江戸期版本を読む

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    昭和十八年 七十二歳

一月 熱海来宮荘にて、
   海の風西山に吹き竹群の秀(ほ)は一やうに朝光(あさかげ)はじく
   西山のなぞへ並松あさの日てり貯水池の水ひかりを湛(たた)ふ
   山すそは湯の気(け)あたたかし紫川あさ澄む水(み)の音(と)聞きつつ歩む
   日は昇れり近つ渚のさゆれ波遠つ沖辺の蒼波を染め
清水市に赴き、渡辺聡子ぬしの案内で日本平に登った。
   下(しも)つ半(なから)おほへる雲の上に立たし天つ峯なり神富士が嶺は
   天つ雲客に遊べりわさび沢清き瀬の音(と)に聞きしみをれば
日本文献学会の理事長に推された。
東大に於ける日本文学報国会国文学部門総会に「国文学と和歌」を述べた。{心の花三月号に掲ぐ。}
二月 東京府思想対策研究会に講じた。
三月 蒲原及び三保なる軽金属会社にものした。
   日の一日を二日に工員ら勤しめば機の動かざる時なし寸時も
   リゴレット型に鋳そそぐ白熱火はつはつ散りて銀の花さく
   濛々と白きアルミナの煙まひおぼろなり工員のたくましき顔も
   はしきかもまろがりおつる清き雪掌(て)にすくひみれは暖かき雪
   今の世の美しきものアルミナの回転機の雪と清女は書かむ
清水船渠会社にて、
   清見潟ひるじほ寄するしほの香に新(にひ)船つくる木の香まじれり
四月 さきに宮崎県で作った「日向(ひうが)の御(み)船出(ふなで)」を心の花四月号に掲げ、後記を添えた。(後に題名を美々津(みみつ)の御船出と改めた。)
小田柿捨次郎君の委嘱により編纂した「盲人歌集」を刊行した。
軍事保護院の嘱により、遺家族及び出征家族慰問の歌「星影花蔭」を作った。杵屋佐吉師作曲、藤蔭静枝氏振付で東宝に演ぜられた。
この月、肺炎にかかり、死生の間を彷徨すること数日、仰臥数十日、読むなかれ、聞くなかれ、考えるなかれとの医禁を守りつつも、おのずからあふれ出た作百余首、その中より十数首を抄録する。
   日に幾たび注射また注射道の為に生かまほしき望あり堪へざるべからず
   あはまほしき人の幾たりなさまほしき事の幾つに命はかかる
   疾(や)みては月日あらぬなりゆくりなく日を問へばあらぬ日を答ふなり
   生(せい)か死か最(もと)も厳(いか)しき現実の真(まつ)ただ中によこたはりをり
   死や生や常おもはぬにあらなくに今直面し狼狽す何ぞ
   苦しき夢さめて苦しき夢に入るひねもすを庭木に風ある日なり
   二人三人うらなきどちと青葉道日ささぬかげをゆくと夢見し
   久にふりし雨はれぎはの窓明り遠き鳩舎の鳩が音きこゆ
   指のかげ壁にうつして童さびひとり笑(ゑみ)すも浅夜の床に
   わくらばに熟睡(うまい)ゆ覚めし枕頭にあな浄らめづら石南花(さくなげ)の花の
久我太郎君日々に、三角いく代ぬし日まぜに牛乳を持ち来らると聞きて、
   日々日々に音なひ来(く)とふ教へ子の情誼(なさけ)思ふにも生きざるべからず
思いせまりし時、
   五十年(いそとせ)をただに斯(こ)の道にいそしみ来つ五月(さつき)の風に静かに眠らむ
   我を待たす父にきこえむことぞ多き大御代のこと万葉(まんえふ)のこと
助けられ起きて、
   枝はれる老木高槻(つき)緑すがし五月の朝の何ぞありがたき
   心はずむ再び生きて文机によらむ日ちかし朝の光きよし
   久に見る芝生の庭も珍らしく青葉が隅にがくの花さける
   接骨木(にはとこ)のさゆらぐ青葉色ちりて風の前に舞ふ真白なる蝶
起き得るようになって、人々のねもころに訪い来られたことを聞いた。川田順君は京都より上京、二週間を日々午後より夜九時の熱の時までおられ、大阪より大久保文子ぬし、伊勢より熊沢照子ぬし上京、某君は特に祈願を、また薬師仏になど、くさぐさ聞いて、
   聞きつつも涙しこぼる真心のまもりぞ我を蘇らせし
山川一郎博士、西川義方博士の幾たびという御来診、さては、附添看護婦の熱誠により、蘇生したことを深く感謝しておる。
六月 放送局の嘱により、病中ながら軍歌「アッツ島二千の忠烈」を作った。堀内敬三氏作曲。
九月 快癒記念に「病林偶吟」「歌のみなもとと歌のこころ」「竹柏園文存」「行旅百首」を刊行、人々におくった。
十月 船橋市片葉の芦歌碑に歌を寄せた。
十一月 心の花に「産業戦士の和歌」を掲げた。

     昭和十九年 七十三歳

一月 明治四十二年に志した伴林光平全集が湯川弘文社によって刊行された。心の花一月号の「新年言志」に詳記した。
出陣学徒におくる歌、
   大いなる歴史の中の一人としいゆく若人よ今ぞ此秋ぞ
   続きいゆけ今の瞬間(たまゆら)も海に陸(くが)に大き勝どきはあがりてあるを
   大君の遠(とほ)の御楯と雄々しかも学徒はい征く生死(しやうじ)をこえて
久我太郎君の出陣壮行会を催した。入営二日前、「出陣歌抄」を知友におくられた。
二月 村田邦夫君が応召の前日に来訪された。
   国つ学国つ意(こころ)を胸にたもちい征(ゆ)くにいかでむかふ敵(あた)あらむ
   海ゆかば水づく屍(かばね)と講ぜし君身をもてい征くみ召のままに
戦禍が次第にきびしくなるに、建築家にきくと、わが家の書庫は鉄筋コンクリートでなく、ブロックゆえ、これこれの距離へ爆弾がおちれば云々とのこと。偶々(たまたま)蘇峰翁にお逢いしたに、大事な書物は文化事業協会にうつしたといわれる。協会にいったに、いかにも堅牢な地下室で、万安全のところ。協会では、翁のは譲りうけたゆえ、同じならばとのことに、万一を憂うるあまり、万葉学上の貴い書の一部を委ねることとした。
印東昌綱君が永眠せられた。心の花五月号に追悼録を掲げた。
   小川町雪一面にふりしとふ君が六歳(むつ)の歌、人かたりつぎし
   幼くて書(もじ)もたくみに画の道も仕舞のわざもすぐれたりしか
   父母君とくうせましし広き家に兄弟(はらから)二人さびしく住みしか
   父母は笑(ゑ)みつつ見まさむ「かへりみて」「家」と「細雨」と三巻(みつ)の歌書(うたふみ)
   歌に書(もじ)に園の楓のかげふみし教へ子の胸に生きてをあらむ
   我ままなる兄を助けて生(よ)の限つくししなさけいつか忘れむ
日本文献学会より水戸家本日本書紀神代巻を刊行した。
   戦の今のこの時に新たしき命かがやき古き書出づ
   我朝是神国也と言挙せし学僧剣阿微笑みてあらむ
五月 皇室に関して特に御縁故浅からざる典籍を、万一に当って護持に欠くることあらんことを懼れ、松平宮相を経て御府に献納した。後深草天皇宸翰(一幅)は、八条院領御伝領に関する史料として貴き御消息。後奈良天皇天聴集(一冊)は、天文四年一歳に亙る宸記で、巻末に御花押がある。霊元天皇宸翰(一冊)は、延宝三年、後水尾法皇八十御賀の記の御草案で、御孝心深くあらせられたこと、かつは、時勢に就いての御感慨のほども伺われる。皇室御撰之研究によるに、御記八冊の第一であって、たまたま民間に佚したものである。明治輝光(一軸)は、明治天皇の御生誕あらせられた際の文書、及勤皇の歌人佐久良東雄の上った懐紙を輯めたもの。中山大典侍績子消息(一軸)は、明治天皇の御幼時に就きて記したもの。耕雲千首(四冊)は、その奥書が、長慶天皇の登極を証した貴重な資料である。
数日後、宮相より御召があり、参内したに、御嘉納あらせ給うたと承るだに畏きに、御紋附銀花瓶を賜わった。
   しろがねのうづの花がめ、遠つ祖も畏みてあらむ家の光と
学士院会員及び本年度の受賞者を宮中に召され、拝謁を賜わった。
   まゐのぼる大内山の緑わかく五月(さつき)の空のひかりすがしも
   大前の御苑の躑躅くれなゐにま清水は高く真白に清らに
   謁を賜ふ、大き戦の時にあれどまなびの道を重みしますと
   御稜威のもと、翰林(まなびのはやし)としのはに瑞枝さしそふ弥(いや)としのはに
六月 「万葉五十年」を刊行した。
九月 日本放送協会亜洲部のために放送した。
十一月 京都市伏見区深草の宝塔寺の朝永家墓所に、京大工学部長朝永正三博士追慕の歌碑が建てられるので詠んだ歌、
   わが道に一世ささげつよき人をよく養ひつ大御国の為
同じ月の作、
   地軸ゆるぎ世界きしろふこの秋ぞすぐれ人いでよやまとみ国に
   今の今の命しりがたき厳(いか)し世も息ある間はと筆とりつづくる
   壕に入る準備(まうけ)ととのへて中庭の山茶花の花にわがむかひをる
   壕を出でて庭畑にあふぐ真蒼(まさを)空飛行機雲は経緯(たてぬき)に白し
   月高く虫の音すめる夜を静かに大き戦を思ふ切(せち)なり
十二月 韓国の孫戸妍(そんこけん)嬢は、わが国に留学する事四年、その間、枡富照子さんに歌を学んでいたが、卒業して帰国した記念にと、「戸妍歌集」を京城で出版、おくって来た。朱の扇(ぶちえ)、翡翠の指輪など、朝鮮情緒を詠んだよい歌が少くない。韓国婦人の和歌集の初めであろう。
情報局の依嘱により、緒方総裁の官邸で第二回愛国行進歌を撰定した。それが十六日、十七日は野間奉公会より帝国ホテルにおいて第四回野間賞を贈られたのに列し、翌十八日熱海市西山なる西原氏の別墅凌寒荘に移った。時局もきびしくなり、昨年の大病後とて、山川博士、下村博士の勧誘によってであった。

