旧山名邸の家伝文書を見ている梅原三千は、伊勢山名家は山名宗全の末裔であり、義隆が初祖であるとしています(『津市文教史要』38頁)。ただ、学者あるいは教育者とはっきりと書いているのは政胤(1734年(享保19年)没)の他には政胤の孫である政恒、その子・政興=清太夫、さらにその子・政方(まさみち)=信之介の4名です。他の当主については、おそらく確かな資料がなかったと推測されます。ただ、政胤とほぼ同時代の政総という人物の手書きの資料が三重県立図書館の山名文庫に複数あり、その内容から、彼が神道系の学問をしていたことが伺えます。伊勢山名家の当主は、少なくとも政胤以降は代々、学問をしていたことはまず間違いないと考えてよいでしょう。
 山名政胤は梅原三千が『津市文教史要』(1938年(昭和13年)刊)に書いたことで、初めて世に知られるようになった人です。彼は漢学を学んだ後、荷田春満に国学を学びました。荷田春満は、本居宣長の師である賀茂真淵の師にあたる国学者です。梅原は当時全くの無名であった山名政胤の学識と実績を同書中で高く評価しました。そして、それ以降の山名家当主たちが政胤の学問を継承し、代々津市の庶民教育に従事した、と書いています。
 政胤以降の当主でその業績を知り得る人は信之介くらいです。信之介については、著書『朱子小学弁解 巻一』を、国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。また、彼の津市女学校時代の時間割表が三重県立図書館の蔵書『今体初学文範字解』に書き込まれており、彼は、漢文だけでなく、作文・読本・修身・習字・図画等の授業を担当していたことがわかります。西洋科学を除いた、伝統的な文化教養については、彼は一通り身に付けていたのでしょう。彼以前の当主たち、すなわち修天爵書堂の歴代の師匠たちも、おそらくはそうだったのではないかと私は想像しています。

 「修天爵」とは「学問を身に付けるのは天から受ける爵位である」という意味です。「人からもらう爵位=地位や名誉でなく、天から頂く爵位を学問の目的とせよ」という意味もあります。これは今も昔も変わらない学問の本質です。そうした名を持ち、上に書いたような師匠の待つ寺子屋が、津市に200年以上存在し、子どもたちが「読書算術」を学びに通った事実は、津市民が知るべきであり、誇るに十分値する歴史であると私は思います。

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