江戸期版本を読む

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    はしがき

六歳で歌を詠んで、今年八十八歳。ただ一すじに歌の道を歩んで来た自分である。
「作歌八十二年」の自らのあとをかえりみて、ここにこの一巻をしるすこととした。

幼くて、父の教のままに歌を詠みはじめたのであるが、後になって、歌の道が、日本の古い伝統に根ざして一千数百年の生命を生きつらぬいた芸術であること、人間の真情を叙べるに最もふさわしい詩型であることを知り、わが生涯をかけて進もうと思い定めたのであった。
父は、「斯道を弘布する」というて、著述をなし、歌の道に入る人々を生涯導いた。その父の跡を踏んで、自分も、良いと信ずるこの道を弘布することにつとめ、同時に和歌史及び歌学史の研究と、万葉学の基礎的作業(古写本の捜索とその印行、校本の作成等)とをその目標とし、作歌の実行と並行して努めて来た。この一巻は、その記録ともいうべきものである。

    父

父弘綱は、伊勢国鈴鹿郡石薬師に生れ、はやく父徳綱(のりつな)(医師)にわかれ、母鳰(にお)子(武備(たけび)の神官田上氏の女)の手によってひととなり、山田の碩学足代弘訓先生の寛居塾(ゆたいじゅく)に入った。先生は塾生にそれぞれにその踏み行く道を示され、父には、古今集遠鏡のような俚言解をつくるようにいわれたので、それに努め、安政四年に江戸に出た時、竹川政恕翁の世話で竹取物語俚言解二冊を出版した。翌年大阪に出て、中島広足翁と交わった時、翁は、鰒玉集、鴨河集につづく撰集をと書肆から頼まれたが、老年ゆえそなたがといわれた。それで、千船(ちふね)集初編を万延元年に、つづいて二編三編を出した。石薬師は近江の多羅尾代官の支配である。その代官から召されて信楽に往復し、苗字帯刀を許された。後、津の藤堂侯からも召されて、老儒斎藤拙堂翁より歌を示されもし、父も詩の添削を請うたりした。藤堂家から藩にといわれたが、多羅尾家の情誼を思うて辞退した。維新後は、専ら俚言解と千船集の続編とにかかり、全国からおくられる歌稿を見ておった。
幕末時代に近江の八幡にいった時、親しくなった福羽美静(ふくはよしすず)氏から、上京するようにと二三回手紙が来たが、「和歌の浦に我だに一人のこらずば朽ちはてなまし玉拾ふ舟」「和歌の浦に老を養ふあしたづは雲の上をもよそに見るかな」の歌を以て辞退した。
歌をよくした一人むすめのおけいさんが八歳(やつ)で失せ、つづいてその母なる園田須磨子さんも世を去ったので、神戸藩の岡元氏の女光子(みつこ)がとつぎ、明治五年六月三日(父の日記によるに「四ツ頃」、いまの午前十時頃)自分が生れたのであった。

    明治五年 一歳

生れた翌日、六月四日に、亀山の門人橘幸子(さちこ)さんに父の贈った書状の奥に、「言の葉の道つたへむとはかなくもわが命さへ祈らるゝかな」という歌が書き添えてある。このように期待をかけられたのであった。(この書状は後に橘さんから贈られて「竹柏華葉」に掲げてある。)《注:書状と入手の経緯、文面等については「亡父の書簡」(大正4年(1915年))に記されている。》

    明治九年 五歳

近辺の出入の百姓で清十郎というじいさんが、ひまな時に来て、「坊(ぼん)さん、いきましょう」と、おぶったり、肩車にのせたりして、石薬師寺(じ)や山辺(やまのべ)の御(み)井、まりが野や甲斐川などにつれていってくれた。このお寺の石の薬師さまは……、ここで昔の人がこんな歌をよみました。ここにはこんな話があります、と父から教わって来たことを、じいさんがおもしろく話してくれた。
清十郎じいやのはよかったが、初夏のこと、近辺の畳屋の息子が、出来た畳を届けに蒲川の方へゆきます。菜の花や紫雲英(げんげ)が盛りですからつれていってあげましょう。畳の上へ座布団を敷いて来ました。この綱を持っておればよいのですからというので、喜んで乗せられていった。ところが石橋に手すりがなかったので、車の輪が傾き、畳はするすると水の中に沈んだ。驚いた畳屋さんが川に飛びこんだに、自分は綱を持ったまますわっておったとのこと。自分ではおぼえていないが、近辺の百姓に背負われて家に帰って来て、わびをいう若者が帰った後、母は茶の間で着物を着かえさせ、泣きながら、二度とこんな目にはあわせません、水でぬれた着物は長くしまっておきます、と言ったのが思い出される。{写真は鈴鹿市の伊坂千春氏の撮影。}
<鈴鹿山の遠望>
十一月 村の産土(うぶすな)大木神社に五歳(いつつ)の宮まいりにゆくに、洋服を着せられた。父は月に一度四日市に教えにいったので、その時買って来たのであった。歌人であり国学者ではあるが、夙く和蘭(おらんだ)語をも学び、新しい事物をも好んで、書斎の障子の中央には紫、赤、白のガラスがはめてあった。また床の間には、ささやかな二人の人形のおどるオルゴールの箱がおいてあったので、時々いって、ねじをまわして踊らせるようにせがみもした。
「言の葉の道伝へむ」との考から、万葉集や山家集の歌を暗誦するよう教えられた。はにかみやで友達がないので、家のうしろの広い茶畑によくいった。そこには、ここかしこに桐の木が植えてあり、遠景としては鈴鹿山脈がうつくしかった。それをながめつつ、「ひむかしの野にかきろひのたつ見えて」とか、「鈴鹿山うき世をよそにふりすてて」とうたったりしていた。
こんな時はよいのであるが、時としては我ままが過ぎるので、家の裏の書物倉にしめこまれた。すると、声限り泣きわめく。隣の家の夫婦とも父の教え子であるから、聞きつけて出しに来てわびてくれる。ある時、ちっとも泣き声がせぬので、母が心配して網戸からのぞくと、本箱の名所図絵を出して見ておったので、困ったとのことであった。

