江戸期版本を読む

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 此の寿永二年の秋には、世の中騒がしかつた。日記(後半の部)には、

  なべての世の中、いひ知らず恐ろしき事のみひまなくて、俄かに常盤殿に渡りおはします。程もなく都の方に煙たちて、人のいひ騒ぐこと、まことそらごと数限りなく、其の故と思ひわかねど、移り変る世のはかなさなど、さまざま目の前に見えし秋、蓮華王院の西にありし御所へ、院帰らせおはしまして、此の御方にもおはします。人の心もひきかへ、神代の始などを聞く心地して、

とあつて、作者は日本の歴史のうつり変りを目にまざまざと見たのである。さうして日記には後鳥羽天皇が皇位を御継承し給ふ事に定めさせ給うた御次第を記し奉つてゐる。
 かくて八條院には建暦元年六月崩じ給ひ、年頃深く頼み奉つてゐた御蔭におくれ参らせた嘆きは、忘れる世もなく、御面影のみ恋しう心細う忍び出で奉り、限りの御事に仕へ奉つた事を嬉しき契りと感激するのである。

  志深かりし宮仕の甲斐ありて、思ふほいたがへず、限りの御事を居立ち仕う奉るは、契り嬉しき方もあれど、例ならずおはしつる、日頃よりも、何とか、そのかみの御有様に立ち返り、うつくしう見えさせ給ひしを、宰相殿と二人、御衣たてまつらせ更へなどする迄はなほ名残ある心地す。浅からぬ宮仕の志とては、あだならずしたため参らせむ事を、我も人もいとなむにぞ、又かきくらし悲しき。

 次に春華門院の御上に及び奉り、「御湯参らせ、御ぐしたれ参らせ」など、一心不乱に御養育申上げた次第を記し、
 
  夜とて暫し打ちまどろむ事なく、御殿篭りたる程は、御乳を参らせんと、御乳の人の飽きたげに思ひたるまで言ひそそき、昼になりぬれば、つゆのことも危からじと、片時も覚束なく、いふ甲斐なき我が目放ち参らせんは、うしろめたく覚束なく思ひそめ参らせしに、

といふやうに、真心を捧げて奉仕したのである。二葉の御程より世に類なく、限りなき御有様にて、「はかなき御遊びにつけても、有難う美しう、人に似ず生ひ出でさせおはしましし嬉しさに心をときめきさせてゐたのである。又、

  なめげなれど、心の及ぶ限り、申し教へ参らせし事を、つゆもたがへさせおはしまさず、如何なる人の申す事も、先づ忍びて召して、仰言ありあはせし御うつくしさの、さかしからず、不覚ならず、まさなからず、故よしも人に過ぎて、限なかりし御有様も、なべて御物づつみに、もて隠させおはしましたりし御もてなしの、此の世に類あるべうも見えさせおはしまさざりし美しさを、

かくの如く、目の前にありありと忍び奉る御美しさ、如何にせんと心も乱れるのである。
 日記の後半は、春華門院御薨去の次第から書き始め奉つてゐる。作者は不吉な夢を見たが、夢は人に語れば忌むとかや聞きしにつつみて、ただ朝日ばかり祈り念じつつ過してゐると、其の後も夢見がわるいので、心の及ぶ限りかたがたに御祈をさせ、又侍らひ合ふ人々にも御祈の事のみ申し遣したが、人はさしも思ひ参らせず、ただ御祓への行幸の御桟敷の事のみ心をつくしてゐた。作者は例の身の上を顧みぬ性質から、自分などの申し出づべき事でもないが、二位殿に参りて思ひし事ども(門院のこもりおはしますべき事か)を申上げた処、其の御幸のとどめられた事を限りなく嬉しく思つた甲斐もなく、例ならぬ事さへ出で来て、人は何とも思ひ参らせぬが、作者の見奉る所では、御案じ申上げなくても済むやうな御気色には拝されない。

  いくばくの日数、ことなる御悩みにもあらぬに、殊の外に重き御気色をのみ見まゐらするに静心なく、心一つを砕きつつ、あなたこなたへくるくると参り歩き、宜秋門院へも様々申ししかど、数ならぬ身一つのみ苦しくて、近きも遠きも驚かせ給ふ事もなし。あの御方より参らるる人々にも、こと人の聞きあはれぬ折は、唯我が見まゐらするやうに申せば、人々まゐりて、また御尋ねある折は、まづかくは誰が申したりけるぞ申したりけるぞと、腹立ちあはれたる度には、尼(作者)こそは申し候ひつれといらふれど、さすがに打ちなどはせず、ただ限りなく憎しと思はれたり。

