巻之二
待賢門の事 附 信頼落つる事
さる程に、六波羅の皇居には、公卿僉議あつて清盛を召されけり。紺の直垂に黒糸縅の腹巻に、左右の籠手を差して、折烏帽子引立てて、大床に畏まる。頭中将実国を以て仰せ下されけるは、「王事盬きことなければ、逆臣滅びんこと疑ひなし。ただし適新造の内裏なり。若し回禄あらば、朝家の御大事たるべし。官軍偽りて引退かば、兇徒さだめて進み出でんか。然らば官軍を入れ替へて、内裏を守護せさせ、火災なきやうに思慮あるべし。」と仰せ下されければ、清盛畏まつて、「朝敵たる上は、逆徒の誅戮は掌の内に候間、時刻をめぐらすべからず。然れば定めて狼藉出来せんか。火失なからん條こそ、難儀の勅諚にて候へ、さりながら范蠡が呉国を覆し、張良が項羽を滅ぼししも、みな是れ智謀の致す処なれば、涯分武略を回らして、金闕無為なるやうに成敗仕るべし。」と奏して出でられにけり。
主上御坐あれば、皇居の御固めに清盛をば留めらる。大内へ向ふ人々には、大将軍は左衛門佐重盛、三河守頼盛、淡路守教盛。侍には筑後守家貞、子息左衛門尉貞能、主馬判官盛国、子息右衛門尉盛俊、与三左衛門尉景安、新藤左衛門家泰、難波次郎経房、瀬尾太郎兼康、伊藤武者景綱、館太郎貞康、同じき十郎貞景を始めとして都合其の勢三千余騎、六波羅を打出でて、賀茂河を馳せ渡し、西の河原に控へたり。左衛門佐重盛は、生年二十三、今日の軍の大将なれば、赤地の錦の直垂に、櫨の匂の鐙、蝶の下金物打つたるに、龍頭の兜の緒を締めて、小烏といふ太刀を帯き、切斑の矢負ひ、重籐の弓持ちて、黄桃花毛なる馬に柳桜摺りたる貝鞍置かせて乗り給へり。重盛宣ひけるは、「年号は平治なり。華洛は平安城なり、我等は平氏なれば、三事相応せり。敵を平らげんこと、何の疑ひかあるべき。誰か爰に樊噲、張良が勇をなさざらん。」とて、三千余騎を三手に分けて、近衛、中御門、大炊御門、大宮表へ打出でて、陽明、待賢、郁芳門へ押寄せたり。
大内には三方の門を鎖し固め、面をば開かれたり。昭明建礼の脇の小門をも、倶に開きて、大庭には馬も多く引立てたり。梅壺、桐壺、籬壺、紫宸殿の前後、東光殿の脇の壺まで、兵ひしと並み居たり。是れ皆源氏の勢なれば、白旗二十余旈打立てたり。大宮表には平家の赤旗三十余旈差揚げて、勇み進める三千余騎、一度に鬨をどつと作りければ、大内も響きわたりて夥し。鯢波に驚きて、唯今までゆゆしく見えられつる信頼卿、顔色変りて草葉の如くにて、南階を下られけるが、膝戦ひて下りかねたり。人なみなみに馬に乗らんと、引寄せさせたれども、太りせめたる大の男の、大鎧は著たり、馬は太きなり、乗り煩ふ上、主の心にも似ず、はやり切つたる逸物なれば、つと出でん出でんとしけるを、舎人七八人寄つて馬を抱へたり。放たば天へも飛びぬべし。穆王八匹の天馬の駒も、かくやと覚ゆる許りにて、乗りかね給ふ所を、侍二人つと寄つて、「疾く召し候へ。」とて押し揚げたり。余りにや押したりけん、弓手の方へ乗りこして、伏様にどうと落つ。急ぎ引起して見れば、顔に砂ひしと附き、鼻血流れて見苦しかりけり。義朝此の体を見て、日来は大将とて恐れ給ひけるが、はたと睨みて、「あの信頼といふ不覚人は臆したりな。」とて、日華門を打出でて、郁芳門へ向はれければ、信頼も鼻血押拭ひ、兎角して馬にかき乗せられ、待賢門へ向はれけるが、物の用に合ふべしとも見えざりけり。
