江戸期版本を読む

当コンテンツは、以下の出版物の草稿です。『翻刻『道歌心の策』』『翻刻・現代語訳『秋の初風』』『翻刻 谷千生著『言葉能組立』』『津の寺子屋「修天爵書堂」と山名信之介』『津の寺子屋「修天爵書堂」の復原』。御希望の方はコメント欄にその旨記して頂くか、サイト管理者(papakoman=^_^=yahoo.co.jp(=^_^=を@マークにかえてご送信ください))へご連絡下さい。なお、当サイトの校訂本文及び注釈等は全て著作物です。翻字自体は著作物には該当しませんが、ご利用される場合には、サイト管理者まご連絡下さい。

義経行家都を出づ 並 義経始終の有様の事

 同じき三日卯の時に、義経、院の御所六條殿に参りて、大庭に跪き、事の由を奏す。赤地錦の直垂に、萌黄の糸縅の鎧を著たり。「よろづを鎮めて、都鄙の逆党を平らげ、一天の安全をなす。義経、勲功ありて邪返なし。こゝに頼朝、軍兵を差し上せて、追討の企てを起こす。速やかに時政、実平を待ち得て、雌雄を決すべしといへども、都の煩ひ、人の歎きたるべし。これによつて、只今洛中を罷り出づる処なり。今一度竜顔を拝し奉るべき由、相存ずといへども、その体、異形なり。その恐れ、なきに非ず。命ながらへん程は、当時と云ひ向後と云ひ、更に勅諚を背き奉るべからず。」と申したりければ、これを聞く人々、あるいは憐れみ、あるいは惜しみけり。即ち罷り出でけれども、少しも人の煩ひをなさず。備前守行家、同じくうち具して都を出づ。かれこれが軍兵、見る人数へければ、三百騎ぞありける。
 およそ義経、京中守護の間、威ありて猛からず、忠ありて私なし。深く叡慮を背かず、あまねく人望に相叶ひければ、貴賎上下、惜しみ合へりけるに、かかる事出で来たれば、男女大小、歎きけり。今度の奏聞、次第の所行、壮士の法を乱さざりければ、生きてはほめられ、死してはしのばれけり。
 八幡の伏し拝みの所にて、義経、馬より下り、兜をぬぎ、弓脇に挟みて跪き、申しけるは、「忝く八幡大菩薩は、源氏の氏神とならせ給ふ。本意を申せば、高祖父頼義、夢の告げを蒙り、あやしき傀儡{*1}の腹に男子をなす。則ち八幡の宮に奉つて、八幡太郎と世に申し伝へたり。一天の固めとして四海を鎮む。しかるを近年、平家の逆乱さかりになりし間、源氏、跡を失ふ事、二十一年なり。今又、平家の宿運尽きて、源家、世を取る中に、木曽冠者義仲、朝威を軽しめ、過分の故に、義経、手を下して義仲を誅す。これ、義経が奉公の始めなり。しかのみならず、四国、九国に赴きて、そこばくの平氏を誅戮し畢んぬ。こゝに、誤りなく、犯すことなしといへども、舎兄頼朝が讒訴について、今、義経、行家、都を罷り出づ。譬へば岸の額に根を離れたる草、江のほとりに繋がざる舟の如し。一門一味にして世をとりし平家も、運尽くる日は一人もなし。賢しといへども、頼朝、心狭くして、一人世を知らんと思ふ事、神慮、実に測り難し。大菩薩は、いかゞ守らせ給ふらん。今は今生の望み、候はず。本地弥陀にておはすなれば、後生をば助け給へ。」とて指を折りて、「南無阿弥陀仏。」と百返ばかり申して、立ち様に口ずさみける。
  思ひよりともをうしなふ源の家にはあるじあるべくもなし
と云ひ、掌を合はせ、伏し拝みて立つ程に、「伊予守義経、備前守行家、源二位に中悪しくて、時政、実平、討手の使として上洛の間、両人、西国へ落ち下る。」と披露ありければ、関東の聞こえを恐れ、源二位に志ある在京の武士、馳せ重なり馳せ重なり、これを射けれども、散々に蹴破つて、西を指して落ち行く。
 摂津国の源氏多田蔵人行綱、大田太郎、豊島冠者等、千余騎の勢を引き具し、当国の中小溝と云ふ所にて陣を取り、矢筈を揃へて射けれども、ことともせず、追ひ散らして通りにけり。「大物が浜より船に乗りて九国に下り、尾形三郎惟義をたのみて支へて見ん。それなほ叶はずば、鬼界、高麗、新羅、百済までも落ち行かん。」と思ひけれども、折節十一月の事なるうへ、平家の怨霊やこはかりけん、度々船を出しけれども、波風荒うして、大物浦、住吉浜などに打ち上げられて、今は船を出だすに及ばず。敵の兵は、追ひ継ぎに馳せ来る。遁るべきやうなかりければ、三百余騎の者どもも、思ひ思ひに落ちにけり。義経、行家、その行く方を知らず。都より相具したりける女房達も、こゝかしこに捨てられて、浜砂に袴を踏みしたみ、松木のもとに袖を片敷きて泣き臥したりけるを、そのあたりの人憐れみて、都の方へ送りけり。白拍子{*2}二人、磯禅師ばかりぞ、義経に付きて見えざりける。何者が読みたりけん、義経が宿所六條堀川の門柱に、かく。
  義経はさてもとみつる世の中にいづくへつれて行家ぞさは
 同じき十二日、太宰権帥経房卿、仰せをうけたわはつて、美作の国司に仰せけるは、「源義経、同行家、反逆を巧み、西海に赴く。去んぬる六日、大物浜において、忽ち逆風に逢ひ漂没の由、風聞ありといへども、命を亡ぼすの條、狐疑なきにあらず。早く勢ひある武勇の輩に仰せて、山林河沢の間を尋ね捜り、不日にその身を召し進ぜしむべし。」とぞ院宣を下されける。昨日は義経が競望によつて、「頼朝卿を追討すべき。」由、宣旨を下され、今日は頼朝の威勢に恐れ、「義経を捕りまゐらすべき。」の由、院宣を下さる。朝に成りて夕に敗る。誰人か綸言を信ぜん。いづれの輩か{*3}勅命に帰せん。さればにや、成頼卿は、文章を好み、その性、廉なり。親範卿は、文書を伝へて公事に熟す。各、世を遁れ、雲侶と臥さんがために、大原の幽洞を出でず{*4}。隆季卿は、素飡の家に生まるといへども、すこぶる属文の臣たりしも、早く以て没す{*5}。長方卿は、大才ならびなく、文章、相兼ねたり。ほとんど上古の名臣に恥ぢず。事を素意に寄せ、鬢髪を剃り落とす。悲しいかな、君子、道消えて、小人あらそひ進む事こそ、いと哀し{*6}。
 かの義経と云ふは、母は九條院の雑司常葉ぞかし。故下野守左馬頭義朝に相具して、三人の男子をなす。義朝、平治の兵乱に、云ふに甲斐なくなりし後、大弐清盛のもとより使を立てて、常葉を尋ねければ、「さ思ひつる事なり。中々に逃げ隠れても悪しかりなん。」とて、十歳に未だ満たざる子ども三人かき持ちて、泣く泣く清盛に逢ひたりけり。容貌、事様より始めて、振舞ひ、心立てに付きて、思ひ増す様なりければ、「情ある女なり。」とて、清盛、通ひける程に、女一人儲けたり。廊の御方とて、花山院内大臣の北の方にておはしける。姉公の体に候はれけるは、これなり。清盛、心に情ありて、かの継子三人を憐れみ、「中々に披露あるまじ。我が子といはん。」とて、「各、法師になれ。」とて教訓しければ、常葉、悦んで、太郎をも法師になして、後には鎌倉の悪禅師といはれき。次郎をも僧に成して、卿公と云ひき。
