昭和七年 六十一歳
一月 宮内省より御物調査委員会臨時委員を嘱託せられた。
文学に「異本伊勢物語に就いて」を寄稿した。
二月 江南数章を詠じた。
江の南雲みだれ飛ぶ瑟を鼓し琴を鼓しつつ敖(あそ)ぶ日はいつ
何を用(も)て鑒(かんが)みざるぞ古りし国国既に卒(つひ)に斬(た)えまくするを
四月 三日名古屋に、四日伊勢に赴いた。自分の生れた石薬師の旧宅を東京へ移転後売却したに、近村の井田川村和泉の藤田氏が購われ、学者の家であるからと全部もとのままに移し建てて住まわれておるとの事を夙くから聞いておったので訪問した。
さながらにあるがなつかし屋根瓦の四つ目の紋もがらす障子も
(この藤田家の女で亀山の服部家にとつがれたかたに生まれた四郎君が、いま東大言語学教授の服部博士である。)
岡山に佐藤金造氏夫妻に迎えられて、玉島なる小野家にいたり、小野務、木下幸文の遺著を見、鞆にいたり、仙酔島を間近くのぞむ客舎で歌がたりをし、次の朝、汽船で、島々の間を縫うて尾道にいった。その島々の眺めは忘られがたい。
せとの海神の置きけむ八百島のかぎり知らえず雲つららけり
福岡市今泉なる大隈言道の旧宅に、自分の撰文にかかる旧宅之碑の建碑式に列なった。{碑文は文集二六三頁に掲げた。}
旧宅之碑に朝の日のどけし心今もここに住むらむ歌人言道(ことみち)
久保博士・春日教授・小島氏の斡旋で古典籍を視、九日福岡女子専門学校に講話、後、唐津に遊び、十日帰京した。
日本橋の偕楽園で古典科出身の同窓会があった。年長者なる安政四年生れの松本愛重博士を初め、美髯の市村瓚次郎博士、無髯の平田盛胤翁等々で、当時の思い出がたり――明治十八年初めて学帽が制定されて事務室にとりにいったこと、月謝が八十銭、しかも貧困願を出して免除を請うたこと、文徳実録を十六銭、春満在満書入の延喜式を一円五十銭で購うたこと、山田準翁が比較的若くて漢書課の佐々木といわれたこと、自分が大童子といわれたこと、卒業生は国漢の第一期第二期全部で百七人であったが、現存者四十人あまりとの事等々。
若き日の思出がたり春の日のくれゆくことも忘れてありし
六月 三日が誕生日であるが、六日の日曜に華族会館で還暦祝賀会が盛大に催された。友人同人より「日本文学論纂」と歌集「光風」を贈られた。心の花七月号の祝賀記念号に雪子のかいた「西片町より」の中から数行を抜く。「清浦伯の若々しい、上田(万年)博士のねもころな、発起人総代として下村博士のほがらかな、同人の一人としての川田さんの熱情のこもった、いずれも有難くお聴きした。斎藤(瀏)さんの司会ぶりはきびきびしておった。……大勢の方々の御協力、なかんずく、武田(祐吉)さん、石榑さん、藤田(徳太郎)さんのお力、それに伊藤(嘉夫)さん、坂田(富美)さんの努力によるのである。……」。自分は謝辞を述べつつ、
人のまことうくる嬉しさ胸底に涙にじみて言葉いでなく
当日「華甲記念文集」を人々に贈った。また記念に「鏡草」を印行し九月に成った。
七月 国学院大学万葉集夏期講座に「戸田茂睡と契沖阿闍梨」を講じた。
八月 心の花に掲げた歌の中に、
伊波普猷君を訪う、
坂の中らの家 庭にさける桔梗 あるじに聞く 尚円王の歌
黄昏、
窓によりて事なし ゆふぐれ 竹の葉のかげはゆらぐ
吉川惟足集を読みて、
吾を視 吾を思ひ 吾にむちうつ 心よわき吾に
前年頃から、歌の五句は時として四句にしてもよく字数も長短いずれにてもよいとして、新らしい詩形を考えていたあらわれの一つである。
この月、奈良に赴いて奈良文化夏季講座に「万葉集の二三の歌人について」を講じ、吉野にいたり、吉水神社に所蔵の建礼門院右京大夫集について調査した。
八月の吉野の山にのぼり来つどの掛茶屋にも薬草を干(ほ)せる
上市なる阪本氏を訪い、共に舟を吉野川に浮べた。
上市はかけづくりなる家並の川みづを汲む綱釣瓶(つなつるべ)して
するするとつるべ水面(みのも)にとどきたり水みてし釣瓶するするとあがる
夜づけせし石くづしつつ早き瀬にはらばひて捕る石間鰻を
看山臨水楼にやどった翌朝、
水荘のねざめに白くながれ入る吉野の淀の暁のもや
あさ風に心ふかれて吉野川清き真砂を吾がふみにけり
帰途、石薬師によって石薬師文庫閲覧所の成れるを見た。
蝉時雨石薬師寺は広重の画に見るがごとみどり深しも
岐阜に下車して中山八里を汽車にて過ぎた。屋の上に石を置いた板屋根が多い。
