江戸期版本を読む

当コンテンツは、以下の出版物の草稿です。『翻刻『道歌心の策』』『翻刻・現代語訳『秋の初風』』『翻刻 谷千生著『言葉能組立』』『津の寺子屋「修天爵書堂」と山名信之介』『津の寺子屋「修天爵書堂」の復原』。御希望の方はコメント欄にその旨記して頂くか、サイト管理者(papakoman=^_^=yahoo.co.jp(=^_^=を@マークにかえてご送信ください))へご連絡下さい。なお、当サイトの校訂本文及び注釈等は全て著作物です。翻字自体は著作物には該当しませんが、ご利用される場合には、サイト管理者まご連絡下さい。

大臣殿の舎人 附 女院吉田に移る 並 頼朝二位に叙する事

 今日、車を遣りける牛飼は、木曽が院参の時、車遣りて、出家したりし、弥次郎丸が弟に小三郎丸と云ふ童なり。西国にては、仮に男になりて{*1}、今度上りたりけるが、「今一度{*2}、大臣殿の車をやらん。」と思ふ志、深かりければ、鳥羽にて九郎判官の前に進み出でて申しけるは、「舎人、牛飼とて、下﨟のはてなれば、心ある{*3}べき身にては候はねども、最後の御車を仕らばやと深く存じ候。御ゆるしありなんや。」と泣く泣く申しければ、「何かは苦しかるべき。」とて、ゆるしてけり。手を合はせ、額を突きて悦びつゝ、心ばかりは、とり装束き{*4}てぞ車をば仕りける。道すがら、涙に咽びて面をももたげず。こゝに留まつて泣き、かしこに留まつては泣きければ、見る人、いとゞ袖をぞ絞りける。
 大路を渡して後は、判官の宿所六條堀川へぞ遣られける。物まかなひ{*5}たりけれども、つゆ見も入れ給はず。互に目を見合はせて、只涙をのみぞ{*6}流し給ひける。夜に入りけれども、装束もくつろげず、袖片敷きて臥したまへり。暁方に、板敷のきしりきしりと鳴りければ、預かりの兵、あやしみて、幕の隙よりこれを見れば、内大臣、子息の右衛門督をかき寄せて、浄衣{*7}の袖をうちきせ給ひけり。右衛門督は、今年十七歳なり。「寒さをいたはり給はん。」とてなり。熊井太郎、江田源三など云ふ者ども、これを見て、「あな、いとほしや。あれ見給へ、殿原。恩愛の慈悲ばかり無慙の事あらじ。あの身として、単なる袖をうちきせ給ひたらば、いかばかりの寒さを禦ぐべきぞや。せめての志かな。」とて、猛きものゝふなれども、皆袖を絞りけり。
 建礼門院は、東山の麓、吉田の辺に、中納言法橋慶恵と申しける奈良法師の坊へぞ入らせ給ひける。住み荒らして年久しくなりにければ、庭には草高く、軒にはこけ繁く、簾絶えて、宿顕はなれば、雨風たまるべくもなし。昔は、玉の台をみがき、錦の帳にまとはれて、明かし暮らしたまひしに、今は、かなしき人々には、皆別れ果てぬ。浅まし気なる朽ち坊に、只一人落ち著き給ひける御心の中、おし量られて哀れなり。道の程、伴ひまゐらせける女房達も、一所に候べきやうもなければ、これより散り散りになりぬ。御心細さに、いとゞ消えいる様に思し召されけり。誰憐れみ、誰はぐゝむべしとも思し召さねば、魚の陸に上がりたるがごとく、鳥の子の栖を離れたるよりも尚悲し。憂かりし波の上、船の中、今は恋しくぞ思し召し出でける。同じ底のみくづとなるべき身の、せめての罪の報いにや、取り上げられ、残り留まりてぞ思し召すも哀れなり。「天上の五衰の悲しみは、人間にもありけり。」とぞ見えさせ給ひける。
 同じき二十七日、主上、閑院{*8}より大内に行幸ありけり。大納言実房卿以下ぞ供奉せられける。内侍所、神璽、官庁より温明殿へ渡し奉らる。上卿、参議、弁、次将、皆、もとの供奉の人なりけり。三箇日、臨時の御神楽を行なはれけり。
 三條大納言実房卿参り、件の座に著きて、大外記頼業を召して、「源頼朝、前内大臣追捕の賞に、従二位に叙せらるゝ由、内記{*9}に仰すべし。」とぞ仰せ給ひける。頼朝、本位、正下四位{*10}なり。勲功の越階、常例なり。

宮人の曲 並 内侍所効験の事

 二十九日、国忌なりければ、御神楽止められ、五月一日に又行なはれける。宮人の曲、多好方、仕りければ、勧賞には、子息右近将曹好節を将監に任ぜられけり。宮人の曲と云ふは、好方祖父、八條判官資忠と云ふ舞人の外は、知る者なし。堀河院ばかりにぞ授け奉りたりける。資忠は、山村政連がために殺されければ、この曲、永く世に絶えなんとしけるを、「内侍所の御神楽行なはる。」とて、堀河院、資忠が子息近方を砌下に召し置かれて、主上、御簾の中にして、拍子をとらせ給ひ、近方に授け下されけり。父に習ひたらんは、尋常の事なり。いやしくもみなし子として、父にだにも習はざる者が、かかる面目を施す。「道をたたじ。」と思し召し、絶えたるを継ぎ、廃れたるを興し給へれば、それより以来、今にかの家に伝はる。
 内侍所は、昔、天照大神、天岩戸におはしましける時、我が御形を移し留め給へる御鏡なり。天神{*11}、手に宝鏡を捧げて、天忍穂耳尊に授け給ひて云く、「我が子孫、この宝鏡をみそなはしては、必ず我を見ると思へ。同殿に床を一にして祝ひ奉れ。」とて授け奉りしより、次第に相伝へて、一つ御殿に御座ありけるを、第十代の帝、崇神天皇の御宇に及んで、霊威に恐れ給ひて、別殿に遷し奉られて後には、温明殿にぞおはします。
 遷都{*12}の後、百六十六年を経て、村上天皇の御宇、天徳四年九月二十三日子の刻に、内裏焼亡。火は、左衛門陣より出で来りたりければ、内侍所のおはします温明殿も程近かりける上、もとより夜半の事なれば、内侍も女官も参り会はず。内侍所をも出だし奉らず。小野宮{*13}、急ぎ参り給ひて見給へば、温明殿は、はや焼けけり。「内侍所も焼けさせ給ひぬるにや。代は、かうにこそ。」と思し召し、涙を流し給ひける程に、灰燼の上にして見出だし奉りたりけるに、木印一面、その文に、「天下太平」の四字ありけり。又、南殿の桜の梢に飛びかゝらせ給ひたりけるが、光明赫奕として、朝日の山の端を出づるが如し。「代は、猶ほ失せざりけり。」と、悦びの涙、せき敢へ給はず。右の膝を突き、左の袖を披きて、「昔、天照大神、百皇を守り奉らんがために、移し留め給へる御鏡なり。御誓ひ、未だ改め給はずば、神鏡、実頼が袖に宿り入らせ給へ。」と仰せられける御ことばの未だ終はらざるに、高き梢より飛び下らせ給ひて、御袖に入らせ給へり。即ち、つゝみ奉りて、御前を進んで、主上の御在所、太政官の朝所へぞ渡しまゐらせられける。猛火の中にして損失なかりけるこそ、霊験、掲焉とおぼゆれ。「今の代には、誰人か請じ奉らんと思ひ寄るべき。神鏡も、飛び入らせ給はん事、そも知らず。上代は、目出たかりけり。」と、身の毛よだちて貴かりけり。