 三郎は、義経ぞかし。をさなきより鞍馬寺に師仕せさせて、遮那王殿とぞ云ひける。学文など、「せん。」と云ふことなし。たゞ武勇を好みて、弓箭、太刀、刀、飛越え、力わざなどして、谷峯を走り、児ども若輩招き集めて、碁、双六、隙なかりければ、師匠も持ちあつかひて{*7}過ごしける程に、十六になりける時の正月に、師の僧の云ひけるやう、「今は、僧になりて、父の後生をも弔ひ給へかし。男にならんと云ふ志なんどおはするか。さらば、この世の中におはしますべきに非ず。世になからんに取りては、男の義、あるべくもなし{*8}。」なんどねんごろに語りける時、この児、うち笑ひて答ふる様、「僧は、聖教を読み、学し、書籍を伝へ習ひたるぞ、さる様にてよけれ。かやうに文盲の身にては、法師になりたりとも、非人にてこそあらめ。」とて、いと心入れなかりける気色を見て、この僧の申しける様は、「人の果報は、凡夫、知らざる事なり。如何にも思さん儘に、這ふ方へ這ひ給へ{*9}。」とて、笑ひて止みにけり。さて七、八日、この児、もの思ふ様にてありければ、かの師、「怪し。」と思ひて慰めけり。とする程に、をさなくより持ち習ひたりし弓矢をとり、夜の間に、児、失せにけり。東西尋ねけれども、児みえず。母の常葉も同じく尋ねけり。
 その年の二月に、この師の弟子なりける僧の、尾張より上りたりけるが、もろもろの物語申しけるついでにや、「実に不思議の事侍り。こゝにおはせし遮那王殿こそ、男になりて、金商人に具して、奥の方へ下り給ひしか。僻目かとて、よくよく見しかば、いまだ鉄{*10}も落ちずしておはしき。かくみる事は、夜の間なりき。さるにても、忍びやかに物申さんと思ひて、忍びに、『如何にや。』と申して候ひしかば、少し物はゆげに{*11}思して、『その事に侍り。師の御房の、僧になすべきよし、ねんごろに候ひし旨、その謂はれ候ひき。されども、人間に生まるゝ事は有り難しと申すぞかし。如何にして父の恥をすゝがんと、年頃鞍馬寺の毘沙門に祈り申しき。身の果報を天道に任せまゐらせて、東の方へ罷るなり。坂東に名ある者、一人として父祖父の家人ならぬはなしと承れば、さりとも様ありなん{*12}と思ひて、罷るなり。事のついでのあらん時、この由、師の御房に語り給へ。文なんどにては、落ち散る事もあり。必ず人伝ならで。』と語りて、はらはらと涙を流し候ひしぞ。」と語りければ、かの師も袖を絞りつゝ、「さらば、さこそ宣ふべけれ。如何してそれまでもかゝぐり付かれ{*13}けん。」とて、忍びて母のもとに行き、この由を云ひければ、常葉、手をあがきて{*14}、「いやいや、ゆめゆめこの事、又人に語り給ふな。そら怖ろし。」とて止みにけり。
 その頃、伊勢国の住人江三郎義盛とて、心猛き者ありき。あたゝけ山にして、伯母婿に与権守と云ひけるを打ち殺したりし咎に、禁獄せられ、赦免の後、東国に落ち行きて、上野国荒蒔郷に住みける時、旅人一人来つて遊ぶ。義盛、「我も、もとは旅人なりき。慰めん。」と思ひて、何となくもてなして、日頃遊びけるに、いかにもたゞ人とも見えざりければ、寂しめずいたはりけり。又、この旅人も、義盛をよき者と見てけり。互に馴れ遊びて年月をふる程に、義盛が申す様、「我をば義盛と知り給へるにや。殿をば誰とも知り奉らず。今更問ひ奉るべし。よも義盛が敵にてはおはせじ{*15}。」と云ひければ、旅人、答ふる様、「人は、家をば憑まず、心をぞ憑む。見馴れまゐらせて、久しくなりぬ。これは、父母もなし、親類もなし。天より天降りたる者なり。」とて、上下なくて{*16}過ごしける程に、「鎌倉にて、流人源兵衛佐の謀叛を起こしてのゝしる。」由、まめやかに聞こえける時、旅人、義盛に云ふ様、「下人一人、雇はかし給へ{*17}。四、五日が程に帰すべし。年頃の本意に侍り。」とありければ、義盛、是非のことばなし。藤太冠者と云ひける奴を召して、「この殿に、己をば奉るなり。いかにも仰せに随へ。」と云ひてけり。
 さて、かの下人とこの旅人と、ねんごろにさゝやき、物語して、夜もすがら消息を書きて、明くる朝に出し立つ。旅の殿の教への儘に、藤太冠者は鎌倉に行きつきて、兵衛佐のおはしける館をよそに見て、たやすく人の行き至るべき様もなかりければ、身の毛よだつて門にたゝずむ。暫しこそあれ、いつとなく{*18}たゝずむ程に、人々、怪しみて、「あれは、何者ぞ。」と尋ねありける時、懐より文を取り出だしたり。暫しあるほどに、返事を持ちて出でて、「いづら、九郎御曹司の御使。」と呼びけれども、藤太冠者、こゝろ得ずして居たり。文を取り次ぎたる人、出で来て、「あれこそは、そよ。」とて、藤太冠者を呼びて、返事をとらせつ。ことばには、「疾く疾く御渡り候へと申せ。」とぞ云ひける。
 藤太冠者、胸はしりつゝ、急ぎ帰りて、旅の殿に返事渡して、後にこの有様を義盛に語るに、志浅からざりつる上に、いよいよもてなして、「九郎御曹司。」と申してかしづき、主従の礼をなす。さて、取る物も取り敢へざる様に出で立ちて、義経、鎌倉へ上り、義盛、一の郎等たり。理なり。夜に入りて、鎌倉に著く。明くる朝、義盛を以て、かくと申し入れらる。兵衛佐の返答に、「只今、急に侍り。夕方、心しづかに申すべし。」とあり。その程は、義経、義盛、忍びて宿にあり。戌の半ばばかりの時、兵衛佐、使を義経のもとへ立てて、呼び寄せらる。見参して、鳥の鳴く程に{*19}出でられぬ。又、朝にさし出でられたりしより、いつしかまた、上もなき家子なり。
 義経、木曽殿並びに平家追討の討手のため、京上りの時は、伊勢三郎義盛とて先陣を打つ。西国屋島、壇浦までも相離れず。義経、都を落ちける時、義盛、「君の落ち著き給へらば、急ぎ馳せ参るべし。」と様々契り申して、「思ふ様あり。」とて暇を乞ひて、故郷伊勢国に下りぬ。その時の守護人、首藤四郎を伺ひ、討つ。国中の武士、追つかゝりければ、義盛、鈴鹿山に逃げ篭りて戦ひけるが、敵は大勢なり。矢種射尽くして、自害して失せにけり。
 武蔵国の住人河越太郎、並びに一男小太郎、誅せられけり。これは、故秩父権頭が次男の子ぞかし。さる程に、義経、都を落ちて、金峯に登つて、金王法橋が坊に具したりし白拍子二人舞はせて、世を世ともせず、二、三日遊び戯れて、「あゝ、さてのみあるべきにあらず。」とて、「白拍子をこれより京へ返し送れ。」とて、金王法橋に誂へ付けて、年ごろの妻の局、河越太郎が娘ばかりを相具して、下りにけり。義経が舅子舅なるによつて、かく亡びにけり。
 陸奥国権館秀衡入道がもとに尋ねつきたりければ、造作して、すゑかしづきて過ぐるほどに、秀衡、老死しぬ。その男泰衡を憑みてありけるが、鎌倉に心を通はして、義経をうつ。その時、妻女申しけるは、「一人の子なれば、たゞ置くことなし。残り居て憂目をみんも、心うし。われを先立てて、死出の山を共に越えたまへ。」と云ひければ、義経、「南無阿弥陀仏。」と唱へて、女房を左脇に挟むかとすれば、頚を掻き落として、右に持ちたる刀にて、我が腹掻ききりて、うち臥しにけり。
 昔、将門が合戦の時、味方したりし俵藤太秀郷が末葉に、陸奥出羽両国の地頭にて権大夫常清、その一男に権太郎御館清衡、その男に御館元衡、その男に御館秀衡、その男に泰衡、これなり。父の遺言を背き、泰衡、義経を討ちたりけれども、その詮なく、源二位頼朝、奥入りして、泰衡をば誅せられけり。
 源二位、あるいは望み、あるいは憤り申す事ありて、時政、実平をさしまゐらせて、近臣の輩をしこつ{*20}べき由、聞こえければ、人皆、恐怖しけり。

