為義最後の事
さる程に、為義法師が頚を刎ぬべき由、左馬頭に宣下せられければ.宥め置くべき旨、様々に両度まで奏聞せられけれども.主上逆鱗ありて、清盛既に叔父を誅す、何ぞ緩怠せしめん。姪は猶子の如しといへり。叔父豈父に異ならんや、速かに誅戮すべし。若し猶違背せしめば、清盛以下の武士に仰せ附けらるべき由、勅諚重かりしかば、力なく涙を抑へて、鎌田次郎に宣ひけるは、「綸言かくの如し。是れに依つて判官殿を討ち奉らば、五逆罪の其の一を犯すべし。罪に恐れて宣旨を背かば、忽ちに違勅の者となりぬべし。如何すべき。」とありしかば、正清畏まつて、「申すに恐れ候へども、愚かなる事を御諚候ものかな。私の合戦に討ち奉らせ給はんこそ、其の罪も候はんずれ。其の上観経には、劫初より以来、父を殺す悪王一万八千人なりと雖も、未だ母を殺す者なしと説かれて候。それは諸の悪王国位を奪はんとての為なり。是れは朝敵となりたまへば、終には遁るまじき御身なり。縦令御承りにて候はずとも、時日を回らすべき御命ならぬにとりては、御方に侍はせ給ひながら、人手に懸けて御覧候はんより、同じくは御手に懸け進らさせ給ひて後の御孝養をこそ能く能くせさせ給はんずれ、何か苦しく候べき。」と申せば、「さらば汝計らへ。」とて泣く泣く内へ入り給ふ。即ち鎌田、入道の方に参り、「当時都には平氏の輩権威を執つて、頭殿は石の中の蛛とやらんの様にておはしませば、東国へ下らせたまひ候なり。判官殿は先立て奉らんとて、御迎へに進らせられて候。」とて、車差寄せたれば、「さらば今一度八幡へ参りて、御暇乞申すべかりしものを。」とて、南の方を伏し拝みて、軈て車に乗り給ふ。七條朱雀に、白木の輿を舁き居ゑたり。是れは輿より乗り移り給はん処を、討ち奉らん支度なり。其の時秦野次郎延景、鎌田に向つて申しけるは、「御辺の計らひ誤れり。人の身には、一期の終りを以て一大事とせり、それを暗々と殺し奉らん事情なく侍り。只ありの儘に知らせ奉りて、最後の御念仏をも勧め申し、又は仰せ置かるべき御事も、などか無かるべき。」といへば、正清、「尤も然るべし。物を思はせ進らせじと存じて、斯様に計らひたれども、誠に我が誤りなり。」と申しければ、延景参りて、「誠には関東御下向にては候はず。頭殿宣旨を承つて、正清太刀取にて、失ひ進らすべきにて候。再三歎き御申し候ひしかども、勅諚重く候間、力なく申し附けられ候。心閑に御念仏候べし。」と申したりしかば、「口惜しきことかな。為義程のものを、たばからずとも討たせよかし。縦令綸言重くして、助かる事こそ叶はずとも、などありのままには知らさぬぞ。又誠に助けんと思はば、我が身に替へてもなどか申し宥めざるべき。義朝が入道を憑みて来たらんをば、為義が命に替へても助けてん。されば諸仏念衆生、衆生不念仏、父母常念子、子不念父母と説かれたれば、親の様に子は思はぬ習ひなれば、義朝一人が罪にあらず。只恨めしきは、此の事を始めよりなど知らせぬぞ。」とて、念仏百遍ばかり唱へつつ、さらに命を惜しむ気色もなく、「程経ば定めて為義が首斬るを見んとて、雑人なども立込むべし。疾く疾く斬れ。」と宣へば、鎌田次郎、太刀を抜いて後へ回りけるが、相伝の主の首斬らんこと心憂くて、涙に昏れて太刀の当所も覚えねば、持ちたる太刀を人に与ふ。其の時、「願諸同法者、臨終正念仏、見弥陀来迎往生安楽国。」と唱へて終に斬られ給ひけり。首実検の後義朝に賜はりて、孝養すべき由仰せ下されければ、正清之を請取りて円覚寺に納め、墓を建て壇を築き、卒堵婆などを造立せられて、様々の孝養をぞ致されける。
