巻之三
金王丸尾張より馳せ上る事
気色繋ぎ難くして、喜ぶにも易う移り、歎くにも又留まらざれば、浅ましかりし年も暮れ、平治二年になりにけり。正月一日新玉の年立ち返りたれども、内裏には元日元三の儀式事宜しからず、天慶の例とて朝拝も止めらる。院も仁和寺に渡らせ給へば、拝礼もなかりけり。斯かりし処に、正月五日いまだ朝の事なるに、左馬頭の童金王丸、常盤が許に来りて、馬より飛んで下り、暫しが程は涙に沈み、良あつて、「此の三日の暁、尾張国野間と申す所にて、長田四郎が為に討たれさせ給ひ候ひぬ。」と申せば、聞きもあへず、常盤を初めて幼き人々、声々に悲しみ給ふぞ哀れなる。其の後道すがらの事ども委しく語り申ししにぞ、朝長の失せ給ひ、森六郎の討たれ給ふをも聞き給ひける。陸奥六郎義隆は、相模の森を知行せられければ、森の冠者とも申しけり。
常盤かやうの事どもを聞きて、「さばかりの軍の中よりも、汝を以て幼き者どもの事を、心苦しげに仰せられしに、既に空しくなり給ひぬ。それにつけても、あの君達をば如何すべき。」とて、伏し沈みければ、金王も泣く泣く申しけるは、「童も御供仕つて、如何にもなるべく候ひしかども、道すがらも君達の御事のみ、心苦しき御事に仰せ候ひしかば、かやうの事も誰かは知らせ進らすべきと存じて、かひなき命生きて参りはべるなり。御子息達も皆散り散りになり給ひぬ。鎌倉の御曹司も兵衛佐殿も、定めて敵にこそ囚はれたまふらめ、幼きは猶憑みなし。然れば御菩提をば、誰かは弔ひまゐらすべきなれば、年来の御なじみに某なりとも僧法師にも罷りなり、なき御跡を弔ひ奉らん。」とて、軈て走り出でけるが、或る寺に入りて出家し、諸国七道修行して、義朝の後世を弔ひ申しけるこそありがたけれ。
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