江戸期版本を読む

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源氏物語に就て
依田百川

源氏物語と云ふものは実に我国に於きまして無双の名文であります、尤も此外に古事記六国史{*1}、令、格式等結構の書物は沢山ございますが、それは自ら類が異りますので文章の面白くして能く人情世態を尽し極めて微妙なる所まで至つて居るのは源代物語より外はないと思ひます、勿論万葉集の歌の如きものは古い時代よりあるものでございますから人情世態を能く尽しては居りませうけれども、文章としては先づ源氏物語を国文の第一と思ひます
私は固より漢学者でありますから国典には甚だ疎うございまして、源氏物語の中の言葉又は故実などには通じて居りませぬ故それをお話する訳には迚も参りませぬが、茲に少し御話して見たいと思ふのは外ではありませぬ、一体私は若い時分より小説を読むことを好みまして、最初は一九、三馬、京伝などの書きましたものを数々読みましたが、それより後馬琴の著述が極く好きで、馬琴の著述には八犬伝、弓張月、其他読本(よみほん)草双紙といひますものが殆ど数へ知られぬ程沢山ありますから、残らず読んだと云ふ訳ではありませぬが先づ大略は読尽しました、其頃は十六七歳の時代でありましたがそれより漢学を専ら修めました為に経書歴史を読むひまに支那の小説を好むで読みました、誰でも知つて居るのは西遊記、演義三国志、水滸伝、それから余程読難くいのは金瓶梅でありますが{*2}、是等の小説類を読みましてから深く小説の面白味を覚えたのであります、其後に至りまして源氏物語を読んで見ました、尤も私は前にも申しました通り国典には疎い方でありますから読むだと申しても僅に湖月抄位のものでありまして、それより後萩原広道の源氏評釈を読むで面白く感じました、それまでは湖月抄、河海抄、花鳥余情と云ふやうな註釈物を読むで居りましたが、要するに言葉や何かを註釈してあるに過ぎぬで{*3}、全体の源氏物語の趣向を評したものでなかつたが.広道の評釈は前の物から見ると余程超出して居りました、それゆゑ是は面白いと思うて読みましたけれども惜しいことには花の宴までしかない、併し巻首の段には大体は論じてありますから広道の見識は窺知することが出来ました{*4}、又評の加へ方もありふれたるものより面白く思はれました、それから玉の小櫛を読むで見ましたが流石は立派な先生の筆を操られたものゆゑ結構なものてあるが奈何せむ、彼の先生などは小説と云ふものをそれ程読まないと見えて小説眼を有つて居ない為か私共は余り感服しない、源氏物語は紫式部が小説を多く見て其上書いたものでありますまいが、不思議に思ひますることは、我識見と云ふものが高い――前にも申した通り支那にも色々の小説がありましたが其中に紅楼夢と云ふものがあります、それは清朝に出来ましたもので源氏物語よりは数百年も後のものであるに、不思議にも此紅楼夢の趣向が源氏物語に似て居りますことで、是とても支那人が源氏物語を見て書いたものではありませぬ、又金瓶梅と云ふものは卑猥のものではありますが趣向が源氏物語に髣髴として居る、それはどうかと云ふに因果応報の道理と云ふやうなことが主となつて居る一事であります、紅楼夢も因果応報を主として出来て居る、それで源氏物語の主になつて居る所が亦即ち因果応報であつて{*5}、其点が私の常に論ずる所である、源氏物語は光源氏の君が主眼となつて居まして其書方と云ふものが、先づちょつと見ると情の深い、如何にも慈悲のあるやうに見えます、けれども全部の趣向をズーツと考へて見ると豈図らむや、光源氏は善人のやうではあるがそれが思はず知らず感情の上から罪悪に陥つて居るやうに書かれてある、
然らば紫式部がさう云ふ心持で筆を下したかどうかと云ふに私の考では必ずさう云ふ心持で書いたものと思はれる、是まで源氏物語を読むだ人も左程に思はなかつたやうで、玉の小櫛には物のあはれを知らせる為に書いたと云つて居る、あはれと云ふことは感情で、感情と云ふものは多くは男女の色情から起るものであるが、それを見せる為に書いたものだと云ふやうに論じて居ります、私の言うやうに情の為に罪悪に陥つたことを知らせたものだと云ふ意味で評したものはないやうである、広道の評もさうは見えない{*6}、
併し是は私の僻論であるかも知れず、佐々木さんとは御懇意でありますが、佐々木さんは国典の専門家でありますのに、其専門家に向つて斯う云ふことを論ずるのは出過ぎたやうでありますけれども、自分の考にありますことゆゑ、常に口より出ます為に今日はどうしても言はなければならぬ場合となりました、依つて今其考のある所を御話して見やうと思ふので有ます、源氏がどうして罪悪を犯して居るかと云ふ事は、私の得意の見だから述べなければならぬ、源氏物語の一部を読んだ人は能く知つて居るであらうが、源氏の人物はどうかと云ふに桐壺の帝の皇子で、源姓を賜つて居つた人で、名はございませぬが、源氏を賜はつて居つた人と見れば間違ない、然る所が此人が如何にも材もありえらい人物で――高麗人(今の朝鮮人)が見て此人は帝の位に即いてはよく無いが非常にえらい人物であると言つて賞めたと云ふ事が書いてある――表面は賞めたやうに書いてある併ながら行状は甚だ正しくないのであります、自分の親の帝桐壺の帝の寵愛せられて居る藤壺の女御と云ふのがあります、其人が絶世の美人であつたので、それに想を懸け遂に密通すると云ふことが書いてありますが実に怪しからぬ訳であります、それで女御が懐胎したときに知らぬ顔をして居つて遂に其生れた子を兄の朱雀院の世継にさせて{*7}、後に太上天皇の尊号を受けることになつたと云ふことは途方もない話であります、それは別に悪事を為さうとした事でなからうと書いてあるが、ソコが見所であつて、人は誰も今から悪人にならうと思つてなる者はない、自ら感情の上から引込まれて悪人となるのである、源氏の君も亦自ら悪と知らず罪業に陥つたのではあるが太上天皇の尊号を受くると云ふ事は甚しい訳で有ます、自分にそれだけの功業があれば宜いが、自分の子と知つて居りながら――別に企みもなかつたでありませうが、竟いそれを朱雀院の世継にして仕舞ふと云ふ事は罪悪も甚しいことである{*8}、他の註釈にも出て居りますが、秦の始皇は本統の先帝の子でなく呂不韋の子で、それを遂に帝に立てゝさうして自分が父と敬はれる位に昇つたが後に殺されて仕舞つた、此事は史記に載つて居るから紫式部も見ましたらうが、光源氏を呂不韋に見立てゝある、又其外に朧月夜内侍に通じ或は伊予介の妻の空蝉に通ずることも書かれてある{*9}、何れも甚しい所業であります、それを書き方が妙で優美の風に筆を下してある所が実に紫式部に感服する所であります、
