江戸期版本を読む

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【翻字】
[重]さつき来た
けれともよく寝ておいでなんすから起し申も
わるいと思つてあつちイいきやした堪忍(かんに)なせん
し[源]なんだ堪忍しろはゝせつかう泣(なき)やむねゝ
さましやア有めへしそんなあまつたるい事で
堪忍する野郎じやねへわい[重]それでもお前
わつちが悪いから誤りやすに堪忍ならざあ
どふともなせんし[源]とふともしろとつて首
を切て灰吹(へへふき)にも成めへし腕をもゐて香(かう)の物
にもされやアしねへがマアよく考(かんけへ)て見やあがつたが
ゑへ命から二番目の銭金を出して一晩買(かひ)
切て置くからたはそれに夜ひてへほつきあるい
て居やアがつてどふともしろたア何の事(こつ)た[重]
それだからかんになせんしといへばならねへとおつ
せんすもんだからとふも仕様がごぜんせん[源]なんだ
か又こいつが禅宗坊主ウ見たやうにつべこべつべこべ口
ごてへをしやあかる力持(ちからもち)の女のよふに成ばかり大
きいかと思やあ座敷の内から大きなつらアしや
かつて胸のわるいたかて今の相場なら壱分に
百四十八文込三人といふ女郎衆(しゆ)た余(あんま)り高く
とまる風じゃアねへはサ
【通釈】
重野「さっき来たけれども、よく寝ておいででしたから、起こし申すのも悪いと思って、あっちへ行きました。お許しなさいませ」。源六「何だ、〈許してくれ〉?はは。無理して泣き止む赤ん坊じゃあるめえし、そんな甘ったるい事で許す野郎じゃねえわい」。重野「それでもあなた、私が悪いから謝りますのに、(あなたが)お許しなさらないなら、どうとでもなさいませ」。源六「どうとでもしろと言ったって、(お前の)首を切って(みても、それが)灰吹きにもならないだろうし、腕をもいで(みても、それを)漬物にもできやしないだろうが、まあよく考えてみやがったらいい。命の次、二番目(に大事なそ)のお金を出して、一晩買い切て置く(お前のその)体は、それなのに(勝手に)夜、ひどいことにほっつき歩いていやがって、〈どうともしろ〉たあどういう事だ」。重野「それだからお許しなさいませと言えば、できないとおっしゃるものだから、どうともしようがございません」。源六「何だか又こいつが禅宗の坊主のようにつべこべつべこべ口答えをしやがる。力持ちの女のように体ばかり大きいと思えば、座敷にい(て食事をしてい)るうちから大きなつらをしやがって、腹の立つ。せいぜいのところ、今の相場で一分に百四十八文を加えて三人(は買い切れる)という(が、その金を出して俺が買い切った、お前はその)女郎衆だ。(それなのに)あんまりお高く止まって似合うもんじゃないわさ」。
【語釈】
・はゝせつかう・・・「ゝ」はあるいは「く」か。いずれにしても不詳。ひとまず「はゝ」を鼻で笑う擬声語、「せつかう」を「せっかく(無理をして。苦労して。わざわざ)」の音変化ととっておく。
・ねね・・・赤ん坊。ねんね。
・灰吹き・・・タバコ盆についている、タバコの吸い殻を吹き落とすための竹筒。
・ひてへ・・・不詳。「ひどい」の音変化か。
・なり・・・体格。
・胸が悪い・・・むかむかするほど腹立たしい。
・高・・・せいぜいのところ。
・こみ・・・いろいろなものをとりまぜて一つに扱うこと。
・壱分に百四十八文込三人といふ女郎衆・・・不詳。一分は銭千文。源六は実際にそれだけの額を出していたからこう言ったか。
・ふう・・・それらしいようす。ふり。
【解説】
 最初はとぼけたり軽口を返していた重野ですが、源六の剣幕に一転謝り始めます。源六はかさにかかって悪口雑言を重ね、重野をいじめます。重野は謝りますが、「どうにでもしてくれ」と開き直ります。源六は金額のことまで言って、「お前は女郎で金で買われる女だ」と、身もふたもないことを言います。遊興はすっかり台無しです。
