向せん。」としけるその夕暮に、女一人、北條が宿所六波羅に来て云ひけるは、「遍照寺の奥、小倉山の麓、菖蒲谷の北に大覚寺と申す所侍り。かしこにこそこの二、三箇年、権亮三位中将の北の方とて、若君、姫君、二人相共に忍びて住み給へ。」と云ふ。北條、なゝめならず悦びて、関東下向を止めて、則ちこの女に人を付けて、伺ひ見る。
 大覚寺の北に奥深き僧坊あり。女房、あまた忍びたる体にて住まひたる所あり。垣の隙より見れば、犬ころの縁に走り出でたりけるを、「とらん。」とて、をさなき人のいといつくしきが続いて出でたりけるを、又、女房出でて、「あな、浅まし。人もこそ見侍れ。」とて、急ぎ呼び入れければ、「これならん、六代は。」とて立ち帰り、かくと申しければ、次の日、北條、行き向ひて、四方を打ち囲みて、人を入れて申しけるは、「故三位中将殿の若公、これにおはすと承りて、時政、御迎へに参りたり。」といはせたりければ、母上、聞き給ひて、つゆ現もなくあきれ迷ひて、このをさなき人を抱へて、「我を今の程に失ひて、後、この子をば取るべし。命のあらん程は、放つべしともおぼえず。」と宣ひければ、乳母の女房も、前に倒れ臥して悶え焦がる。女房達も、「如何はせん。」と歎きあへり。
 斎藤五、斎藤六兄弟は、三位中将、都を落ちし時、「如何ならん世の末までも、をさなき者どもが杖柱ともなれ。」とて、留め置きし侍なりければ、付き奉り、同じく忍びて居たりけるが、これも色を失ひて、「もしや出だし奉る。」と、上の山を立ち廻りて見けれども、武士打ち囲みて、漏るべき方もなければ、女房の御前にて、「兵、四方を囲みて、若公出だし奉るべき隙なし。」と涙を流す。日頃は声を呑み、目をひそめて忍び給ひけるに、今は人の聞くをも憚らず、有りとある者は、声をそろへて泣き叫ぶ。
 時政、申しけるは、「世も未だ静まり侍らねば、狼藉なる事もこそ侍れとて、渡し奉るなり。別の御事あるべからず。疾く疾く。」とせめければ、斎藤五、「これ皆、日頃思し召し儲けたる事なり。驚き給ふべきにあらず。今は、いかにも遁れさせ給ふべき方なし。出し奉り給へ。」とこしらへけれども{*1}、母上は、抱へて放ち給はず。若公は、「罷りたりとも、暇乞ひて、とく帰り参るべし。いたくな歎き給ひそ。」と、涙を拭ひつゝ宣へば、これを聞きて、母上も乳母の女房も、「出でなん後は、再び帰り来まじきものを。心細や。」とて、いとゞ声を惜しまず泣きければ、北條も涙も拭ひて、心苦しくや思ひけん、押し入りてもとらで、つくづくと待ち居たりけり。
 日も既に暮れなんとす。さてもあるべきにあらねば、「武士どもの、いつとなく待つらんも心なし。」とて、涙をのごひ、髪掻き撫で、化粧し奉りなどして、出だし奉る。更に現ともおぼえず。
 母上は、引きかづきて臥し給へり。「消え入り給ひたるにや。」と見えけるに、若公、既に出で給へば、「今を限りぞかし。」と思しけん心の中、類ふべき方なし。ちひさき黒木{*2}の念珠を取り出して、「これにて、如何にもならんまでは念仏申して、後世たすかれ。」とてまゐらせたまへば、「母上には、今日既に別れ奉りなんとす。今いづくなりとも、父のおはしまさん所へぞ詣でたき。」とて、涙を流し給ふぞ、いとゞせん方なくはおぼゆる。今年は十二になり給へども、年の程よりはおとなしく、なゝめならずいつくしくして、故三位中将に違はず似給へれば、いとゞ目もくれ、心も消えて、母上、まろび臥してぞ歎き給ひける。いそがれぬ道なれば、若公もためらひて、母上の顔をつくづくとまもり、目に目を見合はせては、互に堪へず、涙を流し給へり。既に輿に乗り給へば、妹の姫君{*3}、「いかにや、誰にも離れてひとりはおはするぞ。わらはも参らん。」とて走り出で給へば、女房、泣く泣く取り留め奉る。
