江戸期版本を読む

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    昭和十五年 六十九歳

一月 「美美津の船出」を宮原禎次氏作曲、BKより放送せられた。
小謡「迎年祈世」を観世鉄之丞氏がAKより放送された。
しごとを携えて、熱海来宮荘に宿った。
   急カープをバスくだり去りて片谷(たに)の枯笹群をゆする風の音
   雪空を日はさし出でつひる過の枯草山はあたたかみ持つ
   張つよき冬木の槻(つき)の枝に居て此の朝あけを声なき小鳥
   樟(くす)の木間、海、金色(こんじき)にかがよへる来宮荘(きのみやさう)の朝のおばしま
   此の夕べよき夕べなり紺碧の海にまさやかに大嶋は見ゆ
東京日日新聞社の「勤労奉仕の歌」、読売新聞社の「紀元二千六百年讃歌」を審査した。
二月 紀元節祭の御儀に参列して、文詞を心の花に掲げた。
筝曲「大和の春」が宮城道雄氏作曲により放送された。
絵葉書「神武天皇御聖蹟」、「大和と万葉集」各六葉を撰し、解説をかいた。高橋史光画伯筆。
那木の葉会の同人、治綱、由幾子、小城正雄、林大、宇野栄三、栗原潔子、遠山光栄君によって「鴬」が創刊された。
三月 河内弘川寺に西行上人七百五十年遠忌に詣でた。
   山すそ路木間(このま)しづかに小鳥声すわが上人もふましし道か
   これのみ山清みしづけみ歌の聖円位の聖とはにいますも
   えにしありて桜の花を奉るそのきさらぎの遠忌(をんき)今日の日に
橿原神宮に詣で、奈良にいたり、月瀬(つきのせ){今は月がせといえど古称による。}に遊んだ。月瀬の梅渓は、月瀬紀勝の著者斎藤拙堂翁と相識り自らもまた月瀬梅風集を公にした先人が、予の幼時に屡々その景勝を語り聞かせた地である。こたび安達忠一郎君に導かれて遊び、即吟数十首を得た。
   石垣をはなれて竹の林あり山村(やまむら)さぶる一もとの梅(途上)
   奈良の雨は昨夜(よべ)つよかりき名張川水のたぎちの春さむきなり
   谷八谷(やたに)白雲かをる中にして家づくりせり月の瀬人は
   山頂のここに村あり高き低き家みな梅にかこまるる家
   梅の村この清き村に聞くものは鴬の音(ね)と頬白の声と
   何の鳥か声ひきてうたふ梅林(ばいりん)の木群(こむら)がなかに日はとほるなり
   梅の鉢に土筆ひともとたけのびたり宿の女の伊勢なまりよし
   この村の旧家なるべし築地(ついぢ)長く高石垣のかたはらの梅
   蜜柑ならべ春蘭の鉢おきならべ山村人(やまむらびと)のなりはひはよき
   着ぶくれし女の子らが立つ門(かど)の夕冷時(ゆふびえどき)の紅梅の花
   梅渓にたまたままじる麦畑のたけ高からね目にしむ青さ
   うめ千もと香(かを)れる雲の底にして此の深谷(ふかだに)の清きしづもり
   夕光(ゆふかげ)の梅の下道たもとほり戦の世とここを思へや
   かよふらむ征野の夢は、かぞいろの妻の子の待つ此の梅渓に
なお、客亭でかいた歌を、後、月瀬橋畔の大きな岩に彫ったというて写真をおこされた。
   瀬の音(と)高く谷風たかく吹きふけば散りちる梅の千もと八千もと
帰途、笠置山に登り古えを偲んだ。
四月 聖徳太子奉讃会に、宮城道雄氏作曲になった「夢殿」が演奏された。
大日本歌人協会の紀元二千六百年奉祝記念講演会に講じた。
日満中央協会主催の満洲国皇帝陛下奉迎国民歌歌詞審査委員となった。
五月 東大記念日に総学部連合学生大会に「新しき命生れんが為に」を述べた。
家蔵の亀山天皇宸翰御消息、日本書紀神代巻断簡が、国宝として指定、官報に発表せられた。
深大寺にて、
   古寺は雨のひびきもかそかなりしづかに対ふ白鳳仏に
   時は世は千とせを経たりとこしへに白鳳仏のほほ笑みいます
   泰山木大き葉にふる雨のおと白鳳仏も聞きいますべし
六月 宇治山田にいたり、伊勢神宮御参拝の行幸を仰いで、
   神の都神幸(かむさち)ゆたにいでましのよき日今日の日のこの真澄空(ぞら)
七月 東京文理大国文学会に「希望の二三」を述べた。
国学院大学万葉集講習会に「万葉集の防人の歌について」を講じた。
心の花七月号を富岡ふゆのぬしの追悼号とした。
琴唄「帰らむとする浦島」がAKから放送された。
八月 日本大学日本文学講座に万葉集秀歌について講じた。
九月 「本居宣長の母」を放送した。
十月 先人五十年記念講演会を東大法科廿五番教室に開き、井上哲次郎、牧野英一、久松、川田君等が講話せられた。
紀元二千六百年と先人五十年の記念に「竹柏華葉」を印行した。
京都に、藤原定家七百年記念陳列を冷泉家に参観した。冷泉家の庭には「笈のうち」といわれる萩がさいていた。それは西行上人が東北に赴かれた帰途、宮城野の萩の種を持って来、俊成卿におくられた。その種が花さいたのを見て俊成卿が笈のうちと名づけられた。それが数百年咲きついでいるのであるという。冷泉為臣君は親しいので、特に一枝を請うて、翌日西行上人七百五十年記念に自分の書いた歌碑建碑式に、河内弘川寺にいたり、碑前に笈の内の一枝をささげ、表白(へうびやく)を読んだ。碑背の文は香取秀真君の執筆にかかる。
それより紀州木本に宿った。
   秋の灯(ひ)に一人わが聞く波のおと真くま野の海の波のおとなり
新宮速玉(はやたま)神社の社頭なる竹柏の老樹のもとに撮影して、
   熊野御幸あふぎまつれる時すでにかげ高かりしこれの梛(なぎ)かも
那智にて、
   大き滝に金色(こんじき)に日ぞかがよへる見のまなかひに神いますごとし
   ややややに夕づく山の風しづもり鼕鼕と滝の音ひびくなり
熊野御幸をしのんで、
   かしこくも斗擻(とそう)修行のおほ御身に触りけむ朝の那智山の霧
夜ふけて勝浦荘にやどった。翌朝、荘の裏山にて、
   渡り鳥鶸むれわたる茂(し)み蒼くとべ橿(がし)おしふ磯山の上を
維盛の入水したという山成島を望みて、
   いとせめて後世(ごせ)安楽をねがひけむ身は三熊野の潮泡(しほなわ)にまじり
潮岬にて、
   くろみたぎつ荒磯(ありそ)くろしほ直下(ちよくか)に見、潮の岬の秋風に立つ
   鞺鞳と黒み寄せたぎる黒潮のあら磯にしてさける葛花
   大草原(だいさうげん)秋風黄なりうづくまる、立ちて尾を振る、黒牛まだら牛
   大草原海にかたぶく片崖(ぎし)に黙黙として草はめる牛
白浜に宿り、那智の作を推敲した。自分は幼くて漢詩を学び、旅中にも韻字の書を携えることが偶々ある。この夜、那智に於ける西上人の歌を懐いつつ、月色水光倶皓皓、巌頭半夜一人僧、の句を得たが、起承成らず、訓読して一首の歌とし、次に二首をそえた。
   月の色と水の光と倶に皓皓(しろ)し巌頭半夜一人の僧
   緇衣(しえ)の袖に夜(よる)の山の気かそかなり月たかく白く滝白く高く
   音、光、心相照り月と人と滝とただにある夜(よる)の深山(みやま)に
