はしがき
六歳で歌を詠んで、今年八十八歳。ただ一すじに歌の道を歩んで来た自分である。
「作歌八十二年」の自らのあとをかえりみて、ここにこの一巻をしるすこととした。
幼くて、父の教のままに歌を詠みはじめたのであるが、後になって、歌の道が、日本の古い伝統に根ざして一千数百年の生命を生きつらぬいた芸術であること、人間の真情を叙べるに最もふさわしい詩型であることを知り、わが生涯をかけて進もうと思い定めたのであった。
父は、「斯道を弘布する」というて、著述をなし、歌の道に入る人々を生涯導いた。その父の跡を踏んで、自分も、良いと信ずるこの道を弘布することにつとめ、同時に和歌史及び歌学史の研究と、万葉学の基礎的作業(古写本の捜索とその印行、校本の作成等)とをその目標とし、作歌の実行と並行して努めて来た。この一巻は、その記録ともいうべきものである。
父
父弘綱は、伊勢国鈴鹿郡石薬師に生れ、はやく父徳綱(のりつな)(医師)にわかれ、母鳰(にお)子(武備(たけび)の神官田上氏の女)の手によってひととなり、山田の碩学足代弘訓先生の寛居塾(ゆたいじゅく)に入った。先生は塾生にそれぞれにその踏み行く道を示され、父には、古今集遠鏡のような俚言解をつくるようにいわれたので、それに努め、安政四年に江戸に出た時、竹川政恕翁の世話で竹取物語俚言解二冊を出版した。翌年大阪に出て、中島広足翁と交わった時、翁は、鰒玉集、鴨河集につづく撰集をと書肆から頼まれたが、老年ゆえそなたがといわれた。それで、千船(ちふね)集初編を万延元年に、つづいて二編三編を出した。石薬師は近江の多羅尾代官の支配である。その代官から召されて信楽に往復し、苗字帯刀を許された。後、津の藤堂侯からも召されて、老儒斎藤拙堂翁より歌を示されもし、父も詩の添削を請うたりした。藤堂家から藩にといわれたが、多羅尾家の情誼を思うて辞退した。維新後は、専ら俚言解と千船集の続編とにかかり、全国からおくられる歌稿を見ておった。
幕末時代に近江の八幡にいった時、親しくなった福羽美静(ふくはよしすず)氏から、上京するようにと二三回手紙が来たが、「和歌の浦に我だに一人のこらずば朽ちはてなまし玉拾ふ舟」「和歌の浦に老を養ふあしたづは雲の上をもよそに見るかな」の歌を以て辞退した。
歌をよくした一人むすめのおけいさんが八歳(やつ)で失せ、つづいてその母なる園田須磨子さんも世を去ったので、神戸藩の岡元氏の女光子(みつこ)がとつぎ、明治五年六月三日(父の日記によるに「四ツ頃」、いまの午前十時頃)自分が生れたのであった。
明治五年 一歳
生れた翌日、六月四日に、亀山の門人橘幸子(さちこ)さんに父の贈った書状の奥に、「言の葉の道つたへむとはかなくもわが命さへ祈らるゝかな」という歌が書き添えてある。このように期待をかけられたのであった。(この書状は後に橘さんから贈られて「竹柏華葉」に掲げてある。)《注:書状と入手の経緯、文面等については「亡父の書簡」(大正4年(1915年))に記されている。》
明治九年 五歳
近辺の出入の百姓で清十郎というじいさんが、ひまな時に来て、「坊(ぼん)さん、いきましょう」と、おぶったり、肩車にのせたりして、石薬師寺(じ)や山辺(やまのべ)の御(み)井、まりが野や甲斐川などにつれていってくれた。このお寺の石の薬師さまは……、ここで昔の人がこんな歌をよみました。ここにはこんな話があります、と父から教わって来たことを、じいさんがおもしろく話してくれた。