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校訂者注
 1:底本は、「傀儡(くわいらい)」。底本頭注に、「こゝでは遊女などを指す。」とある。
 2:底本は、「白拍子(しらびやうし)」。底本頭注に、「遊女。」とある。
 3:底本は、「何輩」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 4:底本は、「雲侶(うんりよ)と臥(ふ)さんがために大原(おほはら)の幽洞(いうどう)を出でず。」。底本頭注に、「〇雲侶 雲を友とする隠士。」「〇大原の幽洞 京都の北なる大原の幽谷」とある。
 5:底本は、「素飡(そさん)の家に生まるといへども、頗(すこぶ)る属文の臣たりしも、早く以て没(ぼつ)す。」。底本頭注に、「〇素飡の家 其の職に在りながら其の職を勤めずに官禄を食む者をいふので、ここでは名門の家柄。」「〇属文 文章を綴る」とある。
 6:底本は、「最(いと)哀(あは)れ。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 7:底本頭注に、「持て余して。」とある。
 8:底本頭注に、「家の業を継がうとする志があるのか。若しそんな心がけでゐると平家の疑ひをうけて世に生きてはゐられまい。世の中に生きてゐられないものとすれば家の業を継ぐ事もできまい」とある。
 9:底本頭注に、「志す通りに思ふやうになさい。」とある。
 10:底本は、「鉄(かね)」。底本頭注に、「歯を染めるおはぐろ。」とある。
 11:底本頭注に、「恥かしさうに。」とある。
 12:底本は、「様(やう)ありなん」。底本頭注に、「何とかなるべき様があらう。」とあ
る。
 13:底本頭注に、「たどりつかれ。」とある。
 14:底本頭注に、「手を振つて。」とある。
 15:底本は、「よも義盛が敵(かたき)にてはよも坐(おは)せじ。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い削除した。
 16:底本頭注に、「隔てなく。」とある。
 17:底本頭注に、「雇はせ給へといふことで貸してくれよの意」とある。
 18:底本頭注に、「久しく。」とある。
 19:底本頭注に、「暁方。」とある。
 20:底本は、「僭(しこ)つ」。底本頭注に、「讒する。」とある。

土佐房上洛の事

 同じき二十九日に、土佐房、鎌倉を立ちて、十月十一日に京著、佐女牛町に宿を取る。義経が宿所は、中四町を隔てたり。「昌俊上洛。」と聞けども、源二位の状なし。昌俊、見え来らず。伊予守、仔細を存ぜり。
 同じき十月十七日に、伊予守義経、大蔵卿泰経を以て申し入れけるは、「糸綸に命じて{*1}千里の路に赴き、矢石に交はりて万死の命を忘れ、平氏を討ちて父の恥をすゝぐ。ひとへに義経が功なり。我が君、いかでか抽賞せられざらんや。頼朝、又、殊恩を加ふべきの処に、悉く所領を奪ひ取るの上、忽ちに誅殺せしめんと欲するの間、進退、歩を失ひ、前後、度に迷ふ。まげて官符を下し賜はり、暫く身命を全うせんと欲す。もし勅許なくんば、早く自害すべし。」と申しける。ことばの中に奥旨ありければ、法皇、殊に驚き思し召して、人々に仰せ合はせられけり。
 「義経上洛の後、北国の凶徒を誅して洛中安堵し、西海の逆賊を亡ぼして{*2}天下静謐せり。所望に随はば、頼朝が憤り、憚りあり。かの命を背かば、義経、恨みをいだくべし。いかゞあるべき。」と。左大臣経宗、申されけるは、「その難を免かれんために、平将{*3}と云ひ義仲と云ひ、皆、申し請ふに任せて、なし下され畢んぬ。今度に限り惜しまるゝこと、益なからんか。後日に頼朝に謝し仰せられば、何ぞ腹心をのこさんや。」と計らひ申されければ、「従二位源朝臣頼朝卿を追討すべき。」の由、官符を下されける上、「九国、四国の勇士、義経、行家が下知に従ふべし。かねて又、国衙荘園を論ぜず、調庸に備ふべき。」の由、庁{*4}の下し文をなし下されけり。
 同じき日に、伊予守{*5}、土佐房を召す。召しに随ひて、昌俊参る。「いかに、何事に上洛ぞ。など又、音信は無きぞ。」と問ふ。昌俊、畏まつて、「且は知ろし召されたる様に、もと奈良の者にて候が、宿願の事侍れども、近年、源平の合戦にうち紛れて、その願を遂げず。かれを果たさんために、七大寺詣の志候ひて、罷り上りて候。明日罷り立ち候間、取り乱し候へば、奈良より罷り上りて、心静かにと相存じつるに候。」と申す。伊予守、あざわらひて、「和僧が上洛、全く七大寺詣に非ず。義経夜討の料なり。大名などを上せば、九郎、用心して、天下の煩ひにもなりなん。又、逃げ隠るゝ事もあるべし。和僧、奈良法師なり。事を七大寺詣と披露して、義経討てとの謀りごとぞや。和僧、源平、糸を乱せるが如く、士卒、蜂の起こるに似たり。しかれども義経上洛の後、両年の間に凶徒を亡ぼし、海内を鎮む。夜討にせんと思ひ寄る條、おろかなり。即ち、召しいましむべしといへども、和僧が勝つに乗らざる前に、義経、手を出すならば、かねて臆病なりと、後の世までも口ずさみに及ばん事、恥に似たり。且は又、舎兄源二位の使なり。いかでか{*6}芳心なかるべき。召しに随ひ参上、神妙。」と云ふ。
 土佐房、陳じ申して云く、「全くその儀、侍らず。不審を散ぜんため、起請文を書きまゐらせん。」と云ふ。伊予守は、「起請を書きたればとて、実なるべからず。その上の事、和僧が心に任せよ。」といへば、昌俊、その辺より熊野の牛王、尋ね出だして、その裏に上天下界の神祇、勧請し奉り{*7}、起請文書き、灰に焼きて呑む。宿所に帰つて思ひけるは、「起請は書きたれども、今夜計らずんば、悪しかりなん。」と思ひて、夜討の支度しけり。
 伊予守は、その頃、磯禅師が娘静と云ふ白拍子を思ひけり。女に語つて云く、「このくれ程より、いと心騒ぎ、頻りなり。一定、昼の起請法師が夜討に寄せんと思ふなり。」といへば、静、「大路は塵灰立つて、何となく人の足いそがし。打ち解け給ふべからず。」と申す。太政入道の禿童{*8}を二人召し仕ひければ、「土佐房が宿所、見て帰れ。」とて、かれを遣はして、待てども待てども見えず。亥の時の終はり程に、はしたものを召して、日頃のまをとこを尋ぬる由にて{*9}、これを遣はす。
 十七日の夜半の事なれば、月は隈なく照りたり。女、程なく帰りて大息つき、申しけるは、「御使禿童とおぼしきは、二人ながら土佐房が宿所の小門に死に臥したり。暁、大仏詣とて、大庭に大幕引き、その中に鞍置馬四、五十匹ばかり引き立てたり。鎧物具身に取りつけて、手綱をとり、鞍に手うち懸けて、只今乗らんずる様に候。」と云ふぞ遅き、土佐房昌俊、並びに児玉党等六十余騎、十七日の子の刻に、伊予守義経の六條堀川の宿所におし寄せて、鬨の声を発す。館内には、慮らざることなれば、義経を始めとして、わづかに七騎ぞありける。
 伊予守、鬨の声を聞き、「さればこそ、起請法師が所為なり。但し、その僧は、けやけからず{*10}。何事かあるべき。」とて、ちとも騒がず。静、「物をばあなどるまじき事なり。」とて、鎧を取りて打ち懸け、灸治し乱れて、いたはり{*11}の折節なりけれども、鎧小具足取り付けて、縁の際に立ち出でて、「門を開け。」と下知す。舎人、馬を待ち儲けたり。義経、馬に乗つてかけ出づ。「今日このごろ、日本国に誰かは義経を思ひかくべき。いはんや昌俊法師をや。あますな、者ども。」とて、たて横散々にかけければ、木の葉を嵐の吹くやうに、さと左右へぞ散りたりける。伊予守、引き退きて、さし詰めさし詰め射ければ、あだ矢なし。寄せ手も矢前をそろへて射けり。源八兵衛尉広綱は、内兜を鉢付の板に射付けられて、馬より落ちて死にけり。熊井太郎は、膝節いさせて、死生定まらざるなり。義経、敵の中にかけ入りて、「あますな、射取れ。」と下知しける上、郎等ども、こゝかしこより馳せ集まりければ、昌俊が軍敗れて、河原を指して逃げ走る。行家、この事を聞き、馳せ来りければ、夜討の党類、いよいよ四方に敗れ散る。
 昌俊は、河原を上りに落ちけるを、「その僧、あますな、若党。」とて、義経は、暁天に院の御所へ馳せ参ず。鎧{*12}の上に矢多く折れ懸けたり。胡簶に矢わづかに三筋ぞ残りたりける。猛将の條は、人の知る所、世のゆるす所なれども、その気色、実にゆゝしかりければ、人、称美しあへり。昌俊は、大原路にかゝり、竜華越を志し、北山を指して落ちけるが、軍兵、二手三手に差し廻し、先を切つて延びやらず。昌俊、大原より薬王坂を越え、鞍馬山へ逃げ篭る。伊予守、ちご童の時、当寺居住のよしみありて、大衆法師原、山踏みして尋ねける程に、鞍馬の奥僧正谷と云ふ所にて搦め捕り、伊予守に奉る。
 大庭に引きすゑて、「いかに、和僧は、腹黒なしと起請書きながら、かやうの結構をば巧みけるぞ。冥覧、頂に在り。神罰、踵を廻らさず。奇怪奇怪。」と云ひければ、土佐房、「今は助かるべき身に非ず。」と思ひて、悪口に及ぶ。「夜討は二位家の結構、起請は昌俊が私の所作なり。必ずしも冥罰にあらじ。只自然の運の尽くるにこそ。互にその期あるべし{*13}。」と云ふ。伊予守、腹を立てて、「しや頬、打て。」とて、頬を打たせたりければ、昌俊、面を振らず、顔を損ぜず。只、「飽くまで打ち給へ、打ち給へ。昌俊が顔、我が頬にあらず。これは、源二位家の御頬なり。この代りには、又鎌倉殿、伊予守殿の顔を打ち給はんずれば、思ひ合はせ給はんずらん。」と申す。伊予守、からからとうち笑つて、「和僧が志、誠に神妙なり。主を憑むと云ふは、かくこそあるべけれ。めしうどなれども土肥が親しくなりけるは、むべ理なり。」と感じて、「命惜しくば助けん。二位殿へ参れ。」と云ひければ、昌俊、「取り替へもなき命を奉つて、鎌倉を立ちし日より、生きて帰るべしと存ぜず。夜討し損じ、いけどられぬる上は、申し請ふべき命に非ず。芳恩には、急ぎ頭をめせ。」と申す。伊予守以下、侍ども、感じ申しけり。「さらば切れ。」とて、六條河原に引き出して、京の者に中務丞友国と云ふ者、切りてけり。
 伊予守には、二位家よりあまた人を付けたりける内、安達新三郎清経と云ふ雑色あり。「下﨟なれども、よき者なり。旗差にせよ。」とて付けられたりけれども、実には、「九郎冠者、謀叛をもおこし、頼朝を背かば、急ぎ告げよ。」との検見の使{*14}なりければ、土佐房が討たるゝを見て、清経、その暁、鎌倉へ逃げ下りて、二位殿にかくと申しければ、「あゝ、九郎は、頼朝が敵には、よくなりにけり。今は、憚るべからず。」とて、弟に三河守範頼を大将軍にて、六万騎の兵を相副へて、「上洛すべき。」の由、申されければ、範頼、既に出で立ちて、小具足ばかりにて、熊王丸に兜持たせて、二位殿に見参し給ふ。
 「和殿とても、打ち解くべきに非ず。九郎が様に、二の舞もやと存ずれば、上洛の事、暫く相計らふべし。」と宣ふ。三河守、小具足解き置き、「ゆめゆめその義を存ぜず。起請仕るべし。」とて、背き奉るべからざるの由、梵天帝釈下し奉りて、百日に百枚の起請文を書き上げたれども、用ゐずして、範頼、暫く宥められけり。「義経誅戮のために、北條四郎時政、土肥次郎実平、上洛すべき。」のよし、評定あり。

