義朝青墓に落ち著く事

 さる程に、左馬頭は堅田の浦へ打出でて、義隆の首を見たまひ、「八幡殿の御子の名残には、此の人許りこそおはしつるに、後れ奉りては弥力なくこそ覚ゆれ。」とて、泣く泣く念仏申し弔ひて、湖へ馬の太腹ひたるまで打入れ、此の首を深く収められけり。軈て船を尋ねて渡らんとせられけれども、折節波風烈しくして叶はざりしかば、其れより引返し、勢多を指して落ちられけるが、「此の勢一所にては叶ふまじ、道を替へて落つべし。志あらば東国にて必ず参会すべし。暇とらする、兵共。」と宣へば、各、「何処までも御供仕りてこそ、何ともなり候はめ。」と申せども、「存ずる旨あり、疾く疾く。」と宣へば、力及ばずして波多野次郎義遠、三浦荒次郎義澄、斎藤別当、岡部六弥太、猪俣小平六、熊谷次郎、平山武者所、足立右馬允、金子十郎、上総介八郎を始めとして、二十余人暇賜り、思ひ思ひに国々へ下りけり。
 義朝の一所に落ちられけるは、嫡子悪源太義平、次男中宮大夫進朝長、三男右兵衛佐頼朝、佐渡式部大輔重成、平賀四郎義信、傅子の鎌田兵衛政家、金王丸、僅に八騎なり。兵衛佐頼朝、心は猛しといへども、今年十三、物具して終日の軍に疲れ給ひければ、馬睡をし、野路の辺より打後れ給へり。頭殿篠原堤にて、「若者共はさがりぬるか。」と宣へば、各「是れに候。」と答へられしに、兵衛佐おはしまさず。義朝、「無慙やさがりにけり。若し敵にや生捕らるらん。」と宣へば、鎌田、「尋ね進らせ候はん。」とて引返し、「佐殿やおはす。」と呼ばはり奉れども、更に答ふる人もなし。
 頼朝良ありて打驚き見給ふに、前後に人もなかりけり。十二月二十七日の夜更がたの事なれば、暗さは暗し、先も見えねども、馬に任せて唯一騎心細く落ち給ふ。森山の宿に入り給へば、宿の者どもいひけるは、「今夜馬の足音しげく聞ゆるは、落人にやあるらん、いざ留めん。」とて、沙汰人数多出でける中に、源内兵衛真弘といふ者、腹巻取つて打懸け、長刀持ちて走り出でけるか、佐殿を見奉り、馬の口に取りつき、「落人をば留め申せと、六波羅より仰せ下され給ふ。」とて、既に抱き下し奉らんとしければ、鬚切を以て、抜打にしとと打たれければ、真弘が真向二つに打割られて、のけに倒れて死ににけり。続いて出でける男、「痴者かな。」とて、馬の口に取りつく処を、同じ様に斬り給へば、籠手の覆ひより打ちて、打落されて退きにけり。其の後近づく者もなければ、即ち宿を馳せ過ぎて、安の河原へ出で給へば、政家にこそ逢ひ給へ。それより打連れ急ぎ給へば、程なく頭殿に追ひ附き奉り給ふ。「など今までさがるぞ。」と宣へば、云々の由申されければ、「縦令おとななりとも、争でか只今斯くは挙動ふベき。いしうしたり。」とぞ感じ給ふ。鏡の宿をも過ぎしかば、不破関は敵固めたりとて、小関にかかりて、小野宿より海道をば馬手になして落ち給へば、雪は次第に深くなる、馬に叶はねば、物具しては中々悪しかりなんとて、皆鎧どもをば脱ぎ捨てらる。佐殿は、馬上にてこそ劣り給はねども、徒立になりては常にさがり給ひしが、終に後れ進らせられたり。
 義朝は兎角して、美濃国青墓の宿に著き給ふ。彼の長者大炊が娘延寿と申すは、頭殿御志浅からずして、女子一人おはしましけり。夜叉御前とて十歳になりたまふ。年来の御宿なれば、其れに入り給へば、斜ならずもてなし奉る。義朝爰にて宣ひけるは、「義平は山道を攻めて上れ。朝長は信州へ下り、甲斐信濃の源氏共を催して上洛せよ。我は海道を攻め上るべし。」とありしかば、悪源太、「さ承る。」とて、未だ知らぬ飛騨国の方へ、山の根に附きて落ち行かれければ、中宮大夫は信濃をさして下り給ふが、龍華にて手は負ひ給ふ。伊吹の下の雪は凌がれたり、創大事になりて叶ひ難かりしかば、帰り参られけり。頭殿此の由を聞召して、「されば頼朝は、稚くともかくはあらじ、」とぞ宣ひける。「さらば汝暫く留まれ。」と仰せければ、朝長畏まつて、「是れに候はば、定めて敵に生捕られ候ひなん。御手に懸けさせ給ひて、心安く思召し候へ。」と申されしかば、「汝は不覚の者と思ひたれど、誠に義朝が子なりけり。念仏申せ。」とて太刀を披き、既に首を打たんとし給ひしを、延寿大炊太刀に取附きて、「如何に眼前に憂き目を見せ給ふぞ。」とて、泣き口説きければ、「余りに臆したれば、勇むるなり。」とて、太刀をさされければ、朝長帳台へ入り給へば、女も内へぞ帰りける。其の後、「大夫は如何に。」と宣へば、「待ち申し候。」とて、掌を合はせ念仏し給へば、心もとを三刀刺して首をかき、骸に差続ぎ、衣引きかけて置きたまふ。都にて江口腹の御女、鎌田に仰せて害せられ、頼朝は見え給はず、朝長をも我が手にかけて失ひ給へば、一方ならずぞ思はれける。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「平治物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

前へ   目次   次へ