明治十五年 十一歳
三月 「また小学校を休むことにはなるが、上野や向島の花を見に、すぐれた歌人や学者の方々にもお目にかかるようにつれていってやろう」との父の詞、自分は躍りあがって喜んだ。人力車にも馬車にも乗ったが、歩いた方が多かった。小古曽(おごそ)では河村氏を訪い、四日市では川村又助さんを訪い、桑名から船で尾張に渡った。
一すぢの煙をあとにのこしおきて沖をはるかに船はゆくなり
名古屋では大須の観音に参り、このお寺に古事記の古い本があるという話を聞き、本居門の植松有信の孫なる有園氏を訪うた。玄関に主人が出てみえたが、暫く父の顔を見ておって何か二言三言いわれて後、座敷に通された。「佐々木さんの著書は夙くから見ておったので、もっとお爺さんの筈である。もしや名を騙って来たのではなかろうかと思うて失礼した」と話された。父は笑いつつ、「晩年に生れたこの男の子をつれて上京するので、途中名高い方を訪うてお目にかからせたいとお尋ねした」というて、古事記伝出版当時の祖父君有信翁の苦心談をお聞きした。
熱田の町では小貝諸文という、商人で歌人の家にとめてもらって、羽鳥春隆翁を訪うた。桂園派の歌人、かつ大和絵の画家であった。折からかきあげられた神功皇后が玉島川で魚を釣っておいでになる絵を自分に与えられて、「東京へいったらば、高崎正風先生におあいできた時、春隆がいうたというて賛をしてお貰いなさい」といわれた。
西尾では辻氏に宿った。老いたる母堂が、「束京案内」という銅版画入りのごく小型の二冊の帙入本を贈られた。あこがれていた東京のなつかしい俤に接することができたので、嬉しさに、この二冊の本は道中いつも自分の袋の中に入れて持ち歩いていた。
豊橋では、郊外なる八幡宮の神官羽田栄木(はださかき)翁を訪うた。父は、「この御老人は平田篤胤先生のお弟子である。先生の門人で生きておいでの方はごく少いから、よくお覚えして置け」といわれた。傍なる文庫に案内されて種々の古書を父に示され、自分には平田先生の逸話をいろいろ話され、帰る時に「信綱わ子に与ふ」という短冊を贈られた。
曇ったり雨が降ったりしたので、岩淵、原を通った時も富士が見えず、三島に宿った翌朝、朝空にすがすがしい富士を眺めた。
嬉し嬉しはじめてあふぐ昨日までうつしゑにのみ見し富士の嶺を
箱根を登るにも連歌をしなどして苦しくはなかったが、途中で父が、自分は別の道をゆくから一人で登りなさい、といって右の方の笹生の中の道におりていった。暫く登っても父の姿が見えぬ。どうしたことかとたまりかねて、「おとうさんおとうさん」と泣き声で叫んだ。ふと出て来た父は、「やっぱり子供だなあ」と笑っておられた。芦の湖を見、権現に詣でた。実朝の「玉くしげ箱根のみうみ心(けけれ)あれや」の歌をうたって、歌にはいろいろある、古い詞を用いてもよい、すべてよいものはよい、と教えられた。畑(はた)の宿(しゆく)を通ると、接待茶屋があった。茶釜に湯がわいており、誰でも腰かけて弁当などをたべられる無料の休み茶屋である。腰をかけると、父よりも少し年下らしい人が来て、「何処へ」と問う。「花見に東京へ」と答えたに、「今の時代は花見などにゆく時でない。わしは金原(きんばら)明善というて、浜名の橋などをかけた……」。父は「それはよい事をなさった。しかし人には人各の道がある。自分は歌よみなので、此の子に上野の花などを見せにゆくのである」というと、「わしも変った男だが、君も変っておるね」というて西の方へいった。
湯本への坂道は急で、石の段が苦しい。父は旧幕時代に何回かここを通って、「箱根山のぼるみ坂の石角(かど)の一つ一つに苦しかりけり」と詠んだ。人の世は苦しいものということを覚えておけ、といわれた。湯本では福住にとまった。主人は名を正兄(まさえ)というて、二宮宗(にのみやしゆう)をひろめており、歌人でもあるとのこと、歓待してくれられた。父は明治三年にとまった時とはかわって四階建で立派になったと驚いていた。
神奈川まで馬車で、神奈川から初めて汽車というものに乗り、新橋停車場に着き、人力車で煉瓦づくりの銀座通りを見、神田西黒門町の橘幸子(さちこ)さんの家にいった。幸子さんは伊勢の亀山におられた時からの父の教え子である。{四頁参照}《注:四頁は明治5年》
翌朝は上野へいった。花は真盛り、人出の多いにおどろいた。浅草の観音にまいり、向島では花かげの堤の道をそろそろあるいて、桜もちを十分にたべた。自分の母は神戸(かんべ)本多家の藩士の女で、江戸在勤中神田橋の屋敷で生れ、大きくなって、藩侯の姫君に仕え、毎年の花盛には御殿山(ごてんやま)の下屋敷(しもやしき)の花見にお伴し、その翌日だけ自由に上野や向島に友だちとゆけたとのことであった。
