新院御出家の事

 さる程に新院は、為義を始めとして、家弘、光弘、武者所季能等を御供にて、如意山へ入らせ給ふ。山路険しくして難所多ければ、御馬を止めて、御歩行にてぞ登らせたまひける。御供の人々御手を援き、御腰を推し奉りけれども、いつ習はしの御事なれば、御足より血流れて歩み煩ひ給ひけり。唯夢路を辿る御心地して、即ち絶え入らせ給ひけり。人々並み居て守り奉りけるに、早御目昏れけるにや、「人やある。」と召されければ、皆声々に名乗りけり。「水やある。」と召されければ、我も我もと求むれども無かりけり。然るに法師の水瓶を持ちて、寺の方へ通りけるを、家弘乞ひ請けて進らせけり。之に少し御気色直りて見えさせ給へば、各、「官軍定めて追ひ来り候はん。如何にも急がせ給へ。」と申せば、「武士共は皆何地へも落ち行くべし。まろは如何にも叶はねば、先づ爰にて休むべし。若し兵追ひ来らば、手を合はせて降を乞ひても、命ばかりは助かりなん。」と仰せなりけれども、判官を始めとして、各、「命を君に進らせぬる上は、何処へか罷り候べき。東国などへ御開き候はば、何方までも御供仕り、御行末を見果て進らせん。」と申しければ、「我もさこそは思ひしかども、今は何とも叶ひ難し。汝等は疾く疾く退散して命を助かるべし。各かくて侍らば、御命をも敵に奪はれなん。」と、再三強ひて仰せければ、「此の上は却つて恐れあり。」とて、諸将みな鎧の袖をぞ濡らしける。斯くて叶ふべきならねば、皆散り散りになりにけり。為義、忠正は、三井寺の方へぞ落ち行きける。家弘、光弘許り残り留まつて、谷の方へ引き下し奉らせて、御上に柴折り懸け奉り、日の暮るるをぞ相待ちける。御出家ありたき由仰せなりけれども、此の山中にては叶ひがたき由、申し上ぐれば、御涙に咽ばせ給ふぞ忝き。日暮れければ、家弘父子して肩に引懸けまゐらせて、法勝寺の北を過ぎ、東光寺の辺にて.年ごろ知りたるところに行きて、輿を借りて乗せ奉りて、「何処へ仕るべき。」と申しければ、「阿波局の許へ。」と仰せありしかば、家弘ならはぬ業に、二條を西へ大宮まで入れ奉れども、門戸を閉ぢて人音もなし。「さらば左京大夫の許へ。」と仰せらるれば、大宮を下りに三條坊門まで舁き奉れば、教長卿は.此の暁白河殿の煙の中を迷ひ出でたまひて後は、其の行方を知らざりければ、残り留まる者共も、皆逃げ失せて人もなし。「さらば少輔内侍が許へ。」とて入れまゐらせけれども、それも昨日今日の世間なれば、諸事にむつかしくやありけん、敲けども音もせず。世界広しと雖も立入らせたまふベき所もなし。五畿七道も道狭くて、御身を寄すべき陰もなく、東西南北塞つて、御幸なるべき所もなし。光弘等も習はぬ身に、終夜御輿を仕り、明けなば捕へ搦められて、如何なる憂き目を見んずらんと、心細く思へども、山中にて水聞召しつるばかりなれば、とかくして知足院の方へ御幸なし奉り、怪しげなる僧坊に入れ進らせて、おも湯などをぞ羞め奉りける。上皇是れにて軈て御ぐし下させ給ひければ、光弘も髻切りてけり。「斯くては終に悪しかりなん、何処へか渡御あるべき。」と申せば、「仁和寺へこそ行かめ。それもよも入れられじ。唯押へて輿をかき入れよ。」とありしかば、御室へこそなし奉る。門主は故院の御仏事の為に、鳥羽殿へ御出ありけり。家弘は是れより御暇申して、北山の方へ罷りけり。道にて修行者に行き逢ひしかば、之を語らひ、戒保ちなどして出家の形にぞなりにける。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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