為朝鬼が島に渡る事 並 最後の事
さる程に永万元年三月に磯に出でて遊びけるに、白鷺青鷺二つ連れて、沖の方へ飛び行くを見て、「鷲だに一羽に千里を飛ぶといふに、況んや鷺は一二里にはよも過ぎじ。此の鳥の飛ぶ様は、定めて島ぞあらん。追つて見ん。」といふ儘に、早船に乗つて馳せて行くに、日も暮れ夜にもなりければ、月を篝に漕ぎ行けば、曙に既に島影見えければ、漕ぎ寄せたれども、荒磯にて波高く岩岨しくて、船を寄すべき様もなし。押回らして見給ふに、乾の方より小河ぞ流れ出でたりける。御曹司は西国にて、船には能く調練せられたり、船をも損せず押上りて見給へば、長一丈ある大童の、髪は空様に取上げたるが、身には毛ひしと生ひて、色黒く牛の如くなるが、刀を右に指して多く出でたり。怖ろしなども言ふ許りなし。申す詞も聞き知らざれば、大方推してあひしらふ。「日本の人爰に島ありとは知らねば態とよも渡らじ。風に放されたるらん。昔より悪風に遇うて、此の島に来る者生きて帰る事なし。荒磯なれば、自ら来る船は波に砕かる。此の島には船もなければ、乗りて帰る事なし。食物なければ忽ちに命尽きぬ。若し船あらば、粮尽きざる前に、早く本国に帰るべし。」とぞ申しける。郎等共は皆興を醒まして思ひけれども、為朝は少しも騒がず、「磯に船を置きたればこそ波にも砕かるれ。高く引上げよ。」とて、遥かの上にぞ引上げける。
さて島を回りて見給ふに、田もなし、畠もなし、菓子もなく、絹綿もなし。「汝等何を以て食事とする。」と問へば、「魚鳥。」と答ふ。綱引く体見えず、釣する船もなし。又はがも立てず、黏縄も引かず。「如何にして魚鳥を取るぞ。」と問へば、「我等が果報にや、魚は自然と打寄せらるるを拾ひ取り.鳥をば穴を掘りて、領知別ちて其の穴に入り、身を隠し、声をまねびて呼べば、其の声に附きて鳥多く飛び入るを、穴の口を塞ぎて、闇取にするなり。」といふ。実にも見れば鳥穴多し、其の鳥の勢は鵯程なり。為朝これを見給ひて、件の大鏑にて、木にあるを射落し、空を翔るを射殺しなどし給へば、島の者共舌を振うておぢ恐る。「汝等も我に従はざれば、此の如く射殺すべし。」と宣へば、皆平伏して従ひけり。身に着る物は網の如くなる太布なり。此の布を面々の家々より多く持ち出でて、前に積み置きけり。島の名を問ひ給へば、「鬼が島」と申す。「然れば汝等は鬼の子孫か。」「さん候。」「さては聞ゆる宝あらば取り出せよ、見ん。」と宣へば、「昔正しく鬼神なりし時は隠蓑、隠笠、浮履、剣などいふ宝ありけり。其の比は船なけれども、他国へも渡りて、日食人の牲をも取りけり。今は果報尽きて宝も失せ、形も人になりて.他国へ行くことも叶はず。」といふ。「さらば島の名を改めん。」とて、太き葦多く生ひたれば、葦島と名附けける。此の島具して七島知行す。之を八丈島の脇島と定めて、年貢を運送すべきよしを申すに、「船なくして如何すべき。」と歎く間、毎年一度船を遣はすべき由約束してけり。但し今渡りたる験にとて、件の大童一人具して帰り給ふ。
大島の者、「余りに物荒く挙動ひ給へば、龍神八部に捕られて失せつらん。」と悦び思ふ処に、事故なく帰り給ふのみならず、剰へ怖ろしげなる鬼童を相具して来りたれば、国人弥怖ぢ恐る。此の鬼童の気色を国人に見せんとや、常に伊豆の国府へ其の事となく遣はしけり。然れば国人、鬼神の島へわたつて、「鬼を捕へて郎等とし.人を食ひ殺させらるべし。」と、怖ぢ合へる事斜ならず。されば為朝も猶奢る心や出で来けん。然れば国人も、「斯くては如何なる謀叛か起し給はんずらん。」など申しけるを、狩野介伝へ聞きて、高倉院の御宇嘉応二年春の頃、京上りして、此の由を奏聞し、茂光が領地を悉く押領し、剰へ鬼が島へ渡り、鬼神を奴として召仕ひ、人民を虐ぐる由を訟へ申しければ、後白河院驚き聞召して.当国並に武蔵相模の勢を催し発向すべき由、宣旨をなされければ、茂光に相従ふ兵誰々ぞ。伊藤.北條、宇佐美平太、同じき平次、加藤太、同じき加藤次、沢六郎、新田四郎、藤内遠景を始めとして五百余騎、兵船二十余艘にて、嘉応二年四月下旬に大島の館へ押寄せたり。御曹司は思ひもよらず、「沖の方に船の音しけるは何船ぞ、見て参れ。」と宣へば、「商人船やらん、多く連なり候。」と申せば、「よもさはあらじ。我に討手の向ふやらん。」と宣へば、案の如く兵船なり、「さては定めて大勢なるらん。