時忠卿罪科 附 時忠義経を婿とする事

 同じき五月三日、頭弁光雅朝臣、仰せ承つて、内大臣実定に問はれけるは、「時忠卿申し状によるに、『先帝を扶持し奉り、謀叛の臣に同意し畢んぬ。所当の罪に行なはれしむるの條、更に遁れ申す所なし。但し、内侍所においては、前内大臣、海に入る時、海中に投げ奉るべきの由、再三これを示すといへども、頭上に捧げ奉りて、帰降し畢んぬ。これ、命をたすからんがため{*14}といへども、又、微忠に非ずや。今度、罪科をゆるされ、剃髪染衣と望み申すの間、内侍所の事、義経に尋ねらるゝの処に、その実ある。』の由、言上する所なり。いか様に行なはるべきか。計らひ申すべき。」の由、仰せ下されければ、実定、返事申されけるは、「生けどりの人々の罪科の致す所、臣下の如きは、計らひ申すべきに非ず。叡慮を決せらるべきの由、先日、申し入れ畢んぬ。但し、時忠卿においては、武勇の人に非ず。申し請ふに任せて、優恕{*15}せらるゝの條、尤も善政たるべきか。」とぞ申されたりけれども、院宣の御使、花方が鼻をそぎ、髻切りなどして、「己にするに非ず。」と狼藉申し振舞ひたりけるによつて、遂に流罪に定まりにけり。
 この時忠卿子息、讃岐中将時実も、判官{*16}の宿所近くおはしけり。心猛き人なり。かほどになりぬる上は、思ひ切るべきに、尚も命の惜しく思ひけるにや、中将にかたりて、「如何はすべき。散らすまじき状どもを入れたる皮篭を一合、判官に取られたり。かの状ども{*17}、鎌倉に見えなば、損ずる{*18}者も多く、我が身も死を遁れ難し。」と歎き給ふ。中将、計らひ申し、「『判官は、大方も情ある上、女などの訴へ{*19}歎く事をば、もてはなれず。』と承り侍り。かかる身々となりぬれば、苦しむべきに非ず。親しくなり給へかし。さらば、などか情をもかけざらん。」と云ふ。時忠卿、涙をはらはらと流して、「我、世に在りし時は、『女御、后にも。』と思ひて、『並々の人に見せん。』とは思はざりき。」とて、袖を顔に当てたまへば、中将も、同じく涙を流して、「今は、云ふに甲斐なし。只疾く計らひ給ふべし。」と宣ひければ、当時の北の方帥典侍の腹に、今年十八になる姫君の、なゝめならずいつくしきをぞ、中将は申されけれども、それをば猶いたはしくおぼして、先腹に二十八に成り給へるを、内々、人してほのめかしければ、判官も、「しかるべし。」とて迎へ取りぬ。
 年こそ少しおとなしく侍りけれども、清くたわやかに、手跡うつくしく、色情ありて、はなやかなる人なり。判官、志深く思ひければ、本妻、河越太郎重頼が女も有りけれども、これをば別の方をしつらひて、すゑたり。中将の計らひ、少しも違はず。やゝ相馴れて後、かの文箱の事、申したりければ、判官、封を披かず返し送りけり。大納言、大きに悦びて、坪の中にして、これを焼く。何事にかありけん、「悪しき事どもの日記。」とぞ聞こえし。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「一時元服すること。牛飼童は皆垂髪に狩衣を著け、年齢十七八なるは無論、三十四十に至るも童と称し童体を装ふ故に仮に男に成るといふ。」とある。
 2:底本は、「今度」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 3:底本は、「心ある身」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
 4:底本は、「とり装束(そうぞ)き」。底本頭注に、「とり装ふこと。」とある。
 5:底本頭注に、「飲食物を薦める。」とある。
 6:底本は、「涙をのみ流し」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 7:底本は、「浄衣(じやうえ)」。底本頭注に、「白き狩衣。」とある。
 8:底本頭注に、「里内裏。」とある。
 9:底本頭注に、「詔勅宣命をつくり位記を書く職」とある。
 10:底本頭注に、「正四位下。」とある。
 11:底本は、「大神」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
 12:底本頭注に、「延暦十三年」とある。
 13:底本頭注に、「摂政藤原実頼。」とある。
 14:底本は、「命を扶(たす)けんがため」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 15:底本は、「優恕(いうじよ)」。底本頭注に、「宥恕。」とある。
 16:底本頭注に、「源義経。」とある。
 17:底本は、「彼の状鎌倉に」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 18:底本は、「損する者」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 19:底本は、「打堪(うちた)へ」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。

