親治等生捕らるる事

 さる程に高松殿には、基盛既に兇徒と合戦すと聞えければ、兵我も我もと馳せ来る。基盛高き所に打上つて下知せられけるは、「敵は只其の勢にて続く者もなし。御方多勢なれば.各組んで一々に搦め捕つて見参に入れよ、伊賀伊勢の者共。」と申されければ、伊藤、斎藤弓手馬手より馳せ寄つて、一騎が上に五六騎七八騎落ち重なれば、親治猛く思へども力なく、自害にも及ばず生捕られにけり。誠に王事もろいことなきいはれにや、宗徒の者共十六人搦め捕つて、基盛射向の袖に立つたる矢ども折りかけ、郎等数多に手を負はせ、我が身も朱になつて参内仕り、此の由を奏聞して、又字治路へぞ向はれける。親治をば北の陣を渡して、西の獄にぞ入れられける。主上御感の余りに其の夜除目行はれて、正下四位になされけり。聞書には、「宇野七郎親治以下十六人の兇徒、搦め進らする賞なり。」とぞ註されける。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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