 若公、出で給ひにければ、母上も乳母も臥し沈みて、物もいはれざりけり。歎き悲しむ事、限りなし。誠に、愚かに頑ななる子すら、恩愛の道は悲しきに、さしもこまやかにいつくしく、心様わりなき上、三位中将の形見とて、男女に只二人おはしつれば、徒然の空をもこれに慰み、三位の恋しき時も、見給ひては思ひを休め給ひつるに、今{*4}生きながら別れ給ひける母上の心の中、推し量られて哀れなり。
 斎藤五、斎藤六、「伴に。」とてありけるが、涙にくれて、行くさきも見えねども、泣く泣く輿の左右に付きて走りければ、北條、これを見て、郎等の乗りたる馬を取りて、「これに乗り給へ。」とて、たびけれども、堅く辞して乗らざりけり。若公は、母上、夜叉御前、乳母が事ども思ひつゞけて、道すがら袖絞りあへざりけり。
 「日ごろは平家の子孫取り集めては、をさなきをば土に埋づみ、水に入れ、おとなしき{*5}をば首を切り、刺し殺すと聞こゆ。これをば如何して失はんずらん。この三年の間は、夜昼心を砕き、魂を迷はして、今や今やと思ひ儲けたる事なれども、今出で来たる不思議の様におぼゆるこそ悲しけれ。されば、如何なる罪の報いにて、三位中将には都落ちの時、生きて別れぬ。恋し、悲しと思ひ暮らし、歎き明かして、その事つゆも忘れざるに、今また若公を武士にとられて、殺され別れん事の無慙さよ。終に遁れまじきものと、かねて知りたりせば、西国に下り、三位中将と一所にて如何にもなるべかりけるに、心強く残し置きて、二度物を思ふこそ悲しけれ。日頃の三位の思ひは、物の数にも侍らず。われ、をさなきより深く観音を憑み奉り、若公出で来し後は、殊に六代安穏とこそ祈り申ししに、かかる憂目を見る事の悲しさよ。人の子は、里や乳母のもとに置きて、たまたま見るも、恩愛の道は悲しきぞかし。これは、始めて出で来たりしかば、つかのまも身を放つ事なし。朝夕二人が中に生ふし立て、哀れ、いとほしと、明けても暮れても見るに、飽かぬものをや。今夜もや失ひぬらん。おとなしければ、頚をこそきらんずらめ。如何ばかりかは怖ろしく思ふらん。」と、くどき立つれば、うち臥して泣き給ひぬ。
 起き上がりては、「いかにも遁れ難き事と思ひ取りて、出でぬる面影、如何ならん世にかは忘るべき。遂に世になき者となるとも、今一度いかでか相見るべき。」とて、声も惜しまず泣き給ふ。日の暮るゝ儘には、いとゞ堪へ忍ぶべくもおぼえ給はず。夜は、若公、姫君を左右に臥させてこそ慰みつるに、「いかなる月日なれば、一人はあれども一人はなかるらん。」とて、長き夜、いとゞ明かしかねて、つゆまどろまれねば、夢にだにも、その面影を見給ふ事なし。
 限りあれば、夜も既に明けぬ。「いかゞなりぬらん。」と、しづ心なく思ひ入り給へりけるに、斎藤六、帰り参りたり。心迷はして、「いかに。」と問ひ給へば、「今までは、別の御事侍らず。御文。」とて取り出したり。披き見給へば、「心苦しく思ひ給ひそ。只今までは何事も侍らず。いつしか誰々も恋しくこそ思ひ奉れ。中にも、夜叉御前の御跡慕ひしこそ、忘れ難く侍れ{*6}。」と書き給へり。母上、これを額に押し当てて、うつぶし給ひぬ。
 斎藤六、申しけるは、「如何に覚束なく思し召すらんと思ふこそ心苦しけれども、夜もすがら寝も入り給はず。今朝も、物まゐらせたれども、つゆ御覧じもいれ給はず。御ことばには、『自ら歎くと思し召さば、御心苦しく思し召さんずるに、侘びずしてあると申せ。』とこそ候ひつれ。」と申せば、「左様に夜もすがら寝も入らず、物をだにもくはざる程に思ふなるに、侘びずしてあると云ひおこせける事よ。あはれ、おとなしきもをさなきも、男子は心強きものなりけり。」とて、引きかづき臥し給ふ。枕にあまる涙、せき敢へずこそ見え給へ。「程ふれば、時の間も覚束なく思ひ奉る。」とて、斎藤六、「帰り参らん。」と申せば、涙に溺れて、筆の立ちど、そこはかとなけれども、心ばかりは細々と書き給へり。