平家いけどり都入り 附 癩人法師口説言 並 戒賢論師の事

 同じき四月二十六日申の時に、前内大臣、前平大納言時忠、前右衛門督清宗已下、いけどり、入洛す。内府並びに清宗卿は、同車。八葉の車に前後の簾を巻き、左右の物見をあぐ。各、浄衣{*1}を著られたり。時忠卿、同じ車を遣りつゞけ給へり。子息の讃岐中将時実は、現所労にて渡らず。内蔵頭信基、疵を蒙りて、閑道より入る。武士百余騎、車の左右にあり。兵三騎、又、車の前にあり。
 内大臣は、四方を見廻して、いたく思ひ入りたる気色なし。さしもはなやかに麗しかりし人の、あらぬかたちに疲れ衰へ給へり。右衛門督は、うつぶして、目も見挙げ給はず。深く思ひ入りたる有様なり。
 貴賤上下、都の内にも限らず、近国遠国、山々寺々より、老いたるも若きも来り集まりて、鳥羽の南の門、造道、四塚、東寺、洛中に充ち満ちたり。人は、顧みる事を得ず。車は、轅を廻らすに及ばず。「治承、養和の飢饉、東国、西国の合戦に、人は皆、死に亡せぬと思へるに、残りは猶ほ多かりけり。」とぞ見えし。
 都を出で給ひて、僅かに三年。間近き事なれば、その有様、一つとして忘れず。今日の事柄、夢現、分けかねたり。心なき賤男、賤女までも、涙を流し、袖を絞らざる者はなかりけり。まして馴れ近付き、言葉にもかゝりけん人、さこそは、「哀れ。」と思ひけめ。年ごろ重恩をも蒙り、親祖父が時より伝はりたりける輩も、身の棄て難さに、多く源氏に付きたりけれども、昔のよしみ、いかでか忘るべきなれば、袖を覆ひて面をもたげぬ者も多かりけり。
 その中に、鳥羽の里の北、造道の南の末に、溝を隔てて、白き帯にて頭をからげ、柿のきものに中ゆひて、あふこなど突いて、十余人、別に並み居たり。乞者の癩人の法師どもなり。
 年たけたる癩人の、鼻声にて語るを聞けば、「人の情を知らず、法を乱るをば、悪しき者とて、不敵癩と申すめり。されども、この病人達の中にも、不敵なるもあり、不敵ならざる者もあり。又、たゞ人の中にも、善者も不善者も、こもごもなり。世の習ひ、人の癖なり。この法師、かやうの病を受けたる事、この七、八年なり。当初、事の縁ありて、文章博士殿に候ひし時、ゐなか侍に小文{*2}を教へられしを聞けば、『世は、人のたもつにあらず。道理のたもつなり。』と云ふ事をよまれき。又、清水寺に詣でて通夜したりし時、参堂の僧の中に、法華経を訓に綴り読む{*3}あり。近付き寄りて聴聞せしかば、『不信の故に三悪道に落つ。』と読まれき。この内外典{*4}に教へたる二つの事、耳の底に留めて、明け暮れ忘れず、心の中にたもたれて候ぞ。前世の不信の{*5}故、道理を知らざりける罪の報いにて、この世までかかる病を受けて候へども、程々に随つては、『道理をば背かじ。不信ならじ{*6}。』と、深く思ひ執りて候へば、心中をば、神も仏もかゞみ給ひて、本地垂跡の御誓ひ、誠ならば、『来世は、さりとも。』と、憑み思ひて候ぞ。
 「それについても、及ばざる事なれども、思ひ合はせらる。この平家の殿原の、世にはやらせ{*7}給ひし有様と、今日の事様と、申しても申しても浅ましく候。故太政入道殿{*8}は、申すも恐れある事なれども、道理を知らざる人にて、只我が思ふ儘に振舞はれし事は、『世一つの事にあらず。前世の果報なり。』とは思ひながら、身の程も顧みず、我が身より始めて、一家の子孫に至るまで、高き官位におし上がるのみに非ず、かけまくも忝き、帝王、院、宮を煩はし奉り、多くの上﨟達を殺し、流し、余りに狂して、不信の故に、三井寺、興福寺を亡ぼし、金銅の大仏をさへ焼き奉る。本尊聖教の咎は、何かありし。家人眷属に至るまでも、『かれの心に叶はん。』とて、欲をかき{*9}、恥を忘れたりき。皆、道理を忘れたる振舞ひと承りたりしか。答へぬ事にて、入道殿、世盛りにて亡せられぬ。取りつゞき、いつしか、数の公達郎等までも、都を打ち出でて、今日はよろづの人の口にのり、目をさます。道理を背きし故とおぼゆ。『文、そら言せず{*10}。』とは、これなり。
 「嫡子にて、いと愛し給ひし小松内大臣殿は、みめも心もよき人にて、父の入道の余りにひが事せられしを制しかねて、『平家の世は、こたふまじ{*11}。答へざる父の後まで生きて、何にかはせん{*12}。命をめせ。』と、熊野に参りて祈られければ、程もなく腫物をやまれけれども、『様あり。』とて、療治もし給はで、死に給ひき。その公達、あまたおはしけれども、一人も刀のさきにかゝらず、心と{*13}海に入り給ひけり。
 「今の内大臣殿の有様こそ、はかなく無慙なれ。それに取りても、いまいま事を承るぞとよ。『入道殿の世におはせし時より、妹の建礼門院に親しみよりて、儲けられける子を、高倉院の御子と云ひなして、王位に即け申したりける。』とかや。及ばざる心にも、『さもありけるやらん{*14}。』とおぼえ候。さればこそ、受禅の君とて、内侍所なんど申す様々の御守りどもを取り加へられておはしましながら、たもたずして、かかるひしめき{*15}は出で来て候にこそ。この事の{*16}起こり、たゞ不信よりなる事なり。されば、入道殿も、臨終浅ましくして、悪道に堕ち給ひけり。今わたさるゝ人々も、『生きながら三悪道に堕ちられたり。』とおぼゆ。」と云ふ。
 又、並み居たるおとなしき{*17}乞者が云ふ様は、「御房の宣ふ様に、人と生まれて仁義を顧みず、恥を知らざる者をば、人癩と云ふ。聞こえ給ふ大臣殿に近づきよりて、見参をせばやな。恥を知らざる人におはしましけるにこそおはしけれ。『一門の殿原は、皆海に入り給ひける。』と聞こゆるに、何とて命の惜しかるべきぞ。あはれ、人癩の上﨟癩かな。仔細なき我等が同僚にや。但し、この間の御心は、恐らくは我等には劣り給へり。いざいざ、御房達。大臣殿のこの前をとほり給はん時、車を抑へて、『辱号{*18}かくに、爪つひず。勘当かぶるに、歯かけず。』と、はやして舞ひ踊らん。」と云ふ。
 これを聞きけるよその人々、云ひけるは、「哀れなり。みめさまこそいまいましけれども、心の至りは、恥づかしくも語りたり。」といへば、又、傍にありける僧の云ふ様は、「病は、四大のとゝのはざるよりもおこる。又、先業の報ゆる事もあり。心は、失せぬ事なれば、形にやよるべき。天竺に戒賢論師と云ひけるは、法相唯識の法門を、護法に受け伝へて、大小乗の奥義をきはめ、有空中の三時の教をぞ立てたりける。智恵の光は、一天空をかゞやかし、徳行の水は、率土の塵を潤しけれども、身に癩病を受けて、療治に力を失へり。仏天、加護なきが如し。三宝、冥助し給はざるか、内外の治術、及ばずして、既に、『自殺せん。』とし給ひけるに、天人、来下して告げて云く、『汝、深く如来の教籍を達すといへども、業病、助け難し。釈尊、頭痛、背痛し給へり。いはんや凡身をや。むなしく身命を捨てずして、宜しく仏法を流布すべし。聖僧、震旦より来りて、必ず汝が法を伝受すべし。』と。戒賢、諸天の告げに驚きて、捨身をとゞめて相待つ処に、玄弉三蔵、天竺に渡つて、戒賢論師にあひて、五相宗{*19}の教へを伝へたり。しかして後に、論師浮生の重病を厭ひて、終に自殺し給ひけり。覚り深き人なれども、身あれば必ず病あり。心あらん者は、心をきよくたもつべき事なれば、かやうの乱僧なればとて、心さへつたなかるべきに非ず。」とぞ語りける。
 さる程に、内大臣殿の車、近くなるとて、見物の上下、色めきければ、武士ども、雲霞の様に打ち囲みて、雑人を払ひければ、口立つる乞者法師原も、蜘蛛の子を散らして失せにけり。
 法皇は、六條朱雀に御車を立てて御覧あり。人々、多く御伴に候ひけり。近く召し仕はれ奉りしかば、御心弱く哀れに思し召されて、御衣の袖を竜顔にあてさせ給ふ。供奉の人々も、只夢の心地にて、現とはおぼえざりけり。貴きも賤しきも、「目をも懸けてし{*20}。ことばにもかゝらばや。」とこそは思ひあへりしに、「今、かく見なすべき。」とは、測らざりし事なり。「{*21}真竜、勢ひを失へば、蚯蚓に同じ{~*21}。」といへり。このことわざ、誠なりけり。
 一年、大臣になり給ひて、拝賀の時、公卿には花山院大納言を始め奉りて十二人。中納言四人、三位中将三人。殿上人には蔵人頭右大弁親宗以下十六人、伴をして、公卿も殿上人も、今日を晴と花を折りて、きらめき遣りつらねてこそありしか。即ち、この平大納言、その時は左衛門督にておはしき。院の御所より始めて、参り給ふ処ごとに御前へ召されて、御引出物賜はり、もてなされ給へりし気色、目出たかりし事ぞかし。「今、かかるべし。」と思ひ寄らず。これやこの、「楽しみ尽きて悲しみ来るなる、天人五衰なるらん。」と、只涙を流しけり。