高直斬らる 並 義経庁の下し文を申す 附 義経女になごりを惜しむ事

 同じき十一月一日、肥後国の住人原田大夫高直、切られけり。これは、この三箇年の間{*15}平家に付きて、度々合戦に勲功ありしかども、平家滅亡の後は、安堵し難うして、「命ばかりもや。」と思ひて、頚を延べて降人に下りたりけれども、「源家敵対の罪科、遁れ難し。」とて、かく行なはれけり。
 同じき二日、伊予守義経、法皇の御所六條殿に参ず。何となく、見る人上下、恐れを成して、ひそまる気色なりけるに、思ふよりもしづかにして、忍びやかに大蔵卿泰経朝臣に案内したりければ、出で合ひ対面ありけるに、義経、畏まつて申す様、「源二位頼朝が、度々の奉公をば忘れて、由なくにくみ思ふ事、更にその意を得ず。その誤りなき由、聞きや直すと思ひ候へども、いよいよにこそ承り侍るなり。今は思ひ切りて、京都にて如何にもなるべく候に、君の御ためにも人のためにも煩ひあるべし。西国の方へ罷り下るべき由、思ひ立ち侍り。しかるべくば、豊後国の住人惟妙、惟義等がもとへ、始終見放さず合力すべき由、院の庁の御下し文申し給ひ候ひなんや。宸襟を休め奉り、度々の軍功、いかでか思し召し捨てらるべき。最後の所望、唯この事に侍り。」と、かきくどき申しければ、泰経、奏聞す。
 法皇、聞こし召し、御進退の間、思し召し煩ひて、即ち泰経を以て殿下に申さる。左大臣に仰せられ、又、蔵人左少弁定長を御使にて、右大臣に仰す{*16}。各計らひ申されけるは、「洛中にて合戦に及ばば、朝家の御大事も出来すべし。軍士を外土へ出さるゝ事、穏しき事にこそ。」と奏し申されければ、申し請ふに任せ、庁の御下し文をなされにけり。義経、畏まりてこれを賜はり、出でぬ。
 同じき日の夕、夜に入りて、義経、最後の別れを惜しみつゝ、女のもとへ行きけり。前平大納言時忠卿の娘なり。月頃は、志深く通ひけれども、源二位に中悪しくなる由、披露の後は、この女房にも打ち解けず。「平家を亡ぼし、時忠をいけどりたりしに、文箱を乞はん料に、こゝろならず情を篭めしばかりなり。女なりとも義経をば、よき敵とこそ思ふらめなればとて、かれがれ{*17}になりたりけるが、都を落ちなん後は、再び云ひ通はさん{*18}事もあるまじ。行きて、事の様をも見聞かん。」と思ひて、忍びて、かの宿所の垣根にたゝずみ、聞きければ、かたへの女房に物語すとて、「伊予守は、源二位に中悪しくなりて、都を出づべしと聞こゆ。世をつゝみて、云ふ事も無きやあらん。一夜の契り、おろそかならず。さすが積もりぬる月日なれば、忍び難く侍る。などやおとづれざるらん。うらめしくも人の心、つれなかりけり。」とて、
  つらからば我もろともにさもあらでなど憂き人{*19}の恋しかるらむ
とうち詠じて、さめざめと泣きけり。伊予守、これを聞き、「心替はりはなかりけり。」と哀れに思ひければ、今夜はこゝに留まりて、こしかたゆくすゑの物語、互に袖を絞りける。
 女房、云ひけるは、「母には死して別れぬ。父には生きて別れぬ。便りなき身なり。誰哀れを掛くべしとも思ひ侍らず。しかるべき先の世の契りにこそ近付き侍らめ。如何なる有様におはしますとも、相具し給へ。」と歎き給ひけり。伊予守は、「実にさるべきにこそ侍れども、義経、源二位に中違ひぬる上は、日本国、誰か敵にあらざるべき。今は、身一つの置き所なければ、いづ方へも落ち忍ぶべし。如何ならん末の代までもとこそ思ひ侍りしに、心に任せぬ身の憂さよ。留め置き奉りて後いかならんと、かねて思ふこそ心苦しけれ。」とて、きぬぎぬになる暁の空、出づるも留まるも、さこそなごりは惜しかりけめ。