左衛門佐重盛、五百余騎をば大宮表に残し置き、五百余騎にて押寄せて、呼ばはり給ひけるは、「此の門の大将軍は、信頼卿と見るは僻目か。かく申すは桓武天皇の苗裔、太宰大弐清盛が嫡子左衛門佐重盛、生年二十三。」と名乗り懸けければ、信頼返事にも及ばず、「それ防げ侍ども。」とて引退く。大将の引きたまふ間、防ぐ侍一人もなし。我先にと逃げければ、重盛弥勇みて大庭の椋の木の下まで攻め附けたり。義朝これを見て、「悪源太はなきか。信頼といふ大臆病人が、待賢門を早破られつるぞや。彼の敵追ひ出せ。」と宣ひければ、「承り候。」とて駆けられけり。続く兵には鎌田兵衛、後藤兵衛、佐々木源三、波多野次郎、三浦荒次郎、須藤刑部、長井斎藤別当、岡部六弥太、猪俣小平六、熊谷次郎、平山武者所、金子十郎、足立右馬允。上総介八郎、関次郎、片桐小八郎大夫已上十七騎、轡を双べて馳せ向ふ。大音声を揚げて、「此の手の大将は誰人ぞ、名乗れ聞かん、かく申すは清和天皇九代の後胤、左馬頭義朝が嫡子、鎌倉悪源太義平と申す者なり。生年十五歳、武蔵の大蔵の軍の大将として、叔父帯刀先生義賢を討ちしより以来、度々の合戦に一度も不覚の名をとらず。年積つて十九歳、見参せん。」とて、五百騎の真中へ破つて入り、西より東へ追ひ捲り、北より南へ追ひ回し、縦様横様十文字に、敵を颯と蹴散らして、「葉武者共に目なかけそ。大将軍を組んで討て。櫨の匂の鎧に蝶の下金物打つて、黄桃花毛の馬に乗つたるこそ重盛よ。押双べて組んで落ち、手捕りにせよ。」と下知すれば、大将を組ませじと、防ぐ平家の侍ども、与三左衛門、新藤左衛門を始めとして、百騎許りが中にぞ隔たりける。悪源太を始めとして、十七騎の兵ども、大将軍に目をかけて、大庭の椋の木を中に立て、左近の桜右近の橘を七八度まで追ひまはして、組まん組まんとぞ揉うだりける。十七騎に駆け立てられて、五百余騎叶はじとや思ひけん、大宮表へ颯と引く。大将左衛門佐は弓杖突いて、馬の息を継がせ給ふ処に、筑後守つと参りて、「嚢祖平将軍の二度生れ替り給へる君かな。」と、向様に誉め奉れば、今一度駆けて家貞に見せんとや思はれけん、前の五百余騎をば留め置き、新手五百余騎を用意して、又大庭の椋の木まで攻め寄せたり。
又悪源太かけ向ひ、見回して言ひけるは、「只今向ひたるは、皆新手の兵なり。但し大将は、元の大将重盛ぞ。以前こそ洩らすとも、今度に於ては余すまじ。押双べて組んで捕れ兵共。」と下知すれば、勇みに勇みたる十七騎、我先にと進みければ、今度は難波次郎、同じき三郎、瀬尾太郎、伊藤武者を始めとして、百余騎が中に隔てたるに事ともせず、悪源太弓をば小脇に掻い挟み、鐙ふん張りつつ立ちあがり、左右の手を挙げ、「幸ひに義平源氏の嫡々なり、御辺も平家の嫡々なり。敵には誰か嫌はん、よれや組まん。」といふ儘に、先の如く大庭の椋の木の下を追ひまはして、五六度までこそ揉うだりけれ。重盛組みぬべうもなくや思はれけん、又大宮表へ引いて出づ。悪源太二度まで敵を追ひまくり、弓杖ついて馬に息をつがせけるに、義朝之を見て、須藤瀧口を以て、「汝が不覚に防げばこそ、敵度々駆入るらめ。あれ速かに追ひ出せ。」といひ遣はされければ、俊綱馳せて此の由をいふに、「承り候。進めや者共。」とて、色も替らぬ十七騎、大宮表にかけ出でて敵五百余騎が中へ面も振らず割つて入る。引立てたる勢なれげ、馬の足を立てかねて、大宮を下りに二條を東へ引きければ、「我が子ながらも義平は、能く駆けたるものかな。あ駆けたり。」とぞ誉められける。
大将重盛、与三左衛門景安、新藤左衛門家泰、主従三騎かけ離れ、二條を東へ引かれければ、悪源太、鎌田に吃と目合はせて、「爰に落つるは大将とこそ見れ、返せや。」とて追つ懸けたり。既に堀河にて追つ詰めけるが、弓手の方に材木多く充ち満ちたるに、悪源太の乗り給へる馬、かたなつけの駒にて、材木にや驚きけん馬手の方へ蹴飛んで、小膝を折りてどうと伏す。鎌田兵衛延ばさじと、十三矢取つて番ひ、能つ引いてひようと射る。重盛の射向の袖に、はたと中つて飛び返る。軈て二の矢を射たりければ、押附に丁と中つて、箆かつぎ砕けて跳り返れり。悪源太、「是は聞ゆる唐皮といふ鎧ござんなれ。馬を射て落ちん所を討て。」