義経行家都を出づ 並 義経始終の有様の事
同じき三日卯の時に、義経、院の御所六條殿に参りて、大庭に跪き、事の由を奏す。赤地錦の直垂に、萌黄の糸縅の鎧を著たり。「よろづを鎮めて、都鄙の逆党を平らげ、一天の安全をなす。義経、勲功ありて邪返なし。こゝに頼朝、軍兵を差し上せて、追討の企てを起こす。速やかに時政、実平を待ち得て、雌雄を決すべしといへども、都の煩ひ、人の歎きたるべし。これによつて、只今洛中を罷り出づる処なり。今一度竜顔を拝し奉るべき由、相存ずといへども、その体、異形なり。その恐れ、なきに非ず。命ながらへん程は、当時と云ひ向後と云ひ、更に勅諚を背き奉るべからず。」と申したりければ、これを聞く人々、あるいは憐れみ、あるいは惜しみけり。即ち罷り出でけれども、少しも人の煩ひをなさず。備前守行家、同じくうち具して都を出づ。かれこれが軍兵、見る人数へければ、三百騎ぞありける。
およそ義経、京中守護の間、威ありて猛からず、忠ありて私なし。深く叡慮を背かず、あまねく人望に相叶ひければ、貴賎上下、惜しみ合へりけるに、かかる事出で来たれば、男女大小、歎きけり。今度の奏聞、次第の所行、壮士の法を乱さざりければ、生きてはほめられ、死してはしのばれけり。
八幡の伏し拝みの所にて、義経、馬より下り、兜をぬぎ、弓脇に挟みて跪き、申しけるは、「忝く八幡大菩薩は、源氏の氏神とならせ給ふ。本意を申せば、高祖父頼義、夢の告げを蒙り、あやしき傀儡{*1}の腹に男子をなす。則ち八幡の宮に奉つて、八幡太郎と世に申し伝へたり。一天の固めとして四海を鎮む。しかるを近年、平家の逆乱さかりになりし間、源氏、跡を失ふ事、二十一年なり。今又、平家の宿運尽きて、源家、世を取る中に、木曽冠者義仲、朝威を軽しめ、過分の故に、義経、手を下して義仲を誅す。これ、義経が奉公の始めなり。しかのみならず、四国、九国に赴きて、そこばくの平氏を誅戮し畢んぬ。こゝに、誤りなく、犯すことなしといへども、舎兄頼朝が讒訴について、今、義経、行家、都を罷り出づ。譬へば岸の額に根を離れたる草、江のほとりに繋がざる舟の如し。一門一味にして世をとりし平家も、運尽くる日は一人もなし。賢しといへども、頼朝、心狭くして、一人世を知らんと思ふ事、神慮、実に測り難し。大菩薩は、いかゞ守らせ給ふらん。今は今生の望み、候はず。本地弥陀にておはすなれば、後生をば助け給へ。」とて指を折りて、「南無阿弥陀仏。」と百返ばかり申して、立ち様に口ずさみける。
思ひよりともをうしなふ源の家にはあるじあるべくもなし
と云ひ、掌を合はせ、伏し拝みて立つ程に、「伊予守義経、備前守行家、源二位に中悪しくて、時政、実平、討手の使として上洛の間、両人、西国へ落ち下る。」と披露ありければ、関東の聞こえを恐れ、源二位に志ある在京の武士、馳せ重なり馳せ重なり、これを射けれども、散々に蹴破つて、西を指して落ち行く。
摂津国の源氏多田蔵人行綱、大田太郎、豊島冠者等、千余騎の勢を引き具し、当国の中小溝と云ふ所にて陣を取り、矢筈を揃へて射けれども、ことともせず、追ひ散らして通りにけり。「大物が浜より船に乗りて九国に下り、尾形三郎惟義をたのみて支へて見ん。それなほ叶はずば、鬼界、高麗、新羅、百済までも落ち行かん。」と思ひけれども、折節十一月の事なるうへ、平家の怨霊やこはかりけん、度々船を出しけれども、波風荒うして、大物浦、住吉浜などに打ち上げられて、今は船を出だすに及ばず。敵の兵は、追ひ継ぎに馳せ来る。遁るべきやうなかりければ、三百余騎の者どもも、思ひ思ひに落ちにけり。義経、行家、その行く方を知らず。都より相具したりける女房達も、こゝかしこに捨てられて、浜砂に袴を踏みしたみ、松木のもとに袖を片敷きて泣き臥したりけるを、そのあたりの人憐れみて、都の方へ送りけり。白拍子{*2}二人、磯禅師ばかりぞ、義経に付きて見えざりける。何者が読みたりけん、義経が宿所六條堀川の門柱に、かく。
