江戸期版本を読む

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  二 特色

 (イ)宮中の御模様 紫式部日記、枕草紙にも仕へ奉る皇后・中宮の御前のありさまを相当委しく記しまつつてはゐるが、此の日記が純一に宮中の御模様を記しまつり、聊かも私事を交へてゐない程度には及ぶべくもない。殊に此の日記が、天皇の御悩より崩御に至る迄、御身近く仕へまつり、御悩の一刻も早く平癒し給はんことを祈り奉り、御苦しみを拝しては立つても居てもゐられないで、必死と御介抱申上げてゐる。それは遠くから拝し奉つてゐる御模様ではなく、恐懼の為に何も見奉ることができなかつたといふやうなものでもなく、お慈しみをひしひしと身に感じ、十分にお親しみ申上げながら御介抱申上げた次第が、目の前に仰ぎ見るが如く、ありありと再現されてゐるのである。かやうに此の日記は畏き御あたりの御模様を委しく記し奉つてゐる。此の点に於て読者は此の日記をよんで恐懼し、忝く、勿体なく、尊く、畏い感にうたれるのである。
 (ロ)至純の情 我が日本の君臣関係は義は君臣、情は父子といはれてゐる。此の意味からすれば、此の日記はその情の方面を遺憾なく書きあらはしたもので、作者が如何に至純の誠を捧げて奉仕してゐるか、天皇が作者を如何に御慈しみ遊ばされたか。奉仕の生活を記した日記、随筆は他にもあるが、かくまで慣れ親しみ奉つた情の書きあらはされたものはないであらう。実に作者の心情は、忝い、勿体ない、尊い、畏いといふ情で胸が一杯であり、さういふ心情が如何にも具体的に鮮明にありありと記されてゐる。さうして日本に於ける各種の国民的感情の内、忝い、勿体ない、尊い、畏いといふ情ほど最高の価値をもつものはない。されば此の日記は最も大切な日本の国民的感情を表現したもので、日本人のもつ最も純粋な国民的感情の実感はどんなものであるかを問はれた場合は、示すに此の日記をもつてすればよい。
 (ハ) 印象の鮮明 日記に記されてゐることは何れも印象鮮明でありありとしてゐる。これほど印象鮮明な記述(枕草子の如き写実的な文章は別として)は一寸例が珍しいであらう。作者の心理的な性格は、物事を非常に深く強く印象する人、その印象をはつきりと再現しうる人、その再現された印象の中に没頭しうる人、現実的認識の外に幻想的認識のはつきりとした人であつたと考へられる。かういふ傾向は平安朝の女性一般に共通なことで、その力が文学を生み出した最も有力な素質となつてをり、現実の世界の外に夢の世界、物のけの世界、うらなひの世界など、神秘的な世界をはつきりともちえた理由であるが、此の日記の作者はかういふ傾向を特に強くもつたのである。何れにしても作者の胸に再現された世界は現実の経験と殆んど同様で、そこで作者は現実と同様に憂い嘆き、惜しみ悲しむと共に、現実の如く鮮明に再現されたそこへ対して慕はしく、なつかしく、ゆかしく思ふのである。日記の執筆された年は日記の文面には記されてゐないが、その余りにも鮮かなる印象からすれば、日記の記事が終る天仁元年十二月晦日より幾らも隔ててゐないやうに思はれ、さうして日記の執筆された季節は冒頭に記されてゐるが如く、五月のころであるから、その五月は必ずや天仁二年五月であらうと思はれる程であるが、事実は猶その間に一年又は二年位は隔ててゐるかもしれないのである。
 (ニ) 客観的態度 此の日記は純一に先帝を慕い参らせることに一貫されてをつて、その間には私事といふものを交へてゐない。土佐や蜻蛉は徹頭徹尾私生活又は私的生活の日記であり、紫式部日記は現存本の形では奉仕日記の中に私生活を交へてゐる。私生活を記した日記には懊悩や動揺や煩悶や懐疑があるが、此の日記にはさういふ個性的な精神蕩揺は全然見えない。此の精神的態度が、直ちに作者の全生活態度そのものであつたか否かは容易に決定し難いが、此の日記よりも約四十年前の成尋阿闍梨母集が、我が子の身上を案ずる母性愛を中心とした精神蕩揺を記してある点から見て、此の頃の文学傾向は我を離れて彼に移り、次第に客観的立場をとるやうになつたものではあるまいか。道長時代を批判的態度で叙述して行かうとする大鏡の記伝体も、千余の説話を集めて且つ分類し、その中から生活原理を見出さうとするかに見える今昔物語集の実証的な態度も、みな同一思潮のあらはれではあるまいか。