    昭和二十年 七十四歳

一月作、
   山の色微かに明けて朝鳥の声おこる、谷のあなたこなたに
   暮ちかき空に黄ばめる雲ありて夕庭くまの竹群さむし
   西山の傾斜(なぞへ)杉むら光あせぬ今日の一日も暮れむとするか
   世を思ひ人を思ひはた我を思ひ涙はこぼるさ夜のくだちに
   和田山は雨けぶらへり昨日(きそ)よりも声ととのへる今朝の鷺
   山庭の夕かげりとく木々がかもすくらさの中にあしびは白し
   何をなししぞ我をかへりみ今日の日のいのち思ひてスタンドを消す
   わが道とほくはろけし飛躍は望むべからず一歩一歩をゆく
藤島正健翁の未亡人延子刀自を悼みて、
   国をあがめ神をゐやまひ清かりし心の鏡家を照らさむ
   言葉少なに心おだひにうまごらを身もたな知らにはぐくみましき
二月 戦火により、組版の成れる「国学先賢書簡」、「橘曙覧全集」は東京にて、「野村望東尼全集」は大阪にて湮滅した。遺憾の至である。
三月 心の花編輯部の石榑正君は深川に住まれたが、大空襲のため、奥さん、二人の子どもさんと四人がともに劫火の災にかかられた。いたましいともいたましい。
   吾妹子ら手とり助けてもえさかるほむらが中を進みけむあはれ
心の花は、角(すみ)鴎東君に編輯を依嘱したが、印刷所及び用紙不足等の為、二三四合併号、五六七合併号を出して、廿一年一号まで休刊した。
六月 藤田徳太郎君が、下関にて戦災にあい、失せられた。いたましいともいたましい。
   ふるさとに父母(ちゝはは)をとへる孝子(かうし)君(きみ)戦火身に浴みしこと悲しもよ
いま数年の齢があったならば立派な著作が世に残ったであろうにと遺憾に堪えない。
七月 情報局総裁の下村海南博士が歌集の原稿を携えて来訪せられた。君の「終戦記」に俊成忠度に擬して、西山歌の別という文詞を掲げられた。
   筆とりゐし歌稿をおきて物がたり又もみ国の運命(さだめ)にうつる
   友黙し我ももだして丘の上の三もと老樟の夕ばえ仰ぐ
   坂路下る友の姿を見まもりぬ又逢はむ日はいつの日ならむ
八月 十五日――十七日。
   天を仰ぎ地(つち)にひれふし嘆けども嘆けどもつきむ涙にあらず
   わが心くもらひ暗(くら)し海は山は昨日のままの海山なるを
   なげきあまり熱にたふれし耳の辺に人間ならぬ鳴咽(をえつ)の声す
   身に熱あり胸に憂あり門川(かどかは)のたぎつ瀬の音(と)を夜深く聞くも
折にふれて、
   かなしきかも身にしみ骨にしみとほる今年の秋の秋風の声
   世を離(さか)りこの山かげにこもりはをれ夕べの雲にうたた思あり
   古(ふ)りし書よみつつはをれ海の内外(うちと)雲の去来(ゆきき)にわが心馳(は)す
上京して、
   あき風の焦土が原に立ちておもふ敗れし国は悲しかりけり
   夢にあらずまさに現なり見の限見のきはみ赤くただれし焦土
豪雨の夜、東京より帰り来て、
   飛礫(つぶて)なす闇夜の大雨(ひさめ)、たぎちくだる水にひたりひたり石坂路のぼる
   やみのうちを雨白うしぶく悔いて今せんなしただに石坂路のぼる
   今の世の相(すがた)おもへば今宵の此の黒闇(こくあん)豪雨なほしかずけり
久に逢いし人、あまりにもわが痩せたりというに、
   国をおもふ心はも燃ゆかたちこそ痩せさらぼへる老(おい)歌人も
著作にいそしみつつ、
   み国のためささげまつらむ老の身に残る血汐の一しづくをも
停電の夜、
   暗中(あんちゆう)に端座しおもふ光明を国のゆくてに見む日はいつぞ
   停電の黒闇(こくあん)の中にある吾に残り蚊一つ声たて寄りく
   一ときのやみもいぶせし戦盲の田中長三をいとしみおもふ
上京した帰途、
   からうじて乗り得し貨車の一隅(ぐう)に身をよせて仰ぐ春の夕雲
小城正雄君帰還す、
   ビルマやけに黒うなれりといふ顔のゑまひやさしきわが正雄なり
   幾年(とせ)の辛苦は語らず万葉をたづさへゆきしさいはひをいふ
ある時、
   かつて思ひき今はた思ふこれの世に人の一人のあらましかばと
   雑草(あらくさ)は道をおほへり真中に立ち我(われ)ここにありといはむ声もが
上京せし時々に、
   極熱(ごくねち)の三人(さんにん)がけの列車ぬち身をちぢめ読むアミエルの日記
   あき風の駒込通(どほり)家建たざる雑草(あらくさ)原にさく曼珠沙華
ある時、
   教育を求むとしいはむ「教育者に何を求むる」と問はれし答に
   四(よつ)といふ子が目の澄みの深きかも廃頽の風景うつることなかれ
   思ひは思ひを生み嘆きは嘆きを積み、ふか夜こほろぎ
十月 落合裏次君の案内にて遠州に赴き、川崎なる清浄寺に夫木抄の撰者勝田(かつまた)長清の墓に詣でた。
   老松(おいまつ)のあき風たかき丘にしてしづかに眠る古人に礼(らい)す
   歌書(うたぶみ)のいさをし人(びと)の奥つきにささぐ、手折りこし野の草の花
   今いづら大き館(やかた)は、君が編めるうた巻夫木(ふぼく)とはに命あり
白羽は、防人の古歌にある地である。
   穂薄のつづる松原古へのしるはの磯となつかしみ踏む
御前崎にて、
   岬風つよくあたればたけひくき椿木群(こむら)の葉ごもりの花
   半(なかば)崩(く)えし灯台の下(もと)ちらばれる瓦礫(ぐわれき)が中の一もと野菊
   この頃の思和(な)ぐやと遠つあふみ大き海の波見に来(こ)し吾を
   天城嶺(ね)ゆ石廊崎(いらう)にかかる白雲の真下(ました)内海(うちうみ)の真青(まさを)さざ波
十一月 歌集「黎明(れいめい)」を刊行し、序言に「この小歌集を新日本建設にいそしまむとする若人に貽(おく)る。集の名はわが葦原の中つ国に照り明(あか)る時のとくいたらむを待ち望むが故なり」とかいた。巻頭に掲げた「若人に示す」より、
   道の前途(ゆくて)はろけくとも直(ただ)に進み行かな天(あめ)は広し高し日は明(あか)し浄(きよ)し
   八十(やそ)の曲路(くまぢ)い行き進まなぬばたまの夜空にも星の光はあるを
   明治の御代興れりし時をおもひみよ若人(わかうど)にして国を背おひき
   天地のいかなるものか若人の若き力にあへてまさらむ
   進み動く世界の音を聴きとめつつ日の本の直き大道(おほみち)をゆけ
   い行き行け光の道を国新たにつくりなすべきわが若人よ
   今あらたに興る皇国(みくに)の黎明(しののめ)に雄々しく立たむ若人を見よ