翌朝海岸にて、
   磯畑は花咲きのこる浜木綿に朝海の光今まともなる
和泉路にて、
   和泉路はおくてみのり田時雨はれ遠かつらきの山の上の虹
石薬師にいたる。先人記念碑前祭に、大阪の五島茂君、山田の酒井秀夫君、奈良の前川佐美雄君、東京よりの印東弘玄君が小学校の講堂で講ぜられた。
   いや新たにいや広に歌の道は栄ゆ亡き霊天がけり喜びいまさむ
十一月 静岡市公園の静岡倶楽部の傍らに予の撰文にかかる「戸田茂睡生誕之地」という碑が建てられた。{一六〇頁にある講演が花さき実ったのである。}《注:一六〇頁は大正15年8月》
冷泉為臣君の「藤原定家全歌集」に序詞をかいた。
大和橿原神宮外苑に大和国史館が完成した。かねてその企画に参与していたので、開館式の朝とく、大阪の刀祢館正雄君と共に奈良から畝傍にいった。
   西ひむかし山あさもやに眠りてありやまと国原をわが自動車(くるま)迅(と)し
万葉室の一室は自分の考のままに中山正実画伯が画かれた「阿騎野の朝」という大きな壁画が一面を占め、向きあった一面には地図や万葉学者の筆蹟の大幅をかかげ、他の二面には万葉の写本刊本複製本の類をあつめ、真中のケースの中には、正倉院御物の模造品その他万葉関係の品物をおいた。多年志していた万葉博物館の小模型ともいうべきものである。
翌日、高松宮同妃殿下御二方が、参観者のはじめとして御来臨になったので、万葉室の陳列品について御説明申上げた。
   新た代と息吹(いぶき)新たに万葉(よろづは)のにほふ巻々みそなはします
考古学室に、外苑よりの発掘品を見て、
   橿原の宮つくらすときりし木のいちひがしの根かもまなかひに見るは
   埴(はに)やきの玩具の獣(けもの)小さき壷原住民も子は可憐(かな)しみて
なおこの日、新村博士と共編の「万葉図録」ができてきたので、早速陳列したことは、まことに喜ばしかった。
宮城前の紀元二千六百年祝典に参列した。奉祝会の嘱により、自分の謹輯した「列聖珠藻」が配附された。
放送協会の詠吟研究会に、数回連続の講義をした。
越野栄松氏により、筝曲「おもかげ」が放送局から演奏せられた。
神奈川県知事より、金沢文庫の評議員を嘱託された。
十二月 護王会により、宮城御濠端に建立された和気清麿公銅像の除幕式に列した。副碑は自分の撰文、岡山高蔭君の執筆にかかる。夙くよりある楠公のに対して、文武の象徴ともいうべき像であるから、自分は短い文ながら深く精神をこめてしるし、岡山君も文字の配置等に留意して書かれたのであった。
富山県中田町に家持の「雄神川」の歌碑が建った。
奈良県大宇陀町に人麿の歌碑が建立せられた。碑背の文章は新村博士の執筆にかかる。

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    昭和十四年 六十八歳

一月 北京近代科学図書館二周年記念号に、心の花所載の「英訳万葉集に就いて」を洪炎秋氏の漢訳せる「関於英訳万葉集」が掲げられた。
二月 紀元節に、「肇国歌」が弘田竜太郎氏の作曲により放送せられた。
丁酉倫理会、東京府立第三高女、神奈川県立横浜第一高女等に講じた。
三月 帝国女子専門学校、お茶の水家庭寮に講じた。
四月 東京会館に英訳万葉集竟宴に列した。多年の希望の書が、多数の学者及び訳者の努力により完成したことは、喜びに堪えない。食卓に馬酔木の花をかざり、メニューも、一、豊御酒、一、薯羹物、一、焼魚、一、牛炙、一、春菜、-、氷菓、一、阿倍橘と上代風にさせたことであった。
東京日日新聞社の太平洋行進曲の審査員を嘱せられた。
斎藤瀏、小宮良太郎君らが、短歌人を創刊せられたに、ことほぎ送った歌、
   現(うつ)し身の玉の緒触りてさやさやに清き響をたつる歌なり
   真梶貫(ぬ)きいゆく船人に幸(さち)あれな歌の大海に朝びらきす今
五月 第一高等学校に「万葉の春」を講じた。
東京朝日新聞「新進歌人抄」に、伊藤嘉夫、小城正雄、村田邦夫、三氏の作を寄せた。
東郷元帥を讃うる歌の碑が、多磨霊園なる大森氏の邸内に建った。
大阪に赴いて、天王寺なる社会事業会館の歌会に列した。京都にいたり、京大楽友会館の金雀枝会に講じた。次の日は葵祭を見、行列について御薗橋を渡り、神前にぬかずいた。
   南庭(なんてい)に東遊(あづまあそび)奏し橋殿に駿河舞まふ夢の代のごと
六月 東京商大に講じた。
愛国婦人会主催銃後家庭強化の歌の審査員を嘱せられた。
杉栄三郎、新村出二博士を招いた夜、近く得た古代の酒甕を花がめに用いて、
   上つ代の大きもたひの花がめに真白百合さす客人料(まらうどがね)と
   ま白百合いろをしづけみ夏花の紅こきをさしまじへたり
七月 新湊町柴氏邸内の万葉歌碑の除幕式があった。
聖戦二周年の日、放送局より放送すべく「七月七日盧溝橋」を作った。作曲は堀内敬三君。
日本女子大に「藤原定家の国文学に於ける寄与」を講じた。
鶴見和子さんの渡米、富岡冬野さんの上海行送別会に、堂本竜子さんは「米国から帰って」、西富貴子さんは「モスコーより帰りて」の感想を述べられた。
奈良に赴いた。橿原神宮外苑なる大和国史館建設委員会の顧問として、施設内容についての意見を開陳した。夜汽車にて帰京、東京駅にて、
   鹿歩みし夕日の奈良に歌おもひつ今東京の雑音(ざふおん)にまじる
八月 国学院大学の万葉講座に「万葉集時代概説」、日本小児科学会に、「小児を詠じた歌」、司法研究所に「万葉集の時代」を講じた。
軽井沢に避暑中、独訳万葉集に就いて、ツァヘルト君を米田山に訪うた。木村謹治博士、小城君らと同道した。
   老樅の木かげの卓に万葉の訳語かたらふまだら日淡し
ツァヘルト君も絵葉書に即吟をかいて示された。「樅のもと風清く涼し万葉の昔語りに時走りたり」。
米山梅吉君の浅間庵招宴に、関屋貞三郎君と同行した。
   田舎家(や)は雨夜ひゆるに炉の火あかし世を憂へ語る客もあるじも
九月 厚生省主催の明治神宮国民体育大会歌の歌詞審査を嘱せられた。
十月 室蘭なる栗林家の会社創立二十周年記念に栗林加寿子刀自の歌碑の碑陰の記をしるしたので、招かれて北海道にわたった。
   ひさかたの天の白雲に心うごき北海(ほくかい)にこゆる秋の旅人
   秋空に鴎と化(な)りてまひのぼる松前丸がしぶく白波
   タ浪の八重折(やへをり)が上に鴎まへり海をへだてて駒が嶽淡く
洞爺湖、
   舟よする嶋岸淵に散りよどむいたやの紅葉かしは黄朽葉
   足ふめばゆらぐ桟橋板間にも岸にも散れる島山もみぢ
   この間(ま)がくり四十雀の声澄みとほる嶋山かげのここは風なく
室蘭に栗林家にいたる。製鉄所に案内されて、
   とどろとどろ高とどろけるハンマーに新(にひ)亜細亜おこる声こもるなり
   をのこにまじらひ、職場守る女、頭上を鉄塊は右往し左往す
