江戸期版本を読む

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一 孝と不孝の中に立つ武士

 「清貧は常に楽しみ、濁富は常に愁ふ。」と光明皇后の御殿の屏風に書き置かせ給ふとなり。いづれ、世の人心程、様々なるものは無し。
 駿河の富士さへ煙は雲に変はり、雪と成り風と成り、雨の時は眺め絶えて、折節、五月闇。道中姿の合羽も物侘しく、袖の湊の故郷思ふ筑前の侍、東武の勤めに下られしが、日数定まつての旅急ぎ、安部川の夜渡り。瀬に変はり行く石道の難儀。やうやう宿にさしかかり、供廻りにも言葉をかけ、「聞いたか、今のほととぎす。昔思ふ草の庵に、灯し火見ゆる所にて、消えたる提灯を灯せ。」と小家がちなる戸ざし、気をつけて行くに、西側の人家に声高なる所あり。
 「火を一つ。」と所望すれど、中々聞き入れずして、親子いさかひ、うるさし。母の声、言ひ分と聞こえて、畳を叩き立て、「今、このやうに銭銀持つて、人も大勢使ふは、誰が蔭と思ふぞ。御方のわせてから、おのれが志が変はつて、朝茶さへ飲ませぬ不自由を見せける。これ、御方。人には報いの有るものぞ。嫁の古いのが、こんな婆に成るものぢや。千年も顔に皺の寄らぬものではないぞの。今朝も眼がうといと思うて、どこの国にかあらうぞ。煙草盆、足で踏み出して、『呑め。』とは。余りつらい仕方なれども、『ああ、今日も知れぬ年寄りの事ぢや。』と思ひ流して、堪忍した。」と言ふ。
 嫁は口騒がしく、「こなたも大方なるよこしまが良い。これ、この左の手にてさし出した。」と言ふ。「さては、ありさまの手は、紫の革足袋はいて、緋縮緬の脚布してゐるか。これは、良い手が見ゆるわいの。この婆が目が見えぬと思やるか。針のみみずなりとも通して見せん。尻も結ばぬ糸を言やるな。それは後へ抜け事。」と言へば、息子はあらけなき声して、「まづ、ありさまの無用なる長生き。娑婆塞げに、一つも益のない事なり。その息の通ふ首くくつて死なれたが、浮世のひまが空く。」と言ふ。
 これを聞き棄てて行くに、その並びに、これぞ雨夜の物語。品々、言葉の花を咲かし、酒汲み交はす楽しみ。しかもあばら屋にて、内も見え透きける。差し覗けば、割り松明かして、八十余歳の老人を勇め、雨も溜まらぬ板庇。漏り桶も限りあれば、亭主は菅笠かづき、破れし唐傘を、かの親仁に差しかけ、それが女房は鍋蓋かつぎ、雨を凌ぎ、欠け徳利にはした酒。肴に茄子の浅漬け、焼き味噌ならで無くて、孝行の志を汲み交はしける。
 この親、これを満足して、「世にある人の玉の台も、我が竹簀子も、楽しみ、更に変はる事無し。汝は子なれば、恩を知る道理もあり。妻は元他人なるに、連れ添ふよしみとて、我に孝を尽くし、家貧しき渡世を構はず、年月の営み。さりとは、いつの世にこの恩は送るべし。夫婦の{*1}手業の紙子の揉み賃、骨をわづかの事に砕く。せめてはその手を助けんと思ふに、足立たざれば、是非無し。」と涙、漏る雨を争ふ。
 筑前の侍、このあらましを立ち聞きして、同じ所の人心、最前の不孝者とこれ、格別の違ひあるを感じ、提灯の火を貰ひて、主人は乗り掛けより下りて、その宿に入つて、「我、久しく浪人せし内に、世を渡る種とて、様々工夫仕出して、型の如く紙細工を得たり。なかんづく、紙絹にしぼを付くる事、さのみ力をも入れずして、物の見事なる縮緬に成す秘密。矢の竹に巻き掛くる仕出し」、懇ろに伝へて通られける。
 「これは。」と始めて、色品替へて見せけるに、この所の名物と成つて、諸国に広まり、次第に分限と成り、財宝不足なく、一人の親を心の儘にもてなし、かの女房も、昔の木綿、京小袖に着替へて、あまたのはした、腰元。その身は乗り物の窓より世間の移り変はれるを眺め、過ぎはひの種は尽きず、人の褒め草と成りぬ。