 重野の振る舞いも褒められたものではありません。しかし、源六の言動は人としては最低でしょう。そもそも女郎屋遊び自体、遊興として褒められたものではない、むしろ恥ずべき行為です。また、源六が金を払ったのは店に対してであって重野にではありません。重野に大きな顔がしたければ、源六は祝儀を渡すべきだったのです。
 以上の批判は現代の目から見たもの、というだけではないでしょう。おそらく当時の読者から見ても、源六の言動は嘲笑の対象ではなかったかと思われます。
 ここまできてようやく十蔵が現れ、場を収めます。本編は他の三篇よりも長く、次回で完結します。

  

【翻字】
(しばらくすぎて)[重](来り)ねなんした
かねなんしたか(といへども[源]少しもたせぶりにねたふりをして
音もせざれば[重]はそつとはいりあふのけにねて
唄(うた))つらやあきたよヲこの屋のつとめ(エゝ引
とうたひながらまくらもとの火入(ひいれ)にてたばこのみしが何思ひ
けんついとたちいでゝ行[源]はそらねいりごうごうといびき
かきしがあやにく目がさへてねられはせずひとりまぢまぢ
たばこばかりのみてまてどくらせどふたゝび来(こ)ぬゆへ
たばこの火きへたるにごうをにやし四つ折(おり)のはん紙(し)を
引さききせるのがんくびをつゝみ行燈の火にぼやぼやと
もやし内へひといき引と脂(やに)の来るに又ごうをにやし
そのまゝ吸口(すいくち)から壁へはたきつけはらたちまぎれに
めったむせうに手をたゝくやゝしばらくして)[重](聞(きゝ)つけて来る)ヲヤ
そふぞふしい何でごぜんすナ[源]なんだ
そふぞふしいコレ大概(ていげへ)床(とこ)イ来る時分も有(あり)そふな物(もん)
だモウ何時(なんどき)だとおもふ[重]まだ四ツ過(すぎ)で
ごぜんせふ[源]ソレそういうあんけつだ今
八(や)ツウ打(うつ)たはな[重]よふごぜんさあナ八つが
人を取て喰(く)やアしめへし[源]ナニ又荒井(あれへ)のゑんま
じやアなし人を喰ふのくはねへのといふのじやア
うぬが来るが遅へといふ事たはい
【通釈】
しばらく(時が)過ぎて、重野「寝なさいましたか」と言ったが、源六は思わせぶりに寝たふりをして返事もしないので、重野はそっと部屋に入り、仰向きに寝て、唄「〽辛い。いやだよ。この家の勤め~」と歌いながら、枕元の火入れで(火を点けて)たばこを呑んでいたが、何を思ったか、ぷいと立って行く。源六は狸寝入りをして「ごう、ごう」といびきをかいていたが、(重野が行ってからは)あいにく目が冴えて寝られはせず、一人目を覚まして、たばこばかり呑んで(重野が戻るのを)待ったが、待てど暮らせど戻って来ないので、タバコの火が消えたのに腹を立てて、四つ折りの半紙を引き裂き、キセルの雁首を包み、行燈の火にぼうぼうと燃やし、内に一息吸い込むと、脂が(熱で溶けて口の中に入って)来るのに又腹を立て、キセルごと壁に叩き付け、腹立ちまぎれにむやみやたらに手を叩く。ほんのしばらくして、重野が聞き付けて来て、「おや、騒々しい。何でございましょう」。源六「『何だ騒々しい』(だと)?いいかげん寝床へ来る頃合いもありそうなもんだ。もう何時だと思っている」。重野「まだ四つ過ぎでございましょう」。源六「それ、(お前は)そういう馬鹿だ。今(鐘が)八つを打ったわ」。重野「(別に)良うございますわ。八つが人を取って食ったりしないでしょうし」。源六「なに。又新井の閻魔じゃなし、人を食うの食わねえのという話じゃない。てめえが来るのが遅いという事だわい」。
【語釈】
・もたせぶり・・・気をもたせるような 言動をすること。
・入り・・・ここで「入っ」たのは部屋か、あるいは布団か。
・飽く・・・いやになる。飽きる。
・火入れ・・・煙草 (タバコ) 盆の中に組み込み、タバコにつける火種を入れておく器。