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校訂者注
 1:底本は、「浄衣(じやうえ)」。底本頭注に、「白き狩衣。」とある。
 2:底本は、「小文(こぶん)」。底本頭注に、「経学よりも稍程度の低い学問。」とある。
 3:底本頭注に、「経文はすべて音読する例なればこゝはことさらに訓読した意。」とある。
 4:底本は、「内外典(ないげてん)」。底本頭注に、「仏書は心を済ふ典籍であるから内典と称し儒書其の他形を救ふ典籍を外典といふ。」とある。
 5:底本は、「不信故、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
 6:底本は、「不信ならずと」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 7:底本頭注に、「世に時めく。」とある。
 8:底本頭注に、「平清盛。」とある。
 9:底本頭注に、「慾を貪る。」とある。
 10:底本は、「文虚言(そらごと)せず」。底本頭注に、「古人の金言の虚しくないのをいふ。」とある。
 11:底本頭注に、「堪ふまじ即ち永続しないこと。」とある。
 12:底本は、「何にかはせんと、命をめせと、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い削除した。
 13:底本頭注に、「心を決して」とある。
 14:底本は、「及ばざる心にもやらんと」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 15:底本頭注に、「騒ぎ。」とある。
 16:底本は、「此の事起(おこ)り、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 17:底本は、「長(おとな)しき」。底本頭注に、「年長者。」とある。
 18:底本は、「辱号(そくかう)かくに爪つひず、」。底本頭注に、「〇辱号 辱垢にて恥辱のこと。」「〇爪つひず つひえずで減らないこと。」とある。
 19:底本は、「五相宗(さうしう)」。底本頭注に、「真言密教のことならんかと思はれる。」とある。
 20:底本頭注に、「目をも懸けてしがなの意で目でも懸けてくれればよいとの意」とある。
 21:底本、この間は漢文。