併し人は好むで悪人になるものはなく思はず知らず悪に陥りますので、例へば賄賂を取つて罪業に陥る人もあるが、それは初めから賄賂を取つて悪業に陥らうと思つては居らぬ、困窮するとか、或は此位のものは取つても宜からうと思ふ所から{*10}、知らず識らず悪業に陥り、自ら省みれば最早いつの間にか悪人になつて居ると云ふやうな訳であります
是より源氏に付きまして因果応報のある所を御話致しますが、天はどうして悪人を罰するかと云ふに、奇妙な罰し方をやるものである、前の源氏の御話がズーツと後になると斯うなつて来る、源氏の御台所に紫の上と云ふものがある、然る所が紫の上は表面から娶つた妻でなく内証ものである、所が昔は姪を娶ると云ふやうな事が格別やかましくなかつたものと見えて、朱雀院の妾腹の子に女三の宮と云ふものがありまして、それは三人目の御娘子で内親王でありました、そこで源氏の君は之を妻とすれば身分も高くなると思ふ所から頻りに懇望された――もつとも本文では朱雀院よりたのまれたとあるが前後のことを考へますと私はどうもさう思はれる{*11}、又朱雀院も御自分が遁世をなされたから、女三の宮を誰ぞ確かな人に預けなければならぬと思ふて、色々考へた所が源氏の君には紫の上はあれど本統の御台所でありませぬから、之に縁付けても差支なからうと云ふ所から、女三の宮を源氏の君の御台所にした、先づそれまでは大層宜かつたが、此女三の宮と云ふ御方は縹緻は優れて美しいけれども、気質が劣つて居る方で、俗に申す薄馬鹿と云ふやうなものであつた……是から禍が起るのである、それがどうして起るかと云ふと源氏の君は昔御自分の懇意に致した頭の中将即ち後には太政大臣となる人の子に柏木の衛門督と云ふ者があつて、是が初め女三の宮を貰はうと思つて居つた、然るに源氏の君に縁付きましたので、甚だ面白からず暮して居りました、思に堪へ兼ねたものと見えて、恐多いことながら何かの手続を以て女三の宮と密通に及むだ{*12}、然る所それが源氏の君に知れて心中に憎らしいと思つて燃え立つやうに憤つて居りましたが、之を表立つると自分の外聞に関することで、殊には兄の寵愛の姫君であるから、表立てゝは兄に気の毒でならぬゆゑ、包み隠して居なければならず、さればと云つて憤怒の情は抑へきれず、如何にも内心の苦みと云ふものは非常でありましたらうと思ひます、是で即ち前に自分が藤壺の女御に密通した応報であります、併し桐壺の帝は自分の御寵愛の藤壺に源氏の君が通じて居る事は知らぬゆゑ{*13}、腹も立てずに済みましたが、源氏の君の方はさうでなく、確かに艶書を見て女三の宮が密通して居ることを知つて居りましたから、内心の苦みはいかばかりでありましたらうか……それも宜かつたが遂に又柏木の衛門督の子を女三の宮が懐胎に及んだ、けれども之を生むときは姦夫の子となる、姦夫の子なれば罰しなければならぬと云ふことになるから、どうも之を表向きにする訳にいかぬ、自分の恥辱のみならず兄にも許多の苦みを与へる事になるから伏せて置かなければならぬ{*14}、そこで無念ながらも姦夫の子を我子としましたが、是が後に薫の中将となるのであります、こゝに至つて因果応報の理が明かであります、又柏木の衛門督の方はどうなるかと云ふと、之にも大なる応報があつた、其訳は源氏の君が五十の賀の時に柏木は病気でありましたが{*15}、其病気は何かと云ふと自分が源氏の君の御台所の女三の宮に通じたことが顕れて居るから顔出しはならぬ{*16}、けれども之を表に顕はして斯うと云ふ訳には参りませぬから{*17}、病気と言つて引籠つて居たが源氏の君の賀の宴にはどうしても出なければならぬ事となりました、病を忍むで出ました所、其時は別に何も変つた事もなかつたが、唯源氏の君より御盃を下さる折にジロリと睨まれた、其眼付きを大変に恐ろしく感じて、それより脳を病まして病気が重くなり、終に死する事になりました、茲に至つて又因果応報の道理が明かであります{*18}、知らず識らず罪業を犯した者が自ら苦しみを受くるに至ると云ふ源氏物語に付ての私の所感は大略以上述べました如くであります。この源氏といふものは、実に長いものでありますが{*19}、照応もあり、起伏もあり、首尾もあり、抑揚もあつて、文法にはよくはまつたものであります{*20}、殊に妙なのは、源氏の死ぬところを、雲隠の巻として、わざと欠けたようにしてあります、こんな奇妙不測なかきかたは、支那の書物にとんと無い趣向であります、又西洋の小説にも、かように飛び離れたかき方は無いと申事ですが{*21}、わたくしは横文字をよみませんから、よくは知りませんが、この一巻をわざと欠いたのは何とも申されません手段で、実に鬼神不測の文章であると、思ひます、文字によつて文を作る事は、あります、丸で文字を用ひずして文を作るといふ事は、古今無い天才と申べしと存じます{*22}、まだいろいろ奇妙な趣向があります事を発明してありますが{*23}、あまり長くなりますから。まづこゝらで(佃速記事務所員速記)