かやうに、作者は一人で心を砕くのであるが、ことさら御重態のやうに作者がいひふらし参らせてゐるやうに誤解されるのである。十一月六日にも各々言ひ合せて、今日は良くおはしますとかやと申されたので、作者の言は「そらごと」になつて了つたのである。処が其の夜より、

  御足の浅ましく冷えておはしますに、物も覚えず。御祈も何事も、心のままならん所にて思ふさまに申さばや

と、心一つを砕くが、大方は聞き知り参らする人もなかつたのである。抑々十一月になつてからは、

  立たせおはしますことのなかりしを、ただの御うつくしさの、せめて驚くべくもなき御けしきに、人々は更にもいはず、我が心だに、かばかりとも思ひまゐらせぬに、などと覚えて、御前にはゆゆしく御心おとりのせさせおはします、さまでの御事も候はぬに、などかくえ立たせおはしまさぬと申ししを、六日のつとめても、御障子の御あとへ出でさせおはしますとて、やをらゐざりて、御覧じあはせて、心おとりの事、とてうちゑませおはしましたりし、

御姿のただただ恋しう忍びいで奉られるのである。作者は、

  大女院の限りの宮仕したる身にて、手をえかけ参らせねば、我が手をまゐらせて、これさぐらせおはしませとて、御手のあたたかさの体を知りまゐらせんと思ひしに、

七日の申の時ばかりの後は、我が身も心なくなつて、誠にいふがひない事であつたと残念がるのである。

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 日記が「たまきはる」の歌で始まることは既に記したが、歌の次は、

  あるかなきかの身の果てに、時の間も思ひしづめむ方なき悲しさの、身に余りぬる果々はまことに忍びもあへぬ、うつし心もなき心地のみすれど、数ふれば長らへにける程も心うし。

とある。これは建保七年六十三歳にして此の日記を記した時の心境である。あるかなきかの、はかなき晩年になつて、時の間も鎮めがたい悲しみで胸が一杯つかへ、その果々は気も顛倒して了ひさうで、現し心とも思はれない。それでも猶かく生き長らへてゐるのは、我ながらうとましい限りであるといふのである。
 建春門院の御上に就き奉つて、

  朝夕の御言ぐさに「女はただ、心からともかくもなるべきものなり。親の思ひおきて、人のもてなすにもよらじ。我が心を慎みて、身を思ひ腐たさねば、おのづから身に過ぐる幸ひもあるものぞ」と仰せられし御いさめに、わかき限り、まして親などたち添ひたるは、各々心の中やいかなりけむ。

誠に勿体ない御いさめである。定めし作者も身に沁みて深く感じ奉つた事であらう。若き女房殊に親などが立ち添うて力を入れてゐるやうなものは、この御いさめを拝して心中がどのやうであつただらう、定めし恐懼し奉つたことであらうといふのである。
 門院の御美しさに就き奉つて、

  かりそめに、御とのごもりたりし御様などまで、有難く、美しうもおはしまししかな。よそに推しはかりしは、ことごとしく、よそほしかるべき程の御身ぞかし。夏などうち驚かせ給ひて、暑やとて袷の御小袖の御胸をひきあけて、ふたふたとおふがせ給ひし御姿などまで、誰もする事の、あな好ましと見えしは、唯、人による事なめり。愛敬こぼるばかりとかや、物語などに書きつけたるは、かやうなるにや。あながちに、匂ひ美しげなる御側面の、いふよしなく白きに、御額髪の、はらはらとこぼれかかりたりしひまひまに、御色あひの映えて見えしなどは、此の世に又さるたぐひをこそ見ね。

ただただ美しき御面影を思ひ出し奉るのである。いふ由なく白き御顔、はらはらとこぼれかからせられる御髪、その御髪の間から見まゐらする御装束の色あひ、実に印象鮮明に思ひ出し奉るのである。
 承安四年春、法住寺殿へ御方違の行幸の折に、作者は(時に十八歳)ゆくりなくも、平家物語に見える小督の殿と親しくなつたのである。