 斎藤六、これを賜はりて、急ぎ六波羅へ参りて奉りたりければ、御文披き見給ひて、袖に引き入れて、うつぶし給へば、斎藤五、斎藤六も、せんかたなく悲しみける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「執りなしたけれど」とある。
 2:底本は、「黒木(くろき)」。底本頭注に、「黒檀。」とある。
 3:底本頭注に、「夜叉御前。」とある。
 4:底本は、「命(い)生(い)きながら」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 5:底本は、「をとなしき」。底本頭注に、「年の長じたるもの。」とある。
 6:底本は、「心苦しく思ひ給ふぞ。只今までは何事も侍らず。いつしか誰々も恋(こひ)しくこそ思ひ奉る中にも、夜叉御前の御跡慕(おんあとした)ひ、忘れ難くこそ侍れ。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。

巣巻 第四十七

北條上洛平孫を尋ぬ 附 髑髏尼御前の事

 「平家は、一門広かりしかば、かれ等が子孫、定めて京中に多くあらん。尋ね捜して誅すべし。」と、源二位、北條時政に仰せ含められければ、時政、上洛して、「平家の子孫尋ね得たらん者は、訴訟も勧賞も請ひによるべし。」と披露しければ、案内知りたるも知らざるも、「賞に預からん。」とて、上下男女、伺ひ求めければ、多く尋ね出しけるこそ、人の心、うたてけれ。「実の平氏の子ならぬ者も、多く召し捕られける。」とぞ聞こえし。いたくをさなきをば、水に沈め、土に埋づむ。少し成人したるをば、刺し殺し、突き殺す。母の悲しみ、乳母の歎き、類ふべき方なかりけり。北條も、子孫多くありけるうへ、さすが岩木ならぬ身なれば、かやうに情なく振舞ひけるも、「いみじ。」とは思はず。世に随ふ習ひ、心憂く思ひける。
 東山長楽寺と云ふ所に、阿証坊印西とて、貴き上人おはしけり。慈悲の思ひ深うして、物を憐れみ、柔和の性静かにして、禁戒を犯さず。世こぞつて、「慈悲第一の阿証坊。」と云ふ。この人、西山栂尾の明恵上人に謁して、かへり給ひけるに、一條万里小路を通り給ふ。一條面は平門、小路面は両折戸に土門、薄檜皮の御所の前に、人多く集まりて、ひしめき合へり。立ち寄りて、やゝ見ければ、門々に武士、あまたあり。内より五、六歳ばかりなるをさなき人の、梧竹に鳳凰織りたる小袖に、上に練貫の小袖を打ち著せて、地白の直垂に玉だすき上げて、下腹巻に烏帽子がけして、太刀ばかり帯きたる男の、肩に乗せて、大路に出でて、西を指して走る。見れば、なゝめならずいつくしき小児なり。髪黒々と生ひ延びて、肩の廻り過ぎたり。乳母とおぼしき女房の二十四、五ばかりなるが、かちはだしにて、泣く泣く、「後れじ。」と走り行く。
 上人、これを見るに、「この程聞こゆる、平家の子孫を武士が取りて失はんとするにこそ。誰人の子孫なるらん。」と、人に問ひけれども、分明にも謂はず。「たゞ事に非ず。この人の果て、見ん。」と思ひて、西の方へおはしける程に、又、二十余りの女房のなゝめならずいつくしきが、いつ土踏みたるらんともおぼえず、見るもいたはしかりけるが、唐綾の二つ小袖に練貫の二つ小袖をうち纏ひて、顔も隠さず恥をも忘れて、道をも定かに歩まず、現心もなげにて泣く泣く行くを見るに、「これは、母上ならん。」とぞ{*1}おぼえける。かたがた哀れに思して、駒を早めておはしける程に、蓮台野の方へ向つて走りけり。遥かに奥に行きて、峯の堂と云ふ所あり。このすそに、古き墓ども多くあり。その辺に下しすゑて、肩に乗せたる男は、汗押し拭ひて、傍らに休み居たり。継いで走れる男、風情なく走り寄りて、取つて抑へて膝の下におしかふ{*2}かとすれば、やがて頚をぞ切りてける。首をば、古き石の卒堵婆の地輪にすゑて、上なる練貫の小袖にて、刀押し拭ひて、身をばそばなる堀に投げ入れて、やがて走り帰りにける。