母君が春くるごとに話された上野隅田の花を見しかな
夜は、近辺の三田花朝尼(さんだかちように)を訪うた。景樹の直(じき)門の人で、桂園の昔がたりを聞いた。
次の日、御徒町に本居豊穎先生を訪うた。一昨年は松阪へも御出でになったので、いろいろ親しいお話、本居家歴代の肖像画をみせていただきなどした。
池の端仲町の宝丹(ほうたん)のそばの間島(まじま)冬道翁を訪うた。広くはないが門の入口に竹いく本が植えてあった。名古屋時代に歌人として父とも交わっておられたのである。
天神下の通りの角(かど)に土蔵のある小中村清矩(きよのり)先生の家を訪うた。父とは旧幕時代からのなじみで、古い本の話をして、時々土蔵へいって本を出して来て話しておいでになった。
五軒町に松浦弘(ひろし)(武四郎)翁を訪うた。翁は伊勢一志郡の人、ごく若い時足代先生の門に入られたとのことで、父は幕末に翁を知り、翁の有名な蝦夷日記の一冊に歌を題してもおる。折から病臥中であったが枕もとにとおされ、父と昔話をされた後、「東京へくる途中どんな歌をよんだか、これに」と半紙を出されたので四五首かくとそれを見ておられたが、「わしも歌は好きじゃ」というて、女中に北野天満宮のあの鏡の図を持ってこいというて示され、この北海道と樺太の図に、「いく年か思ひ深めし北の海みちびくまでになし得つるかな」と書いてほらせ、天満宮に献納した。「わしは十六の時に伊勢を出て日本国中をまわり北海道をあまねく探検し、いばらの中や、雪の上にも寐たりして、一生を北海道にささげたというてよい。人間は一つの事に一生を献(ささ)げるべきものだ。お前は一生を歌にささげるつもりで勉強せぬといかぬぞ、今日の詞をよくおぼえておけ」といわれた。又、部屋の隅にかけてある画の掛物を指さされて、「あれはおれの涅槃の図じゃ。樹の下にわしが寐ておる。あのお公家さんは岩倉公じゃ、かわいがった犬や猫もおるのじゃ」といわれた。
番町に相沢朮(おけら)翁を訪うて数日の客となった。第一日に福羽美静翁を、番町小学校に近い邸におたずねした。門を入ると牡丹が開きかけているきれいな庭。翁は身体(からだ)は大きくないが、やさしくて、しかもしっかりしたおかたであった.お父さんと昔話をするから次の間で歌をよみ、この本をよんでいなさい、というて「百人一首一夕話」をかして下さった。しばらくしてよばれて、歌はといわれる。
うつくしき庭の牡丹にむかひつつよむも楽しき百人一首一夕話
というと、あの本は初めてかといわれるに、「家(うち)にもあります」というと、ここかしこをあけてこれはと問われるに答えなどした。
相沢さんに伴われて、京橋三十間堀の西周先生にうかがった。升子夫人は相沢翁の妹君で、兄妹(はらから)ともに伊勢へ歌の添削を請いにおこされておったのである。西先生は実に立派なかたで、奈良の寺院や仏像の写真を出して、日本という国は外国のよいものをとりいれて千年前にこんな立派なものがある、と教えてくださった。
永田町の高崎正風先生にうかがった。古い時代の華族女学校の板塀の裏通り、後に近衛文麿公もおられた家を左に見るつきあたりの広いお邸(やしき)、長屋門で、右に長屋二三軒、正面は馬車まわしで小高い洋館があり、入って左が応接室である。先生は、大久保公の写真のような頬髭のある雄々しいお方、しかし人を見られるお目はやさしくお声もうつくしかった。父は八田知紀(とものり)翁が石薬師を訪われた折のことをまず述べたようで、なごやかなお話がしばらくつづいて、自分にも教訓のお詞をいただきお暇した。
飯田橋に近い鈴木重嶺(しげね)翁を訪うた。池のある広い家、やさしい老翁(おじい)さんであった。
麻布市兵衛町に柳猶悦(ゆうえつ)翁を訪うた。父が藤堂家に学を講じていた頃の知人であるとの事であった。《注:「猶」は底本のまま(正しくは「楢」)。》