  山吹のにほひ、青き単衣、えび染めの唐衣、白腰の裳着たる若き人の、額のかかり、姿よそひなど、人よりはことに花々と見えしを、未だ見じとて、人に問ひしかば、小督の殿とぞ聞きし。此の度より物いひ初めて、局のそなたざまなれば、下るとても具してなどありしが、其の後行く方も知らで、二十余年の後、嵯峨にて行き遇ひたりしこそ、あはれなりしか。

 作者より一つ年下であつたと思はれる小督の殿の運命も、よそ事には考へられないで、深い哀れを感じたのであらう。
 此の行幸の折に蔵人が大変な失策をし、後白河法皇が御腹だちになつたのを、天皇が御宥め申上げさせ給うたのである。

  還御の日、内侍の里にある迎への車を、蔵人が忘れて遣はさぬとて、二所、ことも宜しからぬ御気色にて、御簡削れなど仰せらるる御声聞ゆ。蔵人、身をだにえ動かさで、西の縁にさぶらひしこそ、いとほしかりしに、内の御方の仰言に、未だ院宣をかへし参らせたる事は覚えねども、此の度の行幸、今一日延べまゐらせたるは、よろこびいはんずるぞと言へ、と仰言ありしこそ、何となくさぶらふ人の心地も嬉しくめでたかりしか。院も限りなく愛くしと思召したる御気色あらはれて、また御声も聞えざりしは、まして身の上にて承りけむ蔵人いかにおぼえけむ。

 「未だ院宣をかへし参らせたる事は覚えねども」との仰言には、御孝心の程も拝せられて勿体なく、蔵人の失念によつて、法皇の御所に一日だけ永く御滞在がお出来になるのは嬉しいと、御喜びになつた仰言は誠に勿体ない極みで、これによつて法皇の御腹立ちもお直りになり、侍らふ人々は嬉しくめでたく思ひ参らせたのである。まして本人の蔵人はいかに、天皇の御仁慈に感泣した事であらう。
 仕へ奉る女房は六十人にて、其の内に三河といふのがゐた。幼い時から仕へ奉つて、御慈しみを蒙り、何事もかひがひしく振舞うてゐたが、どこに居ても「そぞろ言」のみを申し、上臈にも若い女房にもことさら交りを求め、下級の召使に対しては「悪しき事はやがていひ教へ、悪み、よきはほめ、しも台所の果てまで遊びいきて、此の盤は塵もなく美しう候ひけり」といひ、又「さらぬ折は、是はいかなる見苦しさぞ、かくて候ひけるかな」と、世に知らず恥ぢしめ、目に立つ事もよき事もいひちらしてゐたので、作者は「御所の中もいかがうちとけむ」とにがにがしく思ふのである。
 法皇が今日吉(洛東にあり)に籠らせ給うて、門院が一所おはしました時、御所の寝殿の巽にあたる賀陽の御所に火の事があつた。

  例の上に臥したるに、いふかひなく寝にけり。うち驚きたれば、うたてく、寝たりつる人一人もなし。端はあきたるに見れば、空にこまかなる火の、ひらひらと雪のやうに散るに物おぼえねど、思ひもあへず、縁にはひ出ぬ。

誰もねてゐるものはない。作者はどんなに悔しかつたであらう。端のあいてゐる所から見ると火が雪のやうにひらひらと空に散つてゐる。どんなに恐しく思ひ、あわてた事であらう。

  御前の覚束なくて、東の台板所へ入りて、御所の帳帷ひきあけたれば、御前は暗し。御寝所のそばの衣架の間に、其の火はいかにや、と仰せらるる御声を聞きつけたる嬉しさに、そなたへ参りたれば、また人もさぶらはず。

嬉しさに、ほつと胸を撫でおろしたのである。やがて指貫の括を高くあげた男が、浅ましく騒ぎながら参り、「御前はやや」と問ふのを見れば親宗の弁である。平常は、門院を「御所」と申し奉つてゐるのに、その時は誤つて「御前」と申し奉つたのであつて、「騒ぎける程もしるし」と作者はいつてゐる。門院は南殿へ御避難になる。

  やがて奉る処にて、思ひ出づれば、此の御車にえ乗るまじきにと思ふに、ここ迄は頼もしかりつる心弱さに、御袖をひかへ参らせて、やと申せば、御覧じかへりて、親宗、此の女房たち、とくとく車に乗せよと仰せらる。

