謀叛人各召捕らるる事

 新院近習の人々、或は遠国へ落ち行き或は深山に逃げ隠れて、其の行方を知らざれば、謀にや、少納言入道信西、陣頭に於て、其の人は其の国、彼の人は彼の国と定めらるる由、披露ありければ、さては命ばかりは助からんとや思ひけん、皆出家の形になりて、此処彼処より出で来る。左京大夫教長卿と、近江中将成雅と二人は、太秦なる所に出家して在りければ、周防判官季実を差遣はして召捕らる。四位少納言成隆と左馬権頭実清と二人は、天台山浄土谷にて様替へて、座主の宮へぞ参りける。此等を始めとして、心も起らぬ僧法師になり続けて、我劣らじと出でけるこそはかなけれ。皇后宮権大夫師光入道、備後守俊通入道、能登守家長入道、式部大輔盛憲入道、弟蔵人大夫経憲入道をば、東三條にて推問せらる。内裏より蔵人右少弁資長、権右少弁惟方、大外記師業、三人承つて奉行せり。中にも盛憲兄弟、前瀧口秦佐康等をば、靫負庁にて拷訊せられけり。此等は左大臣の外戚にて、事の起りを知りたるらん、又近衛院、並に実福門院を呪詛し奉り、徳大寺を焼き払ひたりし故を問はるるに、下部先づ衣裳を剥ぎ取りて、頚に縄を附けければ、下部に向つて手を合はせ、「こは何事ぞや、我を助けよ。」といひければ、座に列る官人共、目も当てられず覚えけり。然れども刑法限りある事なれば、七十五度の拷訊を致すに、始めは声を揚げて叫びけれども、後には息絶えて物いはず。日こそ多きに、七月十五日、今日しも斯かる罪に行はるる事こそ無慙なれ。其の上五位以上の者、拷器に寄せらるる事、先例稀なり。水尾天皇の御時、貞観八年閏三月十日の夜、応天門の焼けたりけるを、大納言供善男卿造意の嫌疑ありければ、使庁にて拷訊せられける例とぞ聞ゆる。彼の大納言は実犯にて、同じき九月二十二日、終に伊豆の国へぞ流されける。それは昔のことなり、近き世には例なし、情なしとぞ申しける。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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