江戸期版本を読む

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第二 吟味は奥縞の袴

 昔日、誰が乗り初めて壱岐の島、夕波騒ぐ群千鳥に夢も結ばず。
 糸鹿梅之助とて、かかる鄙にも又あるものか、面影の花。浦風の激しきをも厭ひて、深く語らひける男は、村芝与十郎といへる舟改め。身代は軽けれども、水主、船頭に崇められながら、余情に生まれ付き、「無念や、その昔は筑前にて五百石。筋目も人に劣らず。」と常にこれを悔みけるは、この若衆の親父糸鹿内蔵は、国の奉行職なれば、なまなか恋の習ひとて、兄分といふ恨めしく、世間の思はくも心よからず。されどもこの道の隔てなく、忝き事、嬉しき事に一命を投げて、年月を送りぬ。
 ここに国の守なる若殿、或る時、梅之助を只一目御覧ありて、しきりに召し出さるべき由、仰せ下されたるを、内蔵、忝く御請け申し上げて帰り、この段、梅之助に、「心得ベき。」と言ふに、何の色なく返事して、その夜すがらも与十郎と語るにも、この事を話さず。心にこれを思ひ煩ひしは、「もし是非召し出され、御傍近く御用承る時には、与十郎手前の道を欠く」事の恨めしく、分別し極めて、その明けの日より、「病気。」と言ひなして部屋より外に出ず。親父、これを気の毒に、様々と慰むるに験なく、別して、「若殿の御前いかが。」と御機嫌のついでを以て、「倅、病気」の由、申し上ぐるに、御気色変はりて、座を立たせ給ひ、その後、近習勤めし十倉新六に御雑談あり。
 「梅之助、今に本復せずや。」と問はせられしに、新六、内々梅之助に執心深く、文遣はしければ、その返事に自身来りて、「懇ろ分けあり。」との言ひ訳なりしかども、「言ひかかりたる一言、無下には。」と申せし時、「それ程の御心底、忘れ置かず。」と言ふに、ほだされぬ。その後、勝島の入江に小舟浮かべ、その友には村芝与十郎を伴はれて魚釣りし風情、心得ず。又、「過ぎし月見る宵、浪都に三味線引かせ、与十郎と夜更くるまで私宅に語りながら、浪都は帰しぬる後は、心憎し。」と語り、これより気を付くるに、いよいよ懇ろに隠れなく、それとは無しに遺恨にさしはさみ、「折を以て参るべし。」と思ふに。
 これを幸ひにして段々申し上げ、「この度の病気も、虚病に疑ひ無し。とかく、与十郎生きて罷りある内は、大殿の御意にても、御奉公致す心底にあらず。」と意趣ある下心より、つぶさに言上すれば、「しからば、手立てを以て与十郎を成敗すべし。さりながら、大殿の者なれば{*1}、一旦貰ひての上。」と家老白浜刑部まで、「村芝与十郎、利口者たるにより、若殿、御召し使ひなされたき」由、仰せ遣はさるるに、「これ程の者、御耳に達するまでも無し。いかやうとも御用承るべし。」と与十郎を呼び寄せ、仰せ渡しを申し付けたるに、有り難く、ぢきに若殿へ御目見え。即座に切米十石の御加増、殊に女中部屋の下横目役仰せ付けられ、首尾残る所なく、外聞かたがた面目身に余り、宿に帰りぬ。
 その後、鈴の間の番に上がるに、相役三人づつ詰めしは、田上磯右衛門、柏義左衛門、村芝与十郎なりしが、いつも三人の内、二人は臥して、一人づつは一時がはりに寝ずの番、与十郎に当たりて勤めしに、元よりこの役目を仰せ付けられたるは、「何ぞ無調法を仕出させ、それをついでに成敗すべし。」と巧みたれども、この男、よろづ律儀に勤め、落ち度なく、古座の者にまさり奉公するにつけて、少しも見落とされざるを、右の新六、若殿の御心底を察し、時の権を借つて、おのが叔母野沢、女中頭を勤めしを幸ひに、「随分、与十郎落ち度になるべき事を巧み給はるベし。」と言ひしに、野沢、心易く頼まれ、昼夜これを心掛けたる時。
 夜半の頃、与十郎、袴を脱ぎて後架に行きけるを、ひそかにこれを盗みて、足早に奥に入り、妻戸固く閉めぬ。与十郎、帰りて見るに、袴無し。相番は、前後知らず寝入りて音なく、不思議に思ひて通ひ路の扉を見れども、厳しくとざし、いよいよ工夫に堕ちず。夜もすがらこれを思案するに、行方合点行かず。「さりとては奇妙千万。」と思ひながら、「相番の者に穿鑿しても、とても知るべき事に非ず。なまなか不埒なる事を尋ねて、いぶかし。」と夜明けてもこれを語らずして、番より下る時に。
 磯右衛門、この体を見て、「御手前の袴は。」と言へば、「夜辺より見えざれども、事やかましく詮議するに及ばず。大儀なれども、新しく拵へるばかり。」と言へば、義左衛門聞きて、「それはまづ、勝手づくの事。ここは御城内の番所なるに、盗人来るべき道にあらず。また、只見えずと言うたばかりにしておいても、済まぬ事なり。磯右、何と。」「中々。合点が参らず。」とやかく沙汰する時、女中頭野沢、奥より走り出、「夜前当番の衆、一人も帰らるる事、無用。仔細は、大目付津川重五左衛門殿、御出なされてからの穿鑿。」と言ひ捨てて奥に入りぬ。