・あやにく・・・意に反して不都合なことが起こるさま。あいにく。
・まぢまぢ・・・なかなか寝つけずにいるさま。また、寝つけないまま、しきりにまばたきをするさま。
・業を煮やす・・・事が思うように運ばず、腹を立てる。
・雁首・・・キセルの頭部。先端にタバコを詰める火皿がある。
・引く・・・体内に吸い込む。
・やに・・・タバコを吸ったときにキセルやパイプにたまる褐色の粘液。
・吸い口・・・キセルの口にくわえる部分の金具。
・はたく・・・たたく。
・滅多無性・・・考えもなく手当たり次第に何かをするさま。むやみやたら。めったやたら。
・やや・・・少しの間。しばらく。
・たいがい・・・かなりの程度に達するさま。いいかげん。
・四つ・・・今の午後10時頃。
・あんけつ・・・人をののしる語。あほう。ばか。まぬけ。
・八つ・・・今の午前二時頃。
・荒井の閻魔・・・新居閻魔堂。鎌倉にあり、本尊として閻魔像を祀っていた。
・うぬ・・・相手をののしっていう語。きさま。てめえ。
【解説】
 一度重野は寝間へやって来ますが、狸寝入りをしている源六を見捨てて部屋を出て行ったきり、戻ってきません。しびれを切らし、腹を立てた源六は手を叩いて重野を呼び付け咎めます。すると重野は「まだ10時過ぎだ」と言い、源六が「もう2時過ぎだ」と言うと、「2時なら2時でいいじゃないか」と、怒る源六を相手にしません。そんな重野の横柄な態度と人を食った物言いに源六はますます怒ります。
 客として女郎を一晩買い切って、こういう扱いを受ける源六は確かに気の毒ですが、自業自得という面もあるように思います。それまでの白けた会話の延長で狸寝入りをされても、女郎としては起こす気にもなれないのは当然でしょう。第二編「粋事 深川」では、狸寝入りする庄兵衛をお中がくすぐって起こします(http://blogs.yahoo.co.jp/ohta_masakazu_p/69312414.html)が、あの二人の関係とはが全く違います。それなのに同じように狸寝入りをする源六は、人情も何も全く解していないと評する他なく、これでは冷遇されるのもある意味当然と言えます。
 それにしても、重野の歌う歌は哀しく、当時の女郎の置かれたひどい境遇を如実に表しています。この後、源六はますます怒り、重野はひたすら謝ります。源六の女郎屋遊びは修羅場と化します。

  

【翻字】
[重]これお市や爰(こけ)へ耳(みめよ)を
出しや[市]エあい[重]よ[市]あいあい[源]なんだちつと聞(きゝ)てへ
の[市]お前のお聞なんす事じやアごぜんせん(と出て行)[源]何
の事たおれにもちつと聞(きか)せなさらんか[重]ヲヤ聞なん
せずともゑへ事さ[源]それでも聞ねへじやアどふも氣
にかゝるは[重]そりやアおなしみの事さ(とつんとふりむく[源]はしよう事なさに
いけぬ酒をめつたにのむ[重]はたばこも呑(のみ)あきはな紙を出して鶴をおる此間しばらくのこと也)[市](膳を持(もつ)て来てだまつて源が前へ)
[市]さあお吸(すい)なせんし[源]氣がねへが一ぱい茶づろう
か其内(そのうち)着かへて来ねへ[重]アイおそろしく氣が
つきねへす市おめしをもつてあげや(といひながら下へおりる)
[源]そんなら茶を持て来てくりや[市]アイ持て
来いした[源]氣のつくもんだのサアかけてくりや
[市]お吸物をおけへなんし[源]イゝニヤもふいや(めしすむ)[市]お膳
をさげいすよ[源]ドレまちやまちや茶をのんで仕廻(しまは)ふサア
よしよし[市](膳をさげる)[十蔵]サアあつちイおいでなさりまし
[源]どこだの[十]廊下ざしきて御座ります私
が連(つれ)申て参(めへ)りませふハイ爰で御座ります[源]
こりやア小便所イちかくつてきついかすりだ
まだたばこ盆が来ねへぜへ[十]あい[源]そ