   わが立つ断崖(きりぎし)枯生(かれふ)こほろぎ鳴き千尺(ちさか)のしたは真青(まさを)大海(追直浜を望む)
登別小公園の歌碑建碑式は、いとも盛大に行われ、石榑千亦君も来られた、藤本鳥羽子ぬしの建設の記と写真とは、心の花十一月号に掲げてある。
   家の風おこり栄えて栗林よき花かをりよき実みのりつ
公園の傍のグランドホテルにて、
   ロビーの灯(ひ)かげやはらかし湯づかれの身を快く深椅子による
石榑君はさきに帰られた。地獄谷にて、
   湧きたぎりのぼる湯の気(け)に日ざしつよく剣(けん)が峯の赫岩もゆるが如し
湿原、
   大湿原かぎれる海のただに碧く真青(まさを)さ深き空の色なり
   秋空は澄みきはまりて翳(かげ)もたず見はるかす海にただ一つの舟
白老、
   秋風の白老村(コタン)段(きだ)屋根の上におりゐて浜鴉なく
   聖戦(みいくさ)に孫が召されし誇らひを肩はりつつも嫗は語る
   細工もの独木舟(モチツプ)にをるあいぬびと親子熊(カムイ)もかなしきものを
十勝野、
   灰色にぬりつぶされし平野(へいや)過ぎ丘陵地帯になれり、木の、草のもみぢ
神威古潭、
   崖と崖黄の一色(いつしよく)にいろどれるかむゐこたんの岩むらの秋
松浦武四郎翁を憶う。{二二頁参照}《注:二二頁は明治15年3月》
   松浦の老翁(をぢ)し偲ばゆ石狩川岸の枯生の道ふみなづみ
   山にいね雪の上(へ)に臥し遠つ蝦夷踏みめぐり書きし幾十冊の日記
大雪山、
   夕日今し沈まむとして大雪山山(やま)なみの秀(ほ)の雪、光あり
層雲峡、
   峡迫り天つ空せばし高岩のもみづる上に遊ぶ白雲
   山風を千ぐさにそめて散り乱るいたやの赤きかつらの黄なる
   岩垣を高み光の乏しかる峡の夕日にちりちる紅葉
   入日まともに光をなげて山ひだの高き低き紅葉色もえむとす
山村、
   山の家その子めされししるしの旗紙の日の旗軒高うたてる
   道に出でて子を呼ぶ母がこゑひびく夕山村の秋風の中
   やますそ小屋、夫、木を伐るに恵念なり泣く子あやせる女の声す
   山裾道科皮(しなかは)はぐともはらなる女の白き三角帽子
路傍の家、
   海つ物柳葉魚(ししやも)小竹にさし乾(ほ)してかそけき家のくらしなりけり
   闖入者厭ひげもなく三人(さんにん)の炉ばたの女したしげに語る
   戦地より昨日(きそ)便こしとあかき襟かけたる若き一人(いちにん)は云ふ
   猛(まう)にして忠実(まめ)なる犬のアイヌ犬わが家の族(ぞう)と背を撫でて云ふ
   唐黍(たうきび)を壁に掛け並(な)め雪ごもる百日(ももか)の冬の料とすと云ふ
また、十勝野にて、
   時雨雲空につめたし広原は茫漠として日くれなむとす
   夕ぐれの時雨にぬれてあはれなり無蓋車につめる大き木材
定山渓(じようざんけい)、
   湯のけぶり紅葉の谷にまつはりて家々の窓夜(よる)ならむとす
   朱(あけ)と黄といろ交錯す渓風に虎杖(いたどり)ゆられ山葡萄ゆれ
   湯の沢川夜ふかく覚めて音近し胸にここだくの思あらしむ
定山寺に定山法印の遺物を見る。
   魔を除(よ)くと獅子頭(がしら)もち村歩きつ身は北海の潮にさらされ
   岩山の笹生よぢ、村々めぐりけむ定山坊の破(や)れたる法衣
帰途、西原民平君が露領ドウエより帰り来られたのと小樽より同車した。
   韃靼の海の上(へ)の月に船追ひくるいるかの群を手真似し語らる
西原君を小樽に迎えた月岡社員の談を聞きつつ、
   北サハリン荒海(あるみ)に沿へるドウエの山そが炭山に幾年(とせ)をありし
心の花十月号を「橘糸重子追悼号」として諸家の文辞を掲げた。
放送局より「陣中の歌」を放送した。
三菱倶楽部にて、「心の糧心の記録としての歌」を講じた。
女子会館に「曙覧を偲ぶ会」に講じた。
十一月 鎌倉山に、日ぐらし富士の歌碑が建った。
   日ぐらしに見れどもあかずここにして富士は望むべし春の日秋の日
十二月 大和にいたり、中山正善、松尾四郎、阪本猷、川瀬一馬氏と香久山村にて、
   久方の天のかぐ山冬の日の輝きにほふよき日にまゐきつ
二千六百年祭々器の埴採場に竹上氏に案内せられ、鍬鋤を手にとって、
   香久山の厳(いか)し埴土(はにつち)とりつとふ神鋤神鍬かしこみ手にとる
松山町にいたり、阿騎野の旧蹟に「ひむかしの野にかきろひの」の歌碑の建つ所を見、薬草園を訪い、松尾氏の邸にいった。町の旧家で、二階の障子に三色の色硝子がはめてあったので、幼時を偲んだ。

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    昭和十三年 六十七歳

一月 旧臘からしごとを携えて熱海ホテルにいった。
   はらからは戦へるなりのどかに朝海にむかふ此のおほけなさ
   思ひは思ひを生みてまなかひの大海は夜の色となりにし
   命ささげ戦へる健男(たけを)おもひつつ心つつしみ文机による
   人と人と民族と民族と手とりあひ笑みつつ語る日よとく来れ
   海鳴にめさめておもふ戦の後の戦に光あらしめ
御講書始に「御歴代の御製に拝せらるる御聖徳」について進講した。御進講をおえて心のうちに思いつづけた歌、
   海遠(をち)は風雲さやぐ わが大君内外(うちと)の書(ふみ)のことゆたに聞かす
   国を民をおぼしし代々の大御歌かしこみきこゆ大み前にして
府立第二高女に講じた。
心の花に「総攻撃の前夜」(口語体)を掲げた。
万葉集講読会、及び東京農業教育専門学校に講じた。
林大氏の応召送別会を清澄公園に催した。
   鴨ゐる島この広池のさざらなみ野営の夢に入る夜あらむか
三月 印東昌綱君の華甲祝賀会が宝家で催された。
   浅夜寒みストーブつけてはらからが語らひかはす小川町の昔
   唯一つのわが誇らひの思ひ出は泣くを背負ひて須田町にゆきし
   須田町まで鉄道馬車のかかりしを見せにぞゆきし泣くをすかしつつ
   本にのみかじりつきゐし「本虫」の一人の兄にさびしくありけむ
四月 京都にトラウツ君の独逸に帰られるを見送って、
   七年(とせ)を君が在り見し東山かすむ春べを君往なんとす
大阪商船の高千穂丸にて神戸より門司にむかう。大沢忍、源豊宗、村田達枝、富岡とし子君同行。
   闇の海光いささか帯び来れり月は伊予路の山を離れつ
   せとの海夜汐早しも見つつありし左舷の月は右舷になれり
   紫に嶋々かすめり神の御手に作らししは春の曙なりけむ
下関にて赤間宮に参拝、長門本平家物語、豊太閤の短冊等を見、いわゆる七盛の墓のうち特に右京大夫のために資盛の墓前にぬかずき、長府にものし、山口にては図書館に大内家旧蔵の古書を探り、常栄寺に雪舟の造ったという庭をながめて、
   画の聖心の筆に石すゑしめ池つくらしめ成れる庭かも
瑠璃光寺の五重塔を見、下関に帰り、宇佐神宮参拝、富貴寺にいった。その途上で、