お供を申上げてゐる間は心強かつたのであるが、お離れ申上げねばならぬと思ふと、それまでの頼もしかつた心も急に弱くなつて、御袖をひかへ参らせて、宛も弱児の慈母を恋ひ慕ふやうにお訴へ申上げると、親宗をお顧みになつて、此の女房達をとくとく車に乗せよと仰せられたのである、どんなにお親しみ申上げてゐたかは、これによつてわかる。「奉る」とは、御車にお召しになること。
 安元二年三月四日から六日まで、法皇の五十の御賀が行はせられた。中の日の女房の装束は桜の衣に桜の散り花を織り浮かし、裳唐衣の腰にも、衣の褄にも桜の詩歌をかきつけ、袴、小袖、扇などまで「ただ春の花、めづらしく清らなる色ふしを、人に勝らん」と、心を尽したのであるが、やがて其の年の七月には、門院が花の散るやうに崩じ給うたので、桜ばかり昔も今も恨めしいものはなく、形見の色も匂ひもないとかこたれるのである。
 その年の夏、作者は病気にて里に籠つてゐたが、六月のほどから門院には御悩み遊ばされ、天の下「おどろおどろしく言ひ騒ぎ、御祈など数しらず始まる」と聞いたが、年頃の御健やかな御有様といひ、御年の程といひ、さばかりの御事とは思ひかけ参らせられなかつた。ただ処せき御薬の事を、心苦しく覚束なく思ひ参らせて静心なく、日々御容態を御尋ね申上げると、却つてこまやかなる御返事を頂いて、病の有様を細かに言へとの仰せを蒙り、忝さ、勿体なさに堪へなかつたのである。六月廿六日の夕つ方、あからさまに参つて御見舞申上げると、御座所が変つてゐたがやがて御声が拝され、「まことにとく葫食して、よくなりたらんに、とくとく参らせ給へよ」と、誠に有難いお言葉を頂き、常にも変らせられぬ御声であつたので、「物はかなき心に、何事かは」とうち思ひ参らせ、聊か心を安んじて退出した。翌日から仰のままに葫を始め、日々消息を差上げ奉つてゐた。然るに、

  七月七日、堪へがたく暑きに、此の事も果てにしむつかしさに、髪洗ふほどに、いかにしたりしにか、心地かぎりなくそこなひて、絶え入るなどいふばかり、人々も騒ぎたりしつとめて、あるかなきかの心地するに、日頃ただ同じ御事とのみありつる冷泉殿の返事に、はやくにておはしませば、申すばかりなし、とばかりあるを見る心地は、何にかは似たらむ。なべての世、誰かは思ひ嘆かぬ人あらむ。されど打ち向ひたる人々も、わが思ふばかり、誰かはあらむ。おき所なき心地ぞする。

 「打ち向ひたる人々も、わが思ふばかり、誰かはあらむ」といふのは、讃岐典侍日記に「あれらのやうに声たてられぬ」とあるのと、その表現がうらはらで、此の作者は単的に自分ほど恋しいものはあるまいといひ、讃岐典侍の方は軽々しく泣けないといつて深刻悲痛をいひ現してゐるのである。
 その後御所に参つてみると、萩・女郎花がわがままに所をえて、御縁の上まで咲きこぼれてゐる。「露きゆる憂き世」も知らで盛りの色に咲いてゐる女郎花が腹立たしく、これより女郎花がうとましくなつたと記してゐる。常陸とて、近く慣れ仕うまつつてゐた若い女房、いかにもえ堪ふまじき気色であつたが、作者が前を通ると、その髪のすそを見て、これは御手づから御そぎ下されたままであるなといひ、その髪を面におしあてて、うつぶし泣いた。作者も同様に堪へ難いのである。その程すぎて常陸は法花堂にまゐつて出家したが、年は廿二とか。
 宮仕を退いた作者は、前斎宮に奉仕してゐた姉―自分を養ひ立てた姉の許に身を寄せ、つくづくと明かし暮してゐたが、治承四年ともなれば世の中が騒がしくなり、それが作者の身の上にも影響を及ぼしたのである。

  大方の世に静かならず、浪のさわぎに風のみしきつつ、様々あわただしく、行きかはん春秋につけても、心うしと聞ゆる事のみ多かり。此のゐたる所も、人の心づかひ、いと苦しうなりゆくままに、さてもえあり果つまじき故のみ聞えしかば、母と頼む人も思ひ煩ひてわが身こそあらめ、流石に老いはてぬ人さへ、かくむつかしき世にまじらはせて、とかくいはれむも、あいなしなど思ひ乱れて、二十四になりし冬、今更にもとの所に帰りにしかば、あやにくにひきかへ見ならはぬ心地のみして、明かし暮す。

