義朝敗北の事
さる程に義朝は、六波羅の合戦に打負け、既に落ち給ふと見えければ、平家の人々追つ懸けて攻めければ、三條河原にて鎌田兵衛申しけるは、「頭殿は思召す旨ありて落ちさせ給ふぞ。能く能く防矢仕れ。」といひければ、平賀四郎義信、引返し散々に戦はれければ、義朝顧み給ひて、「あはれ源氏は、鞭さしまでもおろかなる者はなきものかな。あたら兵平賀討たすな、義信討たすな。」と宣へば、佐々木源三、須藤刑部、井沢四郎を始めとして、我も我もと真前に馳せ塞がつて防ぎけるが、佐々木源三秀義は、敵二騎切つて落し、我が身も手負ひければ、近江国を差して落ちにけり。須藤刑部俊通も、六條河原にて、滝口と共に討死せんと進みしを留め給ひしかども、爰にて敵三騎討ち取りて終に討たれてけり。井沢四郎信景は、二十四差したる矢を以て、今朝の戦ひに敵十八騎射て落し、今の合戦に能き敵四騎射殺したれば、箙に二すぢ残りたる。其の後打物になつてふるまひけるが、痛手負ひて引きにけり。東近江に落ちて創療治し、弓打切り杖につき、山伝ひに甲斐の井沢へぞ行きにける。
かやうに面々戦ふ間に、義朝落ち延び給ひしかば、鎌田を召して、「汝に預けし姫は如何に。」と宣へば、「私の女に申し置き参らせて候。」と申せば、「軍に負けて落つると聞き、如何ばかりの事か思ふらん。中々殺して帰れ。」と宣へば、鞭を挙げて、六條堀河の宿所に馳せ来りて見ければ、軍に恐れて人一人もなきに、持仏堂の方に人音しければ、行きて見るに、姫君仏前に経打読みておはしけるが、政家を御覧じて、「さてそも、軍は如何に。」と問ひ給へば、「頭殿は打負けさせたまひて、東国の方へ御落ち候が、姫君の御事をのみ悲しみ進らさせたまひ候。」と申せば、「さては我等も只今敵に捜し出され、是れこそ義朝の女よなど沙汰せられ、恥を見んこそ心憂けれ。あはれ高きも卑しきも、女の身ほど悲しかりける事はなし。兵衛佐殿は十三になれども、男なれば軍に出で、御供申し給ふぞかし。わらは十四になれども、女の身とて残し置かれ、我が身の恥を見るのみならず、父の骸を穢さん事こそ悲しけれ。兵衛先づ我を殺して、頭殿の見参に入れよ。」と口説き給へば、「頭殿も此の仰せにて候。」と申せば、「さては嬉しき事かな。」とて、御経を巻き納め、仏前に向ひ手を合はせ、念仏申させ給へば、政家つと参り、殺し奉らんとすれども、御産屋の中より抱き取り奉りし姫君にて、今まで育し立て進らせたれば、争でか哀れになかるべき。涙にくれて、刀の立所も覚えずして泣き居たり。姫君、「敵や近づくらん、疾く疾く。」と勧め給へば、力なく三刀刺して御首を取り、御死骸をば深く収めて馳せかへり、頭殿の見参に入れたりければ、只一目御覧、涙に咽び給ひけるが、東山の辺に知り給へる僧の所へ、此の御首を遣はして、「弔ひてたび給へ。」とてぞ落ちられける。
さる程に、平家の軍兵馳せ散つて、信頼義朝の宿所を始めて、謀叛の輩の家々に、押寄せ押寄せ火をかけて焼き払ひしかば、其の妻子眷属東西に逃げ迷ひ、山野に身をぞ隠しける。方々に落ち行く人々は、我が行く先は知らねども、跡の煙を顧みて、「敵は今や近づくらん、急げ急げ。」と身を揉みけり。此叡山には信頼、義朝打負けて、大原口へ落つると沙汰しければ、西塔法師之を聞き、「いざや落人打留めんや。」とて、二三百人千束崖に待ち懸けたり。義朝此の由聞き及び、「都にて兎も角もなるべき身の、鎌田が申状に依つて、是れまで落ちて山徒の手に懸り、甲斐なき死をせんずるこそ口惜しけれ。」と宣へば、斎藤別当申しけるは、「爰をば実盛通し進らせ候はん。」とて馬より下り、兜を脱ぎて手に提げ、乱髪を面に振り懸け、近づき寄つていひけるは、「右衛門督、左馬頭殿以下おもとの人々は、皆大内、六波羅にて討死し給ひぬ。是れは諸国の仮武者共が、恥をも知らず妻子を見んために、本国に落ち下り候なり。討ち留めて、罪づくりに何かしたまはん。具足を召されん為ならば、物具をば進らせ候はん、通して給はれ。」と申しければ、「実にも大将達にては無かりけり。葉武者は討ちて何かせん。具足だに脱ぎ捨てば通されよかし。」と僉議しければ、実盛重ねて、「衆徒は大勢おはします、我等は小勢なり、草摺を切りても猶及び難し。投げんに従ひ、奪ひ取り給へ。」といへば、面に進める若大衆、「尤も然るべし。」とて相集まる。後陣の老僧も、我劣らじと一所に寄つて競ひ争ふ処に、実盛兜をがばと投げたりけり。我取らんとひしめきければ、敢て敵の勢をも見つくろはざりける処に、三十二騎の兵、打物を抜き兜の緒を傾けて、がばと駆け入り蹴散らして通りければ、大衆俄に長刀を取直し、余すまじとて追ひかけければ、実盛大童にて、大の中差取つて番ひ、「敵も敵によるぞ。義朝の郎等に武蔵国の住人長井斎藤別当実盛ぞかし。留めんと思はば寄れや、手柄の程見せん。」とて、取つて返せば、大衆の中に弓取は少しもなし、叶はじとや思ひけん、皆引いてぞ帰りける。
