十一 祐経を射んとせし事
梶原源太左衛門景季は、未だ鹿に逢はずして、落ち来る鹿を待ちかけつつ、駆け並べ、よつ引いて放つ。されども上を遥かに射越して通しけり。景季取りあへず、かくこそ申しけれ。
夏草の繁みが下を行く鹿の袖の横矢は射にくかりけり
君、聞こし召して、「神妙なり。」とて、これも富士の裾野にて、百余町をぞ賜はりける。人々、これを聞いて、「鹿射外し、歌詠みてだに恩賞に預かる。ましてよくとどめたらん輩は、いかに。」とぞ申しける。
御寮、左衛門尉祐経を召して、「不審なる事あり。用心せよ。」と仰せ下されければ、「畏り存じ候」由を申しける。ここに、梶原源太景季、侍の所司にて、総奉行第一の者なれば、上の御諚を承り、曽我の人々を近付けて申しけるは、「神妙に御供申されて候。奉公はいづれも同じ事。御宿に大事の御物具あり。留守の御宿直申されよ。いかさま、今度鎌倉へ入らせましまして、御免蒙り給ふべし。奉公、心に入れられよ。」と申しければ、祐成、是非に及ばずして、「畏り入り候。よきやうに御申し候へ。頼み奉る。」とぞ返事しける。源太、重ねて申すやう、「御給仕によつて、『本領、仔細あらじ。』と存じ候。」と言ひてこそ帰りにけれ。
時致、これを聞きて、「あはれ。源太、『我々をすかさん。』と思ひたる気色のさし顕はれたる奴かな。蛇は一寸を出して、その大小を知り、人は一言を以てその賢愚を知る。狐の子は、小狐より父が孫を継ぎて、この冠者がつらの白さよ。いつの奉公によりてか、御気色もよかるべき。定めて御寮の仰せには、『その冠者ばらは、誰が許して狩場へは出けるぞ。よくよくすかし置きて、首を斬れ。』との御諚か、『流罪せよ。』との仰せにてぞあるらん。げにや、古き言葉を案ずるに、『国の賢を以て興し、へつらひを以て衰ふ。君は忠を以て安んじ、偽りを以て危ふし。人は巧みにして偽らんよりも、拙なうして誠あるには如かず。』この者の振舞は、世の煩ひとも成りぬべし。その上、奉公申すべきためならず。あはれ、身に思ひだに無かりせば、この冠者がつら、一太刀斬つて慰まんずるものを。」とぞ申しける。
さて兄弟は、見え隠れに連れつ離れつ、心を尽くし狙ひけるこそ無残なれ。十郎がその日の装束には、萌黄匂の裏打ちたる竹笠、村千鳥の直垂に、夏毛の行縢深く引つこうで、鷹うすべうの鹿矢、筈高に取つて付け、重籘の弓の真中取り、葦毛なる馬に貝鞍置きてぞ乗つたりける。五郎がその日の装束には、薄紅にて裏打つたる平紋の竹笠、真深に着て、からざいみに蝶を二つ三つ、所々に付けたる直垂に、紺の袴、秋毛の行縢、たぶやかに穿き下し、鶴の元白の征矢、筈高に負ひなし、二所籘の弓の真中取り、鹿毛なる馬に蒔絵の鞍置きて乗つたり。遥かに遠き敵を見付けて十郎に告げ、しものにて祐経を見付けて五郎に告げ、互に心を通はしけり。
人は皆、鹿に心を入れ、「いかにもして上の見参に入らん。」と、嶺に登り谷に下り、野を分け里を尋ねけれども、「よそ目いかが。」と思ひしに、勢子を破りて鹿こそ三頭出で来りけれ。「これはいかに。」と見る処に、かの祐経こそ追つすがひて落としけれ。その日の装束、花やかなり。浮線綾の直垂に、大斑の行縢に、切斑の矢負ひ、吹寄籘の弓の真中取り、金砂にて裏打ちたる浮紋の竹笠、嵐に吹き靡かせ、黒き馬の太く逞しきに、白覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける。馬も聞こゆる名馬なり。主も究竟の乗り手なり。三つある鹿に、目を掛けてこそ追つすがうたれ。三つある鹿には隔たりぬ。馬の駆け場もよかりけり。
