経宗惟方遠流に処せらるる事同じく召し返さるる事
斯かる所に、院は顕長卿の宿所に御座ありけるが、常は御桟敷に出でさせ給ひて、行人の往来を御覧ぜられて慰ませ給ひけるに、二月二十日の比、内裏よりの御使とて打ち著けてけり。上皇御憤り深くして清盛を召され、「主上は幼くましませば、これ程の御計らひあるべしとも覚えず。是れ併しながら経宗、惟方が所為と思召す、縛めて進らせよ。」と仰せければ、畏まつて、「一年保元の乱に、親類を離れて御方に参りて忠を致し候ひき。去年一力を以て兇徒を誅殺仕り、一命を軽んじて君を位に即け参らせ候。幾度なりとも、院宣勅諚にこそ従ひ候はんずれ。」とて軈て官軍を差遣はし、経宗惟方の宿所に押寄せたれば、新大納言の許には、雅楽助通信、前武者所信安といふ者二人討死してけり。されども両人共に別事なく召捕りて、御壺の内に引き居ゑたり。
既に死罪に定まりけるを、法性寺の大殿、「昔嵯峨天皇弘仁元年九月に、右兵衛督藤原仲成を誅せられしより、去んぬる保元元年まで、帝二十五代、年紀三百四十七年、かの間、死せる者再び帰らず、不便なりとて死罪を停められたりしを、後白河院の御宇に、少納言入道信西執権の時、始めて申し行ひたりしが、中二年を経て去年大乱起り、其の身軈て誅せられぬ。懼ろしくこそ侍れ。公卿の死罪如何あるべからん。其の上国に死罪を行へば、海内に謀叛の者絶えずと申せば、死罪一等を宥めて、遠流にや処せられん。」と申させ給へば、「尤も大殿の仰せ然るべし。」と、諸卿同じく申されしかば、新大納言経宗をば阿波国、別当惟方をば長門国へぞ流されける。官外記の記録には、「左近将監をして仲成を禁所に射殺さしむ。」と註したれば、正しく頚を刎ねられけん事は、猶久しくやなりぬらん。
さる程に、彼の人々の隠謀次第に顕はれて、君も罪なき由聞召されければ、信西が子共皆以て召し返さる。御政につきて、仰せ合はせらるる方なきままに、彼の禅門をぞ忍ばせ給ひける。師仲卿も終に遁るる所なくして、播磨中将成憲の配所、室の八島へぞ遣はされける。伏見源中納言三河の八橋を渡るとて、
夢にだにかくてみかはの八橋をわたるべしとは思はざりしを
と詠まれたりしを、上皇聞召して哀れに思召されければ、「召し返せ。」とぞ仰せなりける。誠に詠歌の徳なるべし。
其の後新大納言経宗も、阿波国より召し返されて右大臣になる。人阿波の大臣とぞ申しける。大宮左大臣伊通公、「世に住めば興ある事を聞くものかな。昔こそ黍の大臣ありけんなれ、今粟の大臣出来たり。いつか又稗の大臣出来ぬらん。」と笑はれけり。大饗行はるべかりけるに、尊者に此の左大臣請じ奉りければ、使者の聞くをも憚らず、「粟の大臣あがりて旅籠振舞せらるるな。伊通は得参らじ。」とぞ申されける。別当入道は御憤り深くして、召し返さるまじき由聞えければ、心細くや思はれけん、故郷へ一首の歌をぞ送られける。
この瀬にも沈むと聞けばなみだ河流れしよりもぬるる袖かな
と詠みたりしを、聞く人哀れを催し、君も感じ思召されければ、終に赦免を蒙りて、上洛せられけるとなり。
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