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校訂者注
 1:底本は、「糸綸(しりん)に命じて」。底本頭注に、「礼記に『王言如(レ)糸、出如(レ)綸』とあるにより綸言を奉じてといふこと。」とある。
 2:底本頭注に、「〇北国の凶徒 木曽義仲のこと。」「〇西海の逆賊 平氏の軍。」とある。
 3:底本頭注に、「平氏の将軍即ち宗盛。」とある。
 4:底本頭注に、「院庁。」とある。
 5:底本頭注に、「源義経。」とある。
 6:底本は、「争で芳心(はうしん)なかる可き。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 7:底本は、「熊野の牛王(ごわう)尋ね出して、其の裏に上天下界(じやうてんげかい)の神祇勧請(じんぎくわんじやう)し奉り、」。底本頭注に、「〇牛王 神社より出す牛王宝命と記したる符の名。」「〇勧請 神名を記す。」とある。
 8:底本は、「太政入道の禿童(かむろわらは)」。底本頭注に、「清盛に召使はれたる禿童。」とある。
 9:底本は、「半物(はんたもの)を召して、日比(ひごろ)の寝夫(まをとこ)を尋ぬる由にて」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇半物 上品にもあらず下品にもあらぬ中品の召仕女。」「〇日比の寝夫 日頃契り置く密夫。」とある。
 10:底本は、「尤(けやけ)からず」。底本頭注に、「際立つたものではない。」とある。
 11:底本は、「労(つか)れの」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 12:底本は、「兜の上に」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
 13:底本は、「互にその期あるべき。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 14:底本は、「検見(けんみ)の使」。底本頭注に、「目付けの役。」とある。
 15:底本は、「三箇年間」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い削除した。
 16:底本頭注に、「〇殿下 関白藤原基通。」「〇左大臣 経宗。」「〇右大臣 兼実。」とある。
 17:底本頭注に、「離れ離れ。」とある。
 18:底本は、「云ひ通はん事」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 19:底本は、「浮き人」。底本頭注に従い改めた。

女院寂光院に入る事

 同じき二十八日、建礼門院、大原の奥に寂光院と云ふ所へ{*1}入らせ給ひけり。「都近くしては、心憂きことのみ聞こし召せば、片山陰の柴の庵なりとも、御心しづかに。」と、日頃思し召しけるに、ある女房のゆかりにて、かくと申しければ、「嬉しき事にこそ。」とて、思ひ立たせ給ひけり。冷泉大納言隆房の北の方は、御妹にておはしければ、御輿などはまゐらせられけり{*2}。大方も、西海より御上りの後は、様々にとぶらひ申されけり。「この人の憐れみにて{*3}、かくあるべしとは、かねても思はざるものを。」とて、有り難さも嬉しさも、人わるきまでに{*4}思し知られけるに付けても、御涙をぞ流させ給ひける。
 いと人も通はぬ谷道を、遥々と分け入らせ給へば、山陰なればにや、日も既に暮れなんとす。道芝深く茂りつゝ、分け入る御袖も露しげくして、思し召し残す事、一つもなし。西山の麓、北谷の奥に寂光院と云ふ堂あり。その傍にあやしげなる庵室あり。「年へにけり。」とおぼえて、いたく荒れたり。かしこへぞ移らせ給ひける。古りにける石の色、落ち来る水の音、緑蘿、窓を閉ぢ、紅葉、道を埋づめり。絵に書くとも、筆も及び難ければ、由ある体にぞ御覧じける。いつしか空かきくもり、うちしぐれつゝ、木の葉乱れ飛びて、鹿の音、軒に聞こゆ。嵐に伝ふ鐘の音、風に消え行く香の煙、板間を漏る月の光、窓に怨む虫の声、いづれも無常の理を示し、ひとへに有為の有様を顕はせり。「かからざらましかば、唯朝露の快楽にほだされ、暮日の終焉を知らざらまし。」と思し召し続けて、仏前に詣で給ひて、「出離生死、頓証菩提。」と、額を突き、拝み奉り給ひけるにも、先帝の御面影、夢にも非ず現にもあらで、御身に添ひければ、御心迷ひて消え入らせ給ひぬ。女房達、抱へ奉り、泣き悲しみ給ひけるに、やゝ程経て後ぞ、御心地も出で来にける。