「心の花」第五巻三号(明治35年(1902年)3月)所載

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校訂者注
 1:底本は「古筆記」。誤植と見て訂正。
 2:底本は「金瓶梅てありますが」。誤植と見て濁点を補った。
 3:底本のまま。
 4:底本は「出来ました又評の」。脱と見て読点を補った。
 5:底本は「それで源氏語の主になつて」。脱と見て一字補った。
 6:底本は「広道のの評も」。衍字と見て一字削った。
 7:底本は「懐胎したときに 知らぬ顔を」。空白を一字分削除した。
 8:底本のまま。
 9:底本は「朧月夜内侍に通し或は伊予介の妻の空蝉に通することも書かれである」。誤植と見て、二ヶ所濁点を補い、一箇所濁点を削除した。
 10:底本は「取つても宜いからう」。衍字と見て一字削った。
 11:底本は「たのまれたとあるか」。誤植と見て濁点を補った。
 12:底本は「恐多いことなから」。誤植と見て濁点を補った。
 13:底本は「通して居る」。誤植と見て濁点を補った。
 14:底本は「置かなけはならぬ」。脱と見て一字補い、誤植と見て一箇所濁点を補った。
 15:底本は「ありましたか」。誤植と見て濁点を補った。
 16:底本は「通したことが」。誤植と見て濁点を補った。
 17:底本は「斯うと云ふと訳には」。衍字と見て一字削除した。
 18:底本は「明かてあります」。誤植と見て濁点を補った。
 19:底本は「長いものてあります」。誤植と見て濁点を補った。
 20:底本は「はまつたものてあります」。誤植と見て濁点を補った。
 21:底本は「飛ひ離れたかき方」。誤植と見て濁点を補った。
 22:底本は「存します」。誤植と見て濁点を補った。
 23:底本は「またいろいろ」。誤植と見て濁点を補った。

  学海の人々(この項五十音順による。)

    大西祝

 操山(さうざん)大西祝(はじめ)博士は、明治中期の歌人の一人としても、また歌学者としてもすぐれた人である。
 大西博士は和歌の価値をよく認め、和歌の意義をよく了解された点に於いて、明治の学者中第一のしかも唯一の人であつた。君が明治二十年四月、「六合(りくがふ)雑誌」に、「和歌に宗教なし」の一篇を公にせられて以来、「詩歌論一班」、「詩歌論」、「歌話数則」、「香川景樹翁の歌論」、「国詩の形式に就いて」「近時の和歌論」等の論文で和歌を論ぜられたのは、いづれも精到深邃の見解であつて、明治文学史上の一異彩とされる。自分は、その時ごとに読んで啓発された所が少くなかつた。君が和歌に対してかく、理解と同情とを有せられたのは、桂園派の池袋清風氏に歌を問ひ、夙くより斯の道に入られたゆゑであつた。しかして、その素地を開拓するに、泰西の学問の造詣を以てせられたのである。当時同志社の間に起つた桂園派の新運動は、明治和歌史中期の一現象として記憶せらるべきのものではあるが、実(み)は結ばなかつた。ただ君の諸論文は、此の運動から得られた最も貴き産物である。
 君は単に歌を理解し、之を論ぜられたばかりでなく、また自ら歌を詠じて、一家の歌人たる境に達せられた。その学問的修養の間になし得られた一種の思想的の深みや新しみが加はつた点に於いて、当時の歌人に見られないものが君の歌には存した。君が世を去られて以来、和歌界にはさまざまの新しい運動が生じ、歌壇の面目は一新した。今日に於いて、君がをられたならば、その厳正なる歌論は、如何なる批評を今日の歌に加へられるであらうか。また君自らの歌風はいかなる発展を示したであらうか。これを見ることの出来ないのは、吾人の殊に遺憾とするところである。
 自分が君と語つた想ひ出は、同人の安藤直方君に頼まれて、早稲田の少数の学生の文学会に出た時君は哲学を、自分は歌学を述べた後、かなりな時間を親しく語りあつた時が初めであつたと思ふが、その折の感銘は深いものがあつた。
 「心の花」第十八巻一号には、大塚保治博士の「大西祝博士を懐ふ」といふ長文が掲げてある。「明敏な頭脳と、豊麗な感情と、堅実な意志と、三拍手揃つて発達した人であつた。宗教家で同時に学者、道徳家で同時に詩人であつた。しかもその諸方面を通じて、性格の根底となるものは、高い、清い、深い、精神的理想的情操であつた」と述べ、「君の哲学の傾向は進化発達を主とし、存在(ザイン)よりも生成(ヱルデン)を重んじ、所謂実相諭に対して縁起論に傾いてゐた」と、哲学者としての君に就いて語つてをられる。かつ一八九八年から九年にかけて、フィレンゼ、イエナ、ヷイマル、ライプチヒから送られた十九通の書簡を、一号と二号に分載し、二号には肖像及び筆蹟をも掲げてある。
 自分は、昭和十二年五月、岡山医科大学に招かれて和歌を講じた時、学長田中文男博士の案内で、君が号とせられた操(みさを)山を近く東に望み見、君の記念碑のもとに立つて、君を偲んだことであつた。
  附記 碑は、君の旧宅の跡なる山陽女学校の校庭に建つてをつたが、先年の戦火で学校と共に形を失つたとのこと、まことに遺憾である。

    大槻如電

 如電翁は、はじめ修次郎、修次、分(くまり)、後に修二といはれた。弘化二年中秋後二日、江戸木挽町に生れ、昭和六年一月、八十七歳で日暮里に歿せられた。
 翁は、江戸児風の学者であつて、弟君の文彦博士とは性格が異つてをられた。しかし、博学の点は博士の兄君たるに恥ぢなかつた。はじめ浅草新堀端に住まれ、後、日暮里に移られた。多くの善本を蔵してをられた。自分の茂睡研究のをりに、種彦旧蔵の「紫の一本」を看るを得たのは、翁の書架に於いてであつた。梁塵秘抄について研究してゐた折には、天文本の梁塵秘抄に浅草文庫の印記あるものを贈られて、今に架蔵してゐる。
 西片町にも度々来訪せられた。自分は短冊蒐輯の趣味から、名家短冊帖を印行したをり、翁に珍しい短冊を問うてをつたに、京都への旅中から、杉田玄白が信友に贈つた短冊を発見したとて、わざわざ、葉書を寄せられたのであつた。