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    昭和十六年 七十歳

一月 学士院から、宸翰英華編纂委員を嘱託せられた。
三月 東京音楽学校同声会、日本教育音楽協会、全国高等女学校協会の嘱によりて「皇后陛下御誕辰奉祝歌」を謹作し、信時潔氏が作曲せられた。
東京放送局の海外放送に「和歌について」を執筆した。
四月 金沢文庫をとうた。
   金澤の入江おだひに丘きよみ七百年(ななももとせ)を文ここにあり
   岸ざくら池の心にさしおほふ真盛りの枝にかかる雨ほそし
   ともなへる三人の孫に語りきかす片仮名字本古今集、金澤氏のこと
日蓮上人書写の円多羅義集唐決を見て、
   是聖房生年十七歳の筆のあと雄々し力はすでにこもれり
館下の室に、京都より来た三人の少壮学者が滞在しておる。
   戦の雲おもき世を若き学徒専念に抄写す古き聖教(しやうげう)
千代本にて、
   ま白つばさあざやかに張り鴎は舞ふ曇り日の江の水すれすれに
戦地なる宇野栄三君に、
   このあしたよきあしたなり鴬のこゑす、仏印の君が便りきぬ
   ゆく春の山吹に藤に牡丹花に吹きつぐを君が遠き夢に入れ
国分青厓翁の石南荘にて、
   遠つ世びと端正楼に見めでけむ花さきつぎて千とせ匂ふを
藤田富子夫人の歌集「ゆふ汐」の出版記念会が、椿山荘で催された。古代雛の数々が飾られ、湯浅半月翁は、平家琵琶の薩摩守忠度を奏せられた。
七月 国学院大学万葉夏期講座に講じた。
八月 「万葉辞典」を刊行した。
盛夏を軽井沢万平ホテルにものして、「万葉集の研究」の校正に専心し、十数日を過した。
   高原道林に入りて昼雨のふりますぐなり山砂にしむ
   もやの底に花さきしづむ月見草(ぐさ)ほのぼのとして夜の道遠し
   ひねもすを筆とり暮らし山窓に白樺の風を聞く十日なる
   郭公(くわくこう)に鳴きつぐ声の赤腹に山まどの朝は全(また)く明けたり
   ますらをの火の山にしてひさかたの月の下びにいぶき嘆くも
たまたま一日を、小海線により、延山が原に遊んだ。三十八年前、同人小尾保彰君の案内で、甲州清春村より、乗馬にして八が嶽の麓を越えた思い出の地ゆえである。
   千くまあがた川上郷(がう)は川原(かははら)も山高原も月みぐさの国
   八が嶽天そそり立つ一嶺(ひとみね)の半(なか)らに白く雲ながれたり
   駅裏(えきうら)はひまはり咲けりたけ長く切りそろへたる白樺の材(ざい)
   山の霧ここに追ひ来て小駅(せうえき)に別を惜しむ人をつつめり
   棚田より棚田におつる水しぶき浴みて色こし蓼の花萩が花
バスにて志賀高原にいった。
   のぼるままに林相(りんさう)かほり白樺の幹々に明るし山の秋の日
志賀高原ホテル、
   おりゆきてストーブのもとに書よまむ身にひしひしとせまる夕冷(びえ)
   ストーブの白樺の薪(まき)もえさかれり独ソ戦の記事を火明(ほあかり)に読む
   夕山の光しづかなり山原に切(せち)におもふも世界のうごきを
仏印なる宇野栄三君におくる。
   たか原の天(あめ)の足夜(たりよ)を月ふけたりはろばろしかも遠人おもふに
朝とく、山人を案内にここかしこをめぐって、
   カミルレの白花つづく坂路せまし山の朝冷はだへにとほる
   声高(こわだか)に「よう」といひかはす山人が言葉の中を走る朝もや
   茅草(ちぐさ)かる山人どちがものがたり征野(せいや)の子らの上なるらしき
征野にある同人を思うて、
   山の雨乱れふしたる穂すすきの道ゆきゆくと思ひはるけし
野尻湖にて、
   木もれ日の光やはらかし埴(はに)やきの郭公笛(くわくこうぶえ)を児はふきすさぶ
   手ひたせば湖の心のあたたかさ真ひる日はにほふ青葉を透きて
柏原駅に一茶をおもうて、
   秋風に蕎麦畑白しいとけなき弥太郎童ゆきけむ道か
一茶終焉の土蔵がのこっておる。
  「蚤さわぐ」この蔵にしてと悲しめどほろにがき笑(ゑみ)にゑみてをあらむ
九月 銀座の三越にて、万葉名勝写真及典籍展覧会を催した。
   千載(ちとせ)の後今まさやかに見るものか万葉人(びと)のふみし跡どころ
陸軍病院なる傷痍軍人諸士七十余名が、梅沢衛生中尉に引率されて参観せるに説明した。健かにみえるもあれど、看護婦の附添えるのもあった。
   松葉杖に身をよせつつも古りし書に静かに対(むか)へり病める健男は
   まなこ一つ国に捧げし大丈夫のまほるがに見る海の山の図を
十月 学士院に「古鈔万葉集十五種の印行に就いて」を報告した。古鈔本十五種を印行しおえたのである。
外務省の若き外交官八十余氏の為に、万葉集について、三回講演した。
情報局で催された紀元二千六百年祝典記念の夕べに「大和の春」が作曲者宮城道雄氏の合奏団によって演奏せられた。
長谷川時雨女史が永眠された。
   慰問袋送りしか送りしかと今はの言の雄々しく悲しき
   今は昔小川町なる講義の日源氏をきくと必ずこしか
下野烏山にものして、
   崖高みはろかに遠く光り流る那珂川の水秋の日に映(は)え
二宮尊徳命を偲んで、
   大土を足しかとふみ山すその此の道や行きし二宮(にのみや)の老翁(をぢ)
那須国造碑、
   飛鳥(あすか)浄御原(きよみはら)の代の筆の蹟(あと)を千載に伝ふ、那須直(あたひ)韋提(ゐて)の名をも
   よきことを世にのこしつる国造(くにつこ)の名はも朽ちせず千歳の後に
この行、黒羽に戸田茂睡の兄の家渡辺氏を訪い、茂睡伝について得る処があった。
十一月 海外在住同胞の為に放送した。
十二月 イランなる市河公使をおもいて、
   今宵月澄みきはまれりみ国おもひ事とる窓に仰ぎてあらむ
米国なる小畑薫良君に、
   今この秋(とき)遠つ朝廷(みかど)に仕ふらくますらたけをと生けるしるしあり
三好海軍大佐に、
   積乱雲艦上にして見さけつつ胸にわかむやまとますらをの歌
文永の古文書を見つつ、
   異国(いこく)云々(しかしか)の文字の力つよし国を思ふ心ひたぶるに筆はとりけむ
水道のとまることがあってはと、厨に近く井を掘った。
   ほりほりて中つ土底土(にしはに)ほりきはめこれの真清水わきでけらずや
   うまし水あたへたまへるみ井の神に清(すが)塩まきて御酒(みき)奉る
六日に読売新聞記者が来て、近く重大なる発表あるべく、その日の新聞に載すべき歌をとのこと。辞したが聴かれぬままに、
   元寇の後(のち)六百六十年大いなる国難来(きた)る国難は来(きた)る
の歌と他に何首かをおくったに、九日の朝刊に載せ、歌の前に大きなる白ぬきの文字で、「国難来る国難は来る」と掲げてあった。当時、相次ぐ捷報に、面ほてる心地がしたが、終戦の後おもえば、この国難来るのことばは、老歌人の杞憂にして巳まなかったこと、嘆くにあまりある。
東部第三部隊第五中隊の為に隊歌を訂正した。
文学者愛国大会に、歌壇を代表して述べた。{心の花十七年二月参照}