義朝八瀬の松原を過ぎられけるに、跡より、「やや。」と呼ぶ声しければ、何者やらんと見給へば、遥かに先へ延びぬらんと覚えつる信頼卿追ひ著きて、「若し軍に負けて東国へ落ちん時は、信頼をも連れて下らんとこそ聞えしが。心替りかや。」と宣へば、義朝余りの悪さに腹を居ゑかねて、「日本一の不覚人、かかる大事を思ひ立ちて、一軍だにせずして、我が身も滅び人々も失ふにこそ。面つれなう物をば宣ふものかな。」とて、持ちたる鞭を以て、信頼の弓手の頰さきをしたたかに打たれけり。信頼此の返事をもし給はず、誠に臆したる体にて頻りに鞭目を押撫で押撫でぞせられける。傅子式部大輔助吉之を見て、「何者なればかくは申すぞ。我人どもが心剛ならば、など軍には勝たずして、負けて東国へは下るぞ。」といひければ、義朝、「あの男に物ないはせそ。討つて捨てよ。」と宣ひければ、鎌田兵衛、「何でふ只今さる事の候べき。敵や続き候らん、延びさせ給へ。」とて行く処に、又横川法師上下四五百人、「信頼義朝が落つるなる。打留めん。」とて、龍華越に逆木引き、掻楯掻いて待ちかけたり。
三十余騎の兵、各馬より飛下り飛下り、手々に逆木をば物ともせず、引伏せ引伏せ通る処に、大衆の中より差詰め引詰め散々に射たりければ、陸奥六郎義隆の首の骨を射られて、馬より倒に落ちられてけり。中宮大夫進朝長も弓手の股をしたたかに射つけられて、鐙を踏みかね給ひければ、義朝、「大夫は矢に中りつるな。常に鎧づきをせよ。裏かかすな。」と宣へば、其の矢引きかなぐつて捨て、「さも候はず。陸奥六郎殿こそ痛手負はせ給ひ候ひつれ。」とて、さあらぬ体にて馬をば早められける。六郎殿討たれ給へば、首を取らせて義朝宣ひつるは、「弓矢取る身の習ひ、軍に負けて落つるは常の事ぞかし。それを僧徒の身として、助くるまでこそなからめ、結句打留めんとし、物具剥がんなどするこそ奇怪なれ。悪いやつばら、後代の例に一人も残さず討てや者共。」と下知せられければ、三十余騎轡を双べ、駆け入り割り附け追ひ回して、攻め詰め攻め附け切りつけられければ、山徒立所に三十余人討たれにければ、残る大衆大略手負ひて、方々谷々へ帰るとて、「落人討ち留めんといふ事は、誰かいひ出せる事ぞ。」とて、彼よ此よと論じける程に、同士軍を仕出して又多くぞ死ににける。誠に出家の身として、落人討ち留め、物具奪ひ取らんなどして、纔の落武者に駆け立てられ、多くの人を討たせ、又同士軍仕出して、数多の衆徒を失ふ事、僧徒の法にも恥辱なり、武芸のためにも瑕瑾なり。されば冥慮にも背き、神明にも放され奉りたるとぞ覚えし。
此の敵をも追ひ散らしければ、龍華の麓に皆下り居て、馬を休められけるが、義朝、後藤兵衛実基を召して、「汝に預け置きし姫は如何に。」とのたまへば、「私の女に能く能く申し含めて候へば、別の御事候まじ。」と申しけり。「さては心安けれども、汝是より都へ帰り上り、姫を育みて尼にもなし、義朝が後世菩提を弔はせよ。」と宣へば、「先づ何処までも御供仕り兎も角もならせたまはん御有様を、見とどけ進らせてこそ帰り上り候はんずれ。」と申せば、「存ずる旨あり、疾く疾く。」と宣へば、力及ばず都へ帰り、姫君に附き奉り、此処彼処に隠し置き進らせて、源氏の御代になりしかば、一條二位中将能保卿の北の方になし奉りけるなり。実基も鎌倉殿の御時に、世に出でけるとぞ聞えける。
(底本:『日本文学大系 第十四巻』「平治物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))
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