 「さてこそ、お見やれ。これは、まがひなき怪事なり。」と行方気づかひして居ると、早、桜の間に呼び出され、野沢口書きを以ての詮議。「夜前、九つの時計過ぎて、南女中部屋の方に怪しき男の面影見えたる由、西の深殿なる方より告げ来り。一々これをただすに、別儀なき故、『いかなる者か目にかかりたる。』と、そのなりけりに済ます所に、今朝ほのぼのなる時、梅の庭の忍び返しに、奥縞に片色の裏付きたる袴、打ちかかりてありしままに、今にこれあり。全く外より来るべきにあらず。まづ当番の者を改むべき由なり。いづれも袴に別儀なきか。」と言はれし時。
 磯右衛門罷り出、「これに相詰めし与十郎、今朝、白衣なるを改むる所に、夜中より見えざる由、申したる。」と言ふ時、与十郎這ひ出、「まさしくこれは、狐狸のしわざと存ずるは、暫しの間の儀に、誰とも形の見え申さざれば、力なき仕合せ。御了簡を以て御詮議頼み奉る。拙者、もし不義の心あつて、忍び入る程の事に、これを落として来るべきものにあらず。私一分に致して、つゆ程も覚えなき御事。」と言ひも果てぬに、「しからば、その見えざる{*2}時、きつと穿鑿せずして、磯右衛門咎むるまでは隠したるや。この言ひ分け、いかにしても晴れず。但し、『やかましくむつかし。』とて改めざるとは、公儀に向かつては言はれざる私にして、おのづからその方落ち度、極まりぬ。それ、二人の者に預くる。」と座を立ちさまに、「この上は、南部屋にも不義の相手あるベし。これを糾明すべし。」と言ひ捨てて、若殿へ申し上ぐるに、「かねての巧み。」と悦び給ひ、二言と言はず、縛り首打たれて、定めなきかな、村芝与十郎、葉末の露と消えぬ。
 そのまま梅之助に、「只今登城すべし。暫しの内、叶はざる御用あり。もし病中と言はば、乗り物にて迎ひ来るべし。」と徒士、六尺数十人、御手医者坂川玄春、御使者には今の御物甲斐品之丞を遣はされけるに、内蔵、「これは冥加なき仕合せ。」と早々梅之助を送り、さて御前に出たるに、今まで御前に罷り出ざる御不足、数々ありて、「それも様子を聞けば、憎からず。さるによつて与十郎事、不義の科にかこつけて今朝成敗したれば、この上は、もはや障る事はあるまじ。身に奉公すべし。」と仰せらるる半ばより、はつと思ひながら、色に出さず。
 「これは、御意ともおぼえず。与十郎と拙者儀、さらさら左様の事にあらず。かやうなる儀は、御側に佞人あつて、跡かたもなき讒言申し上げたるものにて御座あるベし。」と言ふ言葉の下より、新六罷り出て、「何と、『御側の佞人。』とは誰を指すぞ。その上、その方と{*3}与十郎懇ろの事は、国中に隠れなきによつて、某、申し上げたり。生若輩なる口より言はれざる過言、一つには御前をも憚らぬ。それを佞人と言ふ。」と色を変へて言葉戦ひするを、若殿、両人を御なだめあつて、「それはともかくも、梅之助、身が近習へ詰むれば別儀無し。向後、互に意趣に含む事なかれ。」と奥に入らせ給ひけるに、梅之助、すぐに宿に帰り、「さても是非なき次第。これ、新六がなせる所。与十郎、つゆも知らせ給はず、やみやみとなられたる事の悲しき」に涙に暮れながら、文細々と書き置き。
 その夕暮、立ち出て、新六が帰るさを待ちかけたるに、菱蔓の紋提灯。「これ、新六。」と言葉をかけ、抜き合はせて、打つ一太刀に切り伏せ、若党二人も逃さず切り倒し、鑓持、小者追つ散らし、「今はこれまで。」と新六が死骸に腰をかけ、心静かに切腹し、みづから首掻き落として消えぬ。
 この太刀音、近所に驚き、駆け寄るに、早両方事切れて、一通の書簡あり。披き見るに、「およそこの一道に於いては、高き賤しき隔てなく、たとへば一天の王子も、草露の牧笛を鳴らし給ひて、御思ひを晴れさせ給ひき。いはんやその下つ方は、申すも愚かなれども、恋慕に捨つる命は風塵より軽く、屍を霜刃に刻まるるとも、一度かはす侍の一言をや。ここに、この恋知らずありて、みだりに忠信の者を無実の科に偽りて殺害す。よしや存命して、人皮畜の世界に遊んで、契り絶え絶えならんより、邪魔の関を踏み破つて、永き黄泉の旅枕。重ぬる{*4}衾は、これぞ鴛鴦の剣を以て、愛しと思ふ兄分の敵を討つて、浮世の夢を覚ますものなり。」と。
 見る者、感涙の雨。盛りなる梅のあたら落花の名残を惜しまぬ人なく、今に語り伝へて、聞くさへあはれなり。

