大臣殿の舎人 附 女院吉田に移る 並 頼朝二位に叙する事
今日、車を遣りける牛飼は、木曽が院参の時、車遣りて、出家したりし、弥次郎丸が弟に小三郎丸と云ふ童なり。西国にては、仮に男になりて{*1}、今度上りたりけるが、「今一度{*2}、大臣殿の車をやらん。」と思ふ志、深かりければ、鳥羽にて九郎判官の前に進み出でて申しけるは、「舎人、牛飼とて、下﨟のはてなれば、心ある{*3}べき身にては候はねども、最後の御車を仕らばやと深く存じ候。御ゆるしありなんや。」と泣く泣く申しければ、「何かは苦しかるべき。」とて、ゆるしてけり。手を合はせ、額を突きて悦びつゝ、心ばかりは、とり装束き{*4}てぞ車をば仕りける。道すがら、涙に咽びて面をももたげず。こゝに留まつて泣き、かしこに留まつては泣きければ、見る人、いとゞ袖をぞ絞りける。
大路を渡して後は、判官の宿所六條堀川へぞ遣られける。物まかなひ{*5}たりけれども、つゆ見も入れ給はず。互に目を見合はせて、只涙をのみぞ{*6}流し給ひける。夜に入りけれども、装束もくつろげず、袖片敷きて臥したまへり。暁方に、板敷のきしりきしりと鳴りければ、預かりの兵、あやしみて、幕の隙よりこれを見れば、内大臣、子息の右衛門督をかき寄せて、浄衣{*7}の袖をうちきせ給ひけり。右衛門督は、今年十七歳なり。「寒さをいたはり給はん。」とてなり。熊井太郎、江田源三など云ふ者ども、これを見て、「あな、いとほしや。あれ見給へ、殿原。恩愛の慈悲ばかり無慙の事あらじ。あの身として、単なる袖をうちきせ給ひたらば、いかばかりの寒さを禦ぐべきぞや。せめての志かな。」とて、猛きものゝふなれども、皆袖を絞りけり。
建礼門院は、東山の麓、吉田の辺に、中納言法橋慶恵と申しける奈良法師の坊へぞ入らせ給ひける。住み荒らして年久しくなりにければ、庭には草高く、軒にはこけ繁く、簾絶えて、宿顕はなれば、雨風たまるべくもなし。昔は、玉の台をみがき、錦の帳にまとはれて、明かし暮らしたまひしに、今は、かなしき人々には、皆別れ果てぬ。浅まし気なる朽ち坊に、只一人落ち著き給ひける御心の中、おし量られて哀れなり。道の程、伴ひまゐらせける女房達も、一所に候べきやうもなければ、これより散り散りになりぬ。御心細さに、いとゞ消えいる様に思し召されけり。誰憐れみ、誰はぐゝむべしとも思し召さねば、魚の陸に上がりたるがごとく、鳥の子の栖を離れたるよりも尚悲し。憂かりし波の上、船の中、今は恋しくぞ思し召し出でける。同じ底のみくづとなるべき身の、せめての罪の報いにや、取り上げられ、残り留まりてぞ思し召すも哀れなり。「天上の五衰の悲しみは、人間にもありけり。」とぞ見えさせ給ひける。
同じき二十七日、主上、閑院{*8}より大内に行幸ありけり。大納言実房卿以下ぞ供奉せられける。内侍所、神璽、官庁より温明殿へ渡し奉らる。上卿、参議、弁、次将、皆、もとの供奉の人なりけり。三箇日、臨時の御神楽を行なはれけり。
三條大納言実房卿参り、件の座に著きて、大外記頼業を召して、「源頼朝、前内大臣追捕の賞に、従二位に叙せらるゝ由、内記{*9}に仰すべし。」とぞ仰せ給ひける。頼朝、本位、正下四位{*10}なり。勲功の越階、常例なり。
宮人の曲 並 内侍所効験の事