 上人、つくづくとこれを見給ひて、涙を流し、「あゝ、口惜し。かかる事を見つる心憂さよ。何しに中々来りけん。」と、後悔し給へども、力なし。死人の首のもとに{*3}立ち寄りて、泣く泣く阿弥陀経読み、念仏申して、後生を弔ひ給ひける程に、母上も乳母も、涙に汗も争ひて、出で来。母は、切りてすゑたる首を見て、走り寄り、懐かし気に取り付きて、「こは、何と成りぬる有様ぞ。夢かや、夢かや。」と云ひながら、やがて倒れて絶え入りにけり。乳母の女房は、堀なる身をいだき上げて、首もなき死人をとりて、これも同じく消え入りぬ。上人、これを見給ひて、「日頃は、音にこそ聞きつるに、今まのあたり、かかるかはゆき事{*4}を見る事よ。」と、落つる涙に墨染の袖、白妙にこそ{*5}絞りけれ。
 夕日、既に山の端に傾き、いぶせき山の中なれば、「この人々も、失はれなんず。如何すべき。」とて、上人、よりて事の仔細を尋ぬれども、暫しは呆れて物もいはず。様々教化して、「御命は、限りある事に侍り。今日、かかる憂目を御覧ずるも、前世の事にこそ侍らめ。折節、愚僧参り会ひて、後世をも弔ひ奉れば、同じ御事と云ひながら、若公の菩提も助かり給ひぬらん。一度にたへぬは思ひにてこそ侍るなれば、帰り給ひて、後生をこそ弔ひたまはめ。」と宣へば、女房、現心もなくして、「こは如何にと云ふ事ぞ。こゝをばいづこと申す所にて侍るぞ。」と宣ひければ、上人、「こゝは、蓮台野と申して、亡き人を送る鳥辺野{*6}なり。たまたまあるものは死人の骸、草深うして露滋し。いぶせくあやしき所なり。」と答へ給ふ。
 女房、人心地出で来て宣ひけるは、「北條とかや、上りて、平家の子孫失ひ侍りなど聞きしかば、人の上ともおぼえず、憂目をか見んずらんと、日頃は思ひ儲けたりつれども、愚かにも、只今の事とは思ひ侍らずこそありつるに、何者か云ひ伝へけん、俄にたばかりとられて、出で侍りつれば、最後のものなども、すゝむる事なし。懐かしくいとほしく、面影をも見ずかきくらす別れの悲しさに、心一つに迷ひ出でたりつれども、そこはかともおぼえず。元より西も東も知らざる身にて侍る上、かかる歎きさへ打ち副へて、物の心もおぼえず。今朝の華やかにいつくしかりつる有様の、今かく見るべしとは思ひ侍らず。こは何となりぬる事ぞや。」とて、身もなき首を抱きて泣き給へば、乳母の女房は、頚もなき身をいだきて、共に泣きけり。
 上人、宣ひけるは、「こゝにかくては、如何おはしまし侍るべき。帰り給ひてこそ、ともかくも思し召しなり給はめ。女房の御身として、かかる山に渡らせ給はば、盗人など云ふ情なき者も出で来て、御恥に及び、又、人を損ずる獣なども参りなば、中々口惜しかるべし。疾く里に出でおはしませ。」と、様々勧め奉れば、女房、宣ひけるは、「今は、命を惜しむべき身にも侍らばこそ、帰りても嬉しからめ。左様にて消えも失せなば、若君と一つ闇路を伴ひたれば、中々嬉しく侍りなん。出づる日の如く{*7}わりなく思ひつるをさなき者には後れぬ。また命惜しとも思はず。」とて、声も惜しまず泣きくどき給ひければ、上人、「さらでだに、女人は五障三従とて、罪深き御事にて侍り。我が御身こそ悲しき地獄に落ち給ふとも、さしも御いとほしき若君の、刀のさきにかゝりてうせ給ひぬるを、御弔ひもなくて、悪しき道へ堕とし奉らんと思し召し侍るか。長き闇路を祈り助け給はんこそ、遠き御情にて侍るべけれ。一樹の陰、一河の流れと云ふ事もあれば、先立ち給ふ御歎きはさる事なれども、亡き人の御ためには、そも由なし。」