清十郎じいやのはよかったが、初夏のこと、近辺の畳屋の息子が、出来た畳を届けに蒲川の方へゆきます。菜の花や紫雲英(げんげ)が盛りですからつれていってあげましょう。畳の上へ座布団を敷いて来ました。この綱を持っておればよいのですからというので、喜んで乗せられていった。ところが石橋に手すりがなかったので、車の輪が傾き、畳はするすると水の中に沈んだ。驚いた畳屋さんが川に飛びこんだに、自分は綱を持ったまますわっておったとのこと。自分ではおぼえていないが、近辺の百姓に背負われて家に帰って来て、わびをいう若者が帰った後、母は茶の間で着物を着かえさせ、泣きながら、二度とこんな目にはあわせません、水でぬれた着物は長くしまっておきます、と言ったのが思い出される。{写真は鈴鹿市の伊坂千春氏の撮影。}
<鈴鹿山の遠望>
十一月 村の産土(うぶすな)大木神社に五歳(いつつ)の宮まいりにゆくに、洋服を着せられた。父は月に一度四日市に教えにいったので、その時買って来たのであった。歌人であり国学者ではあるが、夙く和蘭(おらんだ)語をも学び、新しい事物をも好んで、書斎の障子の中央には紫、赤、白のガラスがはめてあった。また床の間には、ささやかな二人の人形のおどるオルゴールの箱がおいてあったので、時々いって、ねじをまわして踊らせるようにせがみもした。
「言の葉の道伝へむ」との考から、万葉集や山家集の歌を暗誦するよう教えられた。はにかみやで友達がないので、家のうしろの広い茶畑によくいった。そこには、ここかしこに桐の木が植えてあり、遠景としては鈴鹿山脈がうつくしかった。それをながめつつ、「ひむかしの野にかきろひのたつ見えて」とか、「鈴鹿山うき世をよそにふりすてて」とうたったりしていた。
こんな時はよいのであるが、時としては我ままが過ぎるので、家の裏の書物倉にしめこまれた。すると、声限り泣きわめく。隣の家の夫婦とも父の教え子であるから、聞きつけて出しに来てわびてくれる。ある時、ちっとも泣き声がせぬので、母が心配して網戸からのぞくと、本箱の名所図絵を出して見ておったので、困ったとのことであった。
明治十年 六歳
一月 父は孝経をかいて素読を授けてくれた。
四月 父母にともなわれて、大阪から京都にいった。淀川の夜舟が枚方に着いて、「くらわんかくらわんか」の声にめさめてこわかったこと、黒谷の定円(じようえん)上人が父の教え子であったので、訪うて、本堂で読経を聞いた時、歌のようなものをつくって父にそっというたりしたことがあった。その所々で、所々の昔話を聞いて楽しい旅であった。
春秋の彼岸には、父につれられて浄福寺の西の三昧(さんまい)(墓地)にいって、祖父母や姉の墓にまいり、帰りには、かなり離れておる法運寺の、東の三昧なる一つの墓の前にぬかずく習わしであった。ある時、この墓は誰のですと問うと、父は、「これは萱生由章(かやうよりふん)先生のである。先生は石薬師の生んだ一番すぐれた学者で、これこれの事をなさった。信(のぶ)も大きくなったら、何かをせねばいかぬぞ」といわれた。
九月 弟昌綱(まさつな)が生れた。
十二月のはじめ、粉雪のふった朝、父の書斎にいって、ガラス障子のそばで、
障子からのぞいて見ればちらちらと雪のふる日に鴬がなく
とよんで父にいうと、「よしよし、これが信の初めての歌だ」というてほめてくれた。
この月、松阪に移った。それは鈴屋社の歌会の監督を父がお頼まれした為であった。平生(ひらお)町なる真行院(しんぎよういん)の側の家を借りて住んだ。
明治十一年 七歳
一月 湊町小学校に入った。校長は真川(さながわ)真澄先生、受持は上野貞利先生、温顔が今も思い浮べられる。
二月 岡寺でよんだ歌、
岡寺のよひ宮まつり来て見ればほしき売物つづきけるかな
松阪の町はずれの左側に、参宮の道者たちの立ち寄るようにと造った見世物小屋があった。気味のわるいはらみ女の人形が十ならんでいて、その前をまわれるようにしてある。出口には、がちゃっとまわすと、いろいろにかわるからくり人形があった。