二十九日、国忌なりければ、御神楽止められ、五月一日に又行なはれける。宮人の曲、多好方、仕りければ、勧賞には、子息右近将曹好節を将監に任ぜられけり。宮人の曲と云ふは、好方祖父、八條判官資忠と云ふ舞人の外は、知る者なし。堀河院ばかりにぞ授け奉りたりける。資忠は、山村政連がために殺されければ、この曲、永く世に絶えなんとしけるを、「内侍所の御神楽行なはる。」とて、堀河院、資忠が子息近方を砌下に召し置かれて、主上、御簾の中にして、拍子をとらせ給ひ、近方に授け下されけり。父に習ひたらんは、尋常の事なり。いやしくもみなし子として、父にだにも習はざる者が、かかる面目を施す。「道をたたじ。」と思し召し、絶えたるを継ぎ、廃れたるを興し給へれば、それより以来、今にかの家に伝はる。
内侍所は、昔、天照大神、天岩戸におはしましける時、我が御形を移し留め給へる御鏡なり。天神{*11}、手に宝鏡を捧げて、天忍穂耳尊に授け給ひて云く、「我が子孫、この宝鏡をみそなはしては、必ず我を見ると思へ。同殿に床を一にして祝ひ奉れ。」とて授け奉りしより、次第に相伝へて、一つ御殿に御座ありけるを、第十代の帝、崇神天皇の御宇に及んで、霊威に恐れ給ひて、別殿に遷し奉られて後には、温明殿にぞおはします。
遷都{*12}の後、百六十六年を経て、村上天皇の御宇、天徳四年九月二十三日子の刻に、内裏焼亡。火は、左衛門陣より出で来りたりければ、内侍所のおはします温明殿も程近かりける上、もとより夜半の事なれば、内侍も女官も参り会はず。内侍所をも出だし奉らず。小野宮{*13}、急ぎ参り給ひて見給へば、温明殿は、はや焼けけり。「内侍所も焼けさせ給ひぬるにや。代は、かうにこそ。」と思し召し、涙を流し給ひける程に、灰燼の上にして見出だし奉りたりけるに、木印一面、その文に、「天下太平」の四字ありけり。又、南殿の桜の梢に飛びかゝらせ給ひたりけるが、光明赫奕として、朝日の山の端を出づるが如し。「代は、猶ほ失せざりけり。」と、悦びの涙、せき敢へ給はず。右の膝を突き、左の袖を披きて、「昔、天照大神、百皇を守り奉らんがために、移し留め給へる御鏡なり。御誓ひ、未だ改め給はずば、神鏡、実頼が袖に宿り入らせ給へ。」と仰せられける御ことばの未だ終はらざるに、高き梢より飛び下らせ給ひて、御袖に入らせ給へり。即ち、つゝみ奉りて、御前を進んで、主上の御在所、太政官の朝所へぞ渡しまゐらせられける。猛火の中にして損失なかりけるこそ、霊験、掲焉とおぼゆれ。「今の代には、誰人か請じ奉らんと思ひ寄るべき。神鏡も、飛び入らせ給はん事、そも知らず。上代は、目出たかりけり。」と、身の毛よだちて貴かりけり。
時忠卿罪科 附 時忠義経を婿とする事
同じき五月三日、頭弁光雅朝臣、仰せ承つて、内大臣実定に問はれけるは、「時忠卿申し状によるに、『先帝を扶持し奉り、謀叛の臣に同意し畢んぬ。所当の罪に行なはれしむるの條、更に遁れ申す所なし。但し、内侍所においては、前内大臣、海に入る時、海中に投げ奉るべきの由、再三これを示すといへども、頭上に捧げ奉りて、帰降し畢んぬ。これ、命をたすからんがため{*14}といへども、又、微忠に非ずや。今度、罪科をゆるされ、剃髪染衣と望み申すの間、内侍所の事、義経に尋ねらるゝの処に、その実ある。』の由、言上する所なり。いか様に行なはるべきか。計らひ申すべき。」の由、仰せ下されければ、実定、返事申されけるは、「生けどりの人々の罪科の致す所、臣下の如きは、計らひ申すべきに非ず。叡慮を決せらるべきの由、先日、申し入れ畢んぬ。但し、時忠卿においては、武勇の人に非ず。申し請ふに任せて、優恕{*15}せらるゝの條、尤も善政たるべきか。」とぞ申されたりけれども、院宣の御使、花方が鼻をそぎ、髻切りなどして、「己にするに非ず。」と狼藉申し振舞ひたりけるによつて、遂に流罪に定まりにけり。
