江戸期版本を読む

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 三 蜻蛉日記

  一 輪郭

 作者は藤原倫寧の女で、藤原兼家の妾となり、道綱を生んだ。自分の家は国司で終る程度であるから先づ中流であるに対し、兼家は師輔の三男、道隆・道長の父で、後には摂政・太政大臣になつた人であるから、それこそ一流である。かやうに家柄の相違は作者を幸福にしなかつた一つの原因であつたと考へられる。兼家には正妻もあり愛人もあつたが、これは必ずしも兼家に限つた事ではない。処が作者は美人で貞操堅固の女であつた。兼家から貞操を疑はれたことも一度だけあるが、事実は全く無根であつた。それで作者は兼家の愛を独占しようとする。少くとも兼家の真心に触れて愛撫されようとするが、妻妾の多い兼家にそれを望むことは困難であつた。のみならず兼家は公達として何不自由なく育つたのであるから、生真面目ではなく串戯もいひ、からかひもし、作者を愛しなかつたわけでも不誠実でもなかつたが、気が向けば作者を訪れ、それで何日もとだえるといふわけで、落窪物語に出てくる道頼の少将のやうに律儀ではなかつた。かういふ二人の間の喰ひちがひは作者を不幸にせずにはおかない。相手の心がいつの間にか他の女に移つてゐる。男性の移り気、気まぐれはこんなものかと思ふが、裏切られたと思ふと腹が立つてしやうがない。兼家はいろいろと言ひわけをしたり、愛撫の詞をかけてくれるが、わけなくほだされるわけには行かない。言ひわけは皆うそだと思ひ、悪い事と知りながら、ついつい反抗がましくなる。抑々作者の性質は片意地に出来てゐる。剛情といへばいへる。一旦かうと腹をきめると、なかなか解けない。串戯やからかひは一本気な作者にとつて、とても堪へられないのである。男性はもつと真剣であり、厳格であつてほしいと思ふが男の心を自由にする事ができない。かういふ不満の生活がニ十年もつづくのである。
 日記は三巻に分れ、天暦八年から天延二年に及んでゐるが、其の間の重な記事を拾つて見ると次の如くである。天暦八年兼家が通ひ初めた事、父の倫寧が陸奥に下つた事、天暦九年道綱が生れた事、兼家の心が町の女に移つた事、天徳元年町の女が男の子を生んだ事、応和二年しはぶきにて山寺に籠つた事、康保元年母の身まかつた事、頼もしき人が遠き任地へ下つた事、康保三年兼家病気の事、既に十二歳になつた道綱が父母のいさかひを悲みいたむ事、康保四年村上天皇崩御あらせられた事、安和元年の初瀬詣、安和二年西宮左大臣配流の事、我が身大病の事、天禄元年辛崎へ祓へに行つた事、兼家のとだえを怨み、死なん、さまを変へんと願ひ、兼家の愛を奪つた女をあれこれと思ひ巡らして嫉妬する事、石山詣をした事、道綱元服の事、天禄二年呉竹を植ゑ仏に身の上を訴へ、昔の無信仰を悔いる事、夢にさいなまれる事、遂に鳴滝に籠つた事、道綱の哀訴によつて山を下りた事、再び初瀬詣をした事、天禄三年養女をした事、死を予言された事、天延二年右馬頭が養女に求婚した事、もがさ流行して道綱煩つた事、二少将卒した事、かくして天延二年の暮まで記しつづけて日記を終つてゐる。此の内天禄元年以後は記事が詳細であるが、それまでは疎略である。天禄三年以後、即ち下巻は文章の調子が少しだれてゐる。天徳三年から応和元年までの三年間は記事を欠き、その他にも脱文がある。
 日記に書き現された感情内容は兼家に対する愛憎の二つが中心となつてゐるが、又身辺を顧み、自己の姿を反省し、父・母・叔母・子などに馴れ親しみ愛する所の感情を記してゐる。其の重なるものを挙げてみると次の如くである。悲しさ(母の一周忌、たのもしき人の任国へ下る別れ)やるせなさ(道綱片言にて兼家のものまねをする、大病にて遺言かく)哀切(鳴滝に籠る)寂しさ(呉竹を植ゑるころ)悲哀(もがさ流行)安けさ(火事の夜に兼家見舞に来る)朗かさ(庭はく翁、蝉の鳴く)静けさ(雨のどかに降る)うれしさ(兼家の親切なる時)等。それから読者の作者に対する同情として著しいものは、いぢらしさ(桃の花を飾りて待つに兼家来らず)である。作者の精神としては、思ひつめた心(死にしがなと祈る)寂しいあきらめ(宿世を嘆く)恐怖(死を予告されて)などが著しい。
 此の日記の慣用語句を拾つて見よう。先づ「さわぐ」「ののしる」が屡々用ゐられてゐる。「天下の」といふ形容も多い。敬語の「る」「らる」が目立つ。動詞「あり」を「をる」の意味に用ゐたものが多い。例へば「いはんやうも知らである程に」「心うしと思ひてあるに」「渡り給ひてあるに」の如くである。指示代名詞の「この」を軽い意味で用ゐたものがある。例へば「このもろともなりつる人」「このひとり車にて物したる人」「この石山にあひたりし法師」の如く、句を隔てて「この」が懸る場合である。「親とおぼしき人」「例の家とおぼしき所」の如く、「……とおぼしき……」の形式も慣用されてゐる。
 形容詞・副詞の類としては「ほそし」「心ぼそし」「はかなし」「悲し」「あはれ」「かすか」等が此の作者の心情をいひ現す常套語で、特に「心ぼそし」は愛用語と見られる。「心やすし」「めやすし」「のどか」「のどやか」などは心の平静な場合をいひ現し、「こまか」「こまやか」は手紙などに情をつくしたのをいひ、「わりなし」は不可抗力をいひ現してゐる。気の利いた形容詞・副詞としては「あはつけかりしすきごと」「ひやうとよりきて」「いとほがらかにうち笑ふ」「うら若く」の如きもの、又「つぶつぶと涙ぞおつる」「むらむらしげりて」「こぼこぼはたく」「人いと多くきらきらしうて」「なへぐなへぐ見えたり」「よよと泣く」「ほろほろと涙こぼる」の如き畳語も甚だ多い。
 「心」「胸」といふ語が色々に用ゐられてゐる。「心」の方は「心づきなし」「まけじ心」「かくのみ心をつくせば」「心をきりくだく心地す」「わきたぎる心」「心の鬼」「心おちゐて」「うつし心」「心のほしきに」などといひ、「胸」の方は「胸いたし」「胸はあきたる」「胸つぶらはし」「胸うちつぶれて」「胸さくる心ちす」「胸うちさわぎて」「胸はしりする」「胸のひむら」「胸ふたがる」「胸つぶつぶとはしる」「胸のこがるることは」「胸やすからねど」などと用ゐてゐる。
 此の日記の価値は、(イ)日記文学として質量の偉大である事、(ロ)告白文学として最初のものである事、(ハ)文章そのものに気分をこめてゐる事、(二)平安朝女性としての内面を遺憾なく示し、生活感情をさまざま書き現してゐる事、(ホ)世間・家庭・個人の生活、風俗・世態・衣食住・信仰・趣味などを細々と記してゐる事などである。