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 八 讃岐典侍日記

  一 概説

 作者は藤原顕綱の女で長子といひ、その輔の姉の兼子は、堀河天皇の御乳母にて、伊予三位といふ。作者は康和二年十二月三十日典侍に任じて讃岐典侍と呼ばれ、それから嘉承二年七月十九日、堀河天皇崩御あらせられる迄、五箇年半親しく天皇に馴れ仕うまつつたが、天皇崩御の後は素服(喪服)を賜はつて一旦里に下つた。素服を賜はるといふのは極めて親しい臣下に対し朝命によつて素服を着けるやう御沙汰が下るのである。

              -兼子
  師輔-兼家-道綱-顕綱|
              -長子

 作者の奉仕ぶりや心掛けのよい事は、白河上皇も聞召しおかせられてゐたので、十月になつて、新帝鳥羽天皇御つきの女房として出仕するやうにとの御沙汰があつた。しかし作者の心は先帝崩御の悲しみで一杯であつたので、すがすがとも思ひ立たなかつたのである。天皇は御歳僅かに五つに渡らせられたが、天皇の御陪膳を申上げるのは五位以上でなくてはならぬのに、御乳母たちがまだ六位であるからといふので、取り急ぎ出仕するやうにと仰せ下されたのである。やがて御即位の式も近づき、作者は「とばりあげ」の御役を仰せつけられ、除服出仕を命ぜられたのである。それから作者は、鳥羽天皇に奉仕することになり、なほ讃岐典侍と呼ばれて十余年に及んだのである。
 日記は上下二巻にわかれ、上巻には、堀河天皇御悩より崩御に至るまで親しく御介抱申上げた事、深刻沈痛の悲しみに堪へなかつた事など、その尊さ、勿体なさ、畏れおほさを生々と仰ぎ見るが如く描き出し、遺憾なくその感動と印象とを記しまつつてをる。下巻には幼帝に仕へまつつた凡そ一年間の事と、並に其の間事々に先帝の御事を御忍び申上げた次第を記し奉つてゐる。
 上巻の始には日記執筆の動機を記してゐる。五月の空もくもらはしく田子のもすそのほしわぶらんもことわりと見える頃、心静かに里居をしてゐると、常よりも思し出づること多く物あはれにて、花の春、紅葉の秋、月の夜、雪のあした御供にさぶらひ、前後八年にわたつて仕うまつつてゐた月日が忍ばれ、石灰壇にて、神宮内侍所を御拝遊ばされた毎朝の御事や、御笛をめでたく遊ばされた夕の御ことが、まざまざと思ひ出し奉られて忘れがたく、やるせない哀感で胸をしめつけられるやうなので、若しやこの思ひ出だし奉る次第を記しまつつて行けば慰められもし、まぎれもするのではないかと思つて筆をとつたけれども、眼は涙にくもつて筆の立ち所も見えず、愈々慰めかねると記してゐる。
 下巻の終に、作者はこの日記を二人の知人に見せた事を追記してゐる。一人は名をあげてゐないが、何れは関係者と覚しく、読後の感として、

  いかでかく書きとどめけん見る人の涙にむせてせきもやらぬに

といふ歌を作者に送り、作者は、

  思ひやれなぐさむやとて書きおきしことのはさへぞ見れば悲しき

といふ返歌を送つてゐる。他の一人は常陸といふ女房で、作者はこの日記を「同じ心に忍び参らせん人」と一緒に読み合つて見たいと考へ、その相手として誰がよいか、誰も先帝を忍び参せぬ人はないが、自分に好意をもつてくれる人でなくてはならぬし、好意をもつてくれる人でも「方人」の無いやうな人では張り合もない、正しくこの三つの條件を具へてゐる人は常陸殿ばかりであると思ひ定め、かくかくと招くと心やすくやつてきてくれたので、日記を見ながら二人でひぐらし語らひくらしたとある。かやうに此の日記は執筆の動機も、執筆後流布の端緒も文面にはつきりと書き記されてをり、首尾正しく承応してゐる。