    明治十年 六歳

一月 父は孝経をかいて素読を授けてくれた。
四月 父母にともなわれて、大阪から京都にいった。淀川の夜舟が枚方に着いて、「くらわんかくらわんか」の声にめさめてこわかったこと、黒谷の定円(じようえん)上人が父の教え子であったので、訪うて、本堂で読経を聞いた時、歌のようなものをつくって父にそっというたりしたことがあった。その所々で、所々の昔話を聞いて楽しい旅であった。
春秋の彼岸には、父につれられて浄福寺の西の三昧(さんまい)(墓地)にいって、祖父母や姉の墓にまいり、帰りには、かなり離れておる法運寺の、東の三昧なる一つの墓の前にぬかずく習わしであった。ある時、この墓は誰のですと問うと、父は、「これは萱生由章(かやうよりふん)先生のである。先生は石薬師の生んだ一番すぐれた学者で、これこれの事をなさった。信(のぶ)も大きくなったら、何かをせねばいかぬぞ」といわれた。
九月 弟昌綱(まさつな)が生れた。
十二月のはじめ、粉雪のふった朝、父の書斎にいって、ガラス障子のそばで、
   障子からのぞいて見ればちらちらと雪のふる日に鴬がなく
とよんで父にいうと、「よしよし、これが信の初めての歌だ」というてほめてくれた。
この月、松阪に移った。それは鈴屋社の歌会の監督を父がお頼まれした為であった。平生(ひらお)町なる真行院(しんぎよういん)の側の家を借りて住んだ。

    明治十一年 七歳

一月 湊町小学校に入った。校長は真川(さながわ)真澄先生、受持は上野貞利先生、温顔が今も思い浮べられる。
二月 岡寺でよんだ歌、
   岡寺のよひ宮まつり来て見ればほしき売物つづきけるかな
松阪の町はずれの左側に、参宮の道者たちの立ち寄るようにと造った見世物小屋があった。気味のわるいはらみ女の人形が十ならんでいて、その前をまわれるようにしてある。出口には、がちゃっとまわすと、いろいろにかわるからくり人形があった。
   くるくるとまはりて見れば恐ろしく又おもしろき物もありけり
九月 父につれられて参宮をした。老杉の木かげの道をしずかに歩いた。山田の足代先生のお宅にいった。小学校になっていたが、先生時代にお仕えした女中が年をとってつとめているのに案内されて、ここは昔の塾の方々のおられたところ、というので、父はなつかしそうにながめておった。先生のお居間であったという部屋で、父は先生のすぐれた方であったという話をしてくれた。
斎宮で昔がたりや、櫛田では櫛田川の上流なる北畠氏のことを委しく聞いた。垣鼻(かいばな)では歌の会でなじみになっている藤の棚にやすんだりした。
日野町の堀内千稲(ちしね)翁のもとへ土曜日の夜によくいった。堀内家は南勢宮前(みやのまえ)の旧家で、先代は長野義言(よしこと)の世話をして、その著書にも序文をかき、出版しておられる。松阪に隠居をされた千稲翁は、父の門人であり、四男の鶴雄君は自分と同年、小学校の同級なので、行くと、二人を前において、福沢先生の学問のすすめや、世界国づくしの話などをして下さるのがおもしろいので、いつもいって夜ふけて帰った。自分の住んでおる処は平生町から移って来て、近くはあったが、帰りにはいつも若い番頭さんが送ってくれる。櫛屋町の四角(よつかど)の南側は長井家(小津、長谷川、長井と、松阪の三家といわれる家)の土塀が長くつづき、老松が欝蒼と繁っておる。土塀の尽きた処が自分の家である。真暗い夜ふけに四角からまがって少し行くと、番頭さんは、「おばァけ!」と大声で云うてバタバタと後戻りをする。気味わるいので、こわごわ歩いて自分の家の前へ立ち格子戸を明けると、足音をしのんでついて来たと見えて、「坊ちゃんをお送りしてきました」というて帰って行くことが度々あった。
この櫛屋町の家はかなり室数(へやかず)があったので、国々から来た弟子の人が泊りもすると、母はよくもてなした。京都で蓮月と並び称された女歌人の高畠式部は、松阪の出身であるが、墓参に来ても親類がないので、泊めてくれとのこと、父は喜んで二三日とめたことがある。門人たちをよんで小さな歌会を催し、幼い自分も列なった。式部は、「坊ちゃん、おぼえておおきなさい。人間はしようと思えば何でもできるものです。わたしは東海道の名所が見たくて、日より下駄をはいて、京都から東京まであるいて行きましたよ。わたしは細(こまか)い字をほることがすきで、この筆たてに百人一首をほりました。又、これは笑い話ですが、私の名の式部は千種(ちくさ)さんからいただいた立派な名ですが、そねむ人は式部は式部でも、色が黒いから鼠式部(ねずみしきぶ)だといいましたよ」と老顔をほころばせておられた。その時、齢は九十四、五、極めて丈夫であったが、食物(たべもの)がごく少量で、いささかのお粥、それを腹がすくと日に何度もたべる。夜中でも母を起して、「粥を」というので、母は滞在中はおちおち眠れず、あの時だけは困ったと、後によく話したことであった。