   山椿花咲きしだり荘厳(しやうごん)す大き岩にゑれる此の摩崖仏(まがいぶつ)
富貴寺に壁画を見た。
   石磴(せきとう)はゆがみくぼめりおびただしき落花なるかも踏みつつ登る
   春の鳥山のみ寺に声すなり白鳳仏のましますみ寺
別府途上、
   定印の阿弥陀ほとけはしづもります藤原の代の板画(いたゑ)の前に
   豊の国これの峠(たむけ)の大木桜まさかりの日にわが逢ひにけり
別府に鰐を飼える湯を見て、
   ゆぶねの湯ほのあたたかみ鰐の群そが故郷を忘れたるらし
   一(ひと)ゆぶねに一(いち)の大きわに一(ひと)ゆぶねに身に身よせあへる二三十の鰐
   己(し)が身のさかれむ日まで湯の気(け)ぬくきこれの湯ぶねに眠れる鰐か
和声会の嘱により、「帰らむとする浦島」を作詞した。{二〇四頁参照}《注:二〇四頁は昭和6年7月》
東大病理学教室五十年史下巻に、故三浦守治教授のために、「人間性を表現せる歌人」を寄稿した。
五月 武田君及び弘文社の人々と榛名湖より榛名神社に詣でた。
   山に対(むか)ひみづうみに臨み友も吾も長き思出のよき一日なりし
田中光顕翁に招かれて袋田温泉に遊んだ。
米国なるバーネット夫人より、ポトマク河畔の桜の画の出ておる新聞に自らの歌をかき、かつ其の川の水を壜に入れて二荒君に寄せ来った。その水で書いておくった歌。
   ぽとまくの岸をめぐりてしき島のやまとの桜さきにけらずや
   此の水やいづくの水花ざくらかげをひたせるぽとまくの水
   花にそみしぼとまくの水硯にうけかき流したるやまと歌ぞ之(こ)は
六月 東京女子大に「良き師良き教子」を述べた。
七月 立正大学国文学会に「桑門の歌人」を講じた。
八月 鎌倉ペンクラブ主催夏季大学に「源実朝」を講じた。
原善一郎君の一周忌に歌集、「夜(よる)の雪」を出版すると、村田邦夫君と共に校正をした。
   君が性(さが)をおもひ、幾たびか校じつつ成れる一巻(ひとまき)を供養(くやう)じまつる
   ぬばたまの夜(よる)の白雪真しづかに浄き境に君いますべし
三渓園なる天授院に、新月会同人と共に原君を偲んで、
   流にそひ木蔭(こかげ)の道をとめゆけど君が姿の見えずもあるか
   むかつ丘暮れもてゆくなりたましひの底にしみとほる筧の音か
斎藤瀏君を豊多摩刑務所に訪うた。乾政彦、中村徳重郎君が同行せられた。
九月 臨時東京第一陸軍病院に、伊藤嘉夫君と共に隔週作歌を指導し、万葉集を講じた。
   会場の壁によせかけし松葉杖かずおほかるに心はいたむ
   みとりめに手ひかれ歩みく戦盲のおも朗(ほがら)かに曇れる色なし
   傷うづく勇士もあらむ歌がたりうなづき聞きて笑(ゑ)ましげにをる
   足断たれし白衣の勇士わが説くを手押車の上にして聴ける
これは百回以上つづいた。その間に傷病兵諸君の真情のこもった力づよい作品をあつめて、伊藤君と合編の傷痍軍人聖戦歌集、及び、御楯、失明軍人歌集戦盲及び心眼を刊行した。
十月 海軍省より海軍旗制定五十年記念の為「軍艦旗の歌」の制作を嘱せられて作成、十一月三日の佳節の海軍大行進に演奏合唱せられた。
十一月 文部省小学読本に「万葉集」の執筆を嘱せられた。
長崎熊本の医科大学、福岡佐賀の高等学校に講ずべく出で立った。
   若人(わかうど)に古歌(ふるうた)の力説かまくと防人(さきもり)がこし筑紫路に来つ
福岡にて大隈言通の旧宅さゝの屋にいたる。言道が世を去った室、眺めた池もさながらにある。その著「ひとりごち」を思うて、
   さゝのやの窓にかこちし「ひとりごと」きく人はありき三十年(みそとせ)の後
   あるじあらば歌はまし、池の枯蓮の茎の上(へ)わたり鶺鴒のあそぶ
野村望東尼の平尾山荘にて、
   屋の砌(みぎり)に落葉多かりある宵は落葉の音を聞きしみ居けむ
   藁びさし散りつめる落葉おびただし今おちて赤き紅葉の一葉(ひとは)
穴山孝道君の指導のもとに、児玉寿子夫人の催さるる歌会の会員の博多ホテルにつどわるるに歌がたりをした。
   新(にひ)しき道、言道の老翁(をぢ)が拓きし郷(さと)いま新(あら)た代にうまし花さけ
太宰府を望み見つつ、
   いにしへの水城(みづき)のあたり小草黄なり東歌(あづまうた)うたひ防人は来ずや
   梅花(ばいくわ)の宴憶良の大夫が下つ座(くら)に佐氏(さし)信綱のまじり得ばとおもふ
佐世保に、朝永造機少将に迎えられて鵜渡越に登る。綱子、峯子が同行した。
   秋晴の坂路足迅(ど)にのぼる峯子をとめに近き大きさになれる
車中にて、
   国今し戦へるなり夕山村紅葉の村に日の旗は立てる
   夕背戸に童ら遊べり戦地にして此の山村を思ふ兵あらむ
   山畑にわら火たく子ら目ざとに見兵士のれる汽車に万歳を投ぐ
長崎医科大学に講じて、
   若人のつとめはも重しひむがしのあじあの空に光みたしめ
川西知事夫妻に招かれて、増田図書館長と共に「満月」にかたる。
   冬晴のかがよふ海を見つつ聞く紅毛がたり三菱造船所の繁栄(さかえ)
浦上天主堂にて、
   彩色(いろゑ)ガラス洩る日光(ひかげ)濃しマリア立たす聖壇の前の消えざる聖(きよ)き灯(ひ)
   浦上の山のやま風あらびもしつ消えせず聖(きよ)きこれのともし火
天主堂の附属室の陳列棚に、平仮名でかいた古き教義本を見て、
   村女(むらをみな)ひそかに筆とれるか宛字(あてじ)がちに三丸太(さんまるた)など書ける教義本(をしへぶみ)
その傍らに古き信者がもっていた麻縄の鞭――そのにぎりの棒は古び、縄がよれよれになっているのを見て深く感激し、「麻縄の鞭」一連の作を詠じた。
   苦行人(くぎやうびと)この麻縄の鞭とりあげ血ぶくまで我をうちけむか我を
   炎なす信(しん)の心をもちつつなほ我を呵責しうちけむ鞭か
   この鞭や神の真鞭(まさむち)うつそみの身も心をもうちくだけとふ
   悲しかも苦行足(た)らざる我を我とむちうちうたむ此の鞭とりて
   心おぞくい行くべきをも行きがてぬ懦弱の我をわれむちうたむ
   こころをしひておさへて忍びをり恇怯の我をわれむちうたむ
   感(かま)くるこころのまにま直(ひた)進む軽躁の我をわれむちうたむ
佐賀高校長森岡氏に案内されて、市の郊外東与賀村に三浦虎次郎君の墓を訪うた。
   縁(えにし)ありてわが歌、君を世に伝へき今日し吾が詣づ「勇敢なる水兵」の墓
   刈田には稲こづみ多しただむかふ金立(こんりふ)の山に虹たてり見ゆ
         (稲こづみは稲むらの地方言)
佐賀高等学校に講じて、
   大き陸(くが)の広く、大き洋(うみ)の果知らず、ひた進みゆかむ若人を寿(ほ)ぐ
熊本医科大学に講じて、
   懸崖の菊の一鉢咲きしだり広き講堂をなごやかにせる
細川家別邸に、玄旨法印書写の典籍を見て、
   むかし人心のどやかにまめやかに合戦(たたかひ)の間にも写しし歌書(うたぶみ)
