江戸期版本を読む

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    昭和七年 六十一歳

一月 宮内省より御物調査委員会臨時委員を嘱託せられた。
文学に「異本伊勢物語に就いて」を寄稿した。
二月 江南数章を詠じた。
   江の南雲みだれ飛ぶ瑟を鼓し琴を鼓しつつ敖(あそ)ぶ日はいつ
   何を用(も)て鑒(かんが)みざるぞ古りし国国既に卒(つひ)に斬(た)えまくするを
四月 三日名古屋に、四日伊勢に赴いた。自分の生れた石薬師の旧宅を東京へ移転後売却したに、近村の井田川村和泉の藤田氏が購われ、学者の家であるからと全部もとのままに移し建てて住まわれておるとの事を夙くから聞いておったので訪問した。
   さながらにあるがなつかし屋根瓦の四つ目の紋もがらす障子も
(この藤田家の女で亀山の服部家にとつがれたかたに生まれた四郎君が、いま東大言語学教授の服部博士である。)
岡山に佐藤金造氏夫妻に迎えられて、玉島なる小野家にいたり、小野務、木下幸文の遺著を見、鞆にいたり、仙酔島を間近くのぞむ客舎で歌がたりをし、次の朝、汽船で、島々の間を縫うて尾道にいった。その島々の眺めは忘られがたい。
   せとの海神の置きけむ八百島のかぎり知らえず雲つららけり
福岡市今泉なる大隈言道の旧宅に、自分の撰文にかかる旧宅之碑の建碑式に列なった。{碑文は文集二六三頁に掲げた。}
   旧宅之碑に朝の日のどけし心今もここに住むらむ歌人言道(ことみち)
久保博士・春日教授・小島氏の斡旋で古典籍を視、九日福岡女子専門学校に講話、後、唐津に遊び、十日帰京した。
日本橋の偕楽園で古典科出身の同窓会があった。年長者なる安政四年生れの松本愛重博士を初め、美髯の市村瓚次郎博士、無髯の平田盛胤翁等々で、当時の思い出がたり――明治十八年初めて学帽が制定されて事務室にとりにいったこと、月謝が八十銭、しかも貧困願を出して免除を請うたこと、文徳実録を十六銭、春満在満書入の延喜式を一円五十銭で購うたこと、山田準翁が比較的若くて漢書課の佐々木といわれたこと、自分が大童子といわれたこと、卒業生は国漢の第一期第二期全部で百七人であったが、現存者四十人あまりとの事等々。
   若き日の思出がたり春の日のくれゆくことも忘れてありし
六月 三日が誕生日であるが、六日の日曜に華族会館で還暦祝賀会が盛大に催された。友人同人より「日本文学論纂」と歌集「光風」を贈られた。心の花七月号の祝賀記念号に雪子のかいた「西片町より」の中から数行を抜く。「清浦伯の若々しい、上田(万年)博士のねもころな、発起人総代として下村博士のほがらかな、同人の一人としての川田さんの熱情のこもった、いずれも有難くお聴きした。斎藤(瀏)さんの司会ぶりはきびきびしておった。……大勢の方々の御協力、なかんずく、武田(祐吉)さん、石榑さん、藤田(徳太郎)さんのお力、それに伊藤(嘉夫)さん、坂田(富美)さんの努力によるのである。……」。自分は謝辞を述べつつ、
   人のまことうくる嬉しさ胸底に涙にじみて言葉いでなく
当日「華甲記念文集」を人々に贈った。また記念に「鏡草」を印行し九月に成った。
七月 国学院大学万葉集夏期講座に「戸田茂睡と契沖阿闍梨」を講じた。
八月 心の花に掲げた歌の中に、
伊波普猷君を訪う、
   坂の中らの家 庭にさける桔梗 あるじに聞く 尚円王の歌
黄昏、
   窓によりて事なし ゆふぐれ 竹の葉のかげはゆらぐ
吉川惟足集を読みて、
   吾を視 吾を思ひ 吾にむちうつ 心よわき吾に
前年頃から、歌の五句は時として四句にしてもよく字数も長短いずれにてもよいとして、新らしい詩形を考えていたあらわれの一つである。
この月、奈良に赴いて奈良文化夏季講座に「万葉集の二三の歌人について」を講じ、吉野にいたり、吉水神社に所蔵の建礼門院右京大夫集について調査した。
   八月の吉野の山にのぼり来つどの掛茶屋にも薬草を干(ほ)せる
上市なる阪本氏を訪い、共に舟を吉野川に浮べた。
   上市はかけづくりなる家並の川みづを汲む綱釣瓶(つなつるべ)して
   するするとつるべ水面(みのも)にとどきたり水みてし釣瓶するするとあがる
   夜づけせし石くづしつつ早き瀬にはらばひて捕る石間鰻を
看山臨水楼にやどった翌朝、
   水荘のねざめに白くながれ入る吉野の淀の暁のもや
   あさ風に心ふかれて吉野川清き真砂を吾がふみにけり
帰途、石薬師によって石薬師文庫閲覧所の成れるを見た。
   蝉時雨石薬師寺は広重の画に見るがごとみどり深しも
岐阜に下車して中山八里を汽車にて過ぎた。屋の上に石を置いた板屋根が多い。
   駅の横ものうる家みな板屋根なりたけ低う咲ける日まはりの花
下呂の温泉宿にいったに、満員である、二三日前に通知しないではというて、宿をかさない。
   今日は今日心のゆくにまかせたる旅人の身にいふは何ごと
古(いにしへ)の西行上人の江口の宿でないから、歌を詠んで示したところで返歌をしそうもない。やむを得ず帰った時、同車した岐阜の山口博士の一行と語りあった。
   山の風わがおろかしきひと時のはらだちごころ吹きけつ如し
太田におりて、木曽川を下るべく船に乗る所にいった。
   ぽつりぽつり川原の石にあたりたる雨やみてとみに涼し川風
   木曽の谷百谷の水おちたぎちたぎつ急湍(はやせ)を吾が舟くだる
可児合の瀬で、
   舟人は棹つきしぼり岩波のうづまきが中に舟のり入るる
   どどどどと舟は音たててうづまきのさわだつ中に入りにけらずや
   高々とあがれる飛沫(しぶき)わが背うつ瞬間(たまゆら)に瀬をのりこえにたり
   可児合(かにがふ)の危きはや瀬のりこえてわが衷心(したごころ)悔(くい)なきにあらず
   かつ悔ゆる心たもちてたぎつ早瀬くだる危さを喜びにけり
   可児合の急湍(はやせ)高波こえて思ふあやふきものはうつくしきかな
はげしい雨が降って来た。
   雨来(く)べしおほひ張らむと舟人が言葉のうちに雨おそひきたる
   ましぐらに急雨(ひさめ)おそひ来(き)高々と鳴りとよむ瀬をわが舟くだる
   降りはげしき雨を喜ぶ猿いくつ岩の上(へ)にしてききと声たつ
   雨またく晴れし水(み)の面(も)の夕照(でり)に山松の幹の黄なる明るみ
犬山から上陸して岐阜に、翌日中津川をとおって恵那峡にいった。
   川そひの樹(こ)かげの床几涼みにとこし町人(まちびと)の母娘(おやこ)が語れる
恵那峡を下った。
   美濃の国恵那の山かひ大き江の緑の瀞(ゆつ)にゆたけし心
   天雲(あまぐも)の青き滴(したたり)たたへ充(み)つ峡(かひ)の大江を舟さしくだる
   恵那の峡(かひ)四里の青淵よき人の心おだひに夢みるごとし
   身を全(また)く青垣淵にひたしつつ岩山の心しづかなるべし
   山は水はうつくしきかも衷(した)ごころ憎める人を昨日はもちし
   とこしへに吾をまもれる青淵の心さびしき折はあらじか
   四里の峡藍をたたふる深淵のはてなきに吾が心つかれぬ
ゆくりなく一双の鶴の舞ひ下(お)りるを看た。
   真蒼淵(まさをぶち)崖(きし)の松山にみるものか松のうへなる一双の鶴
   繁(し)み立つ松の秀(ほ)つ枝(え)におりむとしたゆたひがちに輪を舞ふ鶴は
   天高く江の水遠し松山の松の上にして鶴はあそぶも
   しづかに羽(はね)ををさめて己(し)が心にかなへる枝とおりゐけらしき
   おりゐて時久し松が枝にとまれる鶴はさゆるぎもせず
   松山の青きにこもる日の光かそかににほひ夕べは近し
   青淵にいささかの水皺(みしわ)のこしつつ吹き過ぎにたり江の上の風
浜松市外に高林家を訪い、方朗(みちあきら)翁の遺著を見ることを得た。途上作、
   古き家の大き門(かど)にしばし日をよけぬへちまの畑の炎なす風
九月 時好倶楽部の会で、新東京の歌について話した。
十月 廿二日、四日市の月台荘に田中光顕翁と共に客となり、多度神社に詣でた。山あいの老樹こぐらき中に、まだ一しおの紅葉の色もおちついて幽邃の地である。神官の示される御鏡の数々を、田中翁は先年拝観せられたので、ねもころに説明せられる。藤原時代の紋様のめでたさを感じていると、古筆にくわしい月台君は、この模様は俊頼の大色紙のに似通うておるといわれる。自分は、神宮寺資財帳を飽かず眺め入っておると、茸狩のもうけがととのうたとうながされるので裏山の方にゆく。百舌は鳴き、畑の柑子はたわわにみのって、坂道の苦しさも忘られる。松山の中腹、茸山の幟がひらめいておる下の方は、揖斐長良木曽三つの大河の流が一眸のうちに入るよい眺めであった。
翌日、翁を導いて、石薬師文庫閲覧所の開所式に石薬師に赴いた。このことについては心の花十一月の文「石薬師文庫」から抄出する。「昨年石薬師にいった折、前村長清水房太郎翁がここかしこ案内してくれられた。その折、役場で現に使用して居る井戸は佐々木家のを其のままで、あなたの産湯の井戸であると語られ、また小学校の方に移したがとて、十数間さきなる土蔵のもとに伴われて、この弘綱先生の書庫に、今は役場の書類が入って居るとのことであった。蔵の前にたたずんでおると、五十余年前の面かげがまざまざと浮んできた。この蔵こそは家の左手にあって、傍には幾本の竹があった。我儘であった自分はよくこの蔵に入れられた。自分は、此の蔵は全く壊たれたものと思うていたに、棟瓦を見れば昔ながらの四つ目の紋である。壁などはいたんでおったが、これを修復したらよくなろうかと翁に問うたに、もとがしっかりした蔵であるから、立派になりますとのことであった。それで還暦の記念に蔵を修理し、もとのように井の近くへ移して書庫となし、石薬師文庫と名づけ、傍に閲覧所一棟を設けて、小学校の職員生徒、村の青年諸子の読むに適当な書物を収めたらばと考え、清水翁にお頼みしたに、快く引うけくれられ、今度それが立派に出来あがったのであった。それで、伊勢に関する書、伊勢の学者の著書や自筆の書等を特別書とし、専ら若い人々の読むに適したのを蔵書中から選んで贈ることとした。聊なりとも村の文化の為に、村の人々の心の糧になるであろう事の成就したのは、亡父在天の霊もいかに喜んでくれられることであろうと思って、喜の涙がこぼれた。」
式は、小学校内で行われた。光顕翁は、自分も一言のべようといわれて、力づよい大きな声で、「佐佐木先生の弟子は大勢あるが、九十以上の弟子はわし一人じゃ。今日の式に列なったことは喜ばしい。今の世は総理大臣までならば誰でもなれる、諸君もしっかり勉強せい」といわれた。次に県知事代理の淵上学務部長の式辞があった。
廿四日 奈良に赴き、万葉植物園の完成したのを見た。樹蔭を歩み池をめぐりつつも、万葉歌人の風懐に入れるすべての木草が、よくもあつめられたことと、感謝の念に堪えなかった。
同じ日、高畑なる山田氏の別墅の庭園の芝生、緋毛氈の上での昼けのもてなしは、忘られがたかった。うちむかう春日山のここかしこは薄紅葉して、飛火野には鹿が群れておる。相客の杉博物館総長と江見宮司は、共に酒豪である。主人が口ずさまれた旅人卿の古歌は折からの興を添えて、自分も数杯を傾けたことであった。
廿五日、大阪堂ビルホテルで還暦祝賀会があった。川田順君の司会で、まず新村博士は「今日まで約四十年」――日本歌学全書によって歌の道に親しむようになり、明治三十八年一月、東京高等師範学校の国語学会で、歌に関するお話のあった日に云々、花田比露思君は「日本歌学全書の万葉集」、小泉苳三君は「しがらみ草子のつぼ董」、森繁夫君は「国学者及歌人と長寿」、里井柳枝さんは、「歌を心の友として」、折から在阪中の久保猪之吉博士は「芸も長く命も長く」に就いて述べられ、終りに自分は知己の情の厚きを感謝したことであった。
廿六日は京都御所の御門の内の白真砂をかしこみふみつつ、東山文庫の御曝涼の一堂にさぶろうて、一日を過した。尊い古文献の数々は、先年拝観を忝うしたことであるが、今年は特に允許を得て、古筆御屏風なる元暦校本万葉の断簡、それはさきに集大成本に掲げえなかったものと、霊元天皇の御撰にかかる宸筆の歌論の書とを拝観したのであった。
廿八日は岐阜に下車、山口博士夫妻の案内で、長良会の人々と三田洞の法華寺に茸狩にものした。ぬなわ生い繁る池に臨んだ岩山の形もよく、折からの時雨日とて、晴れては曇る松山の色もよかった。木の枝につかまりつつ登る九折のここかしこに、しめじの群を見出でたのも嬉しかった。歌がたりに時のうつるのを忘れていると、池の真中の石に、いつの間におりたか五位鷺がいたのも、この夏の恵那峡の鶴を思いうかべて懐かしかった。
   蒪菜(ぬなは)うかぶ池の一隅(いちぐう)ほとほととほとほとと落つ山しぼれ水
   山女(やまをんな)案内(あない)しのぼる道急なり低木の小枝掴(と)り掴りのぼる
   山岨(そば)道松の繁葉(しげは)の葉もれ日にきはだちて赤し何の実と知らず
   吾等しづかに池亭に語るつとおり来(き)池中(ちちゆう)の岩に五位鷺は居る
十二月 西本願寺本万葉集二十巻を還暦の記念に印行しようと、武田君にはかって着手した。
   年を送り年をし迎ふよろづ葉の書巻刷ると暇なみして
   百年の後人(のちびと)のため万葉(よろづは)の書のこさまくこころくるしむ
砧の小畑薫良君の新居を市河彦太郎君と共に訪うた。此の日窓外は、武蔵野の峭風高く黄塵を吹き巻くが、室内は炉火あかく、主客の談論また燃えるようである。日の半日歓を罄(つ)くして帰るを忘れた。
   新(にひ)はりの道ひろくして土おちゐず塵ふきあぐる武蔵野の風
   あげつらひ古へに今に旅がたり空に大洋(おほうみ)にうつりつつ尽きず
   炉の薪(たきぎ)よき音たててもゆるなり李太白去りリットン来る

