新院御遷幸の事 並 重仁親王の御事

 さる程に今日蔵人右少弁資長、綸言を承りて仁和寺へ参り.明くる日二十三日、新院を讃岐の国へ遷し奉るべき由を奏聞す。院も都を出でさせ給ふべき由をば、内々聞召しけれども、今日明日とは思召さざる処に、正しく勅使参りて事定まりしかば、御心細く思召しけるあまりに、かくぞ口ずさみ給ひける。
  都には今宵ばかりぞ住の江のきし道下りぬいかで罪見し
 新院の一の宮を、父のおはします時、如何様にもなし奉れと、花蔵院僧正寛暁が坊へ渡し奉る。御供には右衛門大夫章盛、左兵衛尉光重なり。僧正頻りに辞し申されけれども、勅諚背き難くして請取り奉らる。既に御出家ありしかば、年来日来東宮にも立ち、位にも即かせ給はんとこそ待ち奉るに、かく思ひの外に御飾下すことの悲しさよと、附き進らせたる女房達、泣き悲しむぞ哀れなる。此の宮は、故刑部卿忠盛朝臣御めのとにてありしかば、清盛頼盛は見放し奉るまじけれども、余所になるこそ哀れなれ。
 明くれば二十三日、未だ夜深きに仁和寺を出でさせ給ふ。美濃前司保成朝臣の車をめさる。佐渡式部大輔重成が郎等共、御車を差寄せて、先づ女房達三人を.御車に乗せ奉る。其の後仙院召されければ、女房達声を調へて泣き悲しみ給ふ。誠に日来の御幸には、廂の車を庁官などの寄せしかば、公卿殿上人庭上に下り立ち、御随身左右に列なり、官人番長前後に従ひしに、是れは怪しげなる男、或は甲冑を鎧うたる兵なれば、目も昏れ心も迷ひて、泣き悲しむも理なり。夜もほのぼのと明け行けば、鳥羽殿を過ぎさせ給ふとて、重成を召されて、「田中殿へ参りて、故院の御墓所を拝み、今を限りの暇をも申さんと思ふは如何に。」と仰せ下されければ、重成畏まつて、「安き御事にて候へ共.宣旨の刻限移り候ひなば、後勘如何。」と恐れ申しければ、「誠に汝が痛み申すも理なり。さらば安楽寿院の方へ御車を向けて、懸けはづすべし。」と仰せければ、即ち牛をはづし、西の方へ押し向け奉れば、只御涙にむせばせ給ふよそほひのみぞ聞えける。之を承る警固の武士共も、皆鎧の
袖をぞ濡らしける。暫くあつて、鳥羽の南の門へ遣り出す。国司季行朝臣、御船並に武士両三人を設けて、草津にて御船に乗せ奉る。重成も讃岐まで御供仕るべかりしを、固く辞し申して罷り帰れば、「汝が此の程情ありつるに、即ち罷り留まれば、今日より弥御心細くこそ思召せ。光弘法師未だあらば、事の由を申して、追つて参るべしと申せ。かへすがへす此の程の情こそ忘れ難く思召せ。」と、御諚ありけるこそ忝けれ。勅諚なればにや、御船に召されて後.御屋形の戸には外より鎖さしてけり。之を見奉る者は申すに及ばず、怪しの賤女猛き武士までも、袖をしぼらぬはなかりけり。
 道すがらもはかばかしく御膳も進らず、打解けて御寝もならず、御歎きに沈み給へば、御命を保たせ給ふべしとも覚えず。月日の光をも御覧ぜず、只烈しき風、暴き浪の音ばかり、御耳の底に留まりける。「此処は須磨の関。」と申せば、行平中納言近流せられて、「藻塩たれつつ。」と詠じけん所にこそと思召し、彼処は淡路の国と聞召せば.大炊廃帝の遷されて思ひに堪へず、幾程なく失せ給ひけん島にこそと、昔は余所に聞召ししかども、今は御身の上に思召すこそ哀れなれ。急がぬ日数の積るにも、都の遠ざかり行く程も思召し知られて、一の宮の御行方も、如何あらんと覚束なく、又合戦の日、白河殿の煙の中より迷ひ出でしに、女房達もいづくに在るとも聞召さねば、只生きて生を隔てたりとも、是れなるらんとぞ思召す。異国を聞けば、昌邑王賀は故国に帰り、玄宗皇帝は蜀山に遷さる。我が国を思へば、安康天皇は継子に殺され、崇峻天皇は逆臣に犯され給ひき。十善の君万乗の主、先世の宿業をば遁れ給はずと思召し、慰む端とぞなりにける。
 讃岐に著かせ給ひしかども、国司いまだ御所を造り出されざれば、当国の在庁散位高遠といふ者の造りたる一宇の堂、松山といふ所にあるにぞ入れ進らせける。されば事に触れて、都を恋しく思召しければ、かくなん、
  浜千鳥あとは都にかよへども身はまつ山に音をのみぞなく