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校訂者註
 1:底本は、「者(もの)ならば」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 2:底本は、「見えたる時」。『井原西鶴集4』(2000)本文及び語釈に従い改めた。
 3:底本は、「その方与十郎」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 4:底本は、「かぬる」。『武道伝来記』(1992)本文及び語釈に従い改めた。

第一 枕に残る薬違ひ

 後柏原院、大永の頃、大和の武家方より都の高家の御方へ、御息女を送らせ給ひけるに、御年十五の春を過ぎて、秋を重ね、月に明かし花に暮らし、その家の風なれば、歌道一しほに心を寄せ、琵琶、琴のもて遊び、酒淫の種と成りて、枕二つの面影、次第にやつれさせ給ひ、久しく御冠も召し給はず。御髪おのづからに乱れて、殿振り、ありしに変はり、色見る梢も落葉して、風は無常の早使。衰眼眠る山の土とは成らせられての歎き、各々にまさりて、この姫君の御理せめて、永離の御愁歎、外より見る目もいたまし。
 世にある習ひなれば、是非なく帰らせ給ふに、故郷は錦の紅葉しほれて、龍田の山も雪に見ながら、白無垢の袖に袂に御目の時雨。「かかる憂き身ぞ。」と御心も乱れて、黒髪の後れ先立ち給ひし御人のためなれば、出家姿と成りて、南都の法華寺に入つて、仏の道心ざし給ひし内に、いつの頃より心地悩ませ給ひ、美しき御形の青ざめて、胸痛ませ、口中ささけて、夜を寝させ給はねば、日々に頼み少なく、これを大殿様、御歎き深かりき。諸家中、神を祈り、この度の助命を願ひ奉りぬ。
 御手前医者、様々にし奉りし験もなく、都の名医の内談せし時、出頭家老坪岡蔵人、町医者原川玄芳を同道して罷り出、遠慮なく御病室に入り、御脈を伺はせて、その後、広間に座して、「御姫様御病体、玄芳見立てに至極の所あり。彼に種方付け致させ、いづれも吟味の上、御薬調合さすべし。」と日頃目掛け振りをここに出し、耆婆、扁鵲が再来の如くもて囃しければ、時の権威に恐れ、皆々御尤も顔に、言葉を返す人もなかりし時、愚暗の玄芳、硯を鳴らして。
 「筆談に曰く、脈来る事数大、これ陰虚火動の症なり。案ずるに、古の聖賢、火を指して諸疾の源と為す。しかる所以は、火、妄動するときは物を焼く、病の形なり。人能く道を修して清順なるときは、病、何によつて生ぜんや。それ人、世に少なきが如きは、物にまじはり事に触るるの間、情欲の火、時として起こらずといふ事無し。起こるときは病を得。その火を指して、諸疾の源と為す。あにむべならざらんや。経に曰く、一水、二火に勝たず。一水は腎なり。二火は君火、相火なり。五行各々、その性を一にす。ただ火は二つあるのみ。陽、常に有余、陰、常に不足の理、昭晰なり。しかれば、参茋甘温の薬、深禁する所なり。速やかに滋陰降火の剤を投ずるに非ずんば、命を救ふこと難し。もし治を緩くするときは、悔ひて臍を噛むも、何の益有らんや。」
 ここに国家老森尾兵庫、御姫様の御病中を悲しみ、昼夜老足を運び、夫婦共に相詰めしが、京よりの浪人医者横川周益を伴ひ出、これも御脈の後、書き付け差し上げける。これぞ医道のまじはり、互に心玉を磨きて、時に。
 「再談に曰く、愚、案ずるに、診脈、定体無し。或いは小、或いは緩、或いは沈、或いは数。変動、常ならず。それ脈、不常なるは、血気の虚なり。これを虚偽の人に譬ふ。朝に変はり、夕に改まつて定体無し。かつ、数大の脈来ること、全く常ならず。故に、火動の症に非ず。ただ脈症を考ふるに、虚に属して、気虚、重しと為すなり。これ、金極まりて火に似たるの病。参茋甘温の輩に非ずんば、治し難し。曰く、陽生じ陰長ずるの格言、今この時なり。何ぞ不偏不倚、中和の君薬を畏るべけんや。けだし、痰中に血を帯ぶるは、脾を破るによつて血を包むこと能はざるなり。舌に白苔を生ずるは、胃中に寒有り、丹田に熱あるなり。夜寝ざるは、子、母気を盗むによつて、心虚して、神安からざるなり。胸痛、噯気は、気虚して健運すること能はず。故に、中に鬱して噯気し、或いは、上に滞るときは胸痛と為る。以上の諸症、疑ひ無き虚なり。故に、補気の薬を以て主と為し、安心滋補、消食の剤を加用せば、則ち諸症おのづから退かん。かつ、高ぶるときは害し、承けて則ち制するの旨を知らず、誤つて陰虚火動と為して、寒涼降火の薬を用ゐるときは、声唖、喉痛、上喘、下泄の変症増劇せば、扁術も亦、起こし難かるべきか。」