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  二 紀貫之の思想

 此の日記を読んで誰でも気のつく事は、とかく貫之が人情の厚薄を喜び嘆いてゐる点である。これは貫之晩年の気むづかしさの現れ、或は旅の憂鬱からくる自然の皮肉とも一応は考へられるが、一歩立ち入つて考へると、貫之は厚意のある人々との間に温い情の世界を築かんとし、反対に此の希望を裏切るやうな不人情漢に対して極度の嫌悪を感じ、言を尽して悪罵を放つてゐるものと考へられる。さうして此の態度が若し貫之一個の住みよい生活の為であるならば、ああまで嫌悪を感じ悪罵を放たなくても済むのである。だから貫之としては世間そのものを住みよくしようとする正義観があつたと見てよい。後で述べるやうに貫之は大の国粋的な立場をもち、又文学にしては政教的な立場をとつてゐる。その貫之がこれだけの正義観をもつてゐたとしても不思議ではあるまい。而して温い情の世界は和の精神の現れであつて、それが又日本文学の本質をなすものであるから、貫之の此の主張は大きな根柢の上に立つたものであるといふべく、而も貫之は此の立場を思ふ存分主張し遠慮なく不人情を悪罵する為にわざわざ女子に仮托して筆を進めたのであらうとする説(1)すらある。
 以上は貫之の奥にもつ本心といつたものを述べたのである。今この主旨から日記の本文に少しづつ触れて行かう。十二月廿七日の條に

  楫取、物の哀れもしらで、おのれし酒をくらひつれば、早くいなむとて、潮満ちぬ、風もふきぬべしとさわげば、舟に乗りなむとす。

といひ、楫取の下衆らしい感じと、之に対して噛んで吐き出すやうな気持をよく現してゐる。次に正月九日の條に

  つとめて、大湊より奈半の泊を追はむとて漕ぎいでにけり。これかれたがひに国のさかひの内はとて、見おくりに来る人あまたがなかに、藤原のときざね、橘のすゑひら、はせべのゆきまさ等なむ、み館よりいでたうびし日よりここかしこに追ひ来る。この人々ぞこころざしある人なりける。この人々の深き志はこの海にも劣らざるべし。