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校訂者註
 1:底本は、「恩(おん)を送(おく)るべし。夫婦(ふうふ)手業(てわざ)」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。

四 酔ひざめのさか恨み

 昔、唐人の細工に「十分杯」とて、人の心を積もり物にして、これを渡しぬ。「月も満つれば欠くるの道理。よろづを見るに、目八分に構へて、一つも違ひ無し。中にも、酒といふ物、九分に受けてもこぼれ易し。その上戸相応に、六分に飲むべし。」と御神酒大明神の御託宣なり。これで納めた日本一の機嫌、千秋楽には民百姓までも、良いといふ程を知るべし。神代の大蛇も十分を控へ、九つの壺を飲み空くるさへ、その身を失ひける。
 東坡が竹は、新酒のしるしのために描き、劉伯倫、瓶車の後に鋤を持たせて、「我、いづくを定めず飲み死にせば、馬頭山の麓に埋むべし。土器の細工人の手にかかり、再び酒徳利の土にもなるべき願ひ。」これらは、酒を好みて、あながち心の溺るるにあらず。花山、湖月の風景に遊びて、詩文を作れる種なり。今又、世の人の、故もなく酒に長じ、それぞれの家業を忘れぬ。
 古の奈良の都の諸白。所柄、樽の香を覚えて、とにもかくにもねぢ上戸{*1}。百万の厨子といふ町に生駒屋の伝六とて、下女に上機織らせ、麻布の細元手をやうやうに仕出し、折節は鱶の刺身も喰ひ、春日野の千本の桜も観に行く程の心に成り、謡もおのづからに聞き習ひ、水屋能の見物に罷りしに、「猩々の乱れ、これ一番。外は、この酒の糟祢宜。」と咽を鳴らして褒めける声の可笑し。
 その中に、面知る人の社人ありて、見つけられ、逢うた所で編笠脱げば、飲み次第の杉柄杓。神の物にてもてなされ、帰り三笠山、十四、五もあるやうに見えて、足元定めかね、我が宿は不思議に覚え{*2}、門口より騒がしく、何の仔細も馴染の女房を、「嫌と思ふから、今宵を待たず。」と去り状書いて投げ出し、「親里の佐保川へ帰れ。」と言ふ。女、度々の酔狂に飽き果て、渡りに舟の心地して、尻に帆掛けて出て行く。
 その後、幾人か呼びて、暇を遣り、この物入り{*3}に身代薄くなり、冬も袷重ねの見苦しかりしに、又縁ありて、三輪の里より呼び込みしに、この女、「神姿か。」と疑ふ程に美しく、しかも夫、大事に懸けて、世の稼ぎに暇なく、五歳余りに家栄えて、晒布の仲買ひと成り、楽しみを悦び、「この家の宝は、手足の動く女房どもなり。異国{*4}より渡したる三つ宝にも替へじ。」と自慢をするも、「かかる妻を持てる男の仕合せ。」と人皆、羨ましく取り沙汰しける。
 なほ相生の松飾りて、春の始めの{*5}蓬莱。ここの都、螺肴。各々屠蘇を汲み交はし、木辻の正月買ひの噂。「禿無しの囲も、里の習ひにて面白く、意気地立つる女の事、この年まで見ずして、聞くさへ酒も飲めたるものぞ。」と俄に伝六、気を移して、人より先へ内に{*6}戻り、例の四の五の言ひ出し。
 内儀を遊女の如く、宵の話を今更、「我を憎からぬ心中ならば、小指を切れ。」と言へば、内儀驚き、「夫婦となれる身の内、いづれかこなたのものにあらずや。快く春の初枕、良い夢に当年の仕合せを見給へ。」と言へば、伝六、眼色{*7}変はり、「さては、この男を振ると知れたり。是非切れ。さもなくば、今出て行きて、親の元へ身揚がりとやらをせよ。」と我を立てて言ひつのるにぞ、女心に悲しく、「さもあらば、爪放ちて、それにて堪忍あそばせ。」と涙に沈みて詫びけれども、中々合点せず。「せめて髪を切れ。」と押し付けて、元結払ひければ、女、目もくれ、心も乱れ、惜しむに甲斐なくて、命つれなく長らへけるこそうたてけれ。男は、いびきに前後おぼえず。
 常の夜も明けて、女の変はりし形を見て歎き出し、「世間の外聞、親類の手前、そなたの思はく。かれこれ、命あつては。」と思ひ切るを、内儀、様々に口説きとめられ、「向後、飲みとまるべきは。」これに懲りて、杯、燗鍋、錫徳利、肴鉢、酒に出合ふ程の物、ことごとく打ち割りて、今までは元日より大晦日まで、腹中に酔ひのない間は無かりしに、今日より御下戸と成りて、生姜漬け、山椒にさへ恐れて、きつとその身を固め、女房の髪の延びるまでは、赤手拭をかづけ物ぞかし。