 玄芳、周益、両人の配剤、御手前の医者仲間にして詳らかに吟味を遂ぐるに、周益種方付け、一々理に徹し、いづれもこれに同心なれども、坪岡蔵人、身に替へて取り持ちぬれば、誰か詮議のしてもなく、玄芳薬に極まり、二、三日上げ奉りしに、これより以ての外に御眼色変はらせ給ひ、日毎にやつれさせられ、周益見立てに一つも違はず。七日過ぎての曙に死去あそばされ、上より末々の歎き、やむ事無し。御死骸は御遺言に任せ、当麻寺に送りて松の煙と成して、年頃召し使はれし女郎中、御恩の程忘れず、十七人立ち並び、下げ髪惜しからず切り捨て、皆、墨染の袖に替はり、飛鳥川の水を手向け、夏花に香久山の梢を求め、世になき姫君の跡弔ひ参らせ、常念仏に暮らしぬ。
 定め難きは人の身の上。世間の口やかましく、「この度玄芳、薬違ひにて、頼みある御命失ひける。」と誰言ふともなく、この沙汰つのつて、程なく御耳に立ち、「原川玄芳、所を払ふべき」由、仰せ出させられ、俄に妻子召し連れ、河州国分の里に立ち退きける。蔵人、これを腹立して、仕置者に差し向かひ、「この所に医師の住宅御法度ならば、横川周益も追ひ立て給へ。」と。御意をも請けず、我が家来を遣はし、むたいに家内を仕舞はせける。周益、御無理とは存じながら、殿様よりの仰せは背き難く、これも同国三輪の里に立ち退き、不自由住まひの草葺にその身を隠しぬ。
 この事、森尾兵庫聞き付け、その里に人を遣はし、周益を信貴に呼び返し、きつと吟味にかかり給へば、蔵人悪事顕はれ、是非を構はず兵庫を待ち伏せ、面を合はせ{*1}、打つてかかる。老人なれども激しく{*2}、左の肩に初太刀請けながら、抜き打ちに蔵人切り伏せ、とどめ刺しかかる所へ、弟坪岡虎七駆け付け、後ろより下人を払ひ、管鑓を差しのべ、脇腹を貫き、又突きかかるを、兵庫、入り首より二尺ばかり切り落とし、飛びかかる心はあれども、深手に弱り、持ちたる刀を投げ付け給へば、虎七が肩を越えて、若党が太腹に立ちて、即座に命を果たしぬ。これを見て兵庫、うち笑ひ、脇差抜きて腹かき破りけるまで、虎七後れて、やうやうに首打つて、この場よりすぐに立ち退き、豊楽寺の末寺榎葉井坊に忍びぬ。
 兵庫屋形には驚き、家久しき中野武太夫、その所に駆け行き、退き道を詮議すれども、奈良越えの山道あまたなれば、まづ{*3}立ち帰りて思案を巡らしけるに、兵庫名跡を継ぐ人は、十八の年、世を恨み給ふ仔細ありて、森尾宮内といへる姿を変へて、紫野大徳寺にて清蔵主と呼ばれ、禅学修行してましまし、その弟宮松とて、いまだ七歳なれば、敵討出る暇、下し給はず。武太夫、無念ながら、この子の生長を待ちける。
 この様子を清蔵主、伝へ聞き、信貴の古里に立ち帰り、老母に、「御勘当を御許し。」と願ひ、父の事ども申し出して、互に涙のやむ事なく沈み入りしが、清蔵主、母の御盃を戴く時、黒衣を脱ぎ捨て、乞ひ請けて熨斗肴を喰ひ初め、そのまま心を還俗して、又、名を改めて暫男と呼ばして、羽織に刀、脇差、頭巾、編笠に面を隠し、人しれず{*4}屋敷を出、この所毘沙門天に参詣し、「当寺は昔、楠正成を申し子の霊地、武士の尊む所なり。我、この度の大願は、敵を手の下に討たせ給へ。」と心中深く祈り、それより大和巡礼して、虎七がありかを尋ねけるに。
 折節、春の山、鴬の関を越え行くに、里人のとがりあふごに薦包み好もしく、仏臭き買ひ物。御花足、線香、氷蒟蒻、一つにからげたる乾鮭可笑しく、「生臭き寺ぞ。」と笑ひけるに、後より色めきたる女の、この男に追ひ着きて、「さりとは山道、初めて難儀。旦那に逢ふが嬉しければこそ、遥々の所を行け。」と身は汗水になりて、脱ぎかけしたる面影、振袖の上に脇塞ぎの着る物。「いかさま、曲者ぞかし。」見る程、里びたる風情なく、髪の結ひ振り、信貴の城下にはやる締め付け島田のふき鬢。不思議に思ひ寄り、猶心を留めけるに、荷物の内に弓の弦、二掛け見えしは、いかにしても合点行かず。
 かの男を招き、「おのれは正しく寺に召し使ひ者なるに、似合はざる女の道連れ。殊更、仏具に武道具。これ、只事にあらず。某は、かやうの事を見出して、国の掟の役人なるぞ。ありのままに申せ。」と脅しければ、この男、差し当たつて迷惑し、「全く住持の大黒には非ず。信貴の御侍衆、坪岡虎七殿の御手かけなり。榎葉井坊の門前におはしけるが、御屋敷へ御状遣はされ、ひそかに連れまして参るなり。これに少しも偽りあらば、初瀬の観音様の罰当たらん。」と心のまま申して埒を明けける。
 暫男、聞き済まして、この者どもに先立つて豊楽寺に急ぎ、その里の家に駆け入り、折から虎七、運命尽きてうたたねの枕に立ち寄り、夢覚まさせて名乗りかけ、願ひのままに切り伏せ、首、古里の母の御目に懸けて、「これまで。」と又、昔の衣を懸け、出家の身とぞ成りける。