してのあすこの行燈のしたに例刻(れいこく)
が有(ある)よ[十]エあい(と今のざしきよりたばこぼん其外はこび)ハイ御きげんよふ
[源]有(あつ)たろうの[十]アイいただきました[源]そん
なら休(やすみ)なせんし
【通釈】
重野「これ、お市や、ここへ耳を出しや」。お市「はい」。重野「よ・・・」。お市「はいはい」。源六「何だ。ちょっと聞きたいの」。お市「あなたのお聞きなさる事じゃございません」と言って出て行く。源六「何の事だ。俺にもちょっと聞かせなさらんか」。重野「おや、聞きなさらずともいい事さ」。源六「それでも、聞かないとどうも気にかかるわ」。重野「そりゃ、(さっき話したのは)いつもの事さ」と愛想なく顔をそらせる。源六は仕方なく飲めない酒をやたらに飲む。重野は煙草も呑み飽きて、鼻紙を出して鶴を折る。この間はしばらくの事である。お市が膳を持って来て、黙って源六の前に置き「さあ、(吸い物を)お吸いなさいまし」。源六「気が向かないが、一杯茶漬けでもしようか」。重野「はい。ひどく気が利きません(粗末な善でございます)。市や、ご飯を盛って上げや」と言いながら下へ下りる。源六「そんなら茶を持って来てくれ」。お市「はい。持って来ました」。源六「気が付くもんだの。さあ、かけてくれ」。お市「お吸い物をお替えなさいませ」。源六「いいや、もう結構」と、食事が済む。お市「お膳を下げますよ」。源六「どれ、待ちや待ちや。茶を飲んでしまおう。さあ、よしよし」。お市が膳を下げる。十蔵「さあ、あっちへお出でなさいまし」。源六「どこだ、どこだ」。十蔵「廊下座敷でございます。私が連れて参りましょう。はい。ここでございます」。源六「こりゃあ、小便所に近くて(床が)ひどい傷だ。まだ煙草盆が来ねえぜ」。十蔵「はい」。源六「そして、あそこの行灯の下に例のものがあるぜ」。十蔵「はい」と、先ほどの座敷から煙草盆その他を運び、「はい、(ではこれで)ご無礼をいたします」。源六「あっただろうな」。十蔵「はい。頂きました」。源六「そんならお休みなさい」。
【語釈】
・なじみ・・・なれ親しんで知っていること。
・つんと・・・愛想なくとりすましているさま。
・ふりむく・・・顔やからだを後方へ向ける。
・しょうこと・・・なすべき方法。しかた。
・いける・・・酒を相当量飲むことができる。
・茶づろう…不詳。「茶漬けをしよう」の意か。
・廊下座敷・・・不詳。庭や通りに面していない、「廊下に面した座敷」の意か。
・かすり・・・不詳。床面に傷が多いことを言ったものか。
・例刻・・・金銭や性のことなど、はっきり口に出して言いにくい物事をさしていう語。あのこと。例のもの。
【解説】
 源六は、特に目立った悪いことはしていないようなのですが、やることなすこと全てがちぐはぐで、店の者の気分に逆らうようです。重野だけでなく、お市も十蔵も不愛想でよそよそしい対応をしています。
 女郎屋で遊ぶのも、今の歓楽街で遊ぶのと同様に、それなりの技量が必要であったということでしょう。この源六はおそらく「女郎屋で嫌われ冷遇される客のサンプル」といった存在なのかもしれません。やたらしつこく、言うことは聞かず、一言気に障ることを口にし、注文はあまりしない、店からすると最もうっとおしい嫌な客かもしれません。
 食事を終えた源六は寝間へ案内されます。そして事件が起こります。

  

【翻字】
[重野]おいでなんし[源]あい[市]サアおあんなんし
[源]ウゝつゐてくりやヲツトよしよしサア上(あげ)んしよふ
[重]おさはり申やせふ[源]久しいもんだがまづまづさ
[市]サアお出しなんし[重]つぐめへよ[源]ナゼのみなさら
んか[重]アイねつから給(たべ)んせん[源]どふもおしきせの
酒はいけねへの取(とり)にやろうか[重]あがらばお取寄(とりよせ)なせ
んしわつちやア給(たべ)ずともよふごぜんす[源]そんならよし
