朝敵の宿所焼き払ふ事
さる程に七月十一日寅の刻に合戦始まり、辰の刻に白河殿破れて、新院も左大臣も、行方知らず落ちさせ給ひければ、未の刻に義朝清盛内裏へ帰り参つて、此の由を奏聞す、其の体ゆゆしかりけり。蔵人右少弁資長を以て、朝敵追討早速に其の功をいたす由、叡感懇なり。即ち周防判官承つて、三條烏丸新院の御所へ馳せ向つて焼き払ふ。左府の壬生の亭をば、助経判官承つて、発向して火をかけけり。同じき謀叛人の宿所ども十二箇所、各検非違使ども行き向つて、追捕して焼き払ふ。南都の方様未だ静まらざれば狼藉もやあるとて、申の刻に宇治橋の守護の為に、周防判官季実を差遣はさる。今度の御合戦に事故なく打勝たせ給ふ事、総ては伊勢大神宮、石清水八幡大菩薩の御加護とぞ覚えし。殊には日吉社に祈り申させ給ひけり。されば宸筆の御願書を、七條座主宮へ進らせましましければ、座主此の御願書を大宮の神殿に籠めて、肝胆を砕きて祈り申させ給ひしかば、御門徒の大衆は申すに及ばず、満山の諸徳皆宝祚長久、兇徒退散の由の祈請をぞ致しける。されば山王七社も、官軍の方に立ち懸らせたまひけるに、頼賢、為朝、忠正、家弘以下の軍兵爰を前途と防ぎ戦ひしかども.程なく攻め落されて、朝敵は嵐の前の塵の如く、聖運は月と共にぞ開けける。
昔朱雀院の御宇承平年中に、平将門八箇国を打靡けて、下総の国相馬郡に都を建てて、我が身を平親王と号して、百官を為し、諸司を召し使ひけるが、剰へ都へ攻め上り、朝家を傾け奉らんとする由聞えければ、防ぎ戦ふに力尽き追討に謀をなし、依つて仏神の擁護を憑んで、諸寺請社に仰せて冥感の政をぞ仰がれける。殊に山門其の精誠を抽んでけり。其の時の天台座主尊意僧正は、不動の法を修せられけるに、将門弓箭を帯して壇上に現じけるが、程なく討たれけるなり。権僧正は其の勧賞とぞ聞えし。総持院をば鎮護国家の道場と号して、不退に天下の護持を致す。されば今も法験何ぞ昔に替るべきとぞ覚えける。
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