    明治十二年 八歳

一月 二十日に鈴屋歌会に父に伴われて出て爾来毎月出席することを許された。お家(うち)は、魚町の横町、長谷川家の筋向うであった。お玄関の左は六畳で患者の待合室、次は六畳と四畳、次は四畳半と三畳と並び、いずこかが御診察室であったのであろう。右は中庭で松の大木と井戸があった。つきあたりがお座敷、その縁側の向うが奥庭で桜の木があった。お座敷へすわる前に、入口の右に三四段の大きな引出しつきの段梯子があるのをあがると狭いお書斎、一方は庭に面している。床には「県居大人之霊位」という掛物と床柱に沢山の鈴がかかってい、窓に向ってお机がおいてある。このお机におよりになって、古事記伝を初め多くの著述をおかきになったのであるとのこと。床の間とお机にお辞儀をしておりて、お歌会の末席に列なった。座敷の中央に文台が置いてある。いつも十二三人くらいのあつまりで、当座題は通題のこともあり探題のこともあった。それがすむと兼題の披講、終って久世(くぜ)安庭翁――父は、このお方は文政八年、今から五十年も近い前に春庭先生のお弟子におなりになった方であると話してくれた。その久世翁のお話、父の歌がたりがある。御当主の春郷先生は四日市においでの頃お茶をお教えになっていたとのこと、しとやかなかたであった。春の日の長い頃などには、会がすんで城山――蒲生氏郷の城を築いた処――にのぼりもし、本居先生のお歌にある四五百(よいお)の森にいったりもした。
父は日野町の柏屋兵助(ひようすけ)という古本屋によくいったので自分も一緒についていった。松阪の有名な書家韓天寿(かんてんじゆ)のかいたのを木彫にした文海堂の額がかかっておった。老主人は自分にいろいろの昔話をきかせてくれた。――その中の一つを数十年後、「松坂の一夜(ひとよ)」という文にかいたのが大正年代に小学読本にちぢめ掲げられた。(この柏屋が衰えて額も売りに出たと名古屋の人からいわれたので購うて、今、熱海の山荘の一室にかかげてある。)
柏屋から少しさきの左が樹敬寺(じゆきようじ)で、本居家のお墓があるので、春秋の彼岸にお参りした。
山室山へは父母に伴われていった。山の上の本居先生の奥つきのもとにぬかずき、山の中腹にある妙楽寺に立ちよると、参詣人の姓名や歌が多く書かれてある巻物があった。父は知合の人の名を指ざし、自らも安政何年かに初めて詣でた折の歌をよんできかせてくれた。
岩内(いおち)や横滝へもいった。静かなよい処であるが、岩内のお寺の大きな蜂の巣には驚いた。
城山から遥かに見える大口浦へ、父はよく沙魚(はぜ)つりにいったので、自分も伴をしていった。ある日の帰途、有名な朝田(あさだの)薬師のある村を通るとて、父は此の村から江戸に出た朝田某は、幕府の弓張師岸本讃岐の家をつぎ、岸本由豆流という学者となった。考証学者として著書が多い、などと教えてくれた。
日曜日ごとに、稽古にくる人と一緒に、歌ぐさりをした。歌ぐさりとは、父が寛居塾に在った頃、古歌を記憶する為にと、先生が塾生にまじってせられたとのこと。それは、たとえば、先生がまず、「いざこども早く日本(やまと)へ大伴のみつの松原待ちこひぬらむ」とおっしゃると、四句の「み」が上にある歌を考えて、次にすわっておる一人が、「水の面に照る月なみをかぞふればこよひぞ秋の最中なりける」という。次の人がすぐいえないとお辞儀をする。すると、次の一人が「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」という。次の人が「天の原吹きすさみたる秋風に走る雲あればたゆたふ雲あり」、次が「春霞かすみていにし雁がねは今ぞ鳴くなる秋霧の上に」、次が「伊勢武者は皆緋縅の鎧着て宇治の網代にかかりぬるかな」とようにいうのである。しかし中々すらすらとは続け得られぬ。その時は先生が教えてくださる。そして時として「水の面に……、それは誰の歌」ときかれる。「源順です」と答える。「天の原……それは誰の歌」「揖取魚彦(かとりなひこ)」と答える。「伊勢武者は……それは何の本に出ておる」と問われる。「平家物語に」と答える。こうして一同が古歌をおぼえたとのこと。百人一首のはなるべくいわぬ、同じ歌を同じ日に二度いわぬとの定めであったという。その歌ぐさりを自分らもしたのである。自分は幸にはやく古歌の暗誦を授けられていたので、しあわせであった。

作歌八十二年

佐佐木信綱著 1959年 毎日新聞社刊

目  次

 01 はしがき 父 明治5年(1歳)~同12年(8歳)
 【五歳の宮参り 京阪の旅・ 萱生由章先生・六歳の歌 高畠式部 鈴屋歌会 歌ぐさり 】
 02 明治13年(9歳)~明治14年(10歳)
 【詠史の歌 越前加賀の旅 船の苦しみ・数よみ】
 03 明治15年(11歳)
 【東京へ 箱根・東京 福羽・西・高崎先生 東京永住・小川町】
 04 明治16年(12歳)~明治20年(16歳)
 【鎌倉日記 漢詩・古典科入学 古典科の諸先生 イーストレーキ・樋口一葉 森有礼・哲学館】
 05 明治21年(17歳)~明治27年(23歳)
 【古典科卒業・落合直文君 尾崎紅葉君・日本歌学全書 父の永眠・福羽美静翁 竹柏園・歌の栞 凱旋の歌・長良川 中野逍遥・廿七八年戦役】
 06 明治28年(24歳)~明治31年(27歳)
 【勇敢なる水兵・遼東還付 いさゝ川・与謝野鉄幹・新詩会 続日本歌学全書・心の花 兵児帯の輪ぬけ】
 07 明治32年(28歳)~明治34年(30歳)
 【竹柏会大会・野遊会 大磯百首・みちのく百首 信越百首 亡父の十年祭歌会 続みちのく百首 「雀の歌」・「夏は来ぬ」】
 08 明治35年(31歳)
 【中川のほとり チエンバレン先生 富士登山 滄浪閣】
 09 明治36年(32歳)
 【竹柏会大会 甲州行・哲学館講師 上海・長江 漢口・洞庭湖 長沙・湘潭 長沙・新堤 三峡・南京 揚州・鎮江】
 10 明治37年(33歳)~明治38年(34歳)
 【蘇州・杭州 明治三十七八年役 軍歌の数々 美濃の旅・東大の講師 足尾・塩原】
 11 明治39年(35歳)~明治42年(38歳)
 【志摩行 水師営の会見・榛名行 常磐会・観潮楼歌会 彰考館の古書・歌学論叢 亡父記念碑 万葉集抄】
 12 明治43年(39歳)~大正2年(42歳)
 【水野家本元暦万葉 日本歌学史・万葉集古写本攷 梁塵秘抄・西片町に 東大行幸・万葉集古鈔本天覧 生涯の恩師】
 13 大正3年(43歳)~大正5年(45歳)
 【類聚古集の印行 心の花の万葉号 鹿持雅澄の師承 心の花叢書・タゴール翁】
 14 大正6年(46歳)~大正9年(49歳)
 【竹柏園百人一首 学士院恩賜賞を授けらる 明治天皇御集編纂委員 近衛家の万葉集目録 古河家本元暦万葉集 先考三十年記念会 正倉院御物撮影】
 15 大正10年(50歳)~大正12年(52歳)
 【明治天皇御集成る 心の花三百号 大震災と校本万葉集 校本万葉集の再興 震災前の横浜】
 16 大正13年(53歳)~大正14年(54歳)
 【琴歌譜の発見 校本万葉集の完成 十日物語十首 嶽麓吟】
 17 大正15年(55歳)~昭和2年(56歳)
 【契沖全集の出版 耕雲千首奥書 公孫樹下歌会・南京遺芳 北海行・父の歌の短冊 白老アイヌ村・登別温泉 狩勝峠 新訓万葉集・契沖全集】
 18 昭和3年(57歳)
 【九条武子夫人 アグノエル君・清水浪子さん 秩父三峰の歌 豊明殿御饗宴 】
 19 昭和4年(58歳)~昭和5年(59歳)
 【定家所伝本金槐集 越中国府の遺跡・和倉 机の島・万葉植物園設立期成会 湯の山・皇大神宮式年祭 長崎・雲仙 阿蘇・仙覚律師遺蹟碑 法隆寺聖霊会 万葉・古今・新古今三選釈】
 20 昭和6年(60歳)
 【扶桑珠宝印行完成 扶桑珠宝・続扶桑珠宝 東大講師二十六年・宮中進講 校本万葉集普及版 金色堂・十和田湖 三島神社田祭の歌】
 21 昭和7年(61歳)
 【大隈言道旧宅之碑 還暦祝賀会 木曽川を下る 恵那峡看鶴 石薬師文庫閲覧所・東山御文庫御曝涼】
 22 昭和8年(62歳)~昭和9年(63歳)
 【鴉と童子(連作) 劇「静」・幻住庵 西本願寺本万葉集印行成る 雪の長良川 学士院会員に任命 伊良子崎・小国神社 宮崎市に】
 23 昭和10年(64歳)~昭和11年(65歳)
 【チェンバレン先生追悼会・金沢に 上代文学史成る・広島文理大に 水戸における講話・双宜園 捕鯨工船日新丸・讃岐沙弥島 柿本神社・宍道湖舟中月下賦】
 24 昭和12年(66歳)
 【鳥羽行・橘守部表彰会 飛鳥寺赤人歌碑・文化勲章授与 岡山行・芸術院会員任命 新万葉集選歌 時事に関する作】
 25 昭和13年(67歳)
 【御講書始に 下関より別府に 臨時東京第一陸軍病院に 長崎・佐賀 南京飛行場歌碑】
 26 昭和14年(68歳)
 【英訳万葉集竟宴 独訳万葉集 室蘭・登別公園 層雲峡・定山渓】
 27 昭和15年(69歳)
 【紀元節祭御儀 月の瀬行 新宮・那智 大和国史館の万葉室 和気清麿公銅像副碑】
 28 昭和16年(70歳)~昭和17年(71歳)
 【軽井沢・志賀高原 万葉名勝及典籍展覧会 十二月九日の朝刊 源実朝歌碑除幕式 愛国百人一首】
 29 昭和18年(72歳)~昭和20年(74歳)
 【蒲原・三保・清水 死生の間 供林光平全集 熱海に移る 八月十五日 御前崎行】
 30 昭和21年(75歳)~昭和23年(77歳)
 【歌御会始詠進歌 理研詩歌会 清水港祭・登呂行 清水澄博士 新訂上代文学史刊行・喜寿記念会 雪子うせぬ】
 31 昭和24年(78歳)~昭和25年(79歳)
 【宮中賜餐の日 サンパウロに於ける歌碑 先人六十年記念会 千曲川河畔歌碑 鈴鹿行 石薬師・富田浜】
 32 昭和26年(80歳)~昭和27年(81歳)
 【西行上人歌碑 伊東めぐり 竹柏会大会 たけくらべ記念碑・評釈万葉集のために 原田嘉朝翁 上代文学会 竹柏会大会 皇太子成人式の御儀】
 33 昭和28年(82歳)~昭和29年(83歳)
 【琉歌の話 中祖定政四百年忌 実朝を偲ぶ名月歌会 グンデルト博士訳の東洋詩集 静岡・三保・森 島崎藤村君 評釈万葉集成る 尭山師の香筵】
 34 昭和30年(84歳)5月28日まで
 【茂睡歌碑副碑・聖武天皇御製記念碑 藤田美術館・円珠庵 京都及び阪神支部歌会 秀胤君の案内で大和路を・奈良女子大に 奈良ホテルの歓迎会】
 35 昭和30年(84歳)5月29日以降
 【薬師寺歌碑除幕式 金蔵院の座談会・佐保山の南陵 東大寺の本坊・春日神社 古代裂流し 瓢亭・湯河原万葉公園 義宮殿下に・和歌文学会】
 36 昭和31年(85歳)
 【聖武天皇千二百年忌 万葉集事典成る 和倉歌碑・竹島神社歌碑】
 37 昭和32年(86歳)
 【心の花七百号 片山広子・鎌倉三種 短冊凌寒帖・古筆凌寒帖 蘇峰先生・海南博士】
 38 昭和33年(87歳)~昭和34年(88歳)
 【野村望東尼全集 鳥取市讃家持歌碑 外語訳万葉集選シリーズ あとがき】

