左大臣殿上洛 附 著到の事

 さる程に、左大臣殿は御輿にて、醍醐路を経て白河殿へ入らせ給ふ。御供には式部大輔盛憲、弟の蔵人大夫経憲、前瀧口秦助安なり。御車には山城前司重綱、菅給料業宣二人を乗せられて、御出の体にて宇治より入り給へば、夜半許りに基盛が陣の前をぞ遣り通しける。重綱、業宣、白河殿に参著して、「あな恐ろし。鬼の打飼になりたりつる。」とて、わなないてぞ下りたりける。漢の紀信、高祖の車に乗つて、敵陣へ入りし心には、似も似ざりけりとぞ、人々申しける。去んぬる九日田中殿より内裏へ御書あり。御使は武者所の近尚なり。是れは伶人の近方が子なり。其の御文に曰く、

 御晏駕の後は、万事を抛ち追善の孝志を致し、旧儀の陵廃を改め、政道有るべきの処、路次嗷々鬭戦し、洛陽騒々と争ひて競ふ、彼併しながら尊意を顧みざるに似、猶燕の幕上に巣ふを歎く。如何ぞ早く折伏摂取の新儀を翻し、仁徳を致されよ。天下静謐而無為無事とならば、冥顕に就て加護有るべきか。不宣謹言。
   七月九日

即ち内裏より御返事あり。

 禅札以て拝見しむるの処、事の濫觴を尋ぬるに、侫人不敵の結構か。古人言ふ、徳尊き時は天下を治め、乱るる時は之を取ると。侫者国の利を亡ぼす、如何ぞ筆の宣ぶる所に非ざらん。謹言。七月九日。
此の御返事を、今夜左大臣殿に見せ申し給ふと云々。

 新院の御方へ参りける人々には、左大臣頼長公、左京大夫教長卿、近江中将成雅、四位少納言成隆.山城前司頼資.美濃前司泰成、備後権守俊通、皇后宮権大夫師光、左馬権頭実清、式部大輔盛憲、蔵人大夫経憲.皇后宮亮憲親、能登守家長、信濃守行通、左衛門佐宗康、勘解由次官助憲、桃園蔵人頼綱、下野判官代正弘、其の子左衛門大夫家弘、右衛門大夫頼弘、大炊助度弘、右兵衛尉時弘、文章生安弘、中宮侍長光弘、左衛門尉盛弘、平馬助忠正、其の子院蔵人長盛、次男皇后宮侍長忠綱、三男左大臣勾当正綱、四男平九郎通正、村上判官代基国、六條判官為義、左衛門尉頼賢を始めとして、父子七人、都合其の勢一千余騎とぞ註しける。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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注:7月9日付新院方書状と内裏方返状の原文はともに漢文です。原文のままのUPは至難のため、訓点に従って書き下しました。その際、内裏方返状の原文の一部に送り仮名のない箇所「(如何)非(筆宣所言)」があり、その箇所は「(如何ぞ筆の宣ぶる所に)非ざらん。」と送り仮名を補って書き下してあります。