とある。これは貫之も満足に思ふ所である。感激の気持をこれ以上言葉をつくして縷々述べるといふことは、貫之にはできなかつたので、これが精一杯である。又同じ日に

  これより、今は漕ぎはなれてゆく、これを見送らむとてぞ、この人どもは追ひ来ける。かくて漕ぎゆくまにまに、海のほとりに泊れる人も遠くなりぬ。舟の人も見えずなりぬ。岸にもいふことあるべし。舟にも思ふことあれど甲斐なし。

とある。流石に土佐国を離れ、厚意ある人にも別れる。其の感慨が聊か文面に現れてゐるといつてよからう。「岸にも云々。舟にも云々。」の対句は簡潔な名文句といへよう。又同じ條に

  漕ぎゆくまにまに、山も海もみな暮れ、夜ふけて西東も見えずして、てけのこと楫取の心にまかせつ。をのこもならはぬはいとも心細し。まして女は舟底に頭をつきあてて、音をのみぞ泣く。かく思へば舟子楫取は舟唄うたひて何とも思へらず。

とある。海上の不安、心細さなど簡単ながらよく現れてゐるが、やはり楫取の平気な態度が気にくはぬ趣である。二月九日の條に

  京の近づくをよろこびつつのぼる、かくのぼる人々のなかに、京よりくだりし時に、みな人子どもなかりき。いたれりし国にてぞ子うめる者どもありあへる。人みな舟のとまる所に子を抱きつつおりのりす。これを見て昔の子の母、悲しきに堪へずして、
   無かりしもありつつかへる人の子を
       ありしもなくて来るが悲しさ
  といひてぞ泣きける。

とあり、又二月十六日の條にも「舟人もみな子たかりてののしる」とある。これはどんなに羨しかつたことであらう。そこにあるものは哀れな情であるが、可憐の情にひたること、子を失つた悲しみに他人の同情してくれること、これは共に貫之の求めてゐる情の世界である。二月十六日の條に

  かくて京へいくに島坂にて、人あるじしたり。必すしもあるまじきわざなり。立ちてゆきし時よりは、帰る時ぞ人はとかくありける。これにもかへりごとす。

とあり、又

  家にいたりて門に入るに、月あかければ、いとよくありさま見ゆ。聞きしよりもましていふかひなくぞこぼれやぶれたる。家をあづけたりつる人の心も荒れたるなりけり。中垣こそあれ、一つ家のやうなれば、のぞみてあづかれるなり。さるは、たよりごとに、物はたえず得させたり。今宵、かかることと声高にものもいはせず。いとはつらく見ゆれど、こころざしはせむとす。

とある。この二つは辛辣な皮肉である。島坂の方は下る時よそよそしくしておき乍ら、帰つてきた時にはちやほやする。その余りの軽薄にはツンと虫に障るが、じつとこらへて、自分は一層義理堅く返礼をしたのである。隣人の方は反対に下る時は如何にも親切さうにお留守番をしてあげませうといひ、気のよい貫之はしかと留守番をしてくれてゐるものと思ひ、絶えず金銭を送つてゐたのに帰つて見ると随分のあれやう。庭の松の木も随分と伐られてゐる。家の者も憤慨して大声に罵るが、紳士的な貫之は「まあ今宵だけはいふな、我慢せよ」といつて制し、とにかく名前だけでも留守を預つてくれたのだからとて、お礼だけはした。如何にも義理固い貫之である。
 猶、貫之の思想として注意すべきものは和歌尊重の思想である。一月廿日の條に、

  昔阿倍の仲麻呂といひける人は、もろこしに渡りて、帰り来ける時に舟に乗るべき所にてかの国人、馬のはなむけし、別れをしみて、かしこのからうた作りなどしける。あかずやありけむ、廿日の夜の月いづるまでぞありける。その月は海よりぞいでける。これを見てぞ、仲麻呂のぬし、わが国にはかかる歌をなむ、神代より神もよんたび、今は上中下の人も、かやうに別れをしみ、喜びもあり、悲しびもある時にはよむとてよめりける歌、
   青海原ふりさけ見ればかすがなる三笠の山にいでし月かも