老松若松剣を尋ぬる事

 平氏取りて、都の外に出で、准后持ちて、海中に入り給ひたれども、上古ならば、失せざらまし。末代こそ悲しけれ。かづきするあまに仰せて探り、水練の者を入れて求められけれども、終に見えず。天神地祇に祈誓し、大法秘法を行なはれけれども、験なし。
 法皇、大きに御歎きあり。「仏神の加護に非ずば、尋ね得難し。」とて、賀茂大明神に七日御参篭あり。宝剣のゆくへを御祈誓あり。第七箇日に御夢想あり。「宝剣の事、長門国壇浦の老松若松と云ふ海士に仰せて、尋ね聞こし召せ。」と。霊夢、新たなりければ、法皇、還御ありて、九郎判官を召されて、御夢の旨に任せて仰せ含めらる。
 義経、百騎の勢にて西国へ下向、壇浦にて両あまを召さる。老松は母なり、若松は女なり。勅諚の趣を仰せ含む。母子、共に海に入りて、一日ありて、二人共に浮き上がる。若松は、「仔細なし。」と申す。「我が力にては、叶はず。怪しき仔細ある所あり。凡夫の入るべき所にはあらず。如法経を書写して、身にまきて、仏神の力を以て入るべき。」由、申しければ、貴僧を集めて、如法経を書写して老松に賜ふ。海士、身に経を巻きて、海に入りて、一日一夜上がらず。人皆、思はく、「老松は、亡せぬるよ。」と歎きける処に、老松、翌日午の刻ばかりに上がる。判官、待ち得て仔細を問ふ。「私に申すべきに非ず。帝の御前にて申すべし。」と云ひければ、「さらば。」とて、相具し上洛す。
 判官、奏し申しければ、老松を法住寺の御所に召さる。庭上に参じて云く、「宝剣を尋ね侍らんがために、竜宮城とおぼしき所へ入る。金銀の砂を敷き、玉の刻階を渡し、二階の楼門を構へ、種々の殿を並べたり。その有様、凡夫の栖に似ず。心ことば、及び難し。暫く総門にたゝずみて、『大日本国の帝王の御使。』と申し入れ侍りしかば、紅の袴著たる女房、二人出でて、『何事ぞ。』と尋ぬ。『宝剣の行くへ、知ろし召したりや。』と申し入れ侍りしかば、この女房、内に入り、やゝありて、『暫らく相待つべし。』とて、又内へ入りぬ。遥かにありて、大地動き、冰雨ふり、大風吹きて、天則ち晴れぬ。暫くありて、先の女来つて、『これへ。』と云ふ。老松、庭上に進む。御簾を半ばにあげたり。庭上より見入れ侍れば、「長さは知らず、臥たけ二丈もやあるらん。」とおぼゆる大蛇、剣を口にくはへ、七、八歳の小児をいだき、眼は日月の如く、口は朱をさせるが{*1}如し。舌は、紅の袴を打ち振るに似たり。ことばを出して云く、『やゝ、日本の御使。帝に申すべし。宝剣は、必ずしも日本の{*2}帝の宝に非ず。竜宮城の重宝なり。我が次郎王子、我が不審を蒙り、海中に安堵せず。出雲国簸川上に、尾頭共に八つある大蛇となり、人をのむ事年々なりしに、素盞鳴尊、王者を憐れみ、民をはぐゝみ、かの大蛇を失なはる。その後、この剣を尊、取り給ひて、天照大神に奉る。景行天皇の御宇に、日本武尊、東夷降伏の時、天照大神より斎宮を御使にて、この剣を賜ひて、下し給ひし胆吹山のすそに、臥たけ一丈の大蛇となりて、「この剣をとらん。」とす。されども尊、心猛くおはせし上、勅命によりて下り給ひし間、我を恐れ思ふ事なく、飛び越え通り給ひしかば、力及ばず。その後、謀りごとを廻らし、「取らん。」とせしかども、叶はずして、簸川上の大蛇、安徳天皇となり、源平の乱れを起こし、竜宮に返し取る。口に含めるは、即ち宝剣なり。いだける小児は、先帝安徳天皇なり。平家の入道太政大臣より始めて、一門の人、皆こゝにあり。見よ。」とて、傍なる御簾を巻き上げたれば、法師を上座にすゑて、気高き上﨟、その数、並み居給へり。『汝に見すべきに非ず。しかれども、身に巻きたる如法一乗の法の貴さに、結縁のために、もとのみを改めずして見ゆるなり。尽未来際までこの剣、日本に返す事はあるべからず。』とて、大蛇、内にはらばひ入り給ひぬ。」と奏し申しければ、法皇を始め奉り、月卿雲客、皆同じく、奇特の思ひをなし給ひにけり。さてこそ、「三種の神器の中、宝剣は失せ侍り。」と治定しけれ。
 (疑ふらくは、「崇神天皇の御宇、霊威に恐れ、新鏡、新剣を移して、もとをば大神宮に送らる。」といへり。しかれば、壇浦の海に入るは、新剣なるべし。なんぞ竜神、「我が宝。」と云ふべきや。次に、素盞鳴命、蛇の尾より取り出だしたる時、大神宮に奉るには、天神の仰せに、「我、天岩戸にありし時、落としたりし剣なり。」と仰す。今又、竜神、「竜宮の宝。」と云ふ。しかれば、竜神と天照大神とは、一体異名か。不審、決すべし、云々。)
 同じき日、夜に入りて、故高倉院の第二の宮{*3}、都へ帰り入らせ給ふ。法皇より御迎への御車をまゐらせられ、七條侍従信清、御伴に候ひけり。七條坊城の御母儀{*4}の宿所へ入らせ給ふ。この宮は、当時の帝{*5}の同じ御腹の御兄、「もしの事あらば、儲君まで。」と、二位殿、賢々しく具しまゐらせられたり。「都におはしまさば、この宮こそ御位にも即かせたまふべきに。それ、しかるべき事なれども、四の宮、御運は目出たかりけり。」と、人、申しあへり。今年、七歳にならせ給ふ。御心ならぬ旅の空に出でて、三年を過ぎければ、御母儀も、御乳人持明院宰相も、覚束なく恋しく思ひ奉りけるに、事ゆゑなく入らせ給ひたれば、見奉りて誰々も、悦び泣きしてぞおはしましける。

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校訂者注
 1:底本は、「させる如し。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 2:底本は、「日本帝の」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 3:底本頭注に、「守貞親王。」とある。
 4:底本は、「御母儀(おんぼぎ)」。底本頭注に、「守貞親王の御母は七條院殖子にして藤原信隆の女」とある。
 5:底本頭注に、「後鳥羽天皇。」とある。