    大矢透

 大矢透(とほる)博士は、上代の仮名の研究者として、実に熱心な、かつすぐれた学者であつた。自分がかつて万葉集の仮名に就いて、麻布飯倉の寓居を訪うたをり、万葉集の古写本を示された。しかして話されるには、これはかつて京都に旅したをり、細川書店で求めたものである。古写本のこととて、もとめたくは思つたが、旅中ではあり、思ひ断(た)つてもとめずに店頭を出たのであつたが、かかる古写本は二度手に入れることが出来るかどうかと思つて、数丁きてから、後(あと)戻りをしてもとめたものである、と言つてをられた。
 その本は、後に校本万葉集の事業のため、大学に借り、橋本君の研究に依つて、流布本巻七の錯簡の理由が発見された等、学問上貴いもので、大矢本万葉集と呼んでをる。
 後、博士は古経の研究のため居を奈良に移されたが、かの地の橋井善次郎氏のもとを訪はれた時、その所蔵にかかる嘉禎四年九月書写の和歌色葉集中巻の零本一軸を発見された。色葉集の写本中最も年代の古いものであるので、校本万葉集の諸本輯影に掲げたことである。

    鴻巣盛広

 五月三日(昭和四年)の朝、金沢にて下車すると、四高の鴻巣盛広教授、中島県立国書館長が迎へに出てをられた。公園のみよし庵に小憩して、午前に松岡三次翁の家を訪うた。それは、この三月に、松岡家から読売新聞社主催の名宝展覧会に春日万葉切を出品したいと、顧問であつた自分のもとに手紙が来た。喜んで、出品せられよといひ送つたに、やがて、数葉を携へて上京した使の人が、いま一葉、廿巻の巻末で年号のある所のは掛物にしてあるゆゑ持つて来なかつたといふ。巻末、ことに年号のある処ならば是非みたい。幸ひ五月には北陸の万葉旧蹟めぐりにゆくゆゑお伺ひする。それで勝手がましいが、近親や知友の方々の家の古典籍古筆の類をも同時に拝見する機会が与へられたいと依頼したのである。鴻巣君らも同行したいといはれるので、電話でどうぞとの返事を得て、一緒に行つた。室に入ると、閑雅な庭に面した座敷の床に巻廿の巻末五行、終に「寛元二年三月九日書写之 祐定」とある幅が掛かつてをる。喜び見めでつつ話してをると午餐が出た。一皿の慈姑(くわゐ)の根を小さくしたやうなのを指ざして主人が、これはといはれるから、かつて味はひました、「寺井の上のかたかごの花」の根でせうというたに、うなづかれた。おつぼに若布の酢の物のやうなのが入つてをる。これはといはれるので知らないといふと、雄神川の葦つきです。昨日人をやつて取らせたのですといはれた。主人の厚い志を深く感謝した。食後に、かねての御依頼で家にあるもの、また本家の主人が法事で東京から来てゐます。今日は先約で来ませんが、許しを得て蔵から秘蔵の数種を出して来ました、といはれる。いづれも貴い数点を見た後、古い箱に入つた綴葉本をとうでて見ると、題簽に金槐和歌集とあるは本文とは別筆で、本文の初め数葉は定家が書き、あとを、女の人に写させたものである。夢ではないかとしづかにひらいて巻末を見ると、「建暦三年十二月十八日」と定家の筆でかいてある。建暦三年は実朝廿二歳の冬である。従前は、金槐集の金は金玉集、金葉集の類のたたへ詞に鎌倉の金偏をよそへ、槐は大臣の義、実朝世を去つた後に侍臣があつめたものと思うてゐたに、廿二歳の冬に、おそらくは後鳥羽上皇に上(たてまつ)つたものを、定家が家にのこすと、初め数葉を自らかき、あとを家人に写さしめたものとおもはれる。さすれば将来廿八歳の正月まで五年と一と月の歌稿が出ぬとはいへぬ。実に尊いものであると感嘆時を久しうした。主人にきくと、本家の主人は五日前に来られ五日後に帰京されるとのこと、いま一週間早くてもおそくても、この眼福は得られなかつた。また、近親などのをも頼んでほしいと我ままをいはなかつたらばと感激しつつ、どうか主人が帰京の際持ち帰られて、東京でゆるゆる拝見したいと懇請した。
   うまし書みる幸得たりみ越路の万葉の旅の第一日に
   いく百年うづもれゐつるうづ宝これの歌巻を初(うひ)にわが見つ
 北陸めぐりの第一日にこの大いなる喜を胸にしつつ、県立図書館に赴き、高橋富兄翁や藤岡東圃博士の旧蔵書{かの異本山家集もあつた。}を見、公園を歩いて、九歳の初夏に父と共に訪うて記憶に残つてゐる根あがり松を眺め、宝円寺の宗達の墓に詣で、夜はみよし庵の池亭の歓迎歌会に出た。
 さて、鴻巣君の家に一夜の客となつた。君は、「万葉集全釈」の著者とて多年の知己ゆゑ、夫人も同席して、全釈の終り際に、頭が重いといふので、指圧療法を学んで云々といふ話を聞き、涙がこぼれた。(翌日から六日まで、君の案内で、能登の万葉めぐりをしたがここには省略する。)
 なほ、子息隼雄君も同じく国文を研究してをられるのは喜ばしい。

    佐々醍雪

 佐々(さつさ)君にはじめて逢つた時、君が、帝国文学の附録に出された歌謡の変遷に関する論文について、自分も古歌謡に就いて研究してゐるので、長時間話をした記憶がある。
 文芸雑誌での和歌の懸賞募集は、春陽堂の「新小説」(第一期)が嚆矢であるかとおもふが、佐々君が主宰された金港堂の「文芸界」では、かなり規模の大きな懸賞をして、数人の選者に委嘱したことがあつた。そのため度々君の訪問をうけた。
 ある時、君が雑誌に書かれた文中に、引用された歌論の出所について問うた。その小唄は、
    空たつ鳥か日本へ行かば 言伝しよも文副へて
といふのであるが、古歌謡集にある吉左右踊の唄と知らせてくれられた。それを見ると、「文禄年中豊臣家朝鮮征伐の時、金森法印父子、肥前唐津に在陣せり。然るに朝鮮に在る処の日本の諸将、速かに勝軍の事、唐津より告げ来れり。仍て下民是を祝して、高山城下に群参し、踊歌せしを濫觴とす。俗に吉左右の告げ来るといふを以て名とするもの也」とある。
 君とは、無名会でよく話した。無名会の会員の中では、佐々君、保科孝一君、杉敏介君と、自分とが同甲であるが、君の早く世を去られたのは、まことにいたましい。