 新院仁和寺を出でさせ給ふ御跡に、不思議の事ありけり。清盛義朝、洛中にて合戦すべしとて、源平両家の郎等、白旗赤旗をさして、東西南北へ馳せ違ふ。今度の合戦思ひの外早速に落居して、諸人安堵の思ひをなして、隠し置きける物ども、運び返す処に、又此の物騒出で来れば、「今日こそ誠に世の失せ果てなんよ。」と、上下周章て騒ぐ。大臣公卿、馬車にて内裏へ馳せ参り給へば、主上驚き思召して、両方へ勅使を立てられて曰く、「各存ずる処あらば、奏聞を経て聖断を仰ぐべき処に、両人忽ちに合戦に及ばんずる條、天聴に及ぶ。仔細何事ぞ。早く狼藉を止むべし。」と云々。両人共に、跡形なき由をぞ勅答申さる。
 其の日新院の中御門、東洞院の御所に建てられたる文庫どもを、出納知兼を以て検知せらる。或文庫の中に手箱一合あり、御封を附けられて御秘蔵と覚えたり。依つて知兼之を持ちて参内す。即ち叡覧あるに、御夢想の記なり。其の中に度々重祚の告あり。其の度ごとに御立願あり。総じて甚深奇異の事どもを註し置かせ給へり。然るを今披露あり。いかばかり口惜しく思召すらんと覚えたり。
 重祚の御事は、我が朝には斉明、称徳二代の先蹤あるか。朱雀、白河の両院も、終に御素意を遂げ給はず。御意に深く懸けられたればにや、御夢にも常に御覧じけん。朱雀院は母后の御勧めに依つて、御弟天暦の帝に譲り奉られしが、御後悔ありて、復り即かせ給はん由、方々へ御祈りどもありけり。伊勢へ公卿勅使など立てられけり。白河院も其の志ましまして、御出家はありしかども、法名をば付かせ給はず。浄見腹天皇の先蹤などを思召しけるにや。白河院重祚の御志深かりけるゆゑ、院中の御政務は、一向此の御代より始まれり。後三條の御時までは、譲国の後、院中にて正しく御政務はなかりしなり。されば院中の古き例に、白河鳥羽を申すなり。脱屣と既に申す上は、古き屣の足に懸りて、捨てまほしきを捨つる如くに思召すべきに、結句新帝に譲り給ひて後、又重祚の御望みあり、それ叶はねば、院中にて御政務ある事、都て道理にも背き、王者の法にも違へり。かやうに朝儀廃るれば、斯かる乱も出で来るなり。
 都て今度の合戦は、前代未聞と申すにや。主上上皇御連枝なり、関白左府も御兄弟、武士の大将為義義朝も父子なり。此の兵乱の源も只故院、后の御勧めに依つて、不義の御受禅共ありし故なり。先づ脱屣の後、猶其の末まで御計らひあらんには、当今は誰に譲りましまさん。帝王と申すに付けても、白虎通には、天地に合ふ人をば帝と称し、仁義に合ふ人をば王といへり。正法念経には、初め胎中に宿り給ふ時より諸天之を守護す。三十三天其の徳を別つて与へ給ふ故に、天子と称すといへり。彼の経には三十七法具足せるを国王とす。常に恵み施しを行ひて惜しまず、柔和にして怒らず.正直に理りて偏頗なし、古き道を正しくして捨てず、能く人の好悪を知り、能く世の理乱を鑑み、貪欲なく邪見なく、一切を憐み十善を行ず、此の説あり。されば聊か御私なく天下を治めたまふべきに、愛子に溺れて庶を捨て、后妃に迷ひて弟を用ゐる、国の乱るる基なり。此を以て書に曰く、「聖人の礼をなす、其の嫡を尊みて世を継がしむるにあり。太子賤しくして庶子を尊ぶは乱の始めなり。必ず危亡に至る。」と、又伝に曰く、「后並んで嫡を等しうするは國の乱るる基。」と云々。されば后多くして、同年の太子数多坐さば、天下必ず乱るべきにや。詩には艶女を貶り、書には哲婦を諫めたり。王者の后を立て給ふ道、故あるべきなり。后と申すは、位を宮闈に正しくして、体を君王に等しくす。されば三夫人、
九嬪、二十七世婦、八十一女御ありて、内、君を助け奉る。依つて詩に曰く、「関々たる雎鳩君子の徳を助く。」と。声和かなる雎鳩の、河の洲にありて楽しめる体、幽深として其の品あるが如し。后妃各関雎の徳ありて幽閑貞専なる、君子の好き類なり。此を以て天下を化し、夫婦を別ち、父子を親しんじ、君臣に礼ありて、朝廷正しとぞ申し伝へける。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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