源氏勢汰への事
さる程に信頼卿は、此の事夢にも知らず、いつもの沈酔なれば、斯かる一大事を思ひ立ちながら、酔ひ臥して、女房共に、「爰うて彼処さすれ。」とて寝たまひけるに、越後中将成親、二十七日の曙に走りきたり、「如何にかくてはおはするぞ。行幸は他所へ成り候ひぬ、今は残り留まる卿相雲客一人も候はず。偏に御運の極めとこそ覚え候へ。」と告げられければ、信頼、「よもさはあらじものを、経宗、惟方に堅く申し含めたれば。」と宣へば、「其の人共の計らひとこそ聞え候へ。」と申されければ、急ぎ一本御書所へ参られたれども、上皇も坐さず。「まさしく暁まで御おとなひのありつるものを。」と宣へども、おはしまさず。上皇御出の時、北面の侍平右左衛尉泰頼は、骨あるものなれば、召して御寝所に置かせ給ひけるが、御まねびを違はず申しけるなり。遥かに延びさせ給ひぬらんと覚えし時、御寝所を三度拝みて出でけるなり。「かかる不思議なかりせば、泰頼程の下臈の、争でか御寝所へは参るべき。」とぞ申しける。
黒戸の御所へ参られけれども、主上も渡らせ給はず。手を打ちて走り帰り、「此の事披露なし給ひそ。」と、中将の耳にささやき給ふぞ哀れなる。さて別当を尋ねらるるもなく、新大納言もおはせねば、此の者共に出し抜かれにけりとて、大の男のふとりせめたるが、怒りに怒りて、跳り上り跳り上り陸梁せられけれども、板敷のみ響きて、跳り出せる事もなし。
別当惟方は、元来信頼卿のしたしみにて、契約深かりしかども、一日舎兄左衛門督の諫言、肝に染みて思はれければ、かやうに主上を盗み出し進らせられけり。此の人は生得勢小さくおはしければ、小別当とぞ申しける。それに信頼に与して、院内を推し籠め奉る中媒をなし、今又盗み出したてまつる中媒しければ、時の人、中小別当とぞいひける。大宮左大臣伊通公は、「此の中は中媒の中にてはあらじ、忠臣の忠にてぞあらん。光頼の諫めに依つて忽ちに過ちを改め、賢者の余薫を以て、忠臣の挙動をなせば。」とぞ宣ひける。
悪源太義平賀茂へ参りけるが、道にて此の由を聞き、急ぎ馳せ帰り、義朝に向つて、「行幸は六波羅へ、御幸は仁和寺へと承り候は如何に。」と申されければ、「されば、只今此の由聞きつれども、右衛門督の方よりも、いまだ何とも告げ知らせず。さりながら、源氏の習ひ、心替りやあるべき。籠る勢を註せや。」とて、内裏の勢をぞ註されける。大将軍には悪右衛門督信頼、子息新侍従信親、舎兄兵部権大輔基家、民部権少輔基通、弟の尾張少将信俊、其の外伏見源中納言師仲、越後中将成親、治部卿兼通、伊予前司信員、壱岐守貞知、但馬守有房、兵庫守頼政、出雲前司光保、伊賀守光基、河内守季実、子息左衛門尉季盛、一門には、先づ左馬頭義朝、嫡子鎌倉悪源太義平、次男中宮大夫進朝長、三男右兵衛佐頼朝、義朝の伯父陸奥六郎義隆、義朝の弟新宮十郎義盛、従子の佐渡式部大輔重成、平賀四郎義信。郎等には鎌田兵衛政家、後藤兵衛実基、佐々木源三秀義、熱田大宮司太郎は、義朝には小舅なれば、我が身は登らねども家子郎等差登す。三河国の住人には、重原兵衛父子。相模国には、波多野次郎義通、荒次郎義澄、山内須藤刑部丞俊通、其の子滝口俊綱。武蔵国には、長井斎藤別当実盛、岡部六弥太忠澄、猪俣小平六範綱、熊谷次郎直実、平山武者所季重、金子十郎家忠、足立右馬允遠元。上総には、介八郎弘常。常陸国には、関次郎時員。上野国には、大胡、大室、大類太郎。信濃国には、片桐小八郎大夫景重、木曽中太、弥中太、常盤井、榑、弘戸次郎。甲斐国には、井沢四郎信景を始めとして、宗徒の兵二百人、相従ふ軍兵二千余騎とぞ註されける。
六波羅の官軍寄すると聞えければ、人々物具せられけり。悪右衛門督信頼は、赤地の錦の直垂に、紫下濃の鎧に、菊の裾金物打つたるに、金作の太刀を帯き、白星の兜に鍬形打つたるを猪頚に著なし、紫宸殿の額の間に尻をかけてぞ居給ひける。生年二十七、大の男の眉目よきが、美麗の物具を著給ひたり、其の心こそ知らねども、あはれ大将やとぞ見えたりける。馬は奥州の基衡が、六戸一の馬とて秘蔵しけるを、院へ進らせけるなり。黒馬の太く逞しきが八寸余りなるに、沃懸地の金覆輪の鞍置いて、左近の桜の樹の下に、東頭に引立てたり。越後中将成親は、紺地の錦の直垂に、萌黄匂の鎧、鴛鴦の下金物打つたるに、長覆輪の太刀を帯き、龍頭の兜をぞ著けける。白芦毛なる馬に、白覆輪の鞍置いて、信頼卿の馬の南に、同じ頭に引立てたり。成親今年二十四歳、容儀事柄人に勝れてぞ見えられける。