 かくて十一月里に帰つたのであるが、宮仕に慣れた身には里住みは非常に変つたものに思はれ、よく年月を過ぐる程に、むげにいふ甲斐なく古りはててゐたが、寿永二年の春再び出でて、八條院に奉仕することとなつた。相当な年輩ではあるが、やはり今参りなので初々しく、つつましく、年頃さぶらひける人の中に、我よりまさる事あれど、「さしのきたる者とは思召されざりし嬉しさ」に、片時も局に居る事なくて御前にさぶらうてゐた。此の御所では「人に過ぎて、物のさきに立てられまゐらせ、事にふれてさかしく物おきてなどする者」になつたので、之を嫉妬し憎むものもあつた。

校訂者注)「讃岐典侍の方は軽々しく泣けない」、底本に「は」はない。脱落と見て補った。

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  九 建春門院中納言日記

 此の日記は最近発見紹介されたものである。今その研究の次第を記すと、昭和七年五月玉井幸助氏は宮内省図書寮の御本により、書名を「たまきはる」と題して、大体の内容を岩波講座(鎌倉時代の日記・紀行)の中に紹介した。書名の「たまきはる」は開巻の歌、

  たまきはる命をあだに聞きしかど君こひわぶる年は経にけり

によつたのであるが、作者自身のつけた本来の名称ではないらしい。次いで昭和八年九月佐佐木信綱博士は「金沢文庫本建春門院中納言日記」と題する論文を、東京朝日新聞に(十三日より三回)載せ、金沢貞顕自筆本の発見を報告し、合せて其の内容をかいつまんで紹介し、翌九年同博士は新発見の金沢貞顕自筆本により、「建春門院中納言日記に就いて」と題する論文を史学雑誌(第五号第六号)に寄せ、その詳細なる内容を紹介すると共に、その文学的歴史的価値に論及した。貞顕自筆本は乾元二年の書写校合に係り、金沢文庫旧蔵で、現在は有馬秀雄氏の所蔵に係る。有馬氏には別にその模写本もあつて、図書寮の御本はその模写本を更に転写したものである。次いで昭和九年十二月に至り佐佐木博士は貞顕自筆本によつて、これを教科書風に編纂し、書名を「建春門院中納言日記新解」と題して刊行(明治書院)した。之により全文が始めて世に広く読まれた。猶、桜井秀博士は「たまきはるに於ける女装上の疑惑」と題する論文を、雑誌「文学」(昭和九年七月)に寄せ、此の日記に「かけおび」とあるのは鎌倉中期以後の女装であることを考証した。
 建春門院中納言は八條院中納言とも呼ばれ、俊成の子、定家の姉で、玉葉集に女郎花の歌が一首入集してゐる。明月記では健御前といはれ、定家より五つ年上である。仁安三年十二歳にして、建春門院に奉仕したが、安元二年七月八日、門院崩じ給うたので一旦宮仕を退き、姉の許に身を寄せた。時に作者は二十歳である。治承四年世の中が騒がしくなり、それが作者の身の上にも影響する所があつた。かくて寿永二年二十七歳にして再び出でて、八條院に奉仕したが、建暦元年六月八條院崩じ給ひ、次いで同年十一月八條院の御猶子春華門院(作者も御養育に奉仕してゐた)御年十七にして身まからせ給ひ、作者は涙の乾くひまとてはなかつた。時に作者は五十五歳である。猶、作者は建永元年五十歳にして尼になつてゐた。
 日記は右のやうな奉仕の次第を記したもので、次々に仕へ奉つた御方々を忍び奉る追慕の情が切々と記されてゐる。執筆は建保七年三月に至り、ありし日を回想して記したものである。日記は前後の二部に分れ、前半は作者が自ら整へておいたもの、後半は作者に縁ある人が遺稿を整理したもので、その中間に作者の奥書と定家の奥書とがある。
 此の日記の特色はほぼ讃岐典侍日記と等しく、(イ)宮中の御模様を委しく記し奉つてゐる事、(ロ)仕へ奉る御方々の御寵愛を蒙つた感激がよく現れてゐる事、(ハ)作者が真心を以て奉仕した心情のよく現れてゐる事、(ニ)仕へ奉つた御方々を追慕し奉る心情が遺憾なく現れてゐる事、(ホ)女房の服飾を細々と記してゐる事などである。殊に寿永二年皇位御継承のことに就いて、後白河法皇と八條院と御会談あらせられた御模様を記し奉つてゐるのは、畏い極みである。此の日記を通してみる作者の性格は、細かく心遣ひのはたらく女性で、その為に文章も書かうとする所が多岐にわたり、事実を重んずる精神と感情を重んずる精神とが、うまく調和してゐないやうである。即ち作者の性質は余りに気がつき過ぎる方で、又何でも心配事を我が身一つに背負うてゐるやうな気持を常に持ち、人がうつかりしてゐる場合でも、人に先んじて心配するやうな性質であつた。作者は自らの事を「身のうへ顧みぬ心の癖」をもつてゐると記してゐるが、一心に真心をこめて何事にも当つたやうである。讃岐典侍のやうに、物事を印象鮮明につかむといふ暢びやかな所はなくて、心の隈が多かつたやうである。