此の為義は妾多かりければ、腹々に男女の子共二十二人ぞありける。或は熊野別当の婦になし、或は住吉神主に養はせなどして、此処彼処にぞ置きける。昨日官使能景におほせて、多田蔵人大夫頼憲が、正親町富小路の家を追捕せられけるに、頼憲が郎等四五人いまだ家にありしかば、命も惜しまず散々に戦ひける間、能景が兵多く討たれ、創を被りて引退く、其の間に屋に火をかけ、煙の中にてみな自害してけり。今日二十九日、源平七十余人、首を斬られけるこそあさましけれ。
中院右大臣雅定入道、大宮大納言伊通卿、東宮大夫宗能卿、左大弁宰相顕時卿など申されけるは、昔嵯峨天皇の御時、右兵衛督仲成を誅せられしより以来、久しく死罪を停めらる。依つて一條院の御宇、長徳に内大臣伊周公、並に中納言隆家卿、花山院を射奉りしかば、罪既に斬刑に当るよし、法家の輩勘へ申ししかども.死罪一等を減じて、遠流の罪に宥めらる。今改めて死刑を行はるべきにあらず。就中故院御中陰なり、旁宥められば宜しかるべき由、各申されけれども、少納言入道信西内々申しけるは、「此の儀然るべからず。多くの兇徒を諸国へ分け遣はされば、さだめて猶兵乱の基たるべし。其の上非常の断は、人主専らにせよといふ文あり、世の中に常にあらざる事は、人主の命に従ふと見えたり。若し重ねて僻事出で来りなば、後悔何の益あらん。」と申しければ、皆斬られにけり。誠に国に死罪を行へば、海内に謀叛の者絶えずとこそ申すに、多くの人を誅せられけるこそあさましけれ。正しく弘仁元年に仲成を誅せられてより、帝王二十六代、年紀三百四十七年、絶えたる死刑を申し行ひけるこそうたてけれ。
中にも義朝に父を斬らせられし事、前代未聞の儀にあらずや。且は朝家の御あやまり、且は其の身の不覚なり。背き難き勅命に依つて、之を誅せば、忠とやせん、信とやせん。若し忠なりといはば、「忠臣は孝子の門に求む。」といへり。若し又信といはば、「信をば義に近くせよ。」といへり。義を背いて何ぞ忠信に従はん。さらば本文に曰く、「君は至つて尊けれども.至つて親しからず。母は至つて親しけれども、至つて尊からず。父のみ尊親の義を兼ねたり。」と。知んぬ、母よりも尊く、君よりも親しきは只父なり。如何ぞ之を殺さんや。孝をば父に資り忠をば君に資る。若し忠を面にして父を殺さんは.不孝の大逆、不義の至極なり。されば、「百行の中には、孝行を以て先とす。」といふ。又、「三千の刑は不孝より大いなるはなし。」といへり。其の上大賢の孟、喩を取つて曰く、虞舜の天子たりし時、其の父瞽膄人を殺害することあらんに、時の大理なれば、皋陶之を捕へて罪を奏せん時、舜は如何し給ふべき。孝行無双なるを以て天下を保てり。政道正直なるを舜の徳といふ。然るに正しく大犯を致せる者を、父とて助けば、政道を穢さん。天下は是れ一人の天下にあらず、若し政道を正しくして刑を行はば、又忽ちに孝行の道に背かん。明王は孝を以て天下を治む。然れば只父を負ひて、位を捨て去らましとぞ判じける。況んや義朝の身に於てをや。誠に助けんと思はんに、などか其の道なかるベき。恩給に申し替ふるとも、縦令我が身を捨つるとも、争でか之を救はざらん。他人に仰せつけられんには、力なき次第なり。誠に義に背ける故にや、無双の大忠なりしかども、異なる勧賞もなく、結句幾程なくして、身を亡ぼしけるこそあさましけれ。
(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))
コメント