武士の大将左馬頭義朝は、赤地の錦の直垂に、黒糸縅の鎧に、鍬形打つたる五枚兜の緒を締め、怒物作りの太刀を帯き、黒羽の矢負ひ、節巻の弓持ちて、黒桃花毛なる馬に黒鞍置かせて、日華門にぞ引立てたる。年三十七、眼ざし頰魂自余の人には替りたり。嫡子悪源太義平は生年十九歳、練色の魚綾の直垂に、八龍とて、胸板に龍を八つ打つて附けたる鎧を著て、高角の兜の緒をしめ、石切といふ太刀を帯き、石打の矢負ひ、重籐の弓持ちて、鹿毛なる馬のはやり切つたるに、鏡鞍置かせて、父の馬と同じ頭に引立てたり。次男中宮大夫進朝長は、十六歳、朽葉の直垂に、沢潟とて、沢潟縅にしたる重代の鎧に、白星の兜を著、薄緑といふ太刀を帯き、白箟に白鳥の羽にて作ぎたる矢負ひ、二所籐の弓持ちて、芦毛なる馬に白覆輪の鞍置いて、兄の馬に引添へてこそ立つたりけれ。三男右兵衛佐頼朝は十三、紺の直垂に源太が産衣といふ鎧を著、白星の兜の緒を締め、鬚切といふ太刀を帯き、十二差いたる染羽の矢負ひ、重籐の弓持ちて、栗毛なる馬に柏梟摺りたる鞍置きて、是も一所に引立てたり。
此の産衣鬚切は、源氏重代の武具の中に、殊に秘蔵の重宝なり。八幡殿の幼名を源太とぞ申しける。二歳の時、院より、「進らせよ、御覧ぜん。」と仰せを蒙り給ひて、態と鎧を縅し、袖に居ゑてぞ見参に入れられける。さてこそ源太が産衣とはつけられけれ。胸板に天照大神、正八幡大菩薩と鋳つけ進らせ、左右の袖には、藤の花の咲きかかりたる様を縅せるなり。さて髭切と申すは、八幡殿、貞任宗任を攻められし時、度々に生捕る者十人の首を打つに、皆鬚ともに切れければ、鬚切とは名づけたり。奥州の住人文寿といふ鍛冶が作なり。昔より嫡々に相伝せしかば、悪源太こそ伝へ給ふべきに。三男なれども、頼朝授かり給ひけるは、終に源氏の大将となり給ふべき験なり。兵衛佐、父義朝の方を見回して、「平家や早く向ひ候らん。人に先をせられんより、先づ六波羅へ寄せ候はん。」と申されけるは、抜群にぞ聞えし。鳳凰は卵の中にして、超境の勢ひあり、龍の子は小さしといへども、能く雨を降らすとも、かやうの事をや申すべき。
頃は平治元年十二月二十七日、辰の刻許りの事なるに、昨日の雪消えのこり、庭上は玉を敷くが如くなるに、朝日の光映徹して、物具の金物耀き渡つて、殊に優にぞ見えたりける。凡て其の事柄、天竺震旦はそも知らず、日本我が朝においては、義朝の一類に勝るべき武士は、あるべしとも見えざりけり。然るに頼政、光保、光基も、心替りして見えければ、義朝討たばやと思はれけれども、大事の前の小事、敵に利を附くる端なれば、思ひ留まり給ひけり。義朝宣ひけるは、「今度の合戦に若し打負けなば、東国へ馳せ下り、八箇国の家人を催し集めて、重ねて都に攻め上り、平氏の一類を滅さんこと、何の仔細かあるべき。」と申されしかば、此の人々皆、「保元に多くの弟共を滅ぼすのみならず、正しく父の首を刎ねし人なれば、知らず是や運の極みならん。」と、内々申されけるが、君六波羅に行幸成りぬと聞きし後は、朝敵となりなん事を悲しみて、終には皆心替りせられけるなり。されば頼政平家に加はりて後、六波羅より新手とて懸け出でけるに、義朝、「名をば源兵庫頭と呼ばれながら、言ひ甲斐なく、伊勢平氏に附き給ふものかな。御辺が弐心に依つて、当家の弓欠に瑕つきぬるこそ口惜しけれ。」と言ひ懸けし返事に、「累代弓箭の芸を失はじと、十善の君に属き奉る。御辺が信頼といふ日本一の不覚人に同意して、あやまりを改めぬこそ誠に当家の恥辱なれ。」とぞ申されける。
(底本:『日本文学大系 第十四巻』「平治物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))
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