とあるが、わが国にはかかる歌をなむ云々以下は、和歌は日本固有の詩歌形式で、その起原は神代に遡るといふことを、仲麻呂が唐土で主張したといふのである。果して仲麻呂がさういふ事をいつたか否かは別として、貫之自身がかういふ思想をもつてゐたので、之を仲麻呂に仮托したのであらうと考へられる。この貫之の思想は古今集仮名序に於ても同様であるから、純粋固有のものを神代に遡つて求めようとする思想は貫之の持論とみてよからう。

 註(1)小宮豊隆氏--土佐日記の研究(改造社の日本文学講座)

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 二 土佐日記

  一 此の日記の欠点

 土佐日記は古今集の撰者として有名な紀貫之が、土佐守の任を果てて京に上る時の海路日記である。承平四年(一五九四)十二月廿一日土佐を出発し、翌年二月十六日京の旧宅に入るまで五十五日間の生活が日を追うて記されてゐる。
 此の日記は今から丁度千年前の著作に係るが、之を読むものがそこに千年の隔りを見出すことは困難である。何となれば今日我々が日常使つてゐる語彙がとても多量に見出されるからである。たとひ我々が註釈書なしに此の日記の本文だけ読んだとしても、大意をつかむに困難を感じないであらう。文法・発音は稍々異つてゐるが、それも現代の文法・発音から連想もつかないといふものは極めて稀である。かういふ現象は単に土佐日記に止まらない。総べての古典に於て、程度の差こそあれ、同様のことがいヘる。これは決して偶然の出来事ではなく日本の言葉・文章の伝統性を物語るのである。何故に伝統性が保たれたか、この説明は述べるとなると際限がないので、ここでは一切触れないこととする。ただ我々は古典に対する態度として、さう古い物扱ひをしないで、身近なものと見ようとするのであるが、かういふ態度をとる理由としてかやうな事情を述べるに止めておく。
 此の日記を一読したものは、誰でも此の日記性質とか価値とかに対して疑問と失望を抱くに相違ない。作者は土佐を出発するに際して、京から連れて行つた女児を失つたといふに、日記中には至る所に諧謔を飛ばしてをるが、厳粛な悲みとか深刻な心情とかいふものは少しも現してゐない。これは作者自身が諧謔の好きな男で、厳粛深刻な体験を忌避してゐるのではないかと疑へば疑へる。それから此の日記は徒らに海上航行の不自由な生活をかこち、或は楫取にあたりちらし、例へば「この楫取は日もえはからぬかたゐなりけり」の如くいひ、或は知人・隣人に対して白眼を向けてゐるが、その反面少しも生活そのものの叙述に力めようとした跡が見えない。かかる主観の羅列のどこに文学的な価値があるか、甚だ疑はしいものであるといふ不満が起るであらう。此等の疑問は一応尤もなものであるが、これは何れも土佐日記を正しく理解して行く上の用意を欠いてゐる結果である。
 土佐日記を正しく理解する為には、作者の性格、年令、身辺の事情、旅行の性質を始め、作者の文学観などを予め十分に理解しておく必要がある。先づ作者の日記に現はれた性質は「こちこちしき人」にて(二月七日の條)義理堅く、他から厚意を示されると何か之に対する返礼をしなければ気の済まないといふ、稍々潔癖性をもつてゐる。作者の年齢はよくわからないが、正月廿一日の條に、海上航行の不安と海賊襲来の恐怖とから気をくさらし「頭もみなしらけぬ、七十八十は海にあるものなりけり」といつてゐる所から見ると、六十歳位であつたと想像され、交通の不便な上にも不便な僻地に老骨をもつて赴任してをつたわけである。されば今任が果てて京に帰へるのは嬉しいのであるが、天候を案じながら貧弱な舟でのろのろと航海して行き、あけてもくれても不自由な生活をつづけてゆく事は、現代の我々の想像もつかないほど憂鬱なもので、一寸のことでも気に障り腹立たしくなり、爪はじきをせざるを得ないのである。その上国司在任中征伐してゐた海賊が復讐するといふ心配もあるし、自分としては愛児を失つた心の痛手もあるし、貫之としては実に気の毒な同情すべき状態であつたといへる。かういふ風に作者の心情を同情してみるならば、早く京に帰りたいといふ待望が交通の不便に妨げられ、不自由な苦しい生活に押しひしがれた「わびしい」感情が、日記の大部分を占めてゐる理由が理解されるであらう。土佐を出発して今日で何日、今日で何日と物憂い日の続くのを指折り数へてゐる倦怠は、実に堪へ難いものであるが、その内にも順風が吹いて船路の安全な日ほど嬉しいことはないのである。若し作者が女性であつたならば、かういふ海上生活の苦痛・倦怠の中からも、単純に京に帰れる喜びのみを強調し、読者には決して不愉快な方面を示さなかつたかもしれないが、貫之としてさういふあどけない態度を示すには余りに「こちこちしい」性質の持主であつたのである。同様にして愛児の死の悲しみに就いても、何もかも忘れて唯悲嘆の情のみを強調するといふ風のひたむきな態度になるには、余りに海上生活は憂鬱に満ちてゐたのである。寧ろ土佐日記としては物憂い倦怠の中に、京に帰る喜びと、愛児を失つた悲しみとが、無秩序に横はつてゐるといふ所に特色があるとみるべきである。
 次に貫之の文学観といつたものを考へてみよう。貫之は漢文学から仮名文学への過渡時代に出てきて仮名文学を開拓しようとしたのであるが、その時代にはまだ後の優雅・優美といふやうなものを現実の全生活の中に見出す迄には至つてゐない。誠にほのぼのとした状態でただ趣向のをかしさといふやうなものを考へてゐた程度である。その趣向といふのが、古今集に夥しく見える懸詞・縁語によつて表現されるやうなものであつた。又物名や誹諧的な趣向もその内に含まれてゐる。又単純な対照や駢儷など、例へば「もとごとに浪うちよせ、枝ごとに鶴ぞ飛びかふ」「黒き鳥のもとに白き浪をよす」の如き趣向、又、単なる配合、例へば「所の名は黒く、松の色は青く、磯の浪は雪の如くに、貝の色は蘇芳に、五色にいまひと色ぞ足らぬ」の如き趣向、又、単なる譬喩、例へば「春の海に秋の木の葉しも散れるやうにぞありける」の如き趣向も此の内に含まれてゐる。かういふわけで貫之の芸術的態度は近代人のやうに深刻強烈なものでなく、とても物柔かなほのぼのとしたものであつて、克明な写実をなすとか深刻強烈な悲嘆を訴へるとかいふ風に迄は進み得なかつたのである。土佐日記が何となく素朴であるのは専ら以上のやうな理由によると思ふのである。

