巻之三

   義朝幼少の弟悉く失はるる事

 さる程に内裏より.即ち義朝を召され、蔵人右少弁資長を以て仰せ下されけるは、「汝が弟共のいまだ多くあるなるを.縦令幼くとも、女の外は皆尋ねて失ふべし。」となり。宿所に帰つて秦野次郎を召して宣ひけるは、「あまりに不便なれども、勅諚なれば力なし。母か乳母か懐きて、山林に逃げ隠れたらんは如何せん。六條堀河の宿所にある当腹の四人をばすかし出して、相構へて道の程侘しめずして、船岡にて失へ。」とぞ聞えける。延景難儀の御使かなと、心憂く思へども、主命なれば力なし。涙を袖に収めつつ、泣く泣く輿を舁かせて、彼の宿所へぞ赴きける。
 母上は折節物詣での間なり。君達は皆おはしけり。兄をば乙若とて十三、次は亀若とて十一、鶴若は九つ、天王は七つなり。此の人々延景を見つけて、嬉しげにこそありけれ。秦野次郎、「入道殿の御使に参つて候。殿は十七日に、比叡山にて御様を替へさせ給ひて、頭殿の御許へ入らせ給ひしを、世間もいまだつつましとて、北山雲林院と申す所に忍びて渡らせたまひ候が、君達の御事覚束なく思召し候間、御見参に入れ奉らんために、具し奉つて参らんとて、御迎へにまゐつて候。」と申せば、乙若出で合ひて、「誠に様替へておはしますとは聞きたれども、軍の後は未だ御姿を見奉らねば、誰々も皆恋しくこそ思ひ侍れ。」とて、我先にと.輿に乗られけるこそ哀れなれ。之を冥途の使とも知らずして、各輿共に向ひつつ、「急げや急げ。」と進みける。羊の歩み近づくを知らざりけるこそはかなけれ。
 大宮を上りに、船岡山へぞ行きたりける。峰より東なる川に輿舁き居ゑて、如何せましと思ふ所に、七つになる天王走り出でて、「父は何処におはしますぞ。」と問ひ給へば、延景涙を流して、暫しは物も申さざりしが、良あつて、「今は何をか隠し進らすべき。大殿は頭殿の御承りにて、昨日の暁斬られさせ給ひ候ひき。御舎兄達も、八郎御曹司の外は、四郎左衛門殿より九郎殿まで、五人ながら夜べ此の表に見えて候山本にて斬り奉り候ひぬ。君達をも失ひ申すべきにて候、相構へて賺し出し進らせて、侘しめ奉らぬ様にと仰せ附けられ候間、入道殿の御使とは申し侍るなり。思召す事候はば、延景に仰せ置かせ給ひて、皆御念仏候べし。」と申せば、四人の人々之を聞き、皆輿より下り給ふ。
 九つになる鶴若殿、「下野殿へ使を遣はして、いかに我等をば失ひ給ふぞ。四人を助け置き給はば、郎等百騎にも勝りなんずるものを。此のよし申さばや。」と宣へば、十一歳になる亀若、「誠に今一度人を遣はして、慥かに聞かばや。」と申されける処に、乙若殿生年十三なるが、「あな心憂の者共のいひがひなさや。我等が家に生るる者は、幼けれども心は猛しとこそ申すに、かく不覚なる事を宣ふものかな。世の理をも弁へ、身の行末をも思ひ給はば、六十になり給ふ父の、病気に依つて出家遁世して、憑みて来り給ふをだに斬る程の不当人の、まして我々を助け給ふ事あらじ。哀れ儚き事し給ふ頭殿かな。之は清盛が和讒にてぞあるらん。多くの弟を失ひ果てて只一人になして後、事の次に滅ぼさんとぞ計らふらんを暁らず、只今我が身も失せ給はんこそ悲しけれ。二三年をも過し給はば、幼かりしかども乙若が、船岡にて能くいひしものをと、汝等も思ひ合はせんずるぞとよ。偖も下野殿討たれ給ひて後、忽ちに源氏の世絶えなん事こそ口惜しけれ。」とて、三人の弟達にも、「な歎き給ひそ。父も討たれ給ひぬ、誰か助け坐さん。兄達も皆斬られ給ひぬ、情をも懸け給ふべき頭殿は敵なれば、今は定めて一所懸命の余地もよもあらじ。然れば命助かりたりとも、乞食流浪の身となりて、此処彼処に迷ひ行かば、あれこそ為義入道の子共よと、人人に指をさされんは、家のためにも恥辱なり。父恋しくば、只西に向つて南無阿弥陀仏と唱へて、西方極楽に往生し、父御前と一つ蓮に生れ合ひ奉らんと思ふべし。」と、おとなしやかに宣へば、三人の君達、各西に向つて手を合はせ、礼拝しけるぞ哀れなる。之を見て五十余人の兵も、皆袖をぞ濡らしける。