義経はさてもとみつる世の中にいづくへつれて行家ぞさは
同じき十二日、太宰権帥経房卿、仰せをうけたわはつて、美作の国司に仰せけるは、「源義経、同行家、反逆を巧み、西海に赴く。去んぬる六日、大物浜において、忽ち逆風に逢ひ漂没の由、風聞ありといへども、命を亡ぼすの條、狐疑なきにあらず。早く勢ひある武勇の輩に仰せて、山林河沢の間を尋ね捜り、不日にその身を召し進ぜしむべし。」とぞ院宣を下されける。昨日は義経が競望によつて、「頼朝卿を追討すべき。」由、宣旨を下され、今日は頼朝の威勢に恐れ、「義経を捕りまゐらすべき。」の由、院宣を下さる。朝に成りて夕に敗る。誰人か綸言を信ぜん。いづれの輩か{*3}勅命に帰せん。さればにや、成頼卿は、文章を好み、その性、廉なり。親範卿は、文書を伝へて公事に熟す。各、世を遁れ、雲侶と臥さんがために、大原の幽洞を出でず{*4}。隆季卿は、素飡の家に生まるといへども、すこぶる属文の臣たりしも、早く以て没す{*5}。長方卿は、大才ならびなく、文章、相兼ねたり。ほとんど上古の名臣に恥ぢず。事を素意に寄せ、鬢髪を剃り落とす。悲しいかな、君子、道消えて、小人あらそひ進む事こそ、いと哀し{*6}。
かの義経と云ふは、母は九條院の雑司常葉ぞかし。故下野守左馬頭義朝に相具して、三人の男子をなす。義朝、平治の兵乱に、云ふに甲斐なくなりし後、大弐清盛のもとより使を立てて、常葉を尋ねければ、「さ思ひつる事なり。中々に逃げ隠れても悪しかりなん。」とて、十歳に未だ満たざる子ども三人かき持ちて、泣く泣く清盛に逢ひたりけり。容貌、事様より始めて、振舞ひ、心立てに付きて、思ひ増す様なりければ、「情ある女なり。」とて、清盛、通ひける程に、女一人儲けたり。廊の御方とて、花山院内大臣の北の方にておはしける。姉公の体に候はれけるは、これなり。清盛、心に情ありて、かの継子三人を憐れみ、「中々に披露あるまじ。我が子といはん。」とて、「各、法師になれ。」とて教訓しければ、常葉、悦んで、太郎をも法師になして、後には鎌倉の悪禅師といはれき。次郎をも僧に成して、卿公と云ひき。
三郎は、義経ぞかし。をさなきより鞍馬寺に師仕せさせて、遮那王殿とぞ云ひける。学文など、「せん。」と云ふことなし。たゞ武勇を好みて、弓箭、太刀、刀、飛越え、力わざなどして、谷峯を走り、児ども若輩招き集めて、碁、双六、隙なかりければ、師匠も持ちあつかひて{*7}過ごしける程に、十六になりける時の正月に、師の僧の云ひけるやう、「今は、僧になりて、父の後生をも弔ひ給へかし。男にならんと云ふ志なんどおはするか。さらば、この世の中におはしますべきに非ず。世になからんに取りては、男の義、あるべくもなし{*8}。」なんどねんごろに語りける時、この児、うち笑ひて答ふる様、「僧は、聖教を読み、学し、書籍を伝へ習ひたるぞ、さる様にてよけれ。かやうに文盲の身にては、法師になりたりとも、非人にてこそあらめ。」とて、いと心入れなかりける気色を見て、この僧の申しける様は、「人の果報は、凡夫、知らざる事なり。如何にも思さん儘に、這ふ方へ這ひ給へ{*9}。」とて、笑ひて止みにけり。さて七、八日、この児、もの思ふ様にてありければ、かの師、「怪し。」と思ひて慰めけり。とする程に、をさなくより持ち習ひたりし弓矢をとり、夜の間に、児、失せにけり。東西尋ねけれども、児みえず。母の常葉も同じく尋ねけり。