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 下巻にうつり、嘉承三年正月朔日作者は、白河法皇の御仰によつて夕さり参内し、陣に入るより昔が思ひ出されるのであつた。局にはいつて見ると、何もかも昔のままであるので、自然自分の気持も昔に立ちかへり、唯、堀河天皇がおはしまさぬだけのことであるが、それもかりそめにどこか異所に渡らせ給うた場合のやうな心地がして其の夜はあけた。その次、

  つとめて起きて見れば雪いみじく降りたり。今もうち散る。御前を見れば別にたがひたる事なき心地して、おはしますらん有様、事毎に思ひなされて居たる程に「降れ降れこゆき」と、いはけな御気はひにて仰せらるる聞ゆる。

と記し奉つてゐる。その夜作者は陪膳の御役を奉仕してゐると、天皇は走りおはしまして、顔のもとにさしよらせ給うて、「誰ぞこは」と仰せられたのである。かくて三月になると、堀河院の桜は昔ながらに咲き、四月の衣更、灌仏、五月の菖蒲、最勝講、事毎に昔を思ひ出で、六月になりぬ。暑さ所せきにも、まづ去年の此の頃は事もなく、御心地よげに遊ばせ給ひ、扇引などの行はれたことがまざまざと思ひ出されるのである。

  「まづ引け」と仰せられしかば、引きしに、美しと見しをえ引きあてで、中にわろかりしを引きあてたりしを、上に投げおきしかば、「かかるやうやある」とて笑はせ給ひたりし事を、但馬殿といふ人の、「家の子の心なるや。こと人はえせじ」など興じあはれしに、そのをりは何ともおぼえざりし事さへ、いかでさはし参らせけるにかと、なめげに、けふはありがたく覚ゆる。

と記し奉つてゐる。七月になつて諒闇もあけ、去年より女房六人が宮の御方に残つてゐたが、今は散々になるのを互に悲しみ、又御前のしつらひが変り、摂政忠実を始め殿上人も女房も花の衣になるにつけて、作者は「きかへんともおぼえず。之をさへぬぎかふるこそ。院の御かたみと思ひつれ、これをさへねぎつればいと心細し」といつて、そぞろに僧正遍照の歌を忍ぶ。八月廿一日、天皇は小六條殿から内裏に渡御あらせられた。夜の御殿を見奉るにも、ありし世にかはらぬさまにて、ただ一所の御姿の見えさせ給はぬだけと思ふにも、悲しくて涙せきあへぬのである。清涼殿、仁寿殿いにしへに変らず、台盤所、昆明池の御障子、今見れば見し人にあひたる心ちし、御溝水の流になみたてる色々の花ども、いとめでたき中にも、萩の色こき、咲き乱れて朝の露玉をつらぬき、夕の風靡くけしきが殊に見え、これをみるにつけても御覧ぜましかは、いかにめでさせ給はましと思ふにも、