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校訂者註
 1:底本は、「合(あは)せて打て」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 2:底本は、「励敷(はげしき)」。『武道伝来記』(1992)本文及び語釈に従い改めた。
 3:底本は、「先立帰(さきたちかへ)りて」。
 4:底本は、「人しらず」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。

第四 踊りの中の似せ姿

 松坂越えて伊勢の国、日和うち続き、隈なき月に夜もすがらの大踊り、余念なく眺めし時、常は古文真宝に構へし男も、釣髭に様は変へながら、それと知られて可笑し。そこの御内儀も浮かされ、隣の嫁子に借り衣装。振袖にしなつけて、昔に返る気配柄。娘は殊更、「振りよし、しなよし。」と褒めらるるを、嬉しがる心は浅間山、胸は煙の種。
 かかりし程に、東横町より無紋の提灯、数見えて、真先に金の烏帽子をかぶりたる男、唐団扇をかたげ、後は同じ紫の絹縮に紅裏、広袖にして、筋天鵞絨のはやり結び。ばつばの大小一様に六人、深編笠の目に立ちて、外の出立ちは気押されぬ。かの金の烏帽子殿、音頭取り始むるより、「面白や。」と太神も御影向。「末社のぞめき、ここなり。」と月の入り方も歎かしき時、この踊り、俄に崩れて、以ての外の騒動。
 「これは何事ぞ。」と思ふ内に早、北南の門を閉めて、「この町内へ入り給ふ人、仔細ありて、腰の物を改めまする。」と所の宿老たる者、床几に腰を掛け、各々名を聞けば、「私は魚屋町の五郎右衛門倅。」「私は柳町の誰彼。」と脇差さし出して、一人一人通り、さて、かの六人組の伊達男、呼び出せども出かねて、編笠も脱がず。様子は知らねど怪しく、「咎めらるる者は、彼等ならん。」と沙汰して、無理に引き出せば、男にはあらず、いづれも色ある女の姿。
 「やつしたり、作りたり。」と騒々しき中にも可笑しく、面映ゆげなる艶成して、さしうつぶきて物言はず。「よしよし、女の成すわざにあらず。今はこれまでなり。」と若き男を呼び出し、「これ程に致しても、いづれを疑ふべき者無し。まづは切られ損。されども、おのづと顕はるる事もあるものなり。御本社の見通し。その時を待ち給へ。」と皆々、戻り足に見れば、西側の軒の下に、斬り倒されし男。「これ故の穿鑿ならん。」と思ひ合はせける。この討たれし男は、当国夷町のほとりに鳥羽田勘助とて、隠れなき銀貸しの浪人。弟勘八{*1}と一所に来りて、少しの間の事なり。その後、色々手立てを以てこの敵を尋ぬるに、知れざりけり。
 ここに勝浦孫之丞とて、手跡の名高く、同所の町外れに、隣国の大名より小扶持を下し置かれしに、いまだ定まる妻女なく、一人寝覚めの淋しきに、この夏より手かけを尋ねけるに、二皮目なれば口びる厚く、姿すらりとすれば鼻低く、やうやうと裏町に年頃まで思ふままなるがありて、これを寵愛して、吉野を目前に眺め、更科の月も日も明けず、可愛がられけるに、その明けの年の春より、行く先は知らねど、毎夜宿には寝ずして、淋しき留守ばかり。女の身にして迷惑、恐ろしくて夢も結ばず。
 「さても、人の心は、これ程にも変はるものか。去年までは、『一生もはや女房は持つまじ。城下へ出て知行にもなる時は、我を本妻に直して。』と嬉しき言葉の数々も、あだになり、増す花に思ひ替へられ、面白き事も無し。」と或る時、孫之丞に段々口説けば、気色変はり、立腹して、散々に打擲し、「おのれ、思ふ仔細なくは、打ち殺しても飽かず。」と無興しながら、また立ち出けるに、この女、心の浅く、瞋恚に身を焦がし、「所詮、この意趣、いか程言ひて、我が力に及ばず。一大事を白状して、腹立ちをやめむ。」と思ひ極め。
 孫之丞留守に、ひそかに立ち出て、勘助弟勘八所に行きて、忍びて呼び出し、「私は、勝浦孫之丞と申す者に召し使はれの女にて、寵愛深く思はれしを、常々、悪気廻され、『本町の小兵衛といふ小間物売りと密通したる。』とくすべられしに、私、何心もなく、七月十六日より藪入りに親里へ帰りし時、近所の幼友逹に催され、『男装束の物好きして、大橋町にて踊る。』と聞かれたる由にて、『道なき事もありや。』と後から付けて廻されし時、勘助様の御姿、小兵衛が風俗に似たるを、見損なひて、闇討にして、足早に退かれし後にて、穿鑿ありしかども、知れざるを幸ひに、忍ぶ体もせず暮らさるる。その上、私の主ながら、非道数々故、注進のため申し参りぬ。今晩御忍びあつて、討ち給へ。寝間の様子は、かやうかやう。」と詳しく教ふれば。
 勘八、横手を打つて、「さてさて過分至極。まづこれは。」と金子十両取り出し、「討ちおほせての上は、また御礼申さん。」と喜びて帰し、その夜の夜半に忍び入れば、折節、孫之丞留守にて、かの女一人、灯し火ほのかに光りながら、淋しき余りに、夜着引きかづき高いびきして、前後知らず臥しゐたるを、勘八、孫之丞と心得て、走りかかつて胴切にして、「今は本望を{*2}遂げたり。」と首を見れば、「これは、し損じたり。」と驚く所に孫之丞帰るを、「敵はそれか。」と段々述ぶれば、「今は逃れぬ所。」と渡し合ひて、これをも首尾よく討ちおほせ、始め終はり、奉行所へ断り申し上ぐれば、「敵なれば、勘八は別儀無し。かの女は、主の訴人の科人なれば、獄門」に懸けて、恥をさらされける。

