新院御謀叛思召し立つ事
斯かる御愁への折節、新院の御心中覚束なしとぞ人申しける。されば仙洞も騒がしく、禁裏も静かならざるに、新院の御方の武士、東三條に籠り居て、或は山の上に登り木の枝に居て、姉小路.西洞院の内裏.高松殿を窺ひ見る由聞えしかば.保元元年七月三日、下野守義朝に仰せて、東三條の留守に候少監物藤原光貞.並に武士二人召捕つて仔細を問はる。一院御不予の間、去んぬる比より御謀叛の聞えあるのみならず、軍兵東西より参り集まり、兵具を馬に負はせ、車に積んで持ち運び.其の外怪しき事多かり。
新院日来思召けるは、「昔より位を継ぎ禅を受くる事、必ず嫡孫にはよらねども、其の器を選び.外戚の高卑をも尋ねらるるにてこそあれ。是れは只当腹の寵愛といふばかりを以て、近衛院に位を押取られて、恨み深くて過ぎし処に.先帝隠れ給ひぬる上は、重仁親王こそ帝位に備はり給ふべきに、思ひの外に又四の宮に越えられぬるこそ口惜しけれ。」と、御憤りありければ、御心のゆかせ給ふ事とては、近習の人々に、「如何にせんずるぞ。」と、常に御談合ありけり。
宇治左大臣頼長と申すは、知足院禅閣殿下忠実公の二男にておはします。入道殿の公達の御中に.殊更愛子にておはしましけり。人柄も左右に及ばぬ上.和漢共に人に勝れ、礼儀を調へ、自他の記録に暗からず。文才世に知られ、諸道に浅深を探る。朝家の重臣摂籙の器量なり。されば御兄の法性寺殿の詩歌に巧みにて.御手跡の美しくおはしますをば貶り申させ給ひて、「詩歌は閑中の翫びなり、朝家の要事にあらず。手跡はー旦の興なり。賢臣必ずしも之を好むべからず。」とて、我が身は宗と全経を学び、信西を師として、鎮に学窓に籠りて.仁義礼智信を正しくし、賞罰勲功を分ち.政務をきりとほしにして、上下の善悪を糾されければ、時の人悪左大臣とぞ申しける。諸人斯様に恐れ奉りしかども、真実の御心向は極めて麗はしく坐して、怪しの舎人牛飼なれども、御勘当蒙る時、道理をたて申せば、細々と聞召して、罪なければ御後悔ありき。又禁中陣頭にて公事を行はせ給ふ時、外記官史等を諫めさせ給ふに、あやまたぬ次第を弁へ申せば.我が僻事と思召す時は、忽ちに折れさせ給ひて、御怠状を遊ばして彼等に賜ぶ。恐れをなして賜はらざる時は「我が能く思召す怠状なり、只賜はり候へ。一の上の怠状を以下の臣下取り伝ふる事、家の面目にあらずや。」と仰せられければ、畏まりて賜はりけるとかや。誠に是非明察に、善悪無二に坐す故なり。世も之をもてなし奉り.禅閣殿下も大切の人に思召しけり。久安六年九月二十六日、氏の長者に補し、同じき七年正月十日内覧の宣旨蒙らせ給ふ。「摂政関白を閣いて.三公内覧の宣旨、これぞはじめなる。」と、人々傾き申されけれども、父の殿下の御計らひの上は.君も強ちに仰せらるる仔細もなし。此の大臣とても、必ずしも世を知召すまじきにもなければ.諸臣も之を許し給ひけり。
法性寺殿は、唯関白の御名許りにて、余所の事の如く、天下の事に於ていろはせ給ふ事もなかりしかば、殊に御憤り深くて、「当今位に即かせ給ひて、世淳素に帰るべくは、関白の辞表納まるか、又内覧氏の長者.関白につけらるるか、両様共に天裁にあり。」と、頻りに申させ給ひけり。此の関白殿は、万なだらかに坐せば、皆人褒め用ゐ奉れり。関白殿と左大臣殿とは、御兄弟の上、父子の御契約にて、礼儀深くおはしましけれども、後には御中悪しくぞ聞えし。されば左大臣殿思召しけるは、一院隠れさせ給ひぬ、今新院の一の宮重仁親王を位に即け奉りて、天下を我が儘に取り行はばやと思し立ち給ひければ、常に新院へ参り、御宿直ありければ、上皇も此の大臣を深く御憑みありて、仰せ合はせらるる事懇なり。
或夜新院、左大臣殿に仰せられけるは、「抑昔を以て今を思ふに、天智は舒明の太子なり。孝徳天皇の皇子其の数おはしまししかども、位に即きたまひき。任明は嵯峨第二の皇子、淳和天皇の御子達を閣いて、祚を践みたまひき。花山は一條に先だち、三條は後朱雀に進み給ひき。我が身徳行なしと雖も、十善の余薫に応へて、先帝の太子と生れ、世澆薄なりといへども、万乗の宝位を忝くす。上皇の尊号に連なるべくは、重仁こそ人数に入るべき処に、文にもあらず武にもあらぬ四の宮に位を越えられて、父子共に憂へに沈む。然りといへども、故院おはしましつる程は.力なく二年の春秋を送れり。今旧院登遐の後は、我天下を奪はん事、何の憚りかあるべき。定めて神慮にも叶ひ、人望にも背かじものを。」と仰せられければ、左府、元より此の君代を取らせ給はば、我が身摂籙に於ては疑ひなしと悦びて、「尤も思召し立つ処、然るべし。」とぞ勧め申されける。
新院此の御企てなりければ.鳥羽の田中殿を出でさせ給ふべき由を仰せられけるに、何と聞き分けたる事はなけれども、何様事の出で来べきにこそとて、京中の貴賤上下、資材雑具を西東へ運び隠す。門戸を閉ぢ.人々は兵具を集めければ、「こは如何に。縦令新院国を奪はせ給ふとも、仙院晏駕の後、僅に十箇日の中に此の御企て、宗廟の御計らひもはかり難く、凡慮の推す所然るべからず。此の程は雲の上には星の位静かに、境の中には波風も収まりたる御代に、斯く切つて続いだる様に、騒がしく乱るる事の悲しさよ。」と、人々歎きあへり。
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