日巻 第四十四

神鏡神璽都入り 並 三種の宝剣の事

 同じき二十五日、神鏡、神璽入御あり。上卿{*1}は、権中納言経房、参議は、宰相中将泰通、弁は、左少弁兼忠、近衛には、左中将公時朝臣、右中将範能朝臣なり。両将共に、壺胡簶を帯せり。職事蔵人左衛門権佐親雅ぞ供奉しける。四塚より下馬して、各、歩行す。まづ頭中将通資朝臣、参向して行事す。内侍所、内蔵寮新造の唐櫃に納め奉る。大夫尉義経、郎等三百騎を相具して前行す。御後ろ、又百騎候す。朱雀を北へ行き、六條を東へ行き、大宮を北へ行き、待賢門に入り、朝所に著御ありけり。蔵人左衛門尉橘清季、かねてこの所に候ひけり。
 神鏡、神璽は入御あれども、宝剣は、失せにけり。「神璽は、海上に浮かびたりけるを、常陸国の住人片岡太郎経春が取り上げ奉りける。」とぞ聞こえし。神璽をば{*2}、註の御箱と申す。国の手璽なり。王者の印なり。(習ひあり、云々。)
 そもそも神代より三柄の霊剣あり。天十握剣、天叢雲剣、布流剣、これなり。十握剣をば羽々斬剣と名づく。羽々とは大蛇の名なり。この剣、大蛇を斬ればなり。または、蝿斬剣と云ふ。この剣、利剣なり。その刃の上に居る蝿の、自ら斬れずと云ふことなければなり。素盞鳴尊の天より降り給ひけるに帯き給ひたる剣なり。今、石上宮に篭められたり。天叢雲剣をば草薙剣と云ふ。日本武尊、草を薙ぎて野火を免かれ給へる故なり。又は、宝剣と云ふ。内裏に留めて、代々、帝の御宝なればなり。布留剣は、即ち大和国添上郡磯上布留明神、これなり。この剣を布留と云ふ事は、布留河の水上より、一つの剣、流れ下る。この剣に触るゝ者は、石木共に伐り砕き流れけり{*3}。下女、布を洗ひてこの河にあり。剣、下女が布に留まりて、流れ遣らず。即ち、神と祝ひ奉る。故に布流大明神と云ふ。
 宝剣は、昔、素盞鳴尊、天より出雲国へ降り給ひけるに、その国の簸河上の山に入り給ひける時、啼哭するこゑあり。声を尋ねて行きて見れば、一の老公と老婆と、小女を中間に置きて、髪掻き撫で、哭し居たり。尊、問ひて曰く、「汝等、誰人ぞ。哭する故、いかに。」と。老公、答へて曰く、「我はこれ、国津神なり。名をば脚摩乳といふ。女をば手摩乳と申す{*4}。この河上の山に、大蛇あり。年々に人を呑む。親を食はる。子を呑まる。親子、互に相歎きて、村南村北に愁へのこゑ、絶ゆる事なし。なかんづく我に八人の小女あり。年々、八岐の大蛇のために呑まる。今、一人を残せり。かたち、人に勝れ、心、世に類なし。名をば奇稲田姫と云ふ。又、曽波姫とも申す。今又、大蛇のために呑まれんとす。恩愛の慈悲、せん方なし。別れを悲しみて泣くなり。」と申せば、尊、これを憐み給ひて、「汝が娘、命を助けば、我にえさせてんや。」と宣へば、老公老婆、手を合はせて悦ぶ。「たとひ怪しの賤男なりとも、娘の命を助けば、惜しむべからず。いはんや尊をや。」とて、即ち奇稲田姫をまゐらす。即ち、后に祝ひ奉る。小女、湯津(湯津とは、祝の浄詞なり。女を后に祝へばなり。)浄櫛{*5}を御髪にさしたまふ。(浄櫛とは潔斎の義なり。)
 さては、山の頂にのぼせ奉りて{*6}、父老公に八醞の酒{*7}を召さる。老公、出雲国飯石郡の長者なれば、取り出して、これを奉る。尊、かの酒を八つの槽に湛へて、后を大蛇の居たる東の山の頂に立てて、朝日の光に、后の御影を槽の底に移し給ひたりけるに、大蛇、はらばひして来れり。尾頭ともに八つあり。背には諸の木生ひ、苔むせり。眼は日月のごとくにして、年々呑む人、幾千万と云ふことを知らず。大蛇の八つの尾、八つの頭、八つの岡、八つの谷にはびこれり。大蛇、この酒を見るに、八つの槽の中に八人の美人あり。実の人とおもひ、頭を八つの槽に浸して、「人を呑まん。」とおもひて、その酒を飲み干す。大蛇、頭をたれて、酔ひ臥す。尊、帯びたまへる十握剣を抜きて、大蛇をすたすたに斬りたまふ。故に、十握を羽羽斬と名づく。
 蛇の尾、切れず。十握剣の刃、少し欠けたり。怪しみて、きり割りてこれを見れば、一つの剣あり。明らかなること、みがける鏡のごとし。素盞鳴尊、これを取りて、「定めてこれ、神剣ならん。我、私におかんや。」とて、即ち天照大神に奉る。大神、大きに悦びましまして、「吾、天岩戸に閉ぢ篭りし時、近江国胆吹巓に落としたりし剣なり。」とぞ仰せける。
 かの大蛇と云ふは、胆吹大明神の法体なり。この剣、大蛇の尾にありける時、常に黒雲たなびきて覆ひける故に、天叢雲剣とは名づけたりけり。天照大神の御孫天津彦尊を、「葦原瑞穂国の主とせん。」とて、天降し{*8}奉る時、八咫鏡、叢雲剣、神璽、三種の神器を授け奉る、その一つなり。代々、帝の御宝なれば、宝剣と云ふ。素盞鳴尊と申すは、今、出雲国杵築大社、これなり。
 (かの老公、女を尊に奉る時、潔斎の義にて、浄櫛をさす。后を祝ひ奉り、湯津しけり。湯は、祝の義なり。津は、ことばの助けなり。天津社、国津社と云ふが{*9}如し。されば、今の世までも、斎宮群行の時、帝、自ら斎宮の御額に櫛をさして宣はく、「一度斎宮に祝ひ給ひなば、再び都に帰り給ふべからず。」と仰せなるは、この故なり。又、櫛に取りなし給ひけるは、「蛇の難を遁れん。」となり。爪櫛には、悪しき者の{*10}怖るゝ事あるにこそ。ある人、醜女に追はれて逃げけるに、如何にも遁れ難くして、「捕らはれなん。」としけるに、懐より爪櫛を取り出して打ち蒔きたれば、鬼神、それより還りぬ。さてこそ命は延びにけれ。今の世までも、「なげ櫛を取らぬ。」と云ふは、これより始まれり。老公、女を爪櫛に取り成して、尊に{*11}奉りたれば、大蛇の難を遁れ、命は延び給ひにけり。娘に櫛をさす事を、今の世の人、歌にも、
  かつみれど猶ぞ恋しきわぎもこ{*12}がゆつの爪櫛如何ささまし)
 崇神天皇の御宇に、神威に恐れおはしまし{*13}、「同殿、たやすからず。」とて、更に剣を改め、鏡を鋳移し、古きをば、大神宮に返し送り奉り、新しき鏡、新しき剣を御守りとす。霊験、全くおとらせ給はず。
 景行天皇四十年夏六月に、東夷、朝家を背き、関より東、静まらず。天皇、日本武尊に命じて、数万の官兵差し副へて、東国へ発向す。冬十月朔癸丑、日本武尊、道に出でたまひて、戊午、まづ伊勢大神宮を拝したまふ。斎宮倭姫命を以て、今、天皇の命を蒙りて、東征に赴き、諸の叛者を誅す。こゝに、倭姫命{*14}、天叢雲剣を取りて、日本武尊に授け奉りて云く、「慎しんで、おこたる事なかれ。汝、東征せんに、危ふからん時、この剣を以て防ぎて、助かる事を得べし。又、錦の袋を披きて、異賊を平らげよ。」とて、叢雲剣に錦の袋を付けられたり。
 日本武尊、これを賜はりて東に向ひ、駿河国浮島原に著き給ふ。その処の凶徒等、尊欺かんがために、「この野には、くじか多し。狩して遊び給へ。」と申す。尊、野に出で、枯野の荻かき分けかき分け狩したまへば、凶徒、枯野に火を放ちて、尊を焼き殺さんとす。野火、四方より燃え来つて、尊、遁れ難かりければ、佩き給へる叢雲剣を抜いて、打ち振り給へば、刃に向ふ草{*15}、一里までこそ切れたりけれ。こゝにて野火は止まりぬ。又、その後、剣に付きたる錦袋を披き見るに、燧あり。尊、自ら石のかどを取りて、火を打ち出だし、これより野に付けたれば、風、忽ちに起こつて、猛火、夷賊に吹き覆ひ、凶徒、悉くに焼き亡びぬ。さてこそその処をば、焼詰里とは申すなれ。これよりして、天叢雲剣をば、草薙剣と名づけたり。かの燧と申すは、天照大神、「百王の末の帝まで、我が御かたちを見せ奉らん。」とて、自ら御鏡に移させ給ひけるに、初めの鋳損じの鏡は、紀伊国日前宮におはしまし、第二度の御鏡を取り上げ御覧じけるに、取りはづして打ち落とし、三つに破れたるを、燧になし給へり。かの燧を錦の袋に入れ、剣に付けられたりけるなり。今の世までに、人、腰刀に錦の赤皮を下げて、燧袋と云ふ事は、この故なり。
 日本武尊、猶ほ夷を鎮めんがために、これより奥へ入り、武蔵国より御船に召し、上総へ渡り給ひけるが、波風荒くして、御船危ふかりけるに、旅の御徒然の料に、御志深き下女を相具し給ひたりけるが、「風波は、竜神のしわざなり。君は、国を治めんがために、遥かに東夷を平らげ給ふ。我、いかでか君を助け奉らざらん。わらは、竜神を宥めん。」とて、舷に立ち出でて、千尋の海に入りにけり。実に竜神、納受ありけるにや、風波、即ち静まりぬ。尊、その後、上総に渡り、夷を随へ給ひける折々には、海に入りし下女、恋しく思し召し出でては、常に、「我が妻よ、我が妻よ。」と召されける御片言、「あづま、あづま。」とぞ聞こえさせ給ひける。東をあづまと云ふ事は、それよりして始まれり。
 尊、東夷の凶賊討ち平らげ、所々の悪神を鎮め給ひて、同じき四十三年癸丑に帰り上り{*16}給ひけるが、異賊のために呪詛せられ給ひて、日本武尊、尾張国よりぬるみほとほり{*17}給ひけるが、いとゞ燃え焦がるゝ御心地し給ひければ、「御身を冷やさん。」とて、弓の弭にて地をくじり給ひけるに、冷水、忽ちに湧き出でて、河を流す。これに下り浸り給ひて、御身を冷やし給へり。近江国醒井の水と云ふは、これなり。されども、御悩いとゞ重くなり給ひければ、これより伊勢へ移り給ひ、いけどりの夷、並びに草薙剣、天神に返しまゐらせて、御弟の武彦尊{*18}を御使にて、天皇に奏し申させ給ひけり。日本武尊、終に崩じ給ふ。御年三十。白鶴と変じて、西を指して飛び去り、讃岐国白鳥明神と顕はれ給ふ。草薙剣を、大神より尾張国熱田社に預け置く。
 天智天皇七年に、沙門道行と云ふ僧あり。もと新羅国の者なり。草薙剣の霊験を聞きて、熱田社に三七日篭りて、剣の秘法を行なひて、社壇に入り、盗み出して、五條の袈裟につゝみて出づ。即ち、社頭にして、黒雲たなび来つて、剣を巻き取つて、社壇に送り入る。道行、身の毛よだちて、いよいよ霊験を貴み、重ねて百日行なひて、九條の袈裟につゝみて、近江国まで帰る処に、又、黒雲、空より下り、剣を取つて、東を指して行く。道行、「取り返さん。」とて、追ひて行く。近江国蒲生郡に大磯森と云ふ所あり。追初森なり。道行、「剣を取り返さん。」とて、これより追ひ初めければなり。「行業の功、日浅ければこそ、かくはあれ。」とて、道行、又千日行して、二十五條の袈裟につゝみて出づ。筑紫に下り、船に乗りて海上に浮かみ、「望み、既に足りぬ。新羅国の重宝。」と悦ぶ程に、俄に波風荒くして、渡り得ざりければ、「如何にも叶ひがたし。」とて、海中になげ入る。竜王{*19}、これをかづき上げて、熱田社へ送りまゐらす。
 「末代には、又、かかる者もありなん。」とて、少しも替へず、剣を四つ造具して、社頭の中に立てられたり。「一の社官が一人に教へ授くる時、五つの指を差し上げて、これを伝ふるためしあり。その外の人、本剣、新剣を知らず。」といへり。天武天皇朱鳥元年六月己巳、天皇、病祟り、草薙剣を尾張国熱田社におくり置かる。(この事、沙門道行は、天智天皇七年に、これを盗む。たとひ三年行なひたらば、天智天皇九年か十年かの事なり。天武天皇朱鳥元年は、十四年を隔てたり。この時、熱田へ送り遣はす、と。両説、実ならず。決すべし。)

