巻之二

   白河殿義朝夜討に寄せらるる事

 白河殿には斯くとも知召さざりしかば、左大臣殿武者所の親久を召されて、「内裏の様見て参れ。」と仰せければ、親久.即ち馳せ帰り、「官軍既に寄せ候。」と申しも果てねば、先陣既に馳せ下る。其の時鎮西八郎申しけるは、「為朝が千度申しつるは爰候爰候。」と忿りけれども力及ばず。為朝を勇ません為にや、俄に除目行はれて、蔵人たるべき由仰せけり。八郎、「是れは何といふ事ぞ。敵既に寄せ来るに、方々の手分をこそせられんずれ。只今の除目物騒なり。人々は何にも成り給へ。為朝は今日の蔵人とよばれても何かせん。只本の鎮西八郎にて候はん。」とぞ申しける。
 さる程に下野守義朝は、二條を東へ発向す。安芸守清盛も、同じく続きて寄せけるが、明くれば十一日東塞りなる上、朝日に向つて弓引かんこと恐れありとて、三條へ打下り、河原を馳せ渡して、東の堤を上りに北へ向つてぞ歩ませける。下野守は大炊御門河原に、前に馬の駆場を残して.河より西に東頭に控へたり。新院の御所にも、敵既に西南の河原に鯢波を作つて攻め来れば、為義以下の武士.各固めたる門々より駆け出でけり。判官が手には、四郎左衛門頼賢と八郎為朝と.先陣を争ひて、既に珍事に及ばんとす。頼賢思ひけるは、「今子共の中には、我こそ兄なれば、今日の先陣をば、誰かは駆けん。」といふ。為朝は又、「恐らくは弓矢取つても、打物取つても我こそあらめ。其の上判官も軍の奉行を仕らせらるる上は、我こそあらめ。」と論じけるが、暫く思案して、兄達をも蔑にするえせ者とて、親に不孝せられしが、適勘当赦されたる身の、父の前にて兄と先を論ぜん事、悪しかりなんと思ひければ、「所詮誰々も駆けさせ給へ。強からん所をば、幾度も承つて支へ奉らん。」とぞ申しける。
 四郎左衛門之を聞きも咎めず、則ち西の川原へ出で向ふ。紺村濃の直垂に、月数といふ鎧の朽葉色の唐綾にて縅したるを著、二十四差したる大中黒の失、頭高に負ひなし、重籐の弓眞中取つて、桃花毛なる馬に鏡鞍置いてぞ乗つたりける。大炊御門を西へ向つて防ぎけるが、「爰を寄するは源氏か平家か、名乗れ聞かん。かく申すは六條判官為義が四男、前左衛門尉頼賢。」とぞ名乗りける。河向に答へて曰く.「下野守殿の郎等、相模国の住人須藤刑部丞俊通が子息瀧口俊綱、先陣を承つて候。」と申せば、「偖は一家の郎等ござんなれ。汝を射るにあらず、大将軍を射るなり。」とて、川越に矢二つ放つ。夜中なれば誰とは知らず、矢面に進んだる者二騎射落されぬ。四郎左衛門も、内兜を射させて引退く。下野守は矢合に郎等を射させて、安からず思はれければ、既に駆けんとしたまへば、鎌田次郎正清轡に取り付いて、「爰は大将軍の駆けさせ給ふ所にて候はず。千騎が百騎、百騎が十騎になりてこそ打ちも出でさせ給はめ。」と申しけれども、猶駆けんとし給ふ間、歩立の兵八十余人ありけるを招き寄せて、此の由をいひ含め.大将軍を守護せさせ、正清馬に打乗つて真先にこそ進みけれ。
 安芸守は、二條河原の東堤の西に向つて控へたり。其の勢の中より五十騎ばかり、先陣に進んで押寄せたり。「爰を固め給ふは誰人ぞ、名乗らせたまへ。かく申すは安芸守殿の郎等に、伊勢国の住人故市伊藤景綱。」「同じき伊藤五、伊藤六」とぞ名乗りける。八郎これを聞き、「汝が主の清盛をだに、あはぬ敵と思ふなり。平家は柏原天皇の御末なれども、時代久しくなり下れり。源氏は誰かは知らぬ。清和天皇より為朝までは九代なり、六孫王より七代.八幡殿の孫六條判官為義が八男鎮西八郎為朝ぞ。景綱ならば引退け。」とぞ宣ひける。景綱、「昔より源平両家天下の武将として、違勅の輩を討つに、両家の郎等大将を射ること互にこれあり。同じ郎等ながら、公家にも知られ進らせたる身なり。其の故は伊勢国鈴鹿山の強盗の張本小野七郎を搦めて、副将軍の宣旨を蒙りし景綱ぞかし。下臈の射る矢、立つか立たぬか御覧ぜよ。」とて、能つ引いて射たれども、為朝之を事ともせず、「合はぬ敵と思へども、汝が詞のやさしきに、失一つ賜はらん、受けて見よ。且は今生の面目、又は後生の思出にもせよ。」とて、三年竹の節近なるを少し押磨いて、山鳥の尾を以て作いだるに、七寸五分の丸根の、箟中過ぎて箟代のあるをうちくはせ、暫し保つてひようと射る。真先に進んだる伊藤六が胸板かけず射徹し、余る矢が、伊藤五が射向の袖に、裏返してぞ立つたりける。六郎は矢場に落ちて死ににけり。