  萩の戸におもかはりせぬ花見ても昔を忍ぶ袖ぞ露けき

といひつづけられるのであるが、同じ心なる人もなくて人にいはんすべもない。かくて九月になつた。

  御前におはしましまして、「われ抱きて障子の絵見せよ」と仰せらるれば、よろづさむる心地すれど、朝餉の御障子の絵御覧ぜさせありくに、夜のおとどの壁に、あけくれ目なれて覚えんとおぼしたりし楽を書きて、押付けさせ給へりし笛の譜の、押されたるあとの、壁にあるを見つけたるぞあはれなる。
   笛のねのおされし壁のあと見れば過ぎにし事は夢と覚ゆる
  悲しくて袖を顔におしあつるを、怪しげに御覧ずれば、心得させ参らせじとて、さりげなくもてなしつつ、「あくびをせられて、かく目に涙のうきたる」と申せば、「みな知りてさぶらふ」と仰せらるるに、あはれにもかたじけなくも覚えさせ給へば、「いかに知らせ給へるぞ」と申せば、「ほ文字の、り文字のこと、思ひ出でたるなめり」と仰せらるるは、堀河院の御事とよく心得させ給へると思ふも、うつくしうて、あはれにさめぬる心地してぞ笑まるる。かくて九月もはかなく過ぎぬ。

 十月大嘗祭の御禊、十一月大嘗祭にて五節・神楽は例のこと、神楽の夜、次のやうに記し奉つてゐる。

  我が君のかくいはけなき御よはひに世をたもたせ給ふ、伊勢の御神も守りはぐくみ奉らせ給ふらむと、位たもたせ給はん年の数ぞ、たとへば長井の浦のはるばると、浜の真砂のかずもつきぬべく、みもすそ川の流いよいよ久しく、位の山の年へさせ給はん、まことに白玉椿八千代に、千代をそふる春秋まで、四方の海の浪の音静かにみえたり。

 それから一旦里にさがり、十二月つごもりの夜、内に参るとて堀河院をすぐるに、二條の大路・堀河などかいすみ、物さわがしげに人の出で入りたる昔のけしきも見えず、ぬしなしと答ふる人もなけれども宿のけしきぞいふにまされる、といふ能因法師の歌がしみじみと思ひ出され、忍びまゐらせざらん人は何とかは見ん、我はただ一所の御心のありがたく、なつかしう忘らるる世なくおぼゆると記して、日記の本文を終つてゐる。(本文は玉井幸助氏著、讃岐典侍日記通釈による)

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  三 内容

 大体以上四つの観点に立つて此の日記の本文に聊か触れて行かう。
 天皇には嘉承二年六月二十日より例ざまにおぼしめされぬ御気色におはしましたが、七月六日より御心地おもらせ給ひ、月頃とても御悩みがちにおはしましたが、このやうに苦しげに見参らする事はおはしまさなかつたのに、この度はかやうにおはしますので、如何遊ばされるのであらうかと、作者たちは胸をつぶして御案じ申上げたのである。本文には、

  かくて七月六日より御心地大事に重らせ給ひぬれば、誰も月ごろとても例ざまにおぼしめしたりつる事はかたきやうなりつれども、これがやうに苦しげに見参らする事はなくて過ぎさせ給ひつる、かくおはしませば、いかならんずるにかと胸つぶれて思ひあひたり。

 日のくるるままに、堪へがたげに思召す御様を拝し奉り、その由を御父にあたらせられる白河法皇に申上げ奉ると、驚かせ給ひ、近くて御有様きかんとの御思召にて俄に北の院に御幸あらせられた。増誉僧正、頼基律師、増賢律師などが召されて御加持や御祈祷が行はれ、

  少し御かゆなど参らすれば、召しなどすれば、嬉しさは何にかは似たる。

と記し奉り、

  いみじう苦しげにおぼしたりければ、片時御傍離れ参らせず、ただわれ乳母などのやうに添ひ臥し参らせて泣く。あないみじ、かくてはかなくならせ給ひなむゆゆしさこそ。ありがたく仕うまつりよかりつる御心のめでたさなど思ひつづけられて、目も心にかなふものなりければつゆも寝られず、まもり参らせて、程さへたへがたく暑き頃にて、御障子と、臥させ給へるとにつめられて、寄り添ひ参らせて、ねいらせ給へる御顔をまもらへ参らせて泣くより外の事ぞなき。いとかう何しに馴れ仕うまつりけんと、くやしくおぼゆ。参りし夜より今日までの事思ひつづくる心ち、ただおしはかるべし。こはいかにしつる事ぞと悲し。

と記し奉り、次に、

  おどろかせ給へる御まみなど、日ごろのふるままに弱げに見えさせ給ふ。御とのごもりぬる御けしきなれど、我はただまもり参らせて、おどろかせ給ふらんに、皆ねいりてとおぼしめさば物おそろしくぞおぼしめす、ありつる同じさまにてありけるとも御覧ぜられむと思ひて見まゐらすれば、御目よわげにて御覧じあはせて「いかにかくは寝ぬぞ」と仰せらるれば、御覧じ知るなめりと思ふも堪へがたくあはれにて、

