新院御謀叛露顕 並 調伏 附 内府意見の事

 さる程に同じき八日関白殿下、大宮大納言伊通卿、東宮大夫宗能卿参内して、来る十一日、左大臣流罪の由定め申さる。謀叛の事既に露顕に依つてなり。其の故は左府、東三條に或僧を籠めて、秘法を行はせ、内裏を呪詛し奉らるる由聞えて、下野守義朝に仰せて、其の身を召されければ、東三條殿に行き向つて見るに、門戸を閉ぢて敲けどもあけず。依つて西表の南の小門を打ち破つて入りぬ。角振隼の社の前を過ぎて、千巻の泉の前に壇を立てて行ふ僧あり。相模阿闍梨勝尊とて、三井寺の住侶なり。「宣旨ぞ。参れ。」と言へども音もせず。兵二人寄つて、左右の手を引立つれども、腕を屈めて延べず。恰も力士の如くなり、「其の儀ならば法に任せよ。」といふ程こそあれ、兵数多寄り、取つて伏せて之を搦め、本尊、並に左大臣の書状等、相具してゐてまゐる。蔵人治部大輔雅頼、一臈判官俊成、承つて仔細を問ふに、「別の儀なし、関白殿と左大臣との御中、和平の由を祈祷申す。」と云々。されども左府の書状顕然なり。其の状に曰く、

 御撫物事承り候ひ畢んぬ。天に誓ひ地に感じ、曜宿良辰に応じ、賞罰厳重、冥衆影向の地に於て、無双深秘の法を修せらるる事、尤も以て神妙の由、御気色候ふ所なり。我聞く恵亮頭脳を砕けば、清和の帝祚に備り、尊意智剣を振へば、刑罰を将門に加ふ、人力の及ばざる所、冥顕の擁護此の如し。然れば猛利誠心を発し、丁寧の懇志を致さば、何ぞ素意を成就せざらんや。爰を以て怨敵を帰伏し群臣の謀に相従ふ、奈何ぞ礼法に背かんや。早く鬱念を慰めよ。此の時や再び光を禅房に輝映せん事、更に疑ひ有るべからざる者なり。恐々謹言。
   七月二日          頼長
  明王院相模阿闍梨御房          御返事

 件の法は、烏芻沙摩、金剛童子、聖天供とぞ聞えし。さてこそ新院御謀叛の事顕はれけれ。其の上平馬助忠正、故佐渡前司行国が子多田蔵人頼憲等を、軍の大将軍の為に、左府語らはるる由聞えければ、主上治部大輔雅頼に仰せて、彼等を召されければ、即ち大夫史師経、やがて忠正、頼憲が許に行き向つて召すに、「此の程は宇治殿に候。」とて参らず。鳥羽殿には、今日故院の七日に当り給ひければ、大夫史師経に仰せつけて、田中殿にて御仏事行はる。新院は一所に渡らせ給ひながら、御幸もなければ、人彌怪しみをなす所に、剰へ都へ御出あるべき由仰せ下されければ、左京大夫教長卿申されけるは、「旧院晏駕の御中陰をだに過ぎさせ給はで御出の條、世以て怪しみをなすべし。且は冥の照覧をも如何か御憚りなかるべき。」と諫め申されけれども.叶ふまじき御気色なりしかば.教長思ふ計りなくて、徳大寺内大臣実能公の許に行き、「斯かる御計らひこそ候へ。」と聞えしかば、内府大きに驚かせ給ひて、「左府の申し勧めらるる由内々聞えしかども、誠しからず侍りしに.哀れ詮なき御企てかな。末代といひながら、さすが天子の御運は凡夫の思ふ処にあらず、天照大神正八幡宮の御計らひなり。吾が国辺地粟散の界と雖も、神国たるに依つて、総じては七千余座の神、殊には三十番神、朝家を守り奉り給ふ。歴代の先朝皆弟姪を賤しと思召せども、位を越えられ給ふ事、今に始めぬ例なり。御運をば天に任せて御覧ぜんに、猶御心ゆかせ給はずば、恐らくは御出家などもありてこそ、傍に引籠らせ給はめ。就中、一院崩御の御中陰をだに過ぎさせ給はずして、出御ならん事、素意及び難し。定めて御後悔あるべし。」と、内々御気色を伺ひて、洩らし奏聞仕らるべき由申されければ、教長帰参して此の旨披露ありければ、院、「それはさる事なれども、我此の所にありては、事に遭ふべき由、女房兵衛佐が告げ知らする仔細ある間、其の難を遁れん為に出づるなり。全く別の意趣にあらず。」とて敢て御承引もなければ、重ねて申すに及ばず。七月十日、大夫史師経、平忠正、源頼憲二人召進らすべき由の宣旨を、官使に持たせて、宇治へ行き向うて、左大臣殿に告げ奉れば、即時に召具して参るべき由.御返事申され給ひけり。新院は九日の如法夜更けて、田中殿より白河の前斎院の御所へ御幸なる。依つて斎院の行啓とぞ披露ありける。御供には左京大夫教長卿、左馬権頭実清、山城前司頼輔、左衛門大夫平家弘、其の子に光弘などぞ候ひける。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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注:7月2日付左大臣書状の原文は漢文です。原文のままのUPは至難のため、訓点に従って書き下しました。その際、原文の一部に送り仮名のない箇所「如此。然者」があり、その箇所は「此の如し。然れば」と送り仮名を補って書き下してあります。