忠正正弘誅せらるる事

 さる程に平馬助忠正は、浄土谷といふ所にて出家して、探く隠れてありけるが、為義入道も降参したりとや聞きてける、子共四人相具して竊に姪の播磨守を憑みてぞ来りける。左衛門大夫正弘、其の子右衛門大夫家弘、其子文章生安弘、次男右兵衛尉頼弘、三男光弘、巳上五人、蔵人判官義康搦め捕りて、即ち大江山にて之を斬る。家弘が弟大炊助度弘をば、和泉左衛門尉信兼承つて、六條河原にて斬つてけり。平馬助忠正、嫡子新院蔵人長盛、次男皇后宮侍長忠綱、三男左大臣勾当正綱、四男平九郎通正五人をば.清盛朝臣承つて、申の刻ばかりに六條河原にて之を斬る。平馬助をば.其の時の別当花山院中納言忠雅と、同名悪しかりなんとて、忠員と改名せられてけり。此の忠員と申すは、桓武天皇十一代の御末.平将軍貞盛が六代の孫、讃岐守正盛が次男なり。此の人軍散じて後、出家入道して深く隠れてありけるが、清盛を憑みて行きたらんに、さりとも命許りを助けぬ事はよもあらじと思ひて、降参せられたりけり。誠に助けんと思はば、さこそあるべきに、叔父姪内々不快なる上、われ忠正を斬りたらば、定めて義朝に父を斬らせらるべし、縦令宥恕の儀ありとも、此の旨を以て支へ申さんと、腹黒に思はれけるこそ恐ろしけれ。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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