頼朝義経中違ひの事

 伊予守義経、源二位頼朝を背く由、こゝかしこにさゝやき合へり。兄弟なる上に、父子の契りにて、殊にそのよしみ深し。これによつて、去年正月に木曽義仲を追討せしより、命を重んじ身を捨てて、度々平家を攻め落として、今年、終に亡ぼし果てぬ。一天鎮まつて、四海澄みぬ。「勲功類なく、恩賞深かるべき処に、如何なる仔細にて{*5}かかるらん。」と、上下、怪しみをなす。
 この事は、去年八月に使の宣{*6}を蒙り、同じき九月に五位大夫になりけるを、源二位に申し合はする事なし。「何事も頼朝が計らひにこそよるべきに、仰せなればとて、申し合はせざる條、自由なり。又、壇浦の軍敗れて後、女院の御船に参り会ふ條、狼藉なり。又、平大納言の娘に相親しむ事、謂はれなし。かたがた心得ず。」宣ひて、「打ち解くまじき者なり。」と思はれけるに、梶原平三景時が、渡辺の船ぞろへの時、逆櫓の口論を深く遺恨と思ひければ、折々に讒す。「平家は皆亡びぬ。天下は君の御進退なるべし。但し、九郎大夫判官殿ばかりや、世に立たんとおぼし召し候らん。御心、剛に、謀りごと勝れ給へり。一谷落とさるゝこと、鬼神のしわざとおぼえき。川尻の大風に船出し給ひし事、人の所行とおぼえず。敵には、向ふとは知りて、一足も退かず。誠に大将軍かなと、怖ろしき人にまします。尤も心得あるべし。一定、御敵ともなり給ひぬと存ず。」と申しければ、頼朝も、「後いぶせく思ふなり。」とて、追討の心をさし挟み給へり。
 三浦、佐々木、千葉、畠山等、多く参り集まりける中に、鎌倉殿、仰せけるは、「九郎が心金{*7}は、怖ろしき者なり。西国討手の大将軍に、誰をか立つべきと思ひしかば、両三人を呼び、心根見んとて、『ひさげの絃{*8}を焼きて、手水かけてまゐらせよ。』と云ひしかば、始めは蒲冠者参りて、手を焼き、『あ。』と云ひて退きぬ。二番に小野冠者来りて、これも、『手あつし。』とて、のきぬ。三番に九郎冠者、白直垂に袖の露結び、肩に懸けて、焼きたるひさげの絃を取りて、顔も損ぜず声も出ださず、はじめより終はりまで、手水を懸け通したる者なり。あはれ、これを今度の大将と思ひて、都へ上せ、西国へさし下したれば、木曽と云ひ平家と云ひ、三年三月の戦ひに、九郎冠者、先をのみかけけれども、終にうす手一つも負はず。平家を誅罰して天下を鎮めたるは、神妙なれども、頼朝にかさみて見ゆ{*9}。
 「頼朝が父下野殿は、平家に討たれ給ひぬ。当腹によつて、十三歳の時、六條川原にて切らるべしとありしを、池尼御前の垂れ伏し{*10}申さるゝによつて、死罪を宥められ、始めは伊勢国御座島にうつされ、これは都近しとて、それより東路の末、伊豆国北條蛭小島に移されて、二十一年、さて過ぎぬ。軍功をいたして花洛へ攻め上りたれども、未だ昇殿をだにもゆるされざりき。何ぞ弟の身として、仙洞の御気色よければとて、頼朝に申し合はせず、おして五位尉になること、奇怪なり。又、立藤打ちたる車に乗り、禁中花色{*11}の振舞ひ、以ての外に過分なり。頼朝にかさみて見ゆ。我を我と思はん人々、九郎冠者を打つてたべ。」と宣ひけれども、口を閉ぢ、是非の返事申す人なし。
 鎌倉殿、やゝ相ち給へども、無音の間、腹立して、「いやいや、この中には誰々と云ふとも、梶原ばかりぞ侍るらん。景時、都に上つて、打つてまゐらせよ。」と仰す。梶原、心の中に思ひけん、「人の上に仰せらるゝ事かなと存じたれば、身の上に懸かれり。今度は景時、遁ればや。」と思ひて、御前に参り、袂掻き合はせて、「仰せの旨なれば、東は駒の爪の通ひ、西は艫棹の至らんまでも、攻むべきに侍れども、判官殿の討手に景時上洛、しかるべしともおぼえず。梶原、罷り上らば、今明の上洛、その意を得ず。義経に中悪しき者なり。追討使を所望して上るにこそと、推し量られなば、還つて逆打ちに討たれぬとおぼえ候。人を損ぜずして敵を亡ぼすこそ、よき謀りごとにて候へば、只思ひ掛けなからん人に仰せ付けられ、たばかりてやすやすと討ち給へ。」と申して、辞退申して出でぬ。秩父、河越、三浦、鎌倉、高家も党も、にくまぬ者こそなかりけれ。
 鎌倉殿、やゝ案じて、土佐房昌俊を召して、事の心を仰せ含められ、「九郎を討つてまゐらせよ。大名などを差し上せば、さる者にて、心得ぬとおぼゆ。和僧は、もと奈良法師なれば、七大寺詣と事寄すべし。」と仰す。仰せ承つて、即ち御前を立ちぬ。
 この昌俊と云ふは、もと大和国の住人なるうへ、奈良法師なり。当国に針荘とて、西金堂{*12}の御油の料所あり。不慮の沙汰出で来て、当荘代官小河四郎遠忠と云ふ者が、西金堂衆に敵して、興福寺の上綱{*13}に侍従律師快尊を相語らひて、年貢所当を打ち止むる間、堂衆、又、昌俊を語らひて、大勢を引率し、針荘に押し寄せて、遠忠を夜討にす。快尊、又大衆を語らひて、土佐房を追つ篭めて、春日の神木をかざり、洛中へ振り入れ奉り、「昌俊を禁獄せらるべき。」の由、奏聞す。大衆発向の処に、昌俊、あまたの凶徒等を率して、衆徒の会合を追ひ払ひ、春日の神木を伐り捨て奉る。大衆、憤り深くして、天奏を経るについて、昌俊を召しけれども、敢へて勅に従はず。これによつて、衆徒の訴訟、憤り深しといへども、両方の理非、いまだ聞こし召し開かず。「急ぎ参洛を企て、道理を申されば、聖断あるべき。」のよし、宥め仰せ下されければ、昌俊、即ち上洛す。「召しいましむべき。」の旨、別当兼忠に仰す。兼忠、昌俊を召し捕つて、大番衆{*14}土肥次郎実平に預けられけり。
 月日を送りける程に、心様、甲斐甲斐しき者なりければ、実平に親しくなりぬ。随ひて又、公家にも御無沙汰{*15}なりけれども、南都は敵人強ければ、還住せん事、難治にて、実平に相具して関東に下り、兵衛佐殿に奉公す。「心際、不覚なし。」とて、身を放さず召し仕ひ給ひけり。兵衛佐、治承の謀叛の時、昌俊、二文字に結雁の旗を賜はりたりけるとかや。されば、「もと南都の者なり。七大寺詣。」と号して差し上す。

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校訂者注
 1:底本は、「云ふ所に入らせ」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
 2:底本は、「北の方の御妹にて坐(おは)しければ、御輿(おんこし)などは進ませられけり。」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
 3:底本は、「憐れにて」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 4:底本頭注に、「普通に超えて甚だしい」とある。
 5:底本は、「如何なる仔細にてやかかるらん」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い削除した。
 6:底本は、「使(し)の宣(せん)」。底本頭注に、「検非違使たる宣旨。」とある。
 7:底本は、「心金(こゝろがね)」。底本頭注に、「気性。」とある。
 8:底本は、「提(ひさげ)の絃(つる)」。底本頭注に、「提は酒を盛りて杯に注ぐ器で絃をかけたもの。」とある。
 9:底本頭注に、「頼朝の詞にして 自分に越えて振舞ふやうに見えるといふ意。」とある。
 10:底本頭注に、「宥免を乞ふ。」とある。
 11:底本は、「花色(くわしよく)」。底本頭注に、「はなやかなる。」とある。
 12:底本は、「当国に針荘(はりのしやう)とて、西金堂(さいこんだう)の御油(おんあぶら)の料所(れうしよ)あり。」。底本頭注に、「〇当国 大和国。」「〇西金堂 興福寺にあり。」とある。
 13:底本は、「上綱(じやうかう)」。底本頭注に、「僧官では僧都以上。僧位では法眼以上。」とある。
 14:底本は、「大番衆(おほばんしゆ)」。底本頭注に、「諸国の兵を徴して宮城を警固する。」とある。
 15:底本頭注に、「朝廷にも奏聞しない」とある。