など、一度は教訓しつ、一度はおどしつ宣ひけれども、猶ほ悲しみの涙、色深うして、「同じ道に。」と焦がれ給ひけるが、やゝ暫くありて、女房、「さらば、こゝにて様を替へばや。」と宣へば、上人、「それは、さるべき御事にも侍るべし。」とて、蓮台野に池の坊と云ふ所あり。その傍らに、地蔵堂と云ふ御堂に具足し、入れ奉りて、傍らの庵室より剃刀を借り寄せて、持ち給へる水瓶にて髪を洗ひ、たけに余れる簪{*8}をおろし奉る。落つる涙、髪の雫、露を垂れてぞ争ひける。御乳母も、「共にならん。」と云ひけるを、様々制し給ひけるが、自ら髪を切り落としたりければ、力及ばず剃り給ふ。
 その後、長楽寺の坊に誘ひ入れ奉りて、四十八日の念仏を始め、七日七日の仏事営み、御菩提を弔ひ給へば、母上も乳母も、嬉しくこそは{*9}思はれけれ。されども、首をば身にそへて放ち給はず。又、「この若公、慰みに。」とて、常にもてあそび給ひける小車と、二つを並べ置きて、恋しき時は、これを見てぞ慰み給ひける。乳母は、終に思ひ死ににうせにけり。
 念仏結願し給ひければ、尼御前、上人に申されけり。「このをさなき者の父と申すは、本三位中将重衡卿にて侍りき。大仏殿焼き奉りて、罪深き者にありしかば、その報いにこそ、末の露まで{*10}も、かゝる憂目にもあひ侍るらめ。されば、懺悔のために、奈良へ参り侍らばや。」と仰せられければ、上人、「只御心しづかに閉ぢ篭り、御念仏申して、かたがたの御菩提を弔ひ給はば、これに過ぎたる懺悔滅罪の功徳、あるべからず。」とすゝめ、制し給ひけれども、しひて暇を乞ひ、奈良へぞ参り給ひける。暫く都にもおはしたくは思し召しけめども、若公には別れ給ひぬ。その形見にもと思ひ給ひし乳母をさへ先立てて、「つれなき命の、今日までも何にながらへて。」とぞ、常は歎き給ひける。
 奈良に参りて、興福寺、東大寺の焼跡どもを拝み、廻り給ふにも、さこそ罪深く、悲しく思しけめ。御姿をやつし、乞食修行者の様になり果てて、浅まし気にて、行き寄る所を臥しどとし、乞ひ得る物に命を繋ぎて、悲しみありきける程に、既に年の暮にもなりぬ。
 修行者の尼ども多くありけれども、この尼を見て、うとみけり。「さもぞ、怖ろしき尼よ。ひたすら下﨟かとすれば、さにはあらず。なま尋常気{*11}なる者がする事の恐ろしさよ。我が子にてありけるか、養ひ君にてありけるか、五つ六つばかりなるをさなき者の頚を懐に入れ持ちて、常は取り出して、いつくしき小車に並べて見る事のきたなさよ。親子に別るゝ事は、よの常の習ひぞかし。さまで、あれ程にあるべしともおぼえず。」とて、にくむ者も多し。又、「堪へぬ思ひは、さのみこそあれ。かなしき子に後れて、いとほしさの余り、心の置き所のなさにこそするらめ。如来在世の往昔に、提婆提女と云ひけるは、一子のむすめを先立てて、その身を干し堅めて、頚に懸けてありきけり。ためしなきにもあらず。」とて、情をかくる者もありけり。かくは云ひけれども、髑髏の尼と名付けて、修行者の中には交ぜざりけり。されども、これを歎かず。人のことばども、聞きも入れず。元来思ひ切りて出でたれば、栖を定むる事なし。こゝの唐居敷、かしこの築地のはら、木の根、萱の根、いづくにも傾き臥してぞ悲しみける。
