左府の君達 並 謀叛人各遠流の事
同じき二十五日、人々遠流の由宣下せらる。左京大夫入道は常陸国、近江中将成雅は越後国、盛憲入道は佐渡国、正弘入道は陸奥国とぞ聞えける。左大臣の二男中納言師長、日数経ばさりともと思召しける処に、配流の事一定と聞き給ひて、今をかぎりの由、入道殿へ御消息を進らせられけり。
一日別涙を抑へながら、御所を罷り出るの後、不審弥多し。有余を謝すと雖も、実に瓮を蒙て壁に向ふが如し。殿下八旬の暮年に及び、猶九重の花洛に留り、師長一面の琵琶を提げて遥に万里の雲路に去る。厳顔に近づく事、又何の日ぞ。暗夢に非んば其期を知らず候。倩此事を思ふ毎に、落涙空しく千行。縦椿葉の陰再び改るとも、恋慕の情休み難し。手振ひ心迷ひ、懐を述ぶる能はざるのみ。師長幼少より今に至るまで、絃歌文筆の芸に携はる。是帝辺に仕へ奉りて、忠節を致んが為なり。而るに忽ち此殃に逢ひ、長く其の思を断ち畢んぬ。宿運の然らしむるを知ると雖も、愁抑へ難きに耐へず悲しきかな。更に紙上に尽し難く、只賢察を垂れしめたまふべく候。又雲外淵底に去るの後.不審無きの程、仰せ給ふべきの由、言上せしめ給ふべし。書状狼藉、高覧に及ぶ莫く、私に一見の後、早破早破、外見に及ぶべからず。恐惶謹言。
七月晦日 山寺隠士師長上
進上 蔵人大夫殿へ
とぞ書かれける。
八月二日、左大臣殿の息右大将兼長を始めとして、四人南都を出でて、山城の国稲八間といふ所へ移りて、是れより各配所へ赴かる。死罪を宥められて、遠流になりぬるは悦びなれども、猶行末も覚束なかりけり。検非違使惟繁、資能二人追立の使にて、兄弟四人各重服の装束にて、御馬をば下部とりてければ、押取りにしたる鞍なれども、うたてげなるにぞ乗り給ひける。見る人目も当てられざりけり。
太政官符 左 京 職
応に位記を追ふべき事
正二位藤原朝臣兼長 出 雲 国
従二位藤原朝臣師長 土 佐 国
正三位藤原朝臣教長 常 陸 国
右正二位行権中納言兼左兵衛督藤原朝臣忠雅宣し勅を奉ず。件等の人事に坐し件の国々に配流す。宜しく彼職に仰せて位記を追はしむべき者、職宜しく承知すべし。宣に仍て之を行へ。符到らば奉行せよ。
保元元年八月三日
修理左宮城使正五位下行左大史兼算博士
左弁官正五位下藤原朝臣
太政官符 治 部 省
応に大法師範長を還俗せしむべき事
応に大法師範長を還俗せしむべき事
正三位行権中納言兼左兵衛督藤原朝臣忠雅宣し勅を奉ず。範長事に坐し安芸国に配流す。宜しく彼省に仰せて先還俗せしむべく、省宜しく承知すべし。宣に依て之を行へ。符到らば奉行せよ。
保元元年八月三日
修理左宮城使正五位下行左大史兼算博士
左弁官正五位下藤原朝臣
此の範長禅師は、配所安芸国とぞ聞えし。各故郷をば今日を限りと立別れ、東西南北へ左遷に赴き給ふ、心の中こそ哀れなれ。師長は大物といふ所に留まり給ふに、源惟守といふ者、此の程琵琶を習ひ奉りて、常に参りけるが、最後の御送りとて、是れまで参つて終夜秘曲を調べ、「何処の浦までも参るべく候へども、武士許し侍らねば罷り帰り候。御余波惜しく候。」と申せば、「汝情ありて、是れまで来る事こそありがたけれ。」とて、青海波の秘曲を授け給ひて、其の譜の奥にかくぞ遊ばされける。
教へおくその言の葉を忘るなよ身は青海の波にしづむと
惟守袖をひろげて之を賜ひつつ、涙に咽びて立ちにけり。
此の外国々へ流さるる人、十四人とぞ聞えし。禅閤は、左府の御形見の君達にも、皆々別れ給へば、別涙抑へ難くて、斯かる物思ひに、消えやらぬ露の命も中々恨めしく、「生きて物を思はんよりは、只春日大明神、命をめせ。」と申させ給ふぞ、せめての御事とあはれなる。
(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))
注:原文中、師長の書状と太政官符2通はいずれも漢文です。そのままのUPは至難のため、訓点に従って書き下しました。その際、送り仮名の欠落している個所について(多数あるため箇所については省略)は、適宜補って書き下してあります。
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