 此の君達に各一人づつ、傅共附きたりけり。内記平太は天王殿の傅、吉田次郎は亀若、佐野源八は鶴若、原後藤次は乙若殿の傅なり。差しよつて髪結ひ挙げ、汗拭ひなどしけるが、年来日来宮仕へ、旦暮に撫ではだけ奉りて、只今を限りと思ひける心どもこそ悲しけれ。されば声を掲げて叫ぶばかりにありけれども、幼き人々を泣かせじと、抑ふる袖の間よりも、余る涙の色深く、つつむ気色も顕はれて、思ひ遣るさへあはれなり。乙若延景に向つて、「我こそ先にと思へども、あれらが幼心に、おぢ恐れんも無慙なり。又いふべき事も侍れば、彼等を先に立てばや。」と宜ひければ、秦野次郎太刀を抜いて、後へ回りければ、傅ども、「御目を塞がせ給へ。」と申して皆のきにけり。即ち三人の首前にぞ落ちにける。乙若之を見給ひて、少しも騒がず、「いしう仕りつるものかな。我をもさこそ斬らんずらめ。偖あれは如何に。」と宣へば、ほかゐを持たせて参りたり。手づから此の首共の血の著きたるを押拭ひ、髪掻き撫で、「あはれ無慙の者どもや、かほどに果報少く生れけん。ただ今死ぬる命より、母御前の聞召し歎き給はんその事を、かねて思ふぞたとへなき。乙若は命を惜しみてや、後に斬られけると人いはんずらん、全く其の儀にてはなし。斯様の事をいはんに附けても、又我が斬られんを見んに附けても、泣き止まりたる幼き者の、又泣かんも心苦しくていはぬなり。母御前の今朝八幡へ詣で給ふに、我も参らんと申せば、皆参らんといへば、具せば皆こそ具せめ、具せずば一人も具せじ、片恨みにとて、我等が寝たる間に詣で給ひしが、下向にてこそ尋ね給ふらめ。我等斯かるべしとも知らざりしかば、思ふ事をも申し置かず、形見をも進らせず、只入道殿の呼び給ふと聞きつる嬉しさに、急ぎ輿に乗りつるばかりなり。されば之を形見に献れ。」とて、弟共の額髪を切りつつ、我が髪を具して、若し違ひもやせんずるとて、別々に裹み分けて、各其の名を書きつけて、秦野次郎に賜ひにけり。「又詞にて申さんずる様はよな、今朝御供に参りなば、終には斬られ候とも、最後の有様をば、互に見もし見え進らせ候はんずれども、中々互に心苦しき方も侍らん。御留守に別れ奉るも、一つの幸ひにてこそ侍れ。此の十年余の間は、仮初に立離れ進らする事も侍らぬに、最後の時しも御見参に入らねば、さこそ御心に懸りはべるらめなれども、且は八幡の御計らひかと思召して、いたくな歎かせおはしまし候ひそ。親子は一世の契りと申せども、来世は必ず一つ蓮に参り逢ふ様に、御念仏候べし。」とて、「今は此等が待遠なるらん、疾く疾く。」とて、三人の死骸の中へ分け入つて、西に向ひ念仏三十遍ばかり申されければ、首は前へぞ落ちにける。四人の傅共急ぎ走り寄り、首もなき身を抱きつつ、天に仰ぎ地に伏して、喚き叫ぶも理なり。誠に涙と血と相和して、流るるを見る悲しみなり。
 内記平太は直垂の紐を解いて、天王殿の身を我が膚に当てて申しけるは、「此の君を手馴れ奉りしより後、一日片時も離れ進らする事なし。我が身の年の積る事をば思はず、早く人とならせ給へかしと、明暮思ひて育み進らせ、月日の如くに仰ぎつるに、只今斯かる目を見る事の心憂さよ。常は我が膝の上に居給ひて、髭を撫でて、いつか人となりて、国をも荘をも儲けて、知らせんずらんと宣ひしものを、うたたねの寝覚にも、内記内記と呼ぶ御声.耳の底に留まり、只今の御姿幻にかげろへば、更に忘るべしとも覚えず。是れより帰りて命生きたらば、千年万年を経ペきや。死出の山.三途の河をば、誰かは介錯申すべき。恐ろしく思召さんに付けても、先づ我をこそ尋ね給はめ。生きて思ふも苦しきに、主の御供仕らん。」といひもはてず、腰の刀を披く儘に、腹掻切つて失せにける。恪勤の二人ありけるも、「幼くおはしまししかども、情深くおはしつるものを、今は誰をか主と憑むベき」とて、刺し違へて二人ながら死ににけり。此等六人が志、類なしとぞ申しける。同じく死する道なれども、合戦の場に出でて、主君と共に討死し、腹を切るは常の習ひなれども、斯かる例はいまだなしとて、誉めぬ人こそなかりけれ。此の首ども渡すに及ばず、余りに父を恋しがりければとて、円覚寺へ送りて、入道の墓の前にぞ埋めける。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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