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校訂者注
 1:底本は、「上卿(しやうけい)」。底本頭注に、「公事ある時の奉行。」とある。
 2:底本頭注に、「この説は史実として取るに足らぬことは言ふまでもない。次の御剣の説も同様である。」とある。
 3:底本は、「流れり。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 4:底本は、「申し、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 5:底本は、「湯津浄櫛(ゆづきよぐし)」。底本頭注に、「〇湯津、浄櫛 湯津爪櫛の訛りである。湯津は五百箇で物の多く盛んなる状。爪櫛は葉の繁き櫛の義である。」とある。
 6:底本は、「昇り奉りて、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 7:底本は、「八醞(しほ)の酒」。底本頭注に、「幾度も幾度も打返して醸造する酒。」とある。
 8:底本は、「天降り奉る時、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 9:底本は、「云ふ如し。」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
 10:底本は、「悪者の」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 11:底本は、「取成して奉りたれば、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 12:底本頭注に、「我妹子の約で女を親しみて呼ぶ詞。」とある。
 13:底本は、「恐れおはし、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 14:底本は、「倭姫の、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 15:底本は、「刃向の草、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 16:底本は、「帰り給ひけるが、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
 17:底本頭注に、「熱気の発すること。」とある。
 18:底本は、「武彦尊(たけひこのみこと)」。底本頭注に、「史実上の吉備武彦を思ひ誤りたるもの。」とある。
 19:底本頭注に、「海神。」とある。