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    昭和六年 六十歳

一月「万葉秘林」十一種完成に対して、朝日新聞社より朝日賞を授与され、香取秀真君制作の鏡を贈られた。
   桜がもと小鳥うたへり生(いき)のきはみ心きよらにわが道ゆかむ
三月「扶桑珠宝」の印行が完成した。これは、正倉院御物のうちで、吾が上代文化の背景をなした典籍文書十種を南都秘笈、万葉の古鈔本等十一種を万葉秘林、国文学の研究資料十七種を芸帙(うんちつ)秘芳と名づけ、あわせて三十八種をいうのである。秘府に尚蔵せられ、或は個人が珍襲される古筆古典籍の類を複製し印行することは、現在及び将来の学界を益することが多いであろうと、御府及び王府の允許を忝うし、また諸家の快諾を得、帝国学士院の補助、森東京帝室博物館総長、上田万年博士の斡旋、橋本進吉吉田知光、田中親美君、並に、同志諸氏の協力をうけて、明治の末から昭和の初めにかけて印行した。その目録は次の通りである。

         南都秘笈

 聖武天皇宸翰雑集(正倉院御物)一軸   光明皇后御筆楽毅論(同上)一軸
 光明皇后御筆杜家立成(同上)一軸   詩序(同上)一軸
 隋経(聖語蔵御物)一帙   老子(同上)一軸
 蒙求(同上)一軸   南京遺文 一冊
 南京遺芳 一冊   天平余光 一帖

         万葉秘林

 桂本万葉集(御物)一軸   藍紙本万葉集 二軸
 金沢本万葉集(御物)一帖   天治本万葉集 一軸
 元暦万葉集(高松王府)六帖   元暦万葉集大成本 十五帖
 春日本万葉集残簡 一帖   類聚古集 十六冊
 古葉略類聚鈔 五冊   仙覚律師奏状 一軸
 桂の落葉 一軸

         芸帙秘芳

 野蹟秋萩歌巻(高松王府)一軸   御堂関白筆神楽和琴秘譜 一軸
 信義本神楽歌 一帖   重種本神楽歌 一帖
 宗尊親王筆催馬楽譜 一帖   権蹟倭漢朗詠集(御物)(粘葉)二帖
 権蹟倭漢朗詠集(御物)(巻子)二軸   権蹟白楽天詩巻(高松王府)一軸
 堀川左府筆七徳舞(御物)一帖   承徳本古謡集 一軸
 伝俊忠忠家筆亭子院歌合 一軸   一品経懐紙和歌 一帖
 定家手沢本西行上人歌集 一帖   定家筆更級日記(御物)一帖
 定家筆近代秀歌 一帖   定家所伝本金槐和歌集 一帖
 百代草 一帖

以上の中で、藍紙本万葉集は田中氏、元暦万葉集大成本は大阪朝日新聞社の出版であるが、解説は共に自分が書いた。また、漢籍の類の解説は専門の諸家の手をわずらわした。
三月八日、東京美術学校に於いて、完成記念の展覧会を催すことになった。十時に、東伏見大妃殿下が台臨あらせられ、陳列室で一つ一つ御説明をお聞きになった。
   浅茅原つばらつばらに国つ書(ふみ)宝の書をみそなはします
午後の講演は、新村、黒板、三上博士、徳富翁であった。自分は、「さ蕨のもえいづる春になりにけるかも」の歌を引いて、種々の困難を冒し、精進の行程を積んで、多年の大願を成し得た喜びの謝辞を述べた。午前には、朝日の村山社長が精しく陳列を見られ、午後には毎日の本山社長が、講演を初めから終まで聴いておられた。京都大学から沢瀉助教授、東北大学から村岡教授が上京された。
なお、その後つぎつぎに印行したもの十二種、都合五十種であるから、ここに掲げ添える。

         続扶桑珠宝

 嘉暦伝承本万葉集 一帖   伝壬生隆祐筆本万葉集 一帖
 奈良の落葉 一軸   万葉古筆集 一冊
 異本伊勢物語 一帖   万葉手鑑 一帙
 鏡草 一帖   伝公任筆和漢朗詠集 二軸
 伝俊頼筆古今集巻十三 一軸   西本願寺本万葉集 二十帖
 元永本古今集 二帖   父子草 一冊