この時忠卿子息、讃岐中将時実も、判官{*16}の宿所近くおはしけり。心猛き人なり。かほどになりぬる上は、思ひ切るべきに、尚も命の惜しく思ひけるにや、中将にかたりて、「如何はすべき。散らすまじき状どもを入れたる皮篭を一合、判官に取られたり。かの状ども{*17}、鎌倉に見えなば、損ずる{*18}者も多く、我が身も死を遁れ難し。」と歎き給ふ。中将、計らひ申し、「『判官は、大方も情ある上、女などの訴へ{*19}歎く事をば、もてはなれず。』と承り侍り。かかる身々となりぬれば、苦しむべきに非ず。親しくなり給へかし。さらば、などか情をもかけざらん。」と云ふ。時忠卿、涙をはらはらと流して、「我、世に在りし時は、『女御、后にも。』と思ひて、『並々の人に見せん。』とは思はざりき。」とて、袖を顔に当てたまへば、中将も、同じく涙を流して、「今は、云ふに甲斐なし。只疾く計らひ給ふべし。」と宣ひければ、当時の北の方帥典侍の腹に、今年十八になる姫君の、なゝめならずいつくしきをぞ、中将は申されけれども、それをば猶いたはしくおぼして、先腹に二十八に成り給へるを、内々、人してほのめかしければ、判官も、「しかるべし。」とて迎へ取りぬ。
年こそ少しおとなしく侍りけれども、清くたわやかに、手跡うつくしく、色情ありて、はなやかなる人なり。判官、志深く思ひければ、本妻、河越太郎重頼が女も有りけれども、これをば別の方をしつらひて、すゑたり。中将の計らひ、少しも違はず。やゝ相馴れて後、かの文箱の事、申したりければ、判官、封を披かず返し送りけり。大納言、大きに悦びて、坪の中にして、これを焼く。何事にかありけん、「悪しき事どもの日記。」とぞ聞こえし。
校訂者注
1:底本頭注に、「一時元服すること。牛飼童は皆垂髪に狩衣を著け、年齢十七八なるは無論、三十四十に至るも童と称し童体を装ふ故に仮に男に成るといふ。」とある。
2:底本は、「今度」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
3:底本は、「心ある身」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
4:底本は、「とり装束(そうぞ)き」。底本頭注に、「とり装ふこと。」とある。
5:底本頭注に、「飲食物を薦める。」とある。
6:底本は、「涙をのみ流し」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
7:底本は、「浄衣(じやうえ)」。底本頭注に、「白き狩衣。」とある。
8:底本頭注に、「里内裏。」とある。
9:底本頭注に、「詔勅宣命をつくり位記を書く職」とある。
10:底本頭注に、「正四位下。」とある。
11:底本は、「大神」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
12:底本頭注に、「延暦十三年」とある。
13:底本頭注に、「摂政藤原実頼。」とある。
14:底本は、「命を扶(たす)けんがため」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
15:底本は、「優恕(いうじよ)」。底本頭注に、「宥恕。」とある。
16:底本頭注に、「源義経。」とある。
17:底本は、「彼の状鎌倉に」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
18:底本は、「損する者」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
19:底本は、「打堪(うちた)へ」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。