十郎、これを見て、「この鹿は、埒の外に勢子を破りて落ち来るにや。追ひ返し奉らん。」とて、十三束の大の中差取つてつがひ、「矢所多しといへども、奥野の狩場の帰りざまに、父の射られけん鞍の山形のはづれ、行縢の引き合はせ。報いの知らする怨みの矢、余の所をば射べからず。いかなる金山鉄壁なりとも、志のなどかは通らざらん。」と、弓手になしてぞ下りける。五郎も同じく中差取つて差しつがひ、左衛門尉が首の骨に目を掛けて、「大磐石を重ねたりといふとも、などか斬つて捨てざらん。」と、鞭に鎧を揉み添へて、馬手に相付け馳せ並べ、三つある鹿と左衛門尉を真中に取り込め、矢先を左衛門に指し当てて、「引かん。」とする処に、祐経が暫しの運や残りけん、祐成が、乗つたる馬を思はぬ臥木に乗りかけて、真さかさまに転びけり。あやまたず弓の本を越して、馬の頭に下り立つたり。五郎はこれを知らずして、矢筈を取り、立ち上がりけるが、兄の有様を一目見て、目もくれ心も消えにけり。この隙に、敵は遥かに馳せ延びぬ。鹿をも人に射られけり。五郎、空しく引き返し、急ぎ馬より下り立つて、兄を介錯しける心の内こそ悲しけれ。
「あはれ。げに、我等ほど敵に縁なき者あらじ。只今は、『さりとも。』とこそ思ひしに。馬強かりせば、かやうには成り行かじ。これも、貧より起こる事なり。人を恨むべきにもあらず。叶はぬ命、長らへて物を思はんよりも、自害して悪霊にも成りて、本意を遂げん。」とぞ悲しみける。十郎、これを聞きて、「暫く待ち給へ。それ、泰山の雨垂は石を穿ち、殫極の釣瓶縄は井桁を断つ。水は石の鑿にあらず、縄は木の鋸にあらず。漸靡のしからしむる処なれば、ただ心を延べて功を積み給へ。」とて、馬引き寄せ、打ち乗りける。
十二 畠山歌にて訪はれし事
その後は、「人々、いかに見るらん。」とて、十郎駆くれば五郎控へ、五郎行けば十郎とどまり、よそ目をも包みければ、時移り事延び行きければ、その日も既に暮れなんとす。
畠山殿は、程近くましませば、兄弟の有様をつくづくと御覧じて、「今まで本意を遂げざるぞや。あはれ、平家の御代と思はば、などか矢一つとぶらはざらん。当君の御代には、かやうの事も叶はず。重忠も、若き子どもを持ちぬれば、人の上とも思はずして、まことに無残におぼえたり。梶原触状には。明日鎌倉へ入らせ給ふべきなれば、今宵討たでは叶ふまじ。この由、知らせん。」と思ひ給へども、人々あまたありければ、歌にてぞ訪ひ給ひける。
まだしきに色付く山の紅葉かなこの夕暮を待ちて見よかし
と詠み給ひて、涙ぐみ給ひけり。
折節、梶原源太左衛門が、近う控へたりしが、「何事にや。曽我の殿ばらに、『まだしきに色付く。』と詠じ給ふは心得ず。」重忠聞いて、「夏山に夕日影のさし残る風情、初紅葉に似ずや。この夕こそ、猶も移り行かば、まこと秋にや成り行かん。」源太、猶も言葉あり顔なりしを、君より急ぎ召されしかば、「駆け通る。」とて、「重忠の御歌の不審残りて。」と言ひながら馳せ過ぎければ、人々聞きて、「今に始めぬ梶原が和讒とは言ひながら、ことにかかりて見えぬるをや。」と申し合ひける。重忠、仰せけるは、「『命を養ふ者は、病のさきに薬を求め、世を治むる者は、乱れぬさきに賢を習ふ。』と潜夫論に見えたり。それまでこそ無くとも、かやうのえせ者を近く召し使ひて、末の世いかが。」とぞ仰せける。