このうちで、万葉古筆集は雄山閣、万葉手鑑は人文書院が出版した。
この月、東大文学部の講師を辞した。講義を継続すること二十有六年であった。明治三十八年の条に記したごとく{九六頁参照}かつ教えかつ学ぶのこころで講義につとめた。時々の旅行も多くは一週間で帰り、その翌日の講義の前五分間ぐらいを旅中で見た珍しい古典籍などに就いて語った、また試験の一週間前に問題数点を示して、当日教場でかいても、持って来てもよいとしておった。
   若人(わかうど)を友とし教へかつは学びはやも過ぎにしか二十(はたち)あまり六とせ
   わがさきはひ大いなるかな斯(こ)の道の栄ゆる春にあひにけらずや
最終の講義を了えて外に出ると、講堂の前なる公孫樹のもとで、学生諸子が記念の撮影をというに、
   大君の春さりきたる立ちつづく並木公孫樹のめぶく日近し
   若人のむねあたたかし春の日の公孫樹がもとに相並び立つ
撮影の位置を定めなどする間に、自動車幾台が塵をたてて走せ去った。
   これの世は塵はも繁き、吾ら胸にもたる真玉を清らにたもたむ
退職記念として、万葉に関する諸家の論文を請い、「万葉学論纂」を編した。その序文の一節に、「すぐれた古典文学は、一人の学者、一の方法によって研究し尽くされるものではなく、多くの学者の、分科的な多くの研究が綜合され、長い年月の研究を積んで、初めて完成さるべき性質のものである。従って、万葉は万葉だけで、一つの独立の学問を成すべきである、泰西に、沙翁学や、ファウスト学のあるというごとく、我が国においては、万葉学の確立せられねばならぬことを、自分は深く信ずるものである。この書が、万葉学集成の第一歩となる事が出来るならば、自分の喜、これに過ぐることはないのである。」と記した。
四月 バチェラー博士の養女八重子ぬしの歌集「若き同族(ウタリ)に」を竹柏会より出版した。アイヌ婦人の歌集としては初めてであろう。集中のアイヌ語には、金田一君が注解せられた。
   同族(ウタリ)のためそそぎし涙大地(おほつち)に玉とし凝りて光放たむ
五月 七日、宮中に召され、万葉集に就いて進講した。当日の光栄をしるした文詞を次に掲げる。
「侍従長に導かれて御学問所の廊に立ちぬ。芝生みどりなる前庭には、初夏の日の光あまねく輝き、西南の丘には、青葉が中に、紅の躑躅錦をよそへり。小雀(こがら)かとおぼしき鳥の声きこゆ。時まさに二時、両陛下出御あらせられ、二の間の御襖の前なる御椅子に著かせたまふ。御前に円き卓子あり。その前なる椅子を賜ふ。万葉集に就きて進講しまつること一時間十分。終りて茶菓を賜はる。内府の問に答ふること数分。やがて入御あらせらる。陪聴の人々は、内府、首相、皇后宮大夫、女官長をはじめ側近の人々なりき。御襖また壁上には、群れ飛べる燕を描き、欄間には浪を浮彫にせり。塗飾(よそほひ)めでたき太平楽の舞人の木彫、廊に近き台の上に置かれたり。今日の御進講のこと、万葉学の為にも亦光栄のきはみといひつべし。おもふに仙覚律師は、その万葉集の新点の後嵯峨上皇の叡覧に入り、賀茂真淵は、その万葉解の桜町上皇の御前に出でたるを、限なき道の光として伝へたり。契沖阿闍梨は、水戸義公の知遇を受けしも草庵に隠れ、鹿持雅澄は南海の辺陬にありて世を終りき。これらの大きなる先達の生涯に比して、あまりにもおほけなき光栄ならずや。しかもこは、ひとへに先達の恩顧によるに外ならず。今日五月七日は、陰暦と陽暦との相違はあれども、本居宣長翁生誕二百一年の日に当れり。翁の流れを汲める先人の学を承け継げる身として、感激胸に填ち、言はむすべを知らず。」
駒沢大学に和歌史を講じた。
三保・久能・興津に遊んだ。
   三保道は槙垣つづく、はつれはつれ見ゆる砂畑の豌豆の花(三保)
   松かげ道浜ひるがほの花さけり灯台は見えて砂地歩みにくし
   青海苔のまとふ粗朶垣(そだがき)波ゆれて入海の風すこしなぎたり
   磯波のおとゆるやかなり南うけし石垣は皆いちごの紅(苺栽培)
   狭(せば)き巣に頭を並べちさき口一ぱいにあけて餌を待てり雛は
         (茶店に燕の巣あり)
   つと入り来(き)つとはせ去れるつばくらめ幾たりの子の親はかなしき
   ますらをも幼子さびてにこやかに手にとり見けむこれの時計を
         (久能山宝物館枕時計)
   くだつ夜の枕べにしてほがらかに笑(ゑ)める面わを見しかも汝(なれ)は
   くだつ夜の枕べにして払ふとせしまぼろしの影を見しかも汝(なれ)は
   あけぼのの光ただよふ浜に立ち老女(おうな)合掌す大き日輪(興津)
さきに加藤光治君が、松戸からもて来て玄関前の庭に牡丹を植えられた。毎年うつくしく咲くので、景樹の日記にある伊丹の牡丹などの事を思うていたに、今年は特に美しかったので、牡丹の歌数首を得た。
   白(はく)牡丹この閑寂(しづか)なる大いさにむかふ吾が心つつましみをり
   午後になりて薄日いでたりさしかけたる傘の下に匂ふ紅(くれなゐ)の牡丹
   夕かげに光あかるし開ききれる牡丹の花のくれなゐの濃さ
   ひたおもに牡丹の花にむかひをり此の夕暮の心の明るさ
   くもり空ゆふ風とみに吹き出でたりあないたいたし牡丹のゆらぎ
   豊かにゑまひ足(た)らひしくれなゐの大き花びらもくづれにけりな
在京都の独逸人トラウツ君が遊びに来られた。
   門庭(かどには)の牡丹の花をまづ賞す君が日本語のほがらかなるも
女弟子のうち、文芸にたずさわっておられる人々(長谷川時雨、津軽照子、村岡花子、藤蔭静枝、森律子、木村富子ぬし)と、弥生町なる西川義方博士を招いてささやかな牡丹の宴を催した。
六月 さきに校本万葉集二十五冊を印行したが、爾来万葉学はとみに隆盛をきわめ、学界の需要が少くないので、その後の発見にかかるもの等の増補を加えた普及版十冊を岩波書店より刊行することとなった。(十冊は七年三月に完成した。)
四日市に赴き、光念寺を小杉に訪うた。中祖定政が、天文八年四月、織田信雄の臣として、滝川一益と北勢の残党を乗坂山に討った時、疝痛により、小杉陣営の地に病を養うたが、五月逝去した。従者の一人が後世を弔うと出家したので、佐々木の姓を与え、この寺を創立したのであった。《注:「乗坂山」は底本のまま。》
七月 京阪に文献をあさり、天の橋立に月明を賞し、舞鶴に細川幽斎の古今伝授の趾を訪うた。(天の橋立の風光については歌詞「帰らむとする浦島」をものした。)
文学創刊号に「心敬のささめごとの異本に就いて」を寄せた。
中村徳重郎君と東北の旅に赴き、東北遊草を得た。
   朝雲のひかり秋と著(しる)し阿武隈のつつみの道に草はむ仔馬
伊豆沼・厳美渓、
   大雨(たいう)の後沼まんまんと水充ちたり岸田に釣し舟に釣せる
   真青淵(まさをふち)日の照つよし岩くぼにしづかにゆらぐ水陽炎(みづかげろふ)は
金色堂にて、
   巻ばしら螺鈿ににほふ秋の日にゑまひかそけき十二光仏
   時うつり人亡び失(う)すいみじくも金色堂をいとなみにける
   これの堂のこらずありせば陸奥(みちのく)の押領使の名を今誰か知らむ
花巻温泉にやどる。
   山すそ路ねむの木多し朝もやの走るゆらぎに赤き花見ゆ
   きらきらし八尺(やさか)玉羽に朝光(あさかげ)うけ孔雀ゆるらに数歩を歩む(動物園)
奥入瀬・十和田湖、
   十和田の神の水海(みうみ)に詣でまく心きよむるみそぎ川かも
   たぎち流るしぶきの風にさし出(で)たる橡の葉ゆらぎ蝉が音ゆらぐ
   流にそひ渓わけきはめ大き湖(うみ)初(うひ)に見し人の驚異(おどろき)をおもふ
   朝されば雲を、夕されば星をやどし千年黙(もだ)ゐけむこれの山の湖(み)
   岬(みさき)まはり景(ながめ)かはりぬ湖岸(うみぎし)のさびたの花のしらじらと浮く
   あかき翼水にうつれり山毛欅(ぶな)の枝に南蛮鳥のとまりて久し
   水あまりに清きに過ぎて湖岸(うみぎし)にしづめる物みな白地(あからさま)なる
   桟橋の遊覧船の赤き旗もやにしめらひたそがれゆくも
湖畔の休み屋にやどる。
   八月の夕べを湖(うみ)の風つめたし大き火鉢に火を持ちてきぬ
   湖(うみ)の光いまだ暮れなく宿の男洋灯(ランプ)もて来て高くつりたり
   ざぶざぶと夜(よ)の湖岸(うみぎし)に音たてつつ童籠(かご)もちて小海老(さえび)すくひをる
   うつし世も生死(しやうじ)も知らず山の湖の朝もやの中にわが一人なる
   大き湖(うみ)はもやのいづこぞ見ゆるもの方数尺の水あるに過ぎず
   桟橋の板のしわるを踏みつつをり家鴨遠くへおよぎ去(い)にける
   朝日今し紺碧の湖に充ち足(た)らへり生(いき)の命を喜びわがをる
   いたどりの太茎(ふとぐき)折りて斯(か)くしつつ笛にはすると教ふる童
   童どちいたどり笛を吹き鳴(な)せばよき音はひびく真澄の湖に
和井内氏の伝をよみて、
   涙おつ千とせを魚のすまざりし山の湖(み)に魚を君すましめつ
秋田に平田先生の墓に詣づ。
   この丘に眠りはいませ天の下四方の国内(くぬち)に御霊やどりき
   遠つ海に夕日入らむとして此の丘の松のいく本金色(こんじき)なせり
小野川温泉にやどる。
   しろじろと花さきうかぶ宵暗の庭は一めんの月見ぐさの花
板谷(いたや)峠にて、
   穂薄もち童子(どうじ)あそべり初秋を日の光つよき板谷の峠
翁島なる高松宮御別邸にさぶらいて、
   のぼり立ち国見せすといふ磐梯(いははし)の明日の高嶺に雲なかかりそ
猪苗代村なる野口英世博士の生家にて、
   あまそそる磐梯山(いははしやま)にただむかふこれの草屋はよき人生みし
   みちのくは金色堂にたぐふべきこれの草屋ぞよき人生みし
東山温泉にやどる。
   欄にとどく老槻(つき)が枝(え)の葉のことごと風持ちゆらぐ夕片まけて
   のりこはき宿の浴衣のふところに袂に入りく夜の山風
   呼びとめて二階足迅(あしど)におりこし湯女(ゆな)百日草の鉢を買ひたり
   たそがれを隅の柱に身をよせて緋鯉みる若き湯女が横顔
   真鯉ひごひ輪をなす池に山寄りの高き座敷の灯(ひ)がうつるなり
中村徳重郎君に、
   旅の八日明日は別れむ友と酌(く)む酒ほろにがき夕べなりけり
この月、軽井沢、京阪、松阪、鼓が浦にものし、沼津に下車した。米山梅吉君に迎えられ、下土狩(しもとかり)なる君の八十八山荘の庭に咲いた竜舌蘭の珍しい花を見、三島神社に詣でたに、宝物館に、遠州見付の画家久保井華畦のえがいた田祭の額が掲げてあった。かつて東海道名所図会で、三島祭の画を見た記憶が浮び出たので、祢宜神麻新六君に逢うて、田奈の歌の有無を問うたところ、有るとのことで、「田祭の次第」一冊を示された。歌詞もおもしろく次第もおもしろいので、書写をお頼みした。此度の小旅行最後のありがたい収穫であった。{歌謡の研究二二〇頁参照}
この月より十一月にわたり十一回、高松宮妃殿下に万葉集について講じた。
十月 改造社の嘱により土岐善麿氏と共に短歌講座を立案し、その第一巻に「日本短歌史」を執筆した。
石薬師に先人碑前祭にものした。第一日は四日市で歌会、南は志摩、西は伊賀から三十余人のつどい。第二日は采女の杖衝坂を歩みのぼり、国分寺の跡を訪い、午後二時碑前祭講話、六時半四日市図書館で「伊勢国の生める三大国学者に就いて」(谷川士清、鈴屋翁、橘守部)講演、翌日市立高等女学校で、「現代女性の修養と趣味の涵養」について語った。午後亀山女子師範学校で「伊勢の生めるすぐれた女性四人について」(三重の采女、慶光院、宣長翁の母刀自、慶徳麗女)話し、能褒野御陵に参拝し、武備神社に詣で、夜ふけて四日市より帰京の途についた。
徳富蘇峰翁古稀祝賀記念の知友新稿に「万葉人と植物」を寄稿した。