 年も既に明けければ、「救世観音の草創なり。仏法最初の霊地なり。」とて、人に相具して、天王寺へぞ参り給ふ。西門にて七日七夜、湯水を飲まず、断食念仏して居たりけるが、七日と云ひけるくれ程に、今宮の前、木津と云ふ所より、海人を語らひて、膚に隠し著たりける綾の小袖の垢付きたりけるを脱ぎてたび、「この難波の沖に、この車の主にてある者の、死したる骨を入れんと思ふなり。」とていざなひければ、あま、哀れに思ひて、船に乗せ奉り、遥かの沖に漕ぎ出す。「こゝの程こそ、骨をも御経をも入るゝ所にて侍らん。」と申しければ、「さらば。」とて、舷に立ち寄り、西に向ひて念仏二、三百返ばかり申して、車と首とを括り合はせて、「入れん。」とする由にもてなし、手に持ち給ひたりけるが、左右の掌を合はせながら、「南無帰命頂礼阿弥陀如来、太子聖霊。先人羽林{*12}、若公御前、必ず一つ蓮に迎へ取り給へ。」と唱へつゝ、海へぞ入りたまひにける。「如何にや、如何にや。」と云ひけれども、深く沈みて見えざりければ、海人、力及ばずして、むなしき船を漕ぎ戻す。
 西門にかへりて、この哀れを語りければ、伴ひたりける者どもも、「いとほしや。実にさる人のありつるぞや。この程は、断食念仏しつるが。早思ひ切りたる人なりけり。」と涙を流し、次の日のまだ朝{*13}、海士ども、船に乗りつれ、遥かの沖に出でて見れば、尼、波にぞ浮かびたる。昨日の事なりければ、事切れ果てぬ。これを取り上げて灰に焼き、「元来、好み給ひぬる所なり。」とて、又海に入れて、西門に集まりて念仏申し、追善しけるぞ情ある。
 さる程に、長楽寺の上人のもとには、正月十五日より毎年に四十八日の間、念仏法問の談議あり。上人の弟子に、天王寺に信阿弥陀仏と云ふ僧、上洛して、この談議に遇ひけるが、法問の隙に、よろづの物語のついでに、かの僧、申し出したりければ、上人、聞き給ひて、「なになに、今一度語り給へ。」とて、委しくいはせて、涙をはらはらと流し、「さる事侍りき。それは、こゝにて髪をおろしたりし人なり。持ちたる首は、子なり。」とて、一條万里小路より蓮台野の有様、出家して後世を弔ひしまでに、泣く泣く語り給ひければ、諸僧、涙に溺れ、聴衆、袖をぞ絞りける。その後、一文一句の談議も、随喜聴聞の功徳をも、この人の孝養にぞ廻向せられける。その上、諸僧を勧進して、一字三礼{*14}の一日経を書き、難波の海へぞ送り給ふ。母上も若君も、たとひ罪業深くとも、印西上人の志、などか生死を出でざらん。
 そもそもこの女房と申すは、故少納言入道信西には孫、桜町中納言成範卿の娘に、新中納言御局とて、内裏に候はれける人なり。本三位中将重衡卿の時々通ひ給ひし女房、最後のなごりを悲しみて、八條堀川へ迎へ給ひし人の事なり。

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校訂者注
 1:底本は、「と覚えける。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 2:底本頭注に、「膝の下に押へつける。」とある。
 3:底本は、「首のもと立ち寄りて、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
 4:底本頭注に、「不憫なこと。」とある。
 5:底本頭注に、「墨染の法衣が涙のために色がさめて白くなると大げさにいふ。」とある。
 6:底本は、「鳥辺野(とりべの)」。底本頭注に、「京都東山清水寺の附近にある墓地であるが、こゝでは其の地名を借りて単に墓地といふ意」とある。
 7:底本頭注に、「東天に登る朝日などのやうに思ひ末頼もしくて非常に可愛がつたこと。」とある。
 8:底本は、「簪(かざし)」。底本頭注に、「髪。」とある。
 9:底本は、「嬉しくこそ思はれけれ。」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
 10:底本頭注に、「死に後れた妻子まで。」とある。
 11:底本は、「なま尋常気(じんじやうげ)」。底本頭注に、「普通でない。」とある。
 12:底本頭注に、「先人とは重衡をいふ 羽林は近衛府の唐名で重衡が近衛中将であつたからいふ。」とある。
