つい先ほど、山名政宏さんからメールを頂きました。このブログ記事をご覧頂き、気付いた点をお知らせ下さいました。その中に、非常に重要な記憶が書かれていました。
「櫃は、部屋に踏み込んだ方向に対して左手の壁際に置いてありました。横長の箱で、横幅は1メートルほどあり、奥行きもそれなりにありました」。
この記憶に従うならば、「22 焼失直前の旧山名邸の復原」で示した「二階書斎図」は成立しません。なぜなら、あの書斎だと壁は正面にしかなく、「部屋に踏み込んだ左手の壁」という記憶が成立するためには、政大氏はわざわざ書斎の北側に回り込んで、政宏さんらを書斎に招かなければなりませんでした。それは不自然過ぎるからです。
上の政宏さんの記憶を基にすると、書斎は次の図のような位置にあったはずです。
大原さんの書いた一階間取図、特にその壁の位置から、旧山名邸の復原はほぼ自動的にできます。ただし、屋根の傾斜やつし二階の高さについては全く分かりませんから、その復原は全て私の推測によります。政宏さんや大原さんの記憶は尊重しながらも絶対視はせず、記憶間の齟齬などについても、私の判断で適宜判断し調整しました。今後、旧山名邸を写した一枚の写真が発見されることで、私の推測の全てが覆される可能性はあります。しかし、不完全な推測をあえて示すことで、未来における真実の発見を手繰り寄せられたらとの思いで、ここに復原図を示しました。
「櫃は、部屋に踏み込んだ方向に対して左手の壁際に置いてありました。横長の箱で、横幅は1メートルほどあり、奥行きもそれなりにありました」。
この記憶に従うならば、「22 焼失直前の旧山名邸の復原」で示した「二階書斎図」は成立しません。なぜなら、あの書斎だと壁は正面にしかなく、「部屋に踏み込んだ左手の壁」という記憶が成立するためには、政大氏はわざわざ書斎の北側に回り込んで、政宏さんらを書斎に招かなければなりませんでした。それは不自然過ぎるからです。
上の政宏さんの記憶を基にすると、書斎は次の図のような位置にあったはずです。
この位置に書斎があったと考えると、「左手の壁際」に「櫃(横90cm縦60cm。緑色で表示)」があり、「正面に窓があった」という政宏さんの記憶とも符合します。
もちろん、書斎の位置は北東端だったかもしれず、中央付近だったかも、あるいは北側全部であったかも知れません。北西端にしたのは、階段に近く出入りに便宜であること、一階座敷の上を避ける意味、政宏さんの記憶に部屋の大小に関する言及がないこと、以上の諸点からの推測です。
なお、一点鎖線は建具を示し、直線は壁を示します。北東側一間を建具でなく壁としたのは、そこは屋根が低く、建具を入れられなかったであろうことと、採光が北側からだけになるために、東側は壁でも建具でも使い勝手に大差がなかったであろうこと、以上2点からの推測によります。
書斎が上記のようであったとすると、「22 焼失直前の旧山名邸の復原」で示した東側の採光のための窓、「書斎東側面図」は、ともに存在しなかったことになります。もちろん、書斎の位置は北東端だったかもしれず、中央付近だったかも、あるいは北側全部であったかも知れません。北西端にしたのは、階段に近く出入りに便宜であること、一階座敷の上を避ける意味、政宏さんの記憶に部屋の大小に関する言及がないこと、以上の諸点からの推測です。
なお、一点鎖線は建具を示し、直線は壁を示します。北東側一間を建具でなく壁としたのは、そこは屋根が低く、建具を入れられなかったであろうことと、採光が北側からだけになるために、東側は壁でも建具でも使い勝手に大差がなかったであろうこと、以上2点からの推測によります。
大原さんの書いた一階間取図、特にその壁の位置から、旧山名邸の復原はほぼ自動的にできます。ただし、屋根の傾斜やつし二階の高さについては全く分かりませんから、その復原は全て私の推測によります。政宏さんや大原さんの記憶は尊重しながらも絶対視はせず、記憶間の齟齬などについても、私の判断で適宜判断し調整しました。今後、旧山名邸を写した一枚の写真が発見されることで、私の推測の全てが覆される可能性はあります。しかし、不完全な推測をあえて示すことで、未来における真実の発見を手繰り寄せられたらとの思いで、ここに復原図を示しました。
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