将軍塚鳴動 並 彗星出づる事

 さる程に鳥羽殿には.故院の旧臣左大将公教卿、藤宰相光頼卿、右大弁顕時朝臣など籠居し給ひけるが、去んぬる八日より彗星東方に出で、将軍塚頻りに鳴動す。天変地妖、占文のさす所、慎み更に軽からず。「新院の御所には軍兵数千騎参り集まりて、公卿殿上人を召すに、参らざる者をば死罪に行ふべしと、左府議せらるなれば、我等とても其の難を遁るべからず。其の上京中を焼き払ひ、内裏にも火をかけて攻めんに、行幸他所へ成らば、御輿にも矢を進らせんなどと、為朝とかやが申すなれば、君とても安穏にわたらせ給はんや。一院隠れさせ給ひて、十箇日の内に、斯かる不思議の出で来ぬるこそあさましけれ。内裏にも仙洞にも、御追善の営みの外は他事坐すまじきに、こは如何になりぬる世の中ぞや。天照大神は.百王を守らんとの御誓ひも、尽きぬるやらん。」と申されければ、光頼卿熟事の心を思ふに、「日本は是れ神国なり。されば御裳河の流れ絶えずして、すでに七十七代の天津日嗣を受けたまふ。昔崇神天皇の御時、天津社国津社を定め置かれてより以来、神わざ事繁き国の営み、只宝祚長久のためなり。七千余座の神祇、夜の守昼の守、なじかは怠り給ふべき。就中推古天皇の御時.上宮太子世に出でて、守屋の逆臣を亡ぼして仏法を弘め、四天王寺を建てて国家を祈り、聖武天皇東大寺を建てて、大神宮の御本地を顕はして、帝運を祈請し給ふ。行基菩薩は、河州石河郡に四十九院を建て初め給ひて、宝祚を鎮護し給ひしより、伝教大師比叡山を開基して一乗妙典を崇め、弘法大師は高野山に建立して、真言の秘法を修行して専らに天下の護持を致す。殊に白河鳥羽の両院、仏法に帰し坐して、国郡数神に裁きたり、田園多く仏聖に寄せらる。依つて三宝も国家を守り給ふべし、神明も帝祚を捨て給はんや。其の上此の京は.桓武天皇の御宇延暦十三年十月二十一日、長岡の京より遷られて後、弘仁元年九月十日、平城の先帝世を乱り給ひしかども此の京は無為なり。其の後帝王廿七代、星霜三百四十八年の春秋を送れり。其の間にも朱雀院の御宇には、将門純友東西に乱逆をなし、後冷泉の御世には、貞任宗任兄弟謀叛を企て、或は八箇国を従へて八箇年合戦し、或は陸奥に支へて、十二年まで防ぎ戦ひしかども、敢て都の乱にならず終に皇化に遵ひき。されば今も誰人かその京を滅ぼし、何者か我が君を傾けん。南には正八幡大菩薩、男山に跡を垂れて京都を守り、北には賀茂大明神、東西には稲荷.祇園、松尾、大原野等、光を双べて日夜に結番し、禁闈を守り給ふ。縦令逆臣乱をなすとも、争でか霊神の助なかるべき。」と憑もしげにぞ宣ひける。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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