【翻字】
万里小路藤房卿(までのこうじふぢふさきやう)
ふく時は 音(をと) さは がしき 山かぜも ふかざるうちは 何(なに)と成(なる)らん
〇卿(きやう)は藤(とう)の宣房(のぶふさ)卿の男なり後(ご) 醍醐帝(だいごてい)に仕(つか)へて忠功(ちうこう)あり後直(のちちよく) 諫(かん)の用ひられざるを歎(たん)じ竊(ひそか)に 迯(のが)れ北山の不二坊に入て薙髪(ちはつ) す帝過(あやまち)を悔諭(くいさと)して召帰(めしかへ)さん とし給ふに早くも跡を隠(かく)して其 行衛(ゆくゑ)を知(し)らず壁(かべ)に一首の哥(うた)を残せり 住すつる宿(やど)をいづこと人問(とは)ば あらしや庭(には)の松に答(こた)へん と也暦応(れきおう)の初めひそかに関山(くはんさん)国 師に見(まみ)へ本有円成(ほんうゑんじやう)の話(わ)によつて 大悟(たいご)す則妙心(めうしん)二世授翁宗弼(じゆおうそうひつ)禅師 これ也康暦(こうれき)二年三月廿八日化す 寿八十五勅して寂照(じやくせう)禅師と諡す
万里小路藤房卿
吹く時は 音騒がしき 山風も 吹かざるうちは 何と成るらん
〇卿は藤の宣房卿の男なり。後醍醐帝に仕へて、忠功あり。後、直諫の用ひられざるを歎じ、竊かに迯れ、北山の不二坊に入りて、薙髪す。帝、過ちを悔い諭して、召し帰さんとし給ふに、早くも跡を隠して、その行衛を知らず。壁に一首の歌を残せり。
住み捨つる 宿をいづこと 人問はば 嵐や庭の 松に答へん
となり。
暦応の初め、ひそかに関山国師に見へ、本有円成の話によつて、大悟す。則ち、妙心二世授翁宗弼禅師、これなり。康暦二年三月廿八日、化す。寿八十五、勅して寂照禅師と諡す。
暦応の初め、ひそかに関山国師に見へ、本有円成の話によつて、大悟す。則ち、妙心二世授翁宗弼禅師、これなり。康暦二年三月廿八日、化す。寿八十五、勅して寂照禅師と諡す。
【語釈】
藤の宣房:藤原宣房。後醍醐天皇の廷臣。北畠親房・吉田定房とともに「後の三房」と呼ばれた。
北山の不二坊:不詳。左京区岩倉の天台宗寺院・大雲寺に「万里小路中納言藤房卿髪塔」があり、当時大雲寺にあった一塔頭か。
暦応:1338年~1341年
関山国師:関山慧玄。南北朝時代の臨済宗の僧。暦応5年・康永元年/興国3年(1342年)に京都妙心寺開山となった。
本有:生まれながらに備わっていること
円成:円満に仏の心を成就すること
妙心二世:妙心寺2世
授翁宗弼禅師:南北朝時代の僧。万里小路藤房と同一人物と妙心寺に伝わる(『正法山六祖伝』)。
康暦二年:1380年
北山の不二坊:不詳。左京区岩倉の天台宗寺院・大雲寺に「万里小路中納言藤房卿髪塔」があり、当時大雲寺にあった一塔頭か。
暦応:1338年~1341年
関山国師:関山慧玄。南北朝時代の臨済宗の僧。暦応5年・康永元年/興国3年(1342年)に京都妙心寺開山となった。
本有:生まれながらに備わっていること
円成:円満に仏の心を成就すること
妙心二世:妙心寺2世
授翁宗弼禅師:南北朝時代の僧。万里小路藤房と同一人物と妙心寺に伝わる(『正法山六祖伝』)。
康暦二年:1380年
【解説】
14人目は万里小路藤房です。ただしこの人は、建武元年(1334年)に出家した後の史実がはっきりせず、妙心寺2世の授翁宗弼禅師と同一人物である確証がありません。
歌意はいかにも禅宗らしい問いで、「吹かない時の山風はどのようなものか」とは、まるで公案のようです。この歌の作者は、万里小路藤房、あるいは授翁宗弼禅師、いずれの歌として伝わったものか、気になります。

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