施巻 第四十六

南都御幸大仏開眼 附 時忠流罪忠快ゆるさるゝ事

 文治元年八月二十七日、法皇、南都へ御幸あり。公卿には花山院大納言兼雅、堤中納言朝方、中山中納言頼実、衣笠中納言定能、吉田中納言経房、民部卿成範、藤宰相親信、平宰相親宗、大蔵卿泰経。殿上人には雅方朝臣以下、皆浄衣{*1}を著て供奉せられけり。伊予守義経、同じく浄衣を著て候す。御後ろ、随兵六十騎を相具せり。
 同じき二十八日、大仏開眼あり。亥の刻に、法皇、臨幸ありけり。左大臣経宗、権大納言宗家卿以下、参入せられけり。開眼師は僧正定遍、呪願は僧正信円、導師は大僧都覚憲なり。
 同じき晦日、弁暁権少僧都に仰せられけり。開眼師定遍僧正、賞譲とぞ聞こえし。
 同じき九月二十三日、前平大納言時忠卿は、追立の使{*2}信盛、承りて、能登国鈴御崎へ遣はす。子息讃岐中将時実は、公朝が沙汰として、周防国へ下す。平家僧俗のいけどりども、去にし五月に、配所を国々に定められける内なり。父子、後ろを合はせ、西北、境を隔てつゝ、波路に流れ、雪中に赴きけるこそ哀れなれ。
 時忠卿、建礼門院へ申されけるは、「今は、有り甲斐なき身に侍れども、近く候ひて、御あたりの事をも承りたく侍るに、せめての罪重くして、今日、都を罷り出でて、越路の旅に赴き侍る身の有様、心中、只推し量らせ給ふべし{*3}。又、いかなる御有様にてかおはしまさんずらんと思ひ置き奉るこそ、行く空もおぼえ侍らね。参りて今一度見奉りたく侍れども、心に任せぬ身、力及ばず。」など、細かに申されたり。
 女院、聞こし召して、「この人ばかりこそ、昔のなごりとておはしましつるに、さては遠国へ赴き給はんこそ悲しけれ。逢ひ見ることはなくとも、都の中にありと聞こし召せば、憑もしくこそ思し召しつるに。死しても別れ、生きても別れなん事こそ。」と、いとゞかきくらす御心地なりければ、そゞろに御涙ぞすゝみける。
 かの時忠と申すは、出羽前司知信が孫、兵部権大輔時信が息男なり。故建春門院の御せうと{*4}にておはしまししかば、高倉上皇には御外戚なり。唐の楊貴妃、玄宗皇帝に幸ひせしとき、せうと楊国忠が栄えしがごとし。八條の二位殿{*5}も妹にておはしまししかば、太政入道には兄公なり。建礼門院には伯父なり。世のおぼえ、時のきら、目出たかりき。されば、兼官兼職、心に任せ、富貴栄華、思ひの如し。位正二位、官大納言に至り、子息時実、時家、中少将になりにき。太政入道、万事申し合はせつゝ、天下を我が儘に執り行なひければ、時の人、「平関白。」とぞ申しける。検非違使別当にも三箇度までなりけり。先例なき事なり。今暫しも平家、世にあらば、大臣、疑ひなからまし。
 この人、心猛く、理強におはしければ、庁務の時も{*6}、様々の事張り行なひて、強盗二十八人が右の手を切り給ひけり。昔、悪別当恒成と云ひける人こそ、「強盗の頚をば切りたり。」と云ひ伝へたれ。西国におはす時も、院より召次{*7}を下され、「帝王並びに三種神器、都へ返し入れ奉れ。」と仰せ遣はしたりしに、院使花方が頬に、「浪方。」と云ふ火印を指し、「これは、汝をするには非ず。」と申しけり。法皇を申しけるにや。故女院の御縁なれば、平家の一門、悉く官職を止められしかども、この卿父子をば停止せられず。帰り上り給へば、宥めらるべきなれども、かかる悪事を思し召し忘れさせ給はず。伊予守も親しくなりて、そのよしみ深ければ、「流罪をも申し宥めん。」と思ひけれども、法皇の御気色も悪しく、源二位もゆるしなければ、力及ばず。軍の先をばかけざれども、謀りごとを帷幄の中に廻らし、兵を敵陣の前に勇むる事、ひとへにこの人の結構なれば、理なり。
 年闌け齢傾きて、妻子にも別れ、見送る人もなくて、遠境に遷されけん心の中こそ無慙なれ。遥かに西海の波の底を免かれて、遂に北国の雪中に埋づもれけるこそ、宿習とは云ひながら、哀れにもおぼゆれ。北の方帥佐殿は、何事も思ひ入れたる人にて、心づよくもてなし給へども、さすがなごりの惜しければ{*8}、忍び音にて泣き給へば、その腹に今年十四になる息男あり。尾張侍従時宗と云ふ。なゝめならずいとほしがり給ひけり。これを見置き給ひて、「還るさ知らず、遠国に赴く事よ。」と泣き歎き給へば、侍従も、「同じ道に。」と宣へども、ゆるしなければその甲斐なし。
 既に都を出で給ひ、関山、関寺打ち過ぎて、志賀の故郷唐崎や、浦路に駒をぞ進めける。日吉社を顧みては、「南無帰命頂礼七社権現。願はくは、再び故郷に返し入れ給へ。」と、心ばかりに祈念して、菜岡社を過ぎたまへば、比良の高峯に風さえて、湖水に波繁かりけり。あまの釣舟、波の上に漕ぎつれて、網にかゝれる魚、遁れ難きを見給ふにも、「我が身の上。」と哀れなり。浦人に、「こゝをばいづくと云ふぞ。」と問ひ給ふ。「これこそ名にしおふ、比良のすそ野の堅田浦。」と申しければ、時忠卿、涙ぐみて、
  帰りこむ事も堅田に引く網のめにあまりたる我が涙かな
と。いと哀れにぞ聞こえける。それより湖水漫々と見渡して、浦々宿々打ち過ぎつゝ、敦賀の中山遥々と、木の間を分け、岩根を伝ひて下りけり。いつしかうち時雨れつゝ、嵐烈しくしては膚を徹し、木の葉みだれがはしくしては道を埋づみ、荒乳山、木辺峠を越え行けば、越の初雪踏み分けて、燧山、柚尾坂、越前の国分、金津宿、蓮池、細呂宜山を越え過ぎて、加賀国須川社を拝しつゝ、篠原、安宅うち過ぎて、日数ふれば、能登国鈴御崎に著き給ふ。立ち渡り見たまへば、岩間に生ひたる浜松の、岸打つ波に洗はれて、その根あらはにありけるを見給ひて、憂名を流す旅の空、打ち解け寝入り給はねば、我が身の思ひになぞらへて、
  白波の打ち驚かす岩の上にねいらで松の幾世へぬらむ
いとあはれにぞ聞こえし。
 門脇中納言教盛卿の子息、中納言律師忠快も、配所を飛騨国に定められて、検非違使久世がもとに預け置かれけるに、鎌倉源二位家より、「関東へ下り給ふべし。」とて、袖かざりたる四方輿{*9}に、力者十二人、並びに、「道の用心に。」とて、兵士あまた上されたり。「こは、何事ぞ。流人に定められたる者の、迎への体こそこゝろ得難けれ。」と、上下、思はずに思へり。律師も、いと不思議に思ひて、「余りの事なれば、もし人違ひにや。」と宣へども、二位家の消息に、「急ぎ下向あるべし。見参に入るべき仔細侍り。」と、判形し給へる分明の状なりければ、関東へ下り給ひけり。近江国鏡宿より始めて、宿々のまうけども、丁寧なり。
 既に鎌倉に下著して、かくと申し入れたりければ、二位殿{*10}、急ぎ見参して宣ひけるは、「まづ御下向、悦び存じ侍り。そもそも御本尊{*11}に、地蔵菩薩や安置し給へる。」と問はれけり。律師、「さる事、候。」と答ふ。「その本尊、片手や折れ給へる。」と宣へば、「御手の折れさせ給へるとはおぼえず。久しく納め奉り、遥かに拝み奉らず{*12}。則ちこれに持ちて奉れり。」とて、錦の御舎利袋より、紫檀を以て造りて、金銀を以てかざりたる厨子を取り出して、御戸を開いて拝ませ奉り給へば、仏の荘厳、心もことばも及ばず。瑪瑙の地盤に紺瑠璃を以て伽羅陀山をたゝみ、水晶の花実に琥珀の蓮華を葺けり。その上に、三寸の地蔵菩薩を安置せり。右に黄金の錫杖を突き、左に如意宝珠を持ち給へるが、うでくび折れかゝりてぞおはしける。
 二位殿、これを拝み奉り、はらはらと涙を流し、五体を地に投げ、入礼し給ふ。因幡守弘基{*13}を召して、「厳重殊勝の御仏、拝み給へ。」と仰せられければ、弘基、同じく拝をなす処に、二位殿、物語に宣はく、「去にし頃、この霊夢を蒙る事ありき。錫杖つきたる貴僧のみめかたち美しきが、我が枕上に立ち給ひて、『平家門脇中納言の子息、律師忠快と申すをば、この僧にゆるし給へかし。年ごろ深く我を相憑める僧に侍り。不便におぼゆ。』と仰せられしを、夢の心地に、この御房は地蔵よなど、こゝろ得たりしかば、『承り候ひぬ。」と申すを、聞き給ひ、『返す返す本意なり。』とて、御飾りつくろはせ給ふが、左の御手の折れ給へるを、よにいたはし気にせさせ給ふと見奉りし間に、『あの御手は、いかに。』と問ひ申せば、『西海の船にて、忠快を助け乗せんとせし時に、左の手を誤りて。』と仰すと示現を蒙る。末代なれども、かやうに威験のおはしましける御信心の程こそ、目出たく貴けれ。」と宣へば、弘基も感涙を流して、「有り難き御事にこそ。」と申しけり。
 律師、宣ひけるは、「都を出でて三年、宿り定まらぬ旅なれば、心しづかに相好を拝み奉る隙も候はず。されば、御手の折れ給へるも、いかでか存知候べき。御尋ねにつきて候はずば、何としてか、左様に御渡り候べきと、よに不審に候ひつるに、御夢に思ひ合はする事、候。先帝、太宰府におはしましし時、尾形三郎維義が三万余騎にて攻め来りしに、主上を始め奉り、あわて騒ぎ、船に乗り候ひしに、悪し様に乗りて、已に水に入りぬべく侍りしを、下僧の一人来りて、助け乗せて後に、忠快は船にあり。下僧は陸に立ちて、右手を以て左の腕を抱へたりしを、『あれは、如何に。』と問へば、『悪し様に参りて、手を損じて候へども、事闕け候はじ。』と申せしを、『汝は、誰人の供ぞ。』と尋ねしかども、船は、急ぎ漕ぎ出だす。人は多くへだたりし程に、返事を聞く事もなかりき。今の御夢相を承るに、はや、これぞ地蔵の御助けにて。』と、語りもはてず、衣の袖を絞りけり。二位殿も、いとど帰依の涙を流し給ふ。
 二位家の北の方も、簾中にしてこれを聞き、拝み給ふ。信心、骨髄に徹し、衣小袖を取り出して、殊更供養ありければ、女房達も、取り渡し取り渡し、拝み奉る。小袖、染物、鏡、手箱等、しなじな奉る。二位殿も、砂金百両、巻絹百端、馬三匹を引かれけるなり。十二間の内侍、外侍に候ひける大名も小名も、馬鞍、鷲羽、鷹羽、衣、染物、取り寄せ取り寄せ供養しければ、誠に一会の法事とぞ見えたりける。則ち、仏師を召され、御手をつぎ奉る。鎌倉中の貴賎男女、競ひ来りて礼拝供養する事、市をなせるが如し。
 さて、二位殿、宣ひけるは、「都へ帰り上り給ふべきか。鎌倉におはせられよかし。たとひいづくにおはしまし候とも、頼朝が生きたらん程は、如何にも粗略あるべからず。」と聞こえければ、律師は、「かかる憂き者{*14}になりぬれば、いづくにも侍るべけれども、花洛の東山なる所に、一人の老母候が、自らが外は、憑む方もなく候へば、罷り上りたく存じ候。その上、静かならん処に隠居して、練行の功をも積みたく侍り。この事、本望に候へば。」とて、鎌倉を出で給ひけり。もとの知行の領、一所も違はずありける上に、地蔵菩薩供養の布施物の外、種々の引出物たびけり。
 只流罪を遁るのみにあらず、信力の恩徳によつて、大徳付きてぞ上り給ふ。既に上洛ありけるに、二位殿よりかく書き送り給ひけり。
  みちのくの里は遥かに遠くとも書き尽くしてぞつぼの石ぶみ
 地蔵菩薩の大悲代苦の悲願、憑もしきかな。忠快は、西海の浪の上にしては、沈むべき命をすくはれ、東路の旅の空にしては、遁れ難き身を助けられたり。