    品田太吉

 自分の小川町時代の早い頃、英語を学びたいと思うてゐた折から、誰かが来て、此さきの美土代町の裏通りに、品田氏の英語教授の看板を見たので習ひにいつてをるが、とのこと。自分もいつたに、温和な性格の先生であつた。二三回いつた後に、友人から、東京法学院の夜学で英語の選科があると聞いて、そこに入学した。
 何年かの後、品田氏が来訪された。「太吉が本名、雅号は守信で、万葉研究を独りでしてをる。ここへ原稿を持つて来た」と示されるのを見ると、考証的のよい論文であるから、明治四十年九月以来大正十一年一月までに数種の論文が「心の花」に掲げてある。中にも「万葉集両巻考」のごときは、自分も考へてをつたことに近いので、喜ばしかつた。
 その品田君が、はやい時分に、「こんな掛物を古本屋で見つけて買つて来た、万葉のことがあるから」とのこと。見ると、戸田茂睡が、まだ若い寛文五年に、歌についての意見を述べたもの、梨本集より数十年前にかかる文書をかいたことと驚いて見守つてゐると、「江戸時代まで研究する時間がないから、譲つてもよい」との詞に、深く感謝した。自分はその前から調べてゐた数種の書物も見いで若くて住んでゐた下野の黒羽をも訪ひ、ここかしこの歌碑や寿碑等にもおり立つて、大正二年九月「戸田茂睡論」を刊行したことであつた。

    島地雷夢

 大磯に暑を避けてゐた時、同じ地にあつた高山樗牛君と逢つて、屡々文学談を交へた。そのをり、樗牛君に、将来最も嘱望すべき若い人の名をきいた時、当時大学の学生であつた島地雷夢君が、頭脳もよく、文章もすぐれてをるといふ事を話された。
 然るにその後、東京小石川なる画家松井昇氏の家に招かれた際、同じく客となつて晩餐をともにした年若い大学生の中に、偶然にも島地君があつた。しかして同じ時に会した人々は、いづれも島地君の親友で、当時の大学生なる斎藤野の人、内ケ崎作三郎等の諸君であつた。
 これが縁となつて、君は斎藤君と共に度々自分の家を訪はれ、しばしば歌を示された。その後、君の妹君あつ子さんが竹柏会に入られて、君との因縁がいよよ深くなつた。君が神戸に静養せられるやうになつてからも、度々手紙に接した。ことに須磨にある社友朝場重三氏と親しくされるやうになつたので、折にふれては共に歌を書いた寄せ書の葉書などをおこされた。
 然るに一昨年であつたか、大学に講義に行く途上、思ひもかけず、から橋のほとりで君の自分を訪はるるに逢つたので、大学までの道々物語をしつつ行つて別れた。その時は君も大分健かになられたやうに見うけて、心ひそかに喜んだことであつたに、後、君の訃を聞いて、かつ驚きかつ悼んだことであつた。 (昭和九年、追悼会にて)

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大平の宣長観
佐々木信綱

 この程数年ぶりで故郷へ帰つたに就いて、松坂に行つて友人の堀内鶴雄君を訪問した。談話が鈴門の諸歌人諸学者の上に及んだ時、堀内君は所蔵の伊勢人の学者の筆になれる数片数十葉を示して、いづれでも望むところのものを贈らうと言はれた。好意のまゝに選びとつたのは、写真版にして掲載したこの一葉である。
 一覧してわかる如く、これは宣長の学問の系統や著書等について図解的に記したものである。左辺に記した「安守兄御一笑に所図也大平」のうちの安守といふのは、宣長の門人で、矢張松阪の人なる殿村安守である。
 この図はかく戯れに反故の裏に記されたものであるが、精しく読んで見ると、頗る興味あり、かつ学問上に有益なものである。
 殊に、先輩として、西山公、堀景山、契沖を数へたのは、宣長が学問上の系統を明示してゐる。父主念仏者のマメ心、母刀自遠き慮りの二つを挙げたのは、宣長の人格の淵源をよく語つてゐる。更に左辺に記したうち、真淵は言ふまでもないが、紫式部定家頓阿をあげたのは、宣長が歌風、歌論、文学思想等の由来をよく説明してゐる。而して更に孔子{*1}、徂徠、太宰、東涯、垂加等を挙げたのは{*2}、国文学上の古学に於ける漢学の影響を無視しようとしてゐる後の国学者流の偏見とは全く撰を異にしたもので、壮年京都に留学して景山のもとに学び、漢学上の著書なども相応渉猟した宣長の学風をよく説明してゐる。
 下方に記されたものを見ると、古事記伝を中心として書かれた書物も、よく宣長の著書の重なものを網羅してをるし、門弟等の名も、所謂直門の人々及び血統の人々を尽してゐる。殊に面白いのは、同じ歿後の門人でも、信友は圏外に入れたに対して、篤胤は之をその外に出したことである。
 大平は人物として篤実朴素の人だけに、宣長の学問はありのまゝに継承し得た。この事は大平の著書を読んで吾人の感じてをつた所であるが、今この表を見て、吾人は彼がそれのみならず、更に宣長の学問、従つてその由来をも最も公平に了解した人であつたことを知り得るのである。
 この図はいはゞ一片の戯図であるが、かくの如く考へて来ると、文学資料として頗る貴重なものであると思ふので、一言解説した次第である。

18_8大平の宣長観

「心の花」第十九巻八号(大正4年(1915年)8月)所載

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校訂者注
 1:底本は「孔子徂徠」。脱と見て読点を補った。
 2:底本は「挙げたのは国文学」。脱と見て読点を補った。