凡  例

  1:底本は「作歌八十二年」(佐佐木信綱著 1959年 毎日新聞社刊)です。
  2:底本の仮名遣い、踊り字はそのままとし、旧漢字は基本、現在通用の漢字に改めました。
  3:二文字以上の繰り返し記号(踊り字)はテキストにないため、文字に改めました。
  4:横棒は「一(漢数字)」との区別を明確にするために「――」あるいは「~」としました。
  5:ふりがなは必要と判断したもののみ、半角括弧( )で示しました。
  6:原文細字および割注は{ }で示しました。
  7:文章は引用を含めて全てUPしましたが、写真は全て割愛し、標題のみ< >で示しました。
  8:校正者による注は《注:》で示しました。
  9:目次に【 】で示したのは、底本各頁左上の柱にある文言です。
  10:底本の行末の読点はしばしば省略され、本コンテンツでは随所にその省略が表れます。

和歌集 総合INDEX

江戸期版本を読む INDEX

元禄笑話 111~126

111 田舎者色里へ行く
112 朝寝
113 手の相と足の
114 変った買物
115 当流の謡曲
116 田舎者三條の宿屋
117 観音のオンの字
118 悪推なる眼一
119 矢張り被ってござれ
120 利口過ぎたる小性
121 表札
122 薬喰ひ
123 賢うない人
124 無言
125 男自慢
126 眠い上の眠さ

111 ■田舎者色里へ行く

去る田舎の若者四五人連れで、京は島原へ素見(ひやか)しに行いた。其処へ、これも遊びの人か、京の衆二三人打連立って、「ヤレ井筒はどうの。ヤレ玉の井はかうの。ヤレ夕顔の。」と、色々に評判して行過ぎた。田舎者は小耳に挿(はさ)んで、偖は謡曲の名で評判せられるわい。と心得、『さらば己等もそれで褒めう。』と言合う所へ、此里で名代の大夫が、綺羅美やかに粧うて練行く姿を見て、
『ヨーヨー橋弁慶様。』
と囃立てた。すると遣手婆は早合点して、
『ここな人は、大夫を端御辺様とは……………。』
とブツブツ呟く。田舎者これを見て、
『ヨ一山姥様。』

  □端御辺とは、当時の端女郎を云うたもので、一目千軒に、『大夫天神は口の茶屋といふへは出ず。此女郎昼ばかりは端の茶屋にてあきなふ故、端女郎といふ。」とあって、兎に角大夫とは、遥に下に位する売女(ばいぢよ)である。偖こそ遣手婆は聞違へて腹立てたのであらう。

112 ■朝寝

去る一向宗の親父、毎朝程遠からぬ寺へ朝参りすることに決めて居た。或朝のこと、太(いた)く寝過し、周章(あわて)紛れに肩衣を取違へ、若女房衆の赤前垂を、手早く引掛けて出かけた。途で同行衆に咎められ、
『ここなば、いかう赤うござる。』
『されば其こと、急ぎまする。』

