信西出家の由来 並 南都落ちの事 附 最後の事

 さる程に通憲入道を尋ねられけれども、行方を更に知らざりけり。彼の信西と申すは、南家の博士、長門守高階経敏が猶子なり。大業も遂げず、儒官にも入れられず、重代にあらざるなりとて弁官にもならず、日向守通憲とて、何となく御前にて召使はれけるが、出家しける故は、御所へ参らんとて、鬢を梳きけるに、鬢水に面像を見れば、寸の首剣の先に懸りて、空しくなるといふ面相あり。驚き思ひける比、宿願あるに依つて熊野へまゐりけり。切目王子の御前にて、相人に行き逢ひたり。通憲を見て相して曰く、「御辺は諸道の才人かな。ただし寸の首剣の先に懸つて、露命を草上にさらすといふ相のあるは如何に。」といひて、一々に相しけるが、行末は知らず、こしかたは何事も違はざりければ、通憲も「さ思ふぞ。」とて歎きけるが、「それをば如何にして遁るべき。」といふに、「いざ出家してや遁れんずらん。それも七旬に余らば如何あらん。」とぞいふ。さてこそ下向して御前へまゐり、「出家の志候が、日向入道と呼ばれんは、無下にうたてしう覚え候、少納言を御ゆるし蒙り候はばや。」と申しければ、「少納言は、一の人もなりなどして、左右なくとり下さぬ官なり、如何あらん。」と仰せられけるを、様々に申して御許されを蒙り、軈て出家して、少納言入道信西とぞいひける。子ども或は中少将に至り、或は七弁に相並ばせて、ゆゆしかりしが、終に墨染の袖に身を替へても、露命を野辺の草に置きかねしは、咋日の楽しみ今日の悲しみ、諸行無常は唯目前に顕はれたり。吉凶は糾へる縄の如しと云ふぞ理なる。
 信西九日午の刻に、白虹日を貫くといふ天変を見て、今夜御所へ夜討入るべしとは知りたりけるにや、此の様申し入れんとて、院の御所へ参りたれば、折節御遊にて子共皆御前に伺候したりしかば、其の興を醒し進らせんも無骨なれば、或女房に仔細を申し置きて罷り出でにけり。宿所に帰り、紀伊二位に、「斯かる事あり、子共にも知らせ給へ。信西は思ふ旨あつて、奈良の方へ行くなり。」といひければ、尼公も同じ道にと歎かるれども、やうやうにこしらへ留めて、侍四人相具し、秘蔵せられたる桃花毛の馬に打乗りて、舎人成沢を召具し、南都の方へ落ちられけるが、宇治路へかかり、田原が奥、大道寺といふ所領にぞ行きにける。
 石堂川の後、信楽の峰を過ぎ、遥か分け入るに又天変あり、木星寿命豕にあり、大伯経典に侵せる時は、忠臣君に代り奉るといふ天変なり。信西大いに驚き、本より天文淵源を究めたりければ、自ら之を考ふるに、強者弱く弱者強しといふ文なり。是君奢る時は臣弱く、臣奢る時は君弱くなるといへり。今、臣奢つて君弱くならせ給ふべし。忠臣君に替るといふは、恐らくは我なるべしと思ひて、明くる十日の朝、右衛門尉成景といふ侍を召して、「都の方に何事かある、見て帰れ。」とて差遣はす。成景馬に打乗つて馳せ行くほどに、木幡峠にて入道の舎人武沢といふ者、御所に火かけて後、禅門奈良へと聞きしかば、此の事申さんとて走りけるに行き逢ふ。然々の由を語り、「姉小路の御宿所も焼き払はれ候ひぬ。是れは右衛門督殿、左馬頭殿を語らひ、入道殿の御一門を滅ぼし給はんとの謀とこそ承り候へ。其の由を告げ進らせんとて、奈良へ参り候。」と申せば、下臈におはすところ知らせては悪しかりなんと思へば、「汝いしく参りたり。春日山の奥、しかじかの所なり。」と教へて、成景は都へ上るよしにて、田原の奥に帰り、入道に此の由を申せば、「さればこそ、信西が見たらん事は、よも違はじと覚えつるぞ。忠臣君に代り奉るとあれば、しかじ命を失つて御恩を報じ奉らんには。但し息の通はん程は、仏の御名を唱へ進らせんと思へば、其の用意せよ。」とて、穴を深く掘り、四方に板を立て双べ、入道を納れ奉り、四人の侍髻切つて、「最後の御恩には法名を賜はらん。」と各申せば、左衛門尉師光は西光、右衛門尉成景は西景、武者所師清は西清、修理進清実は西実とぞつけられける。其の後大いなる竹の節を通して、入道の口に当てて、髻を具して掘り埋む。四人の侍、墓の前にて歎きけれども、叶ふべき事ならねば、泣く泣く都へかへりけり。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「平治物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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注:原文の一部に発話を示す鍵括弧の欠落(…四人の侍髻切つて、最後の御恩には…)があり、(…四人の侍髻切つて、「最後の御恩には…)と補いました。