西片町より
佐々木雪子

常夜灯
 伊勢石薬師村に亡父の紀念碑が建てられてから丁度八年になる{*1}。今年は会員の方々の好意で、その周囲に石の玉垣がしつらはるゝやうになつた。川村又助翁をはじめ、石薬師の村長の君、また人々の斡旋によりて、建碑後年々亡父の命日には、村祭として村の小学校生徒の全体が碑の前で唱歌をうたひ、優等生には賞品を与へるなどの式が行はるゝ事になつてゐる。毎年余義なき差支の為に{*2}、親しくその式に列する機会を得なかつたが{*3}、彼地の諸氏よりの懇篤なる書牘を見るより、夫は俄に思立つて六月の末久々で帰郷し、亡父の碑前にも先祖の墓所にも参拝して、今更に懐旧の情にはふり落つる泪をはらふよしもなかつたというてゐる。亡父の徳を称へながら、「信さんしつかりやんなはれ」と情のこもる詞に昔にかはらず今も夫にくりかへし誡めらるゝ人は――東京の原田翁を除いては――この川村翁ばかりである。さて此度の玉垣を造りし剰余をのこして置いて、碑の傍に常夜灯として電灯をともす事にし、道行く村人の為にせられた。こは皆川村翁の考案によるのである。石薬師村は昔の東海道五十三次の一駅で、広重の錦絵などには見るけれど、今は知る人も稀な所になつてしまつた。せめて亡父のものいはぬこの紀念碑が、村の児童の清らかな胸に何をかゑりつけるものがあるならばと、かつ祈りかつ喜んでゐる。夫は今度久々参拝した紀念に{*4}、村の小学校へ新刊書百部を寄贈した。聞く所によれば、本年の御大典紀念に、小学校に図書室を設ける計画があるとのことである。幸にこの寄贈書がその一部を飾る事を得ば、亡父の霊も天がけりつゝ喜んでくれられることであらうと思ふ。

珠玉
 まあおめづらしいと、思はず出た自分の声にはつと気がついて、朝子さんは何とお思ひになつたであらうと、何んだかすまないやうに思つた。よく御噂はしてゐたものの、最近に春子さんや君子さんと不思議に御消息を聞く事が多くなつたにつけて、いよいよおなつかしく、一度御訪ねもしたいと思ふばかりで、あの惜しい才のある朝子さんが、再び歌の道をおふみわけになる機会もあらば、またゆるゆるお物語も出来るであらうと、はかない頼みをかけてゐた自分は、昔にかはらぬ美しいお声を聞きつけるや、嬉しさのあまり、まあおめづらしいと言つてしまった。いつまでしてもお話はつきない。丁度他にも来客があつたので、夫は色々お話する時を得ず残念がつてはゐたものの、しばらく見失つてゐたま玉でもふと見出したやうに喜んでゐた。

おどろき
 風はないが火の粉が盛んにこちらに飛んで来る。寝入りばな故、あちらを起してもこちらを呼んでみても一度では目が覚めない。男の子二人にはお父さまの手伝を早く早くといひつけて、綱子と弘子には先づ足袋をはいてと教へながら、本箱の前に行つてそこらに一杯にまだ積み上げたまゝの本を、どれから手をつけようかとながめた丈けでとむねをついてしまつた{*5}。こちらを見れば、今朝活版所から全部出来て来た松村さんの船長ブラスバオンドがあり、西郷さんの歌集塔がある。いよゝとならば、蚊帳の内にまだ何にも知らずにうまいしてゐる幼い四人の子供を、泣いても怒つても抱へ出さなければならない。二人の女中に背負せて逃がしたあと、亡父母の油絵を誰にどうしてと、瞬間にあの事この事混乱してさて手も足もすくんでしまつた。蒸汽ポンプが来た、もう大丈夫だといはれた時、はじめて自分の胸の動悸をおさへてみた。

「心の花」第十九巻八号(大正4年(1915年)8月)所載

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校訂者注
 1・2:ともに底本のまま。
 3:底本は「親し その式に」。カスレと見て一字補った。
 4・5:ともに底本のまま。

    鈴木梅太郎

 鈴木梅太郎博士には、自分の末女の夫が研究所で指導をうけたので、その書斎には博士の大きな写真の額がかけてある。それで学士院で、月々面会するをり、語りあつたこともある。末男の嫁の父なる鈴木庸生博士は、理研の研究室で同僚であつたに、不幸永眠された。その追悼会で、梅太郎博士が故人の学問をたたへられた懇篤な弔辞を聞いて、深く感激した。
 博士なき後、遠州御前崎の灯台にいつた。その途中、鎌倉時代の勝田(かつまた)長清の墓といふのがあり、鈴木博士の生家もあると聞いてゐたので、共に立ち寄つた。長清の墓といふに詣でたのは、長清の編んだ「夫木和歌抄」から、幼い時より恩恵をうけてをる自分は、多年の望を果したのである。鈴木家を訪うたのは、博士を知つてをつたといふだけではない。さきに猪苗代村なる野口英世博士の生家を訪うての感銘が深かつたからであつて、日本人として、また日本人のために、世界的研究をされた人々を尊敬してである。門を入れば柿の古木があり、博士が折々帰つてやどられたといふ室に通された。
 さて、御前崎の町に行き、郵便局長なる下村氏の家に立寄つたところ、才がありながら早く世を去つた長男の遺著「遠江新風土記」を示された。繙いてゆくと、鈴木博士の語られた言葉の中に、胸にしむ一挿話があつた。博士が若くてスイッツルに留学した時、母君から来た絵葉書に、「シュワイツの冬をしのげよ梅の花やがて花咲く春を思ひて」と、博士の名に因んで梅によそへた激励の歌が書いてあつた、とある。自分は、母君の心に深く感じたことであつた。しかして、「伊達政宗が朝鮮の役に在つた時、母最上氏からの消息が来た。それを開くと、中から梅の花いく片がこぼれ落ちて、消息には、『秋風のたつから船に帆をあげて君帰りこむ日の本の空』といふ歌がかいてあつたといふ昔がたりがある、それと趣はちがふが」というて、下村氏や同行の落合裏次氏に話したことであつた。その後、博士の未亡人須磨子刀自が、竹柏会の同人となられたので、博士が学問の研究に熱心であつた数々の話を聞いたことであつた。