校訂者注)1:「深刻な心情」、底本は「深到な心情」。誤植と見て訂正。2:「用意を欠いてゐる」、底本は「用意を欠いでゐる」。誤植と見て訂正。

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  二 日記文学の発達

 年月日を追ふ所の記述には早く六国史がある。六国史の中には文学的要素が多分に含まれてゐるけれども、その故に六国史を日記文学として取扱ふといふ事はなく、若し文学として取扱ふならば、歴史文学といふ名称を与へるのがふさはしい。これは年月日を追うて記述するといふ形式的な條件が、決して日記文学の本質に係らないといふ事を意味するのである。但し編年体の六国史を以て国家の日記と見ることは一向に差支ない。個人の日記がいつ頃から記し始められたかは明瞭でない。日記の原本の残つてゐる最古のものとしては、(1)正倉院文書中に天平十七年二月から翌年二月までのものがある。おもに写経に関するもので、其の中には唐の使を召されたことが見えてゐて、国史の闕を補ふ所がある。
 日記の種類としては御歴代の(2)御日記を始め奉つて、其の他を文体によつて漢文の日記と仮名の日記とに分かち、性質によつて普通の日記と旅日記とに分かち、記述の方法によつて回想体と当日体とに分かつ事ができる。普通は一人称を以て書いたものであるが、中には和泉式部日記の如く三人称を用ゐたもの、弁内侍日記・中務内侍日記の如く第三者の編纂したものもある。公卿の書いた漢文の日記は有職故実の目的で典儀・行事などを記したものである。(3)中右記に小野宮家の事を日記の家といふのは有職故実の家といふ意味である。仮名の日記は土佐日記に始まり、以下文学的なものが多い。普通の日記と旅日記とは厳密には区別し難く、土佐日記の冒頭に