その後、曽我の人々を近付けて、「今宵、重忠が所へましませ。歌の物語を申さん。」と宣へば、「畏り存じ候」由返事して、十郎、弟に言ひけるは、「畠山殿は、情けを以て、早この事を知り給ひけるぞや。『耳を信じて目を疑ふ者は、耳の常の弊なり。遠きを尊みて近きを賤しむ者は、人の常の情け。』と抱朴子に見えたり。されども、歌の心はいかに。」と問へば、「知らず。」と言ふ。十郎は、よろづに情け深くして、歌の心を得たり。「『思ふ事あらば、今宵限り。』と告げ給ふぞや。君は明日、伊豆の国府、明後日鎌倉へ入らせまします由、その聞こえあり。思ひ定め給ふべし。」と言ふ。「珍しくも思ひ定め候べきか。申すにや及ぶ。」とぞ申しける。元来剛なる時致が、重忠には勇められ、「いよいよ今宵を限り。」とぞ定めける。かねてより思ひ定めし事なれども、差し当たりて心細さ、思ひ遣られて無残なり。
日暮れ、君、井出の館へ入り給ひしかば、国々の大名小名、御供してぞ帰りける。曽我兄弟も、人並々に柴の庵へぞ帰りける。
十三 館廻りの事
道にて十郎申すやう、「わ殿は館へ帰り給ふべし。二人連れては、人も怪しく思ひなん。祐成ばかり行きて、館の案内、見て帰らん。」とて、太刀ばかり持たせ、館々を巡りけり。思ひ思ひの幕の紋、心々の館の次第、なかなか言葉も及ばれず。
ここに、二つ木瓜の幕打ちたる館あり。「誰が幕やらん。これは、我等が家の紋なり。御敵と成り、滅びぬ。伊東と名乗る者なければ、この幕打つべき者なし。誰なるらん。」と不思議にて、立ち寄り、幕の物見より見入れければ、敵左衛門が館なり。「これはいかに。彼等は一つ木瓜の幕をこそ打つべきに。心得ぬものかな。まことや、『人、人に非ず。知るを以て人とす。家、家に非ず。継ぐを以て家とす。』継ぐべきをば継がで、すずろなる『曽我の某。』と呼ばれぬる上は、家の紋、要るべからず。祐経は、まことやらん、我々が先祖の知行せし所領を知るによつて、かやうに成り行くものをや。あはれ、昔はかやうに無かりしものを。」と見入れて帰りける。
底本頭注
十三 館廻りの事
・すずろなる――みだりなる。
校訂者注
十一 祐経を射んとせし事
・国は賢を…以て安んじ――底本、「国の賢を以つて興し、諛を以つて衰ふ。君は忠を以て安じ」。岩波文庫本(1939)本文及び脚注に従い改めた。
十二 畠山歌にて訪はれし事
・賢を習ふ。』と潜夫論に見えたり――底本、「剣を習ふ、と三部論に見えたり」。岩波文庫本(1939)本文及び脚注に従い改めた。
・遠きを尊みて…人の常の情け――底本、「尊みて近付くを賤む者は、人の常の情」。岩波文庫本(1939)本文及び脚注に従い改めた。
・伊豆の国府――底本、「伊豆の郷」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
・しものにて祐経を見付けて――底本、「下にて祐経を見附けて」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
・泰山の雨垂は…功を積み給へ――底本、「たいさんの亀は巌を穿ち、雷は石を穿つ、たんさくの釣瓶の縄は井桁をきる、水は石の鑿にあらず、なはは木の鋸に非ず、せんひの然らしむる所なり。只心をのべて功を積み給へ」。岩波文庫本(1939)本文及び脚注に従い改めた。
・人、人に非ず…継ぐを以て家とす――底本、「人人に非ず、鹿を以つて人とし、家家に非ず、何処を以つてか家とす」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。