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 延久三年、四月五日をすぎて母はわらはやみを煩ひ、一旦怠るやうであつたが七月再発し、八月になれば風も涼しうなり、いと物哀れになりまさるのである。道芝の露の日影を待つよりもはかないわが身を嘆き、ただ片時ばかりの命であるに、憂き世を嘆かでもえあらでと、人しれず思ふのである。萩の葉のそよと音する方を見やれば、いと心よげにて物思ひ知るやうな様もなくて靡いてゐるが、これにかかれるささがには心細い。何の虫ともわかぬが草むらに思ひ思ひの声を立ててゐる。折ふしのあはれに心細いにつけても、心を痛め過ごすにつけても、阿闍梨のかく世にたぐひなき心が恨めしう、余りに命の長きも罪深う、今は、たとへ無事に帰りおはしてもそれまで世に生きて侍らじ、今日にても失せぬべしと、哀れにつきせぬ涙こぼれ落ちて目さへ見えない。「などて、ただいみじき声を出して、泣き迷ひても、ひかへとどめ聞えずなりにけん」と、それのみ悔しう、心うかりし別れを、夢と思ふにも、阿闍梨の無事に帰りきましていつかうつつの嬉しきを見んなど思ひ慰めるのである。昔のことを思ひいづれば、父もなくなつた二人の公達を、ゆかりのある人々の、「我知らん」(自分が世話をしよう)など、さまさまの給うたが法師になしてんと、思ひ定めたのである。又思へば我が身は三十に余りし時より、はかなく弱々しげにて、夜などは、寝入つてそのまま終るのではないかとも思はれたので、余りうちとけて他処にも行かず、暑い時にも、必ずひとへなど身にまとひ、まさかの時の恥なきやうにと心遣ひせられた程であつたのに、かく長命して今は月日のすぎゆくをいとふ身となつた。八月十五日夜、月いみじうあかきに、仏の御光おもひやられ、九月の菊、十月の時雨を見聞くに、いと物のみあはれに覚えてすぐすに、阿闍梨は母の「今一度来て見よ」とありし文の悲しうて、十月十三日火ともすほどに、京に帰りきて母を慰めた。母は「夢かとのみ」うれしきものから、明日は再び京を立ちて備中に下り、庭瀬に近き「にひやま」といふ所は「昔人の行ひて、極楽に必ず参りたる所」なれば、そこに百日ばかり行ひ、其の間に内に宣旨を乞ひ奉り、賜はば本意のやうに唐に渡らん、賜はずば渡宋を思ひとまらんといふ。いかで「鳥などの、人を見て飛び立ちぬけしきはし給へる」と怨めしく、なほ「この度は率ておはして、唐に渡り給はんをりに返らん」といへば、阿闍梨は打ち笑うて「修行者、親なりとも、いかが具し聞えん」といふ。帰りおはして驚かし給へるは嬉しきものから、却つて悲しく、出で立ちしあとも面影に覚えて、嘆きわぶのである。
 明くれば延久四年、二月十四日の文、安芸より来り、渡宋の便船を待つてゐるとあるので、今度は愈々渡りなんと思ひ、いふべき方なき心地のみして、ただ阿弥陀仏ばかりは頼みまゐらすれど、いらへせさせ給はねば心もとなくわびしい。三月晦日になつて、雨いとおどろおどろしう、天もかきくもれば、阿闍梨は只今船にやおはすらんと西の空を眺め、障りなかれと仏をのみぞ念じ暮されるのである。