その年の二月に、この師の弟子なりける僧の、尾張より上りたりけるが、もろもろの物語申しけるついでにや、「実に不思議の事侍り。こゝにおはせし遮那王殿こそ、男になりて、金商人に具して、奥の方へ下り給ひしか。僻目かとて、よくよく見しかば、いまだ鉄{*10}も落ちずしておはしき。かくみる事は、夜の間なりき。さるにても、忍びやかに物申さんと思ひて、忍びに、『如何にや。』と申して候ひしかば、少し物はゆげに{*11}思して、『その事に侍り。師の御房の、僧になすべきよし、ねんごろに候ひし旨、その謂はれ候ひき。されども、人間に生まるゝ事は有り難しと申すぞかし。如何にして父の恥をすゝがんと、年頃鞍馬寺の毘沙門に祈り申しき。身の果報を天道に任せまゐらせて、東の方へ罷るなり。坂東に名ある者、一人として父祖父の家人ならぬはなしと承れば、さりとも様ありなん{*12}と思ひて、罷るなり。事のついでのあらん時、この由、師の御房に語り給へ。文なんどにては、落ち散る事もあり。必ず人伝ならで。』と語りて、はらはらと涙を流し候ひしぞ。」と語りければ、かの師も袖を絞りつゝ、「さらば、さこそ宣ふべけれ。如何してそれまでもかゝぐり付かれ{*13}けん。」とて、忍びて母のもとに行き、この由を云ひければ、常葉、手をあがきて{*14}、「いやいや、ゆめゆめこの事、又人に語り給ふな。そら怖ろし。」とて止みにけり。
その頃、伊勢国の住人江三郎義盛とて、心猛き者ありき。あたゝけ山にして、伯母婿に与権守と云ひけるを打ち殺したりし咎に、禁獄せられ、赦免の後、東国に落ち行きて、上野国荒蒔郷に住みける時、旅人一人来つて遊ぶ。義盛、「我も、もとは旅人なりき。慰めん。」と思ひて、何となくもてなして、日頃遊びけるに、いかにもたゞ人とも見えざりければ、寂しめずいたはりけり。又、この旅人も、義盛をよき者と見てけり。互に馴れ遊びて年月をふる程に、義盛が申す様、「我をば義盛と知り給へるにや。殿をば誰とも知り奉らず。今更問ひ奉るべし。よも義盛が敵にてはおはせじ{*15}。」と云ひければ、旅人、答ふる様、「人は、家をば憑まず、心をぞ憑む。見馴れまゐらせて、久しくなりぬ。これは、父母もなし、親類もなし。天より天降りたる者なり。」とて、上下なくて{*16}過ごしける程に、「鎌倉にて、流人源兵衛佐の謀叛を起こしてのゝしる。」由、まめやかに聞こえける時、旅人、義盛に云ふ様、「下人一人、雇はかし給へ{*17}。四、五日が程に帰すべし。年頃の本意に侍り。」とありければ、義盛、是非のことばなし。藤太冠者と云ひける奴を召して、「この殿に、己をば奉るなり。いかにも仰せに随へ。」と云ひてけり。
さて、かの下人とこの旅人と、ねんごろにさゝやき、物語して、夜もすがら消息を書きて、明くる朝に出し立つ。旅の殿の教への儘に、藤太冠者は鎌倉に行きつきて、兵衛佐のおはしける館をよそに見て、たやすく人の行き至るべき様もなかりければ、身の毛よだつて門にたゝずむ。暫しこそあれ、いつとなく{*18}たゝずむ程に、人々、怪しみて、「あれは、何者ぞ。」と尋ねありける時、懐より文を取り出だしたり。暫しあるほどに、返事を持ちて出でて、「いづら、九郎御曹司の御使。」と呼びけれども、藤太冠者、こゝろ得ずして居たり。文を取り次ぎたる人、出で来て、「あれこそは、そよ。」とて、藤太冠者を呼びて、返事をとらせつ。ことばには、「疾く疾く御渡り候へと申せ。」とぞ云ひける。
藤太冠者、胸はしりつゝ、急ぎ帰りて、旅の殿に返事渡して、後にこの有様を義盛に語るに、志浅からざりつる上に、いよいよもてなして、「九郎御曹司。」と申してかしづき、主従の礼をなす。さて、取る物も取り敢へざる様に出で立ちて、義経、鎌倉へ上り、義盛、一の郎等たり。理なり。夜に入りて、鎌倉に著く。明くる朝、義盛を以て、かくと申し入れらる。兵衛佐の返答に、「只今、急に侍り。夕方、心しづかに申すべし。」とあり。その程は、義経、義盛、忍びて宿にあり。戌の半ばばかりの時、兵衛佐、使を義経のもとへ立てて、呼び寄せらる。見参して、鳥の鳴く程に{*19}出でられぬ。又、朝にさし出でられたりしより、いつしかまた、上もなき家子なり。
義経、木曽殿並びに平家追討の討手のため、京上りの時は、伊勢三郎義盛とて先陣を打つ。西国屋島、壇浦までも相離れず。義経、都を落ちける時、義盛、「君の落ち著き給へらば、急ぎ馳せ参るべし。」と様々契り申して、「思ふ様あり。」とて暇を乞ひて、故郷伊勢国に下りぬ。その時の守護人、首藤四郎を伺ひ、討つ。国中の武士、追つかゝりければ、義盛、鈴鹿山に逃げ篭りて戦ひけるが、敵は大勢なり。矢種射尽くして、自害して失せにけり。
