大相国上洛の事

 さる程に八月八日、宇治の大相国、富家殿に帰り住ませ給ふべきよし、内々申させ給へども、天気ゆりず。剰へ南都にて悪党を催し給ひけるとて、配所へ遣はさるべき由宣下せられければ、信西、関白殿へ此の由申せば、殿下父を配所へ遣はして、其の子摂籙を仕らん事、面目なき由仰せければ、信西此の由を奏聞す。「関白左様に申されば、さながらこそあらめ。」と仰せなりければ、禅閣此の由を聞召して、「関白、入道が事を是れ程に思ひけるものを、何の故に日来快からず思ひつらん。」とて、御後悔ありけり。然れども猶世を恐れさせ給ひて、内裏へ申させ給ひけるは、「若し朝家の御為野心を存ぜば、天神地祇の冥罰を蒙り、当来には三世諸仏の利益に洩るべし。」とぞ書かせ給ひける。南都に御座在りては悪しかりなんとて、関白殿より御迎へに人を進らせられければ、御所労とて出で給はず。猶世をあやぶませ給ふ故なり。依つて殿下より、御子左衛門督基実を御使として、委しく申させ給ひければ、其の時入道殿南都を出で給ひて、知足院に住ませ給ふ。御年八十四とぞ聞えける。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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