  男もすなる日記といふものを女もして心みむとてするなり。

とあるのは、必ずしも旅日記に限らないで、寧ろ日記と紀行とを区別しない日記であり、更級日記の如きは群書類従では紀行の部に収められてゐる。
 旅日記としては古く円仁の(4)五台山巡礼記、円珍の(5)行歴記がある。三代実録貞観十五年七月八日の條に、渤海人崔宗佐以下が肥前国天草郡に漂着し、朝廷は大唐通事張建忠を遣して事の由を覆問し、情状を審実せしめられるとある所に、宗佐等の日記、齎す所の蝋封の凾子、雑封書、弓剣等を奉進すとある。この日記は航海日誌と思はれるが、もとより邦人の手になるものではない。続日本後紀承和九年辛亥(十九日)の條に「正躬王・真綱朝臣等、窮問罪人、奏其日記」とあるが、これは窮問の日記であらうか、それとも罪人(橘逸勢・伴建岑など)の日記であらうか、明かでない。宇津保物語には俊蔭の父の式部大輔が、俊蔭の入唐した日から丹念な日記をつけたとある。此の日記は前後の記事から推して漢文の日記であることが明かであるが、後の成尋阿闍梨母の如く愛児を海外に出した不安や愛慕の情から自然に筆を執るやうになつたもので、よほど文学的なものたり得ると考へられる。かくして土佐日記となり蜻蛉日記となるのであるが、蜻蛉日記には西宮左大臣配流の事を記した所に「身の上をのみする日記には入るまじき事なれども」とあつて、個人的な日記といふ自覚をはつきりと示してゐる。
 日記文学が其の文学的な機能を最もよく発揮したのは平安朝である。文学形態の発展の上から見ると、平安朝に於ては歌集の外に物語・日記・随筆・歴史文学・説話集といふ風に、新しい形態が発展してきて、その新しい形態のそれぞれの面に添うて、新しい文学精神が発達してゐるのである。処が此等の新旧の諸形態の奥底には相互に流通するものがあつて、日記の方面で培養されて円熟してきた「あはれ」「かなし」などの精神・感情が物語の方面の文学精神を刺戟し、ひきしめ、美化し、文学発展の原動力となつてゐるのである。日記の精神はそれほどまでに物語の発展に貢献してゐるのであるが、かういふはたらきは文学の諸形態がはつきりと分化してゐなかつた為に可能であつたと考へられる。
 日記文学の精神内容に就いて形態(型)の種類を分つて見ると、
 (イ)純粋真実の自己を求めるもの
 (ロ)自己の位置すべき純粋真実の世界を求めるもの
 (ハ)自己の現状を訴へるもの
 (ニ)自己の感情を強調するもの
等が考へられる。紫式部日記の中には宮仕の女房としてはどうあらねばならぬか、つつしみの徳を守ると共に、情なからずもてなすべきであるとして一つの理想を示してゐるから(イ)に属する部分があるといへる。土佐日記には世間人として温き情の世界を求め、蜻蛉日記は妻として完全な愛の世界を求め、更級日記は少女としてロマンスの世界を求めてゐるから、何れも(ロ)に属すると見てよい。此の場合には住むべき世界を見出す為に苦悶し懊悩し、あきらめはげまし、悲観し、運命に流され、宗教にすがり、自己を呪ひ、他を非難し、といふ風に嵐の吹きすさぶのを以て特色とする。紫式部日記も亦この型に属する部分があつて、特に時代の悩みの見えてゐる点が注意される。和泉式部は外から見れば花やかで奔放に見えるが、内面では心細く寂しく悩ましく、成尋阿闍梨母は年老いてから我が子を手離した後の寂しさを訴へ、甲斐なき老の繰言を述べ、或はこれが前世の因縁であらうかと諦めてゐるから、何れも(ハ)に属する。但し此の場合には理想主義的なものは余り見られない。讃岐典侍日記は尊く忝く、悲しく嘆かしい情を感動深く、印象的に記してゐるから、まさしく(ニ)に属するといへよう。建春門院中納言日記・建礼門院右京大夫集なども(ニ)に属すると見てよい。
 日記文学の文章は背後に真実の自己があるだけに、多少の面苦しさはあるとしても、堅実さに満ち迫るものをもつてゐる。順次文章の特色を述べて見ると、土佐日記は至って素朴で気分を文章そのものの上に現すといふまでに至つてゐないが、きりつめた簡潔ないひまはしの中に深遠な含蓄をもつものがある。例へば始の方の「年ごろよく具しつる人々なむ、別れがたく思ひて、その日しきりにとかくしつつ、ののしるうちに夜ふけぬ」に於て「しきりにとかくしつつ」は抽象的な表現ではあるが、あれもこれもと心を配り何くれと世話を焼いてくれた実状が思ひやられる。若し全体が物事を細々と記してゐるのであるならば、これだけの表現は何等の感興も起させないのであるが、全体が簡潔であるからこれだけの一寸した表現にも含蓄が出てくるのである。最も濃厚に気分を文章その上に現してゐるのは、蜻蛉日記と和泉式部日記である。これは作者が気分の中に没頭し、作者の息づかひそのままが文章となってゐるやうである。一つの助詞の終に、句のいひまはしに、語を省略した間隙に、作者の気分が溢れ出るのである。此の二つの作品の文章に就いて、(6)土居光知氏は「意識の中に生起するものを表現せんとした」ものであり「意識の流れに影をやどする事物をありのままに直接に写し出した」ものであるとし、ジエイムズ・ヂヨイスの文章法と比較してゐる。紫式部日記になるともはや気分に没頭するといふ事がなく、著しく技術的になつて場面の選択・転換、幻想と直観との配合、荘重と静寂、花やかなものと渋いものといふ風に、構成・調和の点に努力を払ひ、句の切り方と続け方とに曲線的な優美感を漂はせてゐる。更級日記になると浪漫的印象的で、強い印象をはつきりと描き出してゐるが、文章そのものは平易な構造をとり、読者は容易く作者のロマンスの中にはいつて行くことができる。成尋阿闍梨母日記は同じことをくどくどと記してゐるが、これは年のせゐであらう。讃岐典侍日記の印象的なのは更級日記に似てゐるが、文勢はいくらか足どりが重い。建春門院中納言日記は事実の描写と感情の描写とがうまく調和してゐない。建礼門院右京大夫の文は驚くべきほど明快である。

