左大臣殿の御死骸実検の事

 さる程に二十一日午の刻許りに、瀧口三人官使一人南都へ赴き、左府の死骸を実検す。瀧口は資俊、師光、能盛なり。官使は左史生中原師信なり。其の所は、大和の国添上郡河上村の般若野の五三昧なり。道より東へ一町許り入りて、実成得業が墓の東に新しき墓ありけるを、掘り発して見れば、骨はいまだ相連なりて、肉少しありけれども、其の形とも見え分かず。其の儘道の辺に打捨てて帰りにける。
 二十二日左大臣の君達四人、嫡男右大将兼長、次男中納言師長、同年にて倶に十九歳なり。三男左中将隆長十六歳、四男範長禅師十五にぞなり給ふ。各心を一にして祖父富家殿に申されけるは、「大臣も坐さず、何の憑みあつてか斯くて侍らん。今度の罪聊かも宥めらるべからずと承る。殊に大臣も罪深くましませば、其の子共皆死罪にこそ行はれんずらめ。命のあらん事も、いつを限りとも知らねども.身の暇を賜はつて出家を遂げ、若し露の命消えやらずば、一向に真の道に入つて、先考の御菩提をも弔ひ奉らん。昨日勅使大臣の御墓に向つて、死骸を掘り発して、路頭に捨て置くと云々。心憂しとも申す許りなし。亡父是れ程の目を見給ふに、其の子として、人に二度面を合はすべしとも覚えず。」と宣へば入道殿は、「明日の事をば知らねども、只今までもかくておはしますれば、それを憑みてこそ侍るに、皆々左様になり給はば、如何に心を慰めん。世には不思議の事もこそあれ、如何なる有様にても、今一度朝廷に仕へて、父の跡を継がんとは思さぬか。斜ならず此の世に執深かりし人なれば、なき跡までもさこそは思はめ。さすが死罪まではよもあらじ。縦令遠国、遥かの島に遷されたりとも.運命あらば計らざる外の事もありなん。漢の孝宣皇帝は禁獄せられしかども、帝運あれば獄より出でて位に即きにけり。右大臣豊成、太宰帥に遷されたりけれども、帰京を許されて、再び丞相の位に至れり。斯かる例もあるぞかし。春日大明神捨てさせ給はずば、などか憑みもなからん。」と仰せられもあへず泣き給ふこそ哀れなる。然れば此の御心を破らんも不孝とや思しけん、左右なく出家もし給はず。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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