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校訂者註
 1:底本は、「弟(をとゝ)助八」。『井原西鶴集4』(2000)本文及び語釈に従い改めた。
 2:底本は、「今に本望(ほんもう)とげたり」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。

第三 無分別は見越しの木登り

 肥後の昔の国の守なる御城構への外、「新造作の門、櫓、長屋作り。美々しく立ち並びたるは、どなたの御屋敷。」と尋ねければ、「これは、かの出頭に暇なき大壁源五左衛門といふ新参者。わづか二十五石より、三年の内に二千石取り上げたる者の拝領の地なり。今時は、武道は知らいでも、算盤を置き習ひ、始末の二字を名乗れば、どこでも知行の種と成りて、譜代の筋目正しき者は、必ず先知を減少せらる。世は色々に変はりて、今より末々は、諸侍たる者、刀の代に秤を腰に差して商ひ、はやるベし。」と沙汰する時。
 源五左衛門が一子小八郎、三才になりしが、折節、五月の半ば、築山に楓の大木ありて、その梢に若葉ちしほなるを、童心に急に、「欲しき。」とむつかりけるに、中間を木に登らせ、「その枝、この枝、折れ。」と指図するに、隣屋敷は安森戸左衛門とて家久しき侍。よろづに折り目高なる生まれ付きながら、今日は非番の暇にて、奥の間取り放して、内儀と只二人、しめやかに物語し、勤めの苦労もこの楽しみあればこそ。何心なく仮枕するを。
 かの木に登りたる男、遥かにこれを眺め、「夫婦さうなが、心地よくあそばるるよ。」と望みの梢をば切らずして{*1}、見廻す内、戸左衛門見付けて、「あれは、源五左衛門屋敷なるが、無作法千万なる木登り。近所の内証まで見下ろすに。断りの使は来るか。」と言へば、「いや、何とも申し来らず。」と言ふ。「その身、常々、殿の権威を借りて、古座の諸士をないがしろにするさへ憎しと思ふに、この断りなきは、いよいよ踏み付けたる仕方。」と、木より半分程下りかかる所を、鉄砲二つ玉込めて、狙ひ澄まして撃てば、只中。気も魂も抜けて落ちける。
 これに驚き、源五左衛門に、「かく。」と言へば、「勿論、この方より一応断りなきは、無念と言ひながら、余りなる仕こなし。堪忍ならず。」と戸左衛門方へ行きて、事分け二言と言はぬ先に、抜き合はせて打つ太刀、源五左衛門が長刀、鴨居に切り付け、引きかぬるを車に払ひ、倒し、とどめまで刺して、「今退く。」と奥に知らせて、門外に出れば、源五左衛門が若党ども、「さては。」と切つてかかるを、二人切り伏せ、それよりぢきに立ち退きける。
 この事、太守の耳に達しければ、「国のために抜群忠功ありし者。」と、知行は召し上げながら、小八郎に二十人扶持下され、「思し召す仔細あり。母に、養育致せ。」の由、仰せ下され、戸左衛門は、子なきによつて、家絶えにけり。されば、家々の世盛り、限りありて、源五左衛門屋敷、今は身代に持ちかね、御物上がりの岩井惣八に下され、小八郎は外なる廓に移り替はる世や。
 この母も、昔日、源五左衛門と忍び難きを忍び出、当国には、つゆのゆかりもなかりしが、今は頼み猶絶えて、この八、九年の間の憂き思ひ。後家の身ながら、幼き者を育て上げ、成人するに付けても、「過ぎし人のおはさば、いか程か悦び給はん。それに引き替へ、まだ行く末のおぼつかなく、いつか敵を討ちおほせて、再び大壁の家の栄えを見まほしく」。
 今は早、小八郎、十五歳になれば、或る夜、ひそかに始め終はりの仔細を語り、殿様に御暇乞ひて、思ひ立つべき由、含めけるに、おとなしくうなづきて、「我、三歳の時ならば、今まで空しく日を送りたるを、世間にも、『遅れたり。』と後ろ指さされし事の口惜し。とてもの事に、四、五年前にも知らせ給はば、この御恨みはあるまじ。」と言ふにぞ、老母も潔く思はれて、老中、瀬良内蔵之介まで申し上ぐれば、「いつにても討ち得たらん時には、本知相違なく下さるべき」由、仰せ出され、殊に、「本望達するまでは、路金入用次第に、御用人のその役、増見勘六方まで申し越すべき。」との御事。
 有り難く、首尾残る所なく宿に帰り、二月十四日に門出祝ひ、母の心づかひとして、先年、源五左衛門討たれし時、供したる草履取、自然の時の目代に、そのまま抱へ置きて、くれぐれ頼みて、主従二人、同十五日に立ち出るを、見送るまで涙をおさへかねしが、「親、他国者たるによつて、当所に縁類、兄弟とても、助太刀、後ろ見する者一人もなく、定めなき旅路を幼き者の一人行く、武士の道こそおぼつかなけれ。めでたく討ちおほせて、母が心を慰めよ。」とて、この言葉を暇乞ひにして、立ち別れぬる哀れ。袖より外に問ふ者も無し。
 願ひは鶴が崎の八幡に祈り、思ひは鐘が淵に沈む心地して、憂きを戸渡る舟に漂ひ、陸にたたずみ、山陽、四国残らず巡り、源五左衛門十三年忌を早、美作誕生寺にてひそかに志を施し、それより津の国、難波の大湊を尋ね、五畿内をかなたこなたにさまよひ、明くれば春日山、霞立ち初むる今朝になりぬ。
 遥かに故郷の空を眺めやれば、山上に山あつて、幾重重なる旅衣、帰るべき程も白雲の往く方のみ懐かしく、「世の哀れは我一人。」と御社伏し拝みて、人泊る宿に帰れば、門松の景色に千代を謡ひ、「幾久しく。」と屠蘇酌みかはすに付けても、我が身の上の春を思ひ、古里の老母の事、「いかにおはしけむ。」とこれも気にかかり、かれも胸に迫りながら、旅の仮寝の初夢。
 「うつつにもあらず、老母、遥々の国里、尋ね来り給ひて、『この年月の久しき事を、指を折れば、一年わづかに余る袖の涙は、西の海、浪の立ち居にも、そなたの行く末のみ胸に迫りて懐かしく、この思ひならば、諸共に連れ立ちて本望を達せむものを、甲斐なく後に残りて、今の憂さつらさ。草の露とも消ゆべき命なれども、せめて{*2}一度のおとづれを聞きたく、十三年の弔ひまでは待ちしが、それにも便りのつてなく、『浄雲寺の同じ苔の下にも{*3}。』とは思ひ極めながら、一日一日と暮らして、告げ渡る鳥と同じくなき明かし、今は姿を変へて、かの人の後世、いよいよ祈るばかりなり。只とにかく、焦がれ死なぬ内に、今一度覚めての対面を願ふ心を、力にする命も知れず。恨めしき浮世の中の習ひ。』と、しほしほと枕にたたずみ給ふ。」と思へば、暁の鐘に面影消えて、寝覚め悲しく、召し連れし小者を引き起こして、夢の物語。