日数もはかなく過ぎて、今は既に宋に渡つてゐるだらうと思ひ、類ひなき身の宿世をおしはかるにつけても、昔十五ばかりなりしほどに、三河の入道といふ人唐土にわたりしに、「いかなる人ぞと人のいひしに、親を捨てて渡る、哀れ」など人がいつたが、その時は「なにとても覚えざりし」事の、今は我が身によそへられるのである。六月十余日になつて阿闍梨の文がきて、「三月十余日、唐の船に乗りて渡りぬる。今は心安く、必ず極楽に参るべきと覚ゆるを、そこにも必ず逢ひ給ふべきなり」とある。極楽往生の本意に変りはないが、生きての世の覚束なさは慰む方もなく、蓮の上の一つの居所を待つ間の我が眼は、紅の涙にくもり、袖は池の堤に余り、蓮の光に満ちた極楽をいみじうゆかしう覚えながら、猶夢路に迷ふのである。七月もすぎて八月十一日の夢に「阿闍梨おはして、阿闍梨の讃と申す物の古きを書き改めて、之を見よとて、取らせ給へり」とみ、又十三日の夢には「無量義経をよめとて取らせ給ヘり」と見るにつけ、「この世に打ち捨て給へるはつらけれど、後の蓮の上と契らせ給ひし心ざしは、忘れ給はぬなめり」と嬉しいが、覚束なさはたとへやうもない。十月十一日に筑紫よりとて文をもつて僧がきた。阿闍梨の御文かと心騒ぎして見るに、御ともに行つた人の文で、渡海後の旅程は書いてあつたが、かの御文ならねば、覚束なさも慰まず、なかなかなる心地がするのである。十二月八日空かきくらし、霙といふ物が、雪の降るままに、且つ消えるのを見て羨しう、かやうにあと方もなく、消えて了ひたいと思ふのである。その八日、みかどおりさせ給ふと人々いひ騒ぎ、後三條天皇、御位を白河天皇に譲らせ給ふのである。
 年たちかへつて延久五年、正月を迎へる毎に母は正月晦日石倉から仁和寺へ移つた延久三年の事を思ひ出し、今年はもう三年になると思ふのである。二月十四日、宋から筑紫なる人の許によこしてゐた阿闍梨の文を、律師がもつてきて母に見せる。渡海の旅程が書いてあつて「三月十九日、筑紫の肥前の国松浦の郡に、かへしまといふ所を離れて、同じ廿三日、明州のふくゐ山を見る。そこに三日の風なくてあるに、始めて羊の多かるを見る」などとあるにより「本意かなひて、心ゆき給へらんぞ」と、それにつけて少しは心もおちつくが、我が身のおぼつかなさを消す由もない。入日の折は西の方を眺め、うちなげきつつ月日をすごし、昔物語に「あはれなるも、をかしきもありし、そらごとにはあらざりけり」と、今こそしみじみと同感させられる。桜、つつぢを眺めて日数すぐ行く程に、漸くたちゐることをだに、やすくせずなりゆくのである。そのころ、上皇御悩とて立ちさわぎ、御祓への使がしげく行きちがひ、四月一日律師も御修法に参り奉つたのである。それから五月五日の事を記し、阿闍梨の不在はかなしいが、今一人の律師は、世にたぐひなき聖であることを満足に思ひ、今は「阿弥陀仏を心にかけ奉りて、とく死にて、極楽に参らむことをのみ、おもひ侍りてぞ、あけくれ西をみやりつつ」あかし暮し、常は心地のみあしく、顔もみな腫れ、例ならず苦しいので、愈々死ねるのであるかと思ひ、心地ともすればかき乱れる。かく乱れたる心なれど、泥の中の蓮の譬もあれば、極楽もたのもしく、朝の日が雲を払つて出づるのを見ては、日にそへて作りけむ罪を、露も残さず消やし給へと念じ、夕の月の光を見ても、にやせんまでさそひ給へと頼み、次のやうな二首の歌を記して文を綴ぢてゐる。