鹿児島県阿久根には、冬の初め、朝鮮から鶴が多く群れ来ると聞いて、毎年行き見まほしく思ひつつ果さずにおった。今年五月に文部省から、十一月九州に文化講義をとの嘱をうけ、むしろ「人やりの道」なりせばと思うて、熊本までは来たのであった。しかるに熊本で病むことになった。
   隼人(はやと)の国海わたりくる鶴群(たづむら)を見むとは来しか旅の途(みち)に病む
   阿久根のや百千鶴群ゆき見がてぬ熱ばめる目に百千(ももち)乱れ飛ぶ
   熱ばめる目をとぢてをり我死なばなげくらむ顔が濃くうかびくる
すべなくて熊本より帰京した。車中、英霊十一柱と同乗して、
   車窓(まど)ゆ仰ぐ夜空に月の光きよし英霊も見ませ筑紫路の月ぞ
先人の遺著土佐日記、更科日記、十六夜日記等の俚言解を口訳国文叢書として補訂出版した。
南京飛行場なる展望台の前に自分の歌碑が建った。
   神国(かむぐに)の海のあら鷲大き陸(くが)の空とよもしし功(いさを)はかがよふ
南京航空隊の上阪司令官からその写真をおくられた。
   わが歌にわが魂(たま)ごもりとこしへに仰ぎたたへむ海の荒鷲を
         (かくは詠んだが、事変後とりくずされたことであろう。)
小林愛雄、葛原しげる、弘田竜太郎君と協力して「愛国唱歌」第一集が刊行され、予の「正義の軍」、「総攻撃の前夜」を掲げた。
十二月 斎藤茂吉君と共選の「支那事変歌集」が読売新聞社から出版された。

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    昭和十二年 六十六歳

一月 宮中鳳凰の間にさぶらいて、
   内つ御苑風やはらかに老(おい)梅の花かげにして遊べる雉子(きぎす)
   木(こ)の下(もと)にはつはつ残る雪清し老(おい)樹の梅の花ゆたかなる
アレキサンダー夫人の母の会に、米国婦人の為に「短歌に就いて」を講じた。
熱海にて、
   場末の町正月気分なほ残りて夕風にゆらぐ店々の旗
二月 心の花を発行して四十年を迎えた。
   四十年をあゆみは来しかとこしへにつららく道の数歩(すうほ)に過ぎず
英訳万葉集委員会の日、
   言葉つよくいひ争ふも一言にこもる命をいとほしむなり
四月 志摩に赴き、酒井秀夫君と鳥羽真珠が島に遊んだ。海女の作業を見て、
   をどり入りし波のゆらぎの白きゆれ見る見る見えずただ真蒼(まさを)浪
   浮き出でてふく口笛の磯なげき海しづかなれば遠けれど聞ゆ
         (口笛を磯なげきといふ)
海女の語るを聞いて、
   志摩の国たふしの嶋の波に生れ波と遊びてひととなりにし
   楽しきは海の国なり波風のあらあらしきは人の国なる
鳥羽より船にて二見に向うとて、
   おもむろに入(いれ)の風ふきほのがすむ嶋々の間(ま)の鯛つり小舟
   飛島(とびしま)の七つ小嶋に夕日はえ今ひきしほの汐の流迅(と)し
   西風(にし)吹けば船人(ふなど)恐(かしこ)む神崎(かうざき)の岩が根雑木(ざふき)よぢれ丈(たけ)のびず
松阪なる原田嘉朝翁の墓前祭に、積善会の人々と共に詣でた。鈴屋旧宅の門前で、同行されたシュプランガー教授に、
   やまと心桜さきみてり神風の伊勢の松阪よ君が目にのこれ
朝日村小向(おぶけ)に橘守部表彰会の式に臨み、大阪の竹柏会支部に刀祢館正雄君らと語り、放送局より「大和の春と万葉集」を放送、大和にいたり、秋篠寺に、斎藤茂吉、小畑薫良、石井白村君らと相伴なつた。
   奈良の世の歌人こずや古りにし代今あらた代のこと語らむを
奈良ホテルにて、
   窓あくれば三笠山かすめり青によし奈良にさめたる春の朝なり
多武の峯にて、
   はたと落ちし椿一花に山水をうくるかけひの流は淀みつ
   若芽もゆる大きかつらの蔭に立ち十三塔のよき形めづ
大和路ここかしこ、
   いにしへの天(あめ)のかぐ山三輪の山名ぐはし山霞む吾がまなかひに
   春風のやまと国原麦生あをしいかるがを行き飛鳥路をゆく
飛鳥寺に辰巳利文君発願の万葉歌碑(赤人の長歌)建設式に列り、碑の側に池を掘ったところから出たという古代の瓦を贈られた。
   朝雲を仰ぎ、夕霧にたたずみけむこれの飛鳥の山川をよみ
   人の世は千とせを経たりうた人の歌の命の常(とこ)新たしき
   うた人のそが言霊の霊ごもりとこしへなるべしこれの碑(いしぶみ)
   雪とちる桜がもとのいしぶみに導師厳修(ごんしゅ)す灑水(しやすゐ)の行事
唐故(からこ)に穴居の民の遺品を見て、
   物の命ほろびずここに穴居人(けつきよびと)がもたりし弓を矢を鍬を見る
   古への穴居の民も子の為と此のささやけき壷をか作りし
   これの木鍬(こぐは)とりて耕しこれの弓矢手(た)にぎりしばり獣かも射し
   籾あり田つくりたうべ井筒あり井ほりのみけむ遠つ世人も
この月、文化勲章授与の光栄を荷うた。長岡、本多、木村(理科)、幸田(日本文学)、竹内、横山(邦画)、岡田、藤島(洋画)氏と予との九人である。(藤島氏は満洲旅行中とて不参であった。)
   大御心いただきもちて願はくは吾が言霊に光あらしめ
   万葉(よろづは)の道の一道生(いき)のきはみ踏みもてゆかむこころつつしみ
   たまはせる厳橘(いつたちばな)の御(み)しるしの香ぐはし花に心肖(あ)えなむ
   国つ学まなびの祖(おや)の恩頼(みたまのふゆ)身にかがふりて今日の誉うけつ
谷中なる先人の奥津城に詣でて、
   御(み)しるしの箱の蓋あけ見せまつる父のみ霊よみそなはしませ
帰途、弥生町なる上田万年博士を訪うたに、病床ながら喜んでくれられた。
五月 皇太后、松阪なる鈴屋に行啓せさせ給うに、三重県庁より招きをうけ、藤棚のもとに迎えまつった。
   国つ御母道あがめますいでましに鈴屋の大人かしこみてあらむ
同じ月、奈良公園なる万葉植物園へ行啓せさせ給うに、奈良県庁より招きをうけて参列した。
   紅草(くれなゐ)の花ささやけき花をささげ今日のいでましを迎へまつらふ
   万葉人(びと)うたひめでつる木の、草の、そのことごとに御(み)目ふれ給ふ
女官長を伴なうて園内を巡らせられ、丹(に)塗の橋を渡らせ給う時、県よりの指示で、橋づめに、特に一人立って迎えまつったに、吾が前に立ちどまり給うて「万葉集の為に猶よく力をつくされるように」とのみ詞を賜わった。
芬蘭(フインランド)の雑誌「スオメン・ソテイラス」の日本特輯号に、「短歌に就いて」の芬語訳が掲げられた。
治綱が鈴木庸生博士の二女由幾子さんを娶った。
丸ノ内会館に、詩歌懇話会の歌人詩人の主なる人々が会合して、また、辰好軒に古典科同窓会の先輩友人が予の為に祝賀会を開かれた。
岡山医科大学の講演に赴き、三十年来同人として親しんでおる田中文男博士のもとにやどった、東山の麓、翠微の間に瓶井(みかい)の塔の眺められる閑雅な邸である。