 13:底本は、「まだ朝(あした)」。底本頭注に、「早朝。」とある。
 14:底本は、「一字(じ)三礼(らい)」。底本頭注に、「一字書く毎に三度礼拝する」とある。

時政実平上洛 附 吉田経房卿廉直の事

 同じき二十八日、両使、数百騎の兵を率して入洛す。義経、行家は、都を落ちぬ。時政、実平、上洛したれども、合戦なければ、洛中静かなり。時政、源二位の下知によつて、諸国に守護を置き、荘園に地頭をなすべき由、吉田藤中納言経房卿を以て奏し申す。又、二十六箇国を相分かつて、荘領、国領をいはず、段別兵粮米を充つ。義経、行家追討のためとぞ聞こえし。
 無量義経に云く、「王敵を亡ぼす者には、賞するに半国を賜はる。」と見えたれども、我が朝、いまだ先例なし。「頼朝申し状、すこぶる過分なり。」と、君も臣も思し召しければ、御返事御猶予ありければ、時政、奏すらく、「吾が朝日本国に昔よりして、謀叛人多く日記に留まれども、平相国に過ぎたる犯人を見ず。天竺には提婆達多、仏の御身より血をば出だしたりけれども、国を悩ます事はなし。唐の会昌天子、僧尼を亡ぼしけれども、臣公は穏しかりき。平家太政入道は、南都、園城の仏法僧を滅ぼし、仙洞、梁園{*1}をないがしろにし、三公、侍臣を流し失ふ。昔も類聞かず、ゆくすゑも実にあり難し。朝廷、これを歎き、仏家、専ら悲しむ。これを平らぐるは、源氏の高名なり。これを鎮むるは、関東の忠勤なり。国を守り、人を恵まんがために、奏し申さるゝ処なり。などか御ゆるしなからん。」と申し上げたりければ、道理はさもありけれども、当時の威応に恐れて、申し請ふ旨に任せ、諸国の守護人、段別の兵粮米、平家知行の跡に地頭識を許されけり。
 吉田中納言経房卿をば、その頃は勘解由小路中納言と云ひき。廉直の性、世に顕はれ、忠貞の誉れ、隠れなければ、源二位、今度院奏しけるは、「大小事、向後、経房卿を以て奏聞すべき。」の由、申されたり。平家の時も、大事をばこの卿に申し合はされき。故太政入道の、法皇を鳥羽殿に篭め奉りし後、院の伝奏おかれし時は、八條中納言長方とこの大納言と、二人をぞ別当にはなされける。今度、源氏の世になりても、かく憑まれるこそ有り難けれ。三公以下、参議、非参議、前官、当職等、四十三人の中に択ばれけるぞ、ゆゝしき。平家に結ぼゝれたりし人々も、今は源氏に追従して、源二位のもとへ状を遣はし、使を下して、種々にこそ眤びけれども、この卿は、つゆ諂ふ事なし。只有るに任せたる心なり。されば、後白河院、建久二年の冬頃より、御不予{*2}の事ありて、同じき三年正月の末よりは、憑み少なき御事と思し召して、種々の御事ども仰せ置き給ひしに、御後の事奉行すべき由、かの経房卿、承りき。執事{*3}にて花山院左府、近臣にて左大弁宰相{*4}、候はる{*5}。この人々、申し、沙汰せらる。「何の不足あるべきなれども、思し召し入れ、かやうに仰せ含めらるゝ事の忝さよ。」とて、感涙を流し給ひけるとぞ聞こえし。よく実ある人にて、君もかく思し召しけるにこそ。
 この卿は、権右中弁光房朝臣の息男。十も、次第の昇進、滞らず。三事の顕要{*6}を兼帯し、夕郎の貫首{*7}を経、参議、右大弁、中納言、太宰帥をへて、終に正二位大納言に至りけり。人をば越えけれども、人には越えられず。君も重く思し召し、臣も憚り思ひき{*8}。「人の善悪は、錐{*9}を袋に入れたるが如し。」といへり。誠に隠れなかりければ、源二位までも憑まれ給ひけり。

平家の小児を尋ね害す 附 闕官恩賞の人々の事

