新院御所各門々固めの事 附 軍評定の事

 新院は.斎院の御所より北殿へ遷らせ給ふ。左府は車にて参り給ふ。白河殿より北、河原より東、春日の末にありければ、北殿とぞ申しける。南の大炊御門面に、東西に門二つあり。東の門をば平馬助忠承つて、父子五人、並に多田蔵人大夫頼憲、都合二百余騎にて固めたり。西の門をば六條判官為義承つて.父子六人して固めたり。其の勢百騎許りには過ぎざりけり。是れこそ猛勢なるべきが、嫡子義朝に附いて、多分は内裏へ参りけり。爰に鎮西八郎為朝は、「我は親にも連れまじ、兄にも具すまじ。高名不覚も紛れぬ様に、只一人如何にも強からん方へ差向け給へ。縦令千騎もあれ、万騎もあれ、一方は射払はんずるなり。」とぞ申しける。依つて西河原表の門をぞ固めける。北の春日表の門をば、左衛門大夫家弘承つて、子共具して固めたり。其の勢百五十騎とぞ聞えし。抑為朝一人として殊更大事の門を固めたる事、武勇天下に許されし故なり。件の男器量人に越え、心飽くまで剛にして、大力の強弓、矢次早の手ききなり。弓手の肘、馬手に四寸伸びて、矢束を引く事世に越えたり。幼少より不敵にして、兄にも所をおかず、傍若無人なりしかば、身に添へて都に置きなば、悪しかりなんとて、父不孝して、十三の歳より鎮西の方へ追ひ下すに、豊後国に居住し、尾張権守家遠を傅とし、肥後国阿曾平四郎忠景が子三郎忠国が婿になつて、君よりも賜はらぬ九国の総追捕使と号して.筑紫を従へんとしければ、菊池原田を始めとして、所々に城を構へて立籠れば、「其の儀ならば、いで落いて見せん。」とて、未だ勢もつかざるに、忠国ばかりを案内者として、十三の歳の三月の末より.十五の歳の十月まで、大事の軍をする事二十余度、城を落す事数十箇所なり。城を攻むる謀、敵を打つ術、人に勝れて、三年が内に九国を皆攻め落して、自ら総追捕使に押しなつて、悪行多かりけるにや、香椎宮の神人等、都に上り訴へ申す間、いにし久寿元年十一月二十六日、徳大寺中納言公能卿を上卿として、外記に仰せて宣旨を下さる。

 源為朝久しく宰府に住し、朝憲を忽緒し、咸綸言に背く、梟悪頻りに聞え、狼藉尤も甚し、早く其身を禁進せしむべし。依て宣旨執達件の如し。

然れども為朝猶参洛せざりければ、同じき二年四月三日父為義を解官せられて、前検非違使になされけり。為朝これを聞きて、「親の科に当り給ふらんこそ浅ましけれ。其の儀ならば、我こそ如何なる罪科にも行はれんず。」とて急ぎ上りければ、国人共も上洛すべき由申しけれども、「大勢にて罷り上らん事、上聞穏便ならず。」とて、形の如くに附き従う兵許り召具しけり。乳母子の箭前払の須藤九郎家季、其の兄透間数の悪七別当、手取の与次、同じき与三郎、三町礫の紀平次大夫、大矢の新三郎、越矢の源太、松浦の二郎左中次、吉田の兵衛、打手の紀八、高間の三郎、同じき四郎を始めとして.廿八騎をぞ具したりける。依つて去年より在京したりしを、父不孝を赦して、今度の御大事に召具しけるなり。
 為朝は七尺計りなる男の、目角二つ切れたるが、紺地に色々の糸を以て、獅子丸を縫つたる直垂に.八龍といふ鎧を似せて、白き唐綾を以て縅したる大荒目の鎧、金物打つたるを著る儘に、三尺五寸の太刀に熊の皮の尻鞘入れ、五人張の弓、長さ七尺五寸にて釻打つたるに.三十六差したる黒羽の矢負ひ、兜をば郎等に持たせて歩み出でたる体、樊噲も斯くやと覚えてゆゆしかりき。謀は脹良にも劣らざれば、堅き陣を破る事、呉子孫子が難しとする処を得、弓は養由をも恥ぢざれば、天を翔る鳥、地を走る獣、恐れずといふ事なし。上皇を始め進らせて、あらゆる人々、音に聞ゆる為朝見んとて挙り給ふ。
 左府即ち、「合戦の趣計らひ申せ。」と宣ひければ、畏まつて、「為朝久しく鎮西に居住仕つて、九国の者共従へ候に付いて、大小の合戦数を知らず。中にも折角の合戦二十余箇度なり。或は敵に囲まれて強陣を破り、或は城を攻めて敵を亡ぼすにも、皆利を得る事夜討に如く事侍らず。然れば、唯今高松殿に押寄せ、三方に火を懸け、一方にて支へ候はんに、火を遁れん者は矢を免るべからす.失を恐れん者は、火を遁るべからず。主上の御方心にくくも候はず。但し兄にて候義朝などこそ駆け出でんずらめ。それも真中指して射通し候ひなん。まして清盛などがへろへろ失、何程の事か候べき。鎧の袖にて払ひ、蹴散らして捨てなん。行幸他所へ成らば、御免を蒙つて、御供の者、少々射んずる程ならば、定めて駕輿丁も御輿を捨てて逃げ去り候はんずらん。其の時為朝参り向ひ、行幸を此の御所へ成し奉り、君を御位に即け進らせんこと、掌を返す如くに候べし。主上を迎へ進らせん事、為朝矢二つ三つ放さんするばかりにて、未だ天の明けざらん前に勝負を決せん條、何の疑ひか候べき。」と、憚る所もなく申したりければ、左府、「為朝が申す様以ての外の荒儀なり。年の若きが致す所か。夜討などいふ事、汝等が同士軍、十騎二十騎の私事なり。さすが主上上皇の御国争ひに源平数を尽して、両方にあつて勝負を決せんに、無下に然るべからず。其の上南都の衆徒を召さるる事あり。興福寺の信実、玄実等、吉野十津河の指矢三町.遠矢八町といふ者共を召具して、千余騎にて参るが、今夜は宇治に著き、富家殿の見参に入り、暁此処へ参るべし。彼等を待ち調へて合戦をば致すべし。又明日院司の公卿殿上人を催さんに.参らざる者どもをば死罪に行ふべし。首を刎ぬる事両三人に及ばば、残りはなどか参らざるべき。」と仰せられければ、為朝上には承伏申して、御前を罷り立ちてつぶやきけるは、「和漢の先蹤朝廷の礼節には似も似ぬ事なれば、合戦の道をば、武士にこそ任せらるべきに、道にもあらぬ御計らひ如何あらん。義朝は武略の奥義を極めたる者なれば、定めて今夜寄せんとぞ仕り候らん。明日までも延べばこそ、吉野法師も奈良の大衆も入るべけれ。只今押寄せて風上に火を懸けたらんには、戦ふとも争でか利あらんや。敵勝つに乗る程ならば、誰か一人安穏なるべき。口惜しき事かな。」とぞ申しける。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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注:久寿元年11月26日付院宣の原文は漢文です。原文のままのUPは至難のため、訓点に従って書き下しました。その際、原文の一部に送り仮名のない箇所「(早)可令(禁進其身。依宣旨執達)如件。」があり、その箇所は「(早く其身を禁進せ)しむべし。(依て宣旨執達)件の如し。」と送り仮名を補って書き下してあります。