   家をとめ朝の芝生に水そそぐ傍らに白きゆっか蘭の花
医大の文化講演会で講じ、学生の短歌会に批評をし、山本信恵刀自を訪うた。夙く親しくした大西祝博士は岡山の出身、操山(そうざん)と号されたが、その号のもといなる操(みさお)山一帯は暮色につつまれ、姫川は眼下に清流を湛え、京都の山水を想わせるような風光である。
   夕ばえ波照らひ明るき川隈に浚渫船(せん)は翁さびをる
田中博士の案内で吉備津神社に参拝、藤井高尚の旧居松屋を訪い、万成(まんなり)坂で平賀元義をしのんで、
   吾妹(わぎも)おもひ衷笑(したゑ)まひつつ昔人(びと)ゆきし坂路を麦秋に行く
木下利玄君の歌碑を訪うべく足守に向った。
   足守川(あしもりがは)堤に高き花あふち幼な目に見けむ利玄をおもふ
菩提寺なる大光寺の利玄君の墓をとい、近水公園に牡丹の歌碑を見た。岡山に帰って池田家所蔵の古書類を見るを得た。中にも、高野切、天治万葉切等のある手鑑「世々の友」を見たことは喜びであった。
烏城より渡舟で後楽園に渡り、郷土史学会の歓迎会に列した。正宗敦夫君、佐藤金造君らも来られ、歓談時の過ぐるを忘れた。
次の日、山陽高女、岡山高女に講じ、合同新聞社の野田氏の案内で牛窓に赴いた。途上作、
   野田吾兄(わがせ)元義を説く懇(ねもこ)ろなり芥子(けし)山は青き六月の風
牛窓なる前島を船にてめぐって、
   防人(さきもり)ら名をなつかしみ船ゆ見けむ遠つ家嶋は夏霞せり
川源楼招宴の席上、
   海岸(うみぎし)に新(にひ)船つくる槌の音遠汐騒(とほしほざゐ)のとよみにまじる
この行、古き同人の黒田克巳君が斡旋せられた。
帰途、大阪堂ビルホテルで祝賀会があった。
六月 宮中に賜餐の栄に浴した。
三縁亭に祝賀会が催され、徳富、長与又郎、新村、斎藤茂吉、藤村作、橋本進吉、久保猪之吉、跡見李子氏等の祝辞があった。
帝国芸術院官制が制定され、その会員に任命せられた。
名古屋に、後藤氏所蔵紀州家旧蔵本万葉集刊行相談会に列した。
東京鉄道局新鉄道唱歌「伊勢路」「尾張美濃近江路」を作成した。
七月 万葉集巻十六によって作った古典歌劇「竹取翁と九人の処女」が大中寅二氏作曲により放送、六人の男女俳優、七十余人の合唱団、管絃楽によって演奏せられた。
八月 新万葉集選歌のために軽井沢に赴いた。それは、さきに山本実彦君が訪われて、今度新たに大いなる歌集を刊行するについて、まず君に話すが云々といわれた。それは自分がかつて、山本君に次のことを云うたからである。わが父は明治十年代に、時の太政大臣三条公に書を上(たてまつ)った。二十一代集以後、勅撰の挙が絶えておるので、御再興を請いたいとの文意であった。自分は父の遺志を嗣いで、私撰ながら、新続古今集以後貞享までを一部、元禄より明治維新までを一部、明治以後を一部として歌集を出したい。かような構想を話したことがあったのである。山本君は、君の構想によって考えついたのであるが、全国から歌を募集した現代歌集とし、選者も数人に委嘱するつもりである、と言われる。自分は、自身の考は他日好機に恵まれたらば実行するとして、此たびの考案に喜んで参加すると答えた。それは、奈良、延喜、元久の時代には、それぞれその時代を代表する撰集が出たに、この新しい歌の隆盛期に於いて、これを代表すべき撰集の出づべくして出でなかった欠陥の満たされることを喜んだからであった。しかるに選歌にかかろうとする直前に、満鉄から、渡満して講演してくれとの依頼があった。一週間の講演の後、満洲各地の旅行に便宜を与えようというのである。自分は著述に多忙な生活をつづけているため、旅行は好むところであるが、国内の旅行を重ねるのみで、海外に出たことは、南方支那に赴いただけである。それで、この好機に、新興満洲の事物に触れてみたいという心が深く動きはしたが、それはついに謝絶して、ひたすら時を惜しみ、選歌に従うこととした。盛夏の二十数日は、軽井沢なる万平ホテルにひたやごもりにこもって、朝霧の深い室に灯をともし、四更の月を仰いでも筆を置かなかった。食堂に出るのみで、ホールで人と語るということも全く無く、直ちに自分の室にもどっては選歌をつづけておった。ある日一人のボーイに、「外人には、ホテルに泊りながらも人間を嫌うという性質の方がありますが、貴方(あなた)もそういうのですか」と云われて、笑ったことであった。
   ひたぶるに新万葉集にささげたるわが此の頃の朝夕なりけり
   亡き父の志ししことの片はしをつぐ斯(こ)の業と歌選る日々に
   吾がはらから海の外(と)にして戦へり吾はた戦ふ歌選(え)るわざに
   まなこ疲れ心つかれつ今日も一日暑き一日を歌選り選ると
   選りいでむ歌あらざるは吾が目のいたらざるならじかと心さびしむ
   今の歌の命いくばくぞ千年なほ万葉人(びと)の歌、命あり
   ひたぶるに選り選るこれの言だまの千歳の後に光ありこそ
   沛然とふりくる雷雨(らいう)朝よりの選歌に労れし胸ひきしまる
   雷雨やまず蝋燭の火のほのぼのとまたたく下(もと)に歌選びをり
   驢馬おりし外人(とびと)をさな子目もて笑ふ山のホテルに月の半すぎし
   樅が枝(え)に落葉松(からまつ)が枝に音たて降るこころよきかも山雨(さんう)の音の
   浅宵を沢の水(み)の音(と)きこゆ苦しみし選歌かつがつ終(を)へなむとせり
帰京せんとする朝、
   山国(ぐに)の此の朝明(あけ)の澄み深き空をわかれて帰りかゆかむ
東京放送局の嘱によって、軍歌「正義の軍」を作成した。
九月 報知新聞の時事唱歌の選をなした。
十月 舞鶴の海軍機関学校に「和歌と日本精神」を講じ、石薬師の先人碑建立三十年記念祭に列した。京都から大沢忍、東京から萩原菊世同真生子ぬし、山田から酒井秀夫君、津から梶原穠子ぬしが参列された。
   鈴鹿川秋の流を父にそひて渡りつるわが幼な影みゆ
   石ぶみの御まへにきこゆ御教への道の直路(ただぢ)ふみ六十年(むそとせ)を経し
七月の事変勃発以来の時事の作を雑誌に掲げた。
   忍び耐へ耐へ来し思ひ燃えたぎり炎の滝とさくなだり落つ
   青雲の向伏す極み天つ日の浄(きよ)き心を伝ふべきなり
   大き聖道を遺しし大き国に生れずや今国救ふ声の
   やまと御民きよき心の厳凝(いつこり)に覚めよから人あしき夢ゆ覚めよ
臨時議会の勅語を拝読す。
   天つ御声天よりひびく雲くらきあじあの空に光みたしめ
出征する同人に、
   ますらをの一人一人が負へる命国の命ぞつとめよ吾兄(わがせ)
上野駅にてある夜、
   雄々しきかも尊きかも万歳のとよみのうづにゆらぐ旗波
   わが此の声低くしあれど万歳のとよみの底にわが声もまじる(以上中央公論)
出征する同人に、
   吾が皇(み)国の歴史の中の戦の大き戦にい征(ゆ)く君なり
   かりそめの使命(よさし)にあらずおのがじしの命は関(かか)はる国の命に
