為朝生捕り流罪に処せらるる事

 さる程に、「為朝を搦めて参りたらん者には、不次の賞あるべし。」と、宣下ありけるに、八郎、近江国輪田といふ所に隠れ居て、郎等一人法師になして乞食させて日を送りけり。筑紫へ下るべき支度しけるが、平家の侍筑後守家貞、大勢にて上りければ、其の程昼は深山に入りて身を隠し、夜は里に出でて食事を営みけるが、有漏の身なれば病み出して、灸治など多くして、温疾大切の間、古き湯屋を借りて、常におり湯をぞしける。
 爰に佐渡兵衛重貞といふ者、宣旨を蒙りて、国中を尋ね求めける処に、ある者申しけるは、「此の程此の湯屋に居る者こそ怪しき人なれ。大男の怖ろしげなるが、さすがに尋常げなり。歳は二十計りなるが額に創あり、由々しく人に忍ぶと覚えたり。」と語れば、九月二日湯屋に下りたる時、三十余騎にて押寄せてけり。為朝真裸にて、朸を以て数多の者をば打伏せたれども、大勢に取籠められて.いひがひなく搦められにけり。季実判官請取りて二條を西へ渡す。白き水干袴に赤き帷子を著せ、髻に白櫛をぞ指したりける。北の陣にて叡覧あり。公卿殿上人は申すに及ばず、見物の者市をなしけり。面の創は合戦の日、正清に射られたりとぞ聞えける。既に誅せらるべかりしが、「以前の事は、合戦の時節なれば力なし。事既に違期せり。未だ御覧ぜられぬ者の体なり。且は末代にあり難き勇士なり。暫く命を助けて、遠流せらるべし。」と議定ありしかば、流罪に定まりぬ。但し息災にては後悪しかりなんとて、腕を抜きて、伊豆の大島へ流されけり。かくて五十余日して、肩を繕ひて後は、少し弱くなりたれども、矢束を引く事今の二つ伏引き増したれば、物の切るる事昔に劣らず。為朝宣ひけるは、「我清和天皇の後胤として、八幡太郎の孫なり。争でか先祖をば失ふべき。是れこそ公家より賜はりたる領なれ。」とて、大島を管領するのみならず、都て五島を打従へたり。是れは伊豆国の住人狩野介茂光が領なれども、聊かも年貢をも出さず。島の代官三郎大夫忠重といふ者の婿になりてけり。茂光は、「上臈婿取りて、我を我ともせず。」と恨みければ、隠して運送をなすを、為朝聞き附けて.舅忠重を喚び寄せて、此の條奇怪なりといふ上、勇士なれば、始終我が為悪しかりなんとや思ひけん、左右の指を三つづつ切りて捨ててけり。其の外弓矢を取りて焼き捨て、都て島中に我が郎等の外.弓矢を置かざりけり。昔の兵ども尋ね下りて属き従ひしかば、威勢漸く盛んにして過ぎ行く程に、十年にぞなりにける。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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