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    昭和四年 五十八歳

一月 歌集「豊旗雲」を刊行した。巻の初めに、
   うつせみの命おほむねこの道にささげもて来つ嬉しとし思ふ
   道の上に残らむ跡はありもあらずもわれ虔(つつし)みてわが道ゆかむ
豊旗雲について、心の花三月号に、久保猪之吉、相馬御風君等、五月号に桑木厳翼、新村出君等の批評を掲げた。
京阪、伊勢に赴いた。
三月 読売新聞社の日本名宝展覧会の顧問を依嘱せられ、特に二日間の万葉デーに尽くし、講演会に講話をした。
四月 研究会に、児山敬一君は「短歌創作の哲学的基礎」、小花清泉君は「作者と批評家の立場」に就いて述べられた。
五月初旬、日には十日夜には九夜を北陸の旅に赴いた。二日の夜出立、三日金沢にて下車すると、四高の鴻巣盛広教授、中島県立図書館長が迎えに出ておられた。公園のみよし庵に小憩して、午前に松岡家を訪うた。それは、この三月に、松岡家から上述の名宝展覧会に春日万葉切を出品したいということであったので、喜んで、出品せられよといい送ったに、やがて数葉を携えて上京した使の人が、いま一葉、廿巻の巻末で年号のある所のは掛物にしてあるゆえ持って来なかったという。巻末、ことに年号のある処ならば是非みたい。幸い来月は北陸の万葉旧蹟めぐりにゆくゆえお伺いする。それで勝手がましいが、近親や知友の方々の家の古典籍古筆の類をも同時に拝見する機会が与えられたいと依頼したのである。鴻巣君らも同行したいといわれるので、電話でどうぞとの返事を得て、一緒にいった。室に入ると、閑雅な庭に面した座敷の床に、巻廿の巻末五行、終に「寛元二年三月九日書写之 祐定」とある幅が掛かっておる。喜び見めでつつ話しておると午餐が出た。一皿の、慈姑(くわい)の根を小さくしたようなのを指ざして、主人が、これはといわれるから、かつて味わいました。「寺井の上のかたかごの花」の根でしょうというたに、うなずかれた。おつぼに若布の酢の物のようなのが入っておる。これはといわれるので知らないというと、雄神川の葦つきです。昨日人をやって取らせたのですといわれる。主人の厚い志を深く感謝した。食後に、かねての御依頼で家にあるもの、また本家の主人が法事で東京から来ています。今日は先約で来ませんが、許しを得て蔵から秘蔵の数種を出して来ました、といわれる。いずれも貴い数点を見た後、古い箱に入った綴葉本をとうでて見ると、題簽に金槐和歌集とあるは本文とは別筆で、本文の初め数葉は定家が書き、あとを女の人に写させたものである。夢ではないかとしずかにひらいて巻末を見ると、「建暦三年十二月十八日」と定家の筆でかいてある。建暦三年は実朝廿二歳の冬である。従前は、金槐集の金は金玉集、金葉集の類のたたえ詞に鎌倉の金偏をよそえ、槐は大臣の義、実朝世を去った後に侍臣があつめたものと思うていたに、廿二歳の冬に、おそらくは後鳥羽上皇に上(たてまつ)ったものを、定家が家にのこすと、初め数葉を自らかき、あとを家人に写さしめたものとおもわれる。さすれば将来廿八歳の正月まで五年と一ヵ月の歌稿が出ぬとはいえぬ。実に尊いものであると感嘆時を久しうした。主人にきくと、本家の主人は五日前に来られ、五日後に帰京されるとのこと、いま一週間早くてもおそくても、この眼福は得られなかった。また近親などのをも頼んでほしいと我ままをいわなかったらばと感激しつつ、どうか主人が帰京の際持参されて、東京でゆるゆる拝見したいと懇請した。
   うまし幸みる幸得たりみ越路の万葉の旅の第一日に
   いく百年うづもれゐつるうづ宝これの歌巻を初(うひ)にわが見つ
北陸めぐりの第一日にこの大いなる喜を胸にしつつ、県立図書館に赴き、高橋富兄翁や藤岡東圃博士の旧蔵書{かの異本山家集もあった。}を見、公園を歩いて、九歳の初夏に父と共に訪うて{一五頁参照}記憶に残っている根あがり松を眺め、宝円寺の宗達の墓に詣で、夜はみよし庵の池亭の歓迎歌会に出た。四日、鴻巣君に伴われて金沢を離れ、高岡市着、射水の平野をひた走りに走り行く日動車の前方には、「鷲ぞ子生む」という二上山の姿が、薄靄の内に聳えている。新川の河口に近い長橋を渡ると、右手の村落は、新葉集の撰者で李花集を遺された宗良親王が、数年の間流離の生活を送られた地、新湊町の入口なる入江は、万葉集の「奈古の江」である。《注:一五頁は明治13年3月》
   奈古の江にさすは五月(さつき)の日、立山の遠つ山脈(なみ)雪いただけり
   立山の遠いただきの雪ひかり千鳥まひまふ奈古の旧江(ふるえ)に
   内河にここだつなげる米松(べいまつ)の筏の上におりゐる千鳥
   こぎくだるてんとう舟のどれもどれも銀色(いろ)の魚高山なせり
   海幸のゆたけき町の湊町人の面わにけはしき色なし
柴保二君を訪うた。
   家あるじ心くばりて古九谷(こくたに)の六歌仙の皿にもれるくだ物
午後一時再び自動車に乗り、往路に渡った長橋を過ぎると又大きい河がある。これが射水河である。行手に横わる古国府の丘陵が段々近づいてくる。射水川の橋を渡るとすぐそこにある丘こそ越中国府の遺跡で、家持が天平十八年閏七月から天平勝宝三年八月まで五年の間国守として在任し、多くの歌を遺したところである。丘の上の老槻(つき)の下(もと)に立つと、家持が「朝床に聞けばはるけし」と舟歌を聞いた射水川は、此の丘に沿うて流れている。
   古国府(ふるこふ)の丘の岩槻汝(な)が祖(おや)のかげに立ちけむ歌人(うたびと)家持
伏木(ふしき)の町を過ぎると、渋谷(しぶたに)の磯である。氷見(ひみ)町に入った車は、左に折れて氷見の江を渡り、川添道を走っている。ここが布勢の水海の旧地である。天然記念物に指定された鬼蓮の発生地を通って、布勢村で車をおり、丸山に登る。南に面した展望の佳い所に、大伴家持遊覧碑が立っている。
   うたびとの国守家持鷹手にすゑ見めで巡(めぐ)りけむこの丘かの浜
   布勢の湖(うみ)うみの名残の江を細み千鳥鳴きうつる小田より小田に
   家ごとに畳織る家田ごとに藺草(ゐぐさ)おふる田氷見(ひみ)の山村
氷見の町を走りぬけて、国境の山を突破、能登に入ろうとしている。清い山沢に躑躅山吹が影をうつして咲いているが、風はつめたい。
   五月(ごぐわつ)を山の風さむし坂路ゆく少女が輩(とも)は黒きマント着たり
羽咋(はぐい)町に入り、県社羽咋神社に参拝する。ここは羽咋国造の祖たる石衝別命と其の子石城別命とを奉祀した社で、太古に於ける越路の文化の中心地であったのである。汽車に乗り、古えの香島の津なる七尾を過ぎて和倉に着く。和歌崎本館の楼上におちついて眺め渡すと、「舟木切る」という能登の島山も、夕暗のうちに朧げにそれと見える。
   月おぼろに外湯(そとゆ)をかへる若様(あんさま)のつづしり唄ものどけき夜なり
   唄ずきな湯番(きつちやん)がうたふまだら節(ぶし)ほの暖かき湯げにこもらふ
   はなしながら二階をおるる湯女(ゆな)が足音(あのと)ふけ静もりて波の声きこゆ
五日は、朝は雨であったが、やがてやみ、風も凪いだ。
   日曜を来(こ)し団体の遊び客ことさらに笑ふ寒き雨かな
モーター船を艤して机の島に向った。島につくと磯の岩に下りる。どの巌にも小さい貝が沢山に這い附いている。水夫に其の名を尋ねると、シタダミと答える。巌の上に立って万葉十六の能登国歌を思うと、此の島の細螺(しただみ)を採って石で打破り、洗い濯いで塩で揉んで、高杯(つき)に盛って母に捧げた田舎女の風姿が目に見えるようである。
   舟よせおりたつ巌群(いはむら)一ぱいに小螺(しただみ)はつきて波に洗はれ
   いにしへの少女あらずや嶋岸のひたひた波にひたれるしただみ
   松おふる嶋ひろからず松蔭をゆきゆくと心上(かみ)つ代さびて
更にまた西北の彼方に、熊木村が波の上に霞んでいるのを眺めると、「熊木のやら」、「熊木酒屋」などが懐い起されて、身も心も古典の世界に溶け込んで了ったようで嬉しい。一巡し終ってあこがれの島を後にした。腰蓑を着けた数人の漁夫が、舟の中に網を手繰り込んでいたのも、大きな鷺が一羽、簀網の杭に淋しそうにとまっていたのも、歌心をそそられる景であった。
   風なぎたり渚ちかき簀巻(すまき)の杭の上に白鷺一つとまりて久し
和倉に帰り、五時過の汽車で金沢に帰った。{四日五日の記事は、鴻巣君の文によった。}