戦線より帰れる陸軍将校に兵士に就きての談を聞きて、
   天皇陛下万歳とさけびて猶息たえずお母さんと呼びてうつむきしとふ
軍用機資金を献納すと朝日新聞社にいたる、
   わが真心そへもてささぐ天がける翼のねぢの一つともなれ
   戦は勝たざるべからず戦の後の戦に勝たざるべからず
   やまとをみな千人針の針目おちずこむる真心神守りまさむ
   月くもれり灯火管制の夜の町のくらきに立ちて雲の動く見る(以上文芸春秋)
   しきしまのやまと御民の国おもふ心炎ともゆる秋なり
   花と咲けからの荒野に流せるはやまと御民の清き血汐ぞ(以上わか草)
上田万年博士の逝去を悼みて、
   国つ語(ことば)学の苑は君により花さき足(た)らひみのり足らへり
博士の心の花に寄せられた文詞、講演筆記の目次を心の花十二月号に掲げて、博士を偲ぶよすがとした。
十一月 今井氏鵜殿氏の案内にて勝沼の葡萄園にいたり、甲府市なる伊藤氏の歌会に列した。
   雲おりゐ雲うごき去り雑木山まじる紅葉の色ぬるる如し
   丹(に)紫水晶(すゐせう)なせる一房を手にはとりつつかなしきものを
文部省の日本諸学振興講演会に「万葉学先哲の苦心に就いて」を述べた。{「わが文わが歌」に掲ぐ。}
内閣情報部の愛国行進曲歌詞審査委員を嘱せられ、尽瘁した。なお、予選者として竹柏会より小花清泉、伊藤嘉夫君が参加せられた。
十二月 軍歌「恩賜の煙草」を作詞した。

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    昭和十年 六十四歳

一月 伊勢、京阪に赴いた。
   山の上に青き灯は見ゆ吾が汽車(くるま)ぬばたまの夜の伊賀路を走る
   正月の五日の昼の真澄空むらさき深しわが鈴鹿嶺は
   大津牛はつ春なれば角(つの)まきの真赤き布に湖(うみ)の日は映ゆ(大津)
   町はづれ家裏(やうら)は細江入りこみて小舟すててあり岸に青き草
   湖(うみ)岸に鳰うかびをり比叡の嶺(ね)はよき形して吾にむかへる
帰途、長良川ホテルに宿り、山下鵜匠頭の家を訪うて、鵜について委しく聞き、「雪の長良川」を二月の中央公論に寄せた。
文部省社会教育局内二十日会の為に講じた。
三月 チェンバレン先生が、去月ゼネヴァに於いて永眠せられたことは、哀悼に堪えなかった。追悼記念講演会が、国際文化振興会により、明治生命会館講堂に盛大に催された。広田外相、クライブ英国大使、長与東大総長等の追悼の辞、つづいて諸家の講演があり、自分も「人としてのチェンバレン先生」を述べた。なお、自分が依嘱せられてかいた先生の小伝が配附せられた。国語と国文学は四月号を追悼号、心の花は記念集とした。
三月 国際連盟脱退の日、
   百千国前に立つとも我が皇国(みくに)正道(まさみち)ゆくを誰か留めむ
四月 満洲国皇帝御来訪の日、升允氏の「老臣猶在此幼主竟何如倘射上林雁或逢蘇武書」の幅をかかげて、
  「老臣猶此(ここ)に在り幼主竟(つひ)に如何」と 升允先生の言(こと)のかなしさ
   たふとし人の至誠(まこと) 至誠凝りこをろこをろに成り出でし詩歌(うた)
豊橋、名古屋に古書を探り、岡崎に浄瑠璃御前の墓に詣でた。
田中光顕翁から、さきに佐々木高頼の短冊を、こたび、菊桐記号のある脇差を贈られた。それは、後土御門天皇晏駕の後、観音寺城主高頼、宮廷にささげ物せしをめでさせ給い、菊桐記号及び、後光厳院御筆三略拠抄を賜い、昇殿を聴し給うたによってのものである。その夜、客を招いて、
   灯に映えて光めでたし白銀(しろがね)の地(ぢ)に浮彫(うきぼり)の菊桐と四目(よつめ)と
七月 立命館文学に「富士谷御杖の著書二部について」を寄せた。
金沢市に古書を調査する為に、藤田徳太郎君と同行して本多家の松風閣にいった。
   明け放てる書院の前の庭ひろらに林泉(しま)の老樹をとほりくる風
夜、鍔甚亭招宴、江戸さい子刀自が同席せられた。
   犀川の高処(たかど)の夏の夜のかぜ百万石の風といひつべし
   ちぶちぶと飲みての栄(えま)が酔がたり吹きなさましそ夜の川風
帰さ、山中温泉に宿った。
   声ひきつつ夜川のやみにうたふ河鹿(かじか)わが声をわれと楽しぶごとし
   窓掛ひきがらす戸ひけば蚊帳の上に夜をゐし蟬かにげていにけり
   杉群の秀(ほ)つ枝(え)中つ枝下(しづ)枝おり来(き)日光(ひかげ)は今し水に及べり
   遠く去る雲言葉なしあふぎ見る石ことばなしただに石と雲と
   山は水に臨みてぞよき水は山に相たぐひてよし此の山と水と
   岩の上(へ)を飛びとぶとんぼ遠くゆかず目まぐるしくも暑き真昼なり
黒谷川を船で下って、
   水底の石ことごとく玉に似たり夕渓川を舟さしくだす
   のぞき箱に水面(みのも)のぞきてごりとる児夕峡水は冷たくあらむを
九谷焼の清々軒にて、
   黙然と上画(うはゑ)かく老翁(をぢ)己(し)が心にかなふ幾つを汝(な)が生(よ)には成せる
関が原に下車して、不破の関の趾と慶長の戦の跡とを見た。
   指ざす彼方は大谷刑部の陣、旗さしものが目に動き見ゆ
八月 大和国史会の嘱により、畝傍山下の建国会館に講じた。
   高々に干瓢ほせる家つづき葛城の峯に雲の峯立つ
   切妻の家の棟ならぶ丘の村かぜに色ある七夕の竹
嶋の庄村に大いなる古墳あり、石舞台という。
   玄室のうち広らなり説き示す若き学者の声ひびきとほる
   千曳岩ひき来(き)きづきし石室はとこしへにあれどあるじ知らえず
十月 「上代文学史」上巻(下巻は十一年八月に)、「国文学の文献学的研究」を出版した
明治文学会の山田美妙記念会、伊勢新聞の「伊勢の夕べ」、日本作歌者協会の歌謡講演会に講じた。
十一月 伊勢亀山、伊賀上野に講話。香落渓に遊び、大阪心の花関西大会及び紫会に出席した。
広島に着いた朝、大本営を拝観した。{拝観の記は心の花十三年四月号に掲げた。}広島文理科大学に臨時講師として九日間、午前に万葉集を講じ、午後に同大学の公開講演会、広島師範学校、同地の歌会、呉高等女学校に於いて講演した。
十二月 大阪に国文研究会の公開講演に赴き、帰途京都に、大沢忍博士等の案内で、芦庵、景樹、蓮月の遺跡を訪うた。

    昭和十一年 六十五歳

一月 心の花に「四百五十号の巻頭に」の文、第一巻以後の表紙画十一種を掲げた。
備中における木下利玄君歌碑の背記をものした。
二月 文部省主催家庭教育指導者講習会に「家庭と和歌」を講じた。
つごもりの日、
   聞く事ごとうれはしき事雪の日のおもき心に暮れもてゆくなり
   御民吾ら心つつしみ此の幾日の不安を二度(ふたたび)あらしむべからず
四月 やんごとなきわたりの仰によりて、皇太子殿下御生誕奉祝の歌を、御屏風の料の短冊に謹書した。