安徳帝吉瑞ならず 並 義経上洛の事

 この帝をば安徳天皇と申して、御位を受けさせ給ひて、様々の不思議おはしましけり。
 受禅の日は、昼の御座の御茵{*1}の縁、犬、食ひ損じ、夜の御殿の御帳の中に、鳩、入り篭り、御即位の時は、高御厨子の後ろに、女房、俄に絶入し、御禊の日は、百子帳の前に、夫男、あがり居き。
 総じて御在位三箇年の間に、天変地震、打ち続きて隙なく、諸寺諸山よりさとしを奏する事、頻りなり。堯の日、光を失ひ、舜の雨、潤ひなし。山賊、海賊、闘諍、合戦、天行、飢饉、疫病、焼亡、大風、洪水。三災七難、残る事なし。
 「貞観の旱、永祚の風、承平の煙塵{*2}、正暦の疾疫、上代にもありけれども、かれは、その一事ばかりなり。この御代のためしは、伝へ聞き及ばず。御裳濯河の御流れ、かかるべしや。」と、人、傾き申しけり。「漢の高祖は、太公の子。秦王を討つて位に即く{*3}。秦の始皇は、呂不韋が子。荘襄王の譲りを得。舜王は、瞽䏂が息。堯王、天下を任せたり。人臣の、位を受け、猶ほ以て帝位を全うせり。先帝は、人皇八十代の帝、高倉院の后立ちの皇子{*4}におはしませば、天照大神も、定めて入り替はらせ給ひ、正八幡宮も必ず守護し奉るらんに、いかに。」かくは申しけり{*5}。
 これを聞く人、云く、「異国には、実にさるためし多し。我が朝には、人臣の子として、位を践む事なし。この帝、『高倉院の后立ちの皇子。』と申しながら、故清盛入道、天照大神の御計らひをも知らず、高倉院の御恙もましまさぬに、御位を退け奉り、おして位に即け奉る。その身、帝祖といはれ、摂政関白に非ず。ほしいまゝに天下を執り行ひ、君をも臣をもないがしろにし、諸寺仏閣焼き払ひ、上下男女、多く亡ぼししかば、人の歎き、神の怒り、末の露、もとのしづくに帰る様に、平家の悪行、君に帰し、天地の心にも違ひ、冥慮の恵みにも背けり{*6}。『{*7}位の貴からざるを患へずして、徳のたかからざるを患へよ。禄のおほからざるを恥ぢずして、智の博からざるを恥ぢよ{~*7}。』といへり。先帝も、猶ほ帝徳の至りましまさざりけるを、入道、よこしまに{*8}計らひ申したれば、かかる不思議多くして、天下も治まらず、終に亡びおはしましけり{*9}。」とぞ申しける。)
 同じき十六日、九郎判官義経、いけどりの人人を相具して、播磨国明石浦に著く。名にしおふ名所なる上、今夜は、ことに月隈なくさえつゝ、秋の空にも劣らず。ふけ行く儘に、女房達、頭さしつどへて、旅寝の空の旅なれば、夢に夢見る心地にて、夜もすがらうちまどろむ事もなし。只顔に袖を当てて、忍び音をのみぞ泣かれける。
 時忠卿の北の方帥典侍、つくづくと泣き明かし給ふにも、
  雲の上に見しに替はらぬ月影の澄むにつけても物ぞ悲しき
判官、情ふかき人にて、
  都にて見しに替はらぬ月影の明石の浦に旅ねをぞする
と。帥典侍は、妹背の契りの悲しさに、思ひ残す事もおはせず。時忠卿もいけどられて、程近くおはすなれども、相見る事もなければ、昔語りも恋しくて、
  ながむればぬるゝ袂にやどりけり月よ雲居の物語せよ
と。時忠卿も、身は所々に隔てたれども、通ふ心なりければ、
  我が思ふ人は波路を隔てつゝ心幾度浦つたふらむ
と。二人の心中、推し量られて哀れなり。昔、北野天神{*10}の、移され給ふとて、この処に留まり給ひ、
  名にしおふ明石の浦の月なれど都よりなほ曇る空かな
と詠じ給ひける御心の中、帥典侍の、「月よ雲居の物語せよ。」の心の中、取り取りに哀れなり。
 故郷に還り上る事の嬉しかるべけれども、さしも眤まじき人々、多くは水の底に入りぬ。たまたま生き残りたるは、こゝかしこにいましめられ、憂名を流す。たとひ都に上りたりとも、家々は、一年、都落ちに焼けぬ。何処に落ち留まり、誰育くむべきに非ず。雲の上の昔の楽しみ、旅枕の今の歎き、思ひ並べて、「月よ雲居の物語。」と口ずさみ給ひて、涙に咽び給へば、人皆、袖を絞りけり。
 判官は、東男なれども、物めでし、情ある人にて、様々慰めいたはりけり。

神鏡神璽還幸の事

 同じき二十一日、神鏡神璽還幸のこと、院の御所にして議定あり。左大臣経宗、右大臣兼実、内大臣実定、皇后宮大夫実房、中御門大納言宗家、堀川大納言忠親、前源中納言雅頼、左衛門督実家、源中納言通親、新藤中納言雅長、左大弁兼光ぞ参られたりける。頭中将通資朝臣、諸道勘文を左大臣に下しければ、次第に伝へ下す。左大弁、これを読む。「群議の趣、事多しといへども、神鏡神璽入御のこと、供奉の人、鳥羽に参向して、朝所に渡し奉る。朝所より、儀を整へて大内に幸すべし。」とぞ、定め申されける。

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校訂者注
 1:底本は、「昼(ひ)の御座(おまし)の御茵(おんしとね)の縁(へり)」。底本頭注に、「〇昼の御座 清凉殿内に東面して設けられた御帳台で日中出御の御座所。」「〇御茵 帳内に敷かれたもの。」とある。
 2:底本頭注に、「平将門の乱。」とある。
 3:底本は、「即き、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 4:底本頭注に、「后腹の皇子。」とある。
 5:底本は、「かくは申しけん。」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
 6:底本は、「背(そむ)くにあり。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 7:底本、この間は漢文。
 8:底本は、「横(よこ)に」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 9:底本は、「亡び坐(おは)しけり。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 10:底本頭注に、「菅原道真。」とある。

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