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校訂者註
 1:底本は、「捻(ひねり)上戸(じやうご)、」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「覚(おぼ)えて、」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
 3:底本は、「費用(ひよう)」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
 4:底本は、「霊国(れいこく)」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
 5:底本は、「春(はる)の蓬莱(ほうらい)、」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
 6:底本は、「勘六(かんろく)、気(き)を移(うつ)して、人(ひと)より先(さき)へ内(うち)へ戻(もど)り、」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)本文及び語釈に従い改めた。
 7:底本は、「勘六(かんろく)、顔色(がんしよく)」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)本文及び語釈に従い改めた。

三 一滴の酒一生を誤る

 「家造らんには、夏を旨とすべし。」と言へり。
 九月の末つ方には、合羽に氷柱の下がる北国も、暑さは凌ぎ難し。越前の永平寺は、世塵を遠ざかりて、ほととぎすも早く聞き、会下の詩人も魂を樹頭に飛ばす。曙の垣根に咲ける花卯木、夏ながら、「雪の夕暮か。」と思はれ、遠里の蚊遣り火、煙絶え絶えなるに、筧の音のかすかに、この山に住めば、おのづと持戒なり。唱へざるに、松風おのづから法の声。竹窓は、衆寮立ち並び、数百人、蛍を集め、壁をうがち、勤学に暇なくあるが中に。
 智弁と言へる僧の老母、国郷遥々所を、この歳ばかりの命の内に、我が子の住める山ながら、霊地拝みたき願ひにて、今ここまでの旅路の難儀。そもそもは賤しからぬ人なりしが、思はざる仕合せ有りて、一族皆絶え、杖にも柱にもこの僧一人を頼みに、「未来仏の御言葉に違はじ。」とみづからも頼もしく、この世は見果てぬ夢、葉末の露の消え易きを、松が枝の根張り強く、腰の抜けながら、その年も暮れしに、この僧、極めて孝なる事、氷に臥せる類。夏は蚊に身を与ふべし{*1}。
 次の秋より煩ひ付きて、思ひも寄らぬ老母を後に残して、「二十三霜夢一場。」の偈作り、眠るが如く終はりけるを、山蔭の霧煙と成す。行方は知らぬ身の果て、惜しからぬ命は長き老母の歎き、大方ならずおはせしを、加賀の玄海と言へる僧に、くれぐれ病中に頼み置きけるに、頼もしくも{*2}頼まれ、智弁に代はりて孝を尽くされける志、殊勝にこそ。「総じて『老いたるをば父母の思ひをなせ。』とあるに、今の世間を見るに、真実の親にさへ終日無礼のみに暮らすに、奇特千万の玄海が心底。」と人皆、感じ入りぬ。朝夕は言ふに及ばず、折々の果物まで心をつけて、麓の里の片庵に、自身持ち運びていたはりける。
 その年も暮れて、明くれば春立つ嶺の霞。渓の鴬、法華経の安楽行品読み初め給ふ事、開山の記録に見えたり。正月は衆寮に集まる僧も、摸相を許されながら、過ぎし夜学の空腹を忘れず。法衣の餅を鼠と争ひ、歳旦の詩も淵明と負けず。酒事催して、梢に残る余寒を防ぎ、春山、花は遅けれども、たまたま都の由的、順正が席より東山に遊ぶ心地。樽の口に付け木曲げて、槵子椀にて汲むなど、「肴なきか。」と言へば、納所坊主に軽薄言ひて、玉味噌の片割れも千金に替へず。一つ飲み出すより、例の浮き蔵主が声明声の浄瑠璃も可笑しく。
 それにつれて、常は坐禅眼の玄海も、好もしく飲みかかるより、一人して拍子取り、「方丈へは遠し。」と稀なる思ひ出、夜の明くるも知らず。片端より片付けられ、玄海、一人残りて、書院へ千鳥足して行くと見えしが、敷居を浪枕、月舟和尚の墨跡に、えならぬ物を吹きかけ、前後を知らず。
 二日酔ひ過ぎて、三日の暮方に、日は西に入るを、「朝日の出る。」と心得て起き上がり、我が寮に帰れど、猶ふらつく頭を悩み、隣なる僧を頼みて、老母{*3}見舞はせけるが、常さへ危ふき三輪組、玉の緒の絶え絶えなるに、三日食を断たれ、元よりゐざりもならず。「早、事切れ給ひたる。」と帰りて語れば、玄海驚き、思へば三日とぶらはず。年来、忽ちに不孝に成りぬ。
 大きなる過ち、これ一杯より起これり。悔て戻らず。