伊勢に赴き、河原田、四日市の歌会に列なり、三重県立農学校、同工業学校等に講話をし、朝熊山にのぼり、紀伊に入って藤白に万葉の古蹟を訪い、和歌山の歓迎会では、花田比露思君をはじめ、人々の出陳せられたものを見るを得た。また、和歌の浦には毎年十二月、今も鶴が来る。ある年干潟におりて餌をあさっておる数を数えたに、五十八羽おったと、観光課の人が話されるのを聞いた。
五月 石井白村君の案内で、新村博士と共に粕壁に藤を観た。
   春日部の臣の処女の霊(たま)ごもる藤かづらかも千年にほへる
   藤かづらしなひ咲き満つ万ふさ東(あづま)の国を紫に染む
六月 武蔵幸手に守部公園を訪い、小学校に話をした。
七月 尚文子さんが歌集「中城さうし」を出されたので、尚家に招かれて、金武良仁・良筆父子の琉球の音曲を聴いた。
   青葉の窓かぎやて風節(ぶし)のゆるらなるしらべはゆるる青葉の風に
八月 水戸市なる国学院学友会の為に水戸高女講堂で、「万葉学史における西山公と契沖阿闍梨の功績」について講じた。一般の聴衆より一段高い座席に老刀自がおられた。後に聞いたに東湖先生の孫のかたであるとのこと。
大洗にやどった。斎藤瀏君を思うて、
   大き海の朝(あした)の渚あゆみつつ思ふに堪へずこもりゐ人を
帰途、笠間に藤原時朝の墓に詣でた。信生(しんしやう)法師日記の作者塩谷朝業(ともなり)の子であるから、寺院に何か残っていはせずやと訪うたのであった。
山中湖ホテルに宿り、朝とく蘇峰翁の案内にて双宜園にいった。
   先生の歩み迅(と)し、朝の露しげき木立が中の火山灰の道を
   流あり橋ありきと杖もて砂の上にかき示さるる大江義塾の図
   人間われあやまちてか来し朝鳥群わがものと領じうたふ林に
河口湖畔のホテルにて、
   ふりむきて物いひし間に富士が嶺(ね)の今見し雲はありどかはりし
   此の朝のかくも晴れたるよき富士を富士ともいはず箒もたる女
   言葉なき教かしこみ神富士の裾野の郷(さと)に三日(みか)をありける
帰途、須走附近にて、
   わさび沢段(きだ)なし落つる谷水のささやかにして音のさやけさ
軽井沢滞在中、米山梅吉、大島景雅二氏と、追分の脇本陣に伝来の遺品を見、上田にいで、別所に湯あみ、国分寺を訪うた一日と、米山君、白滝画伯と碓氷嶺にいたり、転じて鬼の押出から北軽井沢に遊んだ半日とは、三伏の暑さも忘れて楽しかった。
   顔なじみの仏蘭西人の子草原の朝露原を驢鳥に乗りて来(く)る
   林の道のぼりもてゆけば白樺の木群(こむら)多くなれり土当帰(ししうど)の白く
   楡の大樹繁(し)み立つ蔭をのそりと来(こ)し野羊(やぎ)の翁がとぼけたる顔
十月 神戸にいたり、捕鯨工船日新丸に、従弟岡元管太郎船長の南極行の壮挙を餞する歌を詠じた。
   君が行(ゆき)とほくはろけし鴎まふ船窓によりて盃を挙ぐ
   極光(オーロラ)のかがよひにほふ海の真夜は吾が船長(せんちやう)も歌人(うたびと)たらむ
   しろがねの吹雪の海に勇(いす)くはし勇魚(いさな)追ふらむますらをの輩(とも)
   百(もも)の勇魚(いさな)きほひふく潮(うしほ)金色(こんじき)の柱なすとふ極南の真日に
山田に、神宮皇学館の会に披講の式について講じた。(ラジオで放送された。)
十一月 香川県に赴いた。高松の栗林公園にて、
   投げし麩の一つを囲みかたまり寄りおしこりおしもみ鯉の上に鯉
屋島にのぼり志度にいたり、多和文庫に古書を探った。
   志度(しど)の海夕日うすづけり古き香に心ひたりて文庫(ふぐら)いづれば
高松に帰って中河与一君の案内で、沙弥島(しやみじま)における人丸記念碑(川田順君執筆)の除幕式に列した。川田君、前川君、中河夫人、ごぎやうの同人はさきに本島に、予と中河君とは再び坂手に戻り、鎌田共済会の社会教育館にて、「万葉学の流布と沙弥の島」について講じ、夜ふけて県庁からの巡航船に乗って本島にものした。
   玉藻よしさぬきの海月夜よし光の海をわが船はゆく
この夜の感興を「塩鮑の海の月夜」という一文に草した。{文集四二〇頁に掲げた。}
朝、一行と島山の頂に登る。萩原朔太郎君と予とが殿(しんがり)である。
   松の枝(えだ)につかまりのぼる砂山道枯松葉たまる友の帽にわが肩に
広島文理科大学に、臨時講師として赴いた。毎日、上代の歌謡を午前に講演、午後は岩国、呉、音戸の瀬戸、竹原等にものした。講演の期間を了えて防府市にいで、野村望東尼の墓を弔い、石見に入って、多年参拝を希うていた高津町の柿本神社に詣で、東京から携え来た常徳院義尚公自賛の歌聖像を献納し、益田町に画聖雪舟の造ったという古寺の庭園の紅葉を賞で、出雲路ではまず出雲大社に参拝した。大社では、幕末の頃亡父が伊勢に在って編纂した千船集に歌を寄せられ、竹柏園の扁額をも書いておくられた千家尊孫国造をお偲びし、松江に着き、皆美館に宿った。
   月夜ふけぬ八雲の文(ふみ)に聞きし音、松江大橋を渡りゆく音
朝とく熊野神社、八重垣神社に詣で、佐々木高綱の墓、乃木将軍の記念の塚に参り、千鳥城にものぼって、島根県教育会に「出雲石見と近世の国文学」について講演、県及び市の人々に案内せられて小泉八雲の旧居や、菅田庵を訪い、嵩山(たけやま)に登った。
   出雲に景観(ながめ)八十(やそ)ありそが一(いち)の嵩の尾上に夕日を吾が見つ
その夜、知事は上京中とて、県の四部長、観光課長に招かれて湖畔の旗亭に語らい、ことさらに小舟に乗り、皆美館に帰るとて、宍道湖舟中月下賦を得た。
   夜(よ)の湖(うみ)のありなし風に湖(うみ)岸の芦の穂雪とちる月夜なり
   舟静かに岸を離れぬかそかにも鳴くは蟋蟀(こほろぎ)か芦むらかげに
   湖の上(へ)にただよふ月をうつくしみ手ひたせば手に玉藻は触れぬ
   舟、湖心に、月、天心(てんしん)に、人の世は二千里の外にあるがにおぼゆ
   月の夜舟さ夜は明くとも、生(いき)の世に幾度(いくたび)か斯かる良き夜に会はむ
   月ややに西に流れてひろびろし湖の面(も)は全(また)く月の国なり
   吾が舟の行(ゆき)のまにまに靄退(しぞ)きしらじらとして月夜ふけたり
美保(みほの)関にものして隠岐の国をしのび、神社の古筆手鑑に三十六人集切の一葉のあるを見いでた。伯耆米子にいたり、女学校に講演、今井氏の客となり、皆生(かいふ)温泉に宿った。舞鶴に古今伝授の蹟を訪い、新舞鶴に朝永家を訪うた。
さきに、石薬師村石薬師文庫維持並びに充実のため金員書籍を寄附せしにより、賞勲局より表彰状をおくられた。
十二月 東京帝大国文談話会に「昭和十、十一年度における国文学文献の発見について」を講じた。
米国向け海外放送として、NHKより「日本の国民詩としての短歌について」を放送した。次に、小畑薫良君の英訳が放送された。{文集二八三頁及び巻末一頁参照}

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