  鷲の山のどかに照らす月こそはまことの道のしるべとは聞け
  朝日まつ露の罪なく消えはてば夕べの月はさそはざらめや

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  七 成尋阿闍梨母日記

 此の日記は延久年中、成尋阿闍梨が「唐に五台山といふ所に、文珠のおはしましけるあとのゆかしく拝ままほしく」思つて入宋し、後に残つた母が年八十を過ぎて我が子に別れた悲嘆を縷々と記したものである。母は夫に死にわかれた後は、二人の子供をたよりに世をすごしてゐたが、二人とも出家して、兄は律師、弟は阿闍梨となつたのである。上下二巻にわかれ、上巻は治暦三年十月から延久三年三月に及び、下巻は再び延久三年正月に立ち返つて筆をとり、飛んで四月の事から記して上巻につづけ、やがて延久五年五月に及んでゐる。両巻はその文勢が異るから、その執筆は一定の時を隔ててゐるのではないかと想像される。延久三年正月の記事が両巻に繰返されてゐるのは、正月晦日阿闍梨の門出に先立ち、母は阿闍梨の石倉を出て律師の仁和寺にうつつたのであるが、折ふし仁和寺では梅の花がいみじう咲いてをつて、この日は母にとつて感銘が特に深かつたからである。
 この日記の内容は、下巻の終の方に「同じ事を、うち返しうち返し嘆き侍る」とあるやうに、母の子を思ふ情、阿闍梨の入宋を恨めしく思ひ、長命をうとましく思ふ事、早く死んで極楽に行き度いと願ふ事、泣いて入宋を思ひとまらせる事ができなかつたといふ後悔、老衰を嘆き、目もきりふたがつて悲しいといふ事、よろづに物のあはれを感ずるといふ事などを、繰返し繰返し述べたものである。別に名文型の文章でもなければ、更級日記のやうに精神生活の発展が指摘されるといふわけでもないが、八十を過ぎた高齢者の手になる文章であること、老の繰言も交へてゐるが母性愛が強く現れてゐる点、弥陀の信仰で一貫してゐる事などを以て特色とすべきである。又、日宋交通を反映してゐる点は、何等かの資料的価値をもつであらう。
 此の日記の精神内容は比較的単純なものであるが、繰返し繰返し何度も同じことを書いてゐる為に、深い心情が現れてゐるやうである。随つてこの日記に現れてゐる年老いた母の心情を、理づめの方法で把握することは困難であるから、やむなく梗概の形をとり、文章も原文の面影を伝へるやうに工夫し、幾らかでも作品の実感を示さうと思ふ。上巻は、

  はかなくて、過ぎ侍りにける年月の事どもをかしうも、あやしきも数しらずつもり侍りにけれど、それを記しおきて、人の見るべき事にも侍らぬを、年八十になりて、世にたぐひなきことの侍れば、心ひとつに見侍るかたはし、書きつけて見侍らまほしうて。子は二人ぞ、律師、阿闍梨にて、心ばへよりはじめ、めでたく、たぐひあらじと覚えて物し給ふ。

といふ風に書き記し、治暦三年十月、後冷泉天皇宇治の平等院に行幸あらせられた御事、四年四月天皇崩御あらせられた御事などを記し奉つてゐる。それから二年ばかりありて、阿闍梨は入宋の志を告げ、若し命あらば帰り来ん、失せなば極楽で必ず相見んといふので、母はものもいはれず、浅ましう胸ふたがりていらへもせられず、涙もとどまらずむせかへるのである。この事仁和寺の律師のもとに告げやると、律師もおはして、思ひたつた事であるから、止めやうもないといひ、予め母を仁和寺の方へ迎へとることにした。母はこれが最後かと思ふので、せめて阿闍梨の「顔をだに見むと思へど、涙にきりわたりて、息のある限り泣かまほしけれど、年頃、ものも高くいひて聞かせぬ僧どもの並みゐたる折しも、悲しきことといひながら、今更にさまあしき声もきかせじ、ただ我失せて別れねるなり。阿弥陀仏に、救ひ給へと念じ」ながら、車にかき乗せられた時の心地、ただ「おしはかるべし」と訴へてゐる。
 やがて阿闍梨は門出したと聞き、母は「いみじげに泣き妨けずなりにし」事を悔しく思ひ、唯「とく死なせ給へ」と、仏のみ念じ奉る程に、律師おはして、向ひゐ給へる程ぞ、少し慰む心地がするのである。暫くして阿闍梨は備前から文をよこした。急ぎ見れば「今日なむ筑紫の舟に乗りぬる」とあつた。「日ごろ風の音も荒らかにすれば、いかがとのみ耳立てて聞かれつるに、無下に遠ざかりておはしぬるにこそ」と、珍しげなき涙がこぼれまさるのである。嘆きくらしたる夕暮、常よりも面影に浮ぶので、阿闍梨のおはしたる心地して、