    昭和十七年 七十一歳

-月 熱海来宮荘より家に送った二枚つづきの画葉書に、「二日の午後三時より夜の眠以外には、独坐静思、筆をすすめて唯今(四日午後一時)、第一稿完成いたし候。これよりは字句を修正するのみ。日清日露の役に軍歌を作りし身の、幸に此の大御代に長らへゐて、歌人としてまことに有がたききはみに候。記念のため来宮荘のこの葉書さし出候。一月四日 信綱」。東京日日新聞社より依嘱された、ハワイ海戦の歌であった。
大政翼賛会三重支部歌人会の顧問として宇治山田市の結成式に列し、神宮皇学館講堂に講じた。
二月 東大文学部の芳賀博士を偲ぶ会に、「新国学樹立者としての芳賀博士」を述べた。
訪書会で、集古談をした。
大東亜戦争戦歿者慰霊祭に、大日本舞踊連盟よりの依嘱にて作成した「忠霊にささげまつる」の舞踊が、靖国神社広場で奉納された。
三月 国民学校児童のために、朝礼訓話を放送した。
満洲国十周年慶祝会の嘱により、「蘭の花」を作詞した。
心の花三月号を、小花(おばな)清泉君の追悼号とした。
四月 宸翰英華の委員として京都に赴き、東山御文庫の御物を精査し、津市にいたり、川合村に稲垣兵曹長の家を訪い、大里村なる陸軍療養所を慰問して帰京した。
五月 「若き教師の出征」(詩)を心の花に掲げた。
六月 「ハワイ海戦の歌」及びその作成についての感想を心の花に掲げた。(五月に発表演奏会が一つ橋共立講堂であった。)
牛込陸軍病院の白衣勇士諸君の歌会第百回記念会が駒込吉祥寺で催されて、伊藤嘉夫君と共に出席した。陸軍病院から傷痍軍人の描かれた南京陥落の水彩画を贈られた。(竹柏華葉に掲げた。)
七月 日本文学報国会の短歌部門の部長を委嘱された。
服部四郎君来訪、蒙古談を聞いた。
   城の趾(あと)陽炎もゆとふ今の秋(とき)に成君思汗よ又生(あ)れ来ずや
朝永正三博士挽歌、
   私のなげきはおきつ人として正しき清き君を惜しむも
   額にめがねおしあげ語りましき事毎に意見もちたまひしか
馬来にて戦死した農学士陸軍中尉荒井保行君の母君撓子ぬしを訪うた。
   新嘉坡へ新嘉坡へといひつつも逝きけむ君か密林地帯に
   最期まで肌(はだ)に添へし手帳血ににじめる中に挟みありき母の写真(うつしゑ)
   写真(うつしゑ)の裏に記せり「死を覚悟する時常に浮ぶは母の面影なり」と
   今はの手にとりしとふ双眼鏡砕け散りてただにケースのみ帰りこしはや
   生死(しやうじ)の地に学の資料と拾ひしかも図嚢が中の護謨(ゴム)の実いくつ
八月 某省より嘱せられしことに専心数日、資料探訪のために、講演になど、東西した。
   あわただしう走り又走る大御国に報いまつらむ片はしにもと
鎌倉なる源実朝歌碑除幕式に式辞を読んだ。
  「おのづから山の蝉なきて」清く涼し今日のこの式を喜ばすらし
伊勢朝日村に「讃橘守部歌」の碑が建った。
   小向(をぶけ)のやこゝに生ひ立ちし橘の高きかをりは天の下に永久(とは)に
大阪に赴く。
   ボンボン船(ぶね)堀江さかのぼり夾竹桃岸に咲き群れ暑し真昼日
重要美術委員会委員として一行と共に讃岐に赴き、高松松平家の披雲閣で、佐理の詩懐紙をはじめ重宝を見ることを得、白鳥の猪熊(いのくま)信男君を訪うて宸翰の数々を拝観しておる半に、旅行前、大学病院に見舞うた、石榑千亦君遠逝の電報がとどいた。入院はしておられたがさほどと思わずに、猪熊氏の調査がすめば一同解散する予定であったから、土佐に赴き、鹿持雅澄翁の墓に詣で、徳島に出て阿波文庫の蔵本の残存しておるのを見、宇野に近い高島に、神武天皇をお祀りした社、そこに遠祖盛綱のささげた灯明台の址があるというのを訪うべき心組であったが、すべてをおいて急ぎ帰京した。
石榑君挽歌、
   荒海をむしろよろこびて船航(ゆ)きし海の歌人世を去りしはや
   うたびとの古泉千樫新井洸(あきら)君によりてこそはぐくまれしか
   いとせめて君が御霊(みたま)の前にささぐ此の一つきの酒をうけませ
   わが心うらさびしもよ五十(いそ)とせのよき友、君をうしなひにける
九月 読売新聞の嘱により、一日記者として「日本の母」を訪うべく群馬県に赴き、帰途、江間清子ぬし夫妻の案内で、多胡の碑等にものした。
麻布長谷寺に、歌壇人の石榑君追悼会があった。前田夕暮(胡麻豆腐と酒)、吉植庄亮(石博さんと酒)、土屋文明(石榑千亦先生を悼む)、岡野直七郎(石榑さんの書)等諸氏の追懐談があった。兼題、秋雲。
   久方の天の白雲あき風にみだるるなしてわが心いたし
佐々木公三君、鳥山榛名君をおもうて、
   秋づける風さはやけし此のあした北の国を南の国を思ふ切なり
十月 共立講堂における日本文学報国会主催の平田篤胤百年祭に「平田先生の歌」を講じた。
十一月 大東亜文学者大会に讃歌を朗吟した。
   皇国(みくに)の花菊さき薫るよき日今日を遠つまれびと海越え来る
   外(と)は喧擾(さや)げり内ゆたにして神(かむ)富士の護らす国と文人(ふびと)はつどふ
   天つ使命(よさし)天(あめ)ゆ声ありうから広き圏内(くぬち)に文の華さかしめと
   言霊の幸(さき)はふ国の言(こと)以(も)ち寿(ほ)ぐ光あれ力あれこれのつどひに
東京朝日新聞に「銭稲孫君と万葉集」を寄稿した。
東京日日新聞の発案、日本文学報国会の事業、情報局の後援の下に計画せられた愛国百人一首の選定委員の一人となり、その選定後、選衡に関する文章を諸新聞に寄稿し、東京日日の講演会に講じた。
鈴鹿市が新たになり、石薬師村が市に編入されることになったので、祝歌を伊勢新聞に寄せた。
久我貞三郎君の案内で、千葉県成東(なると)に下車、小松つるぬし等と東金(とうがね)八鶴湖畔の小集会に赴き、会おえて、片貝にいたり、君の別墅に一宿した。
   真白砂光を帯び来(き)影をゑがき松原の上の月夜となれり
   ここかしこ芝生のうへに影ありて松いく本の月夜なりけり
   遠汐さゐ東方(ひがし)になりて浜の家の夜がたりの間に月かたぶきぬ
九十九里浜にて、
   汐の八百路(ぢ)今あけぼのの光にほひ天の八重雲を日はさしのぼる
帰途、成東への途上、伊藤左千夫君生誕の地の標木が立っておる。観潮楼歌会当時、夜ふけて、与謝野君、啄木君等と語りつつ帰ったことを思い出て、
   夜ふけたる千駄木の通(とほり)声高(こわだか)に左千夫寛(ひろし)かたり啄木黙々と
   ゆくところ槙垣ぞ多き声高(こわだか)にかたりし声のきこえずや今
   かぞふれば泉下の人多し黄ばみたる枯生が上の木洩日のかげ

