関白殿本官に帰復の事 附 武士に勧賞を行はるる事

 斯かる所に宇治大相国は、新院打負け給ふと聞えければ、橋を引かせ、左府の公達三人相具し給ひて、南都へ落ち、禅定院の僧都尋範、東北院の律師千覚、興福寺の上座真実、同じき権寺主玄実、彼等が兄加賀冠者源頼兼に仰せて、寺中の悪僧、並に国民等を相語らひて、「官軍を防ぐべし、忠あらん者には不次の賞を行ふべし。」と披露せらる。剰へ興福寺の権別当恵信法印は.関白殿の御息なりしを、撃ち奉らんなど議せられければ、忍び給ひて都へ逃げて上り給ふ。是は如何なる御企てぞや。此の入道殿をば君も重き事に思召し、世以て心にくく執し奉る所に、年来関白に附けたる内覧、氏の長者をば抑へて、末子の左府に附け奉つて、法性寺殿御中違ひ、天下の大乱引き出し給へども、関白殿さておはしまさば、御身に於ては何の御怖畏かあるべきに、君に立合ひ奉らんと御支度、以ての外の御誤りなり。其の上今度源平両家の氏族院宣を承つて、身命を捨てて励み戦ふといへども、十善の戒行重きに依つて、打勝ち給ふ所に、少しも違はぬ二の舞かな、天魔のたぶらかし奉るか、知らず社の御咎めを蒙り給ふかと、人唇を返して貶り進らせけり。
 同じき十一日夜に入つて、関白殿、本の如く氏の長者にならせ給ふ。去んぬる久安の比富家殿の御計らひとして、左大臣に成り給ひしが、今本に復せしぞめでたかりし。子の刻ばかりに及んで武士の勧賞行はる。安芸守清盛をば播磨守に任じ、下野守義朝は左馬頭になる。陸奥新判官義康は蔵人になされて、即ち昇殿を聴さる。義朝申しけるは、「此の官は先祖多田満仲法師始めてなりたりしかば、其の跡芳しく候へども、本は左馬助なり、今権頭に任ずる條、莫大の勲功に、更に面目とも覚えず。朝敵を討つ者は半国を賜はる、其の功世々に絶えずとこそ承れ。其の上今度は厳親を背き、兄弟を捨て、一身御方に参つて合戦を致す事、自余の輩に越えたり。是れ救命の重きに依つて、背きがたき父に向つて、弓を弯き矢を放つ、全く希代の珍事なり。然れども身の不義を忘れ、君命に従ふ上は、人に勝るる恩賞、何ぞなからんや。」とぞ申しける。此の條尤も道理なりとて、中御門藤中納言家成の子息高季朝臣、左馬頭たりしを、左京大夫に遷されて、義朝を左馬頭にぞなされける。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

前へ   目次   次へ

注:原文中に句読点の誤りがあり(…安芸守清盛をば播磨守に任じ。…)、訂正しました(…安芸守清盛をば播磨守に任じ、…)。