【翻字】
[庄]どふして手前(てめへ)の懐(ふところ)にあつた物を人にたのまれたの
なんのといつてすむもんだそりやアはや手めへはだま
す事が上手だから合点(がつてん)するものもあるかしらねへが
おいらアまあ合点はしねへ[中]そんならおめへどふでも
なんのといつてすむもんだそりやアはや手めへはだま
す事が上手だから合点(がつてん)するものもあるかしらねへが
おいらアまあ合点はしねへ[中]そんならおめへどふでも
うたぐりなんすかへ[庄]しれた事さ[中]わつちやア又お前
もお幸(かう)さんの事なんぞも咄(はなし)なんすもんだから隠し
ちやア結句(けつか)わるかろふと思つて(是より泣(なき)声になり)そして又だま
すが上手だといひなんすが何がおめへをだました事
がごぜんすいかにわつちがよふな者だとつてもそん
なにいぢめなんす事(こた)アおざゐせん[庄]何も手前を
いぢめやアしねへ[中]それでもいつお前をだました事
もお幸(かう)さんの事なんぞも咄(はなし)なんすもんだから隠し
ちやア結句(けつか)わるかろふと思つて(是より泣(なき)声になり)そして又だま
すが上手だといひなんすが何がおめへをだました事
がごぜんすいかにわつちがよふな者だとつてもそん
なにいぢめなんす事(こた)アおざゐせん[庄]何も手前を
いぢめやアしねへ[中]それでもいつお前をだました事
がごぜんしてたますが上手だのなんのといゝなんす
[庄](少しこまりかんがへて)そんならいおふか夏中(なつぢう)手前がいふ事にやア
帷子(かたびらを着て寝るとしわに成(なつ)て悪いから浴衣(ゆかた)を
拵(こしらへ)て置(おゐ)てやろうといつたがとふとふ出来ずに仕廻(しまつ)
たじやアねへか[中]それがそんなに腹が立(たち)いすかへ下町の
客衆(きやくしゆ)が金をとられるはづだつけが夫から来はせず夫に
盆前にもちつとでもお前の方(ほう)イ足(たし)たからどふも
[庄](少しこまりかんがへて)そんならいおふか夏中(なつぢう)手前がいふ事にやア
帷子(かたびらを着て寝るとしわに成(なつ)て悪いから浴衣(ゆかた)を
拵(こしらへ)て置(おゐ)てやろうといつたがとふとふ出来ずに仕廻(しまつ)
たじやアねへか[中]それがそんなに腹が立(たち)いすかへ下町の
客衆(きやくしゆ)が金をとられるはづだつけが夫から来はせず夫に
盆前にもちつとでもお前の方(ほう)イ足(たし)たからどふも
出来ねへもの[庄]盆前の事がそれほど惜(おし)くはゑへはサ
ひどひ工面をしてあの金はけへそふ[中]ナニサそれが惜い
のほしいのでそふいふのじやアございせんはナなんでも
一言いへばその様に言葉質(ことばじちよ)を取(とつ)ていぢめなんす(なきながら)
お前も又男のよふでもねへそらほどわつちがいやに成(なり)
なんしたらさつぱりときれてお幸さんでも誰でも
よびなんしたがよふごぜんす今迄お心安く致(いたし)ゐし
ひどひ工面をしてあの金はけへそふ[中]ナニサそれが惜い
のほしいのでそふいふのじやアございせんはナなんでも
一言いへばその様に言葉質(ことばじちよ)を取(とつ)ていぢめなんす(なきながら)
お前も又男のよふでもねへそらほどわつちがいやに成(なり)
なんしたらさつぱりときれてお幸さんでも誰でも
よびなんしたがよふごぜんす今迄お心安く致(いたし)ゐし
て色々な事をも申(もうし)んしたが嘸(さぞ)お腹も立(たち)ゐせう
が堪忍(かんに)しておくんなんしお前斗(ばかり)アそふしたおこゝろ
じやア有(ある)めへとおもつてほんに勿躰(もつてへ)ねへ親もうみつけ
ねへからだにまで疵(きず)ウ(とあとはいはず此所にていよいよなく)
が堪忍(かんに)しておくんなんしお前斗(ばかり)アそふしたおこゝろ
じやア有(ある)めへとおもつてほんに勿躰(もつてへ)ねへ親もうみつけ
ねへからだにまで疵(きず)ウ(とあとはいはず此所にていよいよなく)
【通釈】