 註(1)佐佐木信綱博士--鎌倉時代の日記文学(新潮社の日本文学講座)による。
  (2)和田英松博士--御歴代の御日記に就いて(改造社の日本文学講座)を参照せられたし。
  (3)池田亀鑑氏--自照文学史(国文学体系)七一七頁を参照せられたし。
  (4)続々群書類従・宗教部(其二)に収む。
  (5)今は其の抄たる行歴抄の古鈔本が石山寺に伝はり、古典保存会にて複製したるものあり。
  (6)平安朝の日記文学(改造社の日本文学講座)

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日記文学

 一 日記文学の本質と発達

  一 日記文学の本質

 日記文学とは日記を一つの文学として見よう、日記の中から文学的なものを見出して行かうとする意図から、日記と文学とを結びつけて日記文学なる名称を設けたもので、日記文学として取扱はれる程度のものは文学的日記といふことになる。日記は抑々記録から出発したものであるから、たとひ文学的であるとしても、小説・戯曲の如く筋を設けるとか、場面を展開させるとか、面白く読ませようとか、此の如き技巧のある作品ではなく、殆んど無技巧の、素朴な正直な文学であるのは当然である。ただ日記文学に見られる作者の希望は、自己の生活を知つて貰はう、告白を聞いて貰はう、さうして同情して貰はうといふ程度のもので、他人の為にといふ意思は絶対にない。又、日記がよく文学たり得るのは、全くその人の現実の生活がよく書き現されてゐるか否かに懸るのであつて、ただ其の「よく」といふことが問題になるだけである。其の人の生活がよく書き現されてゐる日記であるならば、同じ境遇職業の人は其の日記を以て自己の生活の表現されたものと殆んど同様に考へ、異る境遇職業の人は其の日記によつて別の世界、別の生き方を示され、何れもそこに文学的な感興をもつのである。
 自己の生活をよく書き現した日記ならば、必ずや其の人の日々に経験する出来事を通して、其の人の向上・努力・苦心の生活、その反面の懐疑・悲観・自棄の心情が生き生きと表現されてをつて、読者はたとひ作者を直接に知らなくても、ただ其の表現を通して其の人の生活の波瀾と発展とを如実に見る事ができるであらう。然らば此の如きよき表現は如何にして成就されるであらうか。先づ表現されるべき生活が花やかで波瀾に富む事を是非とも必要とするであらうか。これは否と答へたい。何となれば花やかにして波瀾に富む生活をしてゐる人の数は甚だ多いにも拘らず、その書かれた日記にして文学的なものは甚だ少いからである。大臣でなくとも、芸術家でなくとも、学者でなくとも、将又重役でなくとも、我々普通人の生活の内に、日記文学の素材たり得る生活、感情、精神は夥しく横はってゐると私は信ずる。それでは表現の技術の問題であらうか。これも大体否と答へたい。なるほど毎日自分の思ふ事、した事をすらすらと書き現すことも出来ないといふのでは問題にならないが、既に記した如く日記文学としては小説・戯曲の如き特別の技巧を必要としないし、文章とても是非とも美文でなくてはならぬといふわけのものではない。ただ必要なことは真実の自己を書き現し得るか否かといふ事である。然らば真実の自己を書き現す為には何が必要であらうか。それは回顧・反省・批判といふ精神的方法によつて、真実の自己を我自らの内によく見るといふことである。換言すれば我を我に十分体験させるといふことである。或は体験に徹するといふ事である。処が多くの日記はそこまで深い精神的努力を払ひながら記される事なくして、ただ我を我に説き聞かせる程度の満足で、その日の重要な出来事をかいつまんで記すに止まるのである。随つて多くの日記は文学的たりがたいのである。ここに於て日記が文学的たり得る為には、真実の自己を我自らの内によく見ることを必要条件とし、それによつて自己の生活をもよく書き現し得るのである。