 同じき十二月十七日、侍従忠房、前左兵衛尉実元が預かりたりけるを、野路の辺にて首を斬る。また、小児五人の内、二人は前内大臣の息、一人は通盛卿の男、二人は維盛卿の子なり。同じくかの所にして誅殺す。いづれもとりどりに、かたち、有様、よしありて見えければ、武士ども、剣刀の宛て所もおぼえざりければ、とみに斬らずして程へけるに、このをさなき人ども、あるいは殺さるべしと知りて、泣き悲しむもあり、又、思ひ分かずして母をよばひ、乳母を慕ひて泣き悶ゆるもあり。かれを見、これを見るに、無慙にもかはゆく{*10}もおぼえければ、兵ども、涙をぞ流しける。
 同じき日、源二位の申し状に任せて、大蔵卿泰経、右馬権頭経仲、越後守隆経、侍従能成、少内記信康、解官せられけり。上卿{*11}、左大臣経宗、職事、頭弁光雅朝臣なりけり。大蔵卿父子三人、解官せられける事は、義経、かの卿を以て、毎事奏聞しける故とぞ聞こえし。能成は、義経が同じ母の弟、信康は、義経が執筆なり。又、左馬権頭業忠、兵庫頭範綱、大夫尉知康、同尉信盛、左衛門尉時定、同尉信定等、その刑を加へんために、関東より召し下すとぞ聞こえし。
 おなじき晦日、解官並びに流人の宣旨を下されけり。参議親宗、右大弁光雅、刑部卿頼経、左馬権頭業忠、大夫史隆職、兵庫頭範綱、左衛門尉知康、同尉{*12}信盛、同尉信貞、同尉時盛、解官せられけり。光雅朝臣、隆職は、官符をなし下しける故とぞ聞こえし。泰経卿は伊豆、頼経朝臣は安房へ配流のよし、宣下せられけり。君をおどし、臣をしこつこと、平将に異ならず。時政、既に天下の権を執りければ、諸公卿士、座右に列し、門下にあつまる。
 去にし二十七日、議奏にあづかるべき人々とて、関東より交名{*13}を注進す。右大臣兼実、内大臣実定、三條大納言実房、中御門大納言宗家、堀川大納言忠親、権中納言実家、源中納言通親、藤中納言経房、藤宰相雅長、左大弁宰相兼光なり。今度、源二位注進の状に入れる人は、その威を振ひ、入らざる人は、その勢ひを失ふ。世の重んじ、人の帰する事、平将に万倍せり。これ、人のなすにあらず、天の与ふる所なり。右大臣に内覧の宣旨を下さるべきの由、同じく申されたりければ、法皇も、頼朝卿申し入るゝの旨に任せ、「今においては、世の事、ひとへに計らひ行なはるべし。」と仰せられければ、右府、しきりに謙譲申されけり。

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校訂者注
 1:底本は、「仙洞梁園(せんとうりやうゑん)」。底本頭注に、「〇仙洞 上皇の御所」「〇梁園 梁の孝王の名高い園で転じて皇室をいふ。」とある。
 2:底本頭注に、「病気。」とある。
 3:底本頭注に、「院の執事。」とある。
 4:底本頭注に、「定長」とある。
 5:底本は、「侍はる。」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
 6:底本頭注に、「五位の蔵人、衛門佐、弁官を兼ねること。」とある。
 7:底本は、「夕郎(せきらう)の貫首(くわんじゆ)」。底本頭注に、「蔵人頭。」とある。
 8:底本は、「臣も憚り思ふべき、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 9:底本は、「針」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 10:底本頭注に、「不憫に」とある。
 11:底本は、「上卿(しやうけい)」。底本頭注に、「其の事の奉行。」とある。
 12:底本は、「同信盛、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 13:底本は、「交名(けうみやう)」。底本頭注に、「姓名を列記したもの。」とある。

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