六日は、人々に送られて乗車、福井市に着き、藤井千熊翁等に迎えられ、翁の家にいたり、松平家にその古書を見、三崎家を訪い、三橋なる曙覧翁の旧宅にいったに、そのかみの家は建ち変ってい、翁の歌にある袖干(そでひ)の井も、井筒が入口の土間にころがされてあるのはいたましかった。{後、福井人により建てかえられたという。}さらに翁の墓を郊外三里なる大安寺に訪うた。寺の石段の入口に、翁の歌にある紙すきの家があった。
   紙すきの小屋に紙すく作業(わざ)みつつ坂路ふみのぼる大安禅寺
   松高く山しづかなり谷の底ゆせせらぐ水の音すみ聞ゆ
   山の上の此の老松のもとにして谷水の音ききてあらむ老翁(をぢ)
更に四里の道を永平寺に詣で、帰って松平家の別邸なる歓迎歌会に列した。永井市長仙石博士らの好意で、曙覧の大幅、その他二三十点が陳列してあったのは有がたかった。
七日は大阪に、八日は京都より奈良に赴き、春日神社宝物殿にて開催された万葉植物園設立期成会に列席、社務所で、森口奈良吉君の好意で、大沢氏所蔵の源氏物語と、薬師寺村村長所蔵の手鑑とを見るを得た。大沢氏のは夙く小杉博士から、後、三矢博士から写真を見せてもらったが、まさ目には初めてであった。同夜、奈良ホテルに、辰巳君、猿石君らと歓談。九日、四日市に熊沢、川村、長谷部氏を訪い、桑名に竹内氏の蔵儲を見、十日は名古屋に関戸家等の古典籍を見、十一日の朝帰京した。
七月 神官奉頌歌詞審査委員を嘱託された。
八月 国学院大学夏季講座に講じた。
現代短歌全集別巻「明治天皇御製、昭憲皇太后御歌集」の刊行にたずさわった。
白文万葉集の校正にかかって、
   じとじととしみづる肌の汗ばみをぬぐひつつまた朱(あけ)の筆とる
下旬、四日市に月台荘を訪い、人々と共に湯の山に遊んだ。
   白雲は空に浮べり谷川の石みな石のおのづからなる
   露台にして木の椅子のかたきよりごこち湯づかれの身に仰ぐ白雲
   大き石たけ高き石なだら石、石と石のひまをたぎち落つる水
   雲は空を流る、谷間に水はたぎつ、物しばらくもとどまらなくに
   渓なかの大岩にゐて時ひさしむかつ尾上(をのへ)にしみ入る夕日
   木群(こむら)にほほじろの声こもらへり此のふか山の真昼の太陽
   繁谷(しげだに)にこもらふ日ざし水に照り岩の上にして犬ほゆるなり
   くちあきて二階の客を見あげをり石段のもとの角兵衛獅子の児
   湯の客が夜(よ)の川中にあぐる花火つかの間光りまた水の音
   湯の宿のつんつるてんのかし浴衣谷の夜風が身にしみるなり
   三方をあけはなちたる室(へや)に入りく朝谷の風、あぶ、蝶、とんぼ
   滝風のあふりの風にゆさゆさと大きうゆらぐ朴の葉とちの葉(蒼滝)
山田に赴き、神宮文庫に荒木田系図をひもといて尾崎満良の事を詳かにし、その他古典籍を見ることを得た。記事は心の花十月号「山田の半日」にしるした。転じて軽井沢に遊んだ。
博物館保管の御物の古今目録抄は、著者顕真得業の稿本であるが、中に、今様歌抄ともいうべき本の料紙の上に書いてあるのを精査して、六十四首を探り得たことは喜ばしかった。{国文学の文献学的研究参照}
十月 伊勢にいたり、二日の夜、皇大神宮式年祭の神事に、庭燎(にわび)に奉仕した。いわん方なき荘厳な半夜であった。
   神風の伊勢の御民と生(いのち)享けてかしこし今宵御火たきまつる
   庭燎の火影(ほかげ)さやけみ仰ぎ見れば天つ白雲白木綿(しらゆふ)なすも
   神今しうつらせたまふ杉むらの夜(よる)のあき風おとさやさやに
九州に赴くべく、神戸より汽船みどり丸で瀬戸内海を過ぎた。
   ことことと音たてて汽船(ふね)は静かに着く桟橋くさき香のにほひ来(く)る(今治)
   桟橋にぴつたりとまれり梨の籠両手にさげし女まづおりぬ(高浜)
   童子(どうじ)がほうりあげては手にうくるトマトきらら光る桟橋の上
   おるる乗る五六人なり高浜のみなとの家の夾竹桃の花
   船のすすみとみにゆるやかなり来島(くるしま)の迫門(せと)にして仰ぐ秋の白雲
   来島のせとをおとすと船長(ふなをさ)はわい汐(じほ)まもるわいまふ汐を
   興居島(ごごじま)は宵祭とふ泊りをる船のほぼしらのくさぐさの旗
   童如(な)し磯につどへりわが島の祭にあふと帰りこし船
   かたちかはれるあひの子船(ぶね)の帆の幾つ見る見る迫門を遠ざかりたり
   足いれる石炭船の進みおそみ千鳥鳴きよる嶋の尖端
別府より福岡に赴く。
   豊国の宇佐の郡の秋の日にあかあかと照れる煉瓦の倉庫
福岡にいたり、大隈言道の旧居に宿って、
   老翁(をぢ)在らば夜ただ歌がたりきかましを此の篠(ささ)の舎(や)に秋の夜を寐(ぬ)る
大村から長崎に、
   山村(やまむら)は石垣おほし石垣に垂枝(たりえ)たわわにみのれる柑子
長崎ぶり、
   牆屏(ついぢ)崩(く)えし唐人屋敷あきの日に爽竹桃の花もゆるなり
   フルカデン色絵の皿に盛りてきぬ迎陽亭の秋の夜の卓
   丸山の花月は古きビイドロのコップにもれる南蛮の酒
   赤かぶら𩺊(あら)の雑物(ざふもつ)酔さびに長崎びとのほこらふもよく
諏訪祭に鯨の汐吹を見て、
   シイボルト慶賀ともなひ人垣にまじらひ見るか此の鯨曳
諏訪神事屏風、
   まひる日は光きらきらし踊見る紅毛人(オランダびと)の長き煙管に
骨董舗にて、
   秋さむしこはれて鳴らぬオルゴール遊女がさししギヤマンの櫛
雲仙途上、
   ながき裾海にすそびく雲仙はめでたき舞を舞ひやいづべき
   真蒼海(まさをうみ)右にたたひて粟畑の道ただにむかふ温泉岳(うんぜんだけ)に
雲仙、
   雲仙の山のホテルの朝の卓に山草(やまぐさ)の実のま赤きをめづ
   雲にうまれ霧に華さく雲仙の山のあざみはよき色したり
   国崎と野毛(のも)の岬と手さしのべ柔かにいだく海の夕日を
   しづかなる海かな夕日かな吾に近う黙をり緬羊の群(むれ)
   穂すすきに秋の日ひくし放牧の緬羊の群人をおそれず
   遠海の夕日がもとによこたはりうらさぶしもよ天草島(じま)は
   なぞへの青かや原をゆるがして海にと走る山の秋風
   夕もやにぬれつつおりく雑木原山鳥は立つわが足おとに
   日は海に夜(よる)の色は山に天地(あめつち)の中にささやけき我ぞ立ちたる
久留米に近い八女より、梅野満雄君来らる。ともに島原から三角への汽船にて
   船僕(ボーイ)きたり国所姓名(こくしよせいめい)ききて書く天草丸の秋の甲板
   欄干(てすり)による中学生の一かたまり先生にきく原の城(じやう)の歴史
   蒼波のうねり大いなり船の方向(むき)とみにかはりて港ぐちに入る
三角、
   港口(ぐち)に入り波止場(ふなつきば)なほ遠し波静かに樹のかげ倉庫のかげ岸ゆく人の影
   汽船よりあがりし老女(おうな)笹づとの大き鯛もち足疾(と)にゆくも
熊本にいたり、梅野君に別れ、斎藤瀏君に迎えられ、水前寺、江津湖、本妙寺とめぐり、歓迎座談会に列し、斎藤邸にやどり、翌日志柿君の案内で阿蘇に赴いた。阿蘇ぶり、
   人いまだ生れず神と鬼とのみ住みけむ世よりもゆる山かも
   飂(れう)々と大阿蘇の風ふき来(く)なり粟生がうへを飛ぶ赤とんぼ
   大阿蘇の渓谷ふかし秋風にさびしきうたをうたふ水かな
   渓の風よなをまじへて吹き吹けば白川の瀬は声むせぶなり
   大あそのよな降る谷に親の親もその子の孫も住みつぐらしき
   大あそのけぶり北へと流らふる穂すすきの道ゆけども尽きず
宮地村に赴き、阿蘇宮司の迎えを受けて大社に参拝、国宝牡丹作りの太刀等を拝観、夜、阿蘇家を訪うた。先代の大宮司が江戸に出られた頃、わが父江戸にあって歌をお導きしたというので、ねもころにもてなされて、秋の夜の寒さも忘れた。
   いにしへの菊池の朝臣(あそ)が大き太刀刃こぼれ見るもさむき宵なり
熊本に帰り、契沖の弟なる快旭阿闍梨の墓に詣で、斎藤君、山崎とね子夫人らに送られて熊本を出発、呉に赴き朝永家に宿った。
   秋はれの大津辺(べ)にをる大船の数かぞへをり丘の上の童子(どうじ)
   切り崩し段々に家を建てたる山てつぺんの平地(ひらち)に犬あそぶなり
十一月 奈良正倉院を拝観、梓弓三張、槻弓廿四張をつぶらに観ることを得た。
   校倉の御梯(みはし)おるれば秋の真日芝生に満ちてあかるし心
春日神社境内の万葉植物園の予定地を見た。面積二千八百九十坪である。
 さきに作った「夢殿」を、杵屋佐吉師が作曲、華族会館における演奏会に発表された。
武蔵比企郡小川町は、仙覚律師が万葉集鈔をかいた麻師宇郷の趾であるので、昨年の御贈位の光栄の記念に、遺蹟保存会がおこされ、篆額は徳川達孝伯(田安家)、文詞は自分のかいた碑が建ったので赴いた。
徳川伯、国府種徳氏の講話があり、自分も「万葉集に於ける仙覚の功績」について述べた。