くるくるとまはりて見れば恐ろしく又おもしろき物もありけり
九月 父につれられて参宮をした。老杉の木かげの道をしずかに歩いた。山田の足代先生のお宅にいった。小学校になっていたが、先生時代にお仕えした女中が年をとってつとめているのに案内されて、ここは昔の塾の方々のおられたところ、というので、父はなつかしそうにながめておった。先生のお居間であったという部屋で、父は先生のすぐれた方であったという話をしてくれた。
斎宮で昔がたりや、櫛田では櫛田川の上流なる北畠氏のことを委しく聞いた。垣鼻(かいばな)では歌の会でなじみになっている藤の棚にやすんだりした。
日野町の堀内千稲(ちしね)翁のもとへ土曜日の夜によくいった。堀内家は南勢宮前(みやのまえ)の旧家で、先代は長野義言(よしこと)の世話をして、その著書にも序文をかき、出版しておられる。松阪に隠居をされた千稲翁は、父の門人であり、四男の鶴雄君は自分と同年、小学校の同級なので、行くと、二人を前において、福沢先生の学問のすすめや、世界国づくしの話などをして下さるのがおもしろいので、いつもいって夜ふけて帰った。自分の住んでおる処は平生町から移って来て、近くはあったが、帰りにはいつも若い番頭さんが送ってくれる。櫛屋町の四角(よつかど)の南側は長井家(小津、長谷川、長井と、松阪の三家といわれる家)の土塀が長くつづき、老松が欝蒼と繁っておる。土塀の尽きた処が自分の家である。真暗い夜ふけに四角からまがって少し行くと、番頭さんは、「おばァけ!」と大声で云うてバタバタと後戻りをする。気味わるいので、こわごわ歩いて自分の家の前へ立ち格子戸を明けると、足音をしのんでついて来たと見えて、「坊ちゃんをお送りしてきました」というて帰って行くことが度々あった。
この櫛屋町の家はかなり室数(へやかず)があったので、国々から来た弟子の人が泊りもすると、母はよくもてなした。京都で蓮月と並び称された女歌人の高畠式部は、松阪の出身であるが、墓参に来ても親類がないので、泊めてくれとのこと、父は喜んで二三日とめたことがある。門人たちをよんで小さな歌会を催し、幼い自分も列なった。式部は、「坊ちゃん、おぼえておおきなさい。人間はしようと思えば何でもできるものです。わたしは東海道の名所が見たくて、日より下駄をはいて、京都から東京まであるいて行きましたよ。わたしは細(こまか)い字をほることがすきで、この筆たてに百人一首をほりました。又、これは笑い話ですが、私の名の式部は千種(ちくさ)さんからいただいた立派な名ですが、そねむ人は式部は式部でも、色が黒いから鼠式部(ねずみしきぶ)だといいましたよ」と老顔をほころばせておられた。その時、齢は九十四、五、極めて丈夫であったが、食物(たべもの)がごく少量で、いささかのお粥、それを腹がすくと日に何度もたべる。夜中でも母を起して、「粥を」というので、母は滞在中はおちおち眠れず、あの時だけは困ったと、後によく話したことであった。
明治十二年 八歳
一月 二十日に鈴屋歌会に父に伴われて出て爾来毎月出席することを許された。お家(うち)は、魚町の横町、長谷川家の筋向うであった。お玄関の左は六畳で患者の待合室、次は六畳と四畳、次は四畳半と三畳と並び、いずこかが御診察室であったのであろう。右は中庭で松の大木と井戸があった。つきあたりがお座敷、その縁側の向うが奥庭で桜の木があった。お座敷へすわる前に、入口の右に三四段の大きな引出しつきの段梯子があるのをあがると狭いお書斎、一方は庭に面している。床には「県居大人之霊位」という掛物と床柱に沢山の鈴がかかってい、窓に向ってお机がおいてある。