昭和十五年 六十九歳
一月 「美美津の船出」を宮原禎次氏作曲、BKより放送せられた。
小謡「迎年祈世」を観世鉄之丞氏がAKより放送された。
しごとを携えて、熱海来宮荘に宿った。
急カープをバスくだり去りて片谷(たに)の枯笹群をゆする風の音
雪空を日はさし出でつひる過の枯草山はあたたかみ持つ
張つよき冬木の槻(つき)の枝に居て此の朝あけを声なき小鳥
樟(くす)の木間、海、金色(こんじき)にかがよへる来宮荘(きのみやさう)の朝のおばしま
此の夕べよき夕べなり紺碧の海にまさやかに大嶋は見ゆ
東京日日新聞社の「勤労奉仕の歌」、読売新聞社の「紀元二千六百年讃歌」を審査した。
二月 紀元節祭の御儀に参列して、文詞を心の花に掲げた。
筝曲「大和の春」が宮城道雄氏作曲により放送された。
絵葉書「神武天皇御聖蹟」、「大和と万葉集」各六葉を撰し、解説をかいた。高橋史光画伯筆。
那木の葉会の同人、治綱、由幾子、小城正雄、林大、宇野栄三、栗原潔子、遠山光栄君によって「鴬」が創刊された。
三月 河内弘川寺に西行上人七百五十年遠忌に詣でた。
山すそ路木間(このま)しづかに小鳥声すわが上人もふましし道か
これのみ山清みしづけみ歌の聖円位の聖とはにいますも
えにしありて桜の花を奉るそのきさらぎの遠忌(をんき)今日の日に
橿原神宮に詣で、奈良にいたり、月瀬(つきのせ){今は月がせといえど古称による。}に遊んだ。月瀬の梅渓は、月瀬紀勝の著者斎藤拙堂翁と相識り自らもまた月瀬梅風集を公にした先人が、予の幼時に屡々その景勝を語り聞かせた地である。こたび安達忠一郎君に導かれて遊び、即吟数十首を得た。
石垣をはなれて竹の林あり山村(やまむら)さぶる一もとの梅(途上)
奈良の雨は昨夜(よべ)つよかりき名張川水のたぎちの春さむきなり
谷八谷(やたに)白雲かをる中にして家づくりせり月の瀬人は
山頂のここに村あり高き低き家みな梅にかこまるる家
梅の村この清き村に聞くものは鴬の音(ね)と頬白の声と
何の鳥か声ひきてうたふ梅林(ばいりん)の木群(こむら)がなかに日はとほるなり
梅の鉢に土筆ひともとたけのびたり宿の女の伊勢なまりよし
この村の旧家なるべし築地(ついぢ)長く高石垣のかたはらの梅
蜜柑ならべ春蘭の鉢おきならべ山村人(やまむらびと)のなりはひはよき
着ぶくれし女の子らが立つ門(かど)の夕冷時(ゆふびえどき)の紅梅の花
梅渓にたまたままじる麦畑のたけ高からね目にしむ青さ
うめ千もと香(かを)れる雲の底にして此の深谷(ふかだに)の清きしづもり
夕光(ゆふかげ)の梅の下道たもとほり戦の世とここを思へや
かよふらむ征野の夢は、かぞいろの妻の子の待つ此の梅渓に
なお、客亭でかいた歌を、後、月瀬橋畔の大きな岩に彫ったというて写真をおこされた。
瀬の音(と)高く谷風たかく吹きふけば散りちる梅の千もと八千もと
帰途、笠置山に登り古えを偲んだ。
四月 聖徳太子奉讃会に、宮城道雄氏作曲になった「夢殿」が演奏された。
大日本歌人協会の紀元二千六百年奉祝記念講演会に講じた。
日満中央協会主催の満洲国皇帝陛下奉迎国民歌歌詞審査委員となった。
五月 東大記念日に総学部連合学生大会に「新しき命生れんが為に」を述べた。
家蔵の亀山天皇宸翰御消息、日本書紀神代巻断簡が、国宝として指定、官報に発表せられた。
深大寺にて、
古寺は雨のひびきもかそかなりしづかに対ふ白鳳仏に
時は世は千とせを経たりとこしへに白鳳仏のほほ笑みいます
泰山木大き葉にふる雨のおと白鳳仏も聞きいますべし
六月 宇治山田にいたり、伊勢神宮御参拝の行幸を仰いで、
神の都神幸(かむさち)ゆたにいでましのよき日今日の日のこの真澄空(ぞら)
七月 東京文理大国文学会に「希望の二三」を述べた。
国学院大学万葉集講習会に「万葉集の防人の歌について」を講じた。
心の花七月号を富岡ふゆのぬしの追悼号とした。
琴唄「帰らむとする浦島」がAKから放送された。
八月 日本大学日本文学講座に万葉集秀歌について講じた。
九月 「本居宣長の母」を放送した。
十月 先人五十年記念講演会を東大法科廿五番教室に開き、井上哲次郎、牧野英一、久松、川田君等が講話せられた。
紀元二千六百年と先人五十年の記念に「竹柏華葉」を印行した。
京都に、藤原定家七百年記念陳列を冷泉家に参観した。冷泉家の庭には「笈のうち」といわれる萩がさいていた。それは西行上人が東北に赴かれた帰途、宮城野の萩の種を持って来、俊成卿におくられた。その種が花さいたのを見て俊成卿が笈のうちと名づけられた。それが数百年咲きついでいるのであるという。冷泉為臣君は親しいので、特に一枝を請うて、翌日西行上人七百五十年記念に自分の書いた歌碑建碑式に、河内弘川寺にいたり、碑前に笈の内の一枝をささげ、表白(へうびやく)を読んだ。碑背の文は香取秀真君の執筆にかかる。