    昭和五年 五十九歳

一月 去年金沢で発見した「定家所伝本金槐和歌集」が、岩波書店によって原本のままに印行されるので、その解説を書いた。
同人の短冊展覧会を白木屋で催した。
二月 改造社の現代短歌全集第三巻に「佐佐木信綱歌集」を刊行した。
三月 白文万葉集上(下巻四月)を、新訓万葉集の姉妹篇として刊行した。一八六頁の歌にも詠んだごとく、校正には大いに苦心した。《注:一八六頁は昭和4年8月》
四月 中旬京都、大和、伊勢を巡った。
修学院離宮、
   はる風に山のみ池の波ゆらぎ松山の日ざししみらにあかし
   天雲のしづくしたたり春蘭(しゆんらん)の花はにほふか松かげ道に
桂離宮懐古、
   しなざかる越の国宰(みこともち)歌巻(うたまき)をささげまつらくこの林泉(しま)の宮に
   万葉(よろづは)のめでたき巻をまきをさめおりたたしけむ木(こ)の下(もと)かここは
   老樹がもと色こき苔のうづだかしくれなゐを点ず落椿の花
奈良、
   鹿の子らいむれ遊べり春の日のなごやかにして馬酔木(あしび)花さき
   月しろきあしびが原をゆきゆけど古へ人は逢はずもあるか
法隆寺聖霊会、
   いかるがの堂塔伽藍荘厳(しやうごん)す天雲にちかく旛(はた)ひらめけり
   やごとなき御(み)輿の後に扈従してわが世がほなる白衣(びやくえ)の公人(くにん)
   裹頭(くわとう)せる蜂起の衆が高屐(たかあしだ)とどろとどろに石だたみ踏む
   銀(しろがね)の糸なす雨に緋の御袈裟ぬれてのぼらす高座(かうざ)の講師
   大き燭またたきにほふ光うけ陵王の衣(きぬ)のきらびやかなる
   いかるがの御寺うるほす法(のり)の雨にしめらひこもる梵唄(ぼんばい)のこゑ
   よき日今日会(ゑ)につらなりし結縁(けちえん)に散華の一つ拾ひてかへる
上市なる阪本邸にて、
   吉野川清き瀬のおと寧楽(なら)の世のうた人も聞きけむ聞きつつ眠る
   朝戸あくる目にまづ浮ぶ川をちの岡の中腹(なから)の一もとざくら
宮滝より大滝にゆくとて、
   奈良の世ゆ千とせを経たり吉野川たぎつ河内は春日しみらに
讃吉野歌、
   天つ神日本(やまと)の春をよそほふと花の吉野の山おきたまふ
阪本猷氏千代子ぬし夫妻と共に、苔清水の西行庵を訪うたに、向いの丘との間の杉の木が繁って、明治三十一年におとなうた時とは趣が変っておった。
山田の公会堂に、杵屋佐吉師一門の長唄演奏会に列なった。昨年の御遷宮奉仕について長唄を嘱されたので、「伊勢参宮(まゐり)」をものしたが、中に、江戸時代の参宮物の句をここかしこ襲用したので、終の二見の条に「今は昔の筆草を、かきあつめたる藻汐草」と唄の中にいいわけをしたことであった。
古今集選釈を明治書院から刊行した。さきに万葉集選釈、新古今集選釈を公にし、代表的歌集の三選釈の完成したことは喜ばしい。
心の花読者大会に「曙」を、
   神の国あきつ島やまとあけぼのの光の中にさくら花さく
   わが前にわが道はあり高き空に今あけぼのの光は匂ふ
国学院雑誌本居宣長生誕満二百年記念号に「鈴屋文庫と鈴屋書簡集」、国の花同記念号に「本居翁の伝記編纂事業」を寄せた。
原田嘉朝翁の葬儀に松阪に赴く。山室山に、また津なる谷川士清大人の墓に詣でた。
六月 福岡から上京された久保猪之吉君を中心として君の友小池重君の斡旋により、東京ステーションホテルで雅集が催された。あつまったのは、与謝野夫妻、尾上八郎、斎藤茂吉、金子薫園の諸氏で道の上の旧き友のみ、夏の夜のふくるをも忘れた。
<久保君を中心に 左から前列――斎藤、著者、久保、与謝野、小池君
 後列――尾上、与謝野、金子君>
七月 心の花に、華陽会から出された「華陽集」の杉栄三郎、二上兵治、西川義方、山川一郎君等の作品について、武井大助君が批評の文を寄せられた。
八月 国学院大学の万葉夏期講座に「万葉集を読む人の為に」を講じた。
三重県河原田なる森田いく女の碑文をしるした。
軽井沢に赴いて、
   落葉松(からまつ)の林の道に一人なりこの高原のあしたを愛す
   浅間は神にしませど底怒りうづき堪へがたみいぶくけぶりか
   すさまじく又山鳴(なり)す夢とだえて病む子思ひなづむ深夜(ふかよ)のしじま
   から松の並木下道とみにくらしささささともやの流るる音す
戸田茂睡について調ぶべく、佐久郡野沢なる並木氏にものした。
   佐久の平(だひら)ちくま岸田の水清み若苗の間を鯉あそぶなり
四日市より養老に遊び、京阪に赴いた。
この月より毎週一回、東京放送局より「万葉集講話」を十四回にわたって放送した。(十二月末終結。)
炎熱の日、日暮里より田端わたりを過ぎて、
   青空の下(もと)あへぎいきづくいかにか此の無数の人を飢ゑしめざらむ
十二月 先考四十年記念に、日本名筆全集の中に「短冊集」を公けにした。
大乗社主催の「九条夫人をしのぶ会」の為大阪に赴き、大阪公会堂に両日講演をした。会終って、海南下村博士の六甲の海南荘にものした。
   道白きやみ夜の林こわだかに語るあるじのあとにそひゆく
   朝山は松風早し吹きくだる風の下びのにはとりの声
   朝雲と山そば松とこの朝のこのしづ心たもちてあらむ

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    昭和三年 五十七歳

一月三日の夜に東京駅を出て、九日の朝に帰って来た。かかなべて七日の間に、京都、坂本、恭仁、奈良、四日市、若松、名古屋の七処を訪うた。あわただしい旅ながら、幸に諸家の好意により、小大君の訓法、鎌倉時代の今様(伏見院勅筆の写)、船謡屏風、以下九種の眼福を得た。
京都に加藤順三君を訪うたに不在であった。
   初春の夕日つめたし友はあらず糺の森の落葉(らくえふ)を踏む
加茂で下車し、泉川の高橋を渡り、冬枯の檪の蔭の道を折れまがると、恭仁(くに)京のあとが一むらの森になっておるのに出る。
   国分寺の礎石つめたし村少女かたはらの畑(はた)に赤かぶらぬく
礎石のもとに立って、万葉の古歌をしのぶこと少時、さて湖南内藤博士を、その恭仁山荘に訪うた。案内せられて楼上から眺めると、右に泉川の流、左に吉野、生駒の遠山が、まぢかい鹿背(かせ)山をさしはさんでかすかに見える。春日山三笠山から左のはては布当(ふたぎ)山に終っていて、笠置はその後(うしろ)に当るという。恭仁の古京を中心とした刈田は、色づきわたっていて、晩秋の頃が偲ばれ、うしろの岡に橘の実の残っているのを見ても、「春されば岡辺もしじに、巌には花さきををる」頃のながめがなつかしまれる。博士は、その書庫を開いて示された。階上階下に溢れている中に、階上の一隅には、特に貴重の古書が収められてある。それは、端方旧蔵の古鈔本説文、竹添氏旧蔵の毛詩正義、北宋版の説文、同じき史記、飛鳥井家旧蔵の左伝等々である。とりわけ、自分にとって最も興趣を覚えたのは、信西の孫なる成賢の左伝古鈔本四軸であって、その裏のここかしこに、教化(きようげ)が記されてあるのは、これによってその時代がわかり、歌謡史の上から尊ぶべきものである。
   蔵ぬちは日影さし入りて暖し古書がかもしいだす香もなつかしく
   主人(あるじ)は古版本とうで云々(しかじか)と本が歩み来し歴史を語る
恭仁(くに)京趾の大いなる眺を占め、かの芸亭(うんてい)や蓮華王院を偲ばしめる文庫のあるじは、実に天下の富人というべきであろうと感じた。風景と典籍と、博士夫妻の款待とに飽く時を知らなかったが、惜しい別を告げて、奈良の古都へと急いだ。奈良では、数点の古書を見るを得た。
坂本にて、
   伊吹より越路につづく雪の山湖(うみ)紺碧に朝を晴れたり
   正月の六日のひるの湖(うみ)の色青々として浮ぶ鳥なし
名張にて、
   雪雲は尾上をはしり杉むらに竹むらにさと散りかかる雪
伊勢若松にて、
   道とへばふるさと人はねもころなり光太夫の碑に案内(あない)せむといふ
   海ほがらに松原青し此の浦ゆ船出せし人の奇(く)しき一生
   女帝(によてい)カタリンの前に眉あげてこときこえけむ若き船人
心の花に「俊成自筆本古今集について」を掲げた。
二月 文部省より明治節唱歌、及び大礼奉祝歌詞審査委員を嘱託せられた。
奈良に天平文化記念会に赴いたに、東京から九条武子夫人危篤との電報が届いたので急ぎ帰京した。その七日の夜、門地と才智と美貌とを兼ね備えられた夫人は白玉楼中の人となられた。心の花三月号を夫人追悼号とし、諸家の文を掲げた。挽歌、
   蘭の香のただよひ清み真白玉うつくし人は眠りてありけり(磯部病院)
   生死(しやうじ)の境にありてにこやかに常のゑみもて君はかたりし
   ゑまひつつ眠れる君をうつそみの世になき人と思ふに堪へず
   無憂華のにほふ木蔭に魂あそび帰り来まさぬ君にあらじか
   きさらぎの七日のよるの空の月清く寂しき色わすらえず
   うつくしさ足(た)らひあまりてうつそみの生(いき)の命は短かかりつる
三月中旬、中村徳重郎君の歌集「泉」の出版記念会に、仏人モイズ・シャール・アグノエル君は「安珍清姫・襖画・及び月夜の那智」を、魯人アンナ・グルスキナ(日本名清水浪子)さんは「レニン・グラードに於ける日本学と日本へ来ての感想」を述べられた。{心の花五月号掲載}
三十一日より、大阪、京都、奈良、御影、名古屋に赴き、四月八日に帰京した。途上作、
   夜の気こもる窓を開けば湖(うみ)青き近江あがたを走れるなりけり
天平懐古賦
     昭和三年は天平元年より一千二百年に当れるをもて、大阪に天平文化総合展覧会あり
   いにしへの大き光をかへりみるは新(にひ)しきいのち生れむがため
   千年(ちとせ)まり後の世人のしのぶべく今の御代にを光あらしめ
法隆寺、
   我らが祖(おや)一千年のそのかみにつくりきこれの七堂伽藍
   たふとし人間(にんげん)の信(しん)の霊(たま)ごもり力みなぎり成りつる壁画
   上つ代のにほひ恋ほしみさ丹(に)ぬりの大きまろ柱に手を触りて見つ
   止利仏師(とりぶつし)画筆をおきて仰ぎ見けむ松山の上(へ)のましろなる雲
   いかるがや法(のり)の都の春風にもくれんの花はな散りこぼる
夢殿、
   現(うつ)し身われ秘仏のおほんまなざしを斯(か)くはまさ目に見まつるものか
   御仏よ人ら争ひ相せめぐ此のうつし世をすくはせたまへ
なおこの時、秘仏をおろがんで深く胸にしみた感情を、「夢殿」という歌謡にものした。{歌謡集「おもかげ」に掲げた。}
中宮寺、
   おん頬にかそかに匂ふほほゑみの畏(かしこ)かれどもしたしき御仏
奈良ホテル、
   やまとの青垣山の朝がすみはろかに見つつ春の草ふむ
春日若宮神社、
   竹柏群(なぎむら)のしげらふ丘(をか)のしめり土飛び飛びのぼる角なきを鹿
   竹柏群の緑にまじりしろじろしあしびの花のにほひほのかなる
九日より十四日まで東京中央放送局の嘱により、人文講座のために万葉集を講じた。
五月 久松潜一君の母君が永眠されたので、尾州知多郡藤江に赴いた。村の西なる松山の墓所(むしよ)のはふりに、幼い正樹や治夫と共にいった。
   をさなきは松山道を珍らしみ拾ひし松かさを手より離たず
   松高き山ふところの墓どころやすらにねむれり代々の村人
安藤野雁の六十年祭が、熊谷で挙行せられたに参列した。
六月 一高文芸会に「近世の二文人に就いて」を講じた。
竹柏漫筆を刊行した。雪子との合著で、半は雪子の「西片町より」が掲げてある。
八月 奈良文化夏期講座のため、高田高等女学校にて「万葉集典籍史」を講じ、転じて大阪中央放送局にて「涼味を詠じた歌」を放送、京都では元暦万葉の為に諸家を訪問し、叡山に登った。
   老杉のうれ吹きすぐる風はやし大講堂のゆたけき甍
   暮れしづむ大き湖(うみ)の光ややに深し老杉の雫ほとほとと落つ
秩父宮御成婚に、武蔵秩父郡より秩父郡歌をささぐべく、その歌詞作成を嘱されたので、郡の所々を巡った。ここにはその途次の作を掲げる。
三峰途上、
   谷を越え木(こ)の間越えこしあまり風しだの垂(たり)葉は皆ゆらぐなり
   さがしあてたぐればほろろこぼれたりはかなかりける零余子(むかご)の実かな
   雲間洩る夕日の糸のかそかなり一谷(ひとたに)おほふ花柏(さはら)の垂枝(たりえ)
   霧雨のひえびえしもよ山草を折りつつあるに袖うるほへり
   ちご草(ぐさ)に蔓竜胆(つるりんだう)に山草(ぐさ)は花のにほひもさびしきものを
三峰山上、
   袴つけし童子給仕す夕けおそみ薯蕷汁(とろろ)おいしくいただきにけり
   参籠所夜(よる)のともし火ほのさむし黒き蝶つととほりぬけたり
   のりと言(ごと)神にまをさく朝ごゑにこだましゆらぐ八十(やそ)谷の雲
獅子舞、
   六つの獅子たちゐおきふしめぐらひてかがり太鼓(だいこ)をうちのよろしも
両神村途上、
   県道は白くかわけり唐黍(もろこし)のたかき穂の上(へ)の両神(りやうがみ)の山
秩父に赴く数日前、杵屋佐吉師が来て、「私ら夫婦がパリにおった時、宮様がおいであそばされたので、大使館で長唄をお聴きにいれました。この度のお祝に一曲の作譜をさしあげたいから作詞を」との詞。それならばこれこれで秩父に赴くから、古い伝説などについて取材するからと約し、「秩父の長者(をさ)」を作った。
八月下旬、静岡市外狐が崎に遊び、伊勢一身田、京都山科、大阪に元暦万葉集の資料を探り、名古屋で、「名古屋と国文学」というラジオ放送をした。
心の花に「愛誦歌五十首」を掲げた。
十一月 即位礼を行わせ給う日、
   秋空は清しめでたし高御座(たかみくら)たかしらしますこの豊秋を
国ほぎの歌、
   神富士は真(み)中に立たし五百重浪斎垣(いがき)めぐらすうるはし日本(やまと)
大礼特別観艦式の日、
   大御艦むかへまつると大山を足柄を率(ゐ)て富士はさもらふ
   天皇旗蒼海(あをうみ)の日にまかがよひ冠(かがふり)しろき富士に向へり
   しろがねのつばさ大空の風を衝きて鳥舟のむれつぎつぎ参(ま)ゐ来(く)
   夜光(やくわう)の珠(たま)きぬにかざしにちりばめて海のますらを処女(をとめ)さびせり
道子が藤田秋治君に嫁いだ。
十二月五日、宮中豊明殿に御饗宴の御儀あり、特に民間の功労者を召させ給うた中に、学芸の士の御召を蒙ったもの五人。美術家として横山大観、下村観山両画伯、医学者として北島多一博士、文芸にたずさわるものとして逍遥坪内博士と共に、おほけなくもおのれその一人に加えられたのであった。
   天つ日の光あまねく野の草も花の数にし召されたり今日
   出御(いでまし)を待つ間かしこみうち向ふ大庭の芝生色あたたかに
   大宮のみどりのいらか日に映えて泉のいぶき白玉を撒(ま)く
   大君につづかせたまふ御(み)后の御鞜(くつ)金色(こんじき)に明るき真昼
   言霊のさきはふ国のうた人の幸をしおもふ今日のこの日に
心の花に「仙覚律師に贈位の御沙汰を拝して」、「大嘗祭と和歌」を掲げた。
天平文化記念会の記念出版として依嘱された「元暦万葉集大成本(本文十五冊、解説一冊、附巻一冊)の印行が完結した。有栖川王府本、古河家本をはじめ、諸家の手鑑等にある断簡を苦心捜索して大成したのであるが、それについて、従来知られておった十四巻本以外に巻十一の数葉が発見されて、十五冊になったことは喜ばしかった。