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    昭和十五年 六十九歳

一月 「美美津の船出」を宮原禎次氏作曲、BKより放送せられた。
小謡「迎年祈世」を観世鉄之丞氏がAKより放送された。
しごとを携えて、熱海来宮荘に宿った。
   急カープをバスくだり去りて片谷(たに)の枯笹群をゆする風の音
   雪空を日はさし出でつひる過の枯草山はあたたかみ持つ
   張つよき冬木の槻(つき)の枝に居て此の朝あけを声なき小鳥
   樟(くす)の木間、海、金色(こんじき)にかがよへる来宮荘(きのみやさう)の朝のおばしま
   此の夕べよき夕べなり紺碧の海にまさやかに大嶋は見ゆ
東京日日新聞社の「勤労奉仕の歌」、読売新聞社の「紀元二千六百年讃歌」を審査した。
二月 紀元節祭の御儀に参列して、文詞を心の花に掲げた。
筝曲「大和の春」が宮城道雄氏作曲により放送された。
絵葉書「神武天皇御聖蹟」、「大和と万葉集」各六葉を撰し、解説をかいた。高橋史光画伯筆。
那木の葉会の同人、治綱、由幾子、小城正雄、林大、宇野栄三、栗原潔子、遠山光栄君によって「鴬」が創刊された。
三月 河内弘川寺に西行上人七百五十年遠忌に詣でた。
   山すそ路木間(このま)しづかに小鳥声すわが上人もふましし道か
   これのみ山清みしづけみ歌の聖円位の聖とはにいますも
   えにしありて桜の花を奉るそのきさらぎの遠忌(をんき)今日の日に
橿原神宮に詣で、奈良にいたり、月瀬(つきのせ){今は月がせといえど古称による。}に遊んだ。月瀬の梅渓は、月瀬紀勝の著者斎藤拙堂翁と相識り自らもまた月瀬梅風集を公にした先人が、予の幼時に屡々その景勝を語り聞かせた地である。こたび安達忠一郎君に導かれて遊び、即吟数十首を得た。
   石垣をはなれて竹の林あり山村(やまむら)さぶる一もとの梅(途上)
   奈良の雨は昨夜(よべ)つよかりき名張川水のたぎちの春さむきなり
   谷八谷(やたに)白雲かをる中にして家づくりせり月の瀬人は
   山頂のここに村あり高き低き家みな梅にかこまるる家
   梅の村この清き村に聞くものは鴬の音(ね)と頬白の声と
   何の鳥か声ひきてうたふ梅林(ばいりん)の木群(こむら)がなかに日はとほるなり
   梅の鉢に土筆ひともとたけのびたり宿の女の伊勢なまりよし
   この村の旧家なるべし築地(ついぢ)長く高石垣のかたはらの梅
   蜜柑ならべ春蘭の鉢おきならべ山村人(やまむらびと)のなりはひはよき
   着ぶくれし女の子らが立つ門(かど)の夕冷時(ゆふびえどき)の紅梅の花
   梅渓にたまたままじる麦畑のたけ高からね目にしむ青さ
   うめ千もと香(かを)れる雲の底にして此の深谷(ふかだに)の清きしづもり
   夕光(ゆふかげ)の梅の下道たもとほり戦の世とここを思へや
   かよふらむ征野の夢は、かぞいろの妻の子の待つ此の梅渓に
なお、客亭でかいた歌を、後、月瀬橋畔の大きな岩に彫ったというて写真をおこされた。
   瀬の音(と)高く谷風たかく吹きふけば散りちる梅の千もと八千もと
帰途、笠置山に登り古えを偲んだ。
四月 聖徳太子奉讃会に、宮城道雄氏作曲になった「夢殿」が演奏された。
大日本歌人協会の紀元二千六百年奉祝記念講演会に講じた。
日満中央協会主催の満洲国皇帝陛下奉迎国民歌歌詞審査委員となった。
五月 東大記念日に総学部連合学生大会に「新しき命生れんが為に」を述べた。
家蔵の亀山天皇宸翰御消息、日本書紀神代巻断簡が、国宝として指定、官報に発表せられた。
深大寺にて、
   古寺は雨のひびきもかそかなりしづかに対ふ白鳳仏に
   時は世は千とせを経たりとこしへに白鳳仏のほほ笑みいます
   泰山木大き葉にふる雨のおと白鳳仏も聞きいますべし
六月 宇治山田にいたり、伊勢神宮御参拝の行幸を仰いで、
   神の都神幸(かむさち)ゆたにいでましのよき日今日の日のこの真澄空(ぞら)
七月 東京文理大国文学会に「希望の二三」を述べた。
国学院大学万葉集講習会に「万葉集の防人の歌について」を講じた。
心の花七月号を富岡ふゆのぬしの追悼号とした。
琴唄「帰らむとする浦島」がAKから放送された。
八月 日本大学日本文学講座に万葉集秀歌について講じた。
九月 「本居宣長の母」を放送した。
十月 先人五十年記念講演会を東大法科廿五番教室に開き、井上哲次郎、牧野英一、久松、川田君等が講話せられた。
紀元二千六百年と先人五十年の記念に「竹柏華葉」を印行した。
京都に、藤原定家七百年記念陳列を冷泉家に参観した。冷泉家の庭には「笈のうち」といわれる萩がさいていた。それは西行上人が東北に赴かれた帰途、宮城野の萩の種を持って来、俊成卿におくられた。その種が花さいたのを見て俊成卿が笈のうちと名づけられた。それが数百年咲きついでいるのであるという。冷泉為臣君は親しいので、特に一枝を請うて、翌日西行上人七百五十年記念に自分の書いた歌碑建碑式に、河内弘川寺にいたり、碑前に笈の内の一枝をささげ、表白(へうびやく)を読んだ。碑背の文は香取秀真君の執筆にかかる。
それより紀州木本に宿った。
   秋の灯(ひ)に一人わが聞く波のおと真くま野の海の波のおとなり
新宮速玉(はやたま)神社の社頭なる竹柏の老樹のもとに撮影して、
   熊野御幸あふぎまつれる時すでにかげ高かりしこれの梛(なぎ)かも
那智にて、
   大き滝に金色(こんじき)に日ぞかがよへる見のまなかひに神いますごとし
   ややややに夕づく山の風しづもり鼕鼕と滝の音ひびくなり
熊野御幸をしのんで、
   かしこくも斗擻(とそう)修行のおほ御身に触りけむ朝の那智山の霧
夜ふけて勝浦荘にやどった。翌朝、荘の裏山にて、
   渡り鳥鶸むれわたる茂(し)み蒼くとべ橿(がし)おしふ磯山の上を
維盛の入水したという山成島を望みて、
   いとせめて後世(ごせ)安楽をねがひけむ身は三熊野の潮泡(しほなわ)にまじり
潮岬にて、
   くろみたぎつ荒磯(ありそ)くろしほ直下(ちよくか)に見、潮の岬の秋風に立つ
   鞺鞳と黒み寄せたぎる黒潮のあら磯にしてさける葛花
   大草原(だいさうげん)秋風黄なりうづくまる、立ちて尾を振る、黒牛まだら牛
   大草原海にかたぶく片崖(ぎし)に黙黙として草はめる牛
白浜に宿り、那智の作を推敲した。自分は幼くて漢詩を学び、旅中にも韻字の書を携えることが偶々ある。この夜、那智に於ける西上人の歌を懐いつつ、月色水光倶皓皓、巌頭半夜一人僧、の句を得たが、起承成らず、訓読して一首の歌とし、次に二首をそえた。
   月の色と水の光と倶に皓皓(しろ)し巌頭半夜一人の僧
   緇衣(しえ)の袖に夜(よる)の山の気かそかなり月たかく白く滝白く高く
   音、光、心相照り月と人と滝とただにある夜(よる)の深山(みやま)に
翌朝海岸にて、
   磯畑は花咲きのこる浜木綿に朝海の光今まともなる
和泉路にて、
   和泉路はおくてみのり田時雨はれ遠かつらきの山の上の虹
石薬師にいたる。先人記念碑前祭に、大阪の五島茂君、山田の酒井秀夫君、奈良の前川佐美雄君、東京よりの印東弘玄君が小学校の講堂で講ぜられた。
   いや新たにいや広に歌の道は栄ゆ亡き霊天がけり喜びいまさむ
十一月 静岡市公園の静岡倶楽部の傍らに予の撰文にかかる「戸田茂睡生誕之地」という碑が建てられた。{一六〇頁にある講演が花さき実ったのである。}《注:一六〇頁は大正15年8月》
冷泉為臣君の「藤原定家全歌集」に序詞をかいた。
大和橿原神宮外苑に大和国史館が完成した。かねてその企画に参与していたので、開館式の朝とく、大阪の刀祢館正雄君と共に奈良から畝傍にいった。
   西ひむかし山あさもやに眠りてありやまと国原をわが自動車(くるま)迅(と)し
万葉室の一室は自分の考のままに中山正実画伯が画かれた「阿騎野の朝」という大きな壁画が一面を占め、向きあった一面には地図や万葉学者の筆蹟の大幅をかかげ、他の二面には万葉の写本刊本複製本の類をあつめ、真中のケースの中には、正倉院御物の模造品その他万葉関係の品物をおいた。多年志していた万葉博物館の小模型ともいうべきものである。
翌日、高松宮同妃殿下御二方が、参観者のはじめとして御来臨になったので、万葉室の陳列品について御説明申上げた。
   新た代と息吹(いぶき)新たに万葉(よろづは)のにほふ巻々みそなはします
考古学室に、外苑よりの発掘品を見て、
   橿原の宮つくらすときりし木のいちひがしの根かもまなかひに見るは
   埴(はに)やきの玩具の獣(けもの)小さき壷原住民も子は可憐(かな)しみて
なおこの日、新村博士と共編の「万葉図録」ができてきたので、早速陳列したことは、まことに喜ばしかった。
宮城前の紀元二千六百年祝典に参列した。奉祝会の嘱により、自分の謹輯した「列聖珠藻」が配附された。
放送協会の詠吟研究会に、数回連続の講義をした。
越野栄松氏により、筝曲「おもかげ」が放送局から演奏せられた。
神奈川県知事より、金沢文庫の評議員を嘱託された。
十二月 護王会により、宮城御濠端に建立された和気清麿公銅像の除幕式に列した。副碑は自分の撰文、岡山高蔭君の執筆にかかる。夙くよりある楠公のに対して、文武の象徴ともいうべき像であるから、自分は短い文ながら深く精神をこめてしるし、岡山君も文字の配置等に留意して書かれたのであった。
富山県中田町に家持の「雄神川」の歌碑が建った。
奈良県大宇陀町に人麿の歌碑が建立せられた。碑背の文章は新村博士の執筆にかかる。