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校訂者註
 1:底本は、「与(あた)へし、」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「頼(たの)もしく頼(たの)まれ、」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
 3:底本は、「老母(らうぼ)を見舞(みま)はせけるが、」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。

二 悪性顕はす蛍の光

 都の辰巳、宇治の夏川涼しく、「蛍の火花、夜の眺めは吉野まさり。」と昼より催して、馬はあれどもかち路の友、木幡の里に待ち合はせ、休む重荷に小付けの樽。京の銘酒を揃へし。まづは花橘、井堰、重衡、柳、舞鶴。いづれか悪しからず。大宮人の御前酒、ここに住めばこそ地下人の口にも合へり。
 上戸仲間の長者町の各々、河原の役者交じりに立ち騒ぎ行くに、朝日山も夕暮近くなり、虹は映りて架け橋の詰めなる通円茶屋に、暫く川音を聴きしに、水の水上の清く、さし下し来る笹船に乗りて、さざ波の早き瀬に行きて、蝿頭のはや釣り{*1}。玉狭網に落としかけて、これを手づまの利きし人は、間もなく数釣りけるに、素人は一つもかからぬ事の口惜し。「これに伝受あり。」とて、祇園町清蔵と言へる者、花崎左吉に伝へて印可を渡しぬ。「この一流にて手の内を覚え、釣れず。」といふ事無し。
 「物毎に鍛錬有り。島原の局女郎に浅野と言へる者、爪を放つに細小刀にして二枚にへぎ、痛まぬやうに薄く指に残しける。この程は、太夫、天神に至るまで、この浅野を頼み、痛い目をせぬにて、弱き女も爪放つ事がはやる。」と大笑ひして、人の身の上を掻き捜しける。
 その中に品こそ替はれ、勤めは同じ野郎の口から、客の話を聞き覚えて、「無用の悪事。」といづれも聞かぬ顔して酒飲みけるに、この若衆、我が姿の浮き出る大杯に受けて、かれこれ、名の酒、数重なりて、我を忘れ、人も声高に成る時、蛍、暮待ちかねて飛び出るを、この野郎、扇に打ち留めて、「おのれも屁売りにここまで来たか。いまだ飛子さうな程に、律義千万に人任せに成り、素股の足のもぢりやうも知るまい。延べ紙の仕舞所は肌着の上替へ、褄先を綻ばせ置きて、これへ隠し、白い客に不思議がらす。」その外、痔の養生、糠味噌の行水。我が身の秘伝、くすね抜きの毛の穴までを、問はず語りの懺悔。後には聞く人、うるさし。
 これを思ふに、宵より過ぎたる手樽が物言へり。