 伊藤五此の矢を折りかけて、大将軍の前に参つて、「八郎御曹司の矢御覧候へ。凡夫の所為とも覚え候はず。六郎既に死に候ひぬ。」と申せば、安芸守を初めて、此矢を見る兵共、皆舌を振つてぞ恐れける。景綱申しけるは、「彼の先祖八幡殿.後三年の合戦の時、出羽国金沢の城にて武則が申しけるは、君の御矢に中る者、鎧兜を射徹されずといふことなし。抑君の御弓勢を、たしかに拝み奉らばや。」と望みければ、義家革能き鎧三領重ね、木の枝に懸けて、六重を射徹し給ひければ、鬼神の変化とぞ恐れける。是れより弥兵共帰服しけりと、申し伝へて聞くばかりなり。眼前にかかる弓勢も侍るにや。あな怖ろし。」とぞおぢあへる。
 かく口々に云はれて、大将のたまひけるは、「必ず清盛が此の門を承つて向ひたるにもあらず、何となく押寄せたるにてこそあれ。何方へも寄せよかし。さらば東の門か。」とあれば、兵みな、「それも此の門近く候へば、若し同じ人や固めて候らん。只北の門へ向はせたまへ。」といへば、「さも言はれたり。今は程なく夜も明けなんず。然れば、小勢に大勢駆け立てられんも見苦しかりなん。」とて引退く処に、嫡子中務少輔重盛生年十九歳、赤地の錦の直垂に、沢潟縅の鎧に、白星の兜を著、二十四差いたる中黒の矢負ひ、二所籐の弓持つて、黄土器毛なる馬に乗り、進み出でて、「勅命を蒙つて罷り向ひたる者が、敵陣強しとて引返す様やあるべき。続けや若者共。」とて駆け出でられけるを、清盛之を見て、「あるべうもなし、あれ制せよ、者ども。為朝が弓勢は目に見えたる事ぞかし、あやまちすな。」と宣ひければ、兵ども前に馳せ塞がりければ、力なく京極を上りに、春日表の門へぞ寄せられける。
 爰に安芸守の郎等に、伊賀国の住人山田小三郎伊行といふは、またなき剛の者、かたかはやぶりの猪武者なるが、大将軍の引きたまふを見て、「さればとて矢一筋に恐れて、向ひたる陣を引くことやある。縦令筑紫八郎殿の矢なりとも、伊行が鎧はよも徹らじ。五代伝へて軍に逢ふ事十五箇度、我が手に取つても度々多くの矢どもを受けしかど、いまだ裏をばかかぬものを、人々見給へ。八郎殿の矢一つ受けて物語にせん。」とて駆け出づれば、「をこの高名はせぬに如かず。無益なり。」と同僚ども制すれども、本よりいひつる言葉をかへさぬ男にて、「夜明けて後に傍輩の、八郎の、いで矢目見んといはんには、何とか其の時答ふべき。然れば日来の高名も失せなんことの無念なれば、よしよし人は続かずとも、己証人に立つべし。」とて、下人一人相具して、黒革縅の鎧に、同じ毛の五枚兜を猪頚に著、十八差いたる染羽の矢負ひ、塗籠籐の弓持ち、鹿毛なる馬に黒鞍置いて乗つたりけり。門前に馬を駆け据ゑ、「物その物にはあらねども、安芸守の郎等、伊賀国の住人山田小三郎伊行生年二十八、堀河院の御宇、嘉承三年正月六日、対馬守義親追討のとき、故備前守殿の真先駆けて、公家にも知られ奉りし山田荘司行末が孫なり。山賊強盗を搦め取る事は、数を知らず、合戦の場にも度々に及んで、高名仕つたる者ぞかし。承り及ぶ八郎御曹司を、一目見奉らばや。」と申しければ、為朝、「一定彼奴は引儲けてぞいふらん。一の矢をば射させんず、二の矢を番はんところを射おとさんず。同じくは矢のたまらん所を、我が弓勢を敵に見せん。」と宣ひて.白芦毛なる馬に、金覆輪の鞍置いて乗つたりけるが、駆け出でて、「鎮西八郎此にあり。」と名乗り給ふ所を、本より引儲けたる箭なれば.弦音高く切つて放つ。御曹司の弓手の草摺を縫様にぞ射切つたる。ーの矢を射損じて二の矢を番ふ所を、為朝能つ引いてひようと射る。山田小三郎が鞍の前輪より、鎧の草摺を尻輪懸けて、矢先三寸余りぞ射通したる。暫しは矢にかせがれて、溜る様にぞ見えし。即ち弓手の方へ真倒に落つれば、鏃は鞍に留まつて、馬は河原へ馳せ行けば、下人つと馳せ寄り、主を肩に引懸けて、御方の陣へぞ帰りける。寄手の兵これを見て、弥此の門へ向ふ者こそなかりけれ。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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