113 ■手の相と足の相

去る田舎者、京へ上り手相観の招牌(かんばん)に、手の象(かた)の書かれたのを見て、「此内は手を売るさうな。」と、内に入つて、
『此方では手をば売らしやるか。』
と尋ねると、目の凹んだ茶筌頭の老人出で、
『イヤイヤ、これは手の筋を観て、一代の運気吉凶を判じまする。所望ならば代物十二文で観て進ぜう。』
と言ふに、
『それでは一つ観て下され。』
と熊のやうな大手を出して観て貰ひ、代物置いて出で去り、偖下の町に来懸ると、また兎ある家の軒下に、足袋の招牌が掛ってあるを見付け、「是はまた足の筋を観る所さうな………………手の筋を観て足の筋を観ぬも如何。」と思ひ、ツカツカと店前(さき)に立懸り、
『ナモーシ、此足一つ観て下され。』
と甲高の大足を指出した。足袋屋の丁稚、足袋を誂へることかと、尺を把って文を度り、
『十一文。』
『手の筋は十二文ぢやった。が、足の筋は一文廉い。』
と、独語(ひとりご)ちつつ鳥目を突いた。

114 ■変った買物

去る方に、いろは仮名糞文字を知り、何でも聞いては無上(むしやう)に捻りたがる男が居た。此男、むの字は撥(はね)文字のんの字と同じ事ぢや。と聞き削(はつ)り、先月の八日、因幡薬師の縁日に参り、本店を見回って、
『謡曲の本が有るか。』
『ヘイ、何がお入用デ。』
『たんらは無いか。』
『イヤ、それはござりませぬ………………』と言ひつつ、十冊ばかり取出し、『………………こんなのは要りませぬか。』
かの男、二三冊打返し見たるに、田村の本が見えたので、
『コレ、ここにたんらも在るに、何故無いと言やった。ハテ、この人は二番さうな。』

□二番とは、上方に今も残れる言葉で、倥侗(うつけ)者の謂であるJ

115 ■当流の謡曲

何某とて、自分勝手に当流の謡曲を自慢する人あり。或日のこと、其処へ去る人遊びに見えた。が、例の亭主が当流謡曲の自慢話しを聞いて、小面憎しと思ひ、
『其方は当流をいかう自慢なされるけれども、我等程はなるまい。』
亭主聞きかねて、
『偖も口広い言はれやうヤ。其方は遂ぞ晴の場へも、双林寺へも出られたことを聞かぬ。我等は竹村甚左衛門が弟子で隠れおじやらぬ。ママ大きなことは吐(ぬか)さいで、兎も角も謡うて見やしやれ。』
『ヲヲ、負けることでは無い。』
と、乃て客の男、居直って扇子を構へ、
  右の肱(かなひ)を打落せば、左の御手にて六弥太を取って投退(の)け、今は叶はじと思召して、ヤヲハ
と謡ひすませば、亭主嘲(せせら)笑って、
『イヤイヤ、それは当流では無い、違うた。』
客は腹に据ゑかねて、
『何の違うたことがあらう。さらばお手前のを聞かう。』
亭主心得た。と、声高らかに、
  右の肱を打落せば、左の御手にて六弥太を取って投退け、今は医者坊(イシヤボン)と思召して、ヤヲハ

116 ■田舎者三條の宿屋

田舎の衆、十人ばかり、京見物にと上って、まづ三條の宿屋に著いた。女中は案内して、二階座敷へ上げた。何がさて遠国者の、二階座敷を見たこともなければ、皆口々に、
『これは気疎いことぢや。さてさて天に近い所に置くわ。』
と、詈(ののし)り呆れて居ると、其中の一人、
『京は石の上の住居ぢやと聞いたは悪口、大方は屋根の上の住居ぢや。』
と、賢らしく言ひぞよめく折、下座敷より、
『皆様どうぞお湯にお這入り。』
と声掛けられて、一同目を見合せ、
『上りは上ったけれども。が、何として下りようやら。』
と、犇(ひしめ)くを、一人の男、
『コレコレ、案じることはない。己に尾いて下りてござれ。』
と、先づ階子(はしご)段を四つ這ひに這下(くだ)れば、一同その通りにして、やうやっと下り果(おほ)せた。下に居た女中達は、余りの可笑しさにクックッ笑ふと、先達(せんだち)した男ムッとして、
『デモ先きに、猫がかうして下りたわい。』

117 ■観音のオンの字

去る人、
『観音のオンの字はどうやら書くナ。』
傍に居たる人、
『されば、真に書けば六百〔音〕と書く。草に書けば七百〔音〕と書く。』

118 ■悪椎(わるずゐ)なる眼一

去る夜、日頃心置けぬ人ばかり四五人打寄り、酒飲んで遊んだ。其中に一人左眼一(がんち)の男、如何にも苦になるにか、何時も逆上眼(のぼせめ)では煩ふ風に粧ひ、左手で抑へづめで居る。今宵も例の如く左の手で左眼を隠して居る気色、何となく心憎い処から、一人の男、意地悪く左の方から、
『これ献(さ)します!』
と、イキナリ盃を突付けた。その敏捷(けはし)さに、思はず左手で受取った。が、何時も隠す癖とて、盃受けざま右手で右の眼をヒタと塞ぎ、
『ハテ、悪洒落ナ、ここの火をば誰が消したぞ。』

119 ■矢張り被ってござれ

去る人河原の芝居を見物に行いた。処が、其直ぐ前に一人の男、編笠を被ったまま見て居るが、邪魔でならぬものから、
『コレコレ、ここなは編笠を取っておくれやれ。』
と、サイサイ促した。が、更に脱がうともせぬ。かの人大きに腹を立て、
『オノレはいかい邪魔な奴ぢや、口で言うても取らいで。』
と、今は堪へかねて、かの編笠を引手操(ひつたく)れば、是はまた、目も当てられぬ瘡掻(かさかき)であった。かの人鼻を歪めて、
『矢張り被ってござれ。』
と、手づから被せて遣はした。

120 ■利口過ぎたる小性

去る大寺に、見るから惚々する程の、二八ばかりの小性が居た。或日のこと、此寺の檀那御参詣の砌、方丈へ入られ、和尚と物語りせられる折、件の小性、天目を捧げてお茶を侑(すす)めた。
檀那顧みて、
『偖々其方は美しい生付きぢや。女にしたなら、嘸(さぞ)々………………。』
と、暫し見惚れて居られた。すると小性は、
『和尚様にも毎度左様のお望みでござりまする。』
和尚顔を顰め、
『シッ』

121 ■表札

去る医者、表札に「生田上成」と筆鮮かに記して、門の柱に打付け置いた。然るに其処を通合せたる頓狂者、これを見るや、其儘内へ飛込み、
『偖々珍らしいお事や。私遂ぞ見申したことはござらぬ。一目お見せ下されい。』
内の人驚き、
『それは亦何事でござる。』 
『デモ、表に「いきたかみなり」とござりまする。が、………………。』