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校訂者註
 1:底本は、「鯊(はぜ)釣(つり)、」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。

一 世には不思議の鯰釜
 
 名利の千金は、頂をなづるよりも易く、善根の半銭は、爪を放つよりも難し。
 昔、南都の大仏建立の勧進坊、諸国を巡りし時、大坂より泉州に通ふ木綿買ひ、阿倍野街道帰るに、住吉の里離れより、「一銭。」と勧めしに、この商人、聞き入れずして、先に立ち行くを、後を慕ひて気根比べに付け行けば、随分吝き者なれども、この御坊に我を折つて、天王寺の石鳥居にて、百さしより一文抜きて投げ出し、「これ信心の一銭にはあらず。これまで付かれし勢力を感じぬ。その志にては、大願成就すべし。」とせち賢き事を言ひながら、出茶屋に休みて、色作りたる女と暫く浮世の事どもを語りて、立ち帰る時、二十銭余り置いて行けど、この女は嬉しき顔をもせざりき。
 その大仏、久しく焼け野に立たせ給ひ、雨露雪霜に御首の朽つるも見るに悲しかりしに、今又一人の沙門、建立の願ひ、国々に通じ、奉加の志深し。
 ここに吉野の片里に、天の川の神主何之進とかやの召し使ひ下女、若年の時、両親に離れ、頼むべき一門も無く、この旦那を親にして、奉公に私なくて、主もひとしほ不憫かけて、末々は我が世を渡る縁の事までも聞き立てける。この所の習ひにて、総じて男は家にありて、打ち囃子に日を暮らし、女は山畠に出て鋤鍬を握り、或いは谷水をになひ、柴を戴き、牛を曳き、男の業に代はれり。
 この下女、常々、人毎に優しく、月に二日は「父母の命日。」とて野辺に茶釜仕懸け、嵐の落葉を拾ひ、これを焚火の種と成して、働く野女の咽の渇きを助けしに、皆々これを喜び、一つに集まり、田植歌を同音に、山も響き渡りて、いづれ余念は無かりき。この釜に面妖の徳有り。朝に仕掛け夕まで、重ねて水を差すといふ事もなくて、「数百人して飲まんか{*1}。」とも見えず。これ、重宝の一つなり。
 この事伝へて、里続きの山寺に盗み行きしに、常に変はる事無し。法師、腹立して、滝津川の淵に投げ入れしに、沈みて跡無くなりぬ。下女はこれを歎くに、年経し大鯰、これを担ぎ上げて、再び功徳茶を沸かしける。「いにしへ、念仏行者の亀鉦。今又、鯰釜。」と里人の言ひ習はせける。この女の世に亡き親に孝を尽くせる志をいたはり、田返し畠打つ事も、大勢の里女、営み助けしとなり。伝へ聞きし、見ぬ唐土の象、天性の恵みにも、これぞ劣るまじき万人の志、深し。
 その後、かの女、奈良の仏の寄進に、「これ両親のため。」とて朝夕、我が面影映せし丸鏡を上げて、「長者万金、貧女の一鏡。」とその光を奈良に顕はせしは{*2}、かの大仏、御首、その外損じ給ふを、鋳物師を以て鋳させ給へども、所々に穴あき、成就の形を見せ給はず。勧進の沙門、「いかが。」と案じ給ふに、或る夜の夢に、「三笠山より鹿一つ来り、かの鏡を、角を以て叩くふりを幾度もせし。」と見給ひ、「さては、志の深き鏡なるべし。」と、これを湯にし、鋳給ふに、たちまち満徳円満の釈迦の像と拝まれ給ふ。皆人、聞き伝へて、感涙を催しけるとかや。
 これ一重に、孝の深きより成す処なり。

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校訂者註
 1:底本は、「飲(の)み得(え)む」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「顕(あら)はせし。彼(か)の」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。

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