為義降参の事
さる程に六條判官並に子共尋ね進らすべき由、播磨守に仰せ附けらる。十六日清盛三百余騎にて、如意山を越えて三井寺を求むれどもなし。東坂本に在る由聞えて、大和荘泉辻といふ所を追捕す。是れは無動寺領なれば、大衆起つて、「寺領を追捕する條無念なり。仔細あらば、山門に相触れてこそ沙汰を致さめ。左右なく乱入の條狼藉なり。」とて、軍勢に向つて散々に相戦ふ。官軍神威に恐れて引退く間、大衆勝つに乗つて、清盛が郎等両三人搦め捕り、又大津東浦を焼き払う。是れは山門領たる上、昨日為義を船にて東近江へ著けたりとて、為てけれども、跡形なき虚説なりけり。
為義は直河といふ所より、木工神主が許にかくれ居たりけるが、官軍向ふと聞きて、三河三郎大夫近末といふ者の家に行きて、それより束国へ下らんとしけるが、運や尽きたりけん、忽ちに重病を受けて、心身苦痛せられければ、氏神八幡大菩薩にも離され給ひけりとて、郎等共も落ち失せて、纔に子共の外十八人ばかりぞ残りける。兎角して馬に労はり乗せて、蓑浦の方へ行きて船に乗らんとする処に、誰とは知らず、兵三十騎許追ひ来り討たんとしければ、頼賢以下身命を捨てて、防ぎ戦うて追ひ散らしてけり。其の時残る兵も行方知らずなりにけり。それより弥頼み少なになりはてて心細きのみならず、判官は重病に煩ひ給ふ、其の上海道も塞がり、関々も堅く守ると聞えければ、中々東国へ下らん事も叶ひ難しとて、又、三郎大夫が家に立帰りて、日暮れしかば山上に上り、其の夜は中堂に通夜して、殊に重病悉除の悲願を憑みて、終夜祈請せられたり。明くれば十七日、西塔の北谷黒谷といふ所に、二十五三昧行ふ所に行きて、出家を遂げ、法名義法房とぞつかれける。月輪房の豎者の許より、墨染の衣袈裟を奉りて、沙弥の形になり給ふ。
此の為義は十四歳にて、叔父美濃前司義綱、其の子美濃三郎義明を討つて、其の時の勧賞に左兵衛尉になされけり。元は陸奥四郎とぞ申しける。十八歳、永久元年四月、清水寺別当の事に就きて、南都の大衆朝家を恨み奉りて国民を催し、春日の神木を先として、栗栖山まで来りたりしを馳せ向つて追ひ返しき。其の勧賞に左衛門尉になる。二十八歳にて検非違使五位尉になる。日来中御門中納言家成卿に就きて、陸奥守を望み申しけるに、祖父伊予入道頼義、此の受領に任じて、貞任宗任が乱に依つて、前九年の合戦ありき。八幡太郎義家、又彼の国の守になりて、武衡家衡を攻むるとて、後三年の兵乱ありき。然れば猶意趣残る国なれば、今為義陸奥守になりたらましかば、定めて基衡を亡ぼさんといふ志あるべきか。旁不吉の例なりとて、御聴されなかりしかば、為義、「然らば自余の国守に任じて何かはせん。」とて、今年六十一迄終に受領もせざりける。日来より地下の検非違使にてありけるが、よしなき新院の御謀叛に与し奉り、年来の本望をも達せずして、出家入道してけるこそ無念なれ。義法房子共に向つて宣ひけるは、「我が合期したらばこそ、各引具して山林にも立隠れめ。我は只義朝を憑んで、都へ出でんと思ふなり。さても今度の勲功に申し替へても、命許りは助けこそせんずらめ。但し恣に院方の大将軍を承りたれば、勅令重くして助かり難からんか、それ又力なき事なり。齢既に七旬に及び、惜しむべき身にあらず。万一甲斐なき命助かりたらば、如何にもして汝等をも助くべし。面々は先づ如何ならん木の陰岩の間にも隠れ居て、事鎮まらん程を待つべし。」と宣へば、為朝聞きもあへず、「此の儀然るべからず候。縦令下野守殿こそ親子の間なれば、助け申さんとし給ふとも、天気よも御免し候はじ。其の故は、新院は正しく主上の御兄にて渡らせ給はずや、左府亦関白殿の御弟ぞかし、豈親とて罪科なからんや。義朝いかに申さるるとも、立ち難くこそ覚え侍れ。御所労なほり坐さば、只何ともして関東に赴き、今度の合戦に上りあはぬ三浦介義明、畠山荘司重能、小山田別当有重等を相かたらひて、東八箇国を管領して.暫しもおはしますべし、若し京都より討手下らば、為朝一方承つて、思ふままに合戦して、叶はずば其の時討死すべし。などか暫く支へざらん。」と申しければ、「それは東国へ下著してのことぞかし。落人となりぬれば、何事も思ふに叶はぬものなれば、降参せん。」と宣ひて、既に山より出でたまへば、子共泣く泣く伏しつつ、西坂本下松を下りしかば、東雲漸う明け行きて、鶏の声々告げ渡り、峯の横雲晴れければ、入道、「疾く疾く何方へも落ち行くべし。」と宜ひて、都の方ヘ赴き給ふを、「暫く御待ち候へ.申すべき候。」と声々に申せば、「何事にや。」とて立帰り給へば、前後左右に立囲みて、泣くより外の事ぞなき。誠に只今を限りにて、又逢ふべき事ならねば、余波を惜しむも理なり。
入道、「今度老いの頭に兜を載きて合戦を致す事、全く我が身の栄花を期するにあらず。若し打勝つて運を開かば、汝等を世に在らせんと思ふ為なり。今義朝を頼みて出づるも、我若し安穏ならば、其の蔭にて各をも助けばやと思ふ故なり。汝等を捨てて、我一人助からんとや思ふらん、齢既に致仕に余れば、身のいくばくの後栄をか期せん。如何ならん所にも深く隠れて侍るべし。疾く疾く。」とて下られけるが、かくて心強くは宣ひしかども、さすが余波や惜しかりけん、又立帰りて、「頼賢よ頼仲よ、いふべき事あり、帰れ。」と宣へば、各呼ばれて立ちかへる。誠には異なる事なけれども、飽かぬ別れの悲しさに、又呼び下し給ひける、恩愛の程こそ哀れなれ。
此の如く互に別れを慕へども、さてあるべきにもあらざれば、面々は散り散りにこそ別れ行く。落つる涙に道昏れて、行く先更に冥々たり。悲しき哉。人界に生を受けながら、鳥にあらねども、四鳥の別れを致し、あはれなるかな、広劫の契り空しくして、魚にはなけれども、釣魚の恨みを含む。涙欄干として、塊飛揚すと見えて、あはれなりし有様なり。子共は小原、静原、芹生の里、鞍馬の奥、貴船の方様へ、思ひ思ひに落ち行けば、深山隠れの秋の空、露も時雨も争ひて、我が袖の涙も更に真柴取る、山路の奥を辿りつつ、人里遠く分け入れば、峯の巴猿一度叫び、行人の裳を潤せば、谷の牡鹿の妻恋ひに、旅客の夢も覚めぬべし。さて入道は、賀茂河をわたり、糺の森より雑色花沢を義朝の許へ遣はして、是まで遁れ来れるよしを申されければ、左馬頭夜に入つて輿を奉り、竊に判官殿を迎へ取り給ひけり。
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