    滝精一

 日本学術振興会の事業として、万葉集の英訳が企てられるや、はじめ八人の委員――文化史の側から、滝、姉崎正治、新村出、阿部次郎、国史学から、辻善之助、英文学から市河三喜、漢文学から鈴木虎雄、国文学から自分――後、六人の原案委員――東大の橋本進吉、京大の吉沢義則、前東北大の山田孝雄、国大の武村祐吉、歌人として斎藤茂吉氏、自分――と翻訳担当の二委員-小畑薫良、石井白村氏――が嘱託され、滝博士が委員長となられた。各々専門の委員の会合であるので、訓義の上で、翻訳の上で、その他種々の議論がやかましく、時としては激しく、時としては長い論争になることもあつた。そのやうな場合、委員長がいつもたくみに処理せられたので、うるはしく花さき実を結んだのであつた。(巻頭写真参照。)
 また、学士院の「宸翰英華」編纂の事業には、同じく滝博士が委員長になられ、自分も委員の一人として、宮内省、各宮家をはじめ、ここかしこを歴訪し、京都東山御文庫の調査にも同行したが、鋭意事業の進捗を計られた。然るに、完了を見るに及ばず永眠されたことは、まことに遺憾である。
  附記 大正六年の竹柏会大会には「法隆寺金堂の美術」の講演を請うた。また心の花に「松本晩翠翁」{第二十一巻八号}「源氏物語絵巻に就いて」{第十八巻八号}を寄せられた。

    俵国一

 熱海に移り住んで後、西山在任の俵国一(くにいち)博士と親しくなつた。それは、博士の義姉松子刀自が門人なので、大臣になられた兄君の孫一氏とも交はつてをつたからである。その専門の砂鉄製錬法の為、招かれて折々地方を巡られたが、さういふ時は別として、平素は西山の坂道を極めて気がるな恰好で、登りおりしてをられた。
 ある年の文化の日、西山の有志の人々が、文化動章拝受の君と自分とを招かれた。膳部につくとて「俵さん正席に」といふと、「君は第一回の拝受者であるから」と譲られる。自分は、「二人は同じ明治五年生れでも、俵君は二月生れ、僕は六月生れ、月上(うへ)であるから」といふと、「ヤア佐佐木君にやられた」と笑つて、正座につかれたことであつた。
 近年鎌倉の令息の邸内に移られたが、隔世の人となられたことは歎かはしい。

    新渡戸稲造

 明治四十二年の春の竹柏会大会の折、新渡戸(にとべ)博士に講演を乞うたに、「ファウスト物語について」といふ題で話された。「敷島の道に心得のない私が、斯ういふ会に出ますことは、忠臣蔵の芝居に弁慶でも出るやうに、あまりに釣合のわるいことで……」と面白く前置をして、話を進められた。しかし博士は、敷島の道を心得られないのではなく、学生の会合とか結婚式などには、屡々訓誡の古歌を引用された。話が自分のことに移るが、三村起一氏の結婚披露宴の時、いつも出掛けるまで仕事をしてゐて、当時は得やすかつた自動車でその日も築地の精養軒にいつたところ、「いや、こちらには、其の方の御披露はありません」とボーイがいふ。上野の精養軒に電話をかけて貰ふと、上野の方であつた。微苦笑しつつ再び自動車をやとひ上野へいつたに、すでに食卓が開かれて、しかも新夫人の歌の師といふので、媒酌の新渡戸博士の前に席があつた。席に着くと、やがて博士は祝辞を述べられた。その中に古歌の上句を引かれたが、話をきつて自分に向ひ、「この下句は何といひましたかね」と問はれた。幸ひ答はなし得たものの、重ね重ねの苦しさであつた。
 また、時好倶楽部で桂川へ鮎漁にいつた汽車中、博士と隣席したに、最近のある国際的感想について、「かういふ歌を詠んだから」と十数首を示されたが、いづれも感慨のこもつた作であつた。
 軽井沢にをつた或る夏の夕べ、霧の深い山荘に、博士を訪うたことがある。喜んで迎へくれられ、歌語りに時をすごし、さて帰らうとして玄関に出たところへ、夫人が帰つて来られた。博士は、自分を、歌の道に何十年をささげた人であるといふ風に夫人に紹介され、夫人の答を訳して聞かされた。それは、短い言葉であつたが、意味の深い言葉であつた。
  追記 ブラジルに移住されて三十年に近い岩間春野夫人が、昭和三十三年来訪された。夫人は新渡戸博士の姪であられるが、祖父君新渡戸常澄翁開拓百年祭が十和田市三本木で行はれ、銅像が建つので帰国されたとのことであつた。

    山崎直方

 山崎博士は温厚の君子といふべく、地理学者として旅行をよくされたので、帰られての旅がたりをかの山上集会所の午餐の時よく聞いた。中でも、同人の石井衣子さん夫妻のをられるアルゼンチンから帰られて、彼の地の話をされたのは、印象に残つてをる。さういふ交はりから、わが家に丘浅次郎博士の女がとついでくる時、博士夫妻に媒妁の労をわづらはしたことであつた。