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校訂者注
 1:底本は、「浄衣(じやうえ)」。底本頭注に、「白い狩衣。」とある。
 2:底本は、「追立(おつたて)の使」。底本頭注に、「追立の検非違使。」とある。
 3:底本は、「せめて罪重(つみおも)くして、今日都を罷り出でて越路(こしぢ)の旅に赴き侍り、身の有様(ありさま)心の中、只推(お)し量(はか)られ給ふべし。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 4:底本は、「御妋(おんせうと)」。底本頭注に、「兄。」とある。
 5:底本頭注に、「二位尼。」とある。
 6:底本は、「心猛(たけ)く理強(りづよ)に坐(おは)しければ、庁務(ちやうむ)の時も」。底本頭注に、「〇理強 理に敏く事に明らかなる意。」「〇庁務 検非違使庁の職務。」とある。
 7:底本は、「召次(めしつぎ)」。底本頭注に、「院中の雑役」とある。
 8:底本は、「遉(さすが)遺(なごり)の惜しけれども」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
 9:底本は、「袖(そで)かざりたる四方輿(はうごし)に、力者(りきしや)十二人、」。底本頭注に、「〇袖かざりたる四方輿 四方輿は四方に簾を懸け前後左右共に同じ様に作つた輿で其の前後の袖を飾つたのをかくいふ。上皇摂関大臣以下公卿僧綱等これを用ゐる。」とある。
 10:底本は、「申し入りたりければ、二位殿」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇二位殿 源頼朝。」とある。
 11:底本頭注に、「常に身につけて念ずる小仏像。」とある。
 12:底本は、「遥かに拝み奉りて、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 13:底本頭注に、「大江広元。」とある。
 14:底本は、「浮き者」。底本頭注に従い改めた。

源氏等受領 附 義経伊予守に任ずる事

 同じき八月十四日に、除目行なはる。源氏、六人受領す。平氏追討の賞とぞ聞こえし。志田三郎先生義憲、伊豆守に任ず。大内冠者維義、越中守。上総太郎義兼、上総守。加々美次郎遠光、信濃守。遠江守義宗が男、兵衛尉義助、越後守。九郎大夫判官、伊予守に任じけり。鎌倉源二位、挙し申すによつてなり。大夫判官は、伊予守を賜はる上、「院の御厩の別当になりて、京の守護に候へ。」とて、侍十人付けられたり。判官、思ひけるは、「義経、度々の合戦に命を捨てて、既に世の乱れを鎮め、父の敵を亡ぼす。私の宿意と云ひながら、国家の固めなり。これ、莫大の軍功に非ずや。しかるに、関より東は云ふに及ばず、京より西をばたばんずらん{*1}と思ひつるに、僅かに伊予一国、没官の地二十箇所知行せよとの源二位の所存、本意なし。」と思ひけれども、「但し、重ねて思ひ計らふ様ありなん。」と過ごしける程に、僅かに付きたりける十人の侍も、かねて心を合はせたりければ、「親の所労。」「子の病悩。」など云ひて、皆東国へ逃げ下りにけり。判官、いとゞこゝろ得ず思ひける程に、「源二位、判官を討たんとて、関東に様々の計らひあり。」とは、京都に披露ありぬ。「又{*2}、何事のあらんずるやらん。」と、貴賎、こゝかしこにさゞめき合へり。
 建礼門院は、西国より上り、「吉田にも仮にたち入らせ給はん{*3}。」と思し召しけれども、五月も立ち、六月も半ば過ぎぬ。「今日までも、ながらへさせ給ふべし。」と思し召さざりけれども、御命は限りあれば、明けぬ暮れぬしけるに、大臣殿父子の首、大路を渡され獄門に懸けられ、本三位中将は、奈良坂にて切られて、卒堵婆に付けてさらさる。かの人々の、今は限りになり給へる有様、人参りて、こまごまと申しければ、女院は、御胸せきて、御涙せきあへさせ給はず。暫しつやつや物をだにも仰せられざりけり。
 やゝありて、「この人々、帰り上ると聞こし召ししかば、甲斐なき命ばかりは助かりぬるにや、と思し召しけるこそ、愚かに思ひ侍れ。露の命消えやらで、かかる憂き事を聞くこそ、せめての罪の報いなれ。都近かりけるばかり、心憂かりける事は{*4}あらじ。折に触れ時に随ひて、耳を驚かし心を迷はすも、さすが生ける身は、口惜しきことも多かりけり。露の命、風を待つらん程も、深き山の奥の奥に思ひ入らばや。」と思し召しけれども、さるべき便りなくて過ごさせ給ひけるに、さらぬだに住み荒れたる朽ち坊の、度々の地震に築地も崩れ、門も倒れぬ。いとゞ住ませ給ふべき御有様にも見えさせ給はず。
 憑もしき人、一人も侍らず。「地、打ち返すべし。」など聞こし召せば、「惜しむべき御命にはなけれども、只尋常の御事にて消え入らばや。」とぞ思し召されける。緑衣の監使、宮門を守るもなく、伴の御奴、朝ぎよめするもなし{*5}。心の儘に荒れたる籬は、しげき野辺よりもなほ露繁く、折知りがほに、いつしか虫の声々怨むも、「我が身の上。」とぞ思し召す。秋も既に半ばになんなんとす。夜もやうやう長くなる儘に、いとゞ御寝覚めがちなれば、明かしかねさせ給ひけるぞ哀れなる。
 八月十七日、改元ありて、文治と云ふ。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「賜はんずらん。」とある。
 2:底本は、「披露ありぬ。何事の」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 3:底本は、「立ち入らせ給ふ」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 4:底本は、「事あらじ。」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
 5:底本は、「緑衣(りよくい)の監使(かんし)宮門(きうもん)を守るもなく、伴の御奴(みやつこ)朝浄(あさぎよめ)するもなし。」。底本頭注に、「〇緑衣の監使 緑衣は六位の位袍である。監使は宮門を固める衛府の官人。」「〇伴の御奴 苑庭を掃除する雑役。」「〇朝浄 毎朝の掃除」とある。

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