  恋ひわたるタ暮がたの面影をたそがれ時といふにやあるらん

 母の愛といふものがいかに苦しいものか、一度阿闍梨に話したかつたが、出立のころは心地いとあしう、息苦しうて物もいひにくかつたので話さなかつた。又わが命の余り久しうありて阿闍梨の念願を妨げるやうに思はれたくないので遠慮もし、又年頃は、やがて絶え入らん折は律師と阿闍梨にとりまかれ、その唱へてくれる尊きことや念仏を聞き入りながら大往生を遂げたいと思うてゐるのに、ことの違ふのも前世の因縁で、どうせかく末が悪いのだから何事も我慢すべきであると考へ、遂にいはなかつたが、せめて心の内を書きおいて、若し帰りおはしたら、母がかく思ひけるとも見給へかしとて、母の愛の父に異ることや、阿闍梨の幼時のことなど記してゐるが、恐らくこの部分は日記中での大文字であらう。

  高きも賎しきも、母の子を思ふ心ざしは、父には異なるものななり。腹の内にて身の苦しう、起き臥しも安うせねど、我が身よくあらんと覚えず。これを見る目より始めて、人よりよくてあれかしと思ひ念じて、生まるる折の苦しさも、物やは覚ゆる。生まれ出でたるを見るより、人の之を憐れび思はずば、物になるべき人の様やはしたる。その中にもはかなかりけるにか、この闍梨のいみじう悲しかりしかば、わが心の苦しきもしらず、之をまつ、人にもわれも扱ふ程に人に抱かすれば泣き、われ抱けば泣きやみ給ふを、暫しも泣かせじと覚えつつ試みれど、猶ほかにては泣く。わがもとにては泣かず。おましなどに臥すれば泣くに、夜もうしろめたくて膝に臥せて、高杯を灯台にして、膝の前にともして、障子にせなかをあてて、百日までぞ乳母にはあづけ侍りし。

 昔、釈迦は花園に遊び、四門に出でて生老病死の四苦を見て出家したのであるが、我が子は母の身に老病の二苦あるを見ながら入宋して了つた。日を延べてもよかつたのにと愚痴も出るが、之を怨みに思うてはかの人の為に悪いと思へば、身も苦しうて、とく死なましと思ふより外の事はないのである。(以上、上巻)

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  三 現実的な時代

 十二月二十五日、宮の御仏名に召されて参り仕へ、その後日記の記事は絶えてゐるが、長久元年(作者三十三歳)のころ橘俊通の後妻になり、随つて宮仕も退いて家庭の人となつたであらう。それで作者の思想もすつかり変つて、

  物語の事も、うち絶え忘られて、物まめやかなるさまに、心もなりはててぞ、などて多くの年月を、徒らにて臥し起きしに、行ひをも物詣をもせざりけむ。このあらまし事とても思ひし事どもは、この世にあんべかりける事どもなりや。光る源氏ばかりの人は、この世におはしけりやは。薫大将の宇治に隠しすゑ給ふべきもなき世なり。あな物狂ほし、いかに由なかりける心なり。

と思ひしみ果てた。先にお仕へ申上げてゐた中宮は長暦三年八月崩御あらせられ、その御腹の祐子内親王・禖子内親王は頼通の邸におはしまし、作者の姉の子に対し「若い人参らせよ」とお召しになり、それにひかされて作者も時々出仕したが、昔のやうにあてのない頼みをかけて徒らに心おごりをするやうな事もなく、我よりまさる人があつても羨しからず、誠に心安くおぼえてゐた。かくて長久三年四月十三日両宮が御入内遊ばされたお供にまゐり、内侍所を拝み奉つたのである。

  有明の月いとあかきに、我が念じ申す、天照御神は内にぞおはしますなるかし。かかる折に参りて拝み奉らむと思ひて、四月ばかりの月のあかきに、いと忍びて参りたれば、博士の命婦は知るたよりあれば、灯籠の火のいとほのかなるに、あさましく老い神さびて、さすがにいとよう物などいひゐたるが、人とも覚えず、神の現れ給へるかとおぼゆ。