122 ■薬喰ひ

去る寺に、生臭坊主四五人集まり、「一番薬喰ひに泥鰌を買はう」。と、相談極ったから、徳利持たせて小僧を使に出した。小僧買って戻り道、日頃遊び友達なる門前の小供見て、心易達(やすだ)てに、
『オイ小僧サン、何を買ひに行かれた。』
小僧振返って、徳利を揮(ふ)りながら、
『この徳利は酢か、醤油か。指いたら一疋遣らう。』

123 ■賢うない人

去る所に、至って倹約な人があった。此人生付き余り賢うない方である。が、何でも角(か)でも勘定事には細い方であった。或時道で紙包みの銭百文を拾った。が、其紙には、「一匁八分」と書付けてあった。此人呟いて、
『今時は銭百文が一匁四分五厘ぢやに、一匁八分で拾うては、結局己が三分五厘の損ぢや。』
とて、復其処へ投棄てて去った。

  □昔は金銀の値ひ時に依って相場が変るので、一匁八分とか一匁四分五厘とかいふのは、銀匁を言ったものである。

124 ■無言

去る仲の好い朋友三人寄合ひ、二十三夜待をした。「偖夜中までのこと故、それまで無言して月様を拝まう。」と、約束を固めた暫らくすると、一人が欠(あく)びしながら、
『とてものこと、夜中まで物言はずに居られるものではない。』
と呟くと、又一人が咎めて、
『無言にものを言ふ奴があるか。』
と遣ったので二人まで破れた。それで最後に残った人、己れの鼻を指さして、
『まだ言はぬは己ばかりぢや。』

125 ■男自慢

裏長屋住ひの風習、後家や嬶(かか)衆が井戸端へ寄ると、亭主の讒訴や余所の悪態やで、姦しいものである。ここに一人の古女房、口尖らかして、
『偖々此方の親父は皆々の聞かしやるやうに、一杯過ぎると、酒が酒を飲むぢややら、弥(いや)が上に飲まう飲まうと言うて、些(ち)と遅なはると、擲(たた)くやら喚くやら、イヤハヤ酷いことでござる。』
と、己が夫の讒訴を、皆々聞いて、
『イヤイヤ、女は一つぢや。重ねて仇気(あたけ)をったなら、皆寄って蒐(たか)って擲き返さう程に、屹度知らしておくれやれ。』
『ホンニ頼みまする。』
と、互に約束しておいた。それとも知らず例の親父、案の如く好い機嫌になって戻り、
『ヤイ酒出せ。ヨヨ』
と、ソロソロ管を捲き始め、揚句は例の仇気散らし、女房を捉へて擲き捲るに、女房はここぞと振切って表へ駆出し、大声揚げて触回った。二十軒ばかりの相借家の嬶や後家ども、手に手に火吹竹擂子木(すりこぎ)など振上げて、
『オノレは何時も芸の悪い!』
と、寄って蒐って打ち捲った、女とは云ヘ多勢に叶はず、這々隣へ遁込み、破屏風の陰に屈(かが)み居た。其処の亭主この態(ざま)を見て、
『浅ましや浅ましや、女どもに擲かれて逃げるとは、偖も笑止や。己などは内の奴と十五年も添ふが、遂ぞ拳一つ当てられたこともないわ。ハハハ』

126 ■眠い上の眠さ

去る丁稚、檀那が夜話しの供して或家へ行いた。供待に何の所在もなくボンヤリ待って居た。が、夜は次第に更ける。眠さは眠し、
『アーアー、何の用もないに、早う立たれいで。』
と、欠伸交りに呟く。此家の下女も同じく「煩いお客ぢや。早うお立ちやれば善いに。アー了(しま)ひたい眠たい。」と思ひ居たる折とて、彼の丁稚の呟き声を聞付け、偖語らふやう、
『ナーお前様も眠たからう。したが長話しする人のある時は、雪駄の裏に灸据ゑると早う立つものぢや程に、ササ艾(もぐさ)遣らう。』
と言ふに丁稚は喜んで、充分大きく据ゑた。奥に居られた檀那、
『ハテ、まだ宵やら、灸の匂ひがするわ。』
とて、中々立たうともせられなかった。

元禄笑話

元禄笑話 101~110

101 戒名
102 棚吊り
103 謎々
104 無筆なる親父
105 一息に備前
106 了簡違ひ
107 楊貴妃露はる
108 鉢坊主の頓作
109 八百屋の島原通ひ
110 親父の小謡


101 ■戒名

去る寺へ死人を送り行き、葬り終って帰るに臨み、納所は戒名を渡すとて、予て長老の書き置かれたのを取違へ、八百屋の書出「三分五厘」とあったのを与へた。施主頂き帰って見た。所が「三分五厘」とある。『マサカ三分五厘といふ名はない筈ぢや。』とて、仏壇へ倒(さかさま)に張りおいた。回向に参る人々透し見ては、
『南無厘五分三……………。』

102 ■棚吊り

去る人宿替へして、知る人を頼み、棚を吊って貰った。頼まれたる人心得たり。と、さも手敏捷(ばしか)く吊って帰った。亭主見て、『嬉しや、早う方著(かたづ)けう。』と、件の棚へそれぞれの物を上げるや否や、ガラガラと棚とも残確らず落ち毀れた。翌の日棚吊った人の見えたので.亭主不興顔に、
『昨日は棚を何と吊って給もったやら、皆棚ごと落ちたわャ。』
『それでは何ぞ上げやったナ。』

103 ■謎々

去る所に、十二三位の小忰があった。謎の流行る頃とて、目が覚めるから寝るまで、謎に浮身を窶してける程に、親父腹を立てて、
『此いきばる〔気張〕奴(め)が!』
と叱った。すると小忰、暫し小首を捻って居た。が、忽ちハタと小膝を叩き、
『父!それ解いた。客衆の上席歟。』
母親横より見かねて、
『親父様の叱りやるに、謎をしをる。此穀潰奴が!』
小忰受けて、
『オッと解いたぞ。続飯箆(そつくひべら)。』

104 ■無筆なる親父

去る所に無筆なる親父あり。余所から文が来ても忰の留守には返辞もならぬ始末である。果して文が来た。生憎忰は内に居らぬ。さりとて返辞を急ぐ仕合(しあはせ)、親父いよいよ途方に暮れて居る。所へ、ヒヨッコリ息子殿が戻って見えた。
親父劫を煮やし、
『此後もあること、これから余所へ行くならば、返辞二つ三つも書置いてから行け。』

