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【翻字】
沢庵(たくあん)和尚
仏法(ふつほう)と 世法(せほう)は 人(ひと)の 身(み)と こゝろ ひとつかけても たらぬものなり
〇師名は宗彭(そうほう)号は沢菴但州 出石(いづし)の人にて邑(むら)の勝福(しやうふく)寺希先(きせん) 和尚の弟子也先(せん)の寂後一凍(じやくごいつとう)禅師の 印記(いんき)を受(うけ)て大徳(たいとく)寺に出 世す元和上皇(けんわじやうくはう)其徳をしたひ 宮にめして法要(はふやう)をたづね給ひ 大樹(だいじゆ)また武江品川に東海(とうかい)寺 をいとなみ給ひ師に命じて 開山とし給ふ又柳生侯(やぎふこう)も刀術(とうじゆつ)を 極(きわ)めんために師(し)に参禅せらる師則 不動智(ふどうち)といへる書を編(あみ)て侯(こう)に 示(しめ)さる一日侯師(こうし)を訪師其至(とふしそのいた)る処 を尋ね給ふ折(をり)ふし雨中(うちう)なりしかば侯 椽先(ゑんさき)より飛石(とびいし)の上(うへ)へ飛下り飛上り し給ふ事数回(すくわい)されども少(すこ)しもぬれ 玉(たま)はず師之(しこれ)を見てまだまだ危(あやふ)し 老僧(らうそう)が早業(はやわざ)を見給へとて又椽先 より飛下り飛上りし給ふに身一(ひと)し ぼりにぬれ給ひしかば侯も大に感(かん)じ 給ひしとぞ正保二年十二月十一日 寿七十三にて化す

【校訂本文】
 沢庵和尚
  仏法と 世法は 人の身と心 一つ欠けても 足らぬものなり
 〇師、名は宗彭、号は沢菴。但州出石の人にて、村の勝福寺・希先和尚の弟子なり。先の寂後、一凍禅師の印記を受けて、大徳寺に出世す。元和上皇、その徳を慕ひ、宮に召して、法要をたづね給ひ、大樹、また、武江・品川に、東海寺を営み給ひ、師に命じて、開山とし給ふ。
 又、柳生侯も、刀術を極めんために、師に参禅せらる。師、則ち、『不動智』といへる書を編みて、侯に示さる。
 一日、侯、師を訪ふ。師、その至る処を尋ね給ふ折ふし、雨中なりしかば、侯、縁先より飛び石の上へ、飛び下り、飛び上がりし給ふ事、数回、されども、少しも濡れ給はず。師、之を見て、「まだまだ危し。老僧が早業を見給へ」とて、又、縁先より飛び下り、飛び上がりし給ふに、身、一しぼりに濡れ給ひしかば、侯も、大いに感じ給ひし、とぞ。
 正保二年十二月十一日、寿、七十三にて化す。

【語釈】
但州出石:現兵庫県豊岡市出石町
勝福寺:出石の臨済宗の寺院・宗鏡寺に当時あった一塔頭
希先:希先西堂。当時、宗鏡寺の僧であった。
一凍禅師:一凍紹滴。当時、京都・大徳寺の住持であった。
印記:ここでは、禅宗で師僧が弟子に法を授けて悟りを得たことを証明・認可する印可状を書くこと
大徳寺:京都の臨済宗の寺院
出世:禅宗で僧が大寺院の住職となること
元和上皇:後水尾天皇。寛永6年(1629年)譲位後、長く院政を敷いた。
法要:仏の教えの大切な要点。寛永15年(1638年)、沢庵は後水尾上皇に『華厳原人論』(唐・宗密著)を出講している。
大樹:将軍・征夷大将軍の異名(『後漢書』「馮異伝」)
武江:武蔵国江戸
東海寺:寛永16年(1639年)、沢庵を開山として創建された臨済宗の寺院
柳生侯:柳生宗矩。柳生新陰流の創始者として徳川将軍家の兵法指南役を務めた。
『不動智』:『不動智神妙録』。「剣禅一致」を説いた書。
正保二年:1646年

【解説】
 27人目は沢庵宗彭です。紹介文の分量が他に比して大きく、その理由は柳生宗矩との交渉の記述、特に逸話が詳しいことによります。
 この逸話は、とぼけた味わいがあり、禅味豊かです。両者の出会いはともに60歳前後のことです。禅の高僧が雨中びしょ濡れになるまで縁と敷石を往復した様もおかしいなら、それを見て深く感心した柳生宗矩もおかしく、実に良く出来た逸話です。
 歌は「仏法」と「世法」の調和を詠んでいます。寛永4年(1627年)、沢庵は後水尾天皇と江戸幕府との対立による「紫衣事件」に関与し、罪せられます。本書が江戸幕府治下における出版である以上、この歌はそれをふまえての内容であると推察されます。体制迎合的な歌意は、禅僧の歌らしくはありません。