それより紀州木本に宿った。
秋の灯(ひ)に一人わが聞く波のおと真くま野の海の波のおとなり
新宮速玉(はやたま)神社の社頭なる竹柏の老樹のもとに撮影して、
熊野御幸あふぎまつれる時すでにかげ高かりしこれの梛(なぎ)かも
那智にて、
大き滝に金色(こんじき)に日ぞかがよへる見のまなかひに神いますごとし
ややややに夕づく山の風しづもり鼕鼕と滝の音ひびくなり
熊野御幸をしのんで、
かしこくも斗擻(とそう)修行のおほ御身に触りけむ朝の那智山の霧
夜ふけて勝浦荘にやどった。翌朝、荘の裏山にて、
渡り鳥鶸むれわたる茂(し)み蒼くとべ橿(がし)おしふ磯山の上を
維盛の入水したという山成島を望みて、
いとせめて後世(ごせ)安楽をねがひけむ身は三熊野の潮泡(しほなわ)にまじり
潮岬にて、
くろみたぎつ荒磯(ありそ)くろしほ直下(ちよくか)に見、潮の岬の秋風に立つ
鞺鞳と黒み寄せたぎる黒潮のあら磯にしてさける葛花
大草原(だいさうげん)秋風黄なりうづくまる、立ちて尾を振る、黒牛まだら牛
大草原海にかたぶく片崖(ぎし)に黙黙として草はめる牛
白浜に宿り、那智の作を推敲した。自分は幼くて漢詩を学び、旅中にも韻字の書を携えることが偶々ある。この夜、那智に於ける西上人の歌を懐いつつ、月色水光倶皓皓、巌頭半夜一人僧、の句を得たが、起承成らず、訓読して一首の歌とし、次に二首をそえた。
月の色と水の光と倶に皓皓(しろ)し巌頭半夜一人の僧
緇衣(しえ)の袖に夜(よる)の山の気かそかなり月たかく白く滝白く高く
音、光、心相照り月と人と滝とただにある夜(よる)の深山(みやま)に
翌朝海岸にて、
磯畑は花咲きのこる浜木綿に朝海の光今まともなる
和泉路にて、
和泉路はおくてみのり田時雨はれ遠かつらきの山の上の虹
石薬師にいたる。先人記念碑前祭に、大阪の五島茂君、山田の酒井秀夫君、奈良の前川佐美雄君、東京よりの印東弘玄君が小学校の講堂で講ぜられた。
いや新たにいや広に歌の道は栄ゆ亡き霊天がけり喜びいまさむ
十一月 静岡市公園の静岡倶楽部の傍らに予の撰文にかかる「戸田茂睡生誕之地」という碑が建てられた。{一六〇頁にある講演が花さき実ったのである。}《注:一六〇頁は大正15年8月》
冷泉為臣君の「藤原定家全歌集」に序詞をかいた。
大和橿原神宮外苑に大和国史館が完成した。かねてその企画に参与していたので、開館式の朝とく、大阪の刀祢館正雄君と共に奈良から畝傍にいった。
西ひむかし山あさもやに眠りてありやまと国原をわが自動車(くるま)迅(と)し
万葉室の一室は自分の考のままに中山正実画伯が画かれた「阿騎野の朝」という大きな壁画が一面を占め、向きあった一面には地図や万葉学者の筆蹟の大幅をかかげ、他の二面には万葉の写本刊本複製本の類をあつめ、真中のケースの中には、正倉院御物の模造品その他万葉関係の品物をおいた。多年志していた万葉博物館の小模型ともいうべきものである。
翌日、高松宮同妃殿下御二方が、参観者のはじめとして御来臨になったので、万葉室の陳列品について御説明申上げた。
新た代と息吹(いぶき)新たに万葉(よろづは)のにほふ巻々みそなはします
考古学室に、外苑よりの発掘品を見て、
橿原の宮つくらすときりし木のいちひがしの根かもまなかひに見るは
埴(はに)やきの玩具の獣(けもの)小さき壷原住民も子は可憐(かな)しみて
なおこの日、新村博士と共編の「万葉図録」ができてきたので、早速陳列したことは、まことに喜ばしかった。
宮城前の紀元二千六百年祝典に参列した。奉祝会の嘱により、自分の謹輯した「列聖珠藻」が配附された。
放送協会の詠吟研究会に、数回連続の講義をした。
越野栄松氏により、筝曲「おもかげ」が放送局から演奏せられた。
神奈川県知事より、金沢文庫の評議員を嘱託された。
十二月 護王会により、宮城御濠端に建立された和気清麿公銅像の除幕式に列した。副碑は自分の撰文、岡山高蔭君の執筆にかかる。夙くよりある楠公のに対して、文武の象徴ともいうべき像であるから、自分は短い文ながら深く精神をこめてしるし、岡山君も文字の配置等に留意して書かれたのであった。
富山県中田町に家持の「雄神川」の歌碑が建った。
奈良県大宇陀町に人麿の歌碑が建立せられた。碑背の文章は新村博士の執筆にかかる。