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    昭和十四年 六十八歳

一月 北京近代科学図書館二周年記念号に、心の花所載の「英訳万葉集に就いて」を洪炎秋氏の漢訳せる「関於英訳万葉集」が掲げられた。
二月 紀元節に、「肇国歌」が弘田竜太郎氏の作曲により放送せられた。
丁酉倫理会、東京府立第三高女、神奈川県立横浜第一高女等に講じた。
三月 帝国女子専門学校、お茶の水家庭寮に講じた。
四月 東京会館に英訳万葉集竟宴に列した。多年の希望の書が、多数の学者及び訳者の努力により完成したことは、喜びに堪えない。食卓に馬酔木の花をかざり、メニューも、一、豊御酒、一、薯羹物、一、焼魚、一、牛炙、一、春菜、-、氷菓、一、阿倍橘と上代風にさせたことであった。
東京日日新聞社の太平洋行進曲の審査員を嘱せられた。
斎藤瀏、小宮良太郎君らが、短歌人を創刊せられたに、ことほぎ送った歌、
   現(うつ)し身の玉の緒触りてさやさやに清き響をたつる歌なり
   真梶貫(ぬ)きいゆく船人に幸(さち)あれな歌の大海に朝びらきす今
五月 第一高等学校に「万葉の春」を講じた。
東京朝日新聞「新進歌人抄」に、伊藤嘉夫、小城正雄、村田邦夫、三氏の作を寄せた。
東郷元帥を讃うる歌の碑が、多磨霊園なる大森氏の邸内に建った。
大阪に赴いて、天王寺なる社会事業会館の歌会に列した。京都にいたり、京大楽友会館の金雀枝会に講じた。次の日は葵祭を見、行列について御薗橋を渡り、神前にぬかずいた。
   南庭(なんてい)に東遊(あづまあそび)奏し橋殿に駿河舞まふ夢の代のごと
六月 東京商大に講じた。
愛国婦人会主催銃後家庭強化の歌の審査員を嘱せられた。
杉栄三郎、新村出二博士を招いた夜、近く得た古代の酒甕を花がめに用いて、
   上つ代の大きもたひの花がめに真白百合さす客人料(まらうどがね)と
   ま白百合いろをしづけみ夏花の紅こきをさしまじへたり
七月 新湊町柴氏邸内の万葉歌碑の除幕式があった。
聖戦二周年の日、放送局より放送すべく「七月七日盧溝橋」を作った。作曲は堀内敬三君。
日本女子大に「藤原定家の国文学に於ける寄与」を講じた。
鶴見和子さんの渡米、富岡冬野さんの上海行送別会に、堂本竜子さんは「米国から帰って」、西富貴子さんは「モスコーより帰りて」の感想を述べられた。
奈良に赴いた。橿原神宮外苑なる大和国史館建設委員会の顧問として、施設内容についての意見を開陳した。夜汽車にて帰京、東京駅にて、
   鹿歩みし夕日の奈良に歌おもひつ今東京の雑音(ざふおん)にまじる
八月 国学院大学の万葉講座に「万葉集時代概説」、日本小児科学会に、「小児を詠じた歌」、司法研究所に「万葉集の時代」を講じた。
軽井沢に避暑中、独訳万葉集に就いて、ツァヘルト君を米田山に訪うた。木村謹治博士、小城君らと同道した。
   老樅の木かげの卓に万葉の訳語かたらふまだら日淡し
ツァヘルト君も絵葉書に即吟をかいて示された。「樅のもと風清く涼し万葉の昔語りに時走りたり」。
米山梅吉君の浅間庵招宴に、関屋貞三郎君と同行した。
   田舎家(や)は雨夜ひゆるに炉の火あかし世を憂へ語る客もあるじも
九月 厚生省主催の明治神宮国民体育大会歌の歌詞審査を嘱せられた。
十月 室蘭なる栗林家の会社創立二十周年記念に栗林加寿子刀自の歌碑の碑陰の記をしるしたので、招かれて北海道にわたった。
   ひさかたの天の白雲に心うごき北海(ほくかい)にこゆる秋の旅人
   秋空に鴎と化(な)りてまひのぼる松前丸がしぶく白波
   タ浪の八重折(やへをり)が上に鴎まへり海をへだてて駒が嶽淡く
洞爺湖、
   舟よする嶋岸淵に散りよどむいたやの紅葉かしは黄朽葉
   足ふめばゆらぐ桟橋板間にも岸にも散れる島山もみぢ
   この間(ま)がくり四十雀の声澄みとほる嶋山かげのここは風なく
室蘭に栗林家にいたる。製鉄所に案内されて、
   とどろとどろ高とどろけるハンマーに新(にひ)亜細亜おこる声こもるなり
   をのこにまじらひ、職場守る女、頭上を鉄塊は右往し左往す
   わが立つ断崖(きりぎし)枯生(かれふ)こほろぎ鳴き千尺(ちさか)のしたは真青(まさを)大海(追直浜を望む)
登別小公園の歌碑建碑式は、いとも盛大に行われ、石榑千亦君も来られた、藤本鳥羽子ぬしの建設の記と写真とは、心の花十一月号に掲げてある。
   家の風おこり栄えて栗林よき花かをりよき実みのりつ
公園の傍のグランドホテルにて、
   ロビーの灯(ひ)かげやはらかし湯づかれの身を快く深椅子による
石榑君はさきに帰られた。地獄谷にて、
   湧きたぎりのぼる湯の気(け)に日ざしつよく剣(けん)が峯の赫岩もゆるが如し
湿原、
   大湿原かぎれる海のただに碧く真青(まさを)さ深き空の色なり
   秋空は澄みきはまりて翳(かげ)もたず見はるかす海にただ一つの舟
白老、
   秋風の白老村(コタン)段(きだ)屋根の上におりゐて浜鴉なく
   聖戦(みいくさ)に孫が召されし誇らひを肩はりつつも嫗は語る
   細工もの独木舟(モチツプ)にをるあいぬびと親子熊(カムイ)もかなしきものを
十勝野、
   灰色にぬりつぶされし平野(へいや)過ぎ丘陵地帯になれり、木の、草のもみぢ
神威古潭、
   崖と崖黄の一色(いつしよく)にいろどれるかむゐこたんの岩むらの秋
松浦武四郎翁を憶う。{二二頁参照}《注:二二頁は明治15年3月》
   松浦の老翁(をぢ)し偲ばゆ石狩川岸の枯生の道ふみなづみ
   山にいね雪の上(へ)に臥し遠つ蝦夷踏みめぐり書きし幾十冊の日記
大雪山、
   夕日今し沈まむとして大雪山山(やま)なみの秀(ほ)の雪、光あり
層雲峡、
   峡迫り天つ空せばし高岩のもみづる上に遊ぶ白雲
   山風を千ぐさにそめて散り乱るいたやの赤きかつらの黄なる
   岩垣を高み光の乏しかる峡の夕日にちりちる紅葉
   入日まともに光をなげて山ひだの高き低き紅葉色もえむとす
山村、
   山の家その子めされししるしの旗紙の日の旗軒高うたてる
   道に出でて子を呼ぶ母がこゑひびく夕山村の秋風の中
   やますそ小屋、夫、木を伐るに恵念なり泣く子あやせる女の声す
   山裾道科皮(しなかは)はぐともはらなる女の白き三角帽子
路傍の家、
   海つ物柳葉魚(ししやも)小竹にさし乾(ほ)してかそけき家のくらしなりけり
   闖入者厭ひげもなく三人(さんにん)の炉ばたの女したしげに語る
   戦地より昨日(きそ)便こしとあかき襟かけたる若き一人(いちにん)は云ふ
   猛(まう)にして忠実(まめ)なる犬のアイヌ犬わが家の族(ぞう)と背を撫でて云ふ
   唐黍(たうきび)を壁に掛け並(な)め雪ごもる百日(ももか)の冬の料とすと云ふ
また、十勝野にて、
   時雨雲空につめたし広原は茫漠として日くれなむとす
   夕ぐれの時雨にぬれてあはれなり無蓋車につめる大き木材
定山渓(じようざんけい)、
   湯のけぶり紅葉の谷にまつはりて家々の窓夜(よる)ならむとす
   朱(あけ)と黄といろ交錯す渓風に虎杖(いたどり)ゆられ山葡萄ゆれ
   湯の沢川夜ふかく覚めて音近し胸にここだくの思あらしむ
定山寺に定山法印の遺物を見る。
   魔を除(よ)くと獅子頭(がしら)もち村歩きつ身は北海の潮にさらされ
   岩山の笹生よぢ、村々めぐりけむ定山坊の破(や)れたる法衣
帰途、西原民平君が露領ドウエより帰り来られたのと小樽より同車した。
   韃靼の海の上(へ)の月に船追ひくるいるかの群を手真似し語らる
西原君を小樽に迎えた月岡社員の談を聞きつつ、
   北サハリン荒海(あるみ)に沿へるドウエの山そが炭山に幾年(とせ)をありし
心の花十月号を「橘糸重子追悼号」として諸家の文辞を掲げた。
放送局より「陣中の歌」を放送した。
三菱倶楽部にて、「心の糧心の記録としての歌」を講じた。
女子会館に「曙覧を偲ぶ会」に講じた。
十一月 鎌倉山に、日ぐらし富士の歌碑が建った。
   日ぐらしに見れどもあかずここにして富士は望むべし春の日秋の日
十二月 大和にいたり、中山正善、松尾四郎、阪本猷、川瀬一馬氏と香久山村にて、
   久方の天のかぐ山冬の日の輝きにほふよき日にまゐきつ
二千六百年祭々器の埴採場に竹上氏に案内せられ、鍬鋤を手にとって、
   香久山の厳(いか)し埴土(はにつち)とりつとふ神鋤神鍬かしこみ手にとる
松山町にいたり、阿騎野の旧蹟に「ひむかしの野にかきろひの」の歌碑の建つ所を見、薬草園を訪い、松尾氏の邸にいった。町の旧家で、二階の障子に三色の色硝子がはめてあったので、幼時を偲んだ。