やせふわたしもそんなにやア呑(のみ)やせん[市]茶びんでも
お取(とり)よせなんし[源]甘(あめ)へ物(もな)ア氣がねへ([市]重野が方をむきてしたを出す[重]目ま
ぜでしかる)[重]サア手前にさそふ[市]わつちやアいや[重]そんな事
が有(ある)ものかそんならお前に上んせふ[源]おせへよふか[重]
[源]イゝヘもふ同じ事(こつ)てごぜんす[源]サアつゐでくりやおれ
より外に呑人(のみて)はねへ[重]サアわつちがつゐで上(あげ)んせふお市
ゑへから置(おゐ)ていきや[市]アイそんなら置て参りやすよ
[重]ウゝよしよしサアお出しなせんし[源]是は憚(はゞか)りヲイこぼれ
るこぼれる此(この)盃のやり所にこまつた初会(しよけへ)のひとりはさへねへ
もんだの[重]どふせ又おなじみ程ゑへ事アごぜんせんのサ
[源]いゝにやアひとりで悪いといふ事さおかしくきゝな
すつちやア悪い[重]ナニサお前どふせ名代(めうでへ)同前のわたし
だものサア何ぞお取なせんし[源]どふも何も喰(くへ)そふ
な物アねへ[重]海老はへ[源]どふかくせへよふだなんだか
鬼界島(きけへがしま)の汁の実を見る様に鹿角菜(ひじき)ばかり沢山だ
[市](鉢ざかな持来て)[源]そりやアなんだなんだ[市]差身でごせひす
おあんなんし[源]まぐろばかりいやいやいつそ豆にしよふ
團子のねへ月見だと思つて
【通釈】
重野「お出でなさいませ」。源六「はい」。お市「さあ、(お酒を)お上がりなさい」。源六「うん。ついでおくれ。おっと、よしよし。さあ、(盃を)上げましょう」。重野「いえ、不調法で」。源六「(盃のやり取りなど)ありきたりだが、まず、まず、さあ」。お市「さあ、(手を)お出しなさい」。重野「頂きませんよ」。源六「なぜ飲みなさらんか」。重野「はい。(酒は)全く頂きません」。源六「どうもお仕着せの酒はいけねえな。(別の酒を)取りにやろうか」。重野「(あなたが)上がるのならお取り寄せなさいませ。私は頂かないでも良うございます」。源六「それなら止しましょう。私もそんなには飲みません」。お市「茶瓶でもお取り寄せなさいまし」。源六「甘い物は気乗りがしねえ」。(ここで)お市は重野の方を向いて舌を出す。重野は目くばせでお市を叱る。重野「さあ、お前に(盃を)差そう」。お市「私は嫌」。重野「そんな事があるものか。そんならあなたに上げましょう」。源六「お前に差そうか」。重野「いいえ。もう同じ事でございます」。源六「さあ、注いでおくれ。俺の他に飲む者はいねえ」。重野「さあ、私が注いで上げましょう。お市、いいから置いて行きなさい」。お市「はい。そんなら置いて参りますよ」。重野「うん、よしよし。さあ、お出しなさいませ」。源六「これはどうも。おい、こぼれるこぼれる。この盃のやり場に困った。初会の一人酒は冴えないもんだな」。重野「いずれにしても、お馴染み(になる)ほどいい事はございませんのさ」。源六「いいや。一人酒で良くないということさ。変に聞きなさっちゃ良くねえ」。重野「なにさ、あなた。どうせ代理同然の私だもの。さあ、何かお取りなさいませ」。源六「どうも何も食えそうな物はねえ」。重野「海老は?」。源六「どうも臭えようだ。何だか鬼界島の汁の実を見るように、ひじきばかりで沢山だ」。(そこへ)お市が鉢物の料理を持って来る。源六「それは何だ何だ」。お市「刺身でございます。お上がりなさいまし」。源六「まぐろばかり嫌だ嫌だ。いっその事、豆にしよう。団子のねえ月見だと思って」。
【語釈】
・さわる…不詳。「触る」と「障る」があるが、ここでは後者か。差し支える。支障ができる。返盃を辞退する意を婉曲に伝えたものか。
・久しい・・・古くさい。ありきたりである。
・つぐ・・・「注ぐ」「継ぐ」「次ぐ」等あるが、ここでは「継ぐ」か。前の物事が断絶しないよう前に続けて行う。