105 ■一息に備前

六月暑気の頃、去る人、大坂の河口で夥しく酒に酔ひ、暑さのまま河端へ出た。すると其処に渡しを架けたる船の繋がれてあるを見つけ、『丁度好い、乗って涼まう。』と、危き足を踏み締めて、件の船に乗込みけるが、其儘眠気ついて、倒れるや否や、高鼾にグッスリ寝入った。船頭戻り来て、此体を見るや、『オイオイ、此船出すが、其方は備前へか。』と問へば、かの酔ひ伏したる人夢中に、『ヲヲ』と頷いた。シテ此船は備前船と見えた。船頭衆、さらばとて、纜を解き追風に帆を揚げて、一時の間に備前の去る波止へ著けた。偖かの人を起して、『サーお上り。』と促せば、彼は寝惚(ねぼけ)眼を擦り擦り、
『此処は何処ぢや。』
『備前ぢや。』
『備前……………何とて己を爰へ連れて来た。』
『これは如何なこと、船を出す時、其方は備前へかと問うたら、ヲヲと言はしやったによって、載せて来た。』
彼の人合点行かず、兎も角も陸へ上り、大坂へ便あるといふに、文を遣はした。
  其許の我等が我等にて御座候哉、爰許の我等が我等にて御座候哉、一円合点参らず侯。

106 ■了簡違ひ

去る所に誠に性の悪い男があった。が、近頃散々博奕に打負け、挙句に身体を弱らして煩ひ居た。或日のこと、知人の訪れ来て、
『主が気分はどうぢや。上の町の玄徳様はお巧者な医者様ぢや程に、些と見て貰や。』と勧めるままに、『さらば行て頼みませう。』と、早速玄徳所へ行いて、脈を見て貰った。
玄徳打案ずること良暫らく、
『偖も取上げてござるわい。』
『弓矢八幡!全く取上げるどころではござらぬ。』
『ムム、デハ疝気かナ。』
『イヤ、まだする先でござる。』

107 ■楊貴妃露はる

去る所にお夏と呼ぷ中居女があった。が、「楊貴妃程の美人には何となく柚(ゆ)の香ひがするさうな。」と聞き削(はつ)り、それより二六時中袂に柚の実を入れて居った。すると店の若い衆、
『お夏殿、爾(わ)が身は何時も袖の香ひがする。が、如何様美人さうな。』
と心ありげに袖で引いた。お夏ニッコリして、
『爾(じ)や何言はんす……………。』
と、袖を振った拍子に、袂の中から柚の実がコロリ落ちた。
お夏はサッと顔を赤め、
『偖も悲しや楊貴妃が露はれた。』

108 ■鉢坊主の頓作

去る鉢坊主、朝修業とて出懸け、米屋の表へ立懸った。すると女房は内より、『通らしやれ通らしやれ。』と、慳貪に言放ったのを、亭主咎めて、『ヤイヤイ其様に慳貪にいはぬものぢや。総じて朝は大師様がござると申すに。』と、散々に叱られて女房は、『あら勿体なや。』と、店の米一掴み握って、
『コレコレ入れませう入れませう。』
と跡より追駆けた。鉢坊主は頭でも擲(たた)かれることかと思ひ、逸(いち)足出して逃げ失せた。女房は何でも大師様に進ぜう。と、息を切って追捲った。坊主は逃度を失うて、兎ある辻雪隠に逃込み、中から戸を引いて息を殺して居る。女房は戸口に立って、
『入れませう入れませう。』
件の坊主中より、
『弘法大師は高野へ入られた。女人結界、其処退(の)け其処退け。」

109 ■八百屋の島原通ひ

去る八百屋、島原へ切々(せつせ)と通うた。対妓(あひかた)の女郎、「あの仁は八百屋ぢやと申すが、一遍嬲ってやらう。」と、
『モーシ、お前様は妾が所へ、サイサイ通うておくれやるが、お内はどの辺でござんすエ。』
『己が内か。己が内は二條の室町ぢや。』
『シテお商売は……………。』
『木薬の問屋ぢや。』
『それは幸ひのこと、人参は如何程致しまするエ。』
『さればサ、葫蘿蔔(ニンジン)は束に依る。』

110 ■親父の小謡

去る人、親子連れで東山へ遊山に行いた。親父剛(したか)か酒に酔ひ、小謡節に浮かれつつ帰った。が、我が家の前まで来ながら這入らうともせず、猶向ふへ進む容子である。
息子驚き、
『コレコレ、此方の家は此処ぢやに。』
と袖を控へると、親父抜らぬ顔にて、
『今這入れば小謡があるまい。』

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元禄笑話 91~100

 91 馬に乗れぬ医者
 92 子の自慢過ぎたり
 93 昨夜の蚤
 94 喜蔵魚を洗ふ
 95 元日の粗怱
 96 倥侗者加茂の競馬に餅を売る
 97 願はぬ事
 98 伽羅の油
 99 山伏露はる
100 河流れは拾ひ勝


91 ■馬に乗れぬ医者

江戸では、武家方から医者を迎へられるには、多く馬を遣はされた。去る武家方に急病人出来て、医者を迎にとて例の馬を遣はされた。所が此医者、馬は不得手である。さりとて詮方なく乗った。偖急病人のこと、口取は馬を煽って早める。上なる医者肝を冷し、何でも落ちまいと、乗鞍に噛付いたまま牽かれ行いた。途(みち)で知己の人来り、
『道才様何れへ?』
『ハイ、此分では何処へ参らうやら……………。』

92 ■子の自慢過ぎたり

去る親父、人に向ひ、
『世間に子は多く持てといふが、己が子程器用なものは、亦とあるまい。』
聞いた人、小面憎しと思うたが、
『さればそのこと、御子息は御器用にござるとは、予ても承はりました。が、碁は誰位にお打ちなされまするぞ。』
親父小鼻ひこつかせて、
『本因坊に先手。』
『槳棋は?』
『宗桂に片香車外しまする。』
『小鼓は?』
『清五郎に片皮外しまする……………。』

93 ■昨夜の蚤

去る所に、二十四五歳にもなる息子、まだ女房も持たず部屋往(ずま)ひの伸気に暮し居た。或夜のこと、怪しげなる女を呼入れ、密密(ひそひそ)何やら語合うては、嬉々と楽しみ居た。夜更くるままに、此私語(ささやき)他の部屋へや漏れけん、母御不審に思ひ、手燭を点けて息子が部屋の外まで来懸り、
『不思議なこと、其方は宵から何やら独語言うて、一向お寝やらぬ容子、気分でも悪いか、心元ない。』
息子肝を潰し、目配せして女を屏風の陰に潜ませ、
『イヤ気分にどうかうはござらぬ。が、今夜は何と致したやら蚤がせせってなりませぬ。』
 それなら気遣ひもないが、憎い蚤ナー。』
と言捨てて、母は部屋へも入らず、我が居間へ帰られた。偖息子も密事の目にかかっては悪しかりなん。と、かの女をば夜の明けぬ中に返した。乃て夜も明けたので、草々起出で膳に向った時、父親は息子を顧み、
『兄イ、可愛いさうに……………昨夜の蚤にも朝飯を喰はしやれ。』