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    大正十五年 五十五歳

一月 本年外遊あらせられる高松宮殿下に、六回にわたって永田町の御邸に万葉集を講じた。
   代々の親王(みこ)の御影ならばす御(み)前にして上(かみ)つ世の歌の意(こころ)まをさく
契沖全集第一巻として、{初稿精撰}万葉代匠記第一巻が出版された。
心の花に「日本学建設の第一歩」を掲げた。
三月号心の花を第七万葉号とし、諸家の寄稿を請うた。自分は「万葉集雑談」(万葉摘草等)を掲げた。
   着ぶくれし幼なはらから走せまはり履に蹴ちらすけさの浅雪
   ふすまあけて「こんちは」といふ哲郎のしばし見ぬ間に大きうなりし
   わが正樹しろきまんとを地にひきて芝生にもえし草むしるなり
四月 尾張・京都・伊勢に赴く。名古屋高女に文芸談を述べた。「松阪遊記」を心の花九月号に掲げた。
土浦に遊んで、
   町川の流れどまりの青水(み)しぶ青々として春たけにたり
五月 藤島逸人、男爵有坂勉氏妹季子さんを娶り、文綱、理学博士丘浅次郎氏長女久子さんを娶った。
七月 「秘府本万葉集抄」を印行し、「仙覚全集」を刊行した。
八月 静岡葵文庫講演会に、「駿遠二州より出でたる近世の国文学者とその事業」を講じた。最後に、「自分は、浜松に数回、また真淵翁の母刀自の名が知りたくて生家天竜村をも二回訪い、その他、委しく調べたが、猶不明の点がある。この地方の篤学の士によって、真淵門下のすぐれた学者についても調べてもらいたい」というて話をとじめたのであった。(附記。当日聴講された浜松の小山正君は、爾来幾十年を大いに努めて学位をも受けられた。)
文芸春秋に「古今伝授と万国海律全書」を寄稿した。
鎌倉にて、
   鳳仙花さきかたまれりつみあげたる苅芝の香のほのかに匂ふ
   野をゆけばほのぼの白き月よみの光のそこの月見ぐさの花
   老仏師が御仏きざむ思もち日々日々に書く幾ひらのふみ
   つつましく我を守りてありふれば時にさびしき思ひぞわがする
十一月 長慶天皇が御歴代に列せられ給うた。家蔵本耕雲千首の奥書による武田祐吉君の論文が有力な徴証となったので、宮中から武田君に賜(たまもの)があった。それで、君を中心として二上兵治君、芝葛盛君、橋本君、久松君、藤田徳太郎君を招いて燕楽軒で賀会を催した。心の花十二月号に、芝君の「長慶天皇を仰ぎ奉りて」、予の「長慶天皇御在位確認の史料について」を掲げた。
契沖全集のため京阪に赴いた。京都で、
   西山の秋の日寒き山路ふみあはれと折りぬわれもかうの花
東洋大学四十年記念会に、「輓近の発見に係る希覯書に就いて」を講じた。五代集歌枕、信生法師日記、飛鳥井雅有の日記等である。
十二月 大正天皇崩御を悼みまつりて、
   雲がくり日かげをぐらしひさかたの天つみ空に大き憂あり