旅行の目的の花見もすませ、旧知の方々にも大方お逢いができたので、父は帰り支度をしておったに、福羽翁から、父にくるようにとの使が来た。いって帰って来た父は、いつものようでなく、だまっておった。翌朝いつもの時間より早く「信、信」といって起こされた。そばには相沢さんもおられた。「昨日福羽さんのところへいったに、信についての御親切なお話であった。それは、お前が歌も詠むし本も少しは読んでいるのを此間いった時に福羽さんがおみとめになって、歌も松阪で親父(おとう)さんが教えるよりは、東京でよい先生に教わる方がよい。殊に学問は東京でなけれはだめだ。明治の初めに東京へといったに君から断って来た。今度は子供の為だ。昨日偶然小中村君に逢った時、ふと話をしたに、小中村君もそれがよかろうといわれたと泪のこぼれる有難いお話であった。昨夜(ゆうべ)とくと考えて決心した。鈴屋の会は、この四五年に池部、丹羽、大森、藤村君などがよく出来るからお断りしてもよい。今朝早く手紙をかいた。これは鈴屋歌会にむけて、これは家(うち)への手紙で、蔵書の類をまとめて荷物に出し、昌綱をつれて上京するように――信の教育のために東京に永住する。あの山室山の妙楽寺に墓地をもきめておいたのであったが――」といわれる。相沢さんも詞を添えられる。自分は父の詞をただただ有がたく聞いた。父は数日後に旅費のあまりで神田小川町一番地の裏通り、後に天下堂のあった裏に小さな家をもとめて住んだ。やがて母と弟が上京した。
ある日のこと、父の不在中に品(ひん)のよい老人の方(かた)が来られて、「留守ならばと手紙をかいて持って来たから」というて置いて帰られた。父がもどって来て、手紙の裏に「松平正二位」とあるので開いて見ると、「かねて貴殿の名は書物で知っておる。上京されたと聞いたので訪問した」とういう文意。奥に「位山高きも君が高き名にくらべてみれば麓なりけり 慶永」とある。父は驚いて、これは松平春嶽侯である。侯は学芸の士を愛されて、幕末時代に橘曙覧を城中にお召になろうとされたお方である。御挨拶にあがらねばと、翌日自分をつれて小石川音羽台のお邸(やしき)に伺った。《注:「とういう」は底本のまま。》
小川町一番地は広くて、明治法律学校の煉瓦づくりの校舎(後に印刷所になった)もあり、進徳館という私立中学もあり、依田学海(よだがくかい)居士も住んでおられ、喜多六平太さんも幼くて千代造といわれた頃に文十郎さんと一緒に住んでおられた。――近辺であるので、昌綱君は入門して仕舞を習いもした。――その学海居士の家と通りを隔てたところに広い家があったので移った。――後に煉瓦造りの書庫を建て、父はその二階を書斎とし、また別に二階を建て添えもした。庭は狭かったが、父は、本居先生の鈴屋のお庭もあのように狭かった。まして自分らがとよくいうておった。
この年の夏、父は高崎先生にうかがって、「信綱に歌の教を」と懇願した。先生は、「自分はやんごとない御方のお歌を拝見しておるので、弟子はとらぬ」とのお詞。父は「どなたもおとりになりませぬか」とお尋ねすると、「いや、二人ある、一人は有栖川宮の仰せで女官の小池道子と、今一人は香川景敏――若い頃国事に奔走して京都へ屡々いった時、景樹の子の景恒のもとを何度か訪うた。――自分は歌は桂園門の八田知紀の弟子であるが、その景恒の遺族はどうしておるかと近年京都へいった時に聞いたに、あまりにも零落しておるとのこと、名家の後を惜しんで景恒の未亡人と景敏、景之二人の子を上京させて、ここの門長屋の一つに住まわせ、弟の方はある宮家におつとめさせ、兄の景敏を教えておる」とのお話に、父は、「それならば景敏さんをお教えの日にお願い出来ませぬか。」との懇願に、先生も根(こん)まけをされてお許しが出た。自分は天へも昇る心地で、毎月二回永田町に参邸して、応接間の次の御書斎で景敏さんと一緒にお教をうけ、日課題というをかいていただいて、次回にその題を詠んではうかがった。洋館のうしろは日本館で広いお座敷、其の奥に母刀自や奥様のお部屋がある。時として先生のおともをして伺うとお菓子をいただく。いろいろお話を伺ってもお二方は鹿児島なまりのお詞で、景敏君に通訳を頼んだこともある。――翌年の春の末のこと、永田町のお庭は広くて紅白の躑躅(つつじ)がま盛である頃、山王神社の切通しに近い辺に弓場があって、先生は時々弓をおひきになる。こちらに朱硯と筆とを持って来て待っておれとのお詞に、其のようにしておると、片肌をおいれになってお直し下さった。そうして弓をおとりになり、「弓はこうして渾身の力を腹にこめて的に向わねばあたらぬ。歌も亦渾身の力を腹にこめて考えねば的からはずれてしまう。力一ぱいによむべきものである」とのお話を伺った。その秋であったか、秋風の身にしむということをよみいれた歌を御覧になり、「いつもいう、歌は真心であるということを忘れたか。十一や十二の男の子に秋風が身にしむということがあるか」とおしかりを蒙りもした。
父は幕末に、藤堂凌雲画伯に南画を学び、鈴鹿山にちなんで号を「鈴山」とつけておった。自分は筆をとることが不器用なので、画は学ばなかったが、「小鈴」という号をつけてくれた。この頃いろいろの聞書を随筆にかいて「小鈴随筆」と名づけ、またこれまでの歌稿を清書して「小鈴詠草」と名づけた。