と記し奉り、次に、

  顔も見苦しからむと思へど、かくおどろかせ給へる折にだに物参らせこころみんとて、顔に手をまぎらはしながら、御枕上に置きたる御粥やひるなどを、もしやと、くくめまゐらすれば、少しめし、又おほとのごもりぬ。

と記し奉つてゐる。
 時の関白は藤原忠実で、夜昼たゆまず参内せられるが、いつも忍びやかに参られるので、作者が気づかずにゐると、天皇は御悩みにも拘らせられず、その事を作者に御知らせ下される。作者はもう有難さ忝さに感激して涙が一杯浮いてくるのである。即ち本文に、

  「おとど来」といみじう苦しげに思召し乍ら、告げさせ給ふ御心の有難さは、いかでか思ひ知られざらん、かく苦しげなる御心ちに、たゆまず告げさせ給ふ御心の、あはれに思ひ知られて涙うくを、あやしげに卿覧じて、はかばかしくもめさで臥させ給ひぬれば、又そひ臥し参らせぬ。

と記し奉つてゐる。かかる御やさしい御心づかひは作者の身に泌みて有難く忝く感じまつる所で、日記にはこの事を二度も繰返し記し奉つてゐる。
 中宮がお上りになつたので、女房達はお前をさがつたが、作者一人は「若し召すこともや」とて、御障子の許に侍らうてゐる。果してお召しがあつたので、作者は「よくぞ下りで侍らひける」と、我自らに説ききかせるのである。七月十八日、天皇には賢暹法印をお召しになつて御戒を受けさせ給うた。日記にはその時の御模様を委しく記しまつつてゐるが、中に、

  御手水まゐらすべけれど、起きあがらせ給ふべきやうなければ、紙をぬらして、御手などのごはせ参らせなどする程ぞ悲しき。御冠など持ちて参りたれば、するかせぬかの程におし入れて、御直衣ひきかけて参らせたる、御ひもささむとおぼしめしたるなめり、ささんとせさせ給へど、御手もはれにたれば、えささせ給はぬ、見るここちぞ目もくれて、はかばかしう見えぬ。

と記し奉り、又

  さて御戒うけさせ参らすれば「いとよく保つ、いとよく保つ」と仰せらるる。殿たち「保つと仰せらるるや」と申させ給へば、うなづかせ給ふ。

誠に勿体なく畏い極みで、恐らくかやうな文字はただ日本にのみ存在することであらうと思はれる。それから故右大臣源顕房の子定海阿闍梨を召され、

  「経誦して聞かせよ、定海が声きかむも今宵ばかりこそ聞かめ」と仰せられて、いみじう苦しげにおぼしめされたれど、御涙もえ出でず。それを聞かんここち、誰かはなのめなる心ちせん、誰もたへがたきここちぞする。阿闍梨ややもいらへなし。経の声も聞えぬは、あれもためらはるるなめりと聞ゆ。

と記し奉つてゐる。
 七月十九日、遂に崩御あらせられ、上達部、殿上人、御乳母子、君達、女房たち侍らふ限り声も惜しまず泣きとよみ、狂乱のあまり御障子を地震などのやうに引きゆるがし、中にも御乳母大弐三位は

  「我が君や、いかにして方々をば捨ておはしましぬるぞ。生まれさせ給ひしより方時離れ参らせず、あやしのきぬの中よりおほし参らせて、いづれの行幸にもはなれず、後に立ち先に立ち、病の、心ならぬ里居十日ばかりするにも、恋しくゆかしく思ひ参らせつるに、片時見まゐらせでいかでかさぶらはん、ただ具しておはしましね。今一度おどろかせ給ひて見えさせ給へ。あな悲しや、恋しさをいかにしてか侍らはん、ただ召してぞ」と御手をとらへてをめき叫び給ふ。

のであつた。之に対し、作者は、

  御汗をのごひまゐらせつる陸奥紙を顔に押しあててぞ添へゐられたる。あの人たちの思ひ参らせらるらむにも劣らず思ひ参らすと、年ごろは思ひつれど、なほ劣りけるにや、あれらのやうに、声たてられぬはとぞ思ひ知らるる。

といふのである。「あれらのやうに声たてられぬ」といふのは、わが悲しみの深刻沈痛味を我と我に説き聞かせてゐるのであらう。

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