と下知せられければ、又能つ引いて追様に、筈の隠るる程射込みたり。馬は屏風を返す如く倒るれば、材木の上にはね落され、兜も落ちて大童になり給ふ。鎌田堀河を馳せ越えて、重盛に組まんと落ち合ふ。重盛近づけては叶はじとや思はれけん、弓の弭にて鎌田が兜の鉢を丁と突く。突かれてゆらゆる間に、兜を取つて打著つつ、緒を強くこそ締められけれ。与三左衛門馳せ寄つて、中に隔たり申しけるは、「漢の紀信は高祖の命に代りて、熒陽の囲みを出し、終に大下を保たせき。主辱めらるる時は、臣死すといふにあらずや。景安ここにあり、よれや組まん。」といふ儘に、鎌田兵衛と引組んで、取つて押へけるところに、悪源太馬引起し、是れも堀川を馳せ越えて、重盛に組まんと飛んで懸りけるが、鎌田をや助くる、大将をや討たんと、思案しけれども、大将には又も寄せ合ふべし、政家を討たせては叶はじと思ひ、与三左衛門に落ち合うて、三刀刺して首を取る。重盛は憑み切つたる景安討たせて、命生きて何かせんとて、既に悪源太と組まんとせられけるを、進藤左衛門馳せ来り、「家泰が候はざらん所にてこそ、大将の御命をば捨て給ふべけれ。」とて、我が馬を引向け、中に隔てて悪源太とむずと組む。政家は重盛に組まんとしけるが、主を討たせては叶はじと思ひければ、進藤左衛門に落ち重なつて首をかく。此の間に重盛は虎口を遁れて、六波羅までぞ落ちられける。二人の侍なからましかば、助かり難き命なり。十二月二十七日の巳の刻許りの事なるに、一村雨さつとして、風は烈しく吹きたりけり。鎌田が鞍の前輪にも、氷柱いたれば乗りかねけり。悪源太之を見給ひて、「手形を附けて乗れや。」と宣ひければ、打物抜いてつぶつぶと、手形を切つてぞ乗りたりける。鞍に手形を附くる事、此の時よりぞ始まれる。
三河守頼盛は、郁芳門へ押寄せて、「此の陣の大将は誰人ぞ、名乗られ候へ。」と宣へば、「此の手の大将は、清和天皇九代の後胤、左馬頭源朝臣義朝。」と名乗つて、「悪源太は二度まで敵を追ひ出すぞかし。進めや若者。」と宣へば、中宮大夫進、右兵衛佐新宮十郎、平賀四郎、佐渡式部大夫重成を始めとして、我も我もと駆けられけり。右兵衛佐頼朝は、「生年十三。」と名乗つて、敵二騎射て落し、一騎に手負はせて、殊に進みて駆けられけり。左馬頭宣ひけるは、「何といへども、若者共の戦するはまばらに見ゆるぞ。義朝駆けて見せん。」とて真先に進まれければ、一人当千の兵共、打囲みてぞ戦ひける。頼盛暫く支へけるが、内より外へ追ひ出さる。義朝続いて攻め戦へば、大宮表へ引きにけり。平家馬の息を継がせて駆け入りければ、源氏大内へ引籠る。源氏又馬の足を休めて駆け出づれば、平家又大宮表へ引退く。平家は赤旗赤符、日に映じて輝きけり。源氏は大旗腰小旗、みな押並べて白かりけるが、風に吹き乱され、勇み進める有様は、誠に冷じくこそ覚えけれ。源平の兵共、互に命を惜しまねば、眼前に討たるれども顧みず、主の先に進まんと、爰を前途と戦うたり。
悪源太左衛門佐をば討ち洩らし、鎌田に向つて宣ひけるは、「郁芳門の軍は如何あらん。いざや頭殿の御前仕らん。」とて、打具して馳せ来り、又真前にぞ進まれける。爰に鎌田が下人八町次郎とて、大力の剛の者、早走の手ききあり。「馬にてこそ具すべけれども、中々徒立よかるべし、高名せよ。」といひければ、一年も腹巻に小具足差堅めて、真前に進みたりけるが、敵の馬武者の遥かに先立ちて落ちけるを、八町が内にて追つ詰めて首を取りたりければ、それよりして八町次郎とぞいひける。されば又この者、三河守の聞ゆる早馳の名馬に、両鐙を合はせて駆けられけるに、少しも劣らず追つ著きて、兜の頂辺に熊手を打懸けん打懸けんと続いて走りければ、頼盛も兜を打傾け打傾けあひしらはれけば、五六度は懸け外しけるが、終に頂辺に打懸けて、「ゑいや」と引けば、三河守既に引落されぬべう見えられけるが、帯いたる太刀を引抜いてしとと切る。熊手の柄を手本に尺許り置いて、づんと切つて落されければ、八町次郎、のけに倒れてころびけり。京童之を見て、「哀れ太刀や、あ切れたり。三河殿も能く切つたり。八町次郎も能くかけたり。」とぞ感じける。頼盛は兜に熊手を切り懸けながら、取りも捨てず見も返らず、三條を東へ、高倉を下りに、五條を東へ、六波羅までからめかして落ちられけるは、中々優にぞ見えたりける。名誉の抜丸なれば、よく切れけるは理なり。