    内藤虎次郎

 湖南内藤虎次郎博士の「燕山楚水」は、若い頃、屡々愛読して、自分の南清行の一因ともなつた書であつた。
 曽て「南都秘笈」の印行を企てたをり、博士は、聖武天皇宸翰の「雑集」及び「杜家立成」のために解説を書かれ、また、「百代草」にも序文を贈られた。大震災の直後、「校本万葉集」の原稿も、製本所にあつた五百部も全部焼失したに対して、同情ある書面を各方面から贈られて感謝したことであつたが、殊に自分に深い感銘を与へて、再び「校本万葉集」の印行を成さしめたのは、自分を家に訪はれての月台荘主人熊沢一衛君の激励と、博士の書簡とであつた。
 博士は、時に和歌をも詠ぜられた。深遠なる谿谷から清冽な水の湧き出づるごとく、詠歌の窮極は畢竟その人である。博士の作は、気魄に充ち、高邁なる精神を以て貫かれてをる。
 欧米に官遊せられたをりの和歌六首、いづれも、命を奉じて赴くといふ大きな気格によつて統一されてをつた。また、山城瓶原(みかのはら)に新居を占められた折の作十首がある。
 恭仁山荘には、一二回おとづれた。久迩の古京は、万葉集の長歌に、「河近み瀬の音(と)ぞ清き、山近み鳥が音(ね)とよむ」とうたはれたごとく、鹿背(かせ)山は緑にそびえ、木津川の流は清くさやかである。老木の茂つた故宮の跡をよぎり行けば、小高い丘の半腹に山荘がある。古京の景勝を、一眸のもとに望む清楚な居宅の傍らに、堅牢な書庫がある。博士に案内せられて書庫の楼上にのぼると、その一隅には貴重な漢籍の数々が収めてある。数冊を抽出してかつ示しかつ語られた。
 君が華甲の記念論文集の第二巻に、自分は「成尋阿闍梨母集」のことを書いた。自分の還暦の際の論文集には、君は書くべきよき題目が見当らぬからといつて、短冊に万葉書(がき)に書いて、歌二首を贈られた。
 博士の歌は、よく万葉の精神を体得せられたものであつた。従つて博士は、万葉集を愛せられた。大阪朝日新聞社によつて、天平文化記念会が開催された時、当時の副社長上野君は、博士を山荘に訪うて、記念のために不朽に伝ふべき事業として何が適当なるかを問はれたに、博士は、万葉集古鈔本の複刻をと答へられた。しかして、かの「元暦校本万葉集大成本」十五巻の刊行となつたのである。自分がその事に当つたのは、実に博士の答に基づくのであつた。

    清水澄

 昭和二十二年九月十二日、学士院の会議室で、毎月と同じやうに清水博士の隣の椅子に自分はこしかけてをつたに、会議の終つた後、博士は近くよまれた歌を示された。それは金婚式を祝はれた日、近親をつどへられた喜びの歌と、他に二三首あつた。いささか筆を加へると、いつものにこやかな面もちで、「有がたう」といつて、ポケットにしまはれた。
 二十六日の正午前、わが熱海の凌寒荘に訪問の客と話してをるとき、毎日一回配達される郵便物が数通来た。自分の習慣で、話をやめて手紙に目を通してゆく中に、清水博士のには、歌が四首かいてあり、終りに、いつものやうに、「乞叱、澄拝」とある。その第二首めの前に、「辞世」と題がかいてあるのでおどろいて目を見張つたが、これまでも、老年の人々には、前から辞世を詠み試みて見せにおこせられた例があるから、さうであらうと思ひつつ、第四首の「秋季皇霊祭の日」と題された一首がすぐれてをつたので、来客にもその一首だけを読んできかせなどした。
 しかるに、その日の午後四時過に、熱海の新聞記者があわただしくもたらした悲しいしらせを聞き実に驚き、深く歎いたことであつた。送られた手紙の封筒を見ると、二十六日の熱海局の消印がある。おもふに二十五日に熱海に来られて、ポストにいれられたのであらう。
 二十七日に訪ひ来た新聞記者から、博士の遺書の写しといふのを見せてもらつた。国を憂へ、法を重んずる老臣の切々たる至情に、つよく胸を打たれたことであつた。
  追記 昭和三十五年十月、君の慰霊祭が学士会館で執行された

    西田幾多郎

 先輩知友から贈られた書簡のたぐひの収めてある箱をあけて見たところ、中に、西田博士の書簡があつた。大正十一年に、自分の歌集「常盤木」を、京都の朝永正三博士を通して贈つたに対しての書状で、「歌集など拝読いたすこと、此上なく楽みと致しゐ候」とある。後、学士院の例会に自分が出るやうになつて、語りあふ機会に恵まれた。君また作歌に志されて、「新万葉集」にもその作が廿七首掲げられてゐる。君にしてその深奥なる思想を猶多く詠み出でられたならば、大西祝博士と双璧といひつべき、哲学者の歌人となられたであらうにと、わが歌の道の上からも、君の逝去が惜しみ悼まれる。
  追記 西田博士歿後、七里が浜の中ごろの砂丘に、歌碑が建つて「七里が浜夕日漂ふ波の上に伊豆の山々果し知らずも」といふ歌が彫られてをる。

    藤井乙男

 紫影藤井乙男(おとを)博士は、気品のある俳人とおもはれる感じで、物やはらかな話ぶりであつた。京都へいつた折に、二三回訪うた。それは、君が上田秋成の事蹟にくはしく、自分も秋成の歌文を喜び、その著書を探索してゐたからである。大正八年三月に訪うた時は、秋成の万葉に関する著で、金砂、楢の杣以外に、三條中納言公則卿のために万葉集を講じた筆記の写し二十巻があることを聞いた。その折、足代弘訓の文政十二年の書牘に、万葉類語のことがしるされてあるからとて贈られた。
 石田元季氏の「俳文学考説」に学士院賞の授けられる前、上京された君に上野で逢ひ、会がをへてから、万葉と俳諧といふことなどについて語りかはした。

    長与又郎

 今は昔ともいひつべき頃の話である。三浦守治博士が来られて、「今日はまことに喜ばしい。今年卒業の長与又郎君は名家の出であるが、成績秀抜で将来性がある。自分の病理学の後継者山極君の跡を継ぐやうに、病理学者として一層勉強されよと説いたところ、承諾とのことで喜ばしい」と、話された。
 爾来何十年かたつて、山中湖畔に蘇峰徳富翁の別堂を訪うた折、隣家に住まれてゐた長与博士が来られ、共に昔がたりをしたのが縁となつて、移岳集の増補版ともいふべき「三浦守治先生歌集」が、病理学教室設立五十年記念に出版され、自分もその式典に列した。そのやうな関係から、自分の還暦の祝賀会には祝辞を述べられもし、またチェンバレン先生の記念講演会の前に、大学の総長室にいつて、君に講演を依嘱もした。
 君の後を継がれた緒方知三郎博士が来訪され、「病理学教室の講堂の裏の入口は、教職員や学生の出入するところであるが、独逸の某大学にならつて、そこの壁に、解剖用の大理石の盤を嵌入したいから、それに撰文を」と嘱された。しかして、「上部に、三浦博士の歌、山極博士の俳句、長与博士の書の額をも彫りたい」との言葉である。偶然にも病理学の初代三代の部長との縁をおもひ、撰文のことに当つたのであつた。

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