駅の横ものうる家みな板屋根なりたけ低う咲ける日まはりの花
下呂の温泉宿にいったに、満員である、二三日前に通知しないではというて、宿をかさない。
今日は今日心のゆくにまかせたる旅人の身にいふは何ごと
古(いにしへ)の西行上人の江口の宿でないから、歌を詠んで示したところで返歌をしそうもない。やむを得ず帰った時、同車した岐阜の山口博士の一行と語りあった。
山の風わがおろかしきひと時のはらだちごころ吹きけつ如し
太田におりて、木曽川を下るべく船に乗る所にいった。
ぽつりぽつり川原の石にあたりたる雨やみてとみに涼し川風
木曽の谷百谷の水おちたぎちたぎつ急湍(はやせ)を吾が舟くだる
可児合の瀬で、
舟人は棹つきしぼり岩波のうづまきが中に舟のり入るる
どどどどと舟は音たててうづまきのさわだつ中に入りにけらずや
高々とあがれる飛沫(しぶき)わが背うつ瞬間(たまゆら)に瀬をのりこえにたり
可児合(かにがふ)の危きはや瀬のりこえてわが衷心(したごころ)悔(くい)なきにあらず
かつ悔ゆる心たもちてたぎつ早瀬くだる危さを喜びにけり
可児合の急湍(はやせ)高波こえて思ふあやふきものはうつくしきかな
はげしい雨が降って来た。
雨来(く)べしおほひ張らむと舟人が言葉のうちに雨おそひきたる
ましぐらに急雨(ひさめ)おそひ来(き)高々と鳴りとよむ瀬をわが舟くだる
降りはげしき雨を喜ぶ猿いくつ岩の上(へ)にしてききと声たつ
雨またく晴れし水(み)の面(も)の夕照(でり)に山松の幹の黄なる明るみ
犬山から上陸して岐阜に、翌日中津川をとおって恵那峡にいった。
川そひの樹(こ)かげの床几涼みにとこし町人(まちびと)の母娘(おやこ)が語れる
恵那峡を下った。
美濃の国恵那の山かひ大き江の緑の瀞(ゆつ)にゆたけし心
天雲(あまぐも)の青き滴(したたり)たたへ充(み)つ峡(かひ)の大江を舟さしくだる
恵那の峡(かひ)四里の青淵よき人の心おだひに夢みるごとし
身を全(また)く青垣淵にひたしつつ岩山の心しづかなるべし
山は水はうつくしきかも衷(した)ごころ憎める人を昨日はもちし
とこしへに吾をまもれる青淵の心さびしき折はあらじか
四里の峡藍をたたふる深淵のはてなきに吾が心つかれぬ
ゆくりなく一双の鶴の舞ひ下(お)りるを看た。
真蒼淵(まさをぶち)崖(きし)の松山にみるものか松のうへなる一双の鶴
繁(し)み立つ松の秀(ほ)つ枝(え)におりむとしたゆたひがちに輪を舞ふ鶴は
天高く江の水遠し松山の松の上にして鶴はあそぶも
しづかに羽(はね)ををさめて己(し)が心にかなへる枝とおりゐけらしき
おりゐて時久し松が枝にとまれる鶴はさゆるぎもせず
松山の青きにこもる日の光かそかににほひ夕べは近し
青淵にいささかの水皺(みしわ)のこしつつ吹き過ぎにたり江の上の風
浜松市外に高林家を訪い、方朗(みちあきら)翁の遺著を見ることを得た。途上作、
古き家の大き門(かど)にしばし日をよけぬへちまの畑の炎なす風
九月 時好倶楽部の会で、新東京の歌について話した。
十月 廿二日、四日市の月台荘に田中光顕翁と共に客となり、多度神社に詣でた。山あいの老樹こぐらき中に、まだ一しおの紅葉の色もおちついて幽邃の地である。神官の示される御鏡の数々を、田中翁は先年拝観せられたので、ねもころに説明せられる。藤原時代の紋様のめでたさを感じていると、古筆にくわしい月台君は、この模様は俊頼の大色紙のに似通うておるといわれる。自分は、神宮寺資財帳を飽かず眺め入っておると、茸狩のもうけがととのうたとうながされるので裏山の方にゆく。百舌は鳴き、畑の柑子はたわわにみのって、坂道の苦しさも忘られる。松山の中腹、茸山の幟がひらめいておる下の方は、揖斐長良木曽三つの大河の流が一眸のうちに入るよい眺めであった。