 聞かぬ先より涙を流し、「私のまざまざと見しも、これに違ふ事無し。御袋様の御歎き、御尤もに存ずるにつけても、運の強き敵の行方。」と互に男泣き。「いか程思へばとて、このままにて国元へは帰り難し。これより東海道にかかるべし。」と言へば、僕勧めて、「見かけたる敵にはあらず。一まづ忍びて御帰りあり、御袋様に御対面なされ、その上にて又、いづ方へなりとも御出、しかるべし。」と言ふにぞ、「一には孝の道筋。豊後まで行けば、知るべの本賀猶右衛門方からなりとも言ひつかはし、本望は遂げざれども、我々息災の様子ばかりなりとも知らすべし。」と。
 それより引き返して、又西国に赴き、小倉よりかち行く道の、傍らなる休み茶屋に、老母、疲れたる体にて腰掛けに休らひ給ふに驚き、「これは、いかなる事。」と先立つて、「敵のありか、今に知れざれども、かやうかやうの夢見より、まづ御目にかからんと存じ、僕の宅平に勧められ、甲斐なき帰国ながら。」と言へば、老母も、国元に中々あるにもあらずして、尋ね出たる来し方の憂き思ひを語り、「諸共に、本意遂ぐべき」願ひ。
 しからば又、北陸道へ心ざし、主従三人になりて行く程に、今は江州に立ちたる鏡山の里に着きぬ。「ここにて思ひ出せば、親源五左衛門殿、生国はこの国打原とやらいふ里より、幼くて城下に出、勤め給ひしに、十六才にてここをも立ち退き給ふと、長き夜{*4}つれづれに語られしが、耳に留まりぬ。もし大壁のゆかりあらば、訪ひて見まほしき{*5}。」とうち越え、ひそかに聞けば、「沢山に軽き奉公人に、大壁六平といへる男あり。」と伝へ聞きて、それに尋ね会ひ、源五左衛門、何十年以前、当国去つての後、今までの首尾語らるれば、六平、横手を打つて、「それは、我がためには{*6}現在の兄なり。この上は敵のありか、根を掘つて葉を断つベし。」と、これも御暇申して、うち連れて行くに。
 美濃国関が原にて、俄に時雨して、晴れ間を待つ内に暇取り、日を暮らし、難儀なる所へ、追剥数十人群がり来りて、四人を中に取り籠めて、是非なく切り結びけるに、身は長旅に疲れたるに、足場悪しく、されども小八郎が手に廻る程の者、薙ぎ倒し、追ひ散らし、立ち帰りて見てあれば{*7}、六平、宅平、老母、早、切り伏せられ給ひたると見えて、念仏かすかにして、息絶えければ、「南無三宝。」と空しき体に取り付きて、呼べど返らぬ玉の緒の、さても是非なき次第。頼み切つたる者どもも、今は野末の薄より外に問はず。
 思ひも寄らぬ事に、「一人残り給ひし母まで刃にかけ、年来の敵は討たずして、いやましに憂き目を重ぬる事。これ程、侍冥加にも尽きぬるものか。よしよし、これまで。」と既に自害と見えしが、又、心を取り直し、「両親の中の敵、せめて一人を孝養にせざる事、腑甲斐無し。」と我となだめし心の内、生ける心は無しに、三人の亡きがら、片里の庵に頼みて埋み、名をば埋づまぬ武士の甲斐甲斐しく、その所を無念ながら立ち退き、同じ国の府に着きて、「暫しはここにとどまり、世の有様を窺はん」ため、様々手立てを以て、その府の旗大将白峯村右衛門といふ男に、半季定めの僕と成りて、或る時。
 村右衛門が若党と共に、長屋住まひの木枕を並べ、四方山の雑談のついでに、「御手前の生国はいづく。」と尋ねける。言葉を聞けば、まさしく我が国の者なり。「何と返事すべし。」と工夫巡らし、「もし又、そのゆかりも知らず。」と思ひ、わざと「肥後の者。」と答ふれば、この男は、戸左衛門、国より召し連れたる一人の草履取上がりなれば、同国なる事を聞き咎め、「どなたの御屋敷に居られた。」と言ひしに、「安森戸左衛門殿に奉公したり{*8}。」と言ふを聞きて。かの男、「さては安堵したり。よい加減に嘘つく者。」と思ひ澄まし、「まづ、敵の末にても無し。されども、旦那の名を聞き覚えて、今は家の絶えたる事を知らず。嘘つくが憎し。」と思ひ。
 「それは、そちの覚え違ひなるべし。その戸左衛門殿は、十四、五年以前に肥後を立ち退かれ、後は余の侍衆の御座る筈なり。こちがよく覚えて居るに、大きな嘘つき。」とせせ笑ひけるに{*9}、「これは、面白き事を言ふ。」とおぼえて、「何と、人を偽り者とは、迷惑致す。して、その戸左衛門殿、実正、国には御座らぬ証拠ありや。その証拠なくては、我、偽り者に成りて一分立たず。堪忍ならず。」と寝てゐたるを起き返り、脇差取り廻せば。
 この男、臆病者にて、「いかにも証拠を出すべし。さりながら、誓文立て給はねば、言はぬ事。」と言ふに、「成程、立つべし。」と言へば、「その戸左衛門殿は、則ち今の旦那なりしが、隣の源五左衛門殿を討つて退かれし時、我一人供して、丁度今年で十五年、国へ戻らぬ。これが証拠じや。もう堪忍し給へ。」と言ふを聞きて、「これ、天の与へ。優曇花の開くを待ち得たる心地」して、「今は、駆け込みて討つべき。忍びてや討たん。」と様々分別しきりなるを、色に包み、その夜の明くるを待ちかねて。
 朝日に我が古里の氏神を拝み奉り、「この度、本望を遂げさせ給へ。」と祈りける所に、村右衛門、登城の支度して出るを、「源五左衛門が一子小八郎。」と名乗りかけると、村右衛門{*10}、受けとめけれども、念力に打つ太刀、即座に討ちおほせ、「今はこれまで。」と嬉し涙をこぼす所に。
 村右衛門若党、六、七人抜き連れて、互に手は負ひながら戦ふ音に驚き、近所に大目付役の稲村与助、駆け付けしに、早最前、村右衛門様子を語りし者も切り伏せられ、過半、疵を蒙り、たじろぐ所を、「これは、いかなる仔細。」と問ふに、一様に口を揃へ、「主を殺す悪人。」と言ふに、小八郎は、「親の敵なり。」と言葉戦ひにも、鳴りは静まらざりけるを、与助、「暫し。」と両方へ引き分けて、様子を聞けば、「敵にまがひ無し。」と段々話しければ、その頃の太守、小久島民部殿に申し上げしに、「しからば、かの者の国へ使者を立つべし。それより内は、小八郎を与助に御預け」にて、谷見森右衛門、使者に仰せ付けられ、筑紫に下りぬ。
 知れぬは人間の命。源五左衛門に不憫加へられし殿は、過ぎし九月十九日に、日腫といふ病にて逝去なされ、今は{*11}百ヶ日も経たぬ所へ、「大壁小八郎事、段々書き付けを以て奉行所まで申し来る」由、家老瀬良内蔵之介へ伺ふに及ばず。御代替はりて、「大壁の家は、今まで立つても、潰すべき」旨、内々、若殿の御内意なれば、たとへ贔屓に存ずる者ありても、取り上げる者、一人も無し。殊に源五左衛門、出頭するに任せて、前後に眼見えず、権威、おのがままに振舞ひしに付けて、意趣含むの輩、使者に立ち向かひて、「当家の扶持人にあらず。」と言ひて、「大儀。」とも言ふ礼儀さへ言ふに及ばず、帰しければ。
 使者、美濃に立ち帰り、この段、委細に申せば、敵といふ証拠なきによつて、主を殺す科に定まり、哀れや、年来の憂き難儀、母までに後れながら、本望は遂げたれども、賤しき者の手にかかりて果てしを、語り伝へて哀れなり。