 廿日、両宮は御退出になり、作者は猶奉仕してゐたが、十月朔日ごろのいと暗い夜、不断経の行はれて、作者はふとしたことから蔵人の源資通と行きあうて、世の中のあはれなることなど細やかに語り、折から星の光だに見えず、木の葉にかかる時雨の音のをかしきを聞き乍ら、春秋のあはれは何れがまさると語り合ひ、誠に印象深い夜であつて、少女時代に夢に描いてゐたやうな世界が出現してきたかの如くも思はれたが、作者の思想もかはつてゐたし、人妻でもあるし、それで心の動くやうなことはなかつた。それどころか、この頃の作者は昔の由なし心をはかなく思ひ、どうして若い時に物詣をしなかつたかと後悔し、この上は子供の成長を楽しみ、自らは物詣をしようとまめまめしい心になり、家も豊かなる勢になつて幸福であつた。かへる年の永承元年十月二十五日、大嘗祭の御禊とののしつてゐたが、作者は初瀬の参詣を思ひ立ち、必ず仏の御しるしを見ようと心に深く期待し、三日さぶらひて、暁まかでんとしてうち眠つた夢に、すは稲荷より賜はるしるしの杉よとて、物を投げ出づるやうにすると見たのである。それから数年は物詣の生活がつづき、道のほどを苦しともをかしとも見るに、自ら心も慰められ、さしあたり嘆かしいこともなく、幼い人を思ふさまに仕立てあげ、夫の任官を待つのみであつた。
 天喜五年七月、夫は信濃守に任じ、八月任地に下つたが、子の仲俊は同行し、作者は京に止まつた。

  八月廿七日に下るに、男なるは副ひて下る。紅のうちたるに、萩のあを、紫苑の織物の指貫きて、太刀佩きて、しりに立ちて歩み出づるを、それも(夫の俊通も)織物のあをにび色の指貫、狩衣きて、廊のほどにて馬に乗りぬ。

妻として母としての喜びを十分に感じたのであるが、供をして行つたものが翌日帰つて、この暁にいみじく大きなる人魂の立ちて、京の方へ来たと語り、不吉な前兆とは思つたが、よいやうに解釈して気にもかけずにゐると、翌康平元年四月、夫は任地から帰り、夏秋を過ぎ、九月廿五日から煩ひ出して、十月五日夢のやうにはかなく身まかり、今まで幸福であつたに引きかへて再び悲しい運命を嘆くやうになり、去年の秋はいみじく仕立てられて父について下つて行つた仲俊が、今は黒い喪服をきて、泣く泣く野辺の送りをして行くのを見て胸がつまるやうな思ひがし、昔より由なき物語や歌にのみ心をしめてゐたが、も少し神仏を信仰してをつたら、かうまででもあるまいと後悔の臍をかみ、それでもただ一つ頼みになることがあるとて、夢を記してゐるが、如何にも印象鮮明である。

  天喜三年十月十三日の夜の夢に、ゐたる処のやのつまの庭に、阿弥陀仏たちたまへり。さだかには見え給はず、霧ひとへ隔たれるやうに、すきて見え給ふを、せめて絶間に見奉れば、蓮華の座の、土をあがりたる高さ三四尺、仏の御たけ六尺ばかりにて、金色に光り輝き給ひて、御手かたつ方をば広げたるやうに、いま片つかたには印を作り給ひたるを、こと人の目には見つけ奉らず、われ一人見奉るに、さすがにいみじくけおそろしければ、簾のもと近くよりてもえ見奉らねば、仏「さは、このたびはかへりて、後に迎へに来む」とのたまふ声、我が耳一つに聞えて、人はえ聞きつけずと見るに、うちおどろきたれば、十四日なり、この夢ばかりぞ後のたのみとしける。

    四 神秘的な時代

 夫に死に別れたのは作者五十一歳で、それまで朝タ一緒に住んでゐた甥どもも、今は別々に住むやうになり、誰も手許にはゐなかつたが或る暗い夜、六郎にあたる甥が尋ねてくれ、珍しう覚えて、

  月も出でで闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ

といふ歌をつくつた。その後年月は過ぎ変つて行つたが、それまでの夢のやうに過ぎ去つた時の事を思ひ出すと、心地もまどひ目も涙にかきくらすやうで、寡婦になつてから後の事はさだかにも記憶してゐないと記してをり、ただ古里に一人いみじう心細く悲しく眺めあかしたといふだけの記憶しか残つてゐないのである。その時代は相当に長くつづき、浪漫的な時代、現実的な時代を通つて来た作者が、今は神秘的な生活をしてゐるのであると考へられるが、作者自身としてはそこを自覚せず、ただ少女時の夢を追ひ、夫の死を悲しみ、とかく失つたものへの思慕を深くするのである。その心境でこの日記は記されたものであらうが、その故に彼の女の浪漫精神がはかなげに見えるのである。

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