此の太刀を抜丸といふ故は、故刑部卿忠盛、池殿に昼寝しておはしけるに、池より大蛇あがりて、忠盛を呑まんとす。此の太刀枕の上に立てたりけるが、自らするりと抜けて、蛇に懸かりければ、蛇恐れて池に沈む。太刀も鞘に返りしかば、蛇又出でて呑まんとす。太刀又抜けて大蛇を追ひて、池の汀に立ちてけり。忠盛之を見給ひてこそ、抜丸とは附けられけれ。当腹の愛子に依つて、頼盛之を相伝したまふ故に、清盛と不快なりけるとぞ聞えし。伯耆国大原真守が作と云々。
三河守を落さんと、防ぎ戦ふ侍には、大監物、小監物、藤左衛門尉助綱、兵藤内が子藤内太郎家継を始めとして、我も我もと戦ひけり。兵藤内家俊は、元より大臆病の覚え取りたる者なりけるが、大勢の中に蹴立てられて、心ならず馳せ行きけるが、馬を射させて幸ひとや思ひけん、小屋の内へ逃げ入りぬ。其の子家継は父には似ず大剛の者にて、散々に戦ひ、敵数多撃ち取つて引きけるが、父が馬は射られて伏しぬ、主はなし、生捕られにけりと無念なれば、家継生きて何かせんとて、唯一人取つて返し、多くの敵を斬り伏せて、ある兵と引組んで落ち、刺違へて死しけるを、小屋の内にて見居たれば、心憂く悲しくて走り出でんとは思へども、戦場なれば怖ろしくて、子の討たるるを見つがざりけり。後日に六波羅へ参りけるを見て、憎まぬ者ぞなかりける。
平家は勅諚に任せて、六波羅へ引返す。源氏は謀とも知らざりけるにや、内裏をば打捨てて、追ひ懸け追ひ懸け攻め戦ふ。其の間に官軍を入れ替へて、門々を固め防ぎければ、源氏内裏へは入り得ずして、そぞろに六波羅までぞ寄せられける。斎藤別当と後藤兵衛とは、多くの敵を追ひ返して、東三條に控へたるに、武者二騎馳せ来れり。実盛先づ一騎の武者に駆け合はせ、「我君は誰ぞ。」と問へば、「安芸国の住人東條五郎。」と名乗る所を、能つ引いて射落し、其の首を取りて、「是は如何に、後藤殿。」といへば、実基も一騎の武者に馳せ向ひ、「御辺は誰ぞ。」と問へば、「讃岐国の住人、大木戸八郎。」と名乗りもはてねば、しや首の骨射て落し、其の首取つて、「是れ見給へ斎藤殿。頭殿の見参にや入る、捨てやする。」といひければ、「今朝より乗り疲らかしたる馬に、生首附けて何かせん。いざ捨てん。」といひけるが、二條堀川まで馳せ来り、材木の上に二つの首差置きて、軍見ける在地の者共に預けて。「此の首失ふべからず。」といひ含めて、駆け出づれば、失うては悪しかりなんとて、日暮までふるひふるひ守りけるなり。
右衛門督信頼は、今朝待賢門を破られて後は、軍の事は思ひも寄らず、隙を求めて落ちん落ちんとぞせられける。義朝駆け出でて後は、大内にも忍びずして、御方の勢の跡に附きて、怖づ怖づ河原まで出でられけるが、六波羅へは寄せずして、河原を上りに落ちられけり。金王丸之を見て、「右衛門督殿こそ落ちさせ給へ。追ひ駆け進らせん。」と申せば、義朝、「ただおけ、あれ体の不覚人あれば、中々軍がせられぬぞ。」とて、河原を下りにぞ寄せられける。
(底本:『日本文学大系 第十四巻』「平治物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))
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