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    昭和十三年 六十七歳

一月 旧臘からしごとを携えて熱海ホテルにいった。
   はらからは戦へるなりのどかに朝海にむかふ此のおほけなさ
   思ひは思ひを生みてまなかひの大海は夜の色となりにし
   命ささげ戦へる健男(たけを)おもひつつ心つつしみ文机による
   人と人と民族と民族と手とりあひ笑みつつ語る日よとく来れ
   海鳴にめさめておもふ戦の後の戦に光あらしめ
御講書始に「御歴代の御製に拝せらるる御聖徳」について進講した。御進講をおえて心のうちに思いつづけた歌、
   海遠(をち)は風雲さやぐ わが大君内外(うちと)の書(ふみ)のことゆたに聞かす
   国を民をおぼしし代々の大御歌かしこみきこゆ大み前にして
府立第二高女に講じた。
心の花に「総攻撃の前夜」(口語体)を掲げた。
万葉集講読会、及び東京農業教育専門学校に講じた。
林大氏の応召送別会を清澄公園に催した。
   鴨ゐる島この広池のさざらなみ野営の夢に入る夜あらむか
三月 印東昌綱君の華甲祝賀会が宝家で催された。
   浅夜寒みストーブつけてはらからが語らひかはす小川町の昔
   唯一つのわが誇らひの思ひ出は泣くを背負ひて須田町にゆきし
   須田町まで鉄道馬車のかかりしを見せにぞゆきし泣くをすかしつつ
   本にのみかじりつきゐし「本虫」の一人の兄にさびしくありけむ
四月 京都にトラウツ君の独逸に帰られるを見送って、
   七年(とせ)を君が在り見し東山かすむ春べを君往なんとす
大阪商船の高千穂丸にて神戸より門司にむかう。大沢忍、源豊宗、村田達枝、富岡とし子君同行。
   闇の海光いささか帯び来れり月は伊予路の山を離れつ
   せとの海夜汐早しも見つつありし左舷の月は右舷になれり
   紫に嶋々かすめり神の御手に作らししは春の曙なりけむ
下関にて赤間宮に参拝、長門本平家物語、豊太閤の短冊等を見、いわゆる七盛の墓のうち特に右京大夫のために資盛の墓前にぬかずき、長府にものし、山口にては図書館に大内家旧蔵の古書を探り、常栄寺に雪舟の造ったという庭をながめて、
   画の聖心の筆に石すゑしめ池つくらしめ成れる庭かも
瑠璃光寺の五重塔を見、下関に帰り、宇佐神宮参拝、富貴寺にいった。その途上で、
   山椿花咲きしだり荘厳(しやうごん)す大き岩にゑれる此の摩崖仏(まがいぶつ)
富貴寺に壁画を見た。
   石磴(せきとう)はゆがみくぼめりおびただしき落花なるかも踏みつつ登る
   春の鳥山のみ寺に声すなり白鳳仏のましますみ寺
別府途上、
   定印の阿弥陀ほとけはしづもります藤原の代の板画(いたゑ)の前に
   豊の国これの峠(たむけ)の大木桜まさかりの日にわが逢ひにけり
別府に鰐を飼える湯を見て、
   ゆぶねの湯ほのあたたかみ鰐の群そが故郷を忘れたるらし
   一(ひと)ゆぶねに一(いち)の大きわに一(ひと)ゆぶねに身に身よせあへる二三十の鰐
   己(し)が身のさかれむ日まで湯の気(け)ぬくきこれの湯ぶねに眠れる鰐か
和声会の嘱により、「帰らむとする浦島」を作詞した。{二〇四頁参照}《注:二〇四頁は昭和6年7月》
東大病理学教室五十年史下巻に、故三浦守治教授のために、「人間性を表現せる歌人」を寄稿した。
五月 武田君及び弘文社の人々と榛名湖より榛名神社に詣でた。
   山に対(むか)ひみづうみに臨み友も吾も長き思出のよき一日なりし
田中光顕翁に招かれて袋田温泉に遊んだ。
米国なるバーネット夫人より、ポトマク河畔の桜の画の出ておる新聞に自らの歌をかき、かつ其の川の水を壜に入れて二荒君に寄せ来った。その水で書いておくった歌。
   ぽとまくの岸をめぐりてしき島のやまとの桜さきにけらずや
   此の水やいづくの水花ざくらかげをひたせるぽとまくの水
   花にそみしぼとまくの水硯にうけかき流したるやまと歌ぞ之(こ)は
六月 東京女子大に「良き師良き教子」を述べた。
七月 立正大学国文学会に「桑門の歌人」を講じた。
八月 鎌倉ペンクラブ主催夏季大学に「源実朝」を講じた。
原善一郎君の一周忌に歌集、「夜(よる)の雪」を出版すると、村田邦夫君と共に校正をした。
   君が性(さが)をおもひ、幾たびか校じつつ成れる一巻(ひとまき)を供養(くやう)じまつる
   ぬばたまの夜(よる)の白雪真しづかに浄き境に君いますべし
三渓園なる天授院に、新月会同人と共に原君を偲んで、
   流にそひ木蔭(こかげ)の道をとめゆけど君が姿の見えずもあるか
   むかつ丘暮れもてゆくなりたましひの底にしみとほる筧の音か
斎藤瀏君を豊多摩刑務所に訪うた。乾政彦、中村徳重郎君が同行せられた。
九月 臨時東京第一陸軍病院に、伊藤嘉夫君と共に隔週作歌を指導し、万葉集を講じた。
   会場の壁によせかけし松葉杖かずおほかるに心はいたむ
   みとりめに手ひかれ歩みく戦盲のおも朗(ほがら)かに曇れる色なし
   傷うづく勇士もあらむ歌がたりうなづき聞きて笑(ゑ)ましげにをる
   足断たれし白衣の勇士わが説くを手押車の上にして聴ける
これは百回以上つづいた。その間に傷病兵諸君の真情のこもった力づよい作品をあつめて、伊藤君と合編の傷痍軍人聖戦歌集、及び、御楯、失明軍人歌集戦盲及び心眼を刊行した。