94 ■喜蔵魚を洗ふ

去る檀那、下部(しもべ)の喜蔵を呼付け、
『活船(いけふね)の中で一番大きい鯉を一本上げて、序に川で砕(こな)げて来い。』
喜蔵畏まって、乃て裏の川に行き、活船の中から大きさうな鯉一尾捉へ、流れに浸けると、鯉は一撥ね撥ねて、其儘喜蔵の手から離れた。喜蔵渋面掻いて家に戻り、
『モーシ檀那、私がかう掴まへて水へ浸けますると、鯉の奴は唯一搔(は)ねに逃げました。』
檀那苦りきって、
『ここな倥侗(うつけ)者奴が、毎度相怱を致しをって……………併し今度は免してやる。重ねて左様な物洗ひをらば、鰓へ縄を付け川の杭へなりとも石へなりとも括付けて洗へば、仮令(よし)手を離れても逃げる事ではない。此後もあること、些と心得!』
と散々叱付けた。喜蔵も檀那の折檻身に締めて居た。次の日のこと、乾鮭を洗うて来よ。と言付けられ、乃て川へ持行き、まづ鰓に縄を徹し、川端の石に聢(しか)と括付け、其乾鮭を瀬に沈めて、両足でギユッと踏締め、
『サー遁げられるなら遁げて見よ。今度は遁がす事ではない。』

95 ■元日の粗怱

去る人、節季の了ひを持余し、大晦日の夜の八ツ時分、漸々借銭乞も、詫言タラタラで追返し、其身も散々草臥れ、丸寝にグッスリ寝入った。夢結ぶ程も無く、明くれば一陽来復、まづ初春の元日である。初日の出ると共に、礼者は表に来かかり、戸をホトホトと叩き、
『物申!』
かの者フと目を覚し、「まだ借銭乞か。」と呟きながら、
『行回って戻りにござれ。』

  □八つ時は、今の午前午後の二時である。すればこの人の寝たのは夜中過ぎて、午前の二時頃と見える。

96 ■倥侗者加茂の競馬に餅を売る

五月五日は上加茂に恒例の競馬行はれ、洛中近在の男女群聚して、いと賑やかである。去る空けたる男、是を目的に、「何がな一羸(まう)けせん。」と、餅を拵へて売りに行いた。或人、
『此様な人込みには、掏摸が有って売物を盗み、又当世の六方は物を喰うても銭を出さずに、横柄な顔して遁げて行く程に、随分用心おしやれ。』
と言ふに、心得たり。と、樹陰の程好い処へ荷を卸して、餅をば並べ居た。かかる所へ、如何なる機勢(はづみ)にか馬反れて、「あれよあれよ。」と、貴賤老若押合ひ圧(へし)合ふ容子。徒(ただ)事でない。と看て取った件の男、大肌脱いで、
『抜(ぬか)る事ではない。人に喰はれうより、己が皆してやる。』
と、其餅片端から残らず喰った。

  □六方とは万治寛文の頃江戸に侠客の団体が六つ在った所から出た名である。いはゆる鶺鴒組、吉屋組、鉄棒(かなぼう)組、唐犬組、笊籠(ざる)組、大小神祇組、これを六方組と称(とな)へた。それより一般に、侠客のことを六方と云ひならはした。

97 ■願はぬ事

去る大名の若殿、お国へ初知入あらせられるとて、領下の百姓町人ども、お迎へに御領境まで出た。供回の武士、『大儀大儀。』と言ひながら、一人の百姓に向ひ、
『偖爰許は此方が西に当るか。』
と尋ねられると、百姓は下座に片手を支(つか)へ、四方を指さしつつ、
『ハイ、大殿様の御代には、此方が東、此方が西で、此方が南、此方が北でござりました。どうぞお慈悲に先殿様の通り、此方を南になされて下されまするなら、有り難い仕合(しあはせ)に存じ奉りまする。』

98 ■伽羅の油

去る遠国者、京の室町を通った時、兎有る家の表座敷で、近所の町人衆三四人打寄って酒盛して居た。肴はと見れば、焼蛤である。遠国者は目なれぬものから、連の男に向ひ、
『アレ弥太兵衛見や。都の衆は、伽羅の油を肴に、酒を飲みやるぞエ。』

□伽羅の油は、鬢付油のことである。さて昔は鬢付油をば、皆蛤の殻に入れたものだ。

99 ■山伏露はる

去る所に、禿(とく)法印と呼ぶ厄雑(やくざ)な山伏が居た。が、初めて大峯入りした所から、俄に鼻高々となり、心傲りした果ては、島原の遊里へ足を入れるやうになり、三芳といふ女郎と馴染を重ねるほどになった。けれども法印は、何時までも我が身分を明かさぬので、三芳も安からぬことに思ひ、如何にもして露はしくれん。と、去る時、法印にしなだれかかり、
『其様(そさま)と妾(わたし)事は、二世とも馴染みまするも、勤めの身、殊には廓住ひのこと、お住居とても知らず、其上其様のお頭合点参らぬ。』
といふを、法印抜(ぬか)らぬ顔して、
『己は金持の子で、親のお陰と、京中に千軒の家を建て、今から楽人ぢや。』
三芳は心中大に悦び居たる折節、去る人の来て、『偖々爰へ来る大尽は山伏で、此方へも何時か拝みにござった。』と話したのを、三芳は聞いて、『オノレヤレ山伏奴が、いかい嘘説(うそ)を吐きをつた。是に沙汰を限るほどに。と』劫を煮やし居る所へ、法印それとも知らず、例の如くフラリ遣って来た。三芳はそれと見るより、
『今まで能うも嘘説をお吐きやった。其様は山伏さうな。』
『それは亦、何をお言やる。此方は左様の者ではない。シテ、それは何者が言うたぞ。』
『何某の檀那が。』
『オノレ憎い奴ノ。今に見をれ、祈り殺してやらうほどに。』

  □山伏の頭は、皆総髪であった。また隠居した人も大概は総髪にしたものである。偖こそこの山伏が、「己は今から楽人ぢや。」と吐(ぬか)しをったか。太い奴ノ。

100 ■河流れは拾ひ勝

或時のこと、暴(にはか)に空の気色変り、見る見る盆を覆すが如き大雨となり、恐ろしき雷の轟き、肝魂も身に添はぬばかり。大河筋は滔々と赤水が漲る有様、物凄い風情である。かかる所へ河上より大長持一つ流れて来た。去る男、拾い上げて宿へ持帰り、
『あら嬉しや、仕合(しあはせ)好いことぢやぞ。夜著蒲団は申すに及ばず、金も大分あらう。』
と、ニコニコしながら、錠前開き見れば、こは如何に、
『雷は止んだか。』
と言ひつつ、中より八十ばかりの老人が出た。

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