・ねっから・・・生まれつき。もとから。全く。さっぱり。
・おしきせ・・・上から一方的に与えられたり,定められたりしていること。
・給ぶ・・・ここでは「食ぶ」の意。いただく。食べる。
・ちゃびん・・・茶を煎じるための土瓶や薬缶。             
・舌を出す・・・陰で人をばかにしたり、あざけり笑ったりする。また、そういうときの動作。
・目まぜ・・・目で合図すること。めくばせ。
・おさえる・・・差そうとする杯を受けないで,もう一度飲ませる。
・はばかり・・・「はばかりさま」の意。人の世話になった時などに言うあいさつの語。ご苦労様。
・初会・・・遊郭で,遊女が初めてその客と会うこと。
・ひとり・・・ここでは「独酌」の意か。
・名代・・・代理。
・どうせ・・・いずれにしても。しょせん。               
・どうか・・・どうも。どうやら。
・鬼界島・・・古来、日本の最南端に位置する島と考えられていた。
【解説】
 見立てで選んだ女郎重野が登場しますが、返盃は受けず、会話はちぐはぐで、座は全く盛り上がりません。見習い女郎のお市まで舌を出してからかう始末で、先行きが思いやらる展開です。
 重野も確かに無愛想ではあるのですが、源六の言動も、妙に人の気持ちに逆らうところがあります。出された物に不服めいたことを必ず言うし、それでいて酒食の注文はしません。重野やお市にとってははなはだ嬉しくない客、いけ好かない客であったことと思います。
 この先、まだまだ座の空気は悪化していきます。本編はシチュエーション・コメディ風に楽しむべき作品かも知れません。

  

【翻字】
三味線の音羽の滝のみなかみにのぼりつめ
たる九丁目のはしからはしを見渡せば青柳
桜木こきまぜて錦にまさる絹か木綿か
[若い者十蔵]モシむしむし[客源六]何屋だ[十蔵]若竹
でござります[源六]えへ女郎衆が有かの[十]マア御
らうじやし揃(そろつ)ておりやす[源]そんなら見よふか
見るはほうらくだ[十]ヘゝゝそれお市おみせだよ
[子供お市]アイお見立(みたて)がおぜんすよサア爰(こつ)から御ろう
じやしどふでおぜんすへ[若竹の女房]どけへお出(いで)なす
つても同じ事(こつ)てござりますサアサアお上(あが)りなせん
し[源]嚊(かゝ)さんがそれほどにいゝなさるから上り
やせう[女房]それはもふ有難ふ御座りますどの
女郎衆へ[源]こつちの方から四番めだ[女]アノ
ひかるたばこ盆かへ[源]ウゝあれあれ[女]重野しまや
よサアお市表ざしきイ入(いれ)もふしや[市]さあお出なん
し[源]どこだどこだ[市]アイこゝでおぜいす[源]なんだ
書いたは書いたはあんどんイ手習(てなれへ)をするそふだのコレ茶ア
一盃(いつぺへ)くりや[市]アイ今に上(あげ)いす(と下へ行)[源](此間にふところの銭を出し
あんどんの下へかくしそしらぬかほをして)鼻哥蝉イのぬウけがらアで身イはこヲ
こにのふヲゝけの[市]サアお茶ア上んせふ[源]ヲツトよく
したコレ女郎衆の名は何といふ[市]どの女郎衆へ
[源]知れた事おれがやつよ[市]重野さんといひやす
[源]はやく連(つれ)て来(き)や[市]ヲヤけしからねへ今に
お出なせいす(と又下へ行暫くして硯ぶた持て)サア重野さんよふおぜい
すよ
【通釈】