このお机におよりになって、古事記伝を初め多くの著述をおかきになったのであるとのこと。床の間とお机にお辞儀をしておりて、お歌会の末席に列なった。座敷の中央に文台が置いてある。いつも十二三人くらいのあつまりで、当座題は通題のこともあり探題のこともあった。それがすむと兼題の披講、終って久世(くぜ)安庭翁――父は、このお方は文政八年、今から五十年も近い前に春庭先生のお弟子におなりになった方であると話してくれた。その久世翁のお話、父の歌がたりがある。御当主の春郷先生は四日市においでの頃お茶をお教えになっていたとのこと、しとやかなかたであった。春の日の長い頃などには、会がすんで城山――蒲生氏郷の城を築いた処――にのぼりもし、本居先生のお歌にある四五百(よいお)の森にいったりもした。
父は日野町の柏屋兵助(ひようすけ)という古本屋によくいったので自分も一緒についていった。松阪の有名な書家韓天寿(かんてんじゆ)のかいたのを木彫にした文海堂の額がかかっておった。老主人は自分にいろいろの昔話をきかせてくれた。――その中の一つを数十年後、「松坂の一夜(ひとよ)」という文にかいたのが大正年代に小学読本にちぢめ掲げられた。(この柏屋が衰えて額も売りに出たと名古屋の人からいわれたので購うて、今、熱海の山荘の一室にかかげてある。)
柏屋から少しさきの左が樹敬寺(じゆきようじ)で、本居家のお墓があるので、春秋の彼岸にお参りした。
山室山へは父母に伴われていった。山の上の本居先生の奥つきのもとにぬかずき、山の中腹にある妙楽寺に立ちよると、参詣人の姓名や歌が多く書かれてある巻物があった。父は知合の人の名を指ざし、自らも安政何年かに初めて詣でた折の歌をよんできかせてくれた。
岩内(いおち)や横滝へもいった。静かなよい処であるが、岩内のお寺の大きな蜂の巣には驚いた。
城山から遥かに見える大口浦へ、父はよく沙魚(はぜ)つりにいったので、自分も伴をしていった。ある日の帰途、有名な朝田(あさだの)薬師のある村を通るとて、父は此の村から江戸に出た朝田某は、幕府の弓張師岸本讃岐の家をつぎ、岸本由豆流という学者となった。考証学者として著書が多い、などと教えてくれた。
日曜日ごとに、稽古にくる人と一緒に、歌ぐさりをした。歌ぐさりとは、父が寛居塾に在った頃、古歌を記憶する為にと、先生が塾生にまじってせられたとのこと。それは、たとえば、先生がまず、「いざこども早く日本(やまと)へ大伴のみつの松原待ちこひぬらむ」とおっしゃると、四句の「み」が上にある歌を考えて、次にすわっておる一人が、「水の面に照る月なみをかぞふればこよひぞ秋の最中なりける」という。次の人がすぐいえないとお辞儀をする。すると、次の一人が「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」という。次の人が「天の原吹きすさみたる秋風に走る雲あればたゆたふ雲あり」、次が「春霞かすみていにし雁がねは今ぞ鳴くなる秋霧の上に」、次が「伊勢武者は皆緋縅の鎧着て宇治の網代にかかりぬるかな」とようにいうのである。しかし中々すらすらとは続け得られぬ。その時は先生が教えてくださる。そして時として「水の面に……、それは誰の歌」ときかれる。「源順です」と答える。「天の原……それは誰の歌」「揖取魚彦(かとりなひこ)」と答える。「伊勢武者は……それは何の本に出ておる」と問われる。「平家物語に」と答える。こうして一同が古歌をおぼえたとのこと。百人一首のはなるべくいわぬ、同じ歌を同じ日に二度いわぬとの定めであったという。その歌ぐさりを自分らもしたのである。自分は幸にはやく古歌の暗誦を授けられていたので、しあわせであった。