翌日、翁を導いて、石薬師文庫閲覧所の開所式に石薬師に赴いた。このことについては心の花十一月の文「石薬師文庫」から抄出する。「昨年石薬師にいった折、前村長清水房太郎翁がここかしこ案内してくれられた。その折、役場で現に使用して居る井戸は佐々木家のを其のままで、あなたの産湯の井戸であると語られ、また小学校の方に移したがとて、十数間さきなる土蔵のもとに伴われて、この弘綱先生の書庫に、今は役場の書類が入って居るとのことであった。蔵の前にたたずんでおると、五十余年前の面かげがまざまざと浮んできた。この蔵こそは家の左手にあって、傍には幾本の竹があった。我儘であった自分はよくこの蔵に入れられた。自分は、此の蔵は全く壊たれたものと思うていたに、棟瓦を見れば昔ながらの四つ目の紋である。壁などはいたんでおったが、これを修復したらよくなろうかと翁に問うたに、もとがしっかりした蔵であるから、立派になりますとのことであった。それで還暦の記念に蔵を修理し、もとのように井の近くへ移して書庫となし、石薬師文庫と名づけ、傍に閲覧所一棟を設けて、小学校の職員生徒、村の青年諸子の読むに適当な書物を収めたらばと考え、清水翁にお頼みしたに、快く引うけくれられ、今度それが立派に出来あがったのであった。それで、伊勢に関する書、伊勢の学者の著書や自筆の書等を特別書とし、専ら若い人々の読むに適したのを蔵書中から選んで贈ることとした。聊なりとも村の文化の為に、村の人々の心の糧になるであろう事の成就したのは、亡父在天の霊もいかに喜んでくれられることであろうと思って、喜の涙がこぼれた。」
式は、小学校内で行われた。光顕翁は、自分も一言のべようといわれて、力づよい大きな声で、「佐佐木先生の弟子は大勢あるが、九十以上の弟子はわし一人じゃ。今日の式に列なったことは喜ばしい。今の世は総理大臣までならば誰でもなれる、諸君もしっかり勉強せい」といわれた。次に県知事代理の淵上学務部長の式辞があった。
廿四日 奈良に赴き、万葉植物園の完成したのを見た。樹蔭を歩み池をめぐりつつも、万葉歌人の風懐に入れるすべての木草が、よくもあつめられたことと、感謝の念に堪えなかった。
同じ日、高畑なる山田氏の別墅の庭園の芝生、緋毛氈の上での昼けのもてなしは、忘られがたかった。うちむかう春日山のここかしこは薄紅葉して、飛火野には鹿が群れておる。相客の杉博物館総長と江見宮司は、共に酒豪である。主人が口ずさまれた旅人卿の古歌は折からの興を添えて、自分も数杯を傾けたことであった。
廿五日、大阪堂ビルホテルで還暦祝賀会があった。川田順君の司会で、まず新村博士は「今日まで約四十年」――日本歌学全書によって歌の道に親しむようになり、明治三十八年一月、東京高等師範学校の国語学会で、歌に関するお話のあった日に云々、花田比露思君は「日本歌学全書の万葉集」、小泉苳三君は「しがらみ草子のつぼ董」、森繁夫君は「国学者及歌人と長寿」、里井柳枝さんは、「歌を心の友として」、折から在阪中の久保猪之吉博士は「芸も長く命も長く」に就いて述べられ、終りに自分は知己の情の厚きを感謝したことであった。
廿六日は京都御所の御門の内の白真砂をかしこみふみつつ、東山文庫の御曝涼の一堂にさぶろうて、一日を過した。尊い古文献の数々は、先年拝観を忝うしたことであるが、今年は特に允許を得て、古筆御屏風なる元暦校本万葉の断簡、それはさきに集大成本に掲げえなかったものと、霊元天皇の御撰にかかる宸筆の歌論の書とを拝観したのであった。
廿八日は岐阜に下車、山口博士夫妻の案内で、長良会の人々と三田洞の法華寺に茸狩にものした。ぬなわ生い繁る池に臨んだ岩山の形もよく、折からの時雨日とて、晴れては曇る松山の色もよかった。木の枝につかまりつつ登る九折のここかしこに、しめじの群を見出でたのも嬉しかった。歌がたりに時のうつるのを忘れていると、池の真中の石に、いつの間におりたか五位鷺がいたのも、この夏の恵那峡の鶴を思いうかべて懐かしかった。
蒪菜(ぬなは)うかぶ池の一隅(いちぐう)ほとほととほとほとと落つ山しぼれ水
山女(やまをんな)案内(あない)しのぼる道急なり低木の小枝掴(と)り掴りのぼる
山岨(そば)道松の繁葉(しげは)の葉もれ日にきはだちて赤し何の実と知らず
吾等しづかに池亭に語るつとおり来(き)池中(ちちゆう)の岩に五位鷺は居る
十二月 西本願寺本万葉集二十巻を還暦の記念に印行しようと、武田君にはかって着手した。
年を送り年をし迎ふよろづ葉の書巻刷ると暇なみして
百年の後人(のちびと)のため万葉(よろづは)の書のこさまくこころくるしむ
砧の小畑薫良君の新居を市河彦太郎君と共に訪うた。此の日窓外は、武蔵野の峭風高く黄塵を吹き巻くが、室内は炉火あかく、主客の談論また燃えるようである。日の半日歓を罄(つ)くして帰るを忘れた。
新(にひ)はりの道ひろくして土おちゐず塵ふきあぐる武蔵野の風
あげつらひ古へに今に旅がたり空に大洋(おほうみ)にうつりつつ尽きず
炉の薪(たきぎ)よき音たててもゆるなり李太白去りリットン来る