十月 海軍省より海軍旗制定五十年記念の為「軍艦旗の歌」の制作を嘱せられて作成、十一月三日の佳節の海軍大行進に演奏合唱せられた。
十一月 文部省小学読本に「万葉集」の執筆を嘱せられた。
長崎熊本の医科大学、福岡佐賀の高等学校に講ずべく出で立った。
   若人(わかうど)に古歌(ふるうた)の力説かまくと防人(さきもり)がこし筑紫路に来つ
福岡にて大隈言通の旧宅さゝの屋にいたる。言道が世を去った室、眺めた池もさながらにある。その著「ひとりごち」を思うて、
   さゝのやの窓にかこちし「ひとりごと」きく人はありき三十年(みそとせ)の後
   あるじあらば歌はまし、池の枯蓮の茎の上(へ)わたり鶺鴒のあそぶ
野村望東尼の平尾山荘にて、
   屋の砌(みぎり)に落葉多かりある宵は落葉の音を聞きしみ居けむ
   藁びさし散りつめる落葉おびただし今おちて赤き紅葉の一葉(ひとは)
穴山孝道君の指導のもとに、児玉寿子夫人の催さるる歌会の会員の博多ホテルにつどわるるに歌がたりをした。
   新(にひ)しき道、言道の老翁(をぢ)が拓きし郷(さと)いま新(あら)た代にうまし花さけ
太宰府を望み見つつ、
   いにしへの水城(みづき)のあたり小草黄なり東歌(あづまうた)うたひ防人は来ずや
   梅花(ばいくわ)の宴憶良の大夫が下つ座(くら)に佐氏(さし)信綱のまじり得ばとおもふ
佐世保に、朝永造機少将に迎えられて鵜渡越に登る。綱子、峯子が同行した。
   秋晴の坂路足迅(ど)にのぼる峯子をとめに近き大きさになれる
車中にて、
   国今し戦へるなり夕山村紅葉の村に日の旗は立てる
   夕背戸に童ら遊べり戦地にして此の山村を思ふ兵あらむ
   山畑にわら火たく子ら目ざとに見兵士のれる汽車に万歳を投ぐ
長崎医科大学に講じて、
   若人のつとめはも重しひむがしのあじあの空に光みたしめ
川西知事夫妻に招かれて、増田図書館長と共に「満月」にかたる。
   冬晴のかがよふ海を見つつ聞く紅毛がたり三菱造船所の繁栄(さかえ)
浦上天主堂にて、
   彩色(いろゑ)ガラス洩る日光(ひかげ)濃しマリア立たす聖壇の前の消えざる聖(きよ)き灯(ひ)
   浦上の山のやま風あらびもしつ消えせず聖(きよ)きこれのともし火
天主堂の附属室の陳列棚に、平仮名でかいた古き教義本を見て、
   村女(むらをみな)ひそかに筆とれるか宛字(あてじ)がちに三丸太(さんまるた)など書ける教義本(をしへぶみ)
その傍らに古き信者がもっていた麻縄の鞭――そのにぎりの棒は古び、縄がよれよれになっているのを見て深く感激し、「麻縄の鞭」一連の作を詠じた。
   苦行人(くぎやうびと)この麻縄の鞭とりあげ血ぶくまで我をうちけむか我を
   炎なす信(しん)の心をもちつつなほ我を呵責しうちけむ鞭か
   この鞭や神の真鞭(まさむち)うつそみの身も心をもうちくだけとふ
   悲しかも苦行足(た)らざる我を我とむちうちうたむ此の鞭とりて
   心おぞくい行くべきをも行きがてぬ懦弱の我をわれむちうたむ
   こころをしひておさへて忍びをり恇怯の我をわれむちうたむ
   感(かま)くるこころのまにま直(ひた)進む軽躁の我をわれむちうたむ
佐賀高校長森岡氏に案内されて、市の郊外東与賀村に三浦虎次郎君の墓を訪うた。
   縁(えにし)ありてわが歌、君を世に伝へき今日し吾が詣づ「勇敢なる水兵」の墓
   刈田には稲こづみ多しただむかふ金立(こんりふ)の山に虹たてり見ゆ
         (稲こづみは稲むらの地方言)
佐賀高等学校に講じて、
   大き陸(くが)の広く、大き洋(うみ)の果知らず、ひた進みゆかむ若人を寿(ほ)ぐ
熊本医科大学に講じて、
   懸崖の菊の一鉢咲きしだり広き講堂をなごやかにせる
細川家別邸に、玄旨法印書写の典籍を見て、
   むかし人心のどやかにまめやかに合戦(たたかひ)の間にも写しし歌書(うたぶみ)
鹿児島県阿久根には、冬の初め、朝鮮から鶴が多く群れ来ると聞いて、毎年行き見まほしく思ひつつ果さずにおった。今年五月に文部省から、十一月九州に文化講義をとの嘱をうけ、むしろ「人やりの道」なりせばと思うて、熊本までは来たのであった。しかるに熊本で病むことになった。
   隼人(はやと)の国海わたりくる鶴群(たづむら)を見むとは来しか旅の途(みち)に病む
   阿久根のや百千鶴群ゆき見がてぬ熱ばめる目に百千(ももち)乱れ飛ぶ
   熱ばめる目をとぢてをり我死なばなげくらむ顔が濃くうかびくる
すべなくて熊本より帰京した。車中、英霊十一柱と同乗して、
   車窓(まど)ゆ仰ぐ夜空に月の光きよし英霊も見ませ筑紫路の月ぞ
先人の遺著土佐日記、更科日記、十六夜日記等の俚言解を口訳国文叢書として補訂出版した。
南京飛行場なる展望台の前に自分の歌碑が建った。
   神国(かむぐに)の海のあら鷲大き陸(くが)の空とよもしし功(いさを)はかがよふ
南京航空隊の上阪司令官からその写真をおくられた。
   わが歌にわが魂(たま)ごもりとこしへに仰ぎたたへむ海の荒鷲を
         (かくは詠んだが、事変後とりくずされたことであろう。)
小林愛雄、葛原しげる、弘田竜太郎君と協力して「愛国唱歌」第一集が刊行され、予の「正義の軍」、「総攻撃の前夜」を掲げた。
十二月 斎藤茂吉君と共選の「支那事変歌集」が読売新聞社から出版された。

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