    昭和二年 五十六歳

一月 明治十年に初めて歌を詠んで満五十年になるので詠んだ歌、
   五十年を歩みわがこしこの道の道のはるけきに心いためり
校註金槐和歌集を公けにした。附録実朝年譜は、曽て歌学論叢に発表したのを更に増補した。
二月 芳賀矢一博士が永眠せられた。心の花三月号に「芳賀博士をおもふ」を掲げて、博士の偉業をたたえた。
「増訂賀茂真淵全集」を監修した。
三月 葵文庫パンフレットに、さきに講じた「駿遠二州より出でたる近世国文学者」を掲げた。
契沖全集、真淵全集の資料蒐集のため、名古屋より大和に赴き、二月堂に水取の行法を見、室生に契沖の遣蹟を探って深く感じ「室生の岩屋」の一篇をものした。{信綱全集二三三頁参照}帰途、奈良に俊成の「古今問答」二巻を発見し、東海道新居(あらい)に岡部譲(ゆずる)翁を訪うて、真淵文献を見るを得た。
国語と国文学に「悦目抄の原本和歌大綱に就いて」を寄稿した。
四月 熊谷町図書館主催の建部綾足祭に列なって、綾足について語り、安藤野雁の墓に詣でて野雁のすきな酒を手向けた。
   おくつきの石にふりかくるうまし酒有がたしとやもたいなしとや
三笠保存会の嘱により「記念艦三笠の歌」を作成したに、三笠艦艦材の額縁に、東郷元帥が自署された大型の写真を贈られた。
五月 公孫樹下歌会が東大国文科学生中の同好の士によって、成立した。会合する者いずれも、明治歌壇の新気運に参与した久保猪之吉博士等のいかづち会、八杉外語教授らの若菜会を思わせるものがある。歌会の名は厳橿が下(もと)、椎が下(もと)等にならって命名したもの、山上集会所にあつまったのは、北沢喜代治、高浜充、徳山健三、相原弘、酒井善孝、谷亮平、田中定二、福田清人、大津有一、岩淵兵七郎、高橋猛君等十余人、兼題の批評は甲難乙駁、和気藹々の裡にも熱論火を飛ばすようであった。
七月 橋本君と合編の「南京遺芳」が印行された。「南京遺文」{大正十年十月参照}の姉妹篇である。さきに正倉院でうつした写真の一つに就いて武井大助君に話したに、福田徳三博士はその写真を早く見たいと懇請された。それは遺芳のうちの「写経司解」である。博士は、労働者側の待遇改善の要求に関する文書として、伝存しておる世界最古のものでなかろうかと思う。珍しい文書を見ることを得たといたく喜んで返された。{信綱文集六三頁に「万葉集の背景としての一文献」という題目で全文を掲げた。}
心の花に「円珠余光」を掲げた。この数年間契沖について調査したことの結晶ともいうべき一篇である。
九条武子夫人の随筆「無憂華」が出版された。この書は、爾来年を積んで版を重ね、その印税が基礎になって、あそか病院が出来たのであった。
八月 改造社の札幌における夏季大学のために北海道に赴いた。津軽海峡にて、
   波きるや音のさやさや月白き津軽の迫門(せと)をわが船わたる
   船ゆるらに夜(よ)の大海の風きよし月に横ぎるせとの白波
   大き海に月おし照れり船艫(ふなとも)を滝つ瀬なして流れ散る波
   わが世によき幸(さち)一つくははれり北海(ほつかい)にわたる此のよき月夜
   船のゆれとみにはげしも明滅せし灯台の灯(ひ)も見えずなりにたり
   月くだつ津軽のせとの船の上にややうすら寒しわが旅ごろも
函館につくと、木村定三牧師に迎えられた。君は小川町の吾が家におられたことがある。後、金沢の高等学校に入り、更に神の道に身を献げて北海道に渡られた。
   雪ふかき北の海べに一巻(ひとまき)のバイブルもちていにし友はも
とは、当時君を懐うた自分の歌であった。しかして君は今函館で神の道を伝えておられる。
大沼にやどり、翌朝は鵞鳥の鳴き騒ぐ声に目がさめた。小舟にのって、百二十六あるという島と島の間を縫うてゆく。瀬戸内海を縮めた松島、松島を更に縮めた大沼、女性的な美しさのこの大沼は、北方にそそり立つ男性的な休火山駒が嶽がその雄姿を浮べて、更に美しさを増しておる。
   さみどりのよき衣(きぬ)きたる島童百まりむれて波に遊べり
舟をあがって大沼養狐場を訪う。
   ここはこれ狐の国なり人間のたかき足音(あのと)をはばかりあゆむ
   金網もてくぎれる柵に昼の日照り衣(きぬ)にまつはるけもののにほひ
   手づくりの野葡萄の酒すすめつつ場長(じやうちやう)は語る狐の話を
夜、札幌に着くと改造社の人々に迎えられた。
   辻の隅に唐黍(きび)やく匂ただよへり北の国べにきたれりと感ず
山形屋旅館に着いて、奥の部屋に通る。袋戸棚にはった書画の中に短冊があるので、帽子を置きやがて見ると、一は小池道子刀自ので、一は亡父の歌を書いてあるのであった。それは父の歌(教訓の作)を誰かが感じて書いたもので、古式のように他人の歌を書く方式で書いてある。初めて米た北海道の客舎で、亡父の歌を書いた短冊の貼ってある部屋にとまったことは喜ばしかった。
三日間の講演を終えて、バチェラー博士を訪い、アイヌ語にささげられた多年の苦心談をきいた。
   アイヌびと祖父(エカシ)とむつび神(カムイ)としたたふる君よ百とせをいませ
真駒内牧場にて、
   遠々し牧の上(へ)の空の真しら雲秋のこころはすでに動けり
   楡がもと槲(かしは)がもとに牛は群れ馬はあそべりゆたけき天地(あめつち)
   乾草塔(サイロー)のまろき屋の上(へ)に鴉おりゐ夕陽よどめるかしはの大樹
   放牧の牛むれ帰る黄昏をほのぼの赤きクローバのかたまり
   刈草の堆積(にほ)の片かげほのぐろうこの広き牧は暮れもてゆくなり
場内にデンマーク人の家があって、女児が遊んでおった。
   児ははしやぎて乳(ちち)牛のはづなひつぱれりそが赤き衣(きぬ)風にふくらみ
月寒種羊場にて、
   牧草(ぼくさう)のふみ心地よさ羊としここに生(あ)れなば物おもはざらむ
   雲しづむ夕牧のはてに点々と羊は黒き星のごとしも
   牧草のあまき香はこぶ夕風にまじりてをあらむわれも羊と
夕張炭鉱、
   廃坑の奥より吹き来(く)風つめたし野葡萄ゆらぎ歯朶の葉ゆらぎ
   大地(おほつち)の底に国ありをのこ吾等生くべき国のなしといはずやも
   白墨(チヨーク)もて事務所の壁板(したみ)に書きてあり「彼女は恐らく私の事を思つてゐまい」
   うぐひすは金山(かなやま)神社の石段をのぼりつつあるにしきりに鳴くも
   花櫛を売る家の門(かど)にしばし立ちぬ炭山町(たんざんまち)のまひるの暑さ
夕張倶楽部に宿って盆踊を見にいった。
   をどりぬけてとく帰るらしき男女(をとこをんな)たちとまり買ふ夜店のトマト
同じく講演に来られた金田一京助君の案内で、白老アイヌ村を訪うた。予の請うまにまに主人はユーカラを謡い、若い女五六人は踊ってくれた。
   神(かん)窓にむかふぬさ垣しらじらといたどりの花ぞ咲きかこみたる
   しろがねの鬚ゆるがして老いし主人(エカシ)炉の辺(へ)うちつつ謡ふ古謡(ユーカラ)
   をどりの輪めぐること早しかけ声のたえまをひびく遠波の音
   亡びゆく種族が為の挽歌とも聞きの悲しさ古謡(ユーカラ)のしらべ
   段(きだ)屋根の村通り過ぎて出でし海、海さびしらに船のかげもなく
   アイヌの子も共にしやがみて海を見る白老(しらおい)の浜の夕暮の波
   はま鴉いたくな鳴きそ白老のゆふべの海はさびしきものを
   ここかしこの段(きだ)やねの家暮れなづみ白老の村は夜に入らんとす
登別温泉にやどり、支笏湖に赴いた。
   岩だたみ白みをどめる湯の中に見る川遠(をち)のいたやの紅葉
   冬ごもりのまき積みてあり発電所の社宅の横に遊べる子供ら
   軽便をおりたるは父か虎杖(いたどり)の花のひま分け走せこしむすめ
   一面の大雪原にならむ日を思ひつつ手折(たを)るをみなへしの花
   この深(み)山に八尺(やさか)の雪に籠るとふうつそみ人(びと)は生きざるべからず
   湖(うみ)岸は夕日まだらに高き木の蔓あぢさゐの花のましろさ
   にはとこのくれなゐの実のさゆれゆれ鳥が音乱れ山の雨来る
   日のくれの山風とみに寒うなるに湖(うみ)見ゆる方の戸をとざしたり
   開拓使の昔がたりに夜はふけぬ窓をはたはたと打つ山の雨
   もやごもる湖ぞひ道の朝じめりさびたの花の白くつめたき
   湖ぞひの木がくり道は狭霧ふりにはとこの実のま赤きもさびし
   ほうと呼べばほうとこだます湖(うみ)岸のこぐらき道の白きいたどり
   湖(うみ)岸をはなれて少し山に入るここには多きたもの木ぶなの木
恵庭も樽前も火山である。
   相思へど相よりがてに樽前(たるまへ)と恵庭(ゑには)は可愛(かな)し嘆き息吹(いぶ)くも
支笏湖帰途、汽車中作。
   林なすいたどりの花の中わけて来(こ)し山人は神代人かも
   今宵とまる旭川の駅いまだ遠しあかがね色の月いでてをり
斎藤瀏君を訪うべく、夜、旭川に下車した。
   駅前の夜ふけつめたき雨(あま)風に客あふれたる古き幌馬車
夜明くるまで語りかわした。
空知平・十勝を過ぎ、この旅の終りなる狩勝峠に赴いた。
   白雲のおりゐ向伏(むかぶ)す国原を見つつ吾がをりこころ虔(つつし)み
   すすき原から松林ゆりなびけ高原(たかはら)の風ふもとにくだる
   高原の風をはげしみ丈(たけ)のびず花もたる草をかなしびにけり
   十勝のやさほろの嶽のここにして人を思へばはろかなりけり
   山の上にたてりて久し吾もまた一本(いつぽん)の木の心地するかも
   さほろ嶺(ね)の大き岩根にわが居(を)れば傍に近く雲あそぶなり
帰途作。
   海はくろし牛放ちたる草原のところどころに咲ける花草(ぐさ)
   秋未だ浅くしあれど大いなる広野がつつむまうらさびしさ
函館にやどる。
   五稜郭の濠の水いたくにごりをり中学生が競ひ泳げる
   本願寺の大き屋根一つもやに浮きて港の町は朝ならむとす
立待崎に啄木の墓を訪うて、
   さすらへ来て喜び見けむ海を見つつ詩人啄木は眠りてありけり
帰途盛岡に下車し、得能知事の官舎に一泊した。翌日、厨川柵のあとを訪うて、
   そのかみの奥州街道の町並の年ふりにたれ落ちつきのよさ
   命すて争ひし柵の跡かここは石からまきの花のあかるく
   つばめ飛ぶ北上川の瀬を早みいにしへ人はとどまらなくに
   南部は馬の国なりゆきあふどの馬もどの馬も虻おほひせる
夜、大宮に下車した。それは旅の歌を書き改める為であった。
   夜(よる)の道螢籠(かご)もたる女らがすれちがひざまの螢のにほひ
   虫の音は流らふごとし松原の中なる家に夜を一人をり
心の花十月号に「北海遊記」を揚げた。
九月 新訓万葉集上巻(下巻は十月)が岩波文庫の第一巻として刊行された。さきに岩波茂雄君が訪われて、「此の度、岩波文庫をかくの如き趣旨で出そうとおもう。就いてはその第一巻第二巻に、わが国の古典として最も尊い万葉集を出したい。いついつまでにまとめてほしい」との詞。自分は驚いて、「そんなに急に出来るものではありませぬ。しかし」と云うて、書斎から改訂万葉集の原稿{明治四十二年十二月参照}を持って来て、仮名交りの万葉は江戸時代にもありはするが、よい本を出したいと多年企てて、木村博士在世中に序文をもお願いしたが、訓については能うかぎり正確にと、このように改めていました。それではいよいよこれをまとめましょう」と約束し、ひたすら従事し、ここに刊行されるにいたった。
国書稿本刊行会の「稿本叢書」を監修すべく依嘱された。
内藤湖南博士頒寿記念文学論叢に、「成尋阿闍梨母日記解説」をものした。{後、冷泉家の定家手沢本を見ることを得た。「国文学の文献学的研究」二九五頁参照}
京都に赴く途上作、
   この幾日万葉集につかれたるわが目に秋の湖は光れり
大阪中央放送局の嘱により、大阪にいたり、国文講座に「万葉及び古今の秋の歌」について講ずること七回であった。
上に述べた契沖全集{契沖九巻長流二巻}が完成したので、東京から上田博士、京都から新村博士が来られ、高津の円珠庵でおごそかな報告式があった。
   円(まとか)なる珠の光は全(また)く世に今しあらはる尊く嬉しき
   生駒遠嶺冬霞せりほほゑみつつ阿闍梨のみ霊うけ給ふらし
十一月 正倉院に赴いた。
十二月 心の花に「明治大帝と万葉集」を掲げた。十一月三日の第一回明治節に謹記したのである。

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