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校訂者註
 1:底本は、「切(きら)ずし見」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 2:底本は、「せめては一たびの」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 3:底本は、「下(した)にとは」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 4:底本は、「よのつれ(二字以上の繰り返し記号)」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 5:底本は、「見まくほしき」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 6:底本は、「わが為(ため)に現在(げんざい)」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 7:底本は、「見れば。」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 8:底本は、「したりしと」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 9:底本は、「せゝらわらひけるに」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 10:底本は、「村(むら)右衛門はうけとめけれ共」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 11:底本は、「いまだ百ヶ日」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。

第二 誰が捨て子の仕合せ

 心の海を横渡しに、昔、島原の舟着きに辻岡角弥とて、浦の吟味役人してありしが、御奉公粗略して、明け暮れ奢りを極め、京より美女を取り寄せ、その上、「他国よりの縁組を、堅く御法度」を背き、泉州堺の手前よろしき町人の娘を呼び迎へ、様々我がまま重なりしを、家老中、ひそかに数度、異見加へられしに、一円承引致さず。女を幾人か手打ちにせし事、その外、十二ヶ條の悪事、横目役より言上申せば、御詮議極まり。
 柏崎茂右衛門、矢切団平、この二人に仰せ付けさせられ、角弥討つべき御科の御書き付け下し給はり、両人、上意請けて、角弥浜屋敷に案内なしに入りて、「仰せ渡さるる段々、聞き給へ。」と茂右衛門、書き付け読み仕舞へど、団平、遅れて不首尾の時、茂右衛門、抜き討ちに仔細なく角弥を、とどめまで刺して立ち退く時、団平、言葉荒く、「最前申し合はせて、くじを取り、その方は箇條書を読む役、この方、討つ役に極めしに、無用の出来しだて。八幡、堪忍ならず。」と眼色変へて詰めかくる。
 茂右衛門、少しも騒がず、「この儀、二人承れば、いづれか前後の論に及ばず。これ、両人の働きなり。角弥首尾よく討ち取るこそ仕合せなれ。御前の御機嫌なるべし。急ぎ給へ。」と首、羽織に包み{*1}、立ち退く所を、後ろより茂右衛門を切り付けしに、「卑怯者。」と抜き合はせ、団平に打ちかける太刀先下がりて、終に討たれにける。
 死骸、角弥が働きのやうに取り直し、立ち退く所へ、徒士横目千本勝五左衛門、駆け付けしに、我が手柄のやうに次第を語りけるに、物に馴れざる男にて、死人改めもせずして、団平口上の通りを、我が見たやうに申し上ぐれば、団平一人の働きになり、即座に百石の御加増下され、武士の面目、世の聞こえ、かれこれよろしく、家栄えける。
 茂右衛門妻は、知らぬ事とて、最後を悲しみ、「日頃は、人に遅れ給はぬ御所存なりしが、武運尽きぬれば、是非もなき。世の中に残りて住むも、由無し。」と二十一にて髪を下ろし、山居の身と成り{*2}、夫のための香花。今は心も開けて、出家堅固に勤めけるにも、明け暮れ夫の事のみ忘れ難し。茂右衛門、一子もなければ、その家絶えて、諸道具は、その兄茂左衛門方に取りのけ、後家比丘尼には、これよりはごくみを遣はしける。
 定めなきは世のなり、つらきは人の心ざし。団平、その後は世間のよきままに、いつとなく奢りて、人皆、これを憎みし。殊更、家来に情けをかけず、一人一人恨み申すぞ因果なり。或る時、若党の九市郎と申す者、紙細工言ひ付けられ、枕屏風を張り立てけるに、「仕立て悪しき。」とて散々「無調法。」と言葉あらけなく蹴立てられしを、主人ながら、気色、常に変はれば、長屋に追ひ込みおかれて、憂き目に逢ひける。各々詫び言すれども、聞き入れ給はず、近々に成敗極まれり。
 同じ屋敷に召し使はれて、腰元の久米といふ女、いつの日か九市郎と言ひかはして、二世の語らひ成して、末々一つの願ひ。年の明け行く事を待つ内に、この難儀悲しく、雨の夜、人静まりて後、九市郎追ひ籠められし長屋の窓に立ち忍び、互の憂きを語り尽くし、「我が命を取らるる程の事にはあらず。さりとはむごき仕方なり。この怨念、外へは行くまじ。そなたも、かく成り行く身の程、さぞ不憫に思はるベし。何事も主命なれば、是非も無し。されども、身に誤りなくて死する事、後の世までの迷ひなり。旦那にこの恨みを成して、この家失ふ事こそあれ。
 「いつぞやの上意討ち、柏崎茂右衛門殿、手に掛けて角弥殿を討たれしに、主人、遅れて首尾悪しき故に、茂右衛門殿を角弥、討たれし処を、切り伏せたるやうに御前へ披露申されしが、まことは、茂右衛門殿を旦那、騙し討ちにして、世には手柄触れける。これ畜生なれば、この事、茂右衛門殿兄茂左衛門殿に告げ知らせて、主人団平を無い者にせば、我、相果てても思ひは残らじ。」と涙をこぼす。とやかく歎く内に、夜も明け渡れば、別れの後、九市郎を引き出し、「慮外者。」の断り立つて、手討ちになりける。
 腰元の久米は、屋敷を抜け出、茂左衛門殿に駆け込み、この段々{*3}語り、舌喰ひ切り、夢よりはかなく消えける。この事、一家中の沙汰と成り、おのづから天命逃るる所なく、団平、非道顕はれかかれば、たまりかねて、その夜、屋敷を立ち退き、いよいよ悪人に極まれば、「その時の横目役千本勝五左衛門儀、無念。」に極まり、切腹。是非もなき仕合せなり。
 その後、茂左衛門、家老中まで御訴訟申すは、「茂右衛門事、弟ながら、これは格別の{*4}儀なれば、敵討ちたき願ひ」申し上ぐれども、「世の御仕置き立たねば、子方の者詮議して、討たせ。」との仰せ出されなり。茂左衛門にも娘ばかりにて、男子を持たねば、さし当たつて分別及ばず。御暇申し請けて浪人の身と成りて、諸国を尋ね巡り。
 二年過ぎての秋の頃、江州志賀、唐崎、この両里にある由、聞き出して、逢坂山を立ち越えて、関寺のほとりにして、いまだ誕生日も過ぎまじき捨て子を拾ひて、名を茂吉と改め、乳乳母に抱かせ、大津の屋形に行さて、「この倅、親の敵討」の御帳に記し、それよりありかを確かに見出して、八月十四日、時節を待つ宵の月見。所の人を誘ひ、団平、浜辺に出しを、名乗り掛けて討ち済まし、乳母抱きながら、茂吉にとどめを刺させ、あつぱれ働き、残る所無し。
 団平が首、器物に入れさせ、本国に帰りさまに、茂吉に金子十両付けて、薮の下の煙草切りの元へ養子に取らせ、茂左衛門は肥前の国に帰り、団平討ち取り、上方の首尾、所の御奉行よりの添へ状差し上ぐれば、殿の御機嫌よろしく、先知に二百石の御加増下し給はり、母衣大将に御役替へまで成し下され、武勇、この時、国中にその名を上げける。
 「茂吉事、筋目はいかなる者なりとも、茂左衛門が才覚にて、一度茂右衛門が一子に仕立てければ、急ぎ呼び下し、茂右衛門名跡を相違なく継がせ申せ。」との御意。有り難く、大津に人を遣はし、茂吉を呼び寄せ、九月九日の御礼日に御目見え済まし、家の悦びを重ね菊。酔ひを進めて千秋楽を謡ひ、柏崎の名を祝ひけるとぞ。

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校訂者註
 1:底本は、「つつみて立のく」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 2:底本は、「身なり。」。『井原西鶴集4』(2000)本文及び語釈に従い改めた。
 3:底本は、「段々(だん)(二字以上の繰り返し記号)を語(かた)り」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 4:底本は、「格別(かくべつ)義」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。

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