縦令一万騎なりとも、打破つて落さんと思はば、一先は鬼神が向うたりとも射払ふべけれども、多く軍兵を損じ人民を悩さんも不便なり。勅命を背きて終には何の詮かあらん。去んぬる保元に勅勘を蒙りて、流罪の身となりしかども、此の十余年は当所の主となつて、心ばかりは楽しめり。其の以前も九国を管領しき。思出なきにあらず。筑紫にては菊池原田を始めとして、西国の者共は皆我が手柄の程は知りぬらん。都にては源平の軍兵、殊に武蔵相模の郎等共、我が弓勢をば知りぬらんものを。其の外の者共甲冑を鎧ひ、弓箭を帯したる許りにてこそあらんずれ、為朝に向つて弓引かん者は覚えぬものを。今都よりの大将ならば、曲平氏などこそ下るらめ。一々に射殺して海にはめんと思へども、終に叶はぬ身に、無益の罪作りて何かせん。今まで命を惜しむも、自然世も立直らば父の意趣をも遂げ、我が本望をも達せばやと思へばこそあれ。又昔年説法を聞きしに、欲知過去因、見其現在果、欲知未来果、見其現在因といへり。されば罪を作らば、必ず悪道に落つべし。然れども、武士たるもの殺業なくては叶はず。それに取つては、武の道非分の者を殺さざるなり。依つて為朝合戦する事二十余度、人の命をたつ事数を知らず。されども分の敵を討つて非分の者を討たず。鹿を殺さず鱗を漁らず、一心に地蔵菩薩を念じ奉る事二十余年なり。過去の業因に依つて、今かやうの悪身を受け、今生の悪業に依つて、来世の苦果思ひ知られたり。されば今此の罪悉く懺悔しつ。偏に仏道を願ひて念仏を申すなり。此の上は兵一人も残るべからず、皆落ち行くべし。物具も皆龍神に奉れ。」とて、落ち行く者に各形見を与ヘ、島の冠者為頼とて、九歳になりけるを喚び寄せて刺し殺す。之を見て五つになる男子、二つになる女子をば、母抱きて失せにければ力なし。「さりながら、矢一つ射てこそ腹をも切らめ。」とて立ち向ひ給ふが、最後の矢を手浅く射たらんも.無念なりと思案し給ふ処に、一陣の船に兵三百余人.射向の袖を差翳し、船を乗り傾けて、三町許り渚近く押寄せたり。御曹司矢比少し遠けれども大鏑を取つて番ひ、小肘の回る程引詰めてひようと放つ。水際五寸許り置いて、大船の腹をあなたへつと射通せば、両方の矢目より水入りて、船は底へぞ巻き入りける。水心ある兵は、楯掻楯に乗つて漂ふ所を、櫓櫂、弓の筈に取り附きて、並びの船へ乗り移りてぞ助かりける。為朝之を見給ひて、「保元のいにしへは、矢一筋にて二人の武者を射殺しき。嘉応の今は、一矢に多くの兵を殺し畢んぬ。南無阿弥陀仏。」とぞ申されける。今は思ふ事なしとて、内に入り、家の柱に後を当てて、腹掻き切つてぞ居たりける。
其の後は、船ども遥かに漕ぎ戻して申しけるは、「八郎殿の弓勢は、今に始めぬ事なれども、如何すべき。我等が鎧脱ぎて、船にや著する。」など、色々の支度にて程経れども差出づる敵もなければ、又懼づ懼づ船漕ぎ寄せけれども、敢て手向ひする者もなし。是れに附けても、謀りて陸にあげてぞ討たんずらんと、心に鬼を作りて、左右なく近づかず。されども波の上に日を送るべきかとて、思ひ切つて、馬の足立つ程にもなりしかば、馬共皆追ひ下して、ひたひたと打乗つて、呼いて駆け入れども、立て合ふ者の様に見え、無けれども太刀を持つ様に覚え、眼勢事柄、敵打入らんを差覗く体にぞありける。されば、かねて我真先駆けて討ち捕らんと申せし兵ども、之を見て打入る者一人もなし。全く官軍の臆病なるにもあらず、只日来人ごとに懼ぢ習ひたるいはれなり。かやうに随分の勇士共は、わろびれて進み得ず、唯外郭取回せるばかりなり。爰に加藤次景廉、自害したりと見おほせてやありけん、長刀を以て後より狙ひ寄つて、御曹司の首をぞ打落しける。依つて其の日の高名の一の筆にぞ附きたりける。
首をば同じき五月に都へ上せければ、院は二條京極に御車を立てて叡覧ある。京中の貴賤道俗群集す。此の為朝は十三にて筑紫へ下り、九国を三年に伐ち従へ、六年治めて十八歳にて都へ上り、保元の合戦に名を顕はし、二十九歳にて鬼が島へ渡り、鬼神を奴とし、一国の者恐ぢ怖るといへども、勅勘の身なれば、終に本意を遂げず、三十三にして名を天に広めけり。古より今に至るまで、此の為朝程の血気の勇者なしとぞ人申しける。
保元物語 終
(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))
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