 試みに小学生の書く善行日記を取り上げて見ても、純心な子供の場合ならばそれでよいとしても、浮世に住む大人の場合であるならば、恐らくそれは偽善的にさへ見えるであらう。苟も真実の自己を我自らの内によく見るといふ以上は、善い事も悪い事もあるがままに告白し懺悔し、ありのままの自己をさらけ出さうとする真剣さがなくてはならぬ。隠さうとする卑怯もなく、顕れるかもしれぬといふ不安もなく、衝いても押しても動かない所の、赤裸々の自己が示されてゐる時に於てこそ、始めて深刻味と迫力とが出てくるであらう。
 かくいへばとて日記文学は自然主義の文学と同一であるといふわけではない。不完全な我々がただ無意味に醜悪の生活をさらけ出したとしても、それは溝の中の汚穢と何等選ぶ所がない。やはり日記文学としては理想主義的な現れを必要とする。別段あらたまつた理想主義といふ程のものはなくとも、告白・懺悔といふことが既に理想に向ふ第一歩である。ありのままの自己をさらけ出すといふことは、現実の我の中からあるべき真実の我、純粋の我を現して行く所以である。我々の生活はとかく虚偽・不純・妥協・懶惰などに陥り易いが、さういふ一切の曇を払拭して清朗にし、純粋の世界を見出して行かうとする。その為に随分と苦労し、努力し、懊悩し、鞭撻する。殊にさういふ悪徳が自分の相手の不真面目、世間の軽薄などである場合は、その抵抗や摩擦は一層烈しくなるが、それによつて自己の生活は一層実の入つたものになり、力に溢れたものとなつてくるのである。
 かやうに日記文学の本質を定めてくると、日記文学が倫理的意義に結びついてくるのである。即ち日記文学に於けるが如く、自己の真実に徹し、一切の陰翳を除き、清朗純粋の世界を求めて行くことは、それ自身既に立派な倫理生活である。その上さういふ生活を記述するとなれば、観察も批判も明確になつて一層倫理性を加へてくるのである。
 処がここに残された問題がある。それはかくして蕪雑汚穢なものが浄化されて純粋清朗にされた場合、その純粋清朗なものの実質は何であらうかといふ事である。勿論この純粋清朗といふ事は日本精神の最も重要な性質であらうが、ただ純粋清朗とだけいつたのでは、抽象的な意味しかもたない。ここに於て純粋清朗は如何なる具体的な生活に立脚したものであるかを探ねて見る必要がある。換言すれば日本文学に描き出されてゐる美は、国民生活としての如何なる方面の体験であるかといふ事である。少し回りくどくなつたが、之を日記文学に就いて見て、純粋清朗な自己とは、自己が如何に生きて行く場合を意味するであらうかといふ事である。ここまで問題の範囲を限定してくれば、単なる思想、単なる道徳、単なる宗教、単なる哲学の如きは、此の問題の範囲外であることがわからう。さうして我々が日本人としての生活の内から、最も純粋清朗真実なるものを捜れば、そこに燦然として輝かしい光を放つてゐるものは、温き情の世界であり、情を解し純情に生きる生活であることがわかるであらう。凡そ東洋の文化、殊に日本の文化は情的根柢をもつことを以て特色とし、日本文化の表現としての日本文学も亦情的立場の上から、情の内で最も純粋にして、最も美なる純情に生きようと努力してゐる。日記文学はかういふ努力を単的に書き現し、そこで培はれた精神が他の文学の根柢とさへなるのである。かくして日記文学の本質は純情の美といふ点に重大な標準を置いて規定して行かねばならぬであらう。
 或る文化が情的根柢をもつといふ観察は、其の反面に理性的根柢をもつ文化を予想したものであることは論を俟たない。情的根柢をもつ文化に於ては自他が情的親和感を以て結びつき、理性的根柢をもつ文化に於ては自他が知的理解感を以て結びつくのである。宗教でも道徳でも芸術でもすべてが情的に会得され、規範も法則も情的会得の中に自然に含まれ、普遍妥当性といつたものが以心伝心的に溢れ流れて行くのが、情的文化の特色である。日本の文学は和歌でも物語でもかういふ情的文化を表現し、優雅なやさしみを特色とするのである。日記文学はかういふ情的美の直接的な体験を、一生又は数年を単位として書き記したものである。かういふ文化並に文学は知識として説明され易いやうな論理性をもつことが少い。さりとてかういふ文化が低級であるといふわけではなく、寧ろ高級な複雑性をもつといふべきであらう。

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