左府御最後 附 大相国御歎きの事

 さる程に明くれば十二日、左大臣未だ目の働き給ひければ、富家殿に見せ奉らんとて、奈良へ下し進らせんとて、梅津の方ヘ赴き、小舟を借りて柴木を上に取掩ひ、桂河を下りに落し進らす。日暮れければ、其の夜は賀茂川尻に留まりて、明くる十三日に木津へ入り給ふ。御心地も次第に弱りて、今は限りに見え給へば.柞の森の辺より、図書允俊成を以て、興福寺の禅定院におはします入道殿に、此の由申したりければ、即ち迎へ進らせたくは思召しけれども、余りの御心憂さにやありけん、「何とか入道をも見んと思ふべき、我も見えんとも思はず、やをれ俊成よ、思うても見よ、氏の長者たる程の者の、兵仗の先にかかる事やある。左様に不運の者に、対面せん事由なし。音にも聞かず、まして目にも見ざらん方に行けといふべし。」と仰せもはてず、御涙に咽ばせ給ひけるこそ、御心の中推し量られて、誠にさこそ思召すらめと哀れなれ。俊成帰り参つて、此の由申しければ、左府打頷かせ給ひて、軈て御気色替らせ給ふが、御舌の先を噬ひ切りて、叶き出させ坐しけり。如何なる事とも心得難し。かくては如何し奉らんと覚えければ、玄顕得業の輿にかき乗せまゐらせて、十四日に奈良へ入れ申しけれども、我が房は寺中にて、人目も慎ましとて、近きあたりの小屋に休め奉り、様々にいたはり進らせけれども、終に其の日の午の刻ばかりに御事きれにけり。其の夜軈て般若野の五三昧に納め奉る。
 蔵人大夫経憲、最後の御宮仕へ懇に仕つて即ち出家入道し、人道殿の渡らせ給ふ禅定院に参りて、ありつる御行跡ども委しく語り申しければ、北政所、公達、皆泣き哀しみ給ふ事斜ならず。殿下は御手を顔に押当てて、良久しく泣き給ひけるが、「さるにても言ひ置きつる事はなかりつるか。如何に此の世に執心の留まる事多かりけん。我が身のはかなくなるにつけても、子共の行末さこそ覚束なく思ひけめ。摂政関白をもせさせて、今一度天下の事執り行はんを見ばやとこそ思ひつるに、命存へて斯かる事を見るも、前世の宿業か。合戦に出でて命を惜しまぬ兵も、必ずしも創を被る事なし。其の上今度は源平両氏の輩も.然るべき者は一人も討たれずとこそ聞け。其の外月卿雲客北面まで、参り籠れる者多かりけるに、如何なれば左府一人、流矢に中りて命を失ふらん。如何なる者の放しけん矢にか中るらん、うたてさよ。但し漢の高祖は三尺の剣を提げて天下を治めしかども、淮南の鯨布を討ちし時、流矢に中つて命を矢ふ。彼を以て此を思ふに、定めて今生一世の事にあらじ、前世の宿業なるべし。竊に国史を勘ふるに、大臣誅を受くる事其の例多し。天竺震旦をば暫く置き、日本我が朝には、円大臣より始めて其の数あり。円大臣、雄略天皇に討たれ奉りてより以来、真鳥大臣、守屋大臣、豊浦大臣、入鹿大臣、長野大臣、金村大臣、恵美大臣に至るまで、既に八人に及べり。されども氏の長者たる者、弓箭の先にかかる様未だ聞かず。あはれ取りも替るものならば、忠実が命に替へてまし。悲しきかな。蘇武が胡国に赴きしも、二たび漢家萬里の月に帰り、阮君が仙洞に入りしも、秦室七世の風に帰りき。頼長一たび去つて、再会何れの時をか待たん。かひなき命だにあらば、縦令不返の流罪に行はるとも、忽ちに失はるる事はよもあらじ。若し東国に謫居せば、津軽や蝦夷の奥までも.遠路を凌ぎて駒に鞭をも打ちてまし。若し西海に左遷せられば、鬼界が島のはてまでも、船に棹をも指すべきに、行きて帰らぬ別れ程、悲しき事はなきぞとよ。計らざりき、是程に老いの心を悩ますべしとは。」とて、御涙をせきあへさせ給はぬを見奉るもあはれなり。左大臣殿失せ給ひて後は、職事弁官も故実を失ひ、帝闕も仙洞も朝儀廃れなんとす。世以て惜しみ奉る。
 誠に累代摂籙の家に生れて、万機内覧の宣旨を蒙り、器量人に超え、才芸世に聞えたまひしが.如何ありけん、氏の長者たりながら、神事疎かにして威勢を募れば
我伴はざる由、春日大明神の御託宣あり、神慮の末こそ怖ろしけれ。
 此の左府未だ弱冠の御時、仙洞にて通憲入道と御物語の次に、入道、摂家の御身は、朝家の御鑑にておはしませば、御学文あるべき由勧め申しけり。これに依つて、信西を師として読書ありて、蛍雪の功をぞ励み給ひける。其の後左府御病気の由聞えしかば、入道ら文談し給ひけるに、亀卜と易卜との浅深を論じ給ひけり。左府亀卜深しと宣へば、通憲易卜深しと申すに依つて、御問答事広くなりて良久し。互に多くの文を引き、数多の文を開き給へり。入道終に負け奉りて、「今は御才学既に朝に余らせおはします、此の上は御学文あるべからず。若し猶せさせ給はば、御身の祟りとなるべし。」と申して出でにけり。御心にも此の事いみじと思召しけるにや、自ら御日記に遊ばしたる詞に曰く、

先年院に於て学文すべき由誂ふる事は、予二十歳なり。今病席の論、二十四歳なり。中僅に四年の中。才智既に彼の許可を蒙る。都四年学文の間、書巻毎に彼が諾を聞く毎に忘るる事無し。今感涙を拭ひて此の事を記す。

と侍り。誠に信西の申されける詞は、掌を指すが如し。才に誇る御心ましませばこそ、御兄法性寺殿を、「詩歌は閑中の弄び、能書は賢才の好む所にあらず。」などとて、直下と思召されけめ。弟子を見る事師に如かずといふこと、誠に明けし。是れ御学文を止め申すにあらじ、才智に誇り給ふ処をぞ戒め進らせけん。先づ御心誠に心ありて、麗はしき御心ばせの上の御学文こそ然るべけれ。
 何かすべて内外の鑚仰.只一心の為なり。調達が八万蔵を諳んずる、終に奈落の底に堕す。隋の煬帝の才能人に勝れたりしも、国を滅ぼす基たり。学者の心を用ゐる事、只此の処に在るべし。されば孔子の詞にも、「古の学者は己が為にす。今の学者は人の為にす。」と宣へり。夏傑殷紂は、儒道に悪む輩、文書に貶る所なり。然れども能芸優長にして、才智人に勝れたり。依つて之を戒むる言葉に、「智は能く諫めを拒ぐに足り、言は則ち非を飾るに足れり。人臣に矜るに能を以てし、天下に高ぶるに声を以てす。」といへり。かやうの先言を思ふに、俊才におはしまししかども、其の御心根に違ふ所のあればこそ、祖神の慮にも違ひて、身を滅ぼし給ひけれ。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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注:左大臣の日記の原文は漢文です。そのままのUPは至難のため、訓点に従って書き下しました。その際、原文の一部に送り仮名のない箇所「於院」があり、その箇所は「院に於て」と送り仮名を補って書き下してあります。