三味線の音がする、音羽の滝ではないが、その音の源に上り詰めた音羽九丁目の端から端を見渡すと、青柳や桜木、周辺の鮮やかな色を織り交ぜて美しいこの錦のような色町の遊女は、絹かそれとも木綿か(、本当の値打ちがあるかないか)。女郎屋の若い者の十蔵が客引きをして「もし、もし、もし」。客の源六「何屋だ?」。十蔵「若竹でございます」。源六「いい女郎衆がいるかの」。十蔵「まあご覧下さいまし。(いい子が)揃っております」。源六「そんなら見ようか。見るだけならタダだ」。十蔵「へへへ。お市、お店(にお客さん)だよ」。お市「はい。お見立てがございますよ。さあ、ここからご覧下さいまし。どうでございます?」。若竹の女将が「どこへお出でなさって(お見立てをして)も同じ事でございます。さあさあ、(うちへ)お上がりなさいまし」。源六「女将がそれほどに言いなさるから、(おたくに)上がりましょう」。女将「それはもう、ありがとうございます。どの女郎衆(がお好みです)かえ」。源六「こっちの方から四番目の女郎衆だ」。女将「あの光る煙草盆(の所にいる女郎衆)かえ」。源六「うん、あれあれ」。女将「重野、お客が付いたよ。さあお市、表座敷へ(このお客を)入れ申しな」。お市「さあ(こちらへ)お出でなさいまし」。源六「どこだ、どこだ」。お市「はい、ここでございます」。源六「何だ。書いたわ、書いたわ。(この店では)行燈に習字をするそうだの。これ、茶を一杯くれ」。お市「はい、すぐに上げます」と(言って)下に行く。源六はこの間に懐からお金を出し、行灯の下に隠し、そしらぬ顔をして、鼻歌で「蝉~の抜け殻~で、身~はこ~こに♫のうお~けの」。お市「さあ、お茶を上げましょう」。源六「おっと、よくした。これ、女郎衆の名は何という」。お市「どの女郎衆え?」。源六「知れた事、俺のよ」。お市「重野さんと言います」。源六「早く連れておいで」。お市「おや、野暮な。じきにお出でなさいます」と、下に行き、しばらくしてお定まりの料理を載せたお盆を持ち「さあ、重野さんがよくお出でですよ」。
【語釈】
・笑止・・・「ばかばかしいこと」「奇怪なこと」「困ったこと」「気の毒なこと」と、辞書には四つの意が見える。
・音羽・・・護国寺の門前町として発展し、当時、江戸有数の岡場所があった。
・九丁目・・・当時音羽には一丁目から九丁目まであり、六丁目から九丁目にかけて岡場所があった。
・青柳、桜木・・・音羽に隣接する地名。
・錦・・・多彩な色糸を用いた絹の紋織物。
・木綿・・・当時、絹に比べて安価であり、江戸庶民に普及していた。
・若い者・・・遊郭や茶屋などで雑用をする男の使用人。
・むし・・・「申し」の転。実際の発音に忠実に書いたものか。
・見るは法楽・・・諺で、「見て楽しむだけならただである」という意。
・子供・・・音羽では女郎のことを「子供」と呼びならわしていた。ここでは「見習い女郎」の意か。
・見立て・・・遊郭などで客が相手となる遊女を選ぶこと。
・しまう・・・遊里で,遊女を買い切る約束などをして,ほかの客の所へ出さない。
・けしからぬ・・・道理や礼儀にはずれていてよくない。
・硯蓋・・・祝儀の席で、口取りざかななどを盛る盆状の器。また、そのさかな。
【解説】
 田舎出のいかにも野暮な客、女郎に惚れられている粋な客、好色で堕落した僧侶の客と続いて、最後の本編は、女郎に振られた客が深夜に怒り出すという内容です。編名の「笑止」は語釈にあるように多様な意味を持ち、他編のように単純な意味ではないようです。登場する源六という客は、自分では通ぶって行動していますが、余計なことをしては見習い女郎にたしなめられるなど、いかにもうっとおしい嫌味な客です。「色里でこういう振る舞いをすると、女郎に嫌われて振られたりする、気の毒な目に合うものだが、女郎屋側から見れば扱いに困る客であり、結局ばかばかしい目を見るだけだから、気を付けた方がいい」という意味なのでしょうか。四編の最後に置かれているのは、悪い後味が残るようにも思うのですが、「色里遊び指南本」という洒落本の性格からすると、男たちへの戒めで締める構成であったのかも知れません。せっかく時間とお金を費やして、腹を立てただけで帰るという、いかにも「笑止」なお話が、以下展開していきます。

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