庄兵衛「どうして自分のふところにあったものを、人に頼まれたのなんのと言って済むものか。そりゃあ、もともとお前は(人を)だますことが上手だから、(そんな言い訳で)納得するものがいるか知れねえが、俺はまあ納得はしねえ」。お中「そんならあなた、どうしても疑りなさるかえ」。庄兵衛「(答えるまでもなく)知れた事さ(疑うよ)」。お中「私は又、あなたも幸さんのことなんぞも(隠さずに私に)話しなさるもんだから、(私のほうも)隠しちゃあ、かえって悪かろうと思って」。お中はここから泣き声になり、「そして又『(私は)だますのが上手だ』と言いなさるが、どうして(私が)あなたをだましたことが(今までに一度でも)ございますか。(つまらない女郎である)私のような者だといっても、そんなにいじめなさる事はございません(でしょう)」。庄兵衛「何も(俺は)お前をいじめはしねえ」。お中「それでもいつ(私が)あなたをだました事がございまして、(私のことを)だますのが上手だの何のと言いなさる?」。庄兵衛は少し困り、考えて、「そんなら言おうか。夏のいつだったかに、お前が言うことにゃあ、『帷子を着て寝るとしわになってよくないから、浴衣をこしらえておいてやろう』と言ったが、とうとうできずに終わったじゃねえか」。お中「それがそんなに腹立ちますかえ?下町の客のお金を受け取れるはずだったのが、あれから(この店に)来ず(じまいで結局もらえず)、その上、盆前に(たとえ)少しで(はあって)もあなたの方に(お金を)回したから、(それでお金が足りなくなって、浴衣が)どうしてもできねえもの(、嘘をついたのではありませんわ)」。庄兵衛「盆前の(俺にくれた金の)事がそれほど惜しいなら、いいさ、たいへんな工面をして(でも)あの金は返そう」。お中「何さ、それが惜しいとか欲しいとかでこういうのじゃございませんわ。何でも(私が)一言言うと、そのようにそれを証拠にして取って、(私を)いじめなさる。今までお心やすくいたしまして、色々なことを申しましたが、さぞお腹もお立ちでしょうが、堪忍して下さい。あなただけは、そういうお心じゃあなかろうと、(私は今まで)思って、本当に恐れ多い(ことでした)。親も(こんな風には)産み付けなかった、この体に傷・・・」と、後(の言葉)は言わないで、ここのところでいよいよ(激しく)泣く。
【語釈】
・はや・・・実は。ほかならぬ。もともと。
・幸さん・・・不詳だが、おなじ深川の女郎であろう。
・けっく・・・かえって。むしろ。反対に。
・何が・・・反語の意を表す。どうして…か、そんなことはない。
・じゅう・・・ある期間のうちのある時。
・帷子・・・生絹 (すずし) や麻布で仕立てた、夏に着るひとえの着物。
・言葉質・・・人の言ったことを、のちの証拠として取っておくこと。また、その言葉。言質 (げんち) 。
・きず・・・相愛の男女がその愛の変わらぬ証としてした、刺青、切指、爪を抜く等の「心中立て」による傷。
【解説】
庄兵衛とお中の痴話喧嘩は、園大夫への手紙から、思わぬ方向へどんどんと流れて展開していきます。読んでいて仲裁する気にもならないばかばかしい展開、まさに痴話喧嘩です。
読んでいてわかることは、庄兵衛にお中がお金や贈り物を渡したり約束したりしていることです。前の「変語」では、女郎のほうが客にものをねだり、客がそれに応じていました。それをごく一般的な女郎と男客の関係だとすると、本編の庄兵衛とお中の関係は、レアケースとまでは言えないまでも、女郎のほうが男客に入れ込んでいる、ありそうでなかなかない関係であったようです。「粋事」という編名も、それを示唆しています。
ともかく、最後にお中は互いの関係を清算しようと言って、泣き崩れます。これは職業上の演技なのか、それとも愛情からの真実の涙なのか、私には判断がつきません。そこがおそらくは本編の作意であると同時にその文学的価値でもあるのでしょう。B級文学ではあるでしょうが、B級にはB級の価値があるものです。