【翻字】
愚堂(ぐだう)和尚
あし原(はら)や 絶(たえ)て ひさ しき のりの道(みち)を 踏(ふみ)わけ たるは此翁(このおきな)かな
〇師名は東寔(とうしよく)号は愚堂初め 南渓(なんけい)和尚に随侍(ずいし)して省(せい)あり 後聖沢の庸山(ようさん)和尚に見(まみ)ゆる に機契(かなは)ず一夜院後(いんご)の竹林(ちくりん)に 入て工夫(くふう)すあしたに及(およ)びてかきり もなき蚊(か)の血(ち)に飽(あき)て紛々(ふんふん)と 地に落(おつ)るを見る其苦悩(そのくなふ)いふべ からず果(はた)して徹(てつ)する処ありて 庸山和尚の印(いん)を受(うけ)大(おゝい)に東陽(とうやう) の道(みち)を起(おこ)す元和帝(げんわてい)師の徳(とく)ある を以て崇信(そうしん)ことに厚し寛文 元年十月朔日化す寿八十勅し て宝鑑(ほうかん)国師と諡す此哥は師が自讃(じさん) なり其頃諸方(そのころしよほう)の僧徒詩(そうとし) 文に耽(ふけり)て祖師(そし)の真風(しんふう)を失(うしな)ふ師 一臂(いつひ)をかゝげ絶(たへ)て久しき法(のり)の道を 踏分(ふみわけ)大に禅法(ぜんはふ)を中興し給ひしと の心なり
【校訂本文】
愚堂和尚
葦原や 絶えて久しき 法の道を 踏み分けたるは この翁かな
〇師、名は東寔、号は愚堂。初め、南渓和尚に随侍して、省あり。後、聖沢の庸山和尚に見ゆるに、機、契はず。一夜、院後の竹林に入りて、工夫す。朝に及びて、限りもなき蚊の、血に飽きて、紛々と地に落つるを見る。その苦悩、言ふべからず。果たして、徹する処ありて、庸山和尚の印を受け、大いに東陽の道を起こす。
元和帝、師の徳あるを以て、崇信、殊に厚し。寛文元年十月朔日、化す。寿、八十。勅して「宝鑑国師」と諡す。
この歌は、師が自讃なり。その頃、諸方の僧徒、詩文に耽りて、祖師の真風を失ふ。師、一臂を掲げ、絶へて久しき法の道を踏み分け、大いに禅法を中興し給ひし、との心なり。
元和帝、師の徳あるを以て、崇信、殊に厚し。寛文元年十月朔日、化す。寿、八十。勅して「宝鑑国師」と諡す。
この歌は、師が自讃なり。その頃、諸方の僧徒、詩文に耽りて、祖師の真風を失ふ。師、一臂を掲げ、絶へて久しき法の道を踏み分け、大いに禅法を中興し給ひし、との心なり。
【語釈】
葦原:日本国の異称
南渓:正しくは南景宗岳。当時、現姫路市にあった臨済宗の寺院・三友寺の開山。
随侍:尊い人のそばにいて仕えること
聖沢:京都・妙心寺の塔頭・聖沢院
庸山:庸山景庸。妙心寺86世住持。
工夫:禅宗で、座禅に専心すること
印:印可。禅宗で、師僧が弟子に法を授けて、悟りを得たことを証明認可すること。
東陽:東陽英朝。大徳寺53世住持・妙心寺13世住持・妙心寺聖沢派の開祖。
元和帝:第108代・後水尾天皇(在位:慶長16(1611年)~寛永6年(1629年))
寛文元年:1661年
祖師:仏教で、一つの宗派を開いた人
一臂:片方のひじ・片腕。転じて、わずかな力・少しの助力。
南渓:正しくは南景宗岳。当時、現姫路市にあった臨済宗の寺院・三友寺の開山。
随侍:尊い人のそばにいて仕えること
聖沢:京都・妙心寺の塔頭・聖沢院
庸山:庸山景庸。妙心寺86世住持。
工夫:禅宗で、座禅に専心すること
印:印可。禅宗で、師僧が弟子に法を授けて、悟りを得たことを証明認可すること。
東陽:東陽英朝。大徳寺53世住持・妙心寺13世住持・妙心寺聖沢派の開祖。
元和帝:第108代・後水尾天皇(在位:慶長16(1611年)~寛永6年(1629年))
寛文元年:1661年
祖師:仏教で、一つの宗派を開いた人
一臂:片方のひじ・片腕。転じて、わずかな力・少しの助力。
【解説】
29人目は愚堂東寔です。紹介文はその禅僧としての経歴が師弟関係を含めて詳しく述べられています。また、歌も「師の自讃の歌である」と、はっきりとその性格が説明されています。こうした点は今までの28人には見られないもので、本書編者の立ち位置を明確に伺わせます。編者はおそらく妙心寺聖沢派に属する人物でしょう。

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