武蔵国の住人河越太郎、並びに一男小太郎、誅せられけり。これは、故秩父権頭が次男の子ぞかし。さる程に、義経、都を落ちて、金峯に登つて、金王法橋が坊に具したりし白拍子二人舞はせて、世を世ともせず、二、三日遊び戯れて、「あゝ、さてのみあるべきにあらず。」とて、「白拍子をこれより京へ返し送れ。」とて、金王法橋に誂へ付けて、年ごろの妻の局、河越太郎が娘ばかりを相具して、下りにけり。義経が舅子舅なるによつて、かく亡びにけり。
陸奥国権館秀衡入道がもとに尋ねつきたりければ、造作して、すゑかしづきて過ぐるほどに、秀衡、老死しぬ。その男泰衡を憑みてありけるが、鎌倉に心を通はして、義経をうつ。その時、妻女申しけるは、「一人の子なれば、たゞ置くことなし。残り居て憂目をみんも、心うし。われを先立てて、死出の山を共に越えたまへ。」と云ひければ、義経、「南無阿弥陀仏。」と唱へて、女房を左脇に挟むかとすれば、頚を掻き落として、右に持ちたる刀にて、我が腹掻ききりて、うち臥しにけり。
昔、将門が合戦の時、味方したりし俵藤太秀郷が末葉に、陸奥出羽両国の地頭にて権大夫常清、その一男に権太郎御館清衡、その男に御館元衡、その男に御館秀衡、その男に泰衡、これなり。父の遺言を背き、泰衡、義経を討ちたりけれども、その詮なく、源二位頼朝、奥入りして、泰衡をば誅せられけり。
源二位、あるいは望み、あるいは憤り申す事ありて、時政、実平をさしまゐらせて、近臣の輩をしこつ{*20}べき由、聞こえければ、人皆、恐怖しけり。
1:底本は、「傀儡(くわいらい)」。底本頭注に、「こゝでは遊女などを指す。」とある。
2:底本は、「白拍子(しらびやうし)」。底本頭注に、「遊女。」とある。
3:底本は、「何輩」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
4:底本は、「雲侶(うんりよ)と臥(ふ)さんがために大原(おほはら)の幽洞(いうどう)を出でず。」。底本頭注に、「〇雲侶 雲を友とする隠士。」「〇大原の幽洞 京都の北なる大原の幽谷」とある。
5:底本は、「素飡(そさん)の家に生まるといへども、頗(すこぶ)る属文の臣たりしも、早く以て没(ぼつ)す。」。底本頭注に、「〇素飡の家 其の職に在りながら其の職を勤めずに官禄を食む者をいふので、ここでは名門の家柄。」「〇属文 文章を綴る」とある。
6:底本は、「最(いと)哀(あは)れ。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
7:底本頭注に、「持て余して。」とある。
8:底本頭注に、「家の業を継がうとする志があるのか。若しそんな心がけでゐると平家の疑ひをうけて世に生きてはゐられまい。世の中に生きてゐられないものとすれば家の業を継ぐ事もできまい」とある。
9:底本頭注に、「志す通りに思ふやうになさい。」とある。
10:底本は、「鉄(かね)」。底本頭注に、「歯を染めるおはぐろ。」とある。
11:底本頭注に、「恥かしさうに。」とある。
12:底本は、「様(やう)ありなん」。底本頭注に、「何とかなるべき様があらう。」とあ
る。
13:底本頭注に、「たどりつかれ。」とある。
14:底本頭注に、「手を振つて。」とある。
15:底本は、「よも義盛が敵(かたき)にてはよも坐(おは)せじ。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い削除した。
16:底本頭注に、「隔てなく。」とある。
17:底本頭注に、「雇はせ給へといふことで貸してくれよの意」とある。
18:底本頭注に、「久しく。」とある。
19:底本頭注に